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岩井克人著 「ヴェニスの商人の資本論」

  ちくま学芸文庫(1992年6月)

「ヴェニスの商人」を資本主義システムの登場と読む 貨幣をめぐる経済学的思考

岩井克人氏を紹介する。氏は東京大学経済学部を卒業後、アメリカに留学中(MIT、UCB、イエール大学)は数理経済学を専攻したが、しだいに経済学者では扱わない前経済学の研究にのめりこみ、不均衡動学に関する研究において新古典派批判に転じる(『不均衡動学の理論』 岩波書店)。同書により、日経・経済図書文化賞特賞を受賞した。「ヴェニスの商人の資本論」で評論家デビュー。「貨幣論」でサントリー学芸賞、「会社はこれからどうなるのか」で小林秀雄賞。多数の雑誌に執筆し、人文科学系の評論家としても影響力を持つ。1989年より東京大学経済学部教授である。

この恐ろしく憂鬱な衒学(玄学)者のいいところは決して数百ページを超す長大な論文を書かない事である。だから私ら如きにも読めるのである。しかし短くても難しい内容である。ちくま学芸文庫に寄せる岩井克人氏の経済学講義禄は、「資本主義を語る」1997年(単行本は1992年)、本書「ヴェニスの商人の資本論」1992年(単行本は1985年)、「21世紀の資本主義論」2006年(単行本は2000年)、「貨幣論」1997年(単行本は 年)の4冊がある。この4冊の資本主義論を乗りかかった船とばかりに読んでみようという気にさせてくれたのは、その軽妙で多彩な話術にある。逆説の論理構造をこよなく愛し、語る言葉は決して対象と対応関係を持つ事が出来ないという不可知論的なことをいう。そして対象の周りを徘徊してはぶつぶつと小文を書くのである。貨幣経済は本質的に非均衡的ハイパーインフレやデフレ、恐慌を生むという説は、「神の手」になる市場経済安定論の虚構を暴いて、2008年秋の世界金融大恐慌を見るにつけ、現実のダイナミックな資本主義経済の実体を反映しているようだ。

本書「ヴェニスの商人の資本論」は1981年から1984年に書かれた非専門家的文章を集めたもので、氏の最初のエッセイ集である。本書は第1部:資本主義、第2部:貨幣、第3部:不均衡動学、第4部:書物に分かれている。一応各文章には関連性は無く独立したものだが、筆者の興味はいつも同じであるのでどうしても関連している。それは「資本主義という逆説的な社会機構の根底にある貨幣という逆説そののものについて語る事」である。10ページ以下の小文はカットし、第4部の書物も本書の経済学の本筋から離れるのでカットした。そこで以下の8つの文章についてまとめる。「ヴェニスの商人の資本論」のみが書き下ろしで、あとのエッセイは1982年から1984年までに発表された文章の収録である。

1) ヴェニスの商人の資本論

シェークスピアの名作「ヴェニスの商人」は16世紀末1597年ごろの作品といわれる。喜劇の戯曲に分類される。作品は4つの物語で構成される。有名な人肉裁判において頂点に達するアントーニオとシャイロックの対立抗争の話し、3つの小箱によるポーシャの婿選びとバッサーニオの求婚の成功譚、ジェシカとロレンゾーとの駆け落ちの話し、ポーシャとバッサーニオの指輪をめぐる茶番劇の4つである。本論に入る前に、「ヴェニスの商人」の概略をおさらいしておく。主な登場人物は
アントーニオ: 貿易商人。正義感が強く情に厚い。キリスト教徒
バサーニオ: 高等遊民。ポーシャと結婚する。アントーニオの友人だが、ポーシャと結婚するためアントーニオを保証人としてシャイロックより金を借りる
ポーシャ: 莫大な財産を相続した美貌の貴婦人。人肉裁判の判事役。
シャイロック: 強欲なユダヤ人金貸し。別世界のひとで、ユダヤ教徒だが、最期に改宗させられる。
ジェシカ:シャイロックの娘。キリスト教徒ロレンゾと駆け落ち結婚する。
ロレンゾ:ジェシカの婚約者。

 物語はイタリアのヴェニス(ヴェネツィア)。バサーニオは富豪の娘の女相続人ポーシャと結婚するために先立つものが欲しい。そこで、友人のアントーニオから金を借りようとするが、アントーニオの財産は航海中の商船にあり、金を貸すことができない。アントーニオは悪名高いユダヤ人の金貸しシャイロックに金を借りに行く。アントーニオは、金を借りるために、指定された日付までにシャイロックに借りた金を返すことが出来なければ、シャイロックに彼の肉1ポンドを与えなければいけないという条件に合意する。アントーニオは簡単に金を返す事が出来るつもりだったが、彼の商船は難破し財産を失ってしまう。シャイロックは、自分の強欲な商売を邪魔されて恨みを募らせていたアントーニオに復讐できる機会を得た事を喜ぶ。一方、シャイロックの娘ジェシカは純真で心が美しく、父の冷酷非道を嫌ってロレンゾと駆け落ちしてしまう。
 その間に、バサーニオは、ポーシャと結婚するためにベルモントに向かう。ポーシャの父親は金、銀、鉛の3個の小箱から正しい箱を選んだ者と結婚するよう遺言を残していた。バサーニオはポーシャの巧妙なヒントによって正しい箱を選択する。バサーニオはポーシャから貰った結婚指輪を絶対はずさないと誓う。しかし、幸せなバサーニオの元にアントーニオがシャイロックに借金返済が出来なくなったという報せが届く。バサーニオはポーシャから金を受け取りベニスへと戻る。一方、ポーシャも侍女のネリッサを連れて密かにベルモンテを離れる。
 シャイロックはバサーニオから厳として金を受け取らず、裁判に訴え、契約通りアントーニオの肉1ポンドを要求する。若い法学者に扮したポーシャがこの件を担当する事になる。ポーシャはシャイロックに慈悲の心を見せるように促す。しかし、シャイロックは譲らないため、ポーシャは肉を切り取っても良いという判決を下す。シャイロックは喜んで肉を切り取ろうとするがポーシャは続ける、「肉は切り取っても良いが、契約書にない血を1滴でも流せば、契約違反として全財産を没収する」。仕方なく肉を切り取る事を諦めたシャイロックは、それならばと金を要求するが一度金を受け取る事を拒否していた事から認められず、しかも、アントーニオの命を奪おうとした罪により財産は没収となる。アントーニオはクリスチャンとしての慈悲を見せ、シャイロックの財産没収を免ずる事、財産の半分を自分の娘ジェシカに与える事を求める。そして、本来死刑になるべきシャイロックは、刑を免除される代わりにキリスト教に改宗させられる事になる。
 バサーニオはポーシャの変装に気付かずにお礼をしたいと申し出る。バサーニオを困らせようと結婚指輪を要求するポーシャにバサーニオは初めは拒んだが結局指輪を渡してしまう。ベルモンテに戻ったバサーニオは指輪を失った事をポーシャに責められる。謝罪し許しを請うバサーニオにポーシャはあの指輪を見せる。驚くバサーニオにポーシャは全てを告白する。また、アントーニオの船も難破せず無事であった事がわかり、大団円を迎える。

岩井克人氏はこの「ヴェニスの商人」の物語を経済学的に翻訳して一人ひとりの役柄に資本主義的意味を付与してゆくのである。シュークスピアが16世紀末に資本主義を意識してこの戯曲を書いたかどうかは疑わしい。当時は物語にもあるように重商主義(大航海時代)であり、15世紀中ごろから17世紀中ごろまでヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの海外進出が続いた。最初はスペイン人やポルトガル人が進出したが、1588年主導権を奪ったのはイギリスの無敵艦隊であった。シェークスピアはちょうどその時海外重商貿易で活躍した商人の舞台をヴェニスに移してヴェニスの商人という戯曲を書いた。アダムスミスが「国富論」を書いたのはアメリカ独立の年1778年であった。シェークスピアが経済学を意識していたはずは無いが、経済社会情勢の変化をその身でひしひしと感じ取っていたのであろう。そこにおける新しい社会階層の変化、重商貿易による富の蓄積とリスク、中世的共同体(利子をとらない)の価値観とユダヤ人金融業者の価値観の衝突などをしっかり意識していたに違いない。シュークスピアは新しい時代の息吹きを感じ取っていたに違いない。そう理解すれば岩井克人氏の「ヴェニスの商人の資本論」はあながち強牽附会のこじつけ論や表層の一致論ではなく、実体的意味を持っているのである。

@人肉裁判におけるアントーニオとシャイロックの対立抗争
まずアントーニオとは何だろう。バサーニオやロレンゾなどとは同じキリスト教徒という兄弟盟約で結ばれる共同体社会を作っている。アントーニオは「古代ローマ人」的な盟約関係を表現している。その中では金の貸し借りは人格的なもので利子はとらない(いまのイスラム教社会はそうである)。同時に遠隔地貿易人である。マルクスがいうように「商品交換は共同体の果てるところで、共同体が共同体と接触する時点で始まる」。つまり異邦人同士のおこなう「沈黙の交易」である。共同体の構成員は相手が外部の異邦人である限り、反共同体的な商品交換を行うことが可能である。ユダヤ人の高利貸しシャイロックと何だろう。高利貸しとは共同体にとって危険な経済活動である。異邦人と非人格的で抽象的な関係の持ち方である。すなわち貨幣の社会に対する関係である。貨幣とは共同体にとってつねに外部を代表する者で、利子という貨幣の形で利益を獲得する高利貸し(金融業)に対して、共同体は自らの存在基盤を崩すものとして激しい敵意を示してきた。利子は他国のものに対してとってもいいと旧約聖書に書いてある。利子とは現在と将来との貨幣価値の差異の別名なのである。アントーニオとシャイロックの関係はキリスト教社会がユダヤ人に対して持つ異物的な蔑視であり、ユダヤ人からはそれに対する復讐なのであった。人肉裁判の争点はキリスト教共同体社会が慈悲の精神に訴え、ユダヤ人は契約(司法)の原理を主張する。この裁判の転結はポーシャという両義性のトリックスターの起死回生の論理である。契約の文章を突き詰める事で、肉と血を分けて提示し肉単独で取り出すことの不可能性でシャイロックの負けを宣言する。シャイロックの財産の没収、キリスト教徒の慈悲によってシャイロックのユダヤ人社会の解体を告げたのだ。最期にはシャイロックのキリスト教徒への改宗まで命じる。キリスト教社会も慈悲という論理で裁判に勝ったわけではなく、ユダヤ人の司法の論理(詭弁)で勝ったのである。結局キリスト教共同体もユダヤ人社会もいずれも裁判に負けているのだ。シャイロックの娘ジェンカもポーシャに似た両義性の変幻自在のトリックスターである。ユダヤ人社会とキリスト教社会の間の交換である。娘ジェンカがシャイロックの財産を持ってキリスト教徒のロレンゾーと駆け落ちするのは、ユダヤ人の財産の移動である。娘=金と読めばいい。高利貸しの死蔵する貨幣を広い市場の中へ開放することによって流通する形態に転換する行為であった(アメリカが日本の死蔵する財産を狙って、金融ビックバンで市場開放を要求したと同じ構図)。

Aポーシャとバッサーニオの結婚、3つの小箱の謎、指輪をめぐる物語
財産と美貌と美徳を兼ね備えたポーシャ(交易の財宝)をもとめて投資する為に金を借りるバッサーニオはまさに冒険心に満ちた真のヴェニスの商人ではないか。主人公商人アントーニオは兄弟盟約に生きる古代共同体の代表に過ぎない。死んだ貨幣を流通で生かすことが商人バッサーニオの役割であった。主人公が憂鬱なのは、すでに資本主義に乗り遅れてしまったからである。バッサーニオがポーシャを獲得する時に判断した「貨幣そのものの価値形態は無内容で単純である」ということだ。貨幣それ自体に金や銀の価値があるのではなく、あっけないほどのつまらない形(紙幣・硬貨)を選ぶ。それが貨幣の姿であり謎である。死蔵される貨幣は貨幣自体に価値があるのではなく、貨幣が貨幣であるためには流通を通じて他の商品との等価関係の中でしか生きられないのである。貨幣は無限に増殖しようとする、すなわち貨幣は資本になろうとする。利潤は商品交換においては価値体系と価値体系との間にある差異から生み出される(中国的価値で生産された商品が、欧米で高いのものとして売れるから)。ポーシャがバッサーニオに与えた結婚指輪は、指輪=貨幣と考えられる。この指輪を巡ってバッサーニオは茶番劇を演じる。お金をめぐる人間喜劇である。このようにバッサーニオやロレンゾーは貨幣=女と結婚する事によって、資本主義的な人間となる。キリスト教共同体はユダヤ人から奪い取った貨幣によって、その共同体は解体し資本主義的社会へ変質したのである。

2) キャベツ人形の資本主義 ー差異性の欲望

1980年代に流行したキャベツ人形なぞ私は知らない。要するにコンピュータグラフィック技術で世の中に二つとない表情の人形が爆発的に売れたそうである。それを題材に資本主義を考えるのが本小文である。人間のものに対する欲望とは何だろうか。人間は社会の中でしか個人になれない。人間の人間としての欲望は他者への欲望であり、物を所有するのは他人に自分を認めさせるためであるらしい。なかなか複雑な経済社会心理学だ。これを「欲望の社会化」という。模倣と差異化の欲望は同時に存在して、それは相対的な差異の存在でしかその利潤を創出しえない資本主義に根源的なパラドックスがあると云うのが結論である。

3) 遅れてきたマルクス ーシュムベーターの経済発展理論

「人間は自由自在に歴史を作れるのではなく、現にある過去から受け継いだ状況で紡ぎだすのである」といったマルクスは1883年に亡くなった。その年にジョゼフ・シュムベータ-は生まれた。いきなり結論であるが、シュムベーターはマルクスの茶番である。彼の理論とは「経済発展の理論」である。シュムベーターの前にはマルクスの理論しかなかった。マルクスは商業資本による利潤の創出は剰余価値の創造で、それは二つの閉じられた市場において成立している異なった価値体系が接触する事で可能となるとする。一方マルクスは労働者階級と産業資本家の二つの接触で剰余価値が生まれるとした。一方ワルラスの「一般均衡理論」では、完全競争状態において利潤は消失するのである。そこで資本主義における経済発展は利潤を求めて絶えず新投資を要求し、古い生産方式に死をもたらす戦乱の様相を呈する。シュムベーターは時間軸のなかで刹那的に成立する生産方式の差異が新たな差異をうみだすという一種の永久機関を生み出した。「発展がなければ利潤無く、利潤無ければ発展なし」とする企業同士の技術革新という共食いによってしか経済発展が無いとするシュムベーターの茶番である。

4) 初めての贈与と市場交換 ー反スミス的貨幣論

アダムスミスは「国富論」において、1国の富とは蓄えられた貨幣量であるとする重商主義や重金主義にたいして、貨幣そのものに価値を置く誤った考えで土地と労働からの生産物こそ一国の富であると宣言した。そして近代経済学は国富論から始まった。生産物とは今でいうGDPに他ならない。だが問題は金融資産である。株式、債券、貨幣は発行者と買い手の間に資産と負債が打ち消しあうので一国の富の中には勘定しない。ところが非兌換紙幣は発行者たる中央銀行にとって返済する義務は無い債権である。銀行券を所有する者にとって決して返済を期待しない貸付に等しい。それはすなわち一方的な「贈与」である。不等価交換の痕跡みたいなものだ。兌換紙幣の時代でも取り付け騒ぎが起らない限り「贈与」である。金貨・銀貨の時代でも額面と実質価値との乖離すなわち悪鋳・改鋳は為政者の「君主利権」であった。金塊・銀塊においても隠れた不等価交換が存在する。それはマルクスが解析した有名な鉱山主の利潤である。これらの不等価性はすべて「贈与」である。この関係はホッブススの「社会契約説」に述べられた「一個人や合議体に、自分らの権利を譲り渡してしまう」ことである。豊臣秀吉の「刀狩」である。権限を委譲したはずの政体が恐慌政治になる事はしばしばである。そんなはずは無かったのにと臍を噛んでもあとの祭りである。構成員の全人権を奪い命さえも奪うもモンスターに化けるのだ。経済では初めに「贈与」ありきは、はじめに不等価交換、いや搾取による剰余価値があったことだ。市場交換の逆説「恐慌」の可能性がいつも存在するのだ。

5) パンダの親指と経済人類学 ーカール・ポランニュー

機能から起源を導く事は出来ないとする進化論の例として、著者はパンダの前足(手)の6本目の指を話題とする。これは指ではなく手首の骨(種子状橈骨)に過ぎないが、パンダはこれを指のように進化させて使っているというものだ。従って後足(足)には6本目の指は無い。貨幣の起源についても現在の貨幣の機能の一つ(交換の手段、価値尺度、価値の貯蔵手段)の原始的形態だという論は当てはまらない。経済人類学者カール・ポランニューはスミスの貨幣交換起源説は誤謬だと断じた。ギリシャでは貨幣は名誉のメダルであったし、古代ゲルマン人社会では部族の統一を図る魂であったという。漫画でよくでてくる原始人が大きな穴あきの石を担ぐ姿があるが、あれもやはり霊魂儀式であったのだろう。市場経済の単なる未発達形態ではなく、それぞれ独自の目的や存立構造を持っていたというのだ。古代の経済活動を支えていたのは、利潤や効用といった合目的な行動ではなく、互酬性の原理や再配分の機構を呪術的、宗教的、儀式的、威信的、政治的に動機付けしたさまざまな形態の社会制度なのである。経済はいわば社会に埋め込まれていたという。市場経済は帝国主義のように、普遍性をもって「自己調整的システムとしての市場経済」や「合理性の手段としての市場経済」といって支配するものだろうか。「自己調整的システムとしての市場経済」とは虚構ではないか。著者が唱える「不均衡動学」は市場経済が何らかの安定性を有するとすれば、それはさまざまな経済外要因(生活保障や労働法など)によって、資本が合目的行動を取れないためではないだろうかという。市場経済とはアメリカが要求するような完全に国を機能不全にした自己調節的(自由主義)ではありえない。それは直ちに大恐慌と不安定な社会を実現する。

6) マクロ経済学の「蚊柱」理論 ー長期失業の不均衡動学

私は見たことはないが、「蚊柱」という現象は蚊の群れが全体として一つの秩序ある塊として行動しているように見えることである。塊の中では蚊は出たら目にぶつかり合って不規則に飛んでいるにすぎないのだが。これを経済活動に当てはめると、一つ一つの経済主体がバラバラの判断と行為を繰り返しても、マクロ(統計的)にみるとケインズ的様相は失われないのだということを著者は主張する。労働雇用と貨幣賃金の関係はマクロ経済学ではケインズ的非自発的失業問題となる。総生産量と完全雇用水準はつねに一致しないのだ。貨幣賃金が均衡水準より高くなると非自発的失業が発生する。ケインズは短期的には政府が財政金融政策を発動し有効需要水準を高めれば同じ賃金水準でも労働の供給と需要は均衡するという。しかしケインズには長期の失業問題はなかったようだ。ワラルスのせり市場では労働市場はすみやかに解消されるはずであった。企業では人件費は材料費のように生産量に比例する比例費ではなく、直ちに首を切れなければ間接費となる性質である。新古典派にとって労働市場は典型的に買い手独占市場なのである。派遣社員制度はまさにこの目的で導入された制度で、人件費を比例費扱いする考えで、しかもかない安い賃金に押さえるものであった。企業家にとって魔法の杖である。ミクロ的には賃金の調整は経済動態の動きとはずれるもので需要と供給は一致しない。個々の企業のミクロ的不均衡が統計的にはマクロ的均衡となる。賃金インフレ率の上昇は長期において失業率を減少させる効果を持ち、いわゆるフィリップス曲線が成立する。非自発的失業が長期においても経済問題であり続け、長期においてもインフレ率とマイナスの相関を持つのである。

7) 経済学的思考 ー対立概念の葛藤

この論文は1983年東大経済学部主催の「近代経済学とマルクス経済学会議」での講演記録である。経済科学の誕生はフランソワ-・ケネーの「経済表」の発見だとされるのが通説である。複雑な経済循環のなかに貫徹しているはずの自然法秩序(科学)を考案したのが経済表である。自己完結的な経済秩序(経済調和の原理)の存在に関する科学である。アダムスミスの「国富論」の役割は、ケネーの自然法秩序を「見えざる手」のはたらきによって安定的な構造に組み直すことであった。アダムスミスは乱高下する「市場価格」はいつかは「自然価格」に収斂してゆくものだという。その後の経済学にこの市場価格と自然科学という概念は引き継がれ、リカードの自然価格とは労働価値によって規定されるとした。マルクスも「生産価格」と「市場価格」という概念で引き継いだ。結局新古典派経済学の理論的努力は一般均衡価値体系の安定性の条件を見出す事に費やされた。このように経済学は「自然価格」と「市場価格」といったり、「均衡価格」と「不均衡価格」といった対立概念を軸として経済的現象に関する理論を構成する思考様式であった。「自然」、「本質」、「実体」、「純粋」・・・を「真実」の姿として、「仮象」、「偶然」、「人為」、「不純」・・・を「誤謬」とする二律排反のジレンマに苦しんで統一解を見出そうとするのである。「市場原理」の均衡論に楔を打ち込むのが「経済外要因」である。経済外要因の特権的な位置は労働市場を規制するさまざまな制度的要因である。この経済外要因(政府介入や規制)を排して純粋に「市場原理」だけで行こうとするのがアメリカ流新自由主義のやり方である。新古典派経済学にせよマルクス経済学にせよ、その経済学的思考自体を解体するのが貨幣をめぐる本源的な不均衡に関する思考である。「供給は自らの需要を作り出す」というセイの法則は貨幣を除くすべての商品が供給過剰になる可能性を否定するのだ。マルクスはセイの法則を批判して商品流通は売りと買いの必然的な均衡を生じると考えるのは馬鹿げているといった。すなわち恐慌の可能性を示唆したのである。貨幣経済においてセイの法則を否定するのが、新古典派経済学の集大成をしたヴィクセルの「利子率」であった。アダムスミスの「貨幣は交換の手段に過ぎない」ということは「貨幣の中立性」として表現された。そこでは「価値理論」と「貨幣数量説」に2分され、「実物変数」(相対価値)と「名目変数」(物価水準)を別々に決定するというものだ。ヴィクセルは貨幣需要と財の供給の相対関係を変数利子率で考察した。二つの利子率が一致する均衡は偶然的なもので、価格が累積的に変動する不均衡こそ経済の状態であるといった。ではなぜ貨幣の不均衡経済が自己破壊にならずに済んでいるのはなぜだろう。それは貨幣賃金が下がることを抑制する力が働いているからである。是によって経済は安定する。失業、インフレを抱え込んだ景気変動はまさに不均衡的世界なのだ。貨幣の不均衡は消えることは無い。

8) 知識と経済不均衡 ー合理的経済人の行動と予知

この不確かな貨幣経済変動を読むとために人間は知識獲得のための精神活動をおこなうのであるが、いつも貨幣不均衡は読み得ない。後付けの理由をいうのが経済評論家で、いままでの歴史的不況を予言した人はいない。昨年の金融崩壊を正確に予言した経済人はいない。「合理的経済人」と云う神話から脱却をしなければならない。今「神経経済学」などという怪しげな「心理経済学」が横行している。人間の知識を外界の摸写と考える素朴な経験主義者では経済人はやってゆけない。人間はいつも経済モデルを作っては失敗し、失敗から学んでモデルの改定を行う。これが適応というものだ。この内なるモデルと外界が葛藤している限り、知識獲得と予想形成の活動は不均衡である。近年シカゴ学派の経済学は「合理的予想形成」の仮説を言い出した。適切な経済理論に基づく予想は可能とする作業仮説であるが、そもそも貨幣経済の不均衡が存在する限り、企業の予測(需要に基づく価値設定)はいつも裏切られる。そろそろ経済学の合理性信仰から覚醒しなければならない。


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