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アーネスト・サトウ著 坂田精一訳 「一外交官の見た明治維新」 

  岩波文庫(上・下)(1960年9月)

明治維新期に滞在した英国外交官の見聞録 外国人から見た明治維新

アーネスト・サトウとは日本人二世ではない。生粋のイギリス人外交官の名前である。アーネスト・サトウの原著「日本における一外交官」は1921年にロンドンで出版された。サトウは合計25年も日本に滞在した青年外交官であった。一度目の日本駐在は1862年ー1869年の幕末から明治維新までの期間で本書の叙述内容をなし、二度目の駐在は1870年ー1883年の明治政府の体制作りの時期、三度目の駐在は1895年ー1900年の日露戦争前夜の日英同盟結成に尽力した時期であった。まさにサトウは英国が日本を極東の同盟者と位置づけて、世界政治の渦中へ日本を巻き込んだ外交政策の立役者であった。後説明になるが、日本が幕末から近代国家として独り立ちするまでの、日本の保護者として日本外交の枠組みを書いた外交官であった。第2次世界大戦後サンフランシスコ講和を経て日本が自由主義経済国の優等生として世界に羽ばたくまで、アメリカが日本の保護者であったのと同じ役割を果たしたのが英国である。幕末から明治維新にかけての日本の歴史は対外関係から始まり絶えず対外関係に動かされて発展してきた。当時西郷、木戸、伊藤など倒幕の志士から、勝海舟など幕府閣僚らの相談を受け、裏で明治維新の脚本を書いてきたのがイギリス領事であった。それは無論イギリスの貿易利益最大化が目的であったが、海外列強の植民地化の脅威から日本を救ったのもイギリスかもしれない。

この著書は日本の近代化の外交史であるばかりでなく、当時の日本の朝廷や武士の風俗、習慣の見聞録、日本の旅行記、凶徒に襲われた事件禄、首切り・切腹などの刑罰への立会い、明治維新の要人との交遊録などが書かれており、実録週刊誌的な面白さが満載されている。ところがこのサトウの原著「日本における一外交官」は第2次世界対戦後まで日本では禁書扱いされており、翻訳や原本を見ることさえ出来なかったという。これは明治維新の舞台裏の機微が明らかにされることを、皇国日本は恥としたのであろう。全部自分らの力で維新をやり遂げ条約改正や外国からの軍事的経済的圧迫を取り除いたとする明治以降の外交史のストーリーに傷がつくと思って禁書にしたのであろう。サトウは日本に20年間滞在し、外交官生活を45年送ったのであるが、本書は特別に興味あるエピソードに満ちた期間(1862年ー1869年の第1次滞在期)の、天皇が統治権を回復するまでの事件に関したことを、自分の日記から抜書きしたという。原稿は1887年ごろに出来上がったが、打っちゃっておいたのを人の勧めで1921年いに完成したのだという。アーネスト・サトウはヨーロッパの特に優れた日本学者として、また19世紀末から20世紀初頭のイギリス極東政策の指導的外交官として有名である。サトウは18歳の時「御伽の国日本」の本を読んで夢を馳せるようになり、イギリス外務省の通訳生募集に応じて1961年11月に日本に向けて出発した。1862年日本の横浜港についたが、着任後直ぐに「生麦事件」が起こった。そして薩摩・英国戦争、長州と4カ国連合艦隊の下関戦争などが勃発して、日本の西南諸藩は急速に近代化を志して、尊皇攘夷から倒幕へ急速に舵を切った。幕府の無能は目を覆うばかりで西郷の武力の前に徳川幕府は簡単に崩壊した。戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦争)、江戸開城、上野戦争、奥羽戦争、函館戦争で旧支配階級は決定的に敗北し、明治新政府が1968年に成立した。この時期を外交官の目で描いたのが本書である。明治政府が成立するのを見届けてサトウは一時帰国する。1870年に再び来日し1883年まで滞在した。その後サトウはシャム総領事、1889年ウルガイ公使、1893年モロッコ公使、1895年日本公使として三度目の来日をした。1900年シナ公使、1906年イギリスに帰国し枢密顧問官、ハーグ国際仲裁裁判所の任についた。1907年引退し1929年行年86歳で逝去した。

サトウの「一外交官の見た明治維新」に入る前に、当時の政治状況を眺めておこう。サトウが日本に着任する前には、1858年に諸外国との間に修交通商条約が結ばれたが、1860年3月強権的に事を進める井伊大老が桜田門前で水戸浪士に襲撃されて最期を遂げてからは、徳川幕府の当事者能力は急速に形骸化していった。京都において「憂国の志士」による攘夷・倒幕の運動が激しくなり、いわゆる勤皇・佐幕の「テロ」が横行した。治安は極度に悪化した。そして攘夷思想から外国人も暗殺された。サトウが来日した1962年はまさにそういう時代であった。もはや誰が見ても幕府には政治的統率力はなく、治安維持能力もなくなっていた。なぜ日本人は外国人を血祭りに挙げたのだろうか。これは鬱曲した政治的パトスの変態的な発散であった。攘夷とは政治的に意味のない気分を高揚させるだけの運動と化したのである。外様大名として長く徳川家から冷遇されてきた長州と薩摩藩はここぞとばかり、幕府をいじめにかかった。通商条約締結後に外国人嫌いの天皇を担いで、「攘夷」というできもしないことを幕府に逼り、そして外国人との間に事件を起こして幕府を窮地に追いやる戦術に出たのである。その反幕から倒幕へ推進したのが、西国雄藩のァ津堂的な下層武士階級であった。長い間の参勤交代制による藩財政の疲弊によって徳川家への恨みは通奏低音のように諸藩を貫き、徳川幕府が外交上の問題で窮地に追い込まれて喝采を叫んでいたのである。江戸幕府末期には、世襲制度の矛盾が封建支配体制に抜きがたい無気力・無能を生み出し、将軍から諸侯、家老家など封建貴族の大部分が無能な傀儡(よきに計らえ)に化していたのであった。幕府は勿論、各藩の政治の実権は活動的な意欲に満ちた下級武士層の手に移った。勝海舟、西郷隆盛などが活躍できたのは、上が無能であったからだ。イギリス公使オールコックは外国貿易が必然的に日本の社会に革命を起こすことを予見していた。また西欧列強は日本が新しい政治体制に移行しない限り、諸外国との開かれた通商関係は出来ないと感じていた。サトウが日本に赴任した1962年ごろ対日外交の主導権は南北戦争に忙殺されていたアメリカから、全くイギリスの方へ移っていた。横浜での貿易は総額の85%はイギリスだけで占めていたし、全日本での貿易総額の50%以上に達していた。

サトウが着任してからの政治情勢をまとめておこう。すると個人の目でみた本書の動きよりも、全体像が見えて分りやすい。サトウが日本に来て1週間後に有名な「生麦事件」(イギリスの商人リチャードソンが薩摩藩主島津久光一行の行列に出くわして殺害されて)がおき、狼狽した幕府がイギリス艦隊に薩摩征伐を許したことが致命的な失敗になった。薩英戦争の結果、薩摩藩は攘夷がいかに無謀で欧米列強と力の差が大きすぎる事をいやというほど実感し、以降の薩摩藩の政策が一変した。これと同じような事が長州との間にも起きた。これより先に長州の京都での勢力は「七卿落ち」や1964年8月「蛤門事変」で敗退するなど全く窮地に陥っていた。加うるに長州は下関沖を通る商船を攘夷打ちしたため、4カ国連合艦隊が下関を襲撃した。下関の全砲台を破壊・占領され下関の街も焼かれたので、あっけなく長州は降参した。長州は幕府に恭順の意を表し、その間に藩政や軍政・交易政策を全面的に改め近代化をめざした改革に着手した。ところで攘夷の中心は頑迷で世界を知らない「京都の朝廷」であった。まだ通商条約の「勅許」もしていなかった。そこで欧州列強は下関戦争の幕府の賠償金を放棄する代わりに、条約の勅許、神戸先期開港、関税率の改定を要求した。4カ国艦隊が兵庫沖でデモンストレーションをしたので、将軍家茂は驚いて勅許を得た。なんだかすべての責任が幕府を追い詰めた。1965年7月イギリス公使はパークスに代わった。かれは明敏にも薩長2藩による日本の封建性打破の可能性を見抜き、新しい政府の樹立を期待ししきりに薩長との接近に努めた。一方フランスのロッシュ公使はイギリスとの貿易競争から幕府の要人と手を結んでいた。殖産施設や軍事援助で薩長2藩の台頭を抑えイギリスと対抗した。1966年薩長連合がなり、2回におよぶ幕府の長州征伐軍を破った。これで時代の流れは完全に倒幕へ向かった。高杉晋作の近代兵器と新軍隊による戦いが功を奏した。家茂の逝去と攘夷運動の元凶であった孝明天皇の逝去(伊藤博文と岩倉による暗殺という説がある)によって長州征伐は幕府側の完全敗北になった。この戦争の失敗で幕府の無力が内外に露呈され、薩長は倒幕の軍を大阪に進めた。岩倉、西郷、小松、大久保など薩摩藩の実力者が討幕軍の計画を練った。新将軍慶喜は徳川単独政権を支える事が出来ないと悟って、土佐藩主山内容堂の意見を入れて1967年11月「大政奉還」をし、1968年1月王政復古のクーデターにより慶喜の最後の望みも断ち切られた。と同時に新政府は徳川家に辞官・納地返還を突きつけて、鳥羽伏見戦争で一気に幕府軍を敗走せしめた。江戸城の無血開城は勝海舟と西郷隆盛の仲介を取ったのがイギリス公使パークスであったという。イギリスは局外中立という大義名分で他の諸国の介入を防ぎ、イギリス単独の影響力確保を狙ったのである。

アーネスト・サトウが滞在した1862年ー1869年(第1期)の日本の政治状況の年譜を簡略に記す。
1862年  9月8日 アーネスト・サトウ横浜着
       9月21日 生麦事件起こる 
      12月9日 遣欧使節竹内保蔵 江戸・大阪開港延期の交渉をはたして帰国
1863年  1月31日 長州藩高杉、伊藤ら品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ち
       3月31日 将軍家茂京都へ行く
       5月24日 アメリカ大使館焼き討ち
       6月6日  家茂攘夷実施の期限を6月25日と天皇に約束
       6月24日 老中小笠原長行横浜・長崎・函館の三港の閉鎖を通告、外国人の退去を勧告
       6月25日 長州アメリカの商船を砲撃、ついで7月8日フランス軍艦を砲撃、7月11日オランダ軍艦を砲撃、7月16日アメリカ軍艦と交戦して敗北
       8月15日 薩英戦争 薩摩藩イギリス艦隊と交戦
       9月30日 朝議で長州藩の堺町門守衛を免じ、七卿都落ち(京都の政変)
       11月15日 薩摩藩生麦事件の賠償金を支払い犯人逮捕を約束
1864年  5月2日  水戸天狗党の乱 筑波山で挙兵
       7月8日  池田屋事件
       7月21日 長州の伊藤、井上らイギリスより帰国し、横浜にオールコック公使を訪問し和平案を探る
       8月20日 蛤門事変 長州軍京都御所にて幕府・薩摩軍と交戦し敗退
       8月23日 幕府使節池田長発フランスへ横浜港閉鎖交渉に失敗し帰国
       8月24日 第1次長州征伐の勅命下る
       9月5日 下関戦争 英米仏蘭4カ国艦隊下関を砲撃
       10月22日 幕府若年寄酒井 下関事件で賠償金支払いか新港開設を約束
       12月27日 生麦事件主犯処刑にサトウら立ち会う
1865年  6月9日  第2次長州征伐のため将軍家茂江戸を出発        7月8日  新イギリス公使パークス横浜に着く
       11月4日 4カ国公使 条約勅許と兵庫開港を要求して兵庫沖に艦隊デモ
       11月24日 幕府は4カ国公使に条約勅許と兵庫開港不勅許を告げる
1866年  3月7日 坂本竜馬らの周旋で薩長同盟なる        7月25日 長州 幕府軍を破る
       8月11日 老中板倉勝清 フランス公使ロッシュに大砲、軍艦の購入を依頼する
       8月29日 将軍家茂大阪城で死去 長州征伐休戦
1867年  1月30日 孝明天皇崩御
       2月27日 遣欧特使徳川昭武 渡仏する
       3月11日  将軍慶喜 フランス大使ロッシュと会談 ロッシュはイギリスと薩長2藩の結合を警告する
       4月29日  将軍慶喜 イギリス公使、オランダ公使、フランス公使、アメリカ公使を引見
       5月27日  サトウと画家ワーグマン 掛川で暴徒に襲われる
       7月23日  土佐藩後藤象二郎、坂本竜馬、薩摩藩小松、西郷、大久保と王政復古の密約なる
       8月25日  長崎でイギリス水兵2名殺害される
       8月31日  パークス公使徳島藩主蜂須賀、9月8日高知藩主山内を訪問
       9月11日  薩摩藩小松、西郷、大久保ら京都で長州と密談し倒幕計画を練る
       10月17日 薩長芸三藩同盟なる
       10月29日 土佐山内容堂 後藤に命じて幕府に大政奉還を建議する
       11月8日  岩倉が中山に代わって、大久保、広沢らに倒幕の詔書をだす
       11月9日  将軍慶喜 大政奉還   東海道・近畿・江戸で「ええじゃないか」の民衆狂舞が起きる
       12月10日 京都で土佐藩坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺される
       12月29日 パークス公使不祥事を避けるため幕軍の大阪撤退を要求 サトウら薩長藩に大阪撤退を要求
1968年  1月1日  兵庫開港  大阪開市
       1月3日  王政復古 総裁、議定、参与の三職をおく
       1月10日  慶喜 大阪で4カ国公使と会見
       1月17日  江戸城二の丸焼失 
       1月19日  旧幕府 江戸三田の薩摩藩邸を襲撃
       1月27日  鳥羽伏見の戦い 幕軍淀で敗退する
       1月30日  慶喜 軍艦開陽丸で大阪を脱出し江戸に向かう
       2月28日 6カ国公使 局外中立を宣言 
       3月8日  土佐藩兵士 堺港でフランス軍水兵10名を殺傷 
       3月26日 天皇参内の途中パークス襲われる
       4月6日  天皇5か条の誓文を宣告  江戸三田の薩摩藩邸で勝海舟と西郷隆盛が会見し江戸無血開城を話し合う
       5月3日  慶喜 水戸に謹慎
       5月22日 天皇 パークスを引見し、パークス信任状を手渡す
       6月11日 官制改正 七官を太政官において、立法・行政・司法を分掌
       6月19日 慶喜隠居 徳川家達が当主となる 70万石に削封
       6月22日 奥州同盟官軍に抵抗
       7月4日  上野彰義隊の乱鎮圧
       9月3日  江戸を東京と改称 11月26日天皇東京に入る
       11月6日 会津落城
       12月8日 幕臣榎本武揚 函館五稜郭で兵を挙げる
       12月30日 4カ国公使 横浜駐在外国兵を撤収
1969年  1月1日  東京開市、新潟開港
       2月9日  6カ国公使 局外中立解除を宣言
       2月24日 サトウ 賜暇帰国 
 

本書は岩波文庫上下二冊、36章からなる。明治維新の歴史的事実については上の年表としかるべき成書で詳細を見るべきで、本書だけからではかえって明治維新の全貌はつかめない。小さな窓から景色を見るようでぎこちない感じがするものだ。英国の1青年外交官としての日常任務は日本の政治的変革ではなく、外国人の殺傷事件で謀殺される業務や華々しい外国艦隊の動き、諸外国の外交官の交際と駆け引き、諸藩の高官や日本人との儀礼や交際に多くの精力が注がれている。情報についても日本人からの提供が主であるため断片的で、全体の政治軍事の動きは後聞きでまとめられた場合が多い。本書を読む第1のポイントは、当時の外国人(英国人)から見た明治維新ということであろう。本書より当時の日本を知るエピソードを拾って紹介する。

1) 横浜の社会
安政5年の通商条約によって外国貿易は長崎と横浜の港に限られて開かれ、埋立地の神奈川が外国人の居留地であった。長崎ではアメリカの宣教師が勉強に来る武士階級に自由主義思想を伝えたようだ。横浜では商取引に無知な山師のような日本の商人との取引が横行していた。また税関の役人の腐敗には賄賂が付きまとった。横浜の行政は奉行以下の役人が監視し、オランダ語を媒介した通話であった。神奈川の居留地では金を払って「地券」を得る仕組みで財産を形成したようだ。教会や墓地もできた。横浜にいた外国人社会はいわば「ヨーロッパの掃き溜め」と称されるように、品位のない連中が多かった。貿易には当初「洋銀」が用いられていたが不足してきたので、「1分銀」で代行するようになった。外国の官吏は条約によって100ドル=131文と交換されたが、実勢の為替相場は100ドル=214文であったので、官吏らは日本貨幣をドルに変えることにより40%の利ざやを稼ぐ事が出来たという。外交官の生活は潤沢で馬を持ち宴会が盛んに行われた。しかし旅行は制限され諸外国の代表以外は25マイルをこえて遠出する事は禁止されていた。江戸に4各国代表部が設置され、イギリス代表部は品川高輪の東禅寺に置かれ、公使には居館が江戸に設けられたが、治安の不安から居館を横浜に移したという。高輪のイギリス公使館が1961年に凶徒の襲撃を受けたため、オールコック卿は横浜に移り艦隊が公使館を守った。1962年オールコック卿が一時帰国したときの代理大使はニール大佐となり、再び公使館を高輪に移したが暴徒が衛兵を殺害する事件が起こって、公使館は再度横浜に舞い戻った。

2) 日本の政情
当時の諸外国の外交官は、徳川将軍を「大君」と呼び政治上の主権者で、天皇は宗教上・精神上の皇帝と見ていた。ここでサトウが日本の古代史を概観するのである。いつ仕入れた知識かは知らないが相当勉強が進んでからの知識であろう。それが当時の日本の常識であったとは思われない。古代日本の地に他国の侵入者(半島経由)がやってきて、純然たる神権政治を行ったのが、日本の君主制の始まりである。中国から律令と仏教を輸入して、古来の神に入れ替わった。藤原氏の文官政治は源平の武家政治に圧倒され、武家封建制が樹立された。日本の封建制は外国から侵略を受けなかったため、強力な中央集権制の必要性を感じなかった。後醍醐天皇の王政復古も空しく、足利の武士政権から織田信長・秀吉・徳川家康の国内統一となった。徳川体制は御三家・譜代・旗本を中核とする支配で、その周りに外様大名がいた。大名は幕府に税金を一切払わない代わりに、参勤交代や賦役・寺院建設など過大な負担を強いられた。身分制度は世襲制で、大名の行使する権力は次第に名目だけとなり、実権は地位の低い活動的な層が担った。こうして日本の支配階級は知能程度の低い、非生産的な無能階級に成り下がっていた。欧米の諸外国が文明の風を当てると、日本の制度はエジプトのミイラのように脆くも風解したのである。天皇も将軍も無能の頂点に君臨し、公卿や幕閣も右往左往のでくの坊と化していた。徳川の末期には幕府の実権は譜代大名から下級旗本の奉行の手に落ちていた。1852年アメリカのペリー艦隊がやってきた時が日本の支配体制崩壊の始まりとなった。1960年徳川幕府最期の宰相井伊直弼が桜田門外で水戸浪士に殺害されてからというものは、徳川幕府には政権をになうべき気概のある人間は将軍といえどもいなくなった。当事者がいない幕府は蝉の抜け殻みたいなもので、簡単に踏み潰されたのである。

3) 生麦事件 賠償金の要求と薩英戦争
サトウが日本に赴任して1週間後1962年9月12日、リチャードソンという上海の商人ら3名が馬に乗って東海道の生麦付近を通行中、島津久光の行列に出くわして切り殺されるという事件が発生した。世にいう「生麦事件」である。イギリス領事ヴァイスのもと外国外交団は審議を重ね、海兵隊1000人を上陸させて近くで宿泊していた島津久光を逮捕するという意見も出たが、これを制して徳川幕府に抗議する事になった。もし海兵隊が島津久光を逮捕したら、日本は恐らく壊滅的な無政府状態となり、英仏蘭の連合軍との戦いに進展したに違いない。そして日本国土は諸外国の植民地となり分割されたであろう。紙一重のところで、イギリスの理性(商売上の利益から)が優先して、徳川政権に事件の解決を委ねるという外交団の決議となった。1863年3月ニール大佐は本国より幕府と薩摩藩に十分な賠償金を要求せよ炉いう訓令を受け取った。約13万ポンドの賠償金と殺害犯人の尋問と処刑を要求する文書を徳川幕府に提出した。幕府は賠償金の分割払いと諸港の閉鎖を回答してきた。ニール大佐は港の閉鎖は条約違反の宣戦布告とみなすと脅かし、かわりに西南諸藩を押さえるための協力を申し出た。幸いなるかな老中小笠原は外国からの援助を断り、自分の努力で解決を行うという当事者意識を示した。ついで薩摩藩に賠償金を要求するため、1963年8月七つの軍艦からなる艦隊を編成して薩摩に乗り込むことになった。鹿児島の砲台の大半を爆破した。これ以降薩摩藩は急速にイギリスに接近して親密となり、西欧の文明を摂取し始めたのである。

4) 長州の攘夷と下関戦争
攘夷論者の多かった長州では、1863年6月25日下関海峡を通過するアメリカの商船を砲撃、ついで7月8日フランス軍艦を砲撃、7月11日オランダ軍艦を砲撃、7月16日アメリカ軍艦と交戦という挑発的な一連の軍事行動をおこなった。4カ国外交団は薩摩藩に対しての同様な対抗策が長州にも効果をもたらすと信じて、幕府に下関海峡再開の保証がなければ下関に艦隊を派遣すると通告した。一方イギリスの留学から帰国した伊藤と井上の二人に藩との交渉を依頼して外国4カ国の代表の手紙を預けた。長州藩からの回答は、攘夷は幕府と天皇からの命令でもあるし、そこへ物言えというものであった。そこで連合艦隊はイギリス7艦、フランス3艦、アメリカ1艦、オランダ4艦とともに下関海峡に向かった。下関にある主要な砲台を破壊して、総勢1900人の海兵隊(イギリス1400人)が上陸した。長州はその前から第1次中秋征伐に敗北し藩は挙げて窮地に陥った。長州が攘夷を断行したのは幕府の命でもあったので、サトウはこの下関戦争で長州人が好きになったらしい。2枚舌で攘夷と開港を進める幕府役人に嫌気が差したという。長州人にしろ薩摩人にしろ敗戦してもイギリス人に恨みを抱くことなく、この事件を通じてイギリスと薩長が親しい盟友関係にあったことは注目に値する。真摯に愛国心で闘う人は意外に分かりあえるものらしい。

5) 天皇の条約批准
1865年7月イギリス公使がラザフォード卿からハリー・パークス卿に代わった。日本の王政復古と明治維新が秩序よくおこなわれ、内乱があれほど早く終焉したのは実はこのパークス氏の功績が大きい。通商条約が結ばれて既に7年がたつがいまだに天皇の条約批准が行われていなかった。パークスは諸国の公使と相談して、艦隊の支援の下に大阪に出かけて、幕府閣僚に談判することになった。イギリスは4艦、フランスは3艦、オランダは1艦の参加で下関戦争ほどは大掛かりではないデモンストレーションを大阪港にかける事になった。条約の勅許さえ得られない衰退した徳川の権力の後押しはイギリスにとって好ましい事ではなく、もはや「大君」を見捨てるべき時がきたようだ。幕府が勅許を得ないなら、直接外国艦隊で京都の天皇に批准を迫ると脅かしたところ、将軍家茂は攘夷の砦である孝明天皇に諮って「外国事務は将軍に委任する」という従来の慣習を確認しただけの布告が下された。これはペテンであって時間稼ぎの曖昧言辞を弄したに過ぎない。

6) 長崎・鹿児島・宇和島訪問 将軍家茂・孝明天皇暗殺説
サトウは私的に「イギリス国策論」という本を著わし、日本の友人に配布していた。これが薩長や西南諸藩の有志には評判のバイブルとなっていた。日本開国後の進むべき道である近代化路線を説いたパンフレットである。友人の求めに応じてプリンセス・ロイヤル号に乗って西南諸国への旅に出た。長崎では井関氏、薩摩では島津図書、新納刑部らに会い、薩摩と長州が反幕行動を連携することを知った。薩摩は技術の習得では長足の進歩を見せていた。イギリスは薩長と親善関係を保ち斡旋者になる政策であるが、フランスは幕府を援助するようだ。オランダはイギリスに賛同したが、ドイツ・イタリアはフランスに追随し、アメリカは中立路線である。ついでサトウは薩摩と友好関係にある伊達宗徳の宇和島藩を訪問した。伊達宗徳は天皇を盟主とする連邦制をといたが、イギリスは内乱には介入しないほうがよいことを説明した。そして最期に兵庫に着いた。1886年8月将軍家茂が大阪で亡くなり、慶喜が将軍職を継いだ。1887年1月30日孝明天皇が崩御した。攘夷の2巨頭が相次いでなくなったことには陰謀説があって、サトウも家茂と孝明天皇毒殺説を人から聞いてありうることだと頷いている。読書ノートで太田龍著 「長州の天皇征伐」を紹介したので参照して欲しい。新将軍慶喜は1887年4月29日、4カ国の公使を招いて引見した。イギリスは将軍を権力の代理者と捉えていた。フランスはかなり親密に慶喜に協力を約束し抜き差しならぬ関係になっていたようだ。慶喜のやる気によって、薩長とイギリスの離間を図るため、幕府海軍設置をめぐって幕府閣僚がイギリスに接近するなど、一時薩長の革命勢力は退潮したかのようであった。

7) 徳島・土佐訪問 西南諸藩の新体制への動き
パークス卿らは函館を廻って、新潟開港視察と代港能登七尾港視察のたびに出た。サトウは七尾から大阪へ徒歩で向かった。サトウの文章は道中の旅行記として面白い。1867年8月長崎のイカラス号水兵殺害事件が起き、老中板倉勝清らとの交渉に忙殺されたが、サトウはその間備前鍋島直正という大陰謀家と面談したり、西郷と面談した。西郷は幕府が兵庫と大阪の貿易を独占する意図を激しき攻撃した。徳島藩蜂須賀阿波守がサトウの「イギリス国策論」について議論したいというので徳島を訪問した。ついでイカラス号水兵殺害事件の容疑で土佐に出かけ土佐藩家老後藤象二郎と面談した。後藤は国会開設に興味を持ち、これについては薩摩の西郷と同じ考えであった。藩主山内容堂の意見では、政治的見解は決して保守的ではなかったが薩長と変革の方向に向かう用意があったとは思えなかった。下関を経由して長崎に着いた。長州の伊藤と木戸が尋ねてきた。薩摩、土佐、芸州、備前、阿波の連名で将軍慶喜に辞職を勧告し政府改革を迫る文書が慶喜に提出された。長崎では水兵殺害事件の調査で土佐藩士からなる海援隊が調査の邪魔をしてきたが、結果的には土佐の仕業ではなかったので当然のことかもしれない。幕府には全く秩序維持能力がないことは明白であった。

8) 将軍政治の没落 大政奉還から王政復古クーデター
1867年11月16日将軍慶喜が大政奉還をしたと外国奉行石川河内守がパークスに告げた。すでに老中小笠原から今後政治は合議制になり天皇の裁可を受けることになると言われていた。勝海舟が内乱を心配していた通り、大阪には薩摩兵5000人と長州兵が駐屯しており、幕府軍と一触即発の状態で京都での動乱は不可避の情勢にあった。いよいよ古い制度が終末を迎えたという感じであった。慶喜は列藩会議を招集し自分が盟主になることを企んでいたが、すでに薩摩、土佐、宇和島、芸州には連合が成立し薩摩と土佐兵5000人と長州兵1500人が、京都の幕軍1万人と対峙していた。坂本竜馬と中岡慎太郎が革命を前に京都見回り組によって暗殺されたのもこの時であった。翌1968年1月4日条約国の各公使が日本の政治情勢分析のために意見を交換した。ところが各国の公使は意外と日本国内事情に精通していなかった。すでに京都を掌握しているのは会津ではなく、薩摩、芸州、土佐兵が御所を守護している状況であった。1月3日薩摩は将軍職の廃止、新政府の総裁、議定、参与の3職を提案した(王政復古)。薩摩と将軍の間を斡旋しているのは土佐藩であった。新政府の人事が発表された。総裁:有栖川宮、議定:山階宮、正親町(三条)、岩倉具視、尾張侯、越前侯、芸州侯、薩摩侯、土佐侯、参与:大原重徳、大久保、西郷などの人物であった。そして将軍慶喜については滅亡の運命が用意されていたのである。慶喜処分の内容が勝海舟の最大の懸案事項で、恭順の妥協の規範をなしたことは、江藤淳著 「海舟余波」にも詳しく記されている。この中で江戸に騒乱が発生した。1月17日夜将軍家定の夫人となっていた薩摩出身の天璋院の奪回を狙って薩摩人が江戸城二の丸に放火した。そこで幕府は三田の薩摩邸を焼き払う騒動が勃発した。この状況で外国公使らは天皇政府証人問題を議論したが、公使側から動けない、まだ天皇から何の通知も受け取っていないのである。もし京都政府が国政の指揮を取るなら、引継ぎを幕府に通告して各国公使を京都に招集しなければならない。という静観論である。

9) 鳥羽伏見の戦争 
1868年1月27日徳川側の指揮官陸軍奉行竹中重固が討薩表を持って京都に入ろうとして鳥羽口で交戦が始まった。この戦いは1日で終った。藤堂が山崎で寝返りし、指揮官竹中も淀で投降したのであっけなく徳川勢は逃亡した。新撰組も淀で敗退した。そして将軍慶喜も1月30日開陽丸で大阪から江戸へ逃亡した。仁和寺宮が征討大将軍となって箱根以西の藩はすべて天皇側に帰順した。関が原の戦いでも戦闘らしい戦闘はなく寝返りで決着している。鳥羽伏見の戦いでも小競り合い程度で直ぐの寝返りで決着している。なんか日本人は駆け引きと空気で勝敗を決するのが好きなようだ。戦争といっても敗残兵を清掃する程度である。2月7日天皇の使者東久世が岩下、寺島、伊藤を伴って兵庫の外国公使に面会した。「大君に代わって天皇が条約を履行する」という通告であった。公使に対して天皇政府承認要求に等しい。フランスが激高したが、他の国の公使は自国へ伝えるという返事をした。2月4日備前藩兵士がアメリカ人兵士を射殺する事件が発生し、賠償を求める文書が東久世に渡された。伊藤は逮捕と処罰を約束した。後日伊達伊予守と三条実美の指令を受けて解決覚書を持参した。革命の事態の進展に驚愕したフランス公使ロッシュは帰国する意向を伝えた。幕府にあれほど肩入れをしたロッシュとしては一日も日本に居る事は出来なかったのであろう。これでイギリス公使パークスの局外中立策とアメリカの甲鉄艦の引き渡し阻止というやり方が公使仲間に承認されたことになる。

10) 備前事件・堺事件 京都での天皇謁見
1868年3月8日土佐藩兵士が堺港でフランス軍水兵10名を殺傷する事件が発生した。先の備前事件の犯人滝善三郎の切腹は伊藤と五代の命乞いにも関らず外交団の賛成多数で断行された。土佐藩士20名についても死刑が求刑されたが、11名の処刑が済んだ時フランス艦長のトゥアールの判断で死刑は中止された。これはサトウから見ると、許された9名の死刑囚の名誉からして遺憾な処分停止である。切腹は見世物でもなく報復でもなく、極めてれ儀正しい一つの儀式であるというのだ。一理あるようだ。たしかに遺された9名の死刑囚の余生が屈辱にまみれるからで、これは死刑より陰惨な処分ではないかということだ。新政府の外国外交団承認のために天皇との謁見について、パークスと伊予守、小松が協議し、京都での謁見となった。そのまえに3月7日外国諸代表と政府高官(公卿と西国大名全員)の重大な協議が行われた。その翌日事が成る寸前に、土佐藩兵士が堺港でフランス軍水兵10名を殺傷する事件が起きたのだ。3月中はこの事件の賠償、犯人20名の処刑、藩主山内の謝罪問題で外交団は忙殺された。3月19日イギリス公使館全員は舟で大阪に移動し、馬で京都に向かった。宿舎は知恩院に取り天皇謁見準備に入った。山階宮、三条、岩倉らと会談し京都の攘夷姿勢が一変したことを告げられ、これまで新政府の樹立に協力したイギリスに対する天皇謁見がかなう事になった。ところが3月26日知恩院から皇居に向かうパークス公使一行の行列に凶徒(僧侶)が襲撃した。公使側の護衛10名ほどが負傷した。朝廷側は驚愕して徳大寺、越前松平、東久世、伊達、鍋島備前藩主らがパークスに「見舞いと陳謝にきた。3月26日改めてパークスは天皇に謁見し苦労をねぎらわれた。襲撃犯主犯1名の処刑は27日に行われた。新政府になったといえども、攘夷論者が多く治安状況は良くなかったが、政府の処置は迅速丁寧に行われたようだ。

11) 江戸開城と上野彰義隊の乱 慶喜水戸謹慎 新政府官制発布
3月31日パークスとサトウらは横浜に戻り、江戸に出て情勢を探った。サトウの情報源は幕府海軍総裁だった勝海舟からである。官軍はは既に三方(品川、新宿、板橋)より江戸にはいった。討幕軍総裁は有栖川宮大総督であった。徳川側の代表は勝と大久保一翁の2名で、西郷参謀と江戸開城の交渉に当った。慶喜処分と徳川家封が焦点になった。勝はパークス公使に新政府に対する影響力を発揮して内乱を防止するように依頼し、パークスは欧米諸外国公使は徳川への過酷な処分は内乱を長引かせるため好ましくないという意見であると西郷に圧力をかけた。徳川側でも脱走する人間が多く、小笠原、平山、塚原、小栗上野助らがいなくなっており弱体化は著しかった。こうして江戸無血開城がなったのだが、勝と西郷の交渉については江藤淳著 「海舟余波」を参照してほしい。新政府へのイギリス公使の新任上奉呈は5月22日大阪の東本願寺で行われ、天皇謁見があった。サトウらは横浜に戻り、官報や民間の新聞の翻訳に忙しかった。それによると4月27日慶喜処分が決まり、5月3日慶喜は水戸に蟄居する事になった。しかし徳川の残党は各地でくすぶっており、7月4日上野寛永寺にいた彰義隊と親王輪王寺宮(後の北白川)が官軍と衝突し、乱は一日で平定されたが残党は新潟や会津へ逃げた。サトウらは新政府の発する法令改正の翻訳に忙しかったが、アメリカ政治学の影響のもとに大隈重信、副島種臣らが活躍していた。6月11日の官制改正は3権分立と官職の任期制(猟官制度)にあったが、サトウらは批判的な目で見ていたようだ。卓越した薩摩の政治家大久保利通らは江戸を政治の中心とし、天皇を江戸に移す計画であった。新政府の財政は底を突き、徳川の金庫に殆ど金がなかったので、天皇政府の死活に関る重要問題であった。

12) 会津戦争・函館五稜郭の乱
横浜のイギリス連隊観兵式に三条実美らを招いて競馬をみたり、勝海舟と慶喜処分の情報交換をおこなった。勝は榎本の艦隊にフランス軍人が乗って江戸を離れたという。会津若松城に立て籠もった残党は11月6日降伏した。これで奥羽同盟は壊滅した。このころ吉原という遊郭に外国人の立ち入りが許可され、サトウら外国人らの吉原遊びが流行したようだ。12月11日榎本らの「徳川の海賊」が函館に上陸して反乱となり、官軍と交戦した。12月21日官軍の東久世らは派^クス公使と協議し、イギリス艦隊の山口勅使をのせて函館に渡りたいという要求があったが、パークスは事件に深入りしたくないとしてこれを断った。函館の乱の平定をもって日本全国に平和が訪れた。17日奥羽で戦った総督仁和寺宮が江戸に到着した。

13) 東京遷都と天皇謁見
1月5日イギリス公使らは皇居で天皇に謁見することができ、1月9日木戸、東久世、町田らはパークス公使を浜御殿に招いて、新政府承認の礼をした。21日には会津と仙台の処分が行われた。徳川は完全に亡んだので、22日各国公使の局外中立宣言の撤回が話し合われたが、イギリス・オランダは賛成、他の4カ国は漸次見合わせという態度であった。これに対しては木戸、岩倉からクレームが来て、見事に1本取られた格好であった。2月9日に各国公使の局外中立宣言の撤回が行われた。外交問題で日本も交渉ができるようになったといえる。サトウは休暇を貰ってイギリスに帰国することになり、勝海舟ら政治情報を提供してくれた日本の知人らに挨拶した。こうして6年半におよぶサトウの第1次日本駐在は終った。


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