090317

北山修・橋本雅之著 「日本人の原罪」 

  講談社現代新書 (2009年1月)

古事記 イザナキの「見るな禁止」を破って「見畏み、逃げましき」が日本人の原罪だ

北山修氏といえば私たちには、1970年代のフォークソング時代を代表するグループであるザ・フォーク・クルセダーズやシューベルトの一員で作詞家であったという記憶が優先する。小さな橋田のりひこ氏の横に立つ背の高い痩せた青年であったと記憶する。有名な曲として「戦争を知らない子供達」、「帰ってきた酔っ払い」、「風」、「花嫁」、「さすらい人の子守唄」などがあり、氏は当時フォークグループのメッカであった京都出身で、京都府立医科大学の学生であった。グループ解散後は医者になったという噂しか知らず、長い間私の脳裏から消えてしまっていた。それから30年以上たって先日ふと本屋の新書コーナーを覗いていたところ、氏の著作になる本書を見出して早速読んだ。本書の末尾のプロフィールを見ると、北山氏は京都府立医科大学卒業後、イギリスロンドン大学精神医学研究所でフロイトの精神分析学を研修し、帰国してから北山クリニックを開業、現在は九州大学大学院人間環境学研究員教授であるそうだ。専門は精神分析学で、主な著書に本書の基を為す、「悲劇の発生論」、「幻滅論」、「劇的な精神分析入門」といった本がある。歌手生活から見事な本業復帰である。フォークソングは若気の至りに過ぎなかったのか、偉大な道草だったのか。いずれにせよ立派な精神医学者であられる。又その視点が面白い。精神分析者は患者個人のプライベートに立ち入って書く事は憚れるので、古事記という神話を題材にしてイザナキをクライアントにして精神分析を行い、それを日本人全体の「原罪」まで拡張するという離れ業をやってのけた。共著者の橋本雅之氏は三重県伊勢市にある皇学館大学文学部卒業して、現在皇学館大学社会福祉学部教授で、専攻は国文学、神話学だそうだ。北山修氏より11歳年下の文学者である。主な著書に「古風土記の研究」などがある。風土記や古事記を意味のある読み方を志し、北山氏の「悲劇の発生論」の「見るな禁止」論に触発され、2007年猿田彦大神フォーラムで北山氏と対談したことが、本書を生んだ契機である。

最近「鬱病」が増加しているらしい。鬱病の治療薬の進歩も著しいものがあるが、大きな問題は鬱病の精神病理をどう見るかである。大きな社会問題は鬱病患者の自殺である。いろいろな事がきっかけになるが、自殺者は明らかに鬱病という精神疾患にかかっている可能性がある。日本は自殺大国で北欧や東欧を超えているらしい。鬱陶しい北欧の鉛色の空と違って、日本は気候的には明るい日差しのもとでなぜ自殺が多いのだろうか。それはまちがいなく日本人の生き方と文化的な問題をはらんでいそうだ。時代とともに生活は変わっているが、なお日本人の背景を貫く生きにくい雰囲気の精神文化があるのだ。鬱病発生には一定のパターンが見られる。几帳面で働き者で頑張り屋さんで通してきた人が、やがて経済的・健康面・家族問題などで思い通りにはゆかないことに直面する。どうしょうもない焦燥感の矛先が自分に向かって、自責・逃避・無力感・罪悪感から自己嫌悪のような抑うつ感情になる。日本人は急いで姿を消すことで自己イメージを美しく保つという美意識があるようだ。民話では「楢山節考」の老いたる母や「おつう」、古事記のイザナミのように本当の姿や醜いところ、恥ずかしいところを見られると、自ら急いで退去することになる。ところが学校でも虐めた方に罪悪感は全くないのに、虐められた方が恥ずかしさや無力感からあっさり自殺する。このような日本的罪悪感、恥の観念は永遠の繰り返しをしている。この意識の根源を、愧じない男性神と消え入る女性神の対立として古事記の神話から読み解こうとするのが本書の狙いである。そしてこのことは現代政治にも通じており、「水に流して」反省しない為政者や「美しい日本」という虚構まで暴きだすという付録も付いている。西洋社会はキリスト教のもとで、罪の意識は幼少より教育されている。バッハの教会カンタータ BWV168「罪の決算をせよ それは恐ろしき言葉」に表れているように、人は罪を犯すものでいつも贖罪(懺悔)をしているのだ。懺悔をすれば罪は許されるかといえば、歎異抄で「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」というような循環論に陥るのであるが。ところが日本では罪はなかった事にして水に流すという、罪意識の欠如が露骨である。そのそも本書の題名「日本人の原罪」という倫理・道徳も文化も全く存在しない。それを感じたら「負け組み」に入れられるようだ。こんな無反省な国はない。それが教科書問題や歴史問題で他国と軋轢を生むのである。政治家の厚顔無恥、官僚の「無誤謬神話」などは為政者の罪意識の欠如であり、何度失敗しても恥も責任もないという為政者天国であり、塗炭の苦しみをなめるのはいつも国民である。

青木繁「黄泉比良坂」

青木繁画 「黄泉比良坂」 1903  東京藝術大学美術館蔵

上の絵は、右上に黄泉国の醜女の追撃を振り払って逃げるイザナキの後姿を描いた日本のロマン主義画家青木繁の絵である。私には醜い物を描き続けたゴヤの影響があるように思えるのだが。それはさて置き、本書のメインテーマである「見るな禁止」イザナキの罪を考えるために、古事記(上)神話より「黄泉の国神話」のあらすじを本書橋本雅之の筆によって記す。
「神代七代の最期の神であるイザナキ(男神)とイザナミ(女神)は、天上界の神々の命令によって大八嶋の国を生み、さらにいろいろな神を生んだ。最期に火の神を生んだイザナミはその出産の時のやけどが原因で死に、黄泉の国へと去った。イザナキは妻の死を嘆き悲しみ、怒りに任せて子の火の神を切り殺す。イザナミを連れ戻すために黄泉の国に旅立ったイザナキはイザナミに会い連れ戻そうとする。黄泉の国の神と帰還の相談をするために御殿に向かったイザナミはその間はどうぞ中を見ないでという御願いをするが、イザナキはその禁を破って中を覗き見してしまう。そこに腐乱死体となった妻の醜い姿を見て驚いたイザナキは見畏みて逃げ出してしまうのである。イザナミは私に恥をかかせたといって黄泉の国の醜女軍団を差し向けてイザナキを追わせるが、黄泉比良坂で口げんかをして永遠の別れとなった。黄泉の国から生還したイザナキは穢れをはらうために筑紫の日向の小門で禊をして洗い清め、その後アマテラス(天界)、月読神(夜)、スサノオ命(海)を生む。この三神に母はいない。母を慕って泣き悲しむスサノオにイザナキは怒って地の果てに追放する。」

父神イザナキの罪悪感ー愛する者を害すること(北山修)

北山修氏はイザナキの「見るな禁止」を破って「見畏み、逃げましき」の罪に30年近くこだわってきたそうだ。精神病理臨床医として人間の悲劇に寄り添ってきた彼は神話の悲劇に関心を持たざるを得ない。このなかに精神病理の症例を見るのだ。精神分析は罪悪感・倫理観の心理学である。個々人のストーリを詳細に述べなくとも人生の本質に迫ることが、精神分析の創始者フロイトが示した文化論の価値である。フロイトが神話に興味をもったのは「神話が諸国民全体の願望空想の歪曲された残滓、若い人の現世的な夢」であるからだ。また分析心理学のユングは神話を生み出す場所として、個人の無意識の下層に集団的無意識があると仮定した。したがってフロイトの忠実な弟子である北山修氏が「悲劇の発生論」で「罪論」を展開し、ユングの忠実な弟子河合隼雄氏が「昔話と日本人の心」で「恥論」を展開するのはそれぞれ当然なことである。日本の精神分析の父といわれる古澤平作氏は罪悪意識の考察で「阿闍世コンプレックス」理論を生み出し「母なるものに対する幻滅と罪悪感」を論じたのである。

精神分析はギリシャ悲劇「エディプス王」から広まった近親相姦や父親殺しという三角関係から生まれる罪悪感を問題にした。私という第1者が第2者(父、母)との相克に対して、第3者が禁止という倫理で律するのであるが、この第3者は自己の中にいる超自我であり、規範・道徳・倫理観である。第1者を精神疾患を持つ患者として、悩みの克服という治療に精神臨床医という第3者が入り込むのである。したがってそこにはいつも治療者の失敗という要素が入り込むから医者は注意と経験が必要なのだ。早期母子関係に革新的な内部発生の罪悪感を提出したのがメラニー・クラインであったという。次子が生まれた時の長子の幻滅・喪失感と母親への攻撃性は分りやすい例である。専門用語では「妄想分裂ポジション」とか「抑うつポジション」というらしい。幻滅のプロセスはゆっくりであればPTSD(心的外傷)にはならないのだが、見るな禁止の場合の幻滅は急激で外傷的なのだ。しみじみと体験される罪悪感とは内生的にその責任を納得する「抑うつ的な罪」とされ、心の痛みとなる。しかし急激な幻滅の場合、その罪を他のに転換しそして逃げれば罪がおいかける「迫害的な罪」となる。イザナキや娘道成寺の安珍がその好例である。ところが日本ではあっさりと罪をみとめしまう潔い美学があり、罪が見えにくくなっている。そして神話では罪を穢いものとして排除する不潔恐怖症的な道徳観念が描かれている。

日本の神話や昔話には夕鶴の「おつう」のように献身的に尽くして消える「自虐的世話役」という存在がある。美しくはかなく燃えて散るように消え行くものに限りない同情を寄せるのが日本人である。親子で昔話を読む習慣を発達心理学者は「共同注視」として重要視しする。その消え行く原因を作った者の罪を教えないのもまた日本人である。イザナキの多くの子作りで妻を産褥死させ、死を受け止めず身勝手な再生を願った罪、妻を機織に酷使し過労死させた夫の罪がその本質であったはずなのだが。古事記イザナキの神話と夕鶴には「見るな禁止」という共通項がある。妻の醜い姿・哀れな姿を見るなという禁を犯して見てしまう罪である。見るのは良くないというより、むしろ見たあとの態度である。急激な幻滅であわてて逃げ出すとか、呆然と立ち尽くすのみではいけないのだ。過剰反応的なほど献身的に働いていた者が急に不治の病に襲われると悲劇的に退去する可能性は臨床的に良く見られる。どう考えてもこれらの物語で残された男の問題は、生産的で豊でありながら傷ついて死ぬ妻に対する「すまない」の処理にある。死を穢れとみて払い禊をすれば自分の罪は免れるという根性は救いがたい。死や退去の原因を作った男の罪は神話や昔話では問題にされず、情緒的に美化されている。「見るな禁止」を破るのは男性的自我で、「対象喪失」に時間をかけて痛みを処理する事をしないで、急激な幻滅に驚いて反発し穢れたといって逃亡するのは男の身勝手である。つまり体験の未消化である。臨床では見る側の(イザナキ)の問題、中でも罪悪感を時間をかけて消化してゆく過程である。

この日本の神話と民話の悲劇的な終りかたは際限もなく繰り返される。精神科医は治療者としてこの長年変わらなかったストーリの悲劇をハッピーエンドに持ってゆかなければならない。現代精神分析では自虐的世話役「おつう」が、相手「余ひょう」を幻滅させても生き残り、立ち去らないで、「余ひょう」を変えなければならない。急激な幻滅と悲劇の台本に気がついて押し付けられた役目から降りてしまうことである。相手に対しては自立心や自覚に訴えて自己治癒に向かうのである。立ち去らない「おつう」と逃げない「イザナキ」が必要なのだ。イザナキはイザナミの死に対して「すまない」を噛みしめなければならない。もがりの期間とは魂が死者の体から離脱するまでの時間を指し、心理的には対象喪失を納得するまでの期間である。最近「悼む人」という小説や「殯の森」、「送り人」という映画が評判になっているが、これは単に霊的なことをいいているのではなく、残された人の心理のことを言っているのだ。「セラピスト」、「世話役」、「保護者」、「援助者」、「マネージャー」、「管理人」という役柄が治癒者に求められるが、治癒者の陥りやすい矛盾(二重拘束や権威的上下関係など)が患者の幻滅に繋がりやすいのでそれにもつきあわなければならない。日本語には主語が不明確で誰が責任を持つのかはっきりしない。原爆碑に記された「過ちを繰り返しません」とは誰が責任を感じているのだろうか。アメリカか日本の為政者それとも被爆者なのか、これほど簡単なことでさえ主語を明確に記さない事が日本人の(外国人には信じられない事だが)長年の悪癖である。誰も責任を認めないのは恐ろしいことではないか。この果てしない神話的悲劇を変えるのは、イザナキの罪意識と耐える包容力なのである。人は皆、鶴の「おつう」のように傷ついた動物である。私たちも精神を病んだなら、病人である事を認め、依存して、人の世話を受けて、治療を受けなければならない。こういう日本人の態度を改めれば、隣国との歴史問題も環境問題も後期高齢者問題も改善するはずなのである。

古事記神話への道案内(橋本雅之)

本書は第3章で古事記上巻の神話篇を解説があるが、岩波文庫 倉野憲司校注「古事記」(1963年版)が完璧で平易な読み下し文であるので参照していただきたい。そこで第2章の「古事記神話への道案内」だけをまとめる。橋本雅之氏は日本神話の意識構造を話題にされている。古事記は上巻で神話時代を、中卷で神武天皇から応神天皇まで、下巻で仁徳天皇から推古天皇までを扱っている。古事記はいうまでもなく文学書ではなく、政治的に奈良時代の天孫系皇統の正統性を主張したものだが、題材は種々の豪族の物語を借用している。だから神話学としては格好の教材になるのである。天下りとは官僚の専売用語ではなく、太古の昔から天皇の系統が恐らくは中国の圧迫を受けた朝鮮半島からの亡命王族の流れであることを暗示している。日本を上から見る視線が如実である。比較神話学が盛んであるが、部分的に似ている点を抽出して由来を言われてもピンとこない。別に成書があってそれを写したわけではなく、言い伝えをそのまま記したに過ぎないから、いろいろな神話が流入したかもしれないし、人間の考える事で偶然一致する場合もあるので良く分からない。だから比較神話学ではなく、神話の意識構造を問題にして、倫理観や罪悪感にある日本人の精神構造を問題にするのだ。イスラム宗教学者の井筒俊彦が「共時的構造化」なる手法を言い出したが、橋本氏は神話・昔話・現代の話しの時間軸を無視し、キーワードで同一平面に並べて共通した深層意識を浮かび上がらせて日本人の意識構造をみるのである。

神々が異界へゆく物語には、イザナキの黄泉国行き、アマテラスの天の岩屋隠れ、大国主神の根の国行き、火遠理命(山幸彦)の海神宮行きがあり、いずれも帰還して再生をするという成功パターンである。イザナキの黄泉国行きと火遠理命(山幸彦)の海神宮行きには「見るな禁止」のタブーが存在する。河合隼雄氏は「鶯の里」で、タブーを犯されたほうが淋しく立ち去るという「恥」、「原悲」という情緒的な日本人を読むという特徴がある。北山修氏は「悲劇の発生論」で、急激な幻滅体験で禁を破ったほうの罪意識の問題を捉えた。橋本雅之氏は「現代神話群論」でタブーを破ったほうが決して罰せられないのはなぜかを問題にした。「美しい日本」という安倍元首相の情緒的言説は、美しい面と醜い面を持つ日本の政治状況を、醜い面は隔離して隠しなかった事にしようとする政治的陰謀である。イザナミの美しい豊かな母性を子作り(国作り)に酷使して健康を害し産褥で死なせ、腐敗した死体を見ては穢れを感じて禊で罪を洗い流して終わりにし、次の飛躍(国作り)に備えるとい身勝手な日本人の精神文化が日本の原罪であるという。日本人の原罪はアダムならぬイザナキにあるという大胆な説である。そもそも原罪など感じたこともない日本人に説いても馬耳東風であろうが。「見畏み逃げたまいき」は「すまない」ことを「済ます」という心的な苦痛の処理法である。この国の謝罪とは水に流す事である。橋本氏は、長きにわたって隔離され隠された「罪」を原罪と呼び、この国の神話を書き直そうという。これは天皇の戦争責任追及と憲法改正よりも先にやらなければならないのである。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system