090403

岩井克人著 「貨幣論」

  ちくま学芸文庫(1998年3月)

マルクス「資本論」の価値形態論から貨幣の秘密を読み解き、資本主義の危機を見通す

本書は経済学論文ではないが、系統的に貨幣を論じた書として面白かった。本書は1991年から1992年まで「批評空間」に連載された論文集を1993年3月筑摩書房が刊行したものである。そして1998年1月にちくま学芸文庫本となった。「貨幣とは何か」という抽象的な問いをマルクスの価値形態論から読み解く作業である。貨幣にもし本質があるとするならば、逆説であるが「貨幣には本質がないこと」なのである。貨幣の裏に何か実体を求めようとすると、貨幣を失ってしまう。貨幣商品説も貨幣法制説も自己矛盾におちいる。ようは「貨幣は貨幣として使われ流通するものである」という答え以外にはない。抽象的には貨幣と商品との関係は、言語と事物との関係に形式的に似ている。岩井克人著「貨幣論」という本は「貨幣とは何か」という問いをめぐる考察を通じて、資本主義にとって何が真の危機であるかを明らかにした書物である。マルクス主義者や社会科学者は商品よりも貨幣を求める過剰生産、デフレや不況、恐慌を資本主義の危機と見ていたが、本当は貨幣から人々が逃げ出す「ハイパーインフレ」こそ貨幣を貨幣として成り立たせる構造を破壊し、資本主義に本質的な危機をもたらすのである。それは物々交換の時代に戻ることなのだ。これが本書の結論である。

1) 価値形態論

マルクスの「資本論」が「経済学批判」の続編として書かれ、スミス、リカードの古典派経済学を批判の対象としたことはよく知られている。マルクスの価値法則は「労働価値」に集約される。「労働生産物は、それが価値である限りでは、その生産に支出された人間労働の単に物的な表現でしかない」という実に懐かしい素朴な人間賛歌である。マルクスの表現は実に回りくどく抽象的であるので、理解のためになるべく現代風に表現してゆく。マルクスの労働価値説は真の意味での実体論である。なんせ金貨の価値まで炭鉱労働者の労働価値で表現するのだから。商品の価値は労働の社会的性格を表現するとマルクスは定義する。交換価値は価値の現象形態に過ぎず、価値ではないという。古典派経済学のリカードの「価値体系」はマルクス以上に洗練された形で「すべての商品の価値が、それぞれの生産に必要な労働量の相対比率によって原則的に規制される」という。マルクス経済学も価値学説においては古典派経済学を完全に踏襲している。ワルラスの「一般均衡理論」は価値体系論としてはマルクスより比較にならないほど進化している。それは資本主義社会を数多くの市場のネットワークとしてとらえ、すべての市場の需要と供給を同時に均衡させる価値体系の存在を証明した。しかし古典派経済学において、貨幣は商品流通のための単なる潤滑油、道具、媒介物という役割しか当てられていない。スミスは当時の重商主義者を重金主義者として批判するだけで、貨幣の神秘については考察していないのである。マルクスにとって金銀という商品が、モノとしての自然形態において、ほかのすべての商品に対する一般的等価物という機能を持っている事が神秘であった。金銀を貨幣という社会的な存在に仕立て上げる商品社会の存立構造に思いをめぐらせた。

そこでマルクスは商品交換に4段階の価値形態がある事を解析した。A) 「単純な価値形態」、B) 「全体的な価値形態」、C) 「一般的な価値形態」、D) 「マルクスの貨幣形態」で、マルクスは貨幣がすべての商品の交換に用いられる価値形態を明らかにしたつもりでいた。しかし著者はマルクスの解析を一歩進めて、Z) 「無限循環の貨幣形態」を導入する事で、貨幣の神秘に逼ったのである。本書の最大の功績はこの無限循環の貨幣形態論にある。
A) 「単純な価値形態」 1対1の物々交換にとどまる段階である。 この売り買いが成立するのは偶然であり、困難である。    
B) 「全体的な価値形態」一つの商品に多くの商品との交換率が定まる物々交換段階である。市場が形成される。   
C) 「一般的な価値形態」一つの商品が、相対的価値形態にあるすべての商品によって一般的な等価形態という役割を演じさせられている。それ何であってもいいが、貨幣まであと一歩である   
D) 「マルクスの貨幣形態」 一般的等価物が一つの特別な商品形態が貨幣となって結晶する。すべての商品が貨幣で買う事ができ、又すべての商品で貨幣を買う事もできる。貨幣はB) 「全体的な価値形態」とC) 「一般的な価値形態」という二つの役割を商品世界の中で演じている。     
Z) 「無限循環の貨幣形態」B) 「全体的な価値形態」とC) 「一般的な価値形態」との間に循環論法が成立した。すべての商品が貨幣に直接的な交換可能性を与え、貨幣が他の商品すべてに直接的な交換可能性を与えることがお互いの根拠になっているのだ。 
商品世界全体の立場から見れば、それを一つの商品世界として成立させる役割を果たしているのは、個々の商品ではなく貨幣の力である。価値形態論はマルクスの論理から離れて、あの労働価値学説そのものを一切必要としていない。マルクスは滑稽にも金貨の価値に採掘労働価値を無理やり導入している。そして「貨幣は商品である」という論理の一貫性を繕っているが、これは笑いものである。

2) 交換過程論

人間が価値体系としての商品世界をどのように作ったかがこの章の課題である。商品と商品との交換には交換相手を探すという本源的な困難が付きまとう。交換が成立するのは偶然かもしれない。マルクスは「商品交換がその局地的限界を打ち破り、商品価値が人間労働の物質化に発展してゆくには貨幣形態を必要とする」と述べているが、商品世界を成り立たせる「交換過程」には貨幣の存在が必須であった。貨幣論の長い伝統には、「貨幣商品説」と「貨幣法制説」の争いがあった。古代ギリシャ、ローマ法や中世スコラ学派の貨幣論は法制説に近かったが、重商主義から古典派経済学では貨幣商品説が主流であった。マルクスも当然この貨幣商品説に連なる。貨幣商品説の致命的問題はZ) 「無限循環の貨幣形態」論で述べた。20世紀に不換紙幣の流通によって法制説が主流となった。ところが歴史的には国家から貨幣として制定されながら流通しなかった幻の貨幣は極めて多い。結局貨幣という存在は自らの存在根拠を自らで作り出している存在で、B) 「全体的な価値形態」とC) 「一般的な価値形態」の宙つり的構造に支えられている。流通しなければ貨幣ではない。流通すれば金でなくてもよい、紙でもいいのだ。

3) 貨幣系譜論

マルクスは「貨幣は一定の諸機能においてそれ自身のたんなる記号によって置き換える事が出来る」という。これをマルクスの「価値記号論」という。まさにマルクスは出発点であった「労働価値論」をかなぐり捨てた。実際金貨の名目純度と実質純度が乖離している状況では、金貨に打ち込まれた値はたんなる記号または象徴に転化されるのである。悪鋳金貨、摩滅金貨が流通し、さらに銀や銅、鉄などの補助貨幣、そして紙幣が兌換保証のもとで流通し、最終的に不換紙幣が流通し始めると、金貨は現実の商品世界とのつながりを一切なくするのである。それでも金本位制があったころ、紙幣の発行数は保有金塊の量を出てはいけないことになっていた。これを「紙幣流通の法則」といい、兌換制をとるかぎり1対1の対応がとれていないと金に交換できないからだ。しかし兌換準備「金」を用意しないでも国はそれこそ無制限に紙幣を印刷する。金の2倍の紙幣を発行すれば紙幣の価値は半分に下がるはずである。そして紙幣は紙切れになるのだが、それでも「紙幣は流通するから価値を持つ」のである。一枚の兌換紙幣を手にする人も受け取る人も金という実物にめぐり合わずに直接紙幣と商品の交換を行っている。

4) 恐慌論・危機論

物々交換経済においては、需要と供給は完全に一致するという「セーの法則」が成立していた。しかし貨幣のある世界とは「セーの法則」が成立しない世界である。貨幣は耐久性があるので蓄える事が出来る。貨幣とは交換媒体であると同時に最大の流動性を持つ価値の保存手段でもある。貨幣は利子や配当を生むのである。これをケインズは「流動性選好」と呼んだ。「流動性選好」が貨幣の商品化を生み、それ自体であたかも商品であるかのように流動性選好という人間の欲望の対象となった。マルクスは貨幣が流通せずにいると需要は供給より少なくなり、自ずと「セーの法則」は破れる事を指摘した。時間的なずれによって需要と供給が独立した動きをすることを可能とし、市場の相対的な不均衡から全般的な不均衡の発生となると、「恐慌の可能性」が見出される。この可能性を説いたのがヴィクセルの「不均衡累積過程」である。全般的な不均衡の場合、個々の商品市場の相互依存のネットワークが価格の調整という均衡化への傾向を阻害するため、物価は連続的に勝無制限に下落し続けるのである。これは今ではデフレスパイラルという。「見えざる手」は全く働かないのである。

ところが、ヴィクセルの「不均衡累積過程」が予言するほどには資本主義社会の構図はそれ程破滅的ではない。ケインズは「かなりの期間にわたって正常以下の水準で活動し続けることができる」という。それは逆説的に「見えざる手を部分的にでも縛り付けておく」ことで経済全体の安定性を確保することが出来るというのだ。労働者の賃金を下げるのは抵抗が大きい事と、経済全体の低下傾向の何倍もの量と速さで企業は生産量と雇用水準を減少させるからである。これをケインズは「乗数過程」と呼んだ。又中央銀行を国家の統制下におくことで金利を管理するのが国家のできる唯一の対策である。

マルクス主義者や社会科学者は需要縮小に伴う過剰生産、デフレや不況、恐慌を資本主義の危機と見ていたが、本当は貨幣から人々が逃げ出す「ハイパーインフレ」こそ貨幣を貨幣として成り立たせる構造を破壊し、資本主義に本質的な危機をもたらすのである。好況は物価や賃金が上昇する事であるが、適度の上昇であれば人々は歓迎する。しかし商品全体にたいする総需要が総供給に較べて増大すると、インフレ的熱狂になる。これがヴィクセルの「不均衡累積過程」によって連続的に無際限に進行すると、資本主義にはこれを抑える力が内部には存在しない。流動性選好は縮小してインフレを一層加速する。そして貨幣からの逃走が始まる。これを「危機」と呼ぶ。資本主義は貨幣への期待をなくして崩壊するのだ。これまで「ハイパーインフレ」は開発途上国でよく起きたが、ドルという信用にリンクする事で回避できた。問題は世界基軸貨幣であるドルを中心とした「ハイパーインフレ」は救いようが無い。これこそが資本主義の真の危機なのだ。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system