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兵藤祐己著 「琵琶法師ー異界を語る人びと

  岩波新書(2009年04月)

盲目の「琵琶法師」は異界の媒介者、宗教芸能者であった

平家琵琶
平家琵琶 四弦五柱

先ず楽器としての琵琶の由来を記す。琵琶(びわ、ビバ、ピーパー)は、東アジアの有棹(リュート属)弦楽器の一つ。弓を使わず、もっぱら弦をはじいて音を出す撥弦楽器である。古代において四弦系(曲頚琵琶)と五弦系(直頚琵琶)があり、後者は伝承が廃絶し使われなくなったが、前者は後に中国及び日本においていくつもの種類が生じて発展し、多くは現代も演奏されている。朝鮮半島にも伝えられ、郷琵琶(五絃琵琶)と唐琵琶(四絃)で分けられて宮廷楽士の基本楽器になって李氏朝鮮の末期まで用いられた。ヴェトナムにはおそらく明代に伝播した四弦十数柱のものが伝承され、琵琶と書いて「ティパ」と発音する。なお、広義には阮咸(げんかん)や月琴などのリュート属弦楽器も琵琶に含めることもある。四弦系(曲頚)琵琶は、西アジアのウード、ヨーロッパのリュートと共通の起源を持ち、形もよく似ている。すなわち卵を縦に半分に割ったような形の共鳴胴に棹を付け、糸倉(ヘッド)がほぼ直角に後ろに曲がった形である。五弦系(直頚)琵琶はインド起源とされ、糸倉は曲がらず真っすぐに伸びている。正倉院に唯一の現物である「螺鈿紫檀五絃琵琶」が保存されている。琵琶法師が語る演目には数々あるが、まずは平家物語を演じる平曲(平家琵琶)に関するホームページを参照してください。なお本書は平家物語の書ではないが、琵琶法師を考える上で平家物語は必須項目である。楽器としての琵琶の形態をまとめると、
雅楽琵琶:四弦四柱 有名な正倉院の琵琶は雅楽琵琶の典型となった舶来の曲頸琵琶、インド起源は五弦の直頸琵琶、ペルシャ起源は曲頸琵琶、特徴は「サワリ」の機構がないこと、左手の押弦が、柱(フレット)の間で絃を押さえ張力を変化させて音程を変える奏法がないこと、また小指まで使用すること、などである。
盲僧琵琶:四弦五柱 胴に比べ棹が長いのが特徴、古形は六柱 盲僧琵琶は仏教儀式に用いられたもので、盲人の僧侶がこの琵琶の伴奏で経文を唱えていたとされる。その起源は奈良時代に求められ、早くから盲僧の組織が作られていた。蝉丸もその一人といわれる。大別して薩摩盲僧と筑前盲僧とがあった。
平家琵琶:四弦五柱 胴が長く頸は短い 平家琵琶は楽琵琶から派生したもので、楽器は楽琵琶とほぼ同じつくりだが、小型の物が好まれる。撥は逆にやや大きく、先端の開きが大きい。平家物語をかたるときの伴奏に用いる。平家琵琶を用いた平家物語の語り物音楽を「平曲」と呼ぶ。鎌倉時代のはじめ頃に生仏(しょうぶつ)という盲人音楽家がはじめたとされ、曲節には仏教音楽である声明(しょうみょう)の影響がみられる。
薩摩琵琶:四弦四柱 盲僧琵琶を改良して近世につくられた。これまでの盲僧琵琶を改造し、武士の倫理や戦記・合戦物を歌い上げる勇猛豪壮な演奏に向いた構造にしたものである。盲僧琵琶では柔らかな材を使うことが多かった胴を硬い桑製に戻し、撥で叩き付ける打楽器的奏法を可能にした。撥は大型化し、杓文字型から扇子型へと形態も変化した。これにより、楽器を立てて抱え、横に払う形で撥を扱うことができるようになった。
筑前琵琶:五弦五柱 盲僧琵琶を改良して明治期につくられた 古くは四弦が使われた。筑前琵琶の音楽は薩摩琵琶に比べ曲風がおだやかであり、楽器、撥ともやや小柄である。胴の表板は桐に変わり、音色は薩摩琵琶に比べ軟らかい。調絃も三味線に準ずるようになった。筑前琵琶の種類は四弦と、四絃より音域をより豊かにする為に初代 旭翁とその実子である橘旭宗 一世によって考案された五弦があり、五弦の方が全体にやや大きい。撥も五弦用のものの方がやや開きの幅が広く、いくらか薩摩のものに近い。柱はいずれも五柱(四絃五柱、五絃五柱)。

兵藤裕己氏のプロフィールを本書巻末から抜粋する。兵藤 裕己は、日本中世文学、芸能研究者である。愛知県に生まれ、1975年京都大学国文科卒、84年東京大学国文科大学院卒業、埼玉大学で教鞭をとり86年助教授、93年教授となり、96年より成城大学教授、2001年より学習院大学教授となる。1996年『太平記<よみ>の可能性』でサントリー学芸賞、2001年「平家物語の歴史と芸能」で東大文学博士。2002年、『<声>の国民国家・日本』でやまなし文学賞受賞した。『平家物語』の語り物としての性格から研究を始め、近代文学まで射程を延ばして、文芸における声の役割について論じる。主な著書には「太平記の可能性」(講談社)、「平家物語」(ちくま新書)、「平家物語の歴史と芸能」(吉川弘文館)、「演じられた近代」(岩波書店)ほかがある。本書「琵琶法師ー異界を語る人びと」の付録に山鹿良之氏演唱の「俊徳丸」のDVD(20分ほど)がつけられており、琵琶演奏の概要が一目瞭然にわかるようになっているのがユニークな書である。岩波新書で初めての試みではないか。

山口県赤間関の阿弥陀寺に安徳天皇の陵墓がある。そこに伝わる「耳なし芳一」の話はあまりに有名である。琵琶法師の芳一が壇ノ浦に沈んだ平家の亡霊に毎夜誘われて、安徳天皇の墓の前で「平家物語」を演じさせられるという話である。この話はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の怪談となっているので読まれた方も多いと思う。平家物語は平家一門の栄華と滅亡を描く語りの文学として成立し、琵琶法師はわが国における中世の声の文化の重要な担い手であった。各地の伝説・民話の多くが座頭(盲人芸能者)の伝えた物語が土地に根付いたという見方を柳田国男は始めて提唱した。「耳なし芳一」の話のヴァリエーションが各地に残っている。徳島県の「耳切れ団一」、高知県の「耳なし地蔵」は明らかに源をひとつにする話である。盲人にとって耳は残された重要なコミュニケーションの器官である。琵琶法師は普通は盲人であった。健人の場合、視覚と聴覚は密接に連動して、眼の焦点のあったところから発せられる音が選別され、不要なものは雑音として排除、抑制される。視覚がない場合、世界はざわめき(雑音)に満ちている。このざわめきは前近代にあっては異界と接触する方法であった。今も残る沖縄の女性シャーマンは精神変調者か、東北のイタコ、近畿のダイサンは盲目のシャーマンである。聴覚と皮膚感覚によって世界を体験する盲目のかれらは、自己の統一的イメージを視覚的(ミラーイメージ)に持たない。主体がこちらとあちらの間を行ったり来たりするという点で、前近代社会では物語や伝承の重要な担い手であった。死霊の祟りが恐れられる「平家物語」、「曽我兄弟」、「源義経物語」も、中世はおもに盲人芸能者によって担われた。盲目の琵琶法師は、たしかにあの世とこの世の媒介者であった。琵琶は法具の楽器として(鐘、木魚、拍子木などと同じ)中国・九州地方に伝統的に残っていたが、他の地方では16世紀以降しだいに三味線に取って代られた。座頭三味線の系譜である。浄瑠璃・文楽はもとは座頭三味線芸から出発した。盲目の琵琶法師はしだいに数が少なくなり1980年代に5名となり、さらに針灸按摩に転業され、最後まで残った熊本県の山鹿良之氏も1996年に他界された。本書の付録のDVDは山鹿氏の演唱を筆者が録画したものである。

1) 琵琶法師の由来 

ペルシャで生まれた琵琶は中国で改良され、奈良平安時代に日本に渡来したといわれる。中国杭州の盲目の琵琶奏者が小説を唱えて糊口としたという話が唐の文献に見える。大陸から渡来した琵琶法師の琵琶には二つのルートがあった。一つは遣唐使らが公式ルートで伝えた雅楽琵琶の系統と、西日本に海洋ルートで伝わった法師琵琶の系統である。上に書いたように琵琶法師の平家琵琶は雅楽琵琶をそのまま小ぶりにしたものであるが、柱は五つで倍音を出すための「サワリ柱」(三味線にもこのサワリが伝わった)がある。この平家琵琶の特徴は西日本に伝わった法師琵琶(座頭琵琶、盲僧琵琶)である薩摩琵琶や筑前琵琶の特徴と共通する。鎌倉時代の「一遍聖絵」に盲僧の背中に描かれている琵琶は六柱である。古い盲僧琵琶はすべて六柱であったものが、14世紀以降玄清流、薩摩の常楽院流の琵琶は四柱に変化したようだ。平家琵琶も本来盲僧琵琶と同じであったのが、上流階級に迎えられて携帯に便利なように小ぶりに変わったと考えられる。10世紀末、藤原摂関期の藤原実資の日記に「修正会に琵琶法師を召し、才芸を尽くさしめ、小禄を給う」とある。法会に呪師申楽とともに琵琶法師が呼ばれた。琵琶法師が演じた「散楽」とは卑俗な雑芸であり、琵琶法師は寺院に付属していた下級の宗教芸能者であった。つまり寺の儀式に欠かせないお抱え音楽師であったというわけだ。また関白藤原忠実の日記には猿楽演奏に参加し琵琶伴奏で歌謡を歌ったと記されている。中世鎌倉時代には正月の祝言をのべる「乞食法師」がいて、「声聞師」(唱門師)といわれて宴席での「酒祷」を演じた。室町時代には土固めの「地祭り」やかまど祓いに座頭に「地神経」を語らしめたとある。琵琶法師は今日でいう「地鎮祭」で祝詞を述べる神主の役割を演じていたのである。かまどの神さまは別に「荒神(こうじん)」とか「三宝」とかいい、古くは磐古神話と結びついたあらぶる地の神を鎮める信仰であった。地の神は「地母神」ともいい、水の女神でもある弁財天を職能神とする信仰がおこなわれた。上野不忍池の中にある弁才天は水の女神であり、音楽や学問の神である。

2) 平家物語の始まり

琵琶法師は死者の鎮魂や口寄せ(あの世の死者とのコミュニケーション)を業としていたようだ。梓弓や琴、琵琶などは古くから神や霊を招きよせる巫具として用いられた。琵琶法師の弾き語る物語は、死者たちを呼び起こすシャーマニズムと不可分に存在した。壇ノ浦で平家が亡んだ1185年3月24日から3ヶ月経った時、京都の町を大地震が襲った。その惨状は方丈記や平家物語に記されている。地震の原因として海底に沈んだ幼帝と平家一門の怨霊の祟りが噂された。死んだ幼帝(建礼門院の子)の諡号が「安徳」と追号されたのは2年後であった。怨念を抱いて死んだ天皇の追号の例は800年の「祟道天皇」、1156年の「祟徳天皇」があった。それぞれ「祟り」という一字が被せてある。京都で祟りの畏れのある霊を祀ったのが「上御霊神社・下御霊神社」である。1191年後白河法皇が病に伏した時、自からが滅ぼした「祟徳、安徳の両怨霊の鎮謝」を命じた。比叡山天台座主の慈円は1204年「大懺法院」が国家的規模で建立された怨霊鎮魂寺院であった。権力者は自身の政敵を滅ぼした後、祟りを恐れて霊を慰める行為をするのである。兼好法師が著わした「徒然草」に有名な平家物語の作者伝承の項がある(第二百二十六段)。比叡山の慈円が大懺法院に一芸ある者を集めて養っていた中で信濃入道に平家物語を作らせ、生仏という盲目に教えて語らせたという説である。「平家物語}高橋貞一校注 講談社文庫の訳注をした高橋貞一氏の平家物語の作者に対する考えは、このような一貫して流れる文章の響きは一人の作者の手によるしか考えら得ないと断定する。複数の作者や時代ごとに補充されたのでは、平家物語が持つ名文とリズムは保てない。また琵琶法師が平曲で平家を謡いながらブラッシュアップしたとか云う伝説も解せないと云う。そんなレベルの文章力では平家物語はできないのである。12巻の作品が一人の優れた文筆家の手により完成したと云うのが高橋氏の結論である。誰が平家物語を書いたかは永遠の謎であるが、鎌倉時代末期か室町時代にかなり漢詩文教養レベルの高い僧か公家階級のものが書いたのであろうが、最初から語りの琵琶法師がその流布に貢献したことは確かである。

誰が作者かはさて置いて、平家物語の話題形成の流を考えてゆこう。柳田国男は「有王と俊寛僧都」という論文で、鹿ケ谷の変の俊寛の従者であった有王が俊寛の骨を高野山に納めて、蓮華谷で出家して高野聖となったということに注目し、蓮華谷が平家物語の話題供給源となったという仮説を提出した。話題供給源だけを論じるなら平家物語の各段の舞台となった場所はいくらでも存在する。しかし柳田国男は鬼界ヶ島の南九州は古くから琵琶法師の伝統の地であり、目の見える法師と座頭の接触点として重要という考察をしたことである。鹿ケ谷の変の主役の一人、康頼入道が住んだ東山の八坂の双林寺は琵琶法師の八坂方の本貫地でもあった。柳田国男は多くの個々の話が寄り合って長編化する過程には京都の一人の文筆家だけでは説明がつかないという。これらの「前平家物語」の話題がそれらの地方の宗教者や芸農民によって慈円の「大懺法院」に持ち込まれ、整理編集されて文章化されてゆく。たしかに「大懺法院」は、琵琶法師や聖さらに説教僧、文筆家らが相互に交流する場であったのかもしれない。柳田はさらに「有王」という名に注目し、有は「あれ」に通じ、「有王」は神の語り部(稗田阿礼とおなじ)であったという。ここに日本宗教の二重構造が見えてくる。法というたてまえの国家宗教の僧に、呪術者という民間下級宗教者がバックアップして権力を構成する構造である。日本には大昔から熊野など山岳霊場が多くあって、修験者、聖などが集合していた。そして彼らの間では神と仏教の区別も定かではない。呪術という立場ではどちらでもよかったのである。神道も仏教も彼ら民間呪術者を取り込んだのだ。その民間呪術者の群れに琵琶法師が混じっていた。平家物語の文体は比較的具体的に述べられるので明確に理解できるのだが、ところどころで話の主体が移動する事が多い。これは「その身になって語る」シャーマニズムの語り手の少なからぬ役割があったようだ。平家の主人公に乗り移っていることがしばしばである。あの平家物語の武士の出陣の装束の複雑な文句は常套句化しており、憶え易い順序である。平家物語の正本である「覚一本」は1371年八坂「大懺法院」あたりで覚一検校によって作られた。語り部のスタイルが文章を変えることもあったのだろう、とにかく平家物語は声を出して読むものである。哲学書のように黙して考えるものではない。朗読して余韻に浸るものである。このように平家物語の文体はそれを伝承した主体(琵琶法師)のありようと不可分である。

3) 語り手琵琶法師とは何か

眼が見えない者は中世では宿業の穢れたものとして差別の対象であった。一休の「自戒集」によると内裏に盲目の琵琶法師は入ることは出来なかったので、穢れを帯びたものの代わりに目明きの声聞師がはいったとある。五体不具の琵琶法師は河原者と同じく「不浄の身」として内裏への立ち入りは禁じられていた。穢れという概念は秩序の整合性を脅かすものであったという。ところが柳田国男は「一目小僧」のなかで、生贄に供されるものの目を潰すという仮設を述べた。日常生活では穢れの指標となる身体の欠陥が、祭儀の空間では秩序を超えた聖なるものとなる。これを創造的混沌といってもいい。古浄瑠璃の「景清」では頼朝の命を狙う景清はらい者となり、説教節の「小栗判官」では餓鬼の姿で再生した小栗判官は荒人神に転生する。穢れと聖なるものの混沌の世界である。河原や境界の地に建てられた道祖神や地蔵、石塔(卒塔婆、五輪塔)の多くが、念仏聖や修験者・山伏によって行われた御霊祭祀の遺物といわれる。朝廷の疫病退散のための疫神祭(道饗祭)が洛外の十処で行われ、そのなかで逢坂山に住んだ盲目の王子「蝉丸」は琵琶法師の職祖といわれる。今昔物語の蝉丸は平家物語では醍醐天皇の第4王子とされた。平家物語は平清盛の悪行を糾弾する物語であるが、卷六「慈心房」において、清盛は天台座主良源の生まれ変わりで白河天皇の皇子とされている。悪行と利益、貴種性が同時に語られるのである。そして「伊勢の平氏はすが目なり」とはやされるように、異形の皇子清盛の悪の物語にはじまり、平家滅亡と安徳天皇の鎮魂に終る平家物語、霊威激しい御霊の語りとして発生したのだ。中世では地神の祭祀が平家を語る琵琶法師によって行われた。母なる地霊は大地に豊穣をもたらす水の女神であり竜女形であった。それは弁財天と同一視され、平家物語「灌頂卷」では建礼門院が竜女=弁財天のメタファーが重ねあわされる。平家物語は戦記文学と見れば源平の戦いの記録であり、御霊信仰からみれば、安徳天皇と平家一族へのレクイエムである。琵琶法師はその霊に仕える語り部であった。

4) 権力のなかの芸能者 鎌倉から室町期

平家物語が生まれつつあった鎌倉時代には、琵琶法師は声聞師らと同類のまたはそれ以下の下級の宗教芸能民として、各地の有力寺社の支配と庇護下にあって活動していた。比叡山延暦寺、天台三門蹟のひとつ青連院、醍醐寺、南都の興福寺などである。なかでも平家物語文字テキストの管理圏として注目されるのが醍醐寺である。室町時代の醍醐寺の僧隆源が記した書には、盲目法師了義の説として「平家双紙」の著者を吉田資経としている。南都興福寺には「南都異本」があり、筑後には「高良大社本」、備前には「平松家本」などが存在するのは、琵琶法師を抱えた寺社が各地にあったいうことである。鎌倉時代の琵琶法師は寺社や権門の配下にあって座を作っていた。東寺配下の散所法師が絵解きの伴奏に琵琶を弾いたという記録がある。説教の最末端の機構として琵琶法師の座があったようだ。久我家を筆頭とする村上源氏中院流を総称した「久我家門」は平家座頭に特別な待遇を与えた。琵琶法師をひとつに束ねた「当道座」が成立する前には、八坂方など数多くの座が存在し、八坂方は開祖城玄に由来した。八坂方は京都における琵琶法師座の一拠点であった。祇園社の祭礼に出仕し御旅所で平家物語を奉納したのが八坂方の琵琶法師である。城一の弟子に如一(覚一)と城玄がおり、ここから一方と八坂方が分岐したという。八坂方は「城○」という琵琶法師に由来し、一方は「一○」を名のる琵琶法師に由来する。1371年平家物語の最初の正本として「覚一本」が成立した。今日読まれている平家物語のテキストである。覚一は当道座の中興の祖といわれ、惣検校の初代となった人である。覚一は自分の死後に争論が起こるの恐れ、平家物語の伝承をテキストにしたという。そして覚一から定一に伝授された正本は慶一へ、相一へと伝わった。当道座が成立した南北朝から室町幕府初期にかけては、中世芸能としての平家物語が流行のピークを迎えた時期である。当道とは琵琶法師の全体を指す。平家がもてはやされた理由は、鎌倉幕府の北条家は桓武平家であり、それを倒した足利尊氏と新田義貞は清和源氏の嫡流であって、政権交代を源平の戦いの再来とみて、歴史意識がブームとなったためである。そのような源平交代史としての平家物語の受けを狙って、足利政権は琵琶法師の平家芸能と管理に興味と関心を示したのは当然である。惣検校慶一は「平家物語を清書して室町殿(義満)に進上する」と奥書に書いた。将軍家による正本の管理は、座の支配・統括権・権威の源泉が将軍家に委ねられたことを意味する。ここに琵琶法師の惣領として当道座の権威も定まった。南北朝期を境にして源氏長者の位置が村上源氏中院から清和源氏足利に移行したのが1383年の事である。当道座も庇護者を久我家門から足利将軍家へ乗り換えたのである。

5) 消えゆく琵琶法師

室町幕府の式楽として位置づけられた当道の平家も、応仁の乱で京が荒廃すると、座の中心は叡山東坂本の日吉神社と南都興福寺に移った。近世には当道座の守り神として、賀茂、稲荷、祇園、日吉神社があげられている。徳川政権の成立すると、徳川将軍家が清和源氏新田流を称することによって、平家物語があらためて源氏将軍家の式楽として位置づけられた。将軍宣下の勅使を迎える儀式には、惣検校は江戸城に出仕して新将軍の前で平家を奏する慣わしとなった。しかし幕府や大藩が召抱えたのはトップクラスの検校だけであり、一般の琵琶法師は琵琶を三味線や琴、胡弓に持ち替えて、按摩や針灸業になったようだ。江戸幕府の身分制は各種の制外身分の取り締まりを強化し、当道座が全国の盲人支配の一元化をおし進めた。三代将軍家光に召され四代将軍家綱の扶持検校となった岩舟城泉は西日本の盲僧を当道座に集約した。被差別民であった座頭は権威を着てさらに低い身分の民を差別するために、交わってはいけない筋をもうけた。猿楽、舞い舞い、役者、船大工、猿ひき、渡し守、かわらつくり、面うち らの職業民とは永代忌筋とし、4段階に忌む職業を定めた。被支配者身分としての農工商のさらに下にアウトローとしての被差別身分を作り出していった江戸幕府の支配体制の相似形ともいうべき、近世当道座の身分制度であった。地紙祭や荒神祓いなどの宗教祭祀に携わった中世の琵琶法師は、16世紀末ごろから三味線稼業へ転向した。浄瑠璃を語り三味線を弾く有様となった。平家語りが時代に取り残され、琵琶法師は新たな芸能に活路を求めた。三味線を伴奏楽器とする奥羽の「奥浄瑠璃」や西日本の「浄瑠璃」、「小歌」、「端唄」であった。しかし西日本では琵琶法師の段もの伝承語りが残った。そういう意味でも山鹿良之氏は最後の琵琶法師であった。彼が得意とした段物伝承には「あぜかけ姫」「俊徳丸」がある。


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