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江崎保男著 「生態系ってなに?」

 中公新書(2007年11月)

世界の生態系は病んでいる しかし生態系(エコシステム)ってよく分らない

エコという言葉であふれている。環境問題とは生態系を破壊する人間の行為によって発生したものである。自然に任せていては処理できないほどの汚染物質負荷を与える事、自然では分解できない物質を放出する事はわかりやすいエコである。しかし人間の開発行為による地球温暖化問題や生態系の破壊となると、その影響は事前に予知することは難しいし環境事前評価ほどいい加減な物はない。行政や開発者は過小評価し、被害者は過大評価するものである。要するに科学的に計算することは不可能であるということだ。なぜ難しいかというと、規模のおおきな生態系は掴みようがない事から来ている。要因が多くて、その相互関係もまだ定量化されていない。分からないと言った方が早いかもしれない。だから勝手なことを言っても真偽の確かめようがないのである。多変数関数の境界条件不定の連立方程式を解くようなもので、科学的解は見つからないのが普通である。そもそも「生態学」は大学では理学部の生物学科で研究されていた自然科学か人文科学か良く分からない分野であった。京都大学理学部の今西錦司氏らの活躍が有名であるが、魚の棲み分けや猿の社会学からはじまり、ついには京大人文科学研究所では文学部と同居して、梅棹忠夫氏らの「文明論」というスケールになった。もうこうなると人文科学である。自然科学ではない。地域に固有な観察記述学問(ルポ科学)でしかないという宿命を持っていた。したがって生態学が科学になるには特殊性から一般性を抽象する必要があり、かつ普遍性と再現可能性が要求される。しかし生態学には本来そのような特性があるとはいえない。実験ができないため、観察結果の見解は結果論であってその理由はいくらでも捏造?できるのである。一人が意見を言えば反対意見が百と出てくるのである。言葉の魔術を弄して、「この事はこう見るのだ」という天才的な見解(ダーウイン「種の起源」やドーキンス「利己的な遺伝子」などをさす)が支配する学問の世界であると私は理解している。だからというかしかしというか、生態学は全体的な(総合的な)面白い学問である。

兵庫県立大学環境人間学研究科のホームページに江崎保男氏の自己紹介があったので紹介する。「環境問題が深刻化するなか,生態学は地球環境を救うための大きな役割と責任を負っています.私は30年以上にわたって主に鳥類を材料とした生態学の研究をおこなってきました.そして,私たち人類が存続できる基盤である生態系のメカニズムを解明し,環境の諸問題解決に貢献できる科学としての生態学の研究を進めることが目下の責任であると考えています.そしてそのために、森林や河川といった陸域の生態系に焦点をあて,上空から全体を俯瞰する鳥の視点からこれらの生態系の研究にあたっています.また,あたりまえの教養として,生態学の知識が日本人全体に共有されるよう努力を惜しまないつもりでいます.」
江崎保男氏は京都大学理学部を卒業後、姫路工業大学、兵庫県立大学の教授である。専攻は動物生態学、動物社会学で、現在の研究課題は (1)人−動物相互作用系の生態学的研究 (2) 河川交互砂州の生物群集についての応用生態工学的研究 (3) 兵庫県の鳥類の分布とその変遷に関する研究  (4) ブナ林の鳥類群集の研究だそうだ。

著者は本書での自分のスタンスをこう言っている。「生態系のことを理解してもらうには、度々人間社会や人間の行動との類推で話をします。人は経験を基にした直感で理解するのです。自分の経験に照らし合わせて頷ける事は直ぐに頭に入ります」すなわち、動物は自分の意図を語るわけではないので、その意図を人間の自分ならこうするものだと理解するそうだ。人間とのアナロジーで本当に正しいのかどうかは永久に疑問である。例えば鳥に人間の行動心理を当てはめるようなものである。この辺が生態学のいかがわしいところである。本書を読むに当って、今言った事は必ず付きまとうので一応覚悟をしておくことです。本書の進め方は大略、テーマを演繹的に出して、具体的な動物の例を数例挙げて説明する。そして抽象化・理論化できる説明を施す。あとは人間の行動や類推の話を挙げて例証の重みつけをしている。そういう意味でも生態論は博物学であるような気がする。やたら観察結果の羅列に終始する。一言で抽象的なことは言えないのである。これでもかとばかり似たような話を積み重ねていく学問である。叉関連する自分の個人的な思い出話で親近感を深めるというやり方でテーマの理解を促している。これにお付き合いください。さて本書は次の5章からなります。

人間の生命を支える生態系

本章は中村雅俊の歌「ふれあい」からスタートします。歌詞一番のフレーズを書いてみます。
「悲しみに出会うたび あの人を思い出す
こんな時そばにいて 肩を抱いて欲しいと
慰めも涙もいらないさ ぬくもりが欲しいだけ
人はみな独りでは生きてゆけないものだから」
ここで著者は「人はみな独りでは生きてゆけないものだから」という言葉が欲しかっただけです。そして一人では生きてゆけない世界すなわち生態論に読者を導くのです。そして人は食べないと生きて行けません。生の基本は食です。といってグルメ論が出てくるのではなく、食べないと生体を維持し運動をするエネルギーが出てこないので死んでしまうからです。何を食べるかというと他の生物を食べるのです。本章のテーマである「人間の生命を支える生態系」ということは、別に他の生物が生態のピラミッドの頂点に立つ人間様を維持するために存在するのではなく、生きるために他の生物を食べる最終捕食者としての人間の位置を言っているのです。逆に言えば人間は他の生物の「生物連鎖」が崩れると、大きな影響を受ける立場にもあります。かっての最終捕食者恐竜が絶滅したように、地球温暖化や石油枯渇でエネルギー争奪戦が起り、大国間のエゴがこじれて世界大戦争が勃発して、核兵器によって人類は自滅する可能性があります。

食べ物の原点である植物は独立栄養生物といわれ、光合成によって炭酸ガスと水から有機炭素化合物を合成する。植物と言えど窒素、リン、カリウムなどの無機栄養物は土壌から得る必要があります。陸上植物は草食動物によって食べられます。海洋では光合成をする植物プランクトンは動物プランクトンによって捕食されます。動物プランクトンは小魚類から大魚類へと食物連鎖に入ります。海藻などの海洋性植物は動物に食われます。そして生物の死体等は分解者によって元素まで還元され、また植物の栄養源として利用される。これを「腐食連鎖」という。つまり生態系の中を物質は循環します。これを「物質保存の法則」という。物質は形を変えるだけです。太陽エネルギーは地球上の生物を生かしているのですが、地球上に留まる事はできず放散する。生態群にとって太陽エネルギーは唯一のエネルギー源ですが、これを蓄積したり保持する事はできない、ただ流れ去るものです。これを「エントロピーの法則」という。

植物は地球上の食糧の生産者です。生産総量では1年間で陸上で約1000億トン、海洋では550億トンです。生産性の高い陸地、湿地、熱帯林、さんご礁などこそ保存すべき生態系なのです。植物を一次生産者というと、牛など草食動物は二次生産者となります。戦後水田の稲耕作の生産性は著しく高まったのですが、農水省圃場整備事業のポンプとU字排水溝によって川と水田が断ち切られ、水田生物である虫、魚、鳥などが著しく低下したのです。これは人間のエゴです。人間の開発行為によって生態系が破壊された格好の例です。

生態系の物質とエネルギー

山、森、川、湖、池、田畑、海などは分りやすい生態系なのですが、それぞれがつながっており、かつ境界線も曖昧で、細かい事をいいだすとさっぱり訳が分らなくなります。地球全体が物質循環の起きている生態系であると定義すると、研究対象としては不可能になります。研究対象すら定義できないのが生態学の特徴なのです。この章では生態系として海、森、草原、川などにおける、植物の有機炭素物の生産量と栄養物質の動きを考察します。生産量とはまず有機物の総量を「総生産量」と呼び、植物自身の呼吸に必要な消費量を引いて「純生産量」といいます。さらに「枯死量」や虫や牛の植食者に食べられる量「被食量」を引いて現存量になります。植食者についても、植物の「被食量」から「不消化排出量」と自家消費「呼吸量」をひいて、植食者の二次生産量となる。さらに死亡や上位捕食者によって食われる量を引くと植食者の現存量となります。生産量の単位はエネルギーKcalで表します。
たとえばあるアメリカの草原1平方メーターあたりの草の生産量を見てみよう。現存量は4250とします。太陽エネルギーは1年間60万で、草が光合成でとらえるエネルギーは8300、自家内生呼吸で消費する量は4000、枯れて死ぬ量は4000、したがって残りは300に過ぎない。虫など植食者に食われる量は227ですので、たった73しか残りません。
次にある海の植物プランクトンの生産量を見てみよう。現存量は16とします。太陽エネルギーは1年間に30万ですが、植物プランクトンが捕まえる量は2900、自家呼吸量は250、動物プランクトンにより捕食される量は2600で、残る量は50です。現存量は陸上植物の方が圧倒的に多いのですが、純生産量は陸上で4300、海で2650です。陸上植物は1年間で見れば殆どが枯れてしまうものですが、それが他の生物を養っているのです。陸の多様性に重要な貢献をしている途云うべきです。
川の生態系を見てみましょう。渓流に住むイワナという魚では森から落ちてくる昆虫類を体の大きいイワナがとり、体の小さなイワナは殆ど水中昆虫を食べています。水中昆虫の餌は森から落ちてくる落ち葉です。川の上流域では、植物連鎖の起点は森途云う生態系からの供給物途云うことです。中流では光が当りますので藻が生え、植物プランクトンが豊富です。また畑や生活汚水などに由来する栄養物に富んでいます(汚れているともいいます)。川はやはり腐食連鎖が卓越する生態系で、陸上の生態系からやってくる死物をその栄養源としています。

外洋は生産性が高くない。それは栄養源が少ないからです。栄養源は陸上(土壌)にあります。外洋では藻場やさんご礁、湧昇域で栄養分が豊富であり、漁場となっています。植物プランクトンの栄養源は窒素とリンです。窒素は土壌微生物が空気中の窒素を固定して植物に提供します。森林の窒素収支を見てみましょう。ある研究によると、1ヘクタールの森の植物が含む窒素は約500Kgです。地上・土壌には5000の窒素が存在しているが、1年間にバクテリアが固定する窒素は20で、植物が利用する無機窒素は26、腐食された植物体から回収される窒素は70、雨などで流出する窒素は4です。1年で70−80の窒素が循環しています。しかし窒素が生態系で多すぎると湖沼では富栄養化という問題が起ります。その原因は田畑での施肥の流出、生活排水の流入、動物排泄物や死体などです。

生物個体の進化

生態系を構成する生物個体の進化について考えます。ダーウインが1859年「種の期限」で主張した事は、@個体は変異する A変異は遺伝する B生まれた個体の多くは子を生む前に死亡するということです。@とAは重要ですが周知ですので省略します。問題はBにあります。生物はこのように生き残りをかけています。生存競争といっても別に競争相手を殺すことではありません。植物は動物に食われますから生存競争に負けているということではありません。昆虫が鳥に食われるから生存競争に負けたのではない。捕食されたり病気で死んだりと子をなす前に死ぬ率が高いのです。そこでは小さな生存率の違いが長い目で生物数の減少から滅亡につながります。生存する上で少しでも有利な変異を持った個体が子供を生めるのです。子供を生まなければ種は維持できません。自然淘汰とはそういうことです。

ドーキンスが1976年「利己的な遺伝子」で主張した事は、「個体はいずれ死ぬ。再生されるのは遺伝子である。遺伝子が永遠に生きるために、個体という一時的な乗り物を次々と乗り換えているのが生物の実態である」です。なんと云う革命的な言葉でしょう。進化における利己主義とは子や血縁関係のある個体を大切にする事を言います。これは証明を超越したアプリオリな生物の公理であろうか。さまざまな生物の社会の仕組みが明らかにされているが、これは生きたいという心理ではなく、生き抜いてきた生物が持つ公理である。

生物間相互作用

この本の中で著者が研究してきた一番得意とする分野で、琵琶湖のヨシ原にすむオオヨシキリという鳥の生殖行動(一夫多妻)を観察した記録である。一夫一妻が普通である鳥の世界において、南方からの渡り鳥オオヨシキリという鳥が一夫多妻である事を琵琶湖で観察し、著者はそのメカニズムをこう考えた。「5月中旬に南方より渡来するオオヨシキリのうち、中旬以前に渡来したオスは葦原の一番密な部分に巣を設ける。それは蛇などの捕食者に卵を狙われないためである。そして鳴いて縄張りを宣言しメスを呼び寄せる。遅れてきたオスは葦原の周辺の疎な部分にしか巣を作れない。メスは辺りをよく観察して、疎な部分の独身者のオスよりも、密な葦原にいる既婚者のオスを選択する傾向がある。それは卵を守れるからで、あえて第2メスを選ぶのである。鳥は餌をとる効率と、卵をかえす効率を天秤にして選択しているようだ。オスはメスをめぐって競争し、メスはオスを選ぶ。」 しかし効率と言っても厳密に計算できるわけではなく、第2メスを選択したメスの生殖数(子の数)が独身オスを選んだメスよりかならずしも多いわけではない。子供が多いと餌をとるにも大変だし貧乏子沢山になりかねない。栄養状態が悪化すると生存率にも影響する。この辺の説明はなかなかすっきりしない。タマシギという鳥は一妻多夫の社会らしい。卵の世話をオスに任せるのだ。魚ではものすごい数の卵を産みっぱなしで、幼魚の生存率は万分の1以下である。

弱肉強食を考える上で、スミスによる「タカ・ハトゲーム」という思考ゲームがある。スミスの扱ったのは、凶暴な個体がかならずしも生き残れるわけではないので「共存」というメカニズムを主張するものであった。ゲームはある種の動物の個体群にタカ派とハト派がいるとして住み家や餌をめぐって資源競争をしていると仮定する。資源をとれば50点、敗者は0点、闘争で傷つく(死ぬ)ことはマイナス100点、ハト派がにらみ合う駆け引きにはマイナス10としてポイントを計算する。全員がハト派ならにらみ合いだけなので勝者は50−10=40、敗者は−10となります。ハト派社会のポイントは平均(40−10)÷2=15となる。タカ派が1匹ハト派社会に紛れ込むと、タカ派のポイントは50、ハト派は15以下になる。タカ派が断然有利である。次に全員がタカ派である時、勝者は50だが敗者は−100なので、社会全体で(50−100)÷2=−25となります。タカ派社会は失うものが多くて望ましいものではないといえます。次にはタカ派とハト派が共存する割合をhとして安定的に存在するには両者の点数が等しいとすれば、−25h+50(1−h)=0×h+15(1−h)を解くとh=7/12となります。ハト派が5/12を占めタカ派が7/12を占める時子の個体群は安定します。この時の平均ポイントは6.2点です。資源の価値によって比率は変わりますが、スミスは「進化的に安定した戦略」となずけました。このような戦略が本当にあるかどうかは問わないで置きましょう。ゲームなんですから。おとなしい社会に君臨する暴君が一番有利になるとは、今の人間社会のようです。

生態系の中の生物間のつながりで重要なものは食物連鎖=捕食に代表される相互作用です。種間では捕食以外に、餌などの資源をめぐる競争は重要なものです。アカゲラ、コゲラ、コガラの3種で「自然樹洞」、「鳥類製樹洞」の住み家をめぐる争いは有名です。自分で巣を掘れない樹洞性鳥類では、自分より大きな鳥が入れないように小さな巣穴をめぐって争っています。近縁種間では餌や住みかなどの資源を違える、すなわち競争を避ける「棲み分け理論」があります。子育てを他の鳥にやらせるカッコウ・ツツトリ・ジュウイチ・ホトトギスの「託卵」も有名な話です。

生態系は共生系

競争社会から共同社会に目を向けて見ましょう。目の見えないエビとハゼの共同生活があります。果実と鳥の関係、植物の花粉と媒介する昆虫の関係、そして複雑なのがエナガ・シジュウカラ・ヤマガラ・コゲラ・ウグイの「混群」と呼ばれる鳥の共同生活があります。森の高さの層別に生活して、冬季の餌とりでギャーギャー騒ぎ立てて「追い立て効果」を出す事です。また混群の構成員が捕食者を発見した時いち早く出す「警戒声」です。これらは餌条件が悪い時の共同作業であり、餌条件がよくなると群れに参加しない個体が増えてきます。共同の関係は生物個体の利己主義が一致した時のみに成立するものなのです。岩盤にくっつく六種の貝が共同で生活をしていますが、ヒトデを退治するとムール貝の一人勝ちになったということです。共同の天敵に対する共同戦術も敵がなくなれば必要がなくなって競争になります。このように多くの種は多対多の相互作用の中で生きています。

捕食関係の底辺にあって一番損な位置にいるのが植物です。しかし植物も食われ放しではありません。虫に食われないようにしっかり防御戦略をとっています。温室植物リママメと害虫であるナミハダニとその捕食者であるチリカブリダニの三者の関係です。リママメは葉をナミハダニにかじられると、チリカブリダニを誘引する物質(SOS物質)を出して来て貰い、そしてナミハダニを退治してもらうという実に高度な戦略をとります。この関係はナズナ、アオムシ、アオムシコマユバチの三者関係にも見られます。生物群集を構成する生物たちが競争・寄生・共同など多種多様な相互作用を通じてつながっており、そのつながりは連鎖となっている。一つの地域に生息する生物は直接・間接の相互作用でつながっているので、多様な生態系が必要だと云うことはこのことを云うのです。中村雅俊の歌「ふれあい」の言葉「人はみな独りでは生きてゆけない」ということになるのです。ということで落ちがつきましたので、本書の紹介は終わりにします。


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