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 「古代文明と気候大変動」
ブライアン・フェイガン著  東郷えりか訳
 河出文庫(2008年6月)

人類の運命を変えた2万年史

著者ブライアン・フェイガンはイギリス人でカルフォニア大学サンタバーバラ校の人類学の研究者であった。人類学とは梅棹忠夫氏のようにものすごく広い学問分野を総括する学術分野である。いかにも博物学のように、学問の祖のような慨然たる茫茫の学問分野である。バートランドラッセル卿のような歴史の総論というイギリス人好みの学問である。では本人は何屋さんなのかと云うと、考古学者、鉱物学者とか地質学者、生物学者、社会学者、農学者なんでも屋と云う胡散臭い存在である。つまりラッセルの云う「鋏と糊」の学問、今で言えば「カット&ペースト」つまりスクラップ業である。考古学者に一番近いフェイガン氏の主な著書には、「歴史を変えた気候大変動」、「埋もれた過去をもとめて」、「アフリカの起源」、「エデンを探せ」などがある。本書「古代文明と気候大変動」の原題名は「長い夏ー気候は文明をどう変えたか」である。結論は地球の温暖化期に人類の文明は繁栄をしたが、乾燥と寒冷など気候変動に都市文明が対応できなくなった時その文明は亡ぶということだ。本書は炭酸ガスによる地球温暖化をめぐる議論には直接かかわらない。そのかわり、氷河期末期から近代に至る二万年の人類の歴史が、いかに気候の影響を受けてきたのかを述べるものだ。古気候学や遺跡発掘、年代測定などの科学的事実をもとに氷河期以降の人類の歴史を「見てきたかのように」描き出すのである。

氷河期末期から「完新世」(約18000年前)になると地球は急速に温暖化した。その原因は地軸の移動による太陽輻射熱の増加であるが、太陽を一杯受けた地球は、氷河の覆う苛酷な環境からあたたかな森林と生物の温床に変わった。人間はそれまでの動物の狩猟生活から、安定した採集生活に切り替え、一つの地に定住し農耕を開始した。石器時代から縄文時代にはいるのだ。その後灌漑設備や都市を築くようになり、多少の気候変動には対応しうるようになった。こうして文明が始まるのであるが増え続けた人口がその地の環境収容能力を超えるだけでなく、多くの人口を抱えた社会システムが気候変動に対処する能力を失う事になった。規模の拡大が企業の機敏性を失って負債に圧し潰されるようなものである。「食物商売は大きくすれば潰れる」という格言があてはまる。飢饉や飢餓を社会が救えなくなり、多くの人が餓死し、生き残った者は豊かな土地を求めて離散する。難民化するのだ。家族・部族という小規模でしか行動できない。中国の王朝が寒冷期になると滅亡するのは、食えなくなった農民が離散し国(システム)が破れるからである。システムの建て直しが新王朝の誕生となることは、綿々と続いた中国王朝の歴史である。18世紀後半から地球は温暖化の周期にはいる。20世紀は稀に見る気候に恵まれた世紀であった。この先はどうなるかは分らない。寒冷化すると云う学者もいるし、人間の活動による炭酸ガスの増加でさらに温暖化すると云う学者もいる。しかし気候の変動は人類が温室効果ガスを増やそうが減らそうが、いずれかならず起る。地軸の変動とかマグマの対流や、太陽活動の核融合をコントロールする事など到底不可能であるからだ。

遠い昔に思いを馳せてみよう。南極大陸の氷床コアーには過去42万年の出来事が記録されていると云う。氷期と温暖期が層になっているからである。氷床コアーの分析によるとほほぼ10万年ごとに短い温暖期が繰り返されてきた。最期の氷期が終わったのが18000年前で、地球温暖化時代はそれから過去15000年間続いている。地球の歴史では今が気候的には最も安定した時代である。実は過去の気候変動を知る事は困難な仕事であった。計測記録が残されているのは西欧先進国で数世紀前からで、地球上の他の地域では計測記録は100年くらい前に遡るに過ぎない。それより昔の事は樹木の年輪(地域や局所の偏りがおおきい)、湖沼河川の花粉堆積層、氷河コア−などから再現した代用記録からの推測である。近代に近ずくにつれ、環境決定論(気候変動が農耕や文明など、人類の主要な発展を促した主因である)は学問の世界ではタブーであった。だからといって気候変動の影響を無視することも不可能である。本書では人間と自然環境および短期の気候変動との関係は常に相互的・流動的である事を示す事だ。紀元前1万年ごろから農耕が始まり、生活共同体が形成されると、安定した生活のために人が土地に繋ぎとめられ、危機的状況において、多数の人が移動すると云う選択肢が狭まったことで、長期短期の気候変動に一層脆弱になったといえる。文明の力で川の氾濫や不定期な降雨に対処する灌漑設備を頼りにして耕作不能の土地を耕作し始めて、古代文明が興った。チグリス・ユーフラテス川地域にメソポタミヤ都市文明がおこり、シュメール帝国が支配した。都市がある程度の規模を超えて大きくなると、ある限界から急に文明は気候変動に対して脆弱になる。そこでは気候変動に対処するコストは限りなく高いものになった。文明の辿った道筋は、ある点では脆弱性と規模とを取引してきたプロセスなのである。生活システムの利便性とリスクのバータである(リスクーベネフィット)。規模が大きくなると強くなるが、システムは脆弱となる。よくある話だ。

どのようなシステムでも、小さな変動にたいして強くなるために規模大きくする。企業組織をみればわかる。しかし耐えられない想定外の変動に対して、組織はもろくも崩れる事がある。金融不安でグローバル金融機関が簡単に倒産した事を我々は2008年に見てきた。文明とは人類の共同体システムだとすれば、大規模になった事で他の集団にたいして強くなるが、多くの人口を抱えて居る事で変動への対応が鈍く、急速な転換が出来ない。小規模であれば波に乗って容易に逃げられたのに、図体が大きいばかりに波に沈むこともあるのだ。紀元前6000年前からメソポタミアには人が住み着いて、紀元前3000年以上前から都市文明が各地で興り農耕と通商で栄えた。紀元前2300年前シュメールの第3王朝(ウル王朝)ができて、灌漑用水路が張り巡らされ、エジプトのファラオに並ぶ世界最強の都市国家となった。ところが火山爆発や旱魃はユーフラテス川付近を砂漠に近い荒廃した地に変え、紀元前2000年にはシュメール人の人口は半減した。高原に移った別の部族が王朝を立てたが、ウル王朝は完全に崩壊して、人々は死に絶えたか離散した。小規模の災害に対して万全の対策として興隆した都市は、より大きな災害に対してますます脆弱になっていた。生存できるか否かは、往々にして規模の問題となる。

第1部:ポンプとベルトコンベアー (紀元前1万6000年前ー紀元前1万年前)

「ポンプ」という題名は、生活の場であるステップゾーンが気候変動によって人と動物を引き寄せたり、吐き出したりする太古の繰り返し現象をさす。最後の氷河期末期の紀元前16000年前、ヨーロッパに新人クロマニヨン人が現れ、洞窟住居に住んでトナカイなどの狩猟生活を始めた。南フランスのニュオー洞窟壁画に彼らが何1000年もかかって描き続けた動物や狩猟の絵がある。狩猟集団は夏は槍で狩猟を行い、儀式、縁組、紛争解決をして、他の集団との交易を行った。冬になると住居内に孤立した。クロマニヨン人はネアンデタール人と5万年ほど共存していたが、3万年前以降になると優れた頭脳を持つクロマニヨン人がヨーロッパの支配者となり、ネアンデタール人は絶滅した。やがて1万5000年前に突然として温暖化が急速に進み森林が広がるにつれ、氷河期の大型動物は北方のツンドラ地帯へ後退した。1万2000年前にはクロマニヨン人の狩猟社会も温暖化のために姿を消した。

シベリアのバイカル湖付近には3万5000年前から人が住んでいた形跡がある。紀元前1万3000年前にはシベリア北東部に最初の狩猟民の定住地が出来た。これらの民が温暖化を契機にベーリング陸橋を渡って北米大陸に移動した。ベーリング陸橋を渡ったアジア人は二つの氷床にはさまれた無氷回廊を南下し、北米で紀元前1万1000年前にクローヴィス石器を持つ最初のアメリカ人の文化が生まれた。これをパレオインデアン文化と云う。前1万1000年になると,南北アメリカのいたるところで、パレオインデアンの小集団が多数定住した。紀元前1万1000年ごろには氷河期の大型哺乳類は絶滅し、草原バイソンだけが生き残った。

「ベルトコンベアー」とは大西洋などの大海流を意味し、熱帯で温められた海水が「熱強制」(温度差による)や「淡水強制」(塩分濃度差、密度による)という圧力によって北へ向かう大海流とその循環流をさす。これによって地球の北にも温暖化の恩恵を受けるのである。地球の軌道軸離心率と地軸の傾きの変動で太陽輻射熱の強さが変わるため、赤道の緯度も変化する。紀元前1万2500年前の急速な温暖化期を「ベーリング・アレード期」という。ヨーロッパのステップが潅木に変わり鬱蒼とした森林となったのは紀元前1万2000年ごろである。森林化に伴い、大型動物は森林にすめないので移動するか絶滅した。すると狩猟に頼っていた民は植物性種子など雑食に変えざるを得ない。温暖化によって狩猟と植物採集生活に変わったのだ。植物の種子は貯蔵に向いているので生活の安定にもつながった。

ところが温暖化が次の寒冷化と旱魃を引き起こした。紀元前1万1000年に温暖化によって溶けた氷河が北大西洋に流れ込み、大西洋の循環が停止したのである。そのため寒冷化と旱魃が1000年ぐらい続いた。今の中東地方のレヴァント地帯(トルコ南部からシリア、レバノン、イスラエル、エジプトの地中海沿岸ベルト地帯)に住んでいたケバラ人の狩猟集団も、温暖化のためオークとピスタチオの森に囲まれ植物性植物生活を始めた。この時期の大干ばつは、これまでの移動による危機回避と云う戦略はもはや役に立たなくなって、社会の共同生活によって食糧加工保存の方向で定住化する知恵が生まれたのだ。その代り社会の流動性と移動力は失われた。チグリスとユーフラテス川に挟まれトルコ高原からペルシャ湾にいたる肥沃な三日月地帯で、紀元前1万年前に小麦と豆の農耕作業と家畜の飼育が始まった。そして紀元前9500年前になると人々は移動生活に終止符を打ち農業中心の生活となった。

第2部:何世紀も続く夏 (紀元前1万年前ー紀元前3100年)

紀元前1万1000年前から1000年続いたタヤンガー・ドライアス期(寒冷期)が終ると、東地中海地方は気温が一段と上がり降雨量が増えた。人間はいまや食料を生産し、動物も家畜化した。山羊や羊の動物の家畜化は紀元前9000年頃に始まり、トルコアナトリア高原からヨルダン川に農耕定住地が広がった。農耕や牧畜は計画性と共同作業が必要なため、集団はしだいに部族と云う社会を形成した。紀元前8300年アナトリア高原のチュルタルホユックに始まった巨大な農村集落遺跡がある。139室の平屋建てで標準化された間取りの集合住宅である。周期的に襲う洪水と干ばつという自給型農民につきもののリスクを共同作業と統制された行動で乗り切ろうとしたのだ。紀元前6200年ごろ温暖化で融解したローレンタイド氷河がカナダ北部に流れ込み、大西洋の循環が緩慢になったため、ミニ氷河時代が400年間支配した。この氷河時代は紀元前5800年ごろまで続いた。牧畜と農耕のおかげでこの緩やかな寒冷期を対処できたため、農耕生活が一層有利なものとして定着した。その後ヨーロッパの温帯地帯は温暖期の「気候最適期」にはいった。この温暖化によって海水位の上昇となり、紀元前5600年に最大規模の自然災害(大洪水)によって、エウクセイノス湖が黒海になった。エウクセイノス湖の周辺に住んでいた農耕部族は生活の場を求めて、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド,ベルギーそしてドイツ、フランスの中部ヨーロッパへ移動した。彼らの文化は帯文土器文化といい、紀元前5300年から約1世紀半にかけて狩猟民と農耕民の交流がおきた。紀元前5000年になると、人類を苦しめた気候変動も概ね終った。巨大な氷床は消滅し、地球の植生は殆ど現在と変わらない状態になった。

紀元前5800年から温暖化の恩恵はチグリス・ユーフラテス川の三日月一帯に農耕民が集まり、定住地の中心は感慨用水路を張り巡らして、緑の農耕地が広がった。これらのうち紀元前3000年ごろからメソポタミア文明はウルクを中心とする南部の文明と、バビロンからマリに位置する北部の文明が勃興した。南部文明はシュメール文明といい楔形文字を持った。ウルクの都市国家は紀元前3500ごろに始まるが中央集権制の農耕生活を続けていたが、紀元前2300年にウンマのルガルザゲシ王がウルクを併合し南部を統一した。北部にはキシュのサルゴン王が紀元前2334年バビロンにアデカ王朝を開いた。そしてウルのシュメール都市国家連合を打ち破り、さらに北部のマリも占領して、名実ともにメソポタミア全土を統一した。紀元前2300年から100年ほど、トルコのカブール高原のテルレイアンにはアッカド帝国が栄えた。エジプトでは、紀元前3100年にメネス王が多数の王国を一つのエジプトに統一した。ところが紀元前2184年から150年間はナイル川の氾濫が少なくなったので、ファラオの支配するエジプト古王国は分裂と抗争の時代に入った。再統一されるのは紀元前2046年メンチュヘテプ二世によってである。中央集権化と土地の組織化という巧妙な戦略は、気候変動に対する最良の防禦手段である事が明白となった。メソポタミアとエジプトに古代帝国が誕生した。

ここでエジプトの古代文明の歴史をみるために、アフリカ北部最大のサハラ砂漠地帯の気候を検証しよう。サハラ砂漠北端は北緯30度あたりでアトラス山脈から地中海に迫っている。サハラ砂漠南端は紀元前1万6000年頃は北緯15度のジェベル・マラ山地あたりで、紀元前7000年ごろは北緯24度のアハガル山地あたりまで上がった。現在は北緯18−20度あたりである。砂漠ゾーンは現在では衛星で常時監視されている。この砂漠ゾーンはモンスーンの雨季をもたらす熱帯集束帯の動きに左右される。2万年から1万5000年前までの氷河期にはサハラは極めて乾燥していた。無論砂漠には誰も住んでいなかった。紀元前9000年ごろから雨季が回復し、熱帯収束帯は北へ移動し、サハラに雨をもたらした。紀元前8000年から紀元前5500年に湖も拡大し、モンスーン地帯となった事は今では想像もつかない。紀元前4000年ごろサハラ東部は牛牧畜民が十分暮らせる土地であった。エジプト人は祖国をケメト「黒い土地」と呼び砂漠(赤い土地)と対照させた。ナイル川は紀元前4500年には巨大なオアシスとなり、肥沃な土壌で小麦を栽培、豊富な牧草地で牛を牧畜した。ここに住み着いたのはバダーリ人で農耕の民であった。紀元前3800年砂漠の乾燥が始まると、ナイル川周辺に農耕民が集まった。紀元前3600年になると集落は合体して城壁で囲み都市化した。それらが王国の都になった。紀元前3100年メネス王がエエジプトを統一した。エジプトのクフ王が支配しピラミッドを建設した紀元前2550年ごろには砂漠には多くの広大な淡水湖が存在していた。

第3部:幸運と不運の境目 (紀元前2200年ー現代)

紀元前3100年に統一されたエジプト王国は、紀元前2184年から150年間は干ばつとなりナイル川の氾濫が少なくなったので、ファラオの支配するエジプト古王国は分裂と抗争の時代に入った。エジプト国の分裂を招いた干ばつをもたらした原因が予期せぬエルニーニョという海流である。大気圧の振動によって海流との間に相互影響が現れる。これをエルニーニョ・南方振動(ENSO)という。世界各地に寒冷・乾燥、温暖・湿潤と云う局所気候変化をもたらす。その最大原因は赤道で温められた海水の運動である。アメリカや南米の太平洋沿岸地域の乾燥、日本や東南アジアのモンスーン多湿温暖気候など、又局地的に高温をもたらすエルニーニョ・南方振動(ENSO)はモンスーンや熱帯収束帯に影響を及ぼす。大規模なエルニーニョ・南方振動(ENSO)が紀元前3000年前から人間の社会に甚大な影響を与えた。メソポタミア一帯が深刻な干ばつに襲われ荒廃したのは紀元前2200年から300年間である。この同じ干ばつがナイル川沿岸にも被害と惨劇をもたらし、都市は崩壊し政治力のバランスも崩れた。紀元前3100年前からおよそ1000年続いたエジプトのファラオの絶対王権、宗教も、飢饉を前にした政治不安と社会変化の前に脆くも崩れた。紀元前1200年ごろ再度ENSOによると見られる大干ばつが東地中海沿岸を襲い、ヒッタイトやミュケナイ文明も崩壊した。今のイスラエルとレバノンのカナンの地はレヴァントと呼ばれ地中海交易で栄えた。レヴァントの貿易を制するものは東地中海を制するといわれた。ウガリト(今のシリア)を支配するヒッタイト文明、ギリシャのミュケナイ文明の衰退はサハラ砂漠からの乾燥した風が吹き荒れたためである。この東地中海沿岸地での気候は極めて局地的に異なる。ミュケナイの繁栄はワインやオリーブ、木材、陶器の輸出で、レヴァントへ向けられた。紀元前1200年の大干ばつはミュケナイに災難をもたらし、自給自足の生活に戻って400年間は復興しなかった。大干ばつは激しい侵略を生んだ。リビア人がエジプトを攻撃した。ファラオは紀元前1193年の再度の攻撃も撃退した。世界再編成の動乱を生むのも飢饉である。もともと都市が出現したのは、人々を養うための機構としてであり、彼らの労働を管理して豊かな食糧を確保するためである。成功は同時に都市の脆弱性を見せた。都市や町に人々が移動した時点で、人間はある限界を超えた。大きな定住地から動けなくなり、管理された土地に依存せざるをえなくなった。気候変動という変化に柔軟さをなくしたのである。

ガリア人として知られるケルト人はアルプス山脈の北の荒野に住む勇猛な民であった。この地は北方の大陸気候帯であり、ローマの地中海気候とは全く異なる気候型である。地中海性と大陸性とを分ける境界線は温暖化と寒冷化によって欧州大陸を上下する。アフリカ北海岸からバルト海まで往復運動をする。紀元前1200年頃は地中海上にあったが、ローマ時代にはバルト海まで北上し、紀元10世紀まではアフリカ北岸に南下した。紀元前1200年ごろ欧州は自給農民の小規模の共同体であった。農民は小麦と大麦に頼り、寒冷期にはキビを栽培した。冷涼で湿潤な時代と温暖で乾燥した時代はおおよそ260年ごとに繰り返したという。急激な寒さは紀元前850年に広範な土地を襲った。これは太陽黒点活動が弱まり宇宙線の流入が増加すると大気中の炭素14が増えることから地球の温暖化と寒冷化の歴史も分るのである。青銅器から鉄器生産に替わり、農業の生産性を促進した。鋤と利器の生産は農耕と戦争の増大となった。紀元前600年欧州は温暖化した。そして戦争も慢性化した。なぜ戦争が舞台の中心に出てきたのだろうか。鉄製武器を持ったと云う技術的理由だけでなく、戦略的思考と時給農業の苛酷な現実が戦争の蔓延化に後押しをしたのではないか。紀元前4世紀になると新しい処女地へ移動することも出来なくなり、苦しくなれば飢えをしのぐために他人の物を奪うほうが手っ取り早いと考えたのだ。乾燥したステップでは移動に馬を使う遊牧民が住んでいた。そして騎馬貴族が支配する社会が凶暴性を持つようになった。紀元前4世紀ケルト民族の大移動でヨーロッパの歴史が動いた。紀元前51年ローマのシーザーはガリアに兵を出してフランスからドイツを征服した。


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