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池内 了著 「疑似科学入門」 

  岩波新書(2008年4月)

科学ですべてが解けるわけではないが、科学を語った嘘に騙されないように

「疑似科学入門」という書名に興味を持って読んでみた。「疑似科学」とは「科学に似ているが、どうも疑わしい」という意味らしい。同じような言葉に「似非科学」は「似て非なるもの」という意味で科学ではないと断定しているところが異なる。本書の「疑似科学入門」ははっきり嘘だとわかる「似非科学」を第1種、第2種疑似科学と分類し、グレーゾーンの「疑似科学」を第3種疑似科学といって、本書の主題とするのである。著者によると、本コーナーでも取り上げた蔵元由紀著 「非線形科学」が話題とするカオスやシンクロや自己組織化なども第3種疑似科学にいれられ、「非線形科学」もまだ市民権を得ていないようだ。現代は科学の時代といわれながら、結構非合理がまかり通っている。それはそれで人生を面白くはしているのだが、非合理を簡単に許容すると人間は考える力を失う。デカルトも言ったように考える事は人間の存在理由であるのだが、情報社会やメディアの蔓延で考えることを「お任せ」してしまうと、結局信じるかどうかだけになってしまう。そこへ疑似科学が侵入してくるのである。論理の積み重ねと経験で自分の頭で考えることが大切な事で、自分が観客になった「劇場化政治」や「観客民主主義」は政治家に取り込まれてしまうのである。

贋物、まがい物、嘘、心霊などまがまがしい事が氾濫するのは人間が弱いことの証明であるが、現代社会が病んでいることでもある。著者の「疑似科学」の定義では、「科学的な装いをとってはいるが,科学の本筋から離れた非合理を特徴とするもの」で、疑似科学には3種類あるという。
第1種擬似科学:占い、超能力・超科学(スピリチュアル、テレパシー、オーラなど)、擬似宗教など精神世界に閉じていればそれほど害はないが、物質社会の商売やカネに絡むと騙し・誘導になる。
第2種疑似科学:科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的な装いをして実体がないものであえう。物質世界のビジネスと強く結びついて悪質である。騙しのテクニック。永久機関、「水の記憶」、マイナスイオン、健康食品、水商品、磁気健康アクセサリーなどさまざまな商品が「開発」されているが、効果の証明はない。世論調査の誘導テクニックと母集団のバイアス、相関関係と因果関係の混同など統計・確率の誤用・悪用が目立つ。官僚文章や学者の推論でもよく見かける手である。
第3種擬似科学:「複雑系」で証明が困難な問題で、グレーゾーンに属する。騙しとは言えないまでも自分に都合のいい結論に導こうとする作意が感じられる。地球環境問題、電磁波公害、遺伝子組み換え、狂牛病、地震予知、環境ホルモンなど国の施策や国際問題となる事項が多いのが特徴である。本書の視点はこの「複雑系」にある。そこで著者はこの種の問題の対策に欧州で唱えられている「予防措置原則」を持ち出している。「複雑系」の代表である非線形科学を第3種疑似科学と呼ぶには異論が多い。揺籃期の科学を怪しげな科学といってはかわいそうである。私はこの点だけには異論を持つ。

専門分野の人でなければ池内氏を知らない人も多いのでプロフィールを紹介する。姫路の出身で京都大学理学部物理学科卒業。学科は違うがわたしと同年の卒業生である。名前を顔が一致しないがおぼろげに憶えている。氏とは学部では一緒だったが卒業後は何も知らないが、本書の末尾の紹介には北海道大学、国立天文台など6つの大学と研究機関を移動して、現在は総合研究大学院教授だそうだ。そろそろ定年かな。池内氏は専門の宇宙物理学においても「泡宇宙論」を提唱する等の業績をあげているが、近年は文系と理系という分断を超える「新しい博物学」を提唱していることで注目されている。文系と理系の枠を超え、普遍的に物を見られる人材を育成することを目的としている。文系でありながら科学好きだった夏目漱石や、漱石の弟子で理系でありながら文学に造詣が深かった寺田寅彦を再評価しているのもそのひとつであるといえる。このあたりがいかにも京都大学卒業生らしい。結構多作で著書は多いので省略したいが2008年の著書には『疑似科学入門』(岩波書店 岩波新書 2008年) 『自然を解剖する』(NTT出版 2008年) 『時間とは何か』(講談社 2008年) 『ノーベル賞で語る現代物理学』(新書館 2008年) があり、2008年パピルス賞を受賞した。

第1種擬似科学ー非合理主義

第1種擬似科学とは、人間の心の揺らぎに付け込む「まやかしの術」である。「科学」となずけるにはおこがましいが、心理学の悪用とみれば批判の対象となる。今やテレビでは「スピリチュアル」番組が大うけで、タレントの成功不成功をあちらの世界と結んでソフトに説明する。非合理的思考は、錯覚、記憶違い、思い込み、無意識の願望など人間の認知的な偏り(バイアス)が、それを信念に変える。そして社会的な雰囲気や時代が抱えている病根が信念をより強固なものにする。祈りや悼みは個人のものであってそこで閉じていれば宗教心であるが、パフォーマンス(どうだ当ったろうといわれてタレントが感動する)になれば洗脳になるのである。「奇跡」をてこに宗教が大衆化した歴史をみれば、これは十分に煽動である。血液型性格占いも人間をたった4種類の血液型や星座と結びつけて女性週刊誌をにぎわせているが、「ひとそれぞれ」の常識からみても、血液型と脳科学は接点がない。占いと似て多少は当っているような点も無きにしも非ずであるが、「当るも八卦、当らぬも八卦」であろう。超能力系の筆頭はUFOであろう。UFOも幽霊と同じで信じる人は見る、信じない人は見ないという心理的幻想、誤認の典型である。ユリ・ゲラーのスプーン曲げも手品師のペテンに過ぎない。「手品には種がある」といっているから手品師には害はない。超能力は不安な時代にヒットラーになるから危険極まりない。「真理」や「原理」を標榜する擬似宗教は初めから信者から金を巻き上げる詐欺商売である。第1種擬似科学は科学的反証のしようがない精神界のことで、反証も証明もないのである。そして人の不幸に付け込んで藁にもすがりたい心に偶然の一致を信じ込ませるのである。人は超常現象をなぜ信じてしまうのだろうか。認知心理学では、不確かな事を信じるという行為には情報を鵜呑みにする「情報的信念」と、自らの体験から信じる「推論的信念」があるという。人間の認知は知覚、記憶、思考、判断という4つの情報処理過程からなる。思い込み、誘導、迷信などから正しく認知しないエラーが生じるのである。蒙昧から文明の開明を説いた福沢諭吉の実証精神がその解決法で、とにかく自分の頭で合理的に考える習慣をつけてゆく事である。

第2種疑似科学ー科学の悪用・乱用

消費者に物を買ってもらうにはすべての要因を動員しなければならない。科学もその一つである。これを「資本主義的利用」という。そのために擬似科学が援用される。科学を装う手口には、科学的用語の濫用がある。ゲルマニウムやDHA、ポリフェノール、アルカリ水、磁気など専門用語を濫発すれば何となく効きそうに思うのである。これは日本人がお上や学者とかいう権威に弱く、いうことを受け入れやすい性質が災いしている。騙しのテクニックは@科学らしく見せかけ、A権威ある人に話させ、B効能ありそうにでっち上げるというステップからなる。テレビのワイドショー健康番組は全てこの手口で主婦を騙して、ス−パーに走らせるのである。永久機関や錬金術など明らかに科学の原理に反するはもはや商売の手口には使えないが、身近で曖昧な健康問題は商売の格好の相手である。薬の治験で偽薬(でんぷん)を与えて治療効果がある場合を「ブラシーボ効果」という。したがって薬効を調べるには「二重盲検法」が採用されている。このブラシーボ効果や心理的誘導による「ホーソン効果」で偽でも効く場合がある。試験数を増やせば効果は歴然と判明するのだが、消費者は個人であるので全体を知らないので騙される。厚労省認定の「特定保険健用食品(トクホ)」以外の健康食品はほとんどが根拠薄弱である。特に制ガン効果がうたわれる漢方系は眉唾物である。統計や数値を使った騙しテクニックは高等戦術で学者や官僚がよく使うので、新聞などの記事には特別な注意が必要だが、分析の詳細は書かれていないのでさらに悪質である。手口の詳細は、古い本だがダレス・ハフ著「統計で嘘をつく法」講談社ブルーバックスを環境書評コーナーで取り上げたので参考にして欲しい。

「擬似科学」と高いところから切り捨てにするのは簡単だが、疑似科学は科学の時代を特徴付ける徒花である。科学の方にも一部の問題はある。科学の進歩はたしかに文明の一大進展をもたらしたが、環境問題や安全問題を引き起こし戦争を一層悲惨なものにし、地球の破壊にも一役買っている。そして現在反科学の気分が広がっている。情報やライフラインから政治まですべて便利な「お任せ」に安住している私たちの生活態度にも大いに問題がある。当事者意識がなく自分の頭で物事を考えなくなっているから、怪しげな科学的装いの手口に態もなく騙されるのである。技術の進歩は省エネや安全設計を可能にし、使う側の倫理・道徳の分野までお任せになっている。私達はさまざまな「神話」(偽常識)で過保護にされている児童みたいである。「原子力安全神話」、「教育荒廃神話」、「民営化神話」、「行財政改革神話」、「神経神話」から「脳神話」ですっかり私達は思考停止している。第1種擬似科学の非合理主義に対して、「科学信仰」に落ち込んでいるのである。迷信は信じないが、科学は信じるという態度は結局「信じない」、「信じる」という点で共通している事に気がつくべきである。どちらを信じるかというだけの違いである。そこに科学的な偽装をしたものに対してよく考えて判断する習慣が稀薄なのではないだろうか。健康という切実な問題は医学という科学で裏付けられているはずだが、テレビやメディアのいう実証されていない曖昧なことを無批判で受け入れている。20世紀末の社会現象で非合理主義の復権を叫ぶ、「ポストモダニズム」や「ニューエイジサイエンス」という相対主義・不可知論を主張する社会思想が発生した。科学が要素主義・分析的手法で進んできたため、科学が対象としなかった総合的科学を取り上げようとするのである。合理主義万能に対するアンチテーゼである。

第3種擬似科学ー科学が不得意とする「複雑系」と「予防措置原則」

物理の分野で素粒子論や化学の分子論、生物における遺伝子学などは要素還元主義といい、要素の挙動をあきらにすれば全体が明確になるという信念で成功した。しかし「複雑系」の科学は気象、気候変動、環境問題、生態系を対象とするため、要素の数が(その時点で分らない要素を含めて)無数になるため、電子計算機でも誤差を拡大するだけで基本的には解けないのである。天文学でも三体問題(3つの星が相互作用を及ぼす運動問題は発散して解がない)は解けない。まして要素が相互作用する非線形問題は基本的に解析解はない。天才的な近似をして要素を2,3に単純化しないかぎり定常解はない。第3種擬似科学はこのような「複雑系」に潜む魔者である。「科学的根拠なし」とか「不可知論」を主張すると「思考停止」になってしまう。環境問題の多くはこのような問題である。企業や為政者は都合が悪いと「科学的根拠なし」といって手を打たないで放置し,取り返しのつかない負の遺産を残す。「原爆被害者認定」や「水俣病」の悲劇がその例である。その反対に企業や為政者はダム建設や飛行場建設などではいとも容易に工事を断行する。環境評価が出来なければ着工できないはずだが、お粗末な環境評価をして問題なしとする。そして反対者が生態系への影響を問題にすれば不可知論をもちだすという、ご都合主義で処するのである。これを「社会的合意」だけに頼る「社会構成主義」という。

「複雑系の科学」の代表に、先ず「気象予報」は本来科学的に計算できないものを経験的に予想するのである。確率という言葉は同じような気象条件では、「雨の降る確率は過去の事象から60%」であるということである。場所や時間帯ではない。経験のデータバンクに過ぎない。計算したって答えは出ないのだから別に計算する必要はないのだ。地震予知にいたっては地球のマントルの運動方程式なんてないので全く計算が出来ない。複雑系の取り扱いを困難にしている問題は、「カオス」運動が初期状態から完全には予測できない事、数値計算が漸次解法であるため初期の誤差が巨大な狂いを生じる事、量から質へと集団的な質の転換が起きること、非線形運動が全く新しい安定状態へ転移する「自己組織化」が起きることである。この辺の事情は蔵元由紀著 「非線形科学」に詳しいから、「読書ノートコーナー」に紹介したので参照してほしい。社会科学では経済活動の計算では長期予測は全く不可能である。政治も絡んでくるためこのような複雑系を解くのは難しい。経済評論家のいう予測が先ず当らないのは占い以上である。株価の暴落や金融大不況を予測した経済評論家がいただろうか。皆後付けの解説はするが、先のことは「一寸先は闇」である。

複雑系では未来が予測できない事が疑似科学の入り込む要因となる。地球環境問題なかんずく炭酸ガスによる地球温暖化問題は、ICPPの「人為的要因が90%以上」と結論つけた形で世界が動いているが、反論する人は多い。炭酸ガスと地球温暖化の原因と結果関係も議論されている。地球温暖化要因として太陽の運動と宇宙線による地球気候変動の大きな周期論があり、近いうちに寒冷期に入ると予測する学者もいる。炭酸ガス善玉・悪玉両論もあって容易に意見の一致を見ない問題である。そして政治的に地球温暖化論争を有利に利用しようとする原子力企業ロビー説と石油価格高騰をねらう金融資本と石油産業ロビー説もあって問題は一段と国際的に複雑である。複雑系は未成熟科学であるし、まだ科学の出る幕ではなさそうだ。地球温暖化論争については、環境書評コーナーで丸山茂徳著 「科学者の9割は地球温暖化炭酸ガス犯人説はウソだと知っている」 宝島社新書などを紹介したので参照して欲しい。環境問題全般についても純粋な公害問題ではなく資源・エネルギー問題という国際関係から論じる方が分りやすいので、武田邦彦著 「環境問題はなぜウソがまかり通るのか 2」 洋泉舎などを参照して欲しい。

疑似科学は人間の弱い心(心の揺らぎ)がある限り廃れないが、人間は合理性を自然のうちから学び、非合理性は矛盾と付き合うことによって体得される。おかしいなと思えば「疑ったうえで、考え納得すれば信じる」という態度を貫くことが大切である。しかし現時点の科学では容易に解が見つからない「複雑系」の問題には、「予防措置原則」が重要であると著者は唱える。予防措置原則とは未来の予測が困難であっても安全サイドにたってあらかじめ手を打っておくという考えである。数年前欧州EC委員会で出された考えである。疑わしいだけでは何もしないとうのは為政者(官僚)の言い分である。前例がないことには手が出せないという官僚のジレンマに付きあって入られない問題が多くある。しかしブッシュU大統領のような「予防戦争」は困るし、間違った対策のために高コストについてしまうのも得策ではない。予防措置原則の実施はとかく難しい。


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