090223

日暮吉延著 「東京裁判」 

  講談社現代新書(2008年1月)

日中・太平洋戦争敗戦の結果としての東京裁判の国際政治関係史 

東京裁判とは1946年5月から48年11月にかけて、連合国11カ国が、戦前の日本の戦争指導者いわゆる「A級戦犯」28名を極東国際軍事裁判所に起訴した空前の戦争犯罪裁判である。1928年以来日本の軍閥がアジア太平洋支配の「協同謀議」をめぐらせ、侵略戦争を開始したとする判決が示され、被告人25人全員に有罪判決(12名は死刑判決)が宣告された。東京裁判は先行するドイツナチ戦争犯罪裁判であるニュルンベルグ裁判(1945年11月から46年10月)とセットになっていた。いずれの裁判でも敗戦国の指導者個人を国際裁判にかけて国際法上の刑事責任を問うという先例のない戦後処理であった。

東京裁判(極東国際軍事裁判)について述べること、は日本国民にとって忌々しい記憶を呼び起こす事にもなるので、あまり好まれないし実際興味を持つ人も少ない。しかしこの東京裁判と密接に関係する現代政治問題には、「閣僚の靖国神社参拝に対する中国・韓国政府の抗議と侵略の歴史認識問題」やそれに付随する「A級戦犯合祀問題と分祀化問題」、自衛隊幹部や自民党右派政治家の「大東亜戦争肯定論、自衛戦争論」などがある。これらの問題の根幹に「東京裁判」が位置するのである。「東京裁判」を勝者の裁きといって全面否定する人は必ず太平洋戦争を「列強に追い込まれて戦った自衛戦争」と理解している。しかしそういう議論は不毛である。厳然として日本は連合軍に負けたのであり、東京裁判が行われ判決を受け入れたのだから歴史的事実を前にして、いまさら抗議するのは児戯に等しい。しかし時代が過ぎ去ってゆくと、石原都知事のように「南京虐殺はなかった」とか言い出す人もいると、戦後生まれの人はそうかなと思うので危険である。「南京虐殺」については中国国民党政府がBC級戦犯2国間裁判で処置済みの事実である。著者の立場は裁判肯定論でも否定論でもない。「東京裁判」の結果を評価して、連合国側としては東京裁判において政治的に粗雑な「善悪史観」で敗者を死刑に処するのは行過ぎた「正義」の行使であり、敗者に屈辱感や怨念感情を生んだ。しかし日本国側から見ると何らかの戦争責任(賠償など)はやむをえないと認めた。日本の政治当局者とくに吉田茂は占領軍の軍国主義者の追放と民主化政策を受け入れ、戦後政治への移行と対米協調路線を志向していた。吉田茂は戦争に早くけりをつけて戦後日本の建設に向いたかったので東京裁判の判決をすんなり受け入れた。いまさら「自衛戦争」論とか「東京裁判否定論」を唱えても連合軍との歴史的な関係が変わるわけでもないので空しい行為である。すなわち「東京裁判」は国際問題であるというのが著者の結論だ。日暮吉延氏のプロフィールを記す。日暮 吉延(ひぐらし よしのぶ、1962年11月-)は日本の政治学者。鹿児島大学法文学部法政策学科教授。専門は日本政治外交史。2003年、著書『東京裁判の国際関係』で2002年度吉田茂賞を受賞、2008年本書『東京裁判』でサントリー学芸賞受賞。東京裁判史の研究者として知られている。

著者が「東京裁判の国際関係」(木鐸社)についで本書を上梓するきっかけとなったのは、2001年から6年間続いた小泉前首相による「靖国神社参拝」問題の政治化があった。日本の首相の「靖国神社参拝」がなぜ批判されるかといえば、中国政府の言い分が「靖国神社にはA級戦犯が合祀されているから」である。したがって東京裁判に入る前に、話が前後するが「A級戦犯合祀」問題に触れておかなければいけない。1953年「サンフランシスコ講和条約」で日本が主権を回復すると、にわかに厚生省引揚援護局を中心に戦犯合祀の動きが強まった。1958年戦犯釈放が完了すると、旧陸軍・海軍が流入していた引揚援護局がまずBC級戦犯の「祭神名票」を靖国神社に送付した。靖国神社は1959年4月第1次346名(1967年まで最終的にBC級戦犯合祀者は984名)を合祀したが、社会問題化を恐れその事実を非公表とした。1966年2月厚生省は死刑となったA級戦犯12名の「祭神名票」を靖国神社に送付した。当時の靖国神社宮司は保留としたが、宮司が交代した1978年7月にA級戦犯14名(死刑12名プラス松岡、永野)がこっそりと遺族の同意もなしに合祀された。A級戦犯の事実は1979年4月の報道で明らかになったが、とくに政治問題化しなかった。1985年中曽根首相が「靖国神社公式参拝」をすると中国で反日運動が相次ぎ、以降は容易に外交上の争点となるようになった。

A級戦犯というと特別に重大な戦争犯罪という意味にとられているが、実は連合軍の軍事裁判の類別に過ぎず、「平和に対する罪」すなわち侵略戦争、国際条約違反の開始、遂行、協同謀議への参加の罪を問うのがA級、「通常の戦争犯罪」すなわち残虐行為、捕虜取り扱い違反、一般住民の殺害の罪を問うのがB級、「人道に対する罪」すなわちナチのユダヤ人虐殺、一般住民に対する奴隷化、殲滅、殺人などの罪を問うのがC級という。第2次世界大戦以前は国際軍事裁判にはB級の「戦争犯罪」しかなかったが、新たに連合軍はA級「平和に対する罪」、C級「人道に対する罪」を設定した。そしてC級の「人道への罪」は日本軍には実質的になかったので、アメリカはA級の「平和に対する罪」を極東国際軍事裁判の最大の課題とした。B級戦犯は国際法廷では裁判しないで、当事者国の2国軍事裁判に任せられた。東京裁判をどう見るかについては、今日まで「文明の裁き(正義の裁き)」と「勝者の裁き」論の対立が続いている。東京裁判が「勝者の裁き」である事は自明であるとして、「正義の規範」によって戦争開始者(責任者)を懲罰することが目的である。連合国は侵略戦争を犯罪として国際法の規範をつくり、戦争抑止を拘束力あるものにしようとした。そもそも第1次世界大戦までは交戦権は国家主権であって、戦争は合法・違法の評価対象とはならない超法規的行為とされてきた。米英はそこを改革しようと情熱を燃やした。連合国の戦後処理の政治目的は日本の無力化(無害化)にあり、日本に戦争責任を負わせる歴史を確定することは、心理的な拘束力があるとした。占領初期にマッカーサー元帥に出された指令は「日本人全体に戦争の不法性と無責任な侵略の過ちを思い知らせよ」というものだった。東京裁判は連合国と日本にとって「国際政治における安全保障政策」だった。「一罰百戒」の教育的措置であった。

「東京裁判」の構成

連合国側は第1次世界大戦後の「ヴェルサイユ条約」の不徹底さを反省して、第2次世界大戦後は占領政策に転じ、無害な平和国家に改造した上で国際社会に復帰させるという1945年8月「ポッツダム宣言」となった。「ポッツダム宣言」第10項には戦犯処罰を定め、これを日本が無条件で受諾した以上、東京裁判は規定の日本国家改造スケジュールの一つになった。その前例となったのがナチ処罰の「ニュルンベルグ裁判」であった。アメリカ国内では1944年からナチ指導者即時処刑論と、文明的裁判による懲罰論が対立したが、「法と正義」による裁判方式が優勢となった。裁きを歴史に記録するという使命感があったからだ。1946年10月に開始された「ニュルンベルグ裁判」で有罪が19名(死刑12名)、ナチ党と親衛隊SSとゲシュタポの3つが犯罪的組織と断罪された。1946年1月マッカーサー連合軍最高司令官が「極東国際軍事裁判所」を設置した。「ポッツダム宣言」降服条項第10項とは「俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰をくわえるべし」ということであるが、勝者と敗者間の合意解釈に差があるのが常である。連合国側の宣言作成者の頭には「一切の戦争犯罪者」には戦争開始者と責任者を含むという意図であった。アメリカの対日占領政策の決定者は極東小委員会SFEで、SFEの方針は対独政策を機械的に日本に当てはめるものとなった。そして8月24日の指令は容疑者の緊急逮捕、連合国の対等性で検事を出して国際法廷を設置し、判決はマッカーサーが承認・変更する権限を有するというもので、連合国の国際裁判所方式である。

連合国戦争犯罪委員会UNWCCは17カ国で構成され1943年ロンドンに設置された。UNWCCは1945年8月29日9カ国からなる極東太平洋委員会で対日政策勧告を出した。概要はアメリカの方針と齟齬しないように曖昧な表現もあるが、主要戦争犯罪人を平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪、協同謀議で告訴する、10カ国の検察機関を設置するものであった。事実上アメリカの主導で裁判を行うのだが、裁判所の形式は連合国の対等性を維持するというものだ。アメリカのターゲットは真珠湾攻撃の不法性断罪と危険な軍国主義者東条英機の処罰であった。アメリカの盟友イギリスは主要戦犯即決処刑方式を主張したが、結局アメリカの正義論に付き合わざるを得なかった。オーストラリアは戦犯として昭和天皇起訴を訴えたが、イギリスは第1次世界大戦でドイツ皇帝を追放したことがナチスの台頭を招いたとして、天皇を占領管理の道具に利用すべきだと主張した。アンリか政府内でも天皇起訴論と不起訴論が対立したが、マッカーサーは天皇の地位は問わないとする方針を決定した。理由は「天皇を起訴する場合には占領軍の大幅増強が必要だ」というものであった。1946年春までには天皇不起訴で国際的合意が出来たようだ。

連合軍の起訴(検察団)

1945年9月11日の第1次戦犯容疑者逮捕令は43名のリストを用意したが、11月のアメリカ政府の指令は戦争組織者の拡大逮捕を要望し、逮捕件数は内外を含めて25000名、そのうちA級該当者は百余名となった。逮捕前に自決した者は、橋田邦彦(文相)、本庄繁(関東軍司令官9、近衛文麿(首相)であった。多くの政治・軍人のエリートが巣鴨プリズンに収容された。BC級戦犯では「マレーの虎」山下奉文陸軍大将はマニラで裁判を受け即決死刑に処せられた。日本人は自ら戦犯の責任追及ではなく勝者の処罰を歓迎したようだ。吉田茂は軍国主義者や軍人の逮捕を受け入れ、次なる日本の再建を急いだ。1945年秋に大本営、徴兵制、軍人恩給、陸海軍省を廃止し武装解除が一段落したところで、12月6日東京裁判のアメリカ検察陣(代表検事ジョゼフ・キーン)が来日した。占領に先立って霞ヶ関では政府関係文書焼却という愚行が行われ、これが事実に基づいて審理する検察にとってそして無実を主張する被告にとって重大な障碍となった。正しく日本を理解してもらえるチャンスだったのに、文書を焼却して事実の曝露を恐れる者が本当の悪だったのだ。

繰り返すことになるが、国際軍事裁判ではB級は論じない(通常の戦争犯罪は2国間の個別裁判に任せる)し、又日本の場合はC級の人道問題はないので、A級のみの裁判となる。検察の第1の政策課題は起訴の対象時期の設定である。アメリカは真珠湾攻撃だけを重視したかったのだが、アジアの領土的・政治的・経済的支配を目的とする「協同謀議」は満州事変までを遡及・告発する方針となっていた。陸軍省は国内刑法の「協同謀議」という概念を侵略戦争の開始にも使用したのだ。「空気を読む」日本の感覚からすると、あからさまな「協同謀議」の言葉はなじまないが、西洋人の「謀略史観」からすると少数のエリートが自己の利益のために国家を巻き込む陰謀を企てるということは理解しやすかったのであろう。ニュベルング裁判の「犯罪的組織」を起訴する方針はイギリスが反対し、結局個人だけを訴追対象とした。検察側は起訴状と平行して裁判の基本法(裁判所憲章)を作ることを求められた。1946年1月19日マッカーサーは極東国際軍事裁判所の設立を宣言し憲章を公布した。憲章の狙いは、「平和に対する罪」で起訴すること、宣戦を布告しない侵略戦争で満州事変や日中戦争を対象とする、マッカーサーが裁判長を任命し首席検事を任命する、判決は出席判事の多数決制とする、犯罪組織の起訴はしない、欠席裁判は認めないなどであった。イギリス連邦派遣検察陣は、キーン首席検事を除いて参与検事の地位の低さとアメリカ検察陣の仕事にやり方に不平を募らせ、起訴状委員会、事件条約委員会、証拠・被告委員会の執行委員会を組織して仕事を軌道に乗せた。オーストラリアなどの天皇起訴論に対してキーン首席検事はマッカーサーの拒否権をちらつかせて抑制し、ソ連が意外にも不起訴に同意した。天皇の地位は翌年1947年5月3日の憲法発布で確定した。

こうして天皇起訴問題をクリアーした検察陣は、つぎに誰を起訴するかの第二の政策課題に入った。イギリスは1931年から45年までの15−20の事件で大物責任者を起訴すべしという意見で10名をリストした。大物といっても各国の関心には食い違いがあって、アメリカは真珠湾攻撃の関係で東条英機内閣の起訴を望んだが、連合国には温度差が大きかった。執行委員会の被告選定基準は平和の罪に関すること、各段階での代表者、有罪とする証拠がある事、協同謀議に参加したことであった。情報の不確かさからちぐはぐな被告選定となって、満州事件では本庄繁が自決したので職位から石原莞爾ではなく板垣征四郎が起訴される始末であった。実質の権限は若手に渡っており職位が上のものは実行に預からず黙認するだけという日本の官僚機構をよく知らないせいであった。とはいえ1946年4月10日26名が起訴された。被告の氏名学歴役職と判決量刑を表にして示した。

東京裁判A級被告一覧
氏名学歴など階級 役職量刑
荒木貞夫陸大19期大将 陸相終身禁固刑
土肥原賢二陸大24期大将 第7方面司令官死刑
橋本欣五郎陸大32期大佐 参謀本部ロシア班長終身禁固刑
畑俊六陸大22期大将 元帥 中支那派遣軍司令官終身禁固刑
平沼騏一郎東大卒 1917年大蔵省首相 枢密院議長終身禁固刑
広田弘毅東大卒 1905年外務省首相 外相死刑
星野直樹東大卒 1917年大蔵省東条内閣書記官長終身禁固刑
板垣征四郎陸大28期大将 陸相 関東軍参謀死刑
賀屋興宣東大卒 1917年大蔵省東条内閣蔵相終身禁固刑
木戸幸一京大卒 1915年農商務省内大臣 文相終身禁固刑
木村兵太郎陸大28期大将 ビルマ方面司令官死刑
小磯国昭陸大22期大将 首相終身禁固刑
松井石根陸大18期大将 中支那方面軍司令官死刑
松岡洋右オレゴン州立大卒 1904年外務省外相病死
南次郎陸大17期大将 陸相 朝鮮総督終身禁固刑
武藤章陸大32期中将 陸軍省軍務局長 死刑
永野修身海大8期大将 元帥 海相病死
岡敬純海大21期中将 海軍省軍務局長終身禁固刑
大川周明東大卒国家主義思想家精神病で免除
大島浩陸大27期中将 駐獨大使終身禁固刑
佐藤賢了陸大37期中将 陸軍省軍務局長終身禁固刑
重光葵東大卒 1911年外務省駐英大使 外相禁固7年
白鳥敏夫東大卒 1914年外務省外務省情報部長 駐伊大使終身禁固刑
嶋田繁太郎海大13期大将 海相終身禁固刑
鈴木貞一陸大29期中将 東条内閣国務相終身禁固刑
東郷茂徳東大卒 1912年外務省東条内閣外相禁固20年
東条英機陸大27期大将 首相 関東軍参謀長死刑
梅津美治朗陸大23期大将 関東軍司令官 参謀総長終身禁固刑

陸軍のエリート15名が起訴され、海軍は3名であることから、陸軍が軍閥の枢軸とみなされ、日独伊三国同盟の責任者として松岡、白鳥、大島が起訴され、東条内閣閣僚の星野、賀屋、鈴木、東郷、嶋田、重光が、東条内閣の生みの親である木戸と、東条派閥の木村、武藤、佐藤と東条内閣関係者10名が起訴された。アメリカのターゲットは陸軍軍閥と東条内閣であったことが明確な被告の選び方である。

検察の最期の政策課題は罪状である。平和に対する罪の協同謀議が五つに分割された。@1931−1945年の全般的協同謀議、A満州事変、B日中戦争、C日独伊三国協定、D太平洋戦争である。この期間の内閣は田中義一内閣から鈴木貫太郎内閣の17の内閣があった。そして現地でのB級犯罪に対して東京の指導者にも残虐責任を問う訴因と「殺人」という東京裁判独自の訴因があり、これは死刑にする為のA級とB級のあわせ技一本策である。個人の責任を問う訴因は55項目からなり、平和に対する訴因は36項目、殺人では15項目、通常の戦争犯罪と人道に対する罪の訴因は3項目となった。東条英機に対しては50項目の訴因(罪状)を羅列し、一番少ないは白鳥の25項目であった。

こうして1946年5月3日10時30分、市谷の陸軍省大講堂にキーナン首席検事、ウエッブ裁判長が入廷して東京裁判が開廷した。検察側の立証は6月4日キーナン首席検事の冒頭陳述から始まり、文明の断固たる闘争を開始するという宣言で始まり、侵略戦争は国家自体がするのではなく責任は個人にあるのだから個人を告発するということだった。公判では証言よりも「証拠書類による立証」に重きを置くという方針で時間節約を志した。証人には大内兵衛、滝川幸辰、前田多門、鈴木東、篠原喜重郎、徳川義親、若槻礼次郎ら民間人が立ち、「日本人でもって裁かしめよ」という検察側の戦術であった。異色の証人は元陸軍兵務局長の田中隆吉氏で陸軍を告発した内容の証言を行った。また元満州国皇帝薄儀がひたすら責任転嫁の証言をおこなって哀れを誘った。ソ連側の証人として瀬島龍三元大佐、草場辰巳中将、松村知勝元少将らが立った。ソ連の東京裁判とは共産党の自己弁護と政党制を証明する場であって、弁護側の発言を封じ込め反論を許さないという異常なものに終始した。アメリカ、オランダ、オーストラリアなどの諸国の自国への残虐行為の証言は裁判の長期化し、キーナン首席検事の迅速な裁判の趣旨には反するものとなった。

日本側の弁明(弁護団)

この章では連合国検察団の起訴状に対して日本の弁護団がどう闘ったかということではなく、日本政府がどういう対応をしたかということに重点を置いている。日本人弁護団長は鵜沢総明(東大総長)となったが、その日本人弁護団の内部分裂がはなはだしく、副団長の清瀬一郎らの在野弁護士派は「国家弁護=自衛戦争論」を唱え、高柳賢三ら外務省内外法政研究会派は「個人弁護」に徹するというものであった。日本弁護団の中の意見の対立と感情の反目が著しく、団長の鵜沢と副団長の清瀬の主導権争いも大きく足並みを乱したようだ。占領軍の権力は絶大で首相任命すら占領軍の意向で決まった。外務省は外交権を剥奪され「終戦連絡中央事務局」(終連)の看板を掲げた。政府はポツダム宣言の無条件降服にしたがって協力するしか選択肢はなかった。そういうなかで政府は戦犯問題にかかわる事を極度に恐れ、いわば被告たちを見殺しにした。日本政府の対応は基本的には「協力」であるが「一部抵抗」の立場も存在した。終連の第1部戦犯問題の中村公使は、「戦犯審査対策委員会」を設けて政府で戦犯と弁護団を指導することを主張し、「戦争責任に関する応答要領」という裁判統一見解を作ろうとしたが、外務省および吉田茂はこれらの考えを却下した。政府の弁護が戦後処理に大きく影響することを恐れ、政府としては弁護団を指導することは避けた。政府方針は@マッカーサー指令に忠実に従って履行する、A戦犯は公式には弁護しないが連絡お世話の事務を行うというものであった。吉田茂にとって戦犯裁判は日本再建構想に位置づけ、連合軍の戦犯裁判方針を歓迎した。

戦前の日本法制では欧米の裁判制度になれていないことや言葉のハンディキャップが大きい事から、アメリカ人弁護団がつくことになった。ニュルンベルグ裁判では弁護団はドイツ人だけであったが、アメリカは「報復裁判」批判をかわすためにか弁護団の派遣を決めた。弁護団内部には日本人弁護団と別にアメリカ人弁護団のアメリカ局があった。アメリカ人弁護士団は個人弁護の重きを置くため、日本人国家弁護派との意思疎通や協力もなかった。戦犯被告はむしろアメリカ人弁護士を信頼する傾向にあったという。1947年2月清瀬弁護人の冒頭陳述にアメリカ人弁護団が反論する始末で、被告からも冒頭陳述に反対意見がでた。最初から弁護団の意見はまとまらないまま、ちぐはぐな弁護が始まった。弁護側の論理は通常の戦争犯罪は「交戦法違反」だけで、平和への罪や人道への罪には「管轄権」がないので、侵略戦争を罪にすること事態がおかしいという公訴棄却動議で対抗するものであった。これに対する検察側の反論は26名の一人ひとりに対する罪状が平和に対する罪に当るという根拠を述べ立て、役職重視で刑事責任ありとした。1947年2月清瀬弁護人の冒頭陳述は、太平洋戦争はまさにやむにやまれぬ自衛戦争で、中国での戦争の各々の事件は行きがかりか仕組まれたもので、満州国建設は住民が望んだことだという論理であった。この前の(2008年)海上自衛隊幕僚の「論文」とおなじ論拠であった。弁護側と検察側の真っ向からの対立は平行線のまま推移し、途中アメリカ人弁護士スミスと裁判長ウエッブの対立があってスミスが法廷から追放されたりしたが、冷戦情勢の変化に期待する弁護側の裁判引き伸ばし戦術も効なく、1948年1月弁護側の反証は終了した。NHKの報道では「弁護側は日米とも精彩がなかった」という。

被告達も国家弁護論なら団結するが、個人弁護なら自分は平和主義であったとか、自分には権限がなかったとする責任回避論に傾くのはやむをえない。とくに真珠湾攻撃をめぐる陸軍と海軍の対立であろう。ハルノートと開戦決意をめぐってついに泥仕合を演じ、それでも日本男子かと疑われる軍人エリートの醜態となった。自己弁護に終始したのが西園寺公望に繋がると自負する宮中グループの木戸幸一であった。自分は平和と開戦阻止に働いたとする木戸の態度に巣鴨の軍人グループの批判は最悪であった。アメリカ人は裁判での被告連の責任のなすり付け合いを見て「旧指導者に嫌悪と幻滅を覚えた」という。その中で責任が天皇へ向かうのを東条英機は「戦争責任は自分で負う、陛下にはご迷惑をかけぬ決心」と最期のご奉公振りであった。東条は戦争責任は認める一方、自衛戦争論を強調し戦争の犯罪化に反論した。

極東国際軍事裁判の判決(判事団)

裁判は戦争の延長であり、戦争のけじめが裁判なのである。裁判の公平性からすればアメリカ一国で裁くのは批判を受ける。すくなくとも連合国の国際裁判ではない。最初は判事をニュルンベルグ裁判に倣って米英仏ソに限定したかったようだが、日本との交戦国が参加を望めば断るすべはない。そこで降伏文書に署名した九カ国アメリカ、イギリス、中国、ソ連、フランス、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージランドに決めたが、さらにインド、フィリッピンも参加する11カ国の巨大な法廷となった。裁判長はオーストラリアのウエッブとなったが、判事団に緊張と内紛をもたらしたのはほかならぬ裁判長であった。ウエッブは侵略戦争の犯罪化の管轄権をめぐって、慎重論を展開したために、判事団は紛糾しイギリス代表のパトリック判事は「戦争犯罪と個人責任」を適用する事が任務であるとして、ニュージランド、カナダと組んでパトリックグループ(多数派)として結束した。裁判長ウエッブの書いた自然法的「意見書」は判事団から総すかんを食い、パトリック判事が意見書を起草した。判事団のなかでは、中国、ソ連はパトリック主流派の意見に概ね賛成であるが、オランダは反対で、フランスは自然法的で裁判長の意見に近かった。インドのパルは最初から東京裁判に反対で(日本無罪論)、アメリカのクレーマーは一番若いせいもあって積極的に意見は述べなかった。ということで判事団は崩壊寸前にあった。パトリック判事はニュルンブルグ裁判と東京裁判が一致することが絶対必要だとしてマッカーサーに事態打開を求めたが、埒が明かないのでパトリックは多数派工作に乗り出した。1948年3月ごろの判事団において多数派はイギリス、カナダ、ニュージランド、アメリカ、ソ連、中国の7カ国、ウエッブ裁判長オーストラリア、フランス、オランダ、インドは少数派となって決定過程からはずされた。判事団は分裂し、「多数派起草委員会」が1948年3月の管轄権の判定理由を決定した。1948年4月16日の法廷で結審した。公判416回、証人419人、約2年の裁判は終った。判決文が翻訳に廻されたのが1948年7月26日であった。判決が出たのは11月12日午後3時55分であった。

東京裁判の多数派判決は上訴審のない確定判決である。判決の認定を見てゆこう。まず判事団を分裂させた「管轄権」問題であるが、ニュルンベルグ判決の立場に無条件の賛意を示し、裁判所憲章は本裁判を拘束すると認定した。つまり「平和への罪」について裁判所が判定するのは当然というわけである。事実認定については1927年から1945年間の日本の行動を「反枢軸国」の筋書きで批判した。日本の侵略戦争の「協同謀議」は1927年田中義一内閣から軍人の一派と大川周明の間に発生したという。満州事変、広田弘毅内閣の「国策綱領」、近衛文麿内閣で侵略戦争は決定的になった。日本の「侵略政策の一貫性」を示すのが判決の歴史観であった。その主役が陸軍だというのだ。閣議も省議も協同謀議なのだからいちいち目くじらを立てても仕方がない。アメリカの陰謀史観の「協同謀議」とはえてしてそういうものである。戦犯の刑量が決まったのは1948年11月12日の判事団会議だったらしい。上の表に被告の刑量を示した。土肥原、広田、板垣、松井、武藤、木村、東条の7名が絞首刑、16名が終身刑で、有期刑は東郷と重光の2名のみであった。

ではこの判決に対して日本人の反応はどうだったのか。第1に知識人の反応の殆どは戦争そのものを絶対悪とみなして東京裁判の判決と理念を明確に支持した。憲法第9条の理念通りであった。第2に政治エリート(政治家、官僚)にとって東京裁判はタブーで日本政府のコメントもなかった。ただし吉田内閣は判決を容認していた事は伺える。第三に日本の庶民の判決に対する反発はなかった。空襲の痛手を蒙り日本軍の横暴に苦しめられた庶民はこれで軍国主義者が一掃されたことに、歴史は逆戻りしないという安堵感を持った。しかし日本人の反発はなかったといえば嘘であろう。反発は抑制され表に出なかったというだけで、政治エリートの間には民族感情がくすぶり続けていたというのが本当である。それが今になって「戦後レジームの改革」となってでているのである。憲法改正論議も埋み火のようにくすぶっている。著者は判決の死刑の刑量に疑問を持っているようだ。これを終身禁固刑にしていずれは釈放されるほうが徒に民族的屈辱感を与えないベターな方法だというのである。しかし私はそれは甘いと思う。どの戦争でも敗戦国の首謀者は即刻死刑が常識であるからだ。ただし侵略戦争は犯罪という論点つまり「平和に対する罪」は戦争がそもそも歴史的、相対的なものである限り、絶対的正義という原理主義は通用しないのが常識である。アメリカは現在でもイスラム国に対してイラン戦争のように絶対正義の原理主義で対処するのは滑稽である。

この判決における判事団の少数意見はウエッブ裁判長の別個意見、インドのパル、オランダのレーリンク、フランスのベルナール判事の反対意見が付されているが、読み上げられなかった。なかでもインドのパル判事の反対意見は判決文(1455ページ)とほぼ同量の1235ページもある膨大な「東京裁判無効論」であった。パル意見は、戦勝国は「通例の戦争犯罪」の管轄権を持つに留まり、新しい「平和に対する罪」を制定する権限を有しないというものだ。弁護側も否定しなかった「南京虐殺」という日本軍の虐殺行為をパルは認めたが、アメリカは原爆を投下するという非人道的な虐殺行為をしておきながら、「人道」だの「正義」だのを持ち出す資格はなく、戦争の犯罪化は時機尚早であると断定した。またパルは侵略の定義は難しいともいった。従って被告は刑法上無罪だと論じたのである。パルは日本の戦争を相対化し、西欧帝国主義が政治的に敗戦国を罰するのは無茶だいった。しかしながらパルの意見は個人的見解であり、インド政府とは無関係であった。

冷戦構造と戦犯の釈放

ニュルンベルグ裁判において、対ソ関係の難しさから第2次国際裁判を継続することはあきらめた。同じように対日国際裁判継続構想はマッカーサーが嫌って、単独BC級裁判論に傾いた。連合軍各国も大変な労力と経費のかかる国際裁判を継続する事を敬遠した。イギリスが先ず第2次国際裁判不参加を表明した。巣鴨に残留するA級戦犯容疑者は20名ほどであった。マッカーサーは1948年9月に8名をBC級裁判で起訴したいといったが、10月にまず豊田海軍大将と田村陸軍中将の2名をGHQ裁判で起訴し、1949年1月に安倍、安藤、岩村、岸、後藤、谷、寺島の8名の元東条内閣閣僚裁判を行う予定だった。児玉誉士夫らA級容疑者11名は不起訴で釈放の方針だった。1948年12月23日巣鴨で東條ら7名の死刑が執行され、翌24日A級容疑者17名全員が釈放された。このA級戦犯容疑者全員の釈放は占領軍の対日政策の変換を意味した。対日政策を日本の無害化から経済自立・日本安定化に転換するもので、それゆえ戦犯裁判を早期に終結した意向であった。日米国際関係が裁判という法律万能主義から政治的プロセスへの誘導にかわったのだ。

各国の対日BC級戦犯裁判はオーストラリアが1951年4月に終了し、完全終結した。ここから戦犯の赦免(減刑)が始まるのである。1949年12月24日マッカーサーのクリスマスプレゼントとして善行特典と拘禁特典による減刑を占領軍に命令した。そしてGHQは1950年3月7日戦争犯罪人の「仮釈放委員会」を設置し、司法解釈による漸進的釈放が始まり、巣鴨での待遇改善が進んだ。終身禁固刑のものは15年以上の服役が必要でまだ釈放対象にはならず、有期刑の重光葵と東郷茂徳が減刑の対象である。1950年11月21日重光葵が巣鴨を出た。1951年9月8日対日講和サンフランシスコ条約が締結された。主権を回復した日本にその第11条戦犯条項には、「刑を遵守し、減刑は連合国の承認を必要とする」となっており、日本政府は判決を受諾し、刑を執行する義務を負うことである。又日本国憲法第98条2項には国際法規遵守が謳われており、国際軍事裁判の判決と講和条約11条をご破算にすることは国際信義上できる相談ではなかった。GHQの仮釈放制度によって1952年4月28日の講和条約発効までに既に892人が釈放されていた。なお拘禁されている者は1244人で、A級戦犯は病死の梅津、白鳥、東郷、小磯の4名を除いて13名である。

サンフランシスコ講和条約発効後が戦犯援護の転換期となった。巣鴨は日本の管理下になり、公職追放令も廃止された。漸進的釈放から特赦による全員釈放運動が開始され、1952年6月衆参両議院の戦犯釈放決議になり、日本の国内法「条約11条による刑の執行および赦免に関する法」が公布された。厚生省復員局や法務省は「釈放急進論」を唱えたが。吉田茂内閣や外務省は「釈放漸進論」であった。外務省は裁判国に「釈放を勧告」する外交交渉を開始した。アメリカは漸進論ながらBC級戦犯の釈放勧告に対応した。フランス、中国国民党政府、フィリッピンはBC級の仮釈放に応じた。この間に中国共産党政府の樹立、ソ連の平和攻勢、第5福竜丸水爆被爆事件などがおきて、BC級戦犯の釈放が一気に進んだ。10年服役したBC級受刑者の仮釈放ルールが出来て、1957年末より刑期30年以上のBC級全員が仮釈放資格を得た。1954年10月A級の南、畑、岡が医療釈放された。「一時出所制度」ができ帰宅することも可能となり、巣鴨には寝に帰るだけの拘束であった。東京裁判国会議が1955年9月に開かれA級受刑者にも10年ルールが適用された。1956年までに橋本、賀屋、鈴木、星野、木戸、大島、佐藤が仮釈放された。こうして1958年4月A級受刑者へ全員刑期満了となって釈放された。BC級は1958年12月29日で全員が釈放され、すべての戦犯釈放は岸内閣の時に完了した。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system