090714

蓮池薫著 「半島へふたたび」

  新潮社(2009年6月)

北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さんが翻訳者として自立するまで

私の勝手な勘違いで、拉致被害者としての北朝鮮での生活や情報が書かれた本かなと思って購読した。この本の内容は、拉致事件の状況や北朝鮮での生活や、北朝鮮の政治的軍事的経済的事情や北朝鮮民衆の生活などについては一切書かれていない。外務省や警察などの要望で、まだ北に残っている拉致被害者の安全を考慮して、公言しない事になっているようだ。普通なら当事者しか知りえない情報について誰でも書きたいものであるが、一切言及しないということにはそれなりの指導が入っているようだ。歴史の真実が全面的に語られるのはまだずっと先のことかもしれない。ということで出来ない相談をおねだりをしても意味がないので、本書の内容は「北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さんが翻訳者として自立するまでのこと」で、蓮池さんが新潮社の企画で翻訳本を刊行した三人の韓国の作家を訪問する紀行文である。とはいえ嫌な思い出のある朝鮮半島の地を踏むということはそれなりに感慨深いものがあったに違いない。蓮池薫さんのプロフィールは簡単ではあるが本書末尾より抜粋すると、1978年中央大学法学部3年在学中に拉致され、24年間、北朝鮮での生活を余儀なくされる。2002年10月15日帰国後、新潟産業大学で韓国語の非常勤講師・嘱託職員として勤務するかたわら、中央大学に復学。2005年に初訳書『孤将』を刊行。翻訳者としての仕事をこなしながら勉学に励み、2008年3月に卒業。現在、新潟産業大学専任講師。翻訳書は「孤将」のほか、「ハル 哲学する犬」、「私たちの幸せな時間」、「もう一人の夫が欲しい」、など多数ある。著書には本書のほか「蓮池流韓国語入門」などがある。本書の紀行文は「孤将」の著者金薫氏、「私たちの幸せな時間」の著者孔枝泳女史、「もう一人の夫が欲しい」の著者の朴ヒョンウ氏の3人に面会するための訪韓旅行である。この訪韓旅行については私は何の興味もないので紹介しない。

拉致被害者としてしか見られない蓮池さんに、このような文筆家としての再出発を知ってほしいという希望が新潮社の企画であろう。ではあるが、拉致事件はまだ全面解決したわけではない。私は拉致問題を、原田武夫著 「北朝鮮外交の真実」 筑摩書房(2005年4月)、若宮清著 「真相」 飛鳥新社(2004年7月)の本で読んだ。若宮氏は拉致被害者奪還交渉の舞台裏をかなり、真実味ある文章で公表した。その内容を一部紹介して拉致被害者救出交渉の概要とする。

若宮氏が描く北朝鮮拉致被害者子息の奪還交渉は、2002年6月の韓国金泳三大統領宅での拉致家族会と亡命北朝鮮労働党書紀黄長Y氏との面談会に始まる。1990年に金丸信自民党副総裁の訪朝にも関係し、拿捕船長帰還と見返りに50万トンの食糧援助が行われた。そして2002年9月電撃的に(小泉首相の好きなテクニック)小泉首相が訪朝して、金正日は平壌宣言において拉致問題の存在を認めて謝罪し、拉致被害者五名の帰国がなった。そして日朝国交正常化に向けた外交交渉が開始されるかに見えた。しかし外務省の北朝鮮との交渉は遅々として進まず、拉致被害者蓮池。地村氏の子息らと、曽我氏の夫と子息の帰還は暗礁に乗り上げたまま放置されたかのようであった。そこから本書の描く帰還交渉が開始されるのである。2003年9月自民党平沢議員と若宮氏、北朝鮮との窓口吉田氏の間で秘密裏に帰還計画が練られることになった。それがついに2003年12月20・21日北京会談につながる(第1次交渉)。場所は北京日航系ホテル京倫飯店、出席者は日本側は平沢議員、オブザーバーに「救う会」の西岡議員、民社党の松原議員、若宮氏、吉田氏、北朝鮮側は鄭泰和日朝担当大使、宗日昊外務省副局長、魯正秀副大臣補、通訳許成晢、安熙晢であった。最初はけんか腰の原則論で物別れだったようだが、翌日朝一番で宗日昊と平沢議員の交渉で打開の糸口が見つかった。宗日昊は「北朝鮮の面子が立つなら五名の子息を帰還させることは保証する」といったらしい。北朝鮮は核を切り札に国際社会から援助を引き出そうとしている。援助物質が尽きる度にのるかそるかの瀬戸際外交をやらなければならない。北朝鮮が本当に欲しがっているのは日本との国交正常化による安定した経済援助である。2002年9月拉致被害者五名を帰さざるを得ないとき、北朝鮮は誰を帰すかということを議論しただろう。それには「思想強固」で人質の子供がいる五名を選択したのだろう。しかしその後政府間交渉は進展せず、五名を日本に取られて経済制裁論議が盛んになってくる情勢を見て、北の日朝担当者は追い込まれていったと考えられる。この辺の日本での世論を導いた拉致被害者の会の活躍は大きかった。日本における北朝鮮問題のキーマンは当時の安部幹事長であって、福田官房長官と外務省ではなかった。それを受けて2003年2月11日外務省田中審議官と藪中局長が訪朝したが、何も進展さすことが出来ず空しく帰国した。特権意識丸出しで外交交渉は外務省の専売特許で外部の人間の口出しは許さないという言葉は勇ましいが、実情は何もせずノンキャリアーにまかせっきりの実務では進展するはずもなかった。悲しいことにこの外務省の無能は北朝鮮にも読み切られ、最終的には日本政府首脳と交渉するつもりでも、その前の話を煮詰める相手は日本外務省ではなく、言質に責任が持てる大物政治家にしたいのが北朝鮮の対応であった。 そこで現れたのが前自民党副総裁で小泉首相の友人で今浪人中の山崎拓氏であった。この第二次交渉の代表者を北に打診してお膳立ていたのが若宮氏と、山崎氏に近い女性ジャーナリスト二瓶絵夢氏であったらしい。山崎、平沢、若宮、二瓶、吉田氏は頻繁に会って交渉の前打ち合わせを行い、それは小泉首相、細田官房副長官には報告されていた。出かける前には山崎氏は公明党の冬柴幹事長の了解も取り付けた。こうして2004年4月1日大連で第二次交渉が行われた。それを受けて2004年5月22日小泉首相が第二回目の訪朝をして子息五名を引き取った。しかし曽我さんの家族については交渉が間に合わずに(ジェンキンスさんの軍法会議逮捕の問題で米国の理解が得られなかった)、後日インドネシアでの家族再会・日本帰国が実現するのである。


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