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矢野絢也著 「黒い手帳ー裁判全記録」

  講談社(2009年07月)

創価学会と公明党による、元公明党委員長矢野絢也氏の日記奪取事件

知り合いに関係者がいて選挙のたびに投票を依頼されるくらいで、もともと新興宗教には興味を持たなかったので、創価学会や公明党のことは知りたいという気持ちがなかった。ただ昔から創価学会は言論に干渉を繰り返すカルト集団で、まちがえばオーム真理教みたいなところがあると警戒していた。創価学会はもとは日蓮宗の分派で、その熱血的なところは日蓮に似たところも感じられ、また唯我独尊的(独善的)なところも宗祖由来かなと思っていたに過ぎない。正直なところ深くは創価学会のことを考えた事は無かった。しかし最近は創価学会=公明党が権力側に傾き、自公連立政権で与党となって以来、やはり公明党にはそういう特性があったのだという理解に傾いた。それ以来私はすっかり公明党が嫌いになった。大昔から宗教は権力者に癒着するもので、あの親鸞の浄土真宗さえ江戸時代には権力の末端組織に組み込まれ、天皇家と婚姻関係を作るようになって全く権力と合一した。日本のすべての宗教は権力と癒着してきた。従って創価学会が公明党という政治組織を作り、自民党と結びつくことは歴史の教える通りである。矢野絢也著 「黒い手帳ー裁判全記録」という本を読むまで、公明党内部の内紛くらいかなと思っていたので、どちらにもあまり関心は無かった。しかし創価学会の池田名誉会長の天皇化が進行し、寄付と称する創価学会員から金品の収奪が凄まじいことは噂で聞いた。また各地にある創価学会の会館が高級ホテルかと思えるくらいに豪華な贅を尽くした姿を見て、おかしいなという違和感がふつふつと沸いてきた。池田名誉会長が世界各国の著名人に高額な金を払って「世紀の会談」をしているのをみて滑稽というより、なんという成り上がり根性かと軽蔑の念を催した。創価学会と公明党のことをしっかり理解するひとのために、本書を紹介しておきたい。

紹介する必要は無いほど有名な公明党元書記長、元委員長の屋野絢也氏のプロフィールを振り返っておこう。氏は大阪府立山本高等学校、京都大学経済学部卒業、大阪府議会議員を経て1967年、34歳で衆議院議員に初当選する。当選直後の臨時党大会で、公明党書記長に就任する。氏は社公民路線 を主張し引退まで一貫して野党側に立った。1970年、社会党書記長の江田三郎や民社党書記長の佐々木良作らと、新しい日本を作る会(社公民連合政権構想)を結成する。1986年まで書記長を20年間勤め、1986年12月公明党委員長の竹入義勝氏が退任して後任としての公明党委員長に就任する。公明党委員長時代、中道路線と是々非々主義を掲げて社公民路線を推進する一方で竹下登とのパイプを太くするなど、与野党問わず親交があった。矢野氏は自民党と野党のパイプ役を演じた。 1993年党委員長を退任、政界を引退し、公明党最高顧問に就任する。その後政治評論家として活動している。この活動が池田大作名誉会長の気に入らず「危険人物」として排斥のターゲットとなったようだ。1988年12月9日明電工事件に絡み、1987年1月に明電工が売った10億円の株の購入者の中に矢野の秘書の名前があったという疑惑が生じる。創価学会との抗争は、2005年、公明党の元国会議員である伏木和雄、大川清幸、黒柳明の3人が、『週刊現代』に掲載された記事で矢野の手帳を強奪したかのように報じられ名誉を傷つけられたとして、同誌発行元の講談社と、矢野氏を訴えたことに始まる。この裁判で東京地方裁判所は2007年12月、原告側の主張を認め、矢野氏は敗北し即控訴した。2009年3月27日東京高等裁判所は、公明党OB3氏に脅迫があったとして、手帖の返還と賠償金を求める逆転判決をした。

本書矢野絢也著 「黒い手帳ー裁判全記録」講談社(2009年7月刊)は同著者による「黒い手帳ー創価学会日本占領計画の全記録」講談社(2009年2月刊)と前編・後編の関係にある書である。そして本書は2009年3月の東京高裁の逆転判決を得て矢野氏と講談社側が勝訴(もちろん公明党OBは即控訴したが)した裁判の記録である。東京高裁の判決文は「控訴人ら(公明党OB3人)の要求を拒めば、『これらの多数の創価学会会員ないし公明党党員が被控訴人矢野およびその家族に対してどの様な危害を加えるかも知れない旨を暗示氏或いは明示的に述べて・・・このような発言内容に恐怖した被控訴人矢野が、やむなく控訴人らの要求に応じて本件手帖等を引き渡したことを認めることが出来る」というもので、地裁判決を根底から覆すものであった。本事件を複雑にしているの当時矢野氏と家族らは創価学会会員であり、宗教団体による心の呪縛の中にあったため、我々第三者が脅迫を受けるのとは随分心のスタンスが違っていることである。それを当事者間の「藪の中」で済まされない、創価学会側の露骨な言論弾圧の性格が見られるからである。なお矢野氏と家族は2008年5月創価学会を退会し、全面的な訴訟に入ったのである。本書に従って事件を簡単に振り返える。公平を期するには創価学会側の主張も聞かなければならないが、そこまで付き合っていられないので、あくまで矢野氏と講談社側から見た事件の見方で勘弁してください。カルト宗教団体の言い分を聞いているとこちらの頭がおかしくなるので精神衛生上省略したい。1995年にフランス下院が創価学会インターナショナル「SGIフランス」をカルト集団に指定し、報告書の中でカルト集団かどうか判断する基準として次の10項目を挙げている。この殆どの項目に創価学会は該当するのではないか。
@ 精神の不安定を与える
A 法外な金銭を要求する
B 従来の生活環境からの隔絶
C 肉体的損傷を与える
D 子供の勧誘および教化
E 反社会的な教え
F 公共秩序の撹乱
G 訴訟沙汰に持ち込み脅迫する 
H 不法労働や詐欺、脱税など逸脱した経済活動
I 公権力への浸透を企てる

1) 手帖奪取事件 公明党と創価学会「政教分離」問題

日記奪取事件は2005年5月15日の夕方に起きた。公明党OBの大川清幸、伏木和雄、黒柳明の元国会議員がアポイントもとらず不意に矢野氏宅を訪問したところから始まる。実はその前の4月20日に矢野氏は西田学会副会長と藤原副会長に呼ばれ、戸田記念国際会館で面談している。それは1993年から1994年に「文藝春秋」に掲載された矢野氏の手記に問題があるということであった。「世間から政教一致という批判を頂いているが、確かに状況を見ているとそういわれてても致し方ない面はある」という記述を問題として、学会を陥れるものだから謝罪文を書けという。謝罪文の原案は既に学会側で用意されており、「池田先生の名を辱めるような愚は決して冒しません」という謝罪文を書かされたのである。そして秋谷栄之助創価学会会長より電話で「ゴールデンウイークを利用してカサブランカへ出張するのは、都議選が近いから取りやめて欲しい」という要求である。予定通り海外出張へ出ると、長男を通じて帰国せよという指示があり、5月14日に帰国し、成田から戸田記念国際会館へ直行した。青年部の幹部5名が矢野氏を取り囲んで「文藝春秋」の記事について詰問してきた。矢野氏の評論活動をやめないと家族の命に関るという威しをかけながら謝罪文書」に署名を求めた。そして翌日、5月15日の事件が起きたのである。これらの事件は全て用意された一連の矢野氏攻撃の行動である。公明党OBの大川、伏木、黒柳3名は雑談から入って、前日の青年部の「政治評論家を辞めろ」と連動した言辞を吐く。そして文春記事にあった手記(極秘メモ、手帖のこと)の存在を気にして公明党OBの我々に預けてはどうだという。公明党議員OB会である「大光会」でも矢野批判が起きているを言って圧力をかけてきた。3氏との面談の途中に黒柳氏に携帯電話がかかり、近くにいた矢野氏の妻が断片的に聞いた内容は「今やっている最中で、・・・はい絶対にとります。打ち合わせどうりにやっております・・・・わかりました」というもので、誰かの指示に従って黒柳氏らは行動しているようだった。その後も手帳を預けろという要求がしつこく出され押し問答のあげく、公明党との関係をまだ大事にしていた矢野氏は押し切られる形で手帳を出すことを約束した。手帖の最近の分は自宅にあり、過去の分はある行政書士のところで保管されていた。3人は1週間後に受け取りに来ることを約束して帰った。ところが1時間もしたころ、3人がふたたび矢野氏の家を再訪問した。3人がいうには公明党本部に帰って報告すると、藤井代表と大久保書記長の二人に怒られ,今自宅にある分だけでも持って帰らないと子供の使いではないかといわれたそうだ。矢野氏は約束違反を反故にするつもりかと怒ったが、3人は強引になだめすかし威して、近3年分の手帖を封筒に入れ封印して持ち帰った。そしてさらに学会の西口副会長の指示で「矢野氏の事務所を見てこい」といわれたそうだが、押し問答の末矢野氏は家の中を案内した。そして2日後の5月17日公明党OBの3人が矢野氏の自宅にやってきて、ダンボールに手帳を梱包し封印した。矢野氏の奥さんにもその封印に立ち合わせるという用意周到なことである。顧問弁護士の指示があったのだろう。黒柳氏は更に家捜しを要求したので、110番をしようと矢野氏が電話を取ると、黒柳氏はその手を取った。これで矢野氏は身の危険を覚えたので家捜しに同意したという。その時3名は矢野氏の資産状況について矢継ぎ早に質問してきた。どうやら家捜しは財務(寄付)を前提とした資産調査も兼ねていたようだ。1階から3階までの固く調べをした三人は次に応接室で、創価学会に対する矢野氏の「けじめ」のつけ方としての資産の寄付を要求しだした。4月20日戸田記念国際会館に西田学会副会長と藤原副会長によばれて謝罪文を書かされた矢野氏は、後日百万円を創価学会本部第1庶務室長で池田名誉会長の側近長谷川重雄氏に「けじめ」として渡している。こんどは「罪滅ぼし」に数億円の寄付を家を売り払ってでもやれというのである。

1993年から1994年に文藝春秋に書いた「手記」とは、1984年の自民党二階堂氏をめぐる政変に始まり、竹下登・田中角栄・金丸信らの権力闘争、中曽根内閣から竹下政権誕生までの政局の流れを公明党と矢野氏の眼でメモしたものである。創価学会と公明党にとって、池田名誉会長の参考人国会招致は絶対あってはならず、証人喚問阻止は公明党の絶対使命であった。今まで池田氏の招致の動きは、1970年の言論出版妨害問題、1994年細川内閣佐川急便事件で池田氏の証人喚問問題が起きた。元は証人喚問は全会一致の慣例であったのが崩れ、多数決になったため公明党は池田氏を守るため常に多数派つまり与党化にいる必要が生まれた。池田氏を守るという宗教団体の呪文が、政党としての公明党のスタンスをつねに与党であるように変えたのである。矢野氏は社公民路線を押してきた政治家であり、自公政権与党路線は矢野しを不要としたのだ。竹入義勝元公明党委員長の党内批判に続いて矢野氏を批判する準備が始められていたのだ。すべてはこの流れの中の出来事であった。元公明党議員の福本潤一氏によると、創価学会内では1990年後半から2000年ごろには矢野対策プロジェクトが出来ていたという。非難と迫害の渦(創価学会と公明党内のコップの中)で追い詰められた矢野氏は、2008年5月創価学会を脱会し、創価学会の幹部7名をを相手取って民事訴訟を起こした。訴訟の人権侵害問題とは、@評論家活動を妨害する職業選択に自由の侵害、A自宅を売却して数億の資産寄付を迫る強要、B創価学会の機関紙「清興新聞」での誹謗中傷記事の名誉毀損、C矢野しへの尾行監視という人権侵害、D手帖持ち去りと家捜しはプライバシー侵害である。1970年の言論出版妨害問題では、池田氏は国会招致にひどくおびえ、共産党に対して竹入公明党委員長の更迭と「政教分離宣言」を約束した。1970年の選挙で公明党は惨敗し、これ以降の選挙において公明党候補者は全て創価学会で決めらるという、学会の全面的な支配下に入るという皮肉な「政教分離」宣言であった。1976年池田氏の女性スキャンダル問題を連載した雑誌「月刊ペン」を名誉毀損で刑事告発した。これも苦しい舵取りが要求された。訴えておきながら池田氏は立ちたくないというもので豪腕顧問弁護士山崎正友の活躍で、裁判と同時に和解交渉を進め、被告人に2000万円を届けた。(山崎弁護士は創価学会からなんと3億円の金を自分の会社に出させている) 1977年 日蓮正宗との紛争が起きた。これは池田氏が「日蓮正宗は民衆を導く機能を失った」と発言したためである。1978年日蓮正宗との間に「本尊模刻事件」がおきた。この事件で池田氏は会長を辞任氏、名誉会長に退くが、学会規約を改定し法的責任が無い立場で最高権力を維持するという暴挙をやってのけた。池田氏は本山批判を続けたため1991年ついに創価学会は日蓮正宗より破門された。これ以降池田氏の個人崇拝、会員からの金集めを強め創価学会は池田宗に変質した。1991年と1992年の創価学会へ税務署の税務調査が入った。当時矢野氏は公明党常任顧問で国税当局との橋渡しを依頼された。学会が譲れない条件は@非課税の公益法人会計には触れない、A寄付金である財務には触れない B池田氏の秘書課である第1庶務室には触れない C池田氏の個人所得には触れないというものだ。矢野氏の手帳が奪われたのはこの時の事実関係が詳細に記録されているのも一因だったという。創価学会(池田宗)から排撃された人には、日蓮正宗の顕師はいうに及ばず、「月刊ペン」訴訟事件で示談金問題を曝露した山崎元顧問弁護士、そして中国国交回復で功があった竹入元委員長、池田氏と女性を争った藤原行成元都議そしていろいろ知りすぎた矢野氏である。

2) 改竄されたICレコーダー録音記録と地裁・高裁判決

元公明党議員3名が矢野氏宅を訪問した際にやり取りを録音したICレコーダーの記録がある事が分ったのは東京地裁の法廷であった。相手側弁護人は矢野氏側に5月17日と30日のやりとりを録音していない事を確認したうえ、「ところで三人は念のため本件の全てを録音していました」とICレコーダーの記録とそれを文章に起こした「翻訳書」を提出してきた。これに対して矢野氏側の弁護人は「録音はICレコーダーであり、コンピュータにデータを写した後にいくらでも編集は可能であるので、録音そのもののICレコーダ自体の原本を開示していただきたい」というと、相手弁護人は存在しないというので証拠としての疑念を示したが、裁判長は再生して尋問することを許可した。音声再生を聞いていると、あちこちで会話の連絡が不自然で、明らかに切り貼りしている様子が伺えた。それは矢野氏の記憶と違うからである。断片的に都合のいいところだけを採用して、大きな声で脅迫していると分るところは削除されているのであるが、この切り貼りを第三者である裁判官が証明できるかどうかにかかっている。ICレコーダーの64Mbメモリースティック(第1次記録媒体)をパソコンに複製し、更に他の記録媒体に移して他のパソコンに複製した物を証拠として提出したというのである。訴訟における原本主義からすると、第1次記録媒は原本として保管する必要がある。証拠としての64Mbメモリースティック(第1次記録媒体)の記録は無いというのであれば証拠の保管ないしは提出方法において著しく不自然であるといわざるを得ない。ところが5月30日に特徴的な出来事が矢野氏宅で起きているのである。矢野氏の妻が不在であると思って、家捜しの過程で妻の私室を開けた時に着替え中であった妻の「キャー」という叫び声が抹消されていたのである。この時の出来事は高裁では改竄・削除の形跡があると認定され、逆転判決が出たのだ。矢野氏は押し問答の中で「それなら手帖を燃やす」と言った言葉もなくなっている事を指摘した。地裁では矢野氏が愛想よく受け答えしている場面を納得しての行為とみなし、脅迫による手帖奪取は無かったとみなした。これは矢野氏がまだ創価学会員であったことや、池田名誉会長への信頼を回復し修復しようとする気持ちがあったことによるもので、その複雑な心境に付け入って脅かして手帳を奪い取る創価学会のやり方にたいする矢野氏の愛想のよさは「恐怖心」の裏返しであるとことを見抜けなかったのである。手帖を持ち去りこれを返却しない理由を告訴側(3人の公明党元議員)は「矢野氏が以降、公明党やその関係者に迷惑をかけることがないよう、本手帖を利用できない状態におくため」という。たとえ矢野氏が合意の上で管理を公明党側に任せたとしても、矢野氏の私物である手帖(日記)を矢野氏が返却を求めても帰さないという理由は成り立たない。これが言論妨害の意図を明白に述べたものである。これに対して高裁では、事件に至る背景や経緯を十分に考慮して、「まえもって創価学会本部での脅迫と家族への危害を暗示させる背景を知悉して、矢野氏を訪問して手帖の引渡しを求め、丁寧な言葉使いの裏には要求を拒否すればどうなるかは矢野氏にとって自明なほどわかって居る事を匂わせ、手帳の提出させたことを認めることが出来る」と脅迫的奪取であるとした。そして手帖の所有権は原告側(公明党3議員)にあるのではなく、たとえ無償寄託契約でも控訴人らに占有する権利は無いとした。手帳は矢野氏に返却しなければなない。直ちに控訴人らは高裁判決を不服として控訴したが、高裁判決は仮処分で執行できる。公明党側は2009年6月段階でまだ手帖を返却していない。矢野氏は仮処分執行申請を裁判所に提出したそうだ。

3) なぜ矢野氏は創価学会より排撃されたのか

この手帖奪取事件の前後から矢野氏の身辺で異常な動きが出ていた。何者かによる矢野氏と家族への尾行と監視である。そして聖教新聞・公明党新聞の紙上を使った矢野氏への誹謗中傷は目に余る程度になっていた。盗聴の気配があり、脅迫電話や嫌がらせ電話が多くなったので、矢野氏が創価学会幹部に抗議すると、「耐えることが信心だ」という逆に寄付を要求してきた。矢野氏は調査機関に尾行や監視の逆調査を依頼し、証拠ビデオや調査報告書を添えて2006年12月牛込警察署に被害届を出した。被害届を出した直後は多少は嫌がらせは減ったようだが、ふたたび尾行と監視が行われているようなので、2007年7月ふたたび牛込警察署に被害届を出した。創価学会では監視尾行を担当するのは「広宣部」である。このような監視尾行は、脱会者や日蓮宗の他宗派に対して常時行われ、また竹入前委員長、山崎正友元顧問弁護士にも執拗な監視がついた。創価学会の会員が矢野氏宅を訪れ集団で抗議するなど右翼街宣車なみである。「矢野の家は悪魔の家だ」、「裏切り者」、「地獄へ行け」と罵声が浴びせられた。パッシングによって矢野氏の社会的信用を失わせる。家族親戚に嫌がらせをして、矢野氏の孤立化を諮る、評論活動を妨害し、資料や手帖を取り上げる。最後には家を売らせて財産を奪う。こういった一連の作業は学会組織の高名な連係プレーによる矢野潰し「完全無力化」であった。学会が「狂乱財務」(強請寄付活動)に踏み出したのは、1980年ごろの宗門戦争の頃からである。当時は会員一人年間百万円が相場であったが、1991年に日蓮正宗から破門された頃には年間1000万円の寄付を目標にしたそうだ。戸田城聖第二代創価学会会長の時は「お金がないのが創価学会の自慢だ」と言っていたのが嘘みたいに、池田名誉会長は金集めに狂奔するようになった。

そこで矢野氏はいつから自分が創価学会の排撃のターゲットになったのかを反省する。矢野氏の意識では2005年4月20日西口・藤原両副会長から文春記事のことで謝罪を要求されるまで、本人は学会とはずっと円満な関係であったと思っていた。文春記事は1994年のことである。なぜ10年以上も経ってからあの記事を問題にして謝罪を要求するまでになったのだろうか。ところが学会中枢では1979年の第1次宗門戦争で池田会長が退いた時、秋谷栄之助第五代創価学会会長と矢野氏ら学会幹部に対する池田氏の恨みが発生したようだ。1996年の池田氏の「女性スキャンダル」問題の処理についても池田氏の恨みが会ったようだ。ようするに池田を守れない弟子はダメで憎いらしい。とんでもない誤解であるが、池田絶対体制にある学会では、ご機嫌取りが個人の追い落としのために画作するようである。その池田氏側用人が学会本部事務総局第1庶務室長長谷川重夫氏である。池田氏と直接会話ができる事はない、すべて長谷川氏の口を通じて伝えられる。池田氏は天皇か将軍のように、簾の向こう側に姿を隠したままで、長谷川氏の言葉が池田氏の言葉になる。公明党議員が池田氏に睨まれたら政治的生命は無くなる。竹入元公明党委員長への池田氏の恨みは1972年の日中国交回復に起因したようだ。竹入氏の功績に嫉妬を抱いた池田氏は執拗に竹入氏を攻撃し、2006年5月党の資金500万円を着服したと東京地裁に訴えた。(東京高裁で和解成立) 30年以上も前の恨みを竹入氏の社会的地位を失わせることで恨みを晴らしたようだ。矢野氏への攻撃指令が池田氏の意向から出たことはもはや疑いは無い。池田氏からみの数々のトラブルを矢野氏は処理し解決してきた。秋谷前会長と同じように古株の幹部は池田氏のトラブルを知り尽くしていた。池田氏にとって用済みであるばかりでなく、栄光の池田教の歴史を書き変えるためのも、自己の暗部を知りすぎた危険人物は排除する必要があったのではないかと矢野氏は推測する。この書は矢野氏から池田氏への決別宣言である。今の池田教は会員を財産収奪の対象とみなし、投票マシーンとしか評価しないカルト宗教である。社会正義と秩序に反する創価学会を糾弾すべく、矢野氏は学会と幹部7名を東京地裁に提訴した。そして矢野氏は次のように宣言する。「私の青春時代の誇りだった創価学会を池田氏から取り戻すべく、同時にまじめな学会員が正しい学会を取り戻すためにも、残り少ない私の人生のすべてをささげる覚悟で闘う」


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