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池田清彦・養老孟司著 「ほんとうの環境問題」

 新潮社(2008年3月)

将来のエネルギー・食糧問題こそ日本の命運を左右する。
欧州のビジネスである地球温暖化問題など瑣末な問題にかまけているヒマはない。

今から10年前1997年12月京都国際会議場(宝池)で開かれた「第3回気候変動枠組み条約締結国会議(COP)」で「京都議定書」が締結された。条約締結国は155カ国にのぼり、アメリカのゴア副大統領と日本の橋本首相が中心となった。この条約では温暖化ガス(炭酸ガス、メタン、一酸化チッソ、メタンガス、フロンガス[HFC,PFC,SF6]の6種類のガス)の削減目標を定めた。炭酸ガスは石油などの燃焼によって発生するので、削減することは即ちエネルギー使用を減らすことになる。京都議定書は削減目標を先進国の欧州が8%、アメリカが7%、ロシアが0%、日本が6%とし、途上国(中国など)には削減目標は定めなかった。欧州と日本はこの条約を2002年に批准したが、アメリカは2001年に離脱し、ロシアは2004年に批准した。複雑な「京都メカニズム」という計算方程式を与えて、排出量取引や削減できない時のビジネスを準備した。目的は日本にお金を使わせることである。排出権取引は欧州(イギリス)のビジネスである。京都議定書はいわば第一次世界大戦後の世界の軍事力を制限する国際連盟の軍縮協定の枠組み交渉と同じように見える。つまり京都議定書はエネルギー経済の軍縮会議である。アメリカはモンロー主義で手を縛られたくないので参加していない。そして京都議定書の削減約束の期限が2010年に迫りつつある。日本は既に排出量は1990年の6%を超えている。合計12%以上の削減をしなければ条約違反となる。そのため排出量取引で東欧やロシアに莫大な金を払わなければ収支が合わない。政治家・官僚はこの負担を又赤字財政に押し付けて国民負担とするつもりであろう。これで懲りればいいのに、2007年末のバリ島のCOP13 、2008年夏の洞爺湖サミットで京都議定書以後の枠組みを討議している。又日本の優等生ぶりをおだてられて、とんでもない約束をしようとしている。日本の主張は最低限、「米国と中国という大排出国(二国で世界の排出量の40%をしめる)が貢献しない条約は無意味だ、そうでなければ参加しない」と公言する事だ。

このような状況下で本書が書かれた。池田氏の主張は 池田清彦著 「環境問題のウソ」 ちくまプリマー新書や武田邦彦著 「環境問題はなぜウソがまかり通るのか 2」 洋泉舎に詳しく展開されている。また一風変わった養老孟司氏の環境論は養老孟司著 「いちばん大事なことー養老教授の環境論」 秀英社新書に原点が述べられている。以上の著書はすでに「本「環境書評コーナー」に紹介した。特に地球温暖化問題の虚構については武田邦彦氏の「環境問題はなぜウソがまかり通るのか1,2」に実に詳細に論じられている。今回養老孟司ご老体が地球温暖化防止枠組み機構の馬鹿馬鹿しさに鋭く迫った。そこが面白いのである。本書で池田氏は「京都議定書は日本にとってとんでもない不平等条約である。政府は地球温暖化対策として毎年1兆円もの税金を浪費している」と非難する。本書の主題はつまるところ環境問題とはエネルギーと食糧問題である。未来のエネルギー戦略が必要なのに、瑣末な地球温暖化問題にかまけていてはいけないということだ。普段接点がないはずの理論生物分類学者池田氏と解剖医学者養老氏の共通点は昆虫好きということらしい。養老先生の議論はもうヤケクソである。養老先生は自筆では本を書かない口述であるので、べランメー調で喋り捲っている。そこが面白いのである。昆虫の地球上での棲み家から環境問題を考えたらヤケクソになるのもやむをえないようだ。本書の分担であるT:U:Vの頁数量は20:100:50である。池田先生の持論を養老先生がそうだそうだと煽っているような感じである。

T 養老孟司 「環境について、ほんとうに考えるべきこと」

環境問題とはアメリカの問題です。つまりアメリカ文明の問題です。アメリカ文明とは石油文明です。そうですアメ車が走れるのは石油が豊富にあるという前提です。爆撃機はイラクを爆撃できるのは石油があるからです。原子力では空母は動いても飛行機は飛べません。石油がなくなったらアメリカの制空権もなくなります。アメリカが戦後一貫して促進してきた自由主義経済とは、原油価格一定という約束です。文明がエネルギーに依存していることが環境問題の根底にあります。物質のエントロピーは拡散の運命にあるが,これを凝集するにはエネルギーを必要とします。人々を集めて秩序付けるにも膨大なエネルギーが必要です。科学からと急温暖化問題を考えると、日本のように省エネが進んだ国はこれ以上炭酸ガス排出量を減らすことはGDP経済規模の縮小しかありえない。減らすべきは省エネを考えたことがないアメリカである。日本で1の削減努力はアメリカの削減50に相当するのである。アメリカと中国の排出量を減らすほうが先です。

気候変動に関する政府間パネルIPCCのデータも信用ならない。なぜなら彼らは個人の科学者と云うよりは政府派遣の官僚です。既に云うことが政府との整合性を求めています。日本で言えば環境研究所の研究者は研究費が欲しいため政府のお好みのデータ-を出すことで有名で、誰も科学的意見とは思っていない。IPCCの予測は科学的だと思うのは完全に誤っていると同時に敵の術中に落ちているといえます。科学者のなかでも政府よりの考えを持って仕事をする人の集団がICPPです。ICPPを権威つけるため昨年はノーベル賞と云う茶番をやってのけました。ノーベル平和賞や文学賞が茶番である事はよく知られた事実です。欧州は地球温暖化ストーリーを信用させるため、ICPPにノーベル賞を与えたのです。

衣食住を保証するのは政府の根本です。アメリカの新自由経済原理主義者はこれらも民営化しています。その結果が恐るべき格差社会と貧困化でした。石油依存文明が早晩行き詰まる事は賢明な人なら考えています。太陽電池・燃料電池・原子力など代替エネルギー開発、情報産業へのシフトへ動いています。環境問題はエネルギー安全保障問題であり、憲法九条や核兵器問題ともリンクしています。日本の環境問題の舵取りで国を誤らせているのが環境省です。弱体環境省が予算を獲得し巨大な省になるために地球温暖化問題を煽りたて、膨大な税金を使おうとしています。環境省は経済産業省と国土交通省と農水省の境界を泳ぎ舞って我田引水を図っています。というように養老先生のご意見は過激です。

U 池田清彦 「環境問題の錯覚」

1、何が環境の問題なのか
かっては環境問題といえば自然保護と公害の事であった。1960年代の公害問題は防止技術と節水・回収技術、省エネルギー技術で解決し、これこそ「優等生日本」が世界にお手本を示し、自動車、鉄鋼、電子産業の今日の隆盛をきずいた。ところが自然保護という問題は人と野生生物の地球の空間占拠問題であり、人口を減らさずに野生生物保護を推進するのは自己矛盾である。自然に権利があるという考え方は間違っている。人間は自然物を利用して生存しているのだから。ただし自然界で分解できないような物質(水銀、農薬や難分解性化学物質)の自然界への放出は、生物濃縮があるので避けなければならない。

環境問題には時代の流行がある。1950年から1960年代は公害問題であった。1970年代から80年代大量消費時代にはゴミ問題は問題の多いリサイクル法を生んだ。またオゾン層破壊物質のフロンガスは代替フロン物質で解決した。いまや気温低下がオゾン層破壊の原因であるとか言われている。オゾン層破壊でノーベル賞を貰った人はどうなるの?そして1990年代の冷戦終結からなぜか地球温暖化が叫ばれるようになった。これも時代の流行なのか、誰かの陰謀なのか?世界中のひとがセントラルドグマを求めているから、「地球温暖化問題」は格好の材料であると見る人がいる。石油エネルギーで世界中の頭を支配するドグマが欲しかったというわけである。

確かに大気中の炭酸ガス濃度は増えている。しかし地球上の生態系のなかで一番増えているのは窒素である。空気中の窒素を固定して窒素肥料を散布しているからだ。炭酸ガスは化石燃料を燃やして発生するのだから、地球上からは減り大気中では増えている。もともと0.03%であった炭酸ガス濃度が今は0.04%である。中生代白亜紀(約1億5000年前)では炭酸ガス濃度は0.2〜0.4%もあって、気温は6度ほど高かった。それで地球の植物生産性は高く、恐竜が全盛期であった。炭酸ガス濃度が高くて、生物が全滅した話や、生態系が激変したという話はない。気温や炭酸ガスが高いほど植物性生産性は高まるのが、生物生理学の教えるところである。植物の生産性が上がれば牛を初めとする哺乳類は増えるのである。地球が温暖化してどこが悪いと言いたくなる。

2、身の回りの環境問題
武田邦彦著 「環境問題はなぜウソがまかり通るのか 2」で武田氏が力説するように、高い費用を掛けて無駄な無駄なペットボトルのリサイクルをするよりも、分別回収せずに可燃ごみといっしょに焼却炉で燃やして熱回収・発電することことだ。池田清彦氏も「ペットボトルの分別回収は即刻やめるべきだ」という。リサイクルが市場でうまく回転しているのは、アルミ、鉄、紙である。これは貴重な材料であるからだ。これを行政が分別回収と称して介入し邪魔をしている。あげくの果てには中間業者が手数料を貰って中国へ売り飛ばしている。市場に任せておけばいい材料となっているのに、環境省社会主義(ファッシズム)者は税金を掛けて回収した物を中国にやっている。そして指定ゴミ袋はわざわざ高いヴァージン材料を使って、廃油から作っている超安いスーパー袋を追い出そうとしている。観念が経済を支配する悪い例の一つである。資源回収といいながらヴァージン資源を無駄使いし、リサイクルしているスーパー袋を鬼子扱いにしている。これでは東亜一体といいながら中国に侵略した帝国陸軍と同じウソである。

家電製品のリサイクルも頓挫している。資源を分別する工場は開店廃業状態である。中間業者は回収した家電製品を東南アアジアや中国へ売り飛ばしているのだ。ダイオキシン騒動も愚の骨頂であった。テレ朝の報道から始まった風評被害は野菜へ波及し、高性能焼却炉メーカーだけが特需に沸いた。ダイオキシン騒動は焚き火禁止というような道徳倫理にまで波及した。この騒動は一時的で収まったが、横浜国立大学が指摘したようにダイオキシンの元凶は有機塩素化合物の農薬であって、燃焼が問題ではなかった。グリーンピースが煽ろうとした「ダイオキシンの塩化ビニール原因説」は尻切れトンボで消滅したのは幸いだった。結局ダイオキシン騒動で儲けたのは分析機関と焼却炉メーカーであった。環境省と一体化した業者がリサイクルをはじめ環境問題をビジネスにしている。これは虚業である。しかも悪い事にリサイクルに掛けたかなりの税金がアウトロー経済(地下経済)に流れている事だ。地方自治体がヤクザを養っているようなものだ。

3、ほんとうの環境問題
ここで本書の本論に入ります。環境問題とは人間が生きる上での環境のことである。少し人口の歴史をまとめている。私の読書ノートコーナーで鬼頭 宏著 「人口から読む日本の歴史」 講談社学術文庫 を紹介した。あわせて読んで頂ければ幸いだ。現生人類は今から約十五万年前に誕生した。アフリカ東部誕生した人類は地球上の各地に移動し、2000年くらいでベーリング海峡を渡って南米の南端まで到着したのだから移住速度は速かった。人類が地球上に行き渡った1万年前には人口は100万人から500万人で安定し、約8000年前に森から人類が出て農耕が発明された。利用エネルギーは木材である。ここから人口は増加のテンポが上がった。約2000年前(紀元0年)の人口は2-3億人といわれている。さらに人口増加率が上がるのは200年前からで、化石燃料(石炭)の使用が契機となり人口増加率は0.5%となった。産業革命前の19世紀初めの人口は約9億人であった。さらに百年まえ石油を使用するようになると人口増加率は1%近くになった。20世紀初めの世界の人口は16億人であったが、1975年には人口増加率は2%、人口は67億人となった。このように世界の人口は利用エネルギーの開発によって階段状に増加してきた。しかし持続可能なエネルギーは根本的には存在しない。石炭と石油エネルギーの開発は自然環境つまり森の伐採による砂漠化を防いだ。四大古代文明はいずれもエネルギー切れによって砂漠化し滅亡したのである。

つぎに石炭・石油・天然ガスがいずれ枯渇する時に向けて、次世代のエネルギー開発を急がなければならない。かって電力は水力発電から火力発電(石炭・石油)、原子力発電へと発展した。次世代に稀薄な太陽光発電に頼れるのか、水素型燃料電池の可能性はどうか、核融合は何時になったら実用できるのかが人類の命運を左右する。これこそが環境問題である。池田清彦氏は本書でバイオ燃料に期待しているようだが、私説であるが、バイオ燃料は全く実用には供せないと思っている。バイオ燃料は木材エネルギーの亜流に過ぎない。エネルギー密度が薄すぎるのである。むしろバイオ燃料は貧民から食糧を奪う事になり、現時点でも穀物価格の暴騰を招いており碌な事はない。アメリカの攪乱戦術に過ぎない。またバイオ燃料は「カーボン・ニュートラル」だといって炭酸ガス発生量から差し引くのは間違っている。植物を切ったり、植物を食べたら炭酸ガス発生量に加算するならまだしも、片手落ちのご都合主義な言い分である。風力発電、太陽光発電はあまりに稀薄なエネルギー密度であってはたして土地代・投資額とメンテナンス費用を考慮して、バランスが取れるのか大いに疑問である。狭い日本中の山と森林が風車とパネルに埋め尽くされてもなお使用エネルギーに足りないだろうことは計算すれば直ぐ分かる事だ。

日本は原子力のウランを含めてエネルギー資源の96%を輸入している。電力形態は40%が原子力発電、50%が火力発電、10%が水力発電である。新エネルギー発電は統計上数値にならないほど小さい。池田清彦氏は国家戦略として、炭酸ガスの排出を少しばかり減らすために大金を使うよりは、新エネルギー開発に力を注いだほうが良いという。しかしかってのサンシャイン計画が掛け声だけの無駄使いに終わっている。また池田清彦氏の新エネ開発と農業論、食糧論は多少お粗末で、そのまま期待を持つわけには行かないところがある。エネルギー政策の本道はやはり原子力・核融合でしか対応できないだろう。池田氏の専門からして、多少ヤケクソ気味に他のよく知りもしない分野に断定的なこと言っても的外れの場合が多いので、そのまま信用しないほうがいい。

4、環境問題は人口問題である
地球の人口は現在67億人であるが、中国人が13億人、インド人が10億人でそのうちに地球は中国人とインド人に乗っ取られると著者は云う。アフリカはエイズと貧困で思ったほど人口は増えていない。資源の消費は人口に比例する。成熟した文明を謳歌するには人口は少ないほうがいい。いくらまで人口が減らせるかはなんともいえないが、日本では欧州並みに数千万人に減らしたほうがいいのではないだろうか。河野稠果著 「人口学への招待」 中公新書 に見るように、今の人口統計では、「2007年より日本の人口は減少傾向になり2055年には総人口は9000万人をきる。65歳以上の高齢化人口は2040年まで上昇し、14歳までの未就業人口は一貫して減少し続ける。100年後には日本の人口は4000万人以下となる。何らかの人口抑制策を講じて2025年にもし人口置き換え水準に恢復したとしても、2080年に人口は8000万人に一定化するが、2050年に人口置き換え水準に恢復した場合は2100年に人口は6000万人で一定化する。」と推計されている(いい加減な予測ではない )。この人口減少社会での経済のソフトランディングが求められているのである。

5、地球温暖化の何が問題なのか
京都議定書を各国が遵守しても炭酸ガス輩出量の減少は微々たる物であり、それで地球の温度が低下するとは期待できない。武田邦彦著 「環境問題はなぜウソがまかり通るのか 2」 洋泉舎で試算するように、「京都議定書で本当に温暖化が防げるのだろうか。簡単な寄与率の計算をしてみよう。1997年の世界の炭酸ガス排出量は242億トンであった。先進国が59%、途上国が41%であった。アメリカは23%、欧州は18%、ロシア東欧圏は13%、中国15%、日本は5%であった。地球温暖化の原因のうち人間活動によるものが93%、そのうち炭酸ガスによるものが53%、京都議定書の対象となる先進国の排出は59%、批准した国が対象国の排出量の62%である。すると京都議定書でカバーできる割合は0.93×0.53×0.59×0.62=0.18つまり京都議定書が対象とする炭酸ガス量は18%である。京都議定書で平均6%削減と云うことになったので、0.18×0.06=0.011である。つまり約1%である。京都議定書は温暖化の1%を改善するに過ぎない。」という。その横でアメリカと中国・インドが炭酸ガス排出量を増やし続けると言っているのだから、「焼け石に水」より「穴あきバケツに油を入れるようなもの」である。無意味の極みである。

IPCCの描く「将来の気候変動に関する予測」では三つのケース(使いたい放題、中間的な抑制政策、本格的抑制政策)での今後百年の温度上昇は第一ケースで4℃(2.4ー6.4℃)、第2ケースで2.8℃(1.7−4.4℃)、第3ケースで1.8℃(1.1−2.9℃)である。そのときの海面上昇は第1ケースで26−59cm、第2ケースで21−48cm、第3ケースで18−38cmの予測である。一方石油の生産量と発見量であるが、発見量は1965年をピークとして指数関数的に減少しているのと、石油生産量は増え続けているので、2040年ごろには石油は枯渇する予想である。石油はなくなりつつあるのに石油燃焼による後遺症をくよくよ考えるのは「両価性」と云う矛盾に気がつかないようだ。石油が何時までも大量消費できてその影響を受けたがっているのだろうか。100年後の予測をして石油消費の影響があるのだろうか。あと50年くらいの予測で十分である。その半分とすれば第2ケースで温度上昇予測は0.8−2.2℃に過ぎない。実に瑣末な話である。それより大都市のヒートアイランド対策のほうが切実性がある。またICPPの「科学者」がばら撒く恐怖物語には「ハリケーン、エルニーニョなど気候異変は何でも温暖化のせい」、「マラリア大流行」、「海面上昇」などなど切りがないほどだ。マラリアなんぞは特効薬があって流行はしない。海面上昇なんぞはコンクリート堤防を10-20cm嵩上げすれば事足りるのである。オランダの堤防の歴史を見よ。日本の大都市の地下水くみ上げによる地盤低下の凄まじさを見よ。海抜マイナス地帯(深川など)で数メータくらいはちゃんと対策されている。

日本の炭酸ガス排出量とGDPは1986年ごろから連動している。1970年ごろはGDPの伸びの割りには炭酸ガスの輩出量の伸びのほうが高かった。いまや経済の伸びと炭酸ガス排出量の増加率はぴったり重なりあっている。それは省エネが進んだからである。もう遊びしろはないのである。日本の効率化は1986年ごろにピークに達した。これ以上雑巾を絞っても1滴も水は落ちない。アメリカや中国はずぶずぶの雑巾だ。絞るべきはアメリカと中国である。出てくる水の量も桁違いである(日本5%、アメリカ24%、中国14%の炭酸ガス排出量の比率)。日本は経済発展はやめてGDPを減少させるしか手はない。出来ない相談である。又そこが欧州やアメリカや中国が狙っていたことである。「京都議定書は経済の軍縮会議」である。

V 養老孟司・池田清彦対談 「"環境問題"という問題」

1、政治的な「地球温暖化」
養老先生はICPPの研究者に疑問を出す。まず「科学者」の集まりといわれるIPCC(気候変動に関する政府間パネル)は自由な学者ではなく政府の代表に過ぎない。すでに国というバイアスで選別されてきた「科学者」である。日本の官庁でやる「審議会の学術委員」を思い起こせばいい。官僚の書いたストーリに賛成の学者だけが官僚に選別されて出席するのである。自由な学識経験者が誰に気兼ねなくその見識でものをいう審議会とは誰も思わない。官僚の法案を通すための儀式(やらせ行事)である事は自明である。ICPPの「科学者」も同じである。ある課題についてさまざまな意見が出てくるのが学問である。どれが正しいか実験と理論で実証しなければならない。勿論ICPPでも意見の相異がある。しかし日本の審議会と同じく「意見」として付記されるが、全体の見解として発表はされない。したがって地球温暖化論以外の反論や異論は出てこない。「研究者」といっても、比較的自由な大学の先生もいるだろうが、殆どは政府研究機関(日本で言えば環境研究所など)の出身で、そもそも戦略研究資金と云う誘導で官僚のストーリーにあう研究に金が降りる仕組みでは自立した研究者とはいえない。

そして養老先生は日本の貢献は人口比率で行くと60分の1でいいという。これは卓見である。常識かもしれない。企業においては出資金で発言力とポストが決まるのだから、身分相応にやればいいのだ。なぜ官僚は優等生ぶって国際会議を主導し国際貢献で名を上げようとするのか。京都議定書がそもそも不平等条約であった。排出量の削減目標と達成年度を決めて、排出量取引というビジネスのルールに持ち込むのが欧州の戦略であった。優等生はもういい、身分相応でいいのだ。温暖化賛成ぐらいの意見を言ってもいいだろうと養老先生はもうヤケクソである。

2、エネルギーと文明との関係
地球温暖化防止運動を推進したのは原子力発電推進派であると養老先生は主張する。誰が儲けたかという推理では頷ける論理になっている。炭酸ガスが太陽光を遮るという論理では地球寒冷化論となり、炭酸ガスは地球の輻射熱を遮るという論理では地球温暖化論となる。どちらに転がっても原発推進企業は儲かるのだ。嫌そうではなく太陽活動(磁気や黒点)がもっと甚大な影響をあたえるという意見もある。したがって環境問題は科学的なようで、完全に政治的なコントロールを受けている。欧州の覇権の野望も見え隠れしている。アメリカはそれが分っているから、欧州の手には乗らなかった。アメリカは石油エネルギーで秩序を立ててきた典型的な文明である。石油があるかぎり世界の覇権は離さない。地球温暖化と石油問題を絡めて石油価格の高騰を狙ったアメリカの戦略はヘッジファンドの先物取引で石油価格は既に140ドルを突破している(2008年7月)。アメリカ、中東、ロシアの石油会社は笑いが止まらない。日本の太平洋戦争は石油獲得で始まり、石油枯渇で敗戦した。欧米は炭酸ガス排出量枠をビジネスと見ているのに、日本の官僚と政治家はまだその意図に気がつかないのか、京都議定書と同じ愚うを繰り返そうとしているのだろうか。

3、生きる道
日本は60%以上の食糧を輸入に頼っているのに、食糧の30%を廃棄している。地球の裏側から食糧を輸入するのか、国内で自給するのか農水省の政策は見えない。専業農家は30万戸に過ぎないのに農水省は大きすぎる。農業とは関係ないことばかりをやっている。金融、飛行場、下水道、道路など国土交通省と重複が見え見えである。農水省を潰して、経産省と国土交通省に売り渡してしまえと養老先生はいきまいている。環境問題は日本ではいつも「私も我慢するから、あなたも我慢しましょう」という倫理問題になる。政府は地球温暖化防止にはまず国民の洗脳だと言いたいらしい。そしてそれはファッシズムにもつながる。電灯を消さないのは非国民と言い出すのである。まるで戦中の灯火管制みたいなものだ。養老先生は「日本人が社会のことを考えるには、ある程度の長期のスパンが必要で、そのためには中間項がしっかりとあったほうがいい。そうでないと社会の安定性が保てない」という。ここで中間項とは共同体のことらしい。家、会社、労働組合、市民運動、NPOなどのつながりの再構成が必要だという。この意味についてはよく考えてみよう。


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