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森正人著 「大衆音楽史」 

  中公新書(2008年8月)

ポピュラーミュージックの大きな流れを文化史の文脈で考える

クラシック音楽の歴史については、時代別、国別、作曲家別、ジャンル別にくわしく研究されている。ところがポピュラーミュージックの歴史や文化史についての著作は珍しいので読んでみた。ポピュラーミュージックの歴史はそれほど古くはなく、20世紀にはいってからの現代音楽である。私の人生で同時並行で大体経験した事柄である。業界の評論家たちが紹介するポップスが、学者の研究対象として大真面目に取り上げられる事が面白い。ダンスホールや映画音楽としてのポピュラーミュージックは、メディアの技術革新とレコード産業の進展によって大衆音楽として巨大な市場を構成するまでになった。本書に取り上げる大衆音楽とは、ジャズやブルース、ロックンロール、パンク・ロック、レゲエ、モータウンとヒップホップ、ラップである。私の聴くポップスといってもブルース、ジャズ、ロックまでであって、実はヘビメタ以降のパンク・ロック、レゲエ、ヒップホップ、ラップなどは生理的にうるさいだけで聞きたくない音楽である。そしてダンスが不可分に入ってくるヒップホップ、ラップなどはリズムに体がついてゆかないのである。ということで本書が取り上げるジャンルの半分以上は聴かない音楽である。では本書を読んでも意味がないのかというと、そうではない。文化史としての位置つけは興味があるからである。

森正人氏のプロフィールを紹介する。1998年 関西学院大学文学部史学科(地理学専修)卒業 2003年 関西学院大学大学院文学研究科博士課程修了。 神戸女学院大学、星ヶ丘厚生年金保険看護専門学校非常勤講師を経て三重大学人文学部准教授となる。2006年9月〜2007年9月 イギリス、ダーラム大学地理学部、海外招へい特別客員研究員として留学する。専攻は「文化地理学」だそうだ。文化地理学とは何ぞやと興味のある人は森正人のホームページをクリックしてください。日本に居られた時の専攻は四国お遍路の文化地理学が研究テーマであったが、イギリスに留学後黒人音楽ポップスの文化史に興味が移ったらしい。グローバルではないローカルな特異性に注目する文化地理学の手法で黒人音楽を読み解こうとする30代中頃の新進気鋭の研究者である。グローバルな価値をもつクラシック音楽史ではない、被支配者階層や黒人や若者文化といった階層別音楽、ヒップホップ、レゲエといった発生場所特異音楽などの接触と伝播という文化事象に著者は注目するのである。差異に注目し、変容・創造を見るのである。文化地理学という聞きなれない学問分野について一言述べておこう。「ある時代のある場所で文化がどのように作り上げられて維持されてゆくか、そこに生きる人々の感覚がどのように構成されるかを考える事である」と著者は定義する。

本書は「大衆文化の文化史」という側面を持つもので、業界の些事にわたる情報や音楽評論ではない。そもそも音楽とは自然界にはない、人間の創造的行為・文化的実践である。著者は音楽を文化と見ることで、幾つかの既成概念の移動や融合の事実を模索することを目的にする。対立する既成概念の移動というのは、
@高級文化と大衆文化、クラシック音楽と大衆音楽という区分である。文化芸術と商品化、高級と低俗化という対立する概念がいかに簡単に乗越えられるかということだ。19世紀初頭から、貴族の館やオペラハウスで演奏される貴族音楽に代わって、酒場で大衆を相手ととする大衆音楽が姿を見せるのは、産業革命を終えて労働者が都市を占拠し始める頃である。高級文化と大衆文化の序列化や交流が見られた。
A特定の集団・階層が愛好する音楽の交流である。民族・階級・年齢・性別・人種などという虚構の概念で音楽をくくっても、それらは直ぐに移行するのである。
B文化・政治・経済という区分である。生活スタイル(文化)を文化現象(音楽など)で説明しようとする」文化決定論」の因果関係は極めてあやふやである。そして文化現象を経済・階級から説明する「経済還元主義」も一定の説明は出来るが、メディアの技術進歩でレコード・CD・iPODなどの商品が世界中に広がると人々の意識も変えてしまう。貧乏人の息子がCDラジカセでクラシックファンになるということである。別に不思議な事ではない。文化・政治・経済は一筋縄で説明できるものではない。
C音楽の発生し維持される現象を「場所・空間に固定」することも、原理的に「移動」が出来ないわけでもない。ジャマイカでレゲエ、ニューオリンズでジャズというのは決して説明できるものではなく、時間的かつ空間的条件が偶然に交差したところで、偶然に一つの音楽ジャンルが登場したというべきであろう。
D音楽の媒体という「物質」と、音楽を聴いて楽しむという「非物質」の区分の横断である。物質が供給されて、音楽が流行し、それに応じてディスコやホールが作られてゆく関係というか相互作用のことである。
Eよく言われる黒人や若者の「抵抗」音楽が「商品化」され流行するとそれは堕落なのだという二律背反(ジレンマ)的な捉え方がある。商品化される音楽(音楽関係者)は抵抗の主体たりえないのだろうか。しかし資本主義の世界では商品化を免れる事は幻想である。音楽関係者が飯を食えるのも「抵抗」商品が売れるからである。「抵抗」商品が売れないと抵抗主体も消えてなくなるという絶対矛盾が存在する。豪華な家に住んで、アメ車を乗り回す成功した「抵抗」音楽家も滑稽な存在である。市場は単一のイデオロギーが支配する場ではない。「抵抗」も「商品化」も表裏一体なのである。「抵抗」という属性がないと商品も売れないことも事実である。

19世紀初頭から都市の労働者階級が主体となって、貴族音楽に代わって酒場で大衆を相手ととする大衆音楽が姿を見せた。大衆が好んだポピュラーミュージック(大衆音楽)の歴史をおさらいしておこう。大衆音楽のもとは宗教儀礼、労働という生活に根ざした民謡にあることは論を待たない。19世紀に産業革命と都市化が始まると、農村の民謡は影を失い、牧歌から都市の貧困をうたうストリートミュージシャンに変身した。大道芸人の類である。物語を歌詞とする「バラード」を街頭や「パブ」という居酒屋で歌い販売することで糊口を凌いでいたという。江戸時代の瓦版に似たような存在で、新聞が出始めた19世紀中頃には廃れてしまった。産業革命後のイギリスのロンドンでプロの芸術家の活躍できる場所は劇場やミュージックホールであった。ミュージックホールに出入りしていたのは労働者や貧しい中産階級であった。音楽の産業化は1886年の著作権法が出来てからである。出版社は音楽著作権教会を設立したのである。ミュージックホールの主役はチャールズ・チャップリンという喜劇役者であった。日本でも戦後浅草のストリップ劇場から多くの喜劇役者が生まれたのと同じ事である。一方アメリカのニューヨークでは1900年騒々しい音楽という意味の「ティン・パン・アリー」という出版会社が生まれた。楽譜の著作権料から収益を得て、主として寄席演芸場で歌うバラードを大量生産した。その作曲家は東欧や中欧から来たユダヤ系移民が多かったという。1914年ごろレコード産業が確立するとダンスホールでは複製音楽が流れ、そしてEMIなどのレコード会社も設立されていった。次に1920年にラジオ局が生まれ音楽の実況中継が人気となり、大衆音楽のあり方を大きく変えていった。ニューヨークブロードウエイのミュージカルはダンスと音楽の結合はオペラに代わって大衆の絶賛を得た。1935年ガーシュウィンの「ポーギーとベス」はその頂点であった。そして1910年ごろにはロスのハリウッドに映画会社が次々と設立された。1930年初頭までにハリウッドにおける映画ミュージックは完全に確立され、大衆の娯楽は演劇場から映画館に移行した。映画を見るかラジオを聴くかが庶民の余暇の日常生活となった。「アメリカ作詞家・作曲家および出版社協会」ASCAP、「放送音楽法人」BMI、「アメリカ音楽家協会」AFoMらが音楽ジャンルの囲い込みと独占に動いた。「スウイングジャズ」からソロのミュージシャンやヴォーカリストがうまれるのも1935年ころである。大量生産と大量消費という資本主義経済の原則が大衆音楽の主軸となったのである。音楽の様式も天才・職人の作るものではなく、規格化されたステレオタイプな音楽が流行に乗って大量供給される次代が生まれた。これはある意味で聴衆の退化となり、受容するだけの存在となるのは資本主義の宿命なのだろうか。

黒人音楽ージャズとブルース

18世紀世界最大の帝国主義国家イギリスはアフリカ西海岸の黒人を奴隷として購入し、西インド諸島およびアメリカ南部にサトウキビ・綿プランテーションの労働力として輸出し(黒い積荷)、砂糖と綿をイギリスに輸入した(白い積荷)。アメリカで1865年黒人奴隷が解放されると、彼らはアメリカ南部を後にアメリカ各地へ移動した。20世紀になると黒人の芸人がいわゆる社会的「悪所」(江戸時代の吉原に同じ)に集まって、「ラグタイム」という黒人音楽が現れた。これはピアノ演奏でいう「シンコペーション」という技法で、ダンスホールなどで「ケークウォーク」とよばれたステップダンスの伴奏曲として流行した。このラグタイム人気は1918年にジャズが登場すると下火になった。もうひとつの黒人音楽とはブルースである。それは奴隷制時代の労働歌やダンス音楽「ブギウギ」として、また「黒人バラード」の成立や白人文化としての教会音楽の黒人版として「ゴスペル」が誕生した事などが背景にある。いうまでもなくこれら黒人音楽は決してアフリカの音楽ではなく、白人との接触において黒人が創造した音楽である。ブルースは安酒場や演芸場で大流行し「セントルイスブルース」という大ヒットを生んだ。ブルースは「ブルーノート」という独特のスタイルを持った。ブルースの流行はミシシッピーでは「カントリーブルース」となった。ニューオリンズではジャズバンドがうまれ、1917年はじめて「ジャズ」なる言葉が命名された。1920年以降ジャズは最盛期を迎えた。第1次世界大戦のころから黒人は南部農村から繁栄するデトロイト、シカゴという北部工業都市へ大移動した。南部から北部への黒人の移動は人々の生活習慣や思想・好みなど文化的な移動を伴っていた。これを文化地理学では文化の接触地帯「コンタクト・ゾーン」という。シカゴでは「ニューォリンズ・ジャズ」が形成された。その花形トランペッターがルイ・アームストロングであり、一人のソロだけが即興で演奏し、あとのバンドが伴奏するというスタイルを確立した。

皮肉な事にジャズが最盛期を迎えたのは、ジャズが白人向きに脱色され商品化されるという条件がついていたのだ。より上品なジャズとして「シンフォニック・ジャズ」が現れたが、本物のジャズとは似ても似つかない代物であった。しかし白人の若者は黒人音楽を保守的社会に対する「抵抗」と読み替えて「ロック」へと繋がってゆくのである。女性ヴォーカルをショー化したのが「クラシック・ブルース」であった。大恐慌時代にシカゴのレコード会社や娯楽施設は整理時代にはいり、代わってニューヨークが主役になって騒々しくて激しい「ニューヨーク・ジャズ」が生まれた。ニューヨークではシカゴやニューォリンズとは違った白人演奏者による「ディキシーランド・ジャズ」が生まれ、黒人はハーレムで「ビックバンド・ジャズ」(スウィング・ジャズ)を展開し、1930年代デュークエリントンバンドで頂点を迎えた。ベニー・グットマンで一層洗練された白人向けのショービジネスとなり、脱色されたジャズの黒人らしさの強調は他の音楽との差異化に過ぎず、ひとつの記号的商品となった。黒人の愛したブルースも1930年代には大きく様変わりし、個人が楽しむものではなく、大規模してショービジネス化した。つまり牧歌的なブルースから力強い都会的なブルースへの転換である。カンザスシティで活躍したブルースピアノ演奏家にカウント・ベーシーがいた。

第2次世界大戦後ジャズは大規模ジャズとブルースは影を潜め、ニューヨークのハーレムで自由な即興演奏を求める「アーティスト」が蠢いた。セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらの「モダン・ジャズ・バンド」(バップ)が生まれた。彼らは自己の絶対視(聴衆無視の自己陶酔)から内向的(アーティスト至上主義)になり、ついには薬と酒に身を持ち崩す事になった。この期を代表するのは「クール・ジャズ」であり、クラシック的素養によるジャズトランペッターであったマイルス・デービスと、サックス奏者ジョン・コルトレーンであった。マイルス・デービスは戦後ジャズの流れを一人で代表する巨人である。政治的にはキング牧師に代表される黒人人権運動と表裏をなしていた。彼はより黒人的音楽を意識する「ハード・バップ」、即興性に優れた1950年代は「モード・ジャズ」、1960年代には「エレクトリック・ジャズ」でアンプの音を利用し、1970年には「ロック・ジャズ」や「ヘビメタ・ジャズ」というわけのわからない強烈な音をめざすなど、絶えずジャズの改革や新しいスタイルをめざした止むことのない変革者であった。批評家たちはこれらを「アンチ・ジャズ」といって排斥し、ジャズメンは活動の場を求めて欧州で演奏する事になり、1980年初めに消滅した。しかしシカゴでは黒人音楽の伝統はブルースに脈脈と受け継がれた。1950年代「シカゴ・ブルース」は電気化し、旧来のブルースは新しいブルースに取って代られた。ロックにジャズやブルースの要素が取り入れられたり、逆にブルースの演奏家がロックを演奏することもあった。もはやジャンルを明確に特徴つけることは出来なくなった。レコード会社は黒人音楽を「人種的」と認識されるの恐れ、ジャズやブルースを総称して「リズムアンドブルース(R&B)」というようになった。

ロックンロールと若者文化

ここから白人の若者音楽になる。ロックが生まれるまでの歴史を見てゆこう。黒人音楽に対して、アメリカ南部の白人音楽のジャンル「カントリー・ミュージック」は、フォークソングやバラードと結びついた「ヒルビリー・ミュージック」(田舎音楽)であった。ロックの前駆をなす「カントリー・ミュージック」は1920年代レコード会社が新音楽分野開拓で命名した呼び名である。バラード「テネシー・ワルツ」がヒットし、スタンダードとなった。またロックとはオハイオ州のラジオ番組で力強い黒人ダンス音楽を、性行為を意味するロックとロールを結びつけて「ロックン・ロール」といったのが始まりである。これに対して黒人音楽を恐怖する白人人種主義者らは黒人色を一掃したので、ロックン・ロールは白人の若者の音楽として定着した。1950年代は世界的に経済成長期に入り、テレビ・映画・ファッションの流行で、白人の若者は親世代とは違う価値観を求めジェームス・ディーンが反抗のシンボルであった。音楽と視覚的イメージが結んで、カントリー・ミュージックにアコースティック・ギターとベースとドラムを激しく鳴らす音楽「ロカビリー」が生まれた。ロカビリーとはロックとヒルビリーの合成語である。1956年エルビス・プレスリーが「ハートブレイク・ホテル」をヒットさせ、ロックの市場はポップスを飲み込んで一気に膨れ上がった。ロックはより大衆的な商品として再構築され、価値観に対する反抗から感傷的な文脈へ変化し、性から恋愛という無難な文脈への変質を遂げた。

一方イギリスではロックをアメリカの文化侵略と警戒したが、港町リヴァプールではアメリカのカントリー・ミュージックが流行していた。ローリング・ストーンズはジャズブームの影響を受けて黒人ぽいカントリー・ミュージックの旗手となった。1962年のデビューしたビートルズはロックをポップス化してブリテッシュロックを定着させ、イギリスのみならず世界のポップス地図を塗り替えた。ビートルズの中性的イメージはファッションと音楽の視覚化により、多くの女性ファンを掴んだ。黒色を主体とするきちんとしたスーツ姿の「モッズ」が流行した。アメリカでもボブ・ディランのカントリー・ミュージックは、ベトナム戦争反対の「ヒッピー」によって支持された。こうしてそれぞれの場所が持つ社会的文脈に沿いながら1960年代末にはロックは世界中に広がった。初期のロックが持っていた思想は制度化された社会的通念への苛立ちと異議申し立てであったが、レコード会社が流行を見て市場化を図った時から、ロックは次第に骨抜きにされメロドラマに変身したのである。ロックの反抗自体もいい加減な風潮であったのだ。ロック産業はメディアの総動員で「イベント」化して、巨大なコンサート会場を何万人で埋めるかが売れ筋の証明となった。これをショービジネスという。

パンク・ロックと抵抗

ロックがもはや音楽とはいえない状況に追い込まれ、ただファッションや風俗化したパンク・ロックの時代になった。1970年代半ばからにはロックは世界中にひろまり、巨万の富を築いた世界的スターが続出するなかで、看板の「反抗」自体が滑稽化した。ステレオタイプの退屈さはまさに反革命であった。その風潮に抗するなかに、手作り(DIY)のガレージ・ロックや「ストリート・ロック」を「パンク・ロック」と命名したのが1975年であった。日本でも「一世風靡」のストリートダンスが出始めた頃だ。パンク・ロックの場合要求される音楽的技術はそれほど高級ではなく、誰でも参加できた。ロックという大きな物語を終焉させたポストモダニズムと捉えられる。イギリスで生まれた「イングリッシュ・パンク」の代表であるセックス・ピストルズはマルクス的反体制的姿勢で現れ、前衛的な運動の「シュールレアリズム」の影響を受けていた。「ジャマイカのレゲエ」に対して、パンクは「白人のレゲエ」といわれた。1978年セックス・ピストルズの解散後はパンク・ロックは多様化し、ナチ・パンクから無政府主義パンクまでまるで政治の右から左へのオンパレードとなった。1980年初頭から左翼的政治メッセージのパンクを「ハードコア」と称した。彼らはスキンヘッドで刺青をしピアスをしたり、自分の体を加工していた。パンクのメッカはイギリスにありとしてアメリカのミュージシャンは模倣をし、シアトルではことさらパンクロックをより激しく演奏するスタイルを生み、汚いという意味の「グランジ」という名で呼ばれた。路上生活者のパンクを「ガター・パンクス」と呼んだ。1980年代は世界の政治主調が新保守主義(レーガン・サッチャリズム)となって、反社会的なパンクは停滞した。「社会の脅威」とか「市民の悪魔」といって、公権力とメデァはパンクを抑圧した。反社会的スタイルもポーズなのか、評論家はパンクは階級ではなく芸術スタイルであるとした。パンクとファッションは切り離せない。パンクを音楽ジャンルにおける差別化の一形式とし、そうした差別化において衣裳や髪型(モヒカン刈り)などのファッションがパンクの象徴として機能した。パンクは抵抗だったのだろうか、ファッションだったのだろうか。

レゲエ

レゲエの発祥地ジャマイカはスペイン人によって原住民アラワク人が完全に虐殺されて消滅し、代わってイギリスの植民地時代にプランテーションの労働力としてアフリカの黒人奴隷100万人が入植した。1834年にジャマイカの奴隷制は廃止された、サトウキビに代わる産業としてボーキサイト採掘と精錬、およびコーヒー栽培が主となった。1930年ごろ祖国エチオピアへの帰還思想「ラスタファリアニズム」がレゲエの思想背景をなしたことは無視できない。アフリカにおけるキリスト教はアメリカに上陸して「アフロ・キリスト教」となり、貧困層の失業状態とマリファナと密接な結びつきが生まれた。1970年ごろ宗教運動と政治運動となった「ラスタファリアニズム」が世間に注目され、髪を切らないで絡まったドレッド・ロックスという髪型もあいまって都市の若者が「ラスタファリアニズム」に染まっていった。音楽運動としては、アフリカ的なものへの回帰現象が積極的に求められ、「ブール」という太鼓音楽に手が加えられた。ジャズやブルースの影響を受けてカウント・オジーは1959年「スカ」というバンドを結成した。「サウンドシステム」という移動型ディスコで激しいリズム音楽が誕生した。1972年ジャマイカの政治情勢は黒人人権運動を選挙に組み込んだ人民国家党が勝利し、音楽という文化的要素を巧に前面に出して、人々のアイデンティティを作り上げる政治戦略は功をそうしたようだ。レゲエとは「ぼろぼろ」という意味で政治的メッセージ性を強調した音楽となった。「ラスタファリアニズム」とレゲエは人民国家党の衰退と運命をともにした。レゲエのシンボルであったボブ・マーレィが1981年に死亡するとレゲエの政治的季節も終った。社会的不平等への異議申し立ての一つの表現形態として、イギリスでもカリブ海出身者の「ルード・ボーイ」がレゲエやスカを広め、白人ロックファンが興味を示して、「ブルテッシュ・スキンヘッド」もレゲエを真似しだした。

モータウンとヒップホップ

ファンクとR&B以降の黒人音楽を見て行こう。黒人音楽のレコード会社にデトロイトの「モータウン」がある。モータウンが生んだ歌手には、スティービー・ワンダー、ダイアナ・ロス、マイケル・ジャクソンなどミリオンセラーの歌手が名を連ねる。デトロイトの自動車産業を支えたのは人口の8割をしめる黒人であった。ゴーディーの興したモータウンレコードの目的は、黒人公民権運動に積極的に参加することであった。音楽だけでなく黒人政治活動家のスピーチをレコードにして黒人のコミュニティの結束に貢献した。黒人が経済力をつけることもモータウンの目的の一つである。モータウンの戦略は自動車産業と相互補完的であった。カーラジオのスタイルを生み出した。そしてテレビ産業への進出もモータウンの戦略であった。ところが黒人人権運動はマルコムXの暗殺、キング牧師の暗殺と暴動によりデトロイトでは政治的緊張が高まった。このような時機、モータウンはテレビと映画産業への進出を図ってデトロイトからロスへ本社を移転した。

裕福な白人は都市中心地から郊外へ移住し、空白となったニューヨーク市街は貧民街となった。この黒人スラム街からヒップホップが誕生した。ニューヨークのサウス・ブロンクス地区は西インド諸島からの移民が多かった。その地区の都市再開発による高速道路建設はさらにこの地を無法地帯化した。異議申し立てを行う表現手段として「跳ね返り」を意味する「ヒップ・ホップ」があった。当初「ヒップ・ホップ」は音楽というよりは舞踏、服装、落書き、態度である。生活様式全体すなわち文化現象であった。路上のブレークダンス、ギャング集団によるタグといわれるグラフティの落書きが壁や地下鉄車両になされ、フードつきのジャケット・ジーンズ、ツバを後ろにした野球帽をかぶった男性スタイルが流行した。ラッパー、DJ,グラフティ・アーテスト、ブレークダンスなどを通じて自分のアイデンティティを語ったのである。ヒップホップの音楽が「自由に言う」という意味の「ラップ」である。激しくせわしいリズムと「ライム」と言う韻を含んだ歌詞が特徴的である。その歌詞には政治的主張が含まれている。ラップは黒人音楽「ファンク」やレゲエとも密接に関係している。DJのスクラチング、サンプリング楽器や複製音楽を開発した。ヒップ・ホップもラップも市販された音楽作品を切り貼りして再生産するいわば音楽の消費による生産で、極めて資本主義的である。


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