090117

斉藤環著 「心理学化する社会」 

  河出文庫(2009年1月)

社会の心理学化の進行は何を意味するのか バラバラにされてからめ取られる個人

私は精神医学者の書としては、なだいなだ氏、斉藤茂太氏、香山リカ氏などの著書を読んだ。斉藤環氏は始めてであるので、氏のプロフィールを紹介しておく。
斎藤 環氏は、岩手県北上市出身、筑波大学医学専門学群環境生態学卒業、1990年同大大学院医学研究科博士課程修了。医学博士。1987年から爽風会佐々木病院勤務、現在同病院診療部長、内閣府所管社団法人青少年健康センター参与精神科医を勤めた、評論家でもあある。専門は思春期・青年期の精神病理学、病跡学だそうだ。引きこもり・オタク研究家としての活動・言論は有名で、またサビカルチャー、映画、アートなどの批評も手がけている。著書には「文脈病」、「社会的引きこもり」、「戦闘美少女の精神分析」、「生き延びるためのラカン」など多数。大澤真幸、東浩紀、浅田彰などと交流を深める。本書は社会学者樫村愛子氏に触発されたという。

本書は2003年10月にPHPより単行本として出版され、2009年1月河出文庫となった。昨今の「心理学ブーム」は目を見張るものがあり、どんな社会事件、経済活動にも尤もらしい心理学的コメントがなければおさまらないようだ。いまやなりたい職業の花形として「カウンセラー」や「臨床心理士」に人気が集まっている。それに較べると精神科医は陰に隠れた地道な職業らしい。さらに普通の人に「臨床心理士」と「精神科医」の区別を聞いても先ず明快な回答は戻ってこない。はっきりしているのは「精神科医」は医師免許を持っているが、「臨床心理士」は持っていない事であろう。しかしやっていることの区別は曖昧である。認定「臨床心理士」には薬の投与は認められているので、3分ほど話しを聞いて直ぐ薬を処方するのが「精神科医」、じっくり話しを聞いてくれるのが「臨床心理士」という特徴はある。すれば「臨床心理士」のほうが人気が出るのもやむをえないか。ところが心理学と精神医学は本来全く別々の学問である。人文系の学問で多くの領域において「心理学化」が指摘されている。一番顕著なのが「社会学」の分野である。社会現象を扱うにも個人の心理にまで遡及しないと納得しないのが今の風潮である。他にも、教育学、宗教学、文学、哲学、歴史学などの領域において心理学的手法が採用されている。「ナントカ心理学」が大流行なのである。学問の手法だけでなく、報道・メディアでも心理学化は進行した。事件が起きるとかならず心理学者や精神科医のコメントが求められる。サブカルチャや映画においても主人公の行動(犯罪)にかならずトラウマを理由にしてリアリティを出そうとする。トラウマはなくてはならない動機付けとして要求されるのだ。これはもう「心理学ブーム」といっていい。このブームに関係するキーワードは、「PTSD]、「トラウマ」、「ストレス」、「カルト」、「癒し」、「メルヘン」、「エコロジー」、「心の闇」、「プロファイリング」、「アダルトチルドレンAC]などである。「癒し」と「トラウマ」はセットである。歌謡やアニメなど映像文化の心理学化も進んでいる。これだけ多くの分野で一斉に「心理学化」が進むと、個人を超えた時代精神が反映されている様だ。これをブームとして否定しようがしまいが、心理学化が起きた過程に存在する問題に目をむけなければならない。

心理学化を推進したと見られる著者が不安に思うのは、心理学化の趨勢はもはや避けることが出来ないが、人々が求めるほどには心理学や精神医学は不確かで限界がある事である。後追い的に説明するだけで何ひとつ予言もできないし、有効な手を打てるわけではないのだ。憶測に基づくおしゃべりは出来ても、科学的な因果関係を示す事はもともと不可能なのだ。アメリカの映画においても最近、根拠などない犯罪(心理では説明できない)をテーマにした映画が出てきた。これを「心理主義の終焉」という。2008年6月秋葉原で起きた通り魔殺傷事件では、時代の影響から「不安定就労」の問題で処理され、心理学コメンテータの出る幕はなかった。まさに社会的問題だったのである。心理学的おしゃべりと出歯亀覗き見趣味のワイドショー的メディアは、この御時勢では完全にシャッターアウトされたのだ。すると「心理学化現象」とは現実と幻想の間に浮遊する浮き草のような存在であったのだろうか。苛酷な現実の前には不謹慎な「心理学化」は許されないのであろうか。近代において自己を根拠付けるための自明性が喪失された結果、我々の根拠を捜し求めるために心理学は有用なツールだったというが、最近は「心理の社会学化」を主張する宮台真司、大澤真幸という社会学者があらわれ、心理学の優位性は縮小してゆくかに見える。さらに「新自由主義」と称するグローバリズムによって、個人がバラバラにされた状態で、「コミュニケーション主義」、「操作主義」で個人の行動がコントロールされる危険性がある。心理学手法が権力支配のツールに化すこともありえるわけだ。

本書の末尾に著者の盟友で社会学者樫村愛子氏が解説を書いている。視点が異なるので本書を立体的に見るためにも取り上げたい。香山リカ氏も「悩みの正体」において、「悩みはあってあたりまえ、しかし悩みの基は社会が作っていることが多い。ドメスチックヴァイオレンスで悩む前に警察に行くべきで、単純に家庭環境や労働条件の悪さのほうに問題がある場合もある。老人介護と生活の困難を悩む前に市役所の社会福祉課に行くべきです。個人の問題にして悩んでいても状況は悪くなるばかりです。交渉力を身につけることも重要です。悩むことや立ち止まることは悪いことと責められる脅迫感で行動に移せない人が多い。私は一人ではないと確認するために人は、家族、仕事、学校、ボランティア、地域社会そして宗教を人は作ってきた。そういうもので人は繋ぎ止められているのである。」といっている。樫村氏は「心理学化」に批判的で、心理学化は「社会問題化の排除」であるといっている。いまや「患者」はカウンセリングの中で心を操作して問題を解決する時代である。斉藤氏は共同体が解体してゆく社会的必然性の中で、人が「心理」という自己をコントロールする媒介性を与えられたなら、個人として能動的に自由や権利を獲得するポジティブな面を見るべきである。心理学化現象は不可逆過程である。社会的サポートだけでなく、心のサポートによって個人の能動性を発揮する支援も必要だという考えに立っていると評価した。問題は心理学が一人歩きして誤用拡大され,社会技術化・生活技術化されている事態である。斉藤氏はこれを「精神分析のシステム論的な応用」というが、根拠をあくまで追求し科学的であるべき心理学・精神分析が科学性を放棄してしまえば、神話化・幻想化に使用される。心理学が神・カルトと結びつく事が一番危険である。

トラウマブームと、文化の心理学化

トラウマを扱って大人気となった本は多い。これをサイコミステリーという。私自身は読んでいないが、天道荒太「永遠の仔」、東野圭吾「白夜行」などがある。犯人に深層にトラウマがあると云う推理小説である。悲惨な境遇・虐待や不幸な生まれを書いた大平光代「だから、あなたも生き抜いて」、乙武「五体不満足」、先日自殺した飯島愛「プラトニックセックス」、梅宮アンナ「みにくいアヒルの子だったわたし」、吉田秋生「吉祥天女」、村上春樹「ノルウェイの森」なども間接的ににトラウマを主題としている。歌謡の世界にもトラウマ的存在は多い。中島みゆき、尾崎豊、宇多田ヒカル、フィアナ・アップル、ジョナサン・デイヴィィスなどがそうらしい。ロックはもともと疎外された自意識を強烈に歌うことである。ニルヴァーナ、カート・コベインが有名であるようだ。メンタルヘルス系のインターネット若者文化に自殺・自傷を扱った「メルヘル」掲示板がある。火付け役の鶴見済「完全自殺マニュアル」は有害図書に指定された。氏の本意は「自殺はロマンティックな物語性をもとめるが、実は即物的に過ぎない」であるそうだが。ネット心中も後を絶たないが、若者のサブカルチャーにおいては、思想や文学はとっくにリアリティを失い、心理学や精神医学がその間隙を埋めている。

トラウマをモチーフとした映画は枚挙にいとまがないくらいである。ヒッチコック「サイコ」、「ランボー」、「地獄の黙示録」にはじまるアメリカ社会のベトナム戦争後遺症が事の起こりである。湾岸戦争の「プライベート・ライアン」、「ハネムーン・キラーズ」、「カッコーの巣の上で」でもハリウッド映画にはトラウマはなくてはならない主題であった。「依頼人」、「スリーパーズ」、「キッド」、「シックスセンス」、「ダイハート」、「羊たちの沈黙」、「ザ・セル」などが究極のトラウマ映画であった。ひとびとは何らかの方法で、心を実体化したいと願望している。心というつかみどころのない存在に形を与えてドラマを構成しようとすれば、トラウマこそ強烈なリアリティを与える。物語を動かす道具立てとして単なる物欲や情痴だけでは力不足なのである。これらに変わって恐怖という「トラウマ」が選ばれたというべきであろう。

精神医学においても心理学化は進行中である。トラウマは一種のブームである。「PTSD]、「被害者学」、「解離性同一性障害(多重性格)」、「人格障害」、「アダルト・チルドレン」などがキーワードである。精神医学はいうまでもなく精神障害を診療し治療するための学問である。一方心理学は正常な心のありようを知る学問である。精神医学の主流は生物学主義(物質主義)であるが、いまも治療の困難な分野は多い。「心理学」、「精神医学」、「精神分析」の境界が曖昧な状況下にトラウマが流行したのであろう。心の障害を扱う精神医学は「器質因」、「内因」、「心因」の三段階に分ける。「器質因」とは脳のハード面、「内因」はその機能面に原因を求める精神医学なのだが、「心因」だけは精神分析の分野である。心的外傷論はピエール・ジャネが始祖で、フロイトやラカンは「心的現実」を説いた。日常世界とは異なる心の現実世界がある。トラウマの幻想性を見つけたことに精神分析の存在理由があった。トラウマは実際とは違う幻想を見ているのである。これを「偽記憶性症候群」という。フロイトは性欲をすべての根源に置いた。ところが原因のトラウマを予測する事はできない。帰納と演繹は別の次元になっている。これは科学ではない。そもそも精神分析とはつねに事後性の学問であり、予見性は全くないのである。人間の宿命は重層的かつ不可逆的に決定されるので「科学的な因果律にはトコトンなじまない。

カウンセリングブームと、心理学を必要とする時代

学校で自殺や殺人がおきると、反応が出ていようといまいとすぐさま「臨床心理士」が学校に送りこまれカウンセリングが行われる。カウンセリングはブームなのだ。アメリカのDMSというマニュアルの存在が「精神科医」の診断を専門家の手から解放した。「精神科医」も「臨床心理士」も個室で患者と面接をして、精神療法を行う点では同じである。薬を投与できる点でも同じである。臨床心理士は心理検査をおこない、来談者中心療法といってひたすら来訪者の話を聞く。精神科医は5分ほど話をして薬を処方し、もっと話したい患者はカウンセラーに任せる。心理学は1878年ヴィルヘルム・ヴィントが実験心理学を開いた時から始まる。かれは構成主義心理学者といわれる。心をどう理解するかでさまざまな流派の心理学者が存在する。今流行なのが心を認知し情報処理する機械とみなす「認知心理学」である。1896年に「臨床心理学」を開いたのはペンシルバニア大学のウイットマーであった。C・R・ロジャースが1942年ごろ「来談者中心療法」を開いて以来、アメリカでは1960−1970年代精神療法の爆発的ブームが起きた。日本では1952年ごろカウンセリングが始まったが、資格認定を巡って学会が分裂し、1982年「日本心理臨床学会」が発足した。1989年には河合隼雄を会長とする「日本臨床心理士会」ができ、認定臨床心理士は1万2732人(2007年)となった。

このカウンセリングブームに対して批判的な意見として、小沢牧子著「心の専門家はいらない」が話題になった。C・R・ロジャースに始まった「来談者中心療法」は非指示的立場を貫くのであるが、カウンセリングはそもそも環境の問題を解決しようとはしないで、個人の問題として解消を図ろうとする点を突いている。林延哉著「カウンセリング・幻想と現実」という本はロジャーズ理論の思想的問題を扱っている。ロジャーズ理論は意識を最大限に拡張して、宇宙と自己との調和を目指すというニューエイジ的なビジョンそのものである。哲学者ブーマはロジャースを批判して「個人の独自性が最大限に発揮されると人間性を喪失する。世界との接点をなくした引きこもり症候群になってゆく」といった。そして「心理テスト」は正常者を選りだす反面、異常者を排除する手段として一般化したという経歴があるからだ。これが軍隊の徴兵テストに用いられたからだ。学校のカウンセリング万能主義に対する批判は、河雄隼雄氏の「心の専門家」論批判に繋がる。学校の教師や親も「いじめ」や「登校拒否」を解決できないものだから、心の専門家が必要だという河合氏の論に対して、環境を心の問題にすり替えていいのかという批判である。学校の問題を歴史的に見ると、1960年の安保闘争から始まった大学の学生運動は徹底的に弾圧され、1970年全共闘の内ゲバ時代という迷路にはいって内部崩壊させられた。その後大学がおとなしくなるとその活力は高校から中学へと下降した。1980年代「荒れる学校」が警察の導入によって終息させられると、1990年代は内向して「いじめ」や「不登校」につながった。そして1990年代後半に学校に「心の相談員」が導入された。この文脈から言えば、心の相談員はガス抜き的要素が大きい。本当に心の問題なのかと疑問に思う人も出てくるのである。「心のケアー」は阪神大震災後の行政や社会の作り出すストレスを心の問題に胡散夢中させるものではなかったのか。被害者を「心の専門家」が囲い込んで病人にして自身のマーケットに仕立て上げているという痛烈な批判が小沢牧子から述べられている。そして昨今「脳科学ブーム」が心の問題を一層ありそうな形で複雑化しているのである。脳科学はまだ「心の問題」を扱えないことは、坂井克之著 「心の脳科学」(中公新書)で明白である。

「不可解な少年犯罪」の事件報道にいつも担ぎ出される精神科医の言動は滑稽である。「最近少年犯罪が増加し不可解な事件が多い理由を説明しろ」というメディアの要求に精神科医は具にもつかない的はずれのコメントをして愧じない。問題の一つはこの種の事件報道のパターンである。警察庁の統計白書を見れば一目瞭然でるが、この20年間少年犯罪は大幅に減少している。「最近増加する少年犯罪」とはメデイァが作りあげた「枕詞」に過ぎない。本当にメディアが望んでいるのは、猟奇事件に仕立て上げて愉しみたいだけなのである。なんとお粗末な劇場型ワイドショーで品のない趣味である。それに精神科医という役者もいたほうが面白いだけの事である。メデイアも読者も識者も事実ではなく事件をめぐる物語を愉しんで消費しようとするのである。幼児殺害の手順を追体験したい、つまり自分も幼児を殺してみたいのである。だから残虐であればあるほど取材に記事に油が乗るのであろう。この我々の欲望のほうにこそ、「現実と虚構の混同」の契機が潜んでいる。

心理学化の意義とポストモダン

事件の心理学化は手っ取り速く理解したい人と、検証は後回しにして話題をぶち上げたいマスコミの結託がブームを生んだ。最近「心理」から「脳」へと新たな退行現象が見られる。澤口俊之著「平然と車内で化粧する脳」がその嚆矢である。優秀な脳科学者がなぜこんな浅はかなハウツー物を書いたのだろうか。幼児性成人「ネオテニー」は脳の機能障害が原因であると、全く科学的根拠もなしにいうのである。この手の偏見として、立花隆氏の「環境ホルモンは脳前頭葉の障害を招く」という論も全く科学的根拠はない。福島章氏の「青少年非行の原因として脳の微細な欠陥がある」なども検証なしのいきなりの独断である。「他動性障害」NBDや「注意欠陥他動性障害」ADHD、{学習障害」LDの診断は果たした功績は大きいが、現場で過剰診断により弊害が起きている。定義のむずかしい障害であるためラベリングの危険性はいつも存在する。メチルフェニデートという中枢神経刺激剤が効果があると云うので、過剰に投薬されてはいないだろうか。これはマイルドな麻薬の一種でもある。汎脳主義(何でも脳が原因)ブームは森昭雄「ゲーム脳の恐怖」を生んだ。ゲームをし続けると脳に障害が出るという論である。科学論文に用いられる測定手法を用いないで「脳波の異常」を実証したと称するものだ。これらは科学を標榜するだけに余計に危険である。

「社会の心理学化」とは、教育・福祉・家庭など社会のさまざまな領域で心理療法の手法が多く使用されるようになり、文化の中で心理療法的言説の比重が高まった状態を指している。社会が共有する幻想の舞台裏を暴いてみせるが、心理学そのものが別の秩序や幻想に導く危険性がある。そこで著者は「システム論」が有効となる療法を主張する。原因や歴史を棚上げして自己目的的の連鎖を断ち切るため、自己だけを療法してもできないのでシステム的に認識するのも有効だというのである。簡単にいうと、たとえばアル中患者の療法で自己をいくら練磨しても循環から逃れるすべはない。他にもアル中患者がいて苦しんでいる事を知らしめる事が必要だということだ。精神分析という、自己言及的ではない人の1回限りの現象を解釈する技術から、一般的知識のみを抜き出し、そうした知識のフィルターを通じて他者を或いは自分を眺めなおしてみる事だ。すると精神疾患全体が相対化されるというか軽症化される。大きな狂気が衰退してちいさなサイコが増えるようなものだ。近代をヒステリー「神経症」の時代ととらえるなら、ポストモダンは「境界性人格障害」によって象徴される。心理学化によって個人の内面をコントロール可能であるかのように思わせるイデオロギーへの抗議なのである。カルト集団による「洗脳」に心理学が応用される(個の内面意識を解体して、別のグローバルな物を注入する)ことが恐ろしい。フーコは社会の心理学化を、近代的主体の権力装置として捉える。「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」にわければ、環境管理型権力は心理学化が必要なのである。リッツアー「マクドナルド化する社会」は個人の内面に介入しないで、その行動をコントロールするような権力を言っている。管理されていることを感じさせないで、行動をコントロールするには心理学に基づいた環境管理が必要なのだ。


随筆・雑感・書評に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system