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ルネ・デカルト 「哲学原理ー第1部形而上学

 山田弘明、吉田健太郎、久保田進一、岩佐宣明訳・注解  ちくま学芸文庫(2009年03月)

スコラ哲学を下敷きにして、近代科学の曙を告げる哲学

デカルトの「哲学原理」は全4部からなるが、本書は「人間的認識の原理について」と題する第1部の形而上学のマトメだけを対象としている。これまで刊行された訳書は第1部の形而上学と第2部の自然学を紹介し、第3部と第4部の自然学各論は省略する場合が多かった。本書がなぜ第1部だけなのか、その趣旨はスコラの形而上学との関連を捉えることであった。当時の優れたスコラ哲学の教科書は、ユスタッシュ・ド・サン・ポールの「弁証論、道徳論、自然学および形而上学にかかわる事柄についての哲学大全四部作」(1609年)が有名である。デカルトは明確にこのスコラ哲学大全を読んでおり、かつその形式を踏まえたうえで自身の著書「哲学原理」を書いたものと考えられる。デカルトはスコラ哲学から大きな影響を受けており、多くの点でスコラ哲学を痛烈に批判した。デカルトの形而上学の研究の歴史をたどると、
1.「方法論序説」 1637年
2.「省察」 1641年
3.「真理の探究」 1641年
4.「哲学原理」 1644年
というように、哲学原理は形而上学研究の最終版である。これでデカルトは形而上学を打ち切った。哲学原理の中で第1部形而上学の比重は小さく、第2部以下の自然学の記述が圧倒的である。形而上学的主題に関する議論や量的な点では「省察」の方が明らかに優っている。しかし「哲学原理」は「省察」の単なるマトメではない。記述の順序や証明の仕方が異なっており、「省察」が分析的に追っているのに対して、「哲学原理」は分析と総合の絡み合いによって特徴的な記述となっている。内容的には自由意志や思惟(コギト)の解釈に新しいものがあり、誤謬の原因論は数段詳しいとされる。デカルトの40年後にニュートンが「自然哲学の数学的原理」を書いた。ニュートンはデカルトの「哲学原理」をよく読んでおり、デカルトの「哲学原理」も形而上学というよりも「形而上学に基づく自然哲学の原理」といった方が正しい。デカルトの「哲学原理」の狙いはスコラに代わる新自然学の体系的な展開にあったというべきであろう。「哲学原理」はラテン語で書かれ(本書はフランス語版を基にした)、全体は4部からなる。
第1部 「人間的認識の原理について」 思惟する精神は存在とは区別されるという第1原理ですべては演繹される。
第2部 「物質的事項の原理について」 自然を機械論的な展開と見る。運動量保存則など力学について述べた。
第3部 「可視的世界について」 地球と天体の運動を述べた。しかし宇宙生成論は今ではおかしい。
第4部 「地球について」 空気、燃焼、磁気など記述した。しかし今ではおかしな推論が多い。
第5部 「動物、植物の状態について」と第6部「人間の本性について」は予定されたのみで書かれなかった。
これに対して、ユスタッシュの「哲学大全」はアリストテレス=トマスの伝統を引き継ぐスコラの標準的な教科書で、当時のベンチマークであったようだ。この「哲学大全」は4部からなっている。
第1部 「弁証論」 普遍、カテゴリー、定義、命題、方法、3段論法
第2部 「道徳論」 善悪、至福、行為、情念、徳と悪徳
第3部 「自然学」 物体の本性と原理、天と地、元素、植物的霊魂、感覚的霊魂、理性的霊魂
第4部 「形而上学」 存在者、抽象的霊的な事柄
記述内容については自然学に方が多く、形而上学が一番少ない。デカルトの「哲学原理」も自然学がその大部分を占め、形而上学はその1割に過ぎない。「哲学大全」第4部「形而上学」の内容は、先行問題に続いて、第1部は「存在者の本性について」、第2部「存在者の諸原理について」、第3部「存在者の特性について」、第4部「存在者の諸区分について」である。

デカルトは「哲学原理」のフランス語版の翻訳者に序文に近い書簡を寄せている。そこには「哲学原理」で一番重要な原理をまとめている。まず「哲学」とは何であるかについて述べられている。てつがくとは知恵の研究であり、自分の生活を導くためにも人が知りうるあらゆることについての完全な知識を知る事である。完全な知識とはそれ自体極めて明晰で明証的であって疑いようがない第1原理である。つまり原理の探求から始めなくてはならない。他の事物の認識がそれらの原理に依存し、したがって原理は他の事物なしに知りうるが、逆に他の事物は原理なしには知りえないということである。そしてこの原理から、それに依存している事物の認識を演繹することが出来るということです。(数学における公理だけから定理を導くことを想定すれば理解できる。) どの国に住む人々もよりよく哲学していれば、文明開化されているといえる。人間はその主要な部分が「精神」にあるので、精神の真の栄養である知恵の探求に主要な関心を払うべきです。最高の善をは信仰の力なしに自然的理性によって考察される限り第1原理による真実の認識に他ならない。それが知恵であり、知恵の研究が「哲学」なのです。これまでの哲学はソクラテスに始まり、その弟子プラトンとアリストテレスが引き継いだ。プラトンは自分は確実なものは何一つ見出していないと告白したが、アリストテレスは原理を説く仕方を変えてしまった。この二人の権威のあとは懐疑派と感覚派に分かれたが、哲学者の大部分はアリストテレスに盲目的に従い、しばしば曲解した。結局間違った方向へ大きく移動してしまった。ここにデカルトはアリストテレス以来の「近代哲学の祖」といわれる哲学の原理を著わす。

第1原理に必要な要件は@それらの原理が極めて明晰であること、Aそこから他のすべての事物が演繹できる事である。原理が極めて明晰であるということは、少しでも疑わしい事はすべて排斥することが必要である。疑っても疑ってもなお疑っている自分が存在する事は疑い得ない。デカルトはその疑っている精神を思惟といい、思惟があること、つまり存在することを第1原理として立てたのである。「コギト エルゴ スム」それが形而上学上の原理の全てである。本書では道徳、論理学は必要だがオミットして、哲学の第1部に形而上学(認識の原理)を扱い、第2部以下は自然学を扱うとデカルトは本書の構成を説明している。そしてデカルトは「これらの原理から、そこから演繹しうるすべての真理を演繹するにはあと数世紀かかるだろう。」と近代科学の幕開けを宣言した。デカルトだけのおかげではないにしろ、今や近代科学の成果は花開き、人類はその恩恵を謳歌している。それほど重要な文明の原理を説き明かしたのが「コギト エルゴ スム」という二元論であった。もちろんデカルトが第2部以下で展開した自然学はいまでは間違いだらけであるが、それは科学的認識の浅い時期での推論であるから、デカルトだけを責めても仕方ない。しかし重要な力強い1歩が始まったことは確かである。

デカルト「哲学原理」第1部 形而上学「人間的認識の原理について」は第1から第76節に分けてある。ちくま学芸文庫の訳者らは本書の各節ごとを「訳文」、「解釈」、「参照」と3段構成とした。ちくま学芸文庫本の特徴は「解釈」でスコラ「哲学大全」との関連と、デカルトの言いたいことを述べ、ライプニッツの批判など多数の哲学者のコメントを記して理解を深める。「参照」では「哲学原理」の言葉が、他の書物1.「方法論序説」 2.「省察」 1641年 3.「真理の探究」 ではどう扱われているかを検証する。全76節をまとまりのいいように11に区分して要約する。
1)第1節ー第12節
確実な認識を得るためには、疑わしいものをすべて排除しなければならない。感覚的な事物の認識はときとして誤りがふくまれので疑える。しかし考える私が存在しないこと矛盾であるので「コギト エルゴ スム(われ思惟するがゆえに、われは存在する)」は最も確実な認識である。精神の本性は思惟することであるので、物体とは区別され、物体より先に認識される。従って「思惟」と「存在」は単純で自明な概念であってそれ以上の説明は要らない。しかしこれまで人は精神と身体を十分区別せず、身体を自分自身だと思っていた。
2)第13節ー第23節
精神のうちには事物の観念や共通概念があるが、最高の完全な存在である神は存在する。先入観から真実で普遍な概念を持つのが難しくなっている。デカルトが神の存在を信じていたかどうかは知らないが、今の我々としては「神」とは最高の知恵のことで、そこへ人間は近づけるという意味に理解する。
3)第24節ー第28節
神の認識から被創造物の認識に進むには、神は無限で人間は有限である事を知る必要がある。有限者は無限者を議論する事はできない。物質については無限という言葉ではなく「無際限」という言葉を使用しよう。
4)第29節ー第36節
神(最高の知恵)は誠実であり裏切らない。神から耐えられた認識能力は我々が物を明晰判明に捉えている限り、真なる対象を捉えることが出来る。ところが我々がしばしば誤るのは、知性が明晰に認識していることを超えて意志が同意を与えるからである。誤るのは神の責任ではない。
5)第37節ー第46節
意志を持つことの自由は人間における最高の完全性である。われわれが誤るのは自由の使用の欠陥であって、神の責任ではない。自由と最高の知性の調和は難しいが、明晰判明に認識することだけに同意するなら、人は誤ることはない。
6)第47節ー第50節
思惟する実体と思惟対象の実体(二元論)とがあり、また心身合一という問題もある。思惟する実体には認識と意志が、思惟対象の実体には大きさ、形、運動があり、身体合一には欲求、情念、感覚がある。これを属性という。全く無からは何も生じないということは明晰に知られるが、幼児期の先入観を持つ人には必ずしも明晰ではない。
7)第51節ー第59節
実体とは他を必要とせずに存在するものである、精神も物体もある意味では実体である。実体は属性に触発されて認識される。精神や物体には、思惟や延長という主要属性があり、さらに、時間や数や普遍という様態を持つ。分析的に書かれている。
8)第60節ー第65節
区別には実体的、様態的、観念的の3つがある。精神と物体は実体的に区別される。実体と様態の区別(理解、記憶、想像)、実体と属性の区別(形、位置、運動)を様態的、観念的という。この節はやたら分析的である。
9)第66節ー第70節
様態としての感覚、感情、欲求は明確であっても判断を誤ることがある。実体と違ったあやふやさが避けられない。
10)第71節ー第74節
誤謬の第1の原因は精神が身体に埋没していた幼年期の先入観にある。また容易にそれを除去できない事である。感覚や創造によってしか事物を認識できないと考える習慣から抜け出せないことであり、事物と厳密に対応していない言語に迷わされていることである。
11)第75節ー第76節
正しく哲学するためには先入観を捨て、明晰判明に知られるものだけに頼る事である。その結果思惟するものの存在、神の存在、神への我々の依存が知られ、永遠真理、物体的性質、感覚的性質が知られる。これらが人間的認識の主要な原理である。


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