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山口二郎著 「政権交代論」

  岩波新書(2009年03月)

健全な民主政治には、政権交代が常に必要だ

なんとタイムリーな本だろうと思って2009年7月2日に読んでしまった。小泉退陣後に阿部・福田・麻生と三代のお坊ちゃま内閣が成立したが、だれも選挙の洗礼をうけていないという正統性のない持ち回り内閣であった。一夜で派閥の領袖が野合して出来上がった内閣(党の選挙はしたがその前に派閥の大勢は決していた)である。平安時代の最後、平家とともに壇ノ浦に沈んだ安徳天皇が授権の象徴である三種の神器を海底の藻屑と化した為、後鳥羽天皇は神器(神剣)なしで即位せざるを得なかった。そのことが後鳥羽天皇(のちに鎌倉幕府に反旗を翻す承久の乱を起こした)の永遠のトラウマとなって、正統性のない天皇といわれ続けた。同じ事が自民党のこの三代の総裁首相についても言われている。国民の審判をうけて成立したのではなく、野合の末の首相という非難が浴びせられている。とくに麻生首相は解散をして信を問う事が怖いらしく、政策の場当たり的な方針の失敗と選挙から逃げ回っているためか支持率は低下する一方で、各種新聞社の世論調査でも10%前後の支持率しかなく、次の首相への期待は民主党候補の方が多い。自民党政権の危機は決して偶発的でもなく、また個人の資質だけに帰せられるものでもない。これは政党としても生命力を失いつつある重病(瀕死)と捉えるべきであろうか。安部、福田、麻生は総裁選挙では党内の圧倒的多数を得て総裁に選ばれた。自民党はこれで行けると思ったのだが、それらのリーダがこの態たらくでは自民党には人材が払拭したか、よりリーダを選ぶ能力を失ったということである。自民党には小泉首相以前には、数々の政府と党の要職の経験をつみ、最大派閥の支援を得て数の勝負に勝ち残ったものだけが総裁から首相になるという旧来の政治の伝統があった。数の鉄則は権力闘争である。政策決定は政府と与党での経験が必要である。ところが、この派閥抗争に大きな変化が生じた。いわゆるケインズの「美人コンテスト」という他人の思惑を読む総裁選びと、政治家における「勝ち馬志向」(オール主流派)が、小泉という例外的な人気者にぶら下がって選挙に勝つというパターンの味を占めたことで、人気者選び(美人コンテスト)という事大主義が横行して、政党の求心力が弱まり、テレビ新聞ばかりを気にする風潮となった。その際たるものが6月末の古賀選対委員長の東国原宮崎県知事出馬要請が、逆に「総裁候補者にする条件」を突きつけられるという、政治家がタレントになめられるという醜態を曝したことになった。いつも与党でなければ生きてゆけないと権力にしがみつく事を権力中毒症と呼べば、小泉という劇薬の効果が切れてのた打ち回っている権力中毒症患者の症状ではないだろうか。実は自民党のなかで小泉氏を筆頭とする「小さな政府」主義者(新自由主義者)はそれど多くはない。むしろ少数派である。阿部以降の政権は「構造改革」という錦の御旗の維持と、自民党支持者への従前のケアーという二つの課題の板挟みにあって、身動きが取れない状況である。改革を表立って否定すると国民的支持を失うのではないかというジレンマに陥っている。

政策的な失敗の責任は選挙で結果を問い、負ければ下野するしかない。衆参ねじれ国会の問題は、小泉の遺産である衆議院議席2/3条項で切り抜けたきたが、将にその小泉の負の遺産で自民党は「死に体」同然となった。やはり選挙を避けてきたことが自民党を追い詰めたのである。堂々と戦ってたとえ自民党が衆議院で辛うじて勝ったとしても、衆参で同意できることだけを行うことで日本は随分よくなると思われる。独善的な政策を多数を頼んで強行することで日本は破壊された。これをよくするには国民が合意できること(要求すること)だけを行えばいいのであって、憲法違反や福祉改悪、借金積み増し政策などを「英断」をもって強行されたら、まさに頼みもしないことをやる「詐欺内閣」といわれるのは当然である。このように自民党内閣は転げ落ちるように統治能力を失っている。自民党政治の転換を求めた側は1993年の細川内閣のときに一度失敗をしている。一度下野した自民党は社会党右派を抱きこんで連立内閣を作って政権奪取をはかるウルトラC級の業を発揮した。この頃の自民党はまだ戦闘力があった。今ではそんな離れ業を演じられる政治家が自民党にいるのだろうか。自民党の一党優位体制はそろそろ終りかけている。健全な民主政治、成熟した民主政治にはアメリカやイギリスのような政権交代が何年かおきにやってくる必要がある。政権交代によって歪んだ政治社会経済体制の修正がおこなわれ、矛盾が緩和される。政治権力の暴走を防ぐという自由主義のためにも、国民が必要とする政策選択のための民主主義のためにも、政権交代が必要なわけを立証するのが本書の政治学の目的である。

山口二郎(政治学者)のプロフィールを本書末より紹介する。 1958年岡山県生まれで東大法学部卒。北海道大学法学部教授。 同大学付属高等法政教育研究センター所長を務める。専攻は行政学・政治学で、 官僚機構への積極的批判で知られ、村山政権時代には田中秀征氏らとともに首相への政策提言を行う「二一会」のメンバー。道の民間顧問も務めた。 1997年にロンドンに留学し、英国ブレア政権誕生を間近に見る。 現在の活動は、1993年からの連立政治、選挙制度改革をはじめとする一連の政治改革に対する反省の上に立ったもので、『自虐的政治学者』と言われることに対し「ちゃんと反省しているのは私だけ。」と本人は言っている。 現在も日本政治に対して気をはく、数少ない学者の枠をはみ出した学者のひとり。著書は岩波書店から「大蔵官僚支配の終焉」、「一党支配体制の崩壊」、「ポスト戦後政治への対抗軸」、岩波新書では「政治改革」、「日本政治の課題」、「日本政治 再生の条件」、「戦後政治の崩壊」。「ブレア時代のイギリス」、東大出版会から「内閣制度」など多数ある。

なぜ政権交代が必要なのか

なぜ政権交代が必要なのかということを、政治権力の暴走を防ぐためと、国民が必要とする政策選択のための2点から説き進めよう。第1は権力の身勝手な暴走を食止めるということだ。官僚機構の本性は「無誤謬神話」に見られるように、絶対に間違いを認めないことから来ている。戦前旧海軍や陸軍は米国に南方進出を阻まれ、戦いがぼろ負けしても全滅しても国民にはその失敗を明かさず、大本営発表はいつも「わが軍は西に展開せり」を繰り返した。それと同じように官僚機構はいかに政策が破綻をきたしても「方針変更」とは言わず「新方針を策定」と言い逃れをする。官僚機構は巨人軍と同じく「永遠」であるらしく、従って方針の間違いや変更はありえず、絶えず前向きに「新方針」でまた間違った方向へ進むのである。このような欺瞞にいつまでも国民が騙されているのは、わが国民の従順さを憐れむより、その愚かさと知的水準(開明度)の低さを惜しむ。そのような権力には退陣をねがうのが選挙である。ところが、わが国の憲法が定める権力分立の原理と議院内閣制度はどうも折り合いが悪いようだ。政権与党が扇の要となって、立法(国会)と行政(内閣)の2権力が融合しやすい構造的欠陥を持っている。名望政治家の時代はともかく、大衆民主政治の時代には金と票の面で政党組織に頼るところが多く自立性を失うのである。効率性の点から大帝の法案議決には議員拘束がかけられる。現在の議院内閣制においては党組織の集権制が高まる。議院内閣制は政権与党の独裁性の危険性をいつもはらんでいる。これをイギリスでは「選ばれた独裁性」と呼んでいる。議会は最終的には多数決で決められるので、1票でも少ない野党の意見は反映されない。議会が持つ「国政調査権」、「議員立法」は与党が反対すればこの効力はない。これに司法の独立性の問題も絡めると、日本ははたして民主国家なのかと疑いたくなる。最高裁判所長官と判事は内閣が指名する。政治的には最高裁判所は内閣の意に反する判決は出せない。議院内閣制において政権交代がないと、官僚集団が与党の私兵となりかねない。情報と資金を全て与党の有利な方向へ使え、選挙受けする施策まで官僚が考案する始末である。行政に中立性があるとは思えないが、野党側には官僚は固く門を閉ざしてアクセス権を拒否している。野党は野党である限り永遠に情報ツンボ桟敷に置かれる。こうして一度政権を握れば、意志さえしっかり持てばすべては与党側に有利にことは運べて、永久政権化する仕組みである。これをよい循環という。野党にとっては悪循環である。「健全野党」と嘯いても結局権力側にその意見が取り入れられることはない。

欧米では重要な問題については住民投票(レファレンダム)が存在する場合、住民自身が直接民主主義のように決定する事ができる。しかしすべての問題を住民投票することはできない。正統は複数の政策パッケージを競って、国民がそれを選択するというのが政党政治のモデルである。その場合かならず対立軸がなければならない。人々の生命、生活にとって最も重要な影響を持つ問題について争点が生まれるのは当然である。資本主義には必ず富のヒエラルヒー(階層格差)が存在する。それが政治における対立点として、富の格差を縮小するか(平等志向)、放置するか(自由志向)という対立点が最も重要となった。フランス革命以降の近代政治において平等志向を左派、平等に消極的な側を右派と呼んだ。右派は特に強者の自由を放任する立場である。大勢の人間が構成する社会は絶えず状況は動くものであり、そして人間は誤るものである。それが政権交代を引き起こすのである。アメリカでは30年周期(一世代の時間)で理想主義と現実主義が入れ替わるといわれる。民主党(政府調整型、ケインズ派)と共和党(新自由主義、小さな政府)の政権交代がそれである。いわば振り子である。左に傾く期間があれば、右に傾く期間が交互にやってくる(シュレージンガーの循環史観)。日本のように足して2で割るという考えは成り立たない。出来ない相談なのだから。社会的目的への貢献は理想主義(平等、左派)であり、個人利益の追求は現実主義(自由、右派)である。政権交代はは政治の世界における人間の試行錯誤である。状況にふさわしい政策とリーダーを選ぶのが民主主義である。政権交代は人間の自己修正である。日本において最初に政権交代を説いたのが福沢諭吉である。1879年「民情一新」で「今世で国安を維持する法は平穏の間に政権を授受するに在り、英国その他に見て知るべし」といった。けだしすごい卓見であった。しかし明治政府は政党の動きには超然主義をとって、藩閥政府は天皇の任命による立場であった。民権運動は直接行動派であった。議院内閣制は大正時代に実現したが、昭和の軍部官僚の政権争奪によって終焉した。大正デモクラシーが成功しなかった原因は、政権担当政党が民主主義のルールを守り議会政治を守るという条件を逸脱して統帥権を持ち出して軍部の付け入る隙をあたえたこと、左派が社会民主党の議会政党ルールに組み入れられず、直接行動に追い込まれたことによる。

アメリカ・イギリスの政権交代

アメリカでは強者の自由を代表する保守の共和党と、多価値の尊重を説くリベラルの民主党が交互に政権を担当する二大政党制が根を下している。政権交代によって片方に独走するのを防ぎ、政権交代時には揺れすぎを修正し、社会のバランスを取る機構が作用している。リベラルと保守は必ずしも経済的争点ばかりではなく、伝統的な人種問題も絡んでいる。共和党を支えているのはWASP(アングロサクソン系のプロテスタント)で人種平等にたいする抵抗は根強い。文化的、宗教的な考えも争点になる。宗教に熱心で原理主義に近いのが共和党で妊娠中絶反対をスローガンとする。それに対して民主党は世俗的で政治と宗教の分離をスローガンとする。支持基盤は20世紀初めまでは農村が民主党を、東北部の工業資本家は共和党という構図であったが、工業化の進展とともに工場労働者、労働組合を民主党が取り込み、大都市の移民を民主党が組み込んだ。大恐慌後、労働組合、農民、黒人などのマイノリティ、知識人などが民主党支持に廻ってニューディール連合或いはローズベルト連合といわれた。ニューディール連合はトルーマンまで20年間続いたが、朝鮮戦争を期にアイゼンハウアーの共和党政権にかわった。1960年代はケネディ、ジョンソンの民主党政権となったが、人種平等政策や福祉国家路線は保守的農村の離反を招いた。そしてニクソン、レーガンの共和党政権が保守層を取り込んで成立した。これ以降南部は共和党の地盤となった。アメリカは大統領制で内閣は議会に基盤をおかない。アメリカの大統領制については砂田一郎著 「アメリカ大統領の権力」中公新書を見ていただきたい。アメリカは独立に際しモンテスキューの権力分立論を導入した。連邦制は州政府を基本とした国家体制で、連邦政府の権限は憲法で定めら得た範囲に限定された。立法権は権限の対等な二院制に分けられ両院が賛成したときのみ法が成立するが、大統領に拒否権を与えられるという抑制的な制度であった。外交や軍事に関して大統領に権力が集中している。19世紀南北戦争後共和党、民主党の二大政党体制になった。1930年代ルーズベルト大統領は行政国家化して大統領権限を強化した。ホワイトハウスは大統領官邸ではなく巨大な行政組織として機能するようになった。行政府と議会の多数派の政党が違う場合はよくある。これを「分割政府」という。ブッシュU大統領の後半は民主党が議会多数派であった。ただしアメリカの議会には日本やイギリスのような「党議拘束」は存在しない。大統領を議会でえらばないから、大統領が議会の拘束を受けることもないからだ。そういう意味では大統領独裁制といえる。アメリカは1981年レーガン大統領いらい新自由主義全盛期を迎え、ソ連邦・東欧社会主義国崩壊もあって、グローバル資本主義経済体制を絶対視してきた。ところが21世紀にはいって金融資本主義の問題点が噴出し2008年世界金融危機をまねいて、オバマ大統領の新自由主義からのチェンジが始まった。新自由主義を作ってきたのは、格差拡大(強者の自由)を信念とする伝統的な右派、経済界のビジネスリーダーと中産階級異常の市民、キリスト教原理主義者運動、新保守主義(ネオコン)といわれる知識人であった。1980年以来規制緩和、市場開放、民営化、減税政策をパッケージとして先進国に広がった。9.11から始まるブッシュU大統領の戦争政策、小さな政府政策で国内社会は疲弊した。戦争と貧困・不平等をもたらした。それに取って代わったのが民主党のオバマ大統領である。オバマ大統領の行動はこれからであるが、金融機関の救済とGMの救済と前途多難である。グローバルニューディールという課題に国民の期待は集まっている。

イギリスには保守党、労働党、自由民主党、地域政党などがあるので、イギリスは厳密な意味での二大政党制ではない。イギリスは伝統的に小選挙区制であるため、労働党、保守党の二つの政党が生き残ってきた。650の下院議席のうち保守党と労働党がそれぞれ200あまりの絶対的基盤(セーフティシート)を持っている。それに中間票がどう動くかによって政権担当政党が替わるのである。イギリスの選挙戦といえばマニフェストが有名であるが、それほど厳密に有権者が吟味しているとは思えない。議院内閣制において官僚機構を動かすのは、下降型(ウエストミンスターモデル)といわれ、政策や政治的意思がトップダウンで行政府に下される。内閣は議会の多数派が構成する統治の最高指導機関とない、」閣僚は省庁の代弁者ではなく国家の大臣である。官僚機構に指示するのは内閣のみで、議会の議員が官僚機構に直接アクセスすることは禁じられている。行政府には政治任用のポストが多く、130人ほどの与党議員が行政府の官僚機構を統率する。イギリスの政権はチャーチルから4代13年間保守政権が続いたが、1960年代と1970年代は労働党政権が担当した。1980年代から1990年代まで18年間をサッチャー・メージャーの保守政権がアメリカのレーガンと一緒になって新自由主義政策を遂行した。そして1997年より労働党のブレアとブラウン政権となった。戦後労働党のアトリー政権は「揺り籠から墓場まで」というスローガンで福祉国家の基礎を築き、NHSの医療無料化を実施した。この福祉国家路線は1950年ー1960年代の保守政権にも受け継がれた。これを保守労働党のコンセンサス政治といわれる。福祉国家が国民合意の国是ということである。1970年代は労働運動が勃発して国民生活は麻痺し、1979年サッチャー首相の保守政権が非効率的な政府機能を改め新自由主義政策を採用した。サッチャー首相の「小さな政府」とは、福祉にぶら下がっている非効率的な既得権者を一掃して、経済的活力のある効率的国家に変えようとする意思であった。しかしサッチャーによる健康保険制度の破壊、教育の荒廃や若者失業者の増加、犯罪の増加によって格差是正社会への期待が高まって、1997年労働党のブレア首相が登場した。ブレアはまず金融政策についてイングランド銀行の独立性を確保し、労働者の利益重視、地方分権、世襲議員の廃止などの政治改革が続いた。医療再生については医療予算を増加し先進国最低という地位を脱した(今や日本が最低となった)が、サッチャー路線からの具体的な政策転換はいまいちはっきりしないので、ブレアは労働党の仮面をかぶった新自由主義者というレッテルを貼る人もいる。その最たる失敗はブッシュUの戦争政策への全面的協力姿勢である。ブレアの指導力はたいしたものであるが、負の遺産は政権運営至上主義がもたらした党の集権化と統制の強化であった。政権を維持するために理念や理想が曖昧になり、党の生命力や特色がなくなった。政権にしがみつこうとして組織は弱体化し、政権交代が早まるというジレンマにおちいった。

自民党政権はなぜかくも長続きしたのか

1955年に自民党が出来て、社会党も統一され日本でも1対1/2のカッコつき二大政党が生まれた。これを55体制という。資本主義体制、市場経済、アメリカとの同盟関係維持が自民党の最大の政治課題であった。当時は冷戦が厳しい時代であったので、資本主義か社会主義化の選択を迫るわかり易い「体制選択論」が対立軸となった。社会党は当然議会主義であり暴力革命どころか資本主義体制の変更を要求する政党ではないが、この二者択一論で世論を脅迫する論法は有効に働いた。つまり日本の自民党とイタリアのキリスト教民主党は、冷戦構造を前提とする万年与党であった。1960年代と1970年代の高度経済成長期にはパイの増加ということから自民党政治は富の平等な分配を行うことができ、「総中流化社会」ができた。ここで生まれた「新中間層」は既得権の維持ゆえに、自民党政権を支持した。これを中間層の「生活保守主義」という。左派の社会党などが政権交代の政策プログラムを用意しなかったため、自民党は左右両派の政策を用意して政権交代の可能性を封じ込めた。各業界が自民党に投票し、政治資金を供給することで仕事を頂くという構造が普遍的になり、自民党の磐石の基盤が築かれた。自民党の長期政権の間に官僚機構は自民党の人材供給源となり、自民党が官僚機構に政策と人材を依存してきたことは、自民党から政策立案能力を奪ってきた。自民党にとって権力こそ唯一の組織統合の接着剤になったことで自民党に理念不在という欠陥をもたらした。しかし政権維持のためには野党の政策も無節操に取り入れる柔軟性は自民党のお家芸でもある。岸、池田、佐藤、田中、三木、大平、福田までは激しい派閥抗争を繰り返したが、竹下、阿部晋太郎、宮沢あたりからそのようなバイタリティはなくなった。小沢が「キングメーカー」といわれて首相を次々指名するようになって、首相の小粒化、無力化は露になった。1990年代になって冷戦構造が終焉すると、「反共」という対立軸がなくなった。そして政治の自由度がうんと増加した。竹下派(経世会)のなかに改革推進派が現れ、自民党の基盤から日本新党、新党さきがけ、新生党が雨後の筍のようぬ発生した。1993年6月自民党の分裂で宮沢内閣が倒れた後、日本新党の羽田、新生党の小沢、さきがけの竹村、田中秀征が躍進し、社会党は激減した。非自民勢力で過半数を制した結果、細川連立内閣が誕生した。ここで初めて自民党は下野した。そこで自民党は政治改革・組織改革を行うだけの度量はなく、細川内閣、羽田内閣が短命で終わったのを機会に、1994年権力を維持するためだけの自民党、社会党、さきがけの三党連立内閣ができた。自民党がハト派に変身したのではなく、この偽装を見抜けなかった社会党の馬鹿さ加減が思いやられた。1990年代後半自民党が勢力を回復し、1996年橋本内閣、2001年小泉内閣は改革政党を自任したが、これも偽装に過ぎなかった。構造改革で省庁再編製を行った橋本内閣の後を継いだ、小渕、森内閣は短命に終った。新党結成で自民党の良質な人材が流失したため、自民党は無節操、機会主義、右傾化を一層加速した。そのあと自民党を破壊したのが小泉首相である。変人小泉首相とは何だったのだろうか。自民党中興の祖かはたまた破壊者だったのか。小泉首相は自民党長期政権の権力構造を否定し、「自民党をぶっ潰す」と高らかに吠えて未曾有の人気を獲得してから、強引な改革をこなった。「官から民へ」という題目で規制緩和をおこない、「小さな政府」の題目で経費節減で福祉を含めて切り捨て、労働派遣法の改悪などセーフティネットを破壊したが、道路公団民営化と郵政民営化をスローガンとして2005年の郵政選挙で大勝した。小泉政権の下日本社会は格差拡大が進行し、ホリエモンという時代の寵児を生んだが、若年労働者は派遣で貧困化した。ここで民社党は曲折を経て、自民党との対決路線、構造改革に対決する「生活第一」を確立した。小泉の反面教師を利用したのである。小泉政権は官僚を敵に回して、族議員の政策形成を阻止し首相官邸の機能強化を図った。トップダウン型の政治手法は族議員の周辺化・無力化に繋がった。首相のもとに権力を集中し、首相主導の統治モデルである。小泉首相の功罪については、内山融著 「小泉政権」中公新書を参照してください。

民主党は政権交代で何を変えたいのか

著者山口二郎氏は1996年の民主党の結党には多少の関わりを持っていた当事者である。したがって本書では「イギリスの労働党やドイツ社会民主党と同じ、日本において中道左派的な理念を持った政権政党を作り出す」ことが氏の目標であると、自分の政治的立場を宣言されている。評論家風にいつも正義の立場に立つというよりは正直でいい。はたして民主党はどのような政権構想を持つ党なのか、その軸はどこにあるのかをこの章で論じている。いわゆる護憲派、市民派は民主党不信感が強い。民主党を構成する人・指導する人のなかには自民党右派よりタカ派がいるし、自民党利権族議員と変わらない人も一杯いる。政治的腐敗度は自民党に負けじ劣らじで、いまいちクリーン度がよくない。その理由は民主党の離合集散の党歴にある。そこで民主党の歴史を振り返ろう。1996年9月の旧民主党は社会党右派とさきがけの政治家が作ったのである。細川政権の崩壊を経て非自民勢力も分裂し、小沢と公明党を中心とする新進党に続く第3勢力の結集であった。赤松広隆や筒井信隆などの社会党右派、鳩山由紀夫、菅直人などのさきがけの一部、横路北海道知事、そして支持基盤は自治労であった。この旧民主党の理念は、第1に官僚支配の打破と民主主義の徹底、第2に自民党の利益政治の打破と非経済的価値の尊重、第3に対外政策におけるシビリアンコントロールの強化であった。ところが1997年に新進党が解党し野党側は再び流動状態になり、1998年4月に旧自民系、旧民社系、日本新党系が合流して、現在の民主党が生まれた。同年7月の参議院選挙で自民党は大負けし橋本内閣は退陣した。ここに最大野党として民主党が躍り出たのである。ただ反自民というだけで浮動票を集めた政策的傾向のはっきりしない野党というイメージであったが、2000年と2003年の総選挙、2004年の参議院選挙で着実に議席数を増やした。2003年9月自由党の小沢一郎と手を組むことによって民主党は成長し政権獲得も夢ではなくなった。ところが民主党の政策は混迷し続けた。鳩山代表は小泉改革に賛意を示し共闘を表明するという状態であった。何を改革するのか改革の理念もなかった。当時の民主党には「市場化のベクトル」と「市民化のベクトル」が混在していた。民主党の若手すなわち、元官僚、アメリカ留学者や政経塾出身者らは市場ベクトル追求者で小泉改革と同基調であった。民主党が有効な対抗軸を出さないうちに、小泉政権は社会保障削減、労働規制緩和、地方財政の切り捨てなど大きな政策転換を断行した。小泉の後安倍政権が出来ると、2007年参議院選挙で大勝し野党連合で参議院の与党となった。これが次の福田内閣を悩ましたねじれ国会の開始である。著者山口二郎氏は小沢一郎氏の政治手法である裏工作(独断専行)と安全保障タカ派の懸念を述べている。小沢は憲法や安全保障問題で党なの亀裂を防ぐため今は議論を凍結しているが、将来政権をとった時どう出るかに不安が隠し切れないという。前原代表の「自民党と改革競争をしよう」という同じ土俵式の馬鹿な発言につづいて、2006年武部自民党幹事長のいわゆる「偽メール事件」で更に民主党は混迷を続け、2005年より小泉改革の規制緩和の弊害があちこちで出始め、「ワーキングプアー」の格差拡大問題を政治的に放置できないところまで来た。政治的に未熟な前原退陣を受けて民主党内の政治勢力が様変わりし政経塾出身や新自由主義議員が発言力をなくした。そして小沢民主党は「生活第1」をスローガンにかかげ、小泉式新自由主義構造改革に対決する路線を走ることになった。阿部内閣の復古調の右傾化によって2007年参議院選挙では民主党は大勝した。直接の勝因は年金不明問題の追及にあった。そして小沢は社会民主主義的政策と親和性を持ち、構造改革路線の歪是正に動いたことである。ここで新自由主義と再分配という対決の構図が出来上がった。自民党福田首相の時に小沢の悪い癖である独断専行の「大連立」騒動で小沢路線はピンチにたたされ、2009年西松建設の政治献金問題で秘書が逮捕されて小沢は代表を退いたが、鳩山代表の下民主党の追い上げは麻生首相を追い詰めている。

日本では定着していない「政権交代可能な政党システム」の条件を考えてゆこう。日本独自の二院制の下で起きた今のねじれ国会という事態はいつの時代でもありうる現象である。だからこそ衆議院の政権選択と予算決定権が重要性を帯び、3年に1回の参議院選挙はアメリカの中間選挙的な政権評価という性格となる。今後自公連立政権は衆議院で2/3以上の議席を得る事は不可能であるので、両院が一致するものしか法律にはならない。立法に関しては参議院に拒否権が与えられたに等しい。自民党政権は小泉の後、阿部・福田・麻生が総選挙なしに引き継いだが、これらの首相は今の状況と自分が何をなすべきかを全く理解していない最大の欠陥があった。自公連立政権が国民の負託という正統性がなかった以上、当事者意識がなくいたずらに浮遊するだけであった。選挙で政権与党の政策に国民が支持を与えたのであれば、参議院では野党の反対は国民の支持を失うため、自ずと法案の修正以上に出ることは出来ない。国民主権という大原則では国民が政策を転換せよと命じたのであれば、官僚の抵抗はクーデタ−かサボタージュとなるので、行政府は選挙の結果に従わざるを得ない。今後どのような形の民主主義を選択するかについて明らかにしておく必要がある。二大政党が政権公約を示して選挙で国民が選択するという一元的民主主義(契約モデル)がすべてであるかといえばそうでもない。従来自民党は政策的な基軸をはっきりさせず、あえて矛盾するような政策集団を抱え込んでいて、包括的公約は議論されずに地方的利益の誘惑で選挙で勝利してきた。欧州の連立内閣の政治形態はこの多元的民主主義(協調モデル)が多かった。自民党は一党内で左から右を備えた連立政党のようなものである。健全な一元的民主主義が育つためには、第1に強力な野党が存在し常に政権交代の可能性が存在することである。イギリス・アメリカがこれに相当する。第2に野党にも行政府に対するアクセス権を与えて次の政策を効果的に出せないハンディギャップをなくすることである。第3に与野党間で政治的競争のルールを共有することである。開発途上国みたいに政権党が野党を根絶やしにするような強権策をとってはいけない。政権が交代するごとに前政権を罪に陥れてはいけない。第4に検察や裁判所は権力の犬になるのではなく、民主主義を学ばなくてはいけない。メデァも与野党に公正な批判を加え、国民のために判断材料を提供しなければならない。選挙で白黒をつけ政権を安定させるには小選挙区制が適しているが、政権運営は極めて多難ではあるが、幅広く民主主義勢力の意見を聞くには100%比例代表制がいい。


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