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荒畑寒村著 「谷中村滅亡史」

 岩波文庫(1999年5月)

足尾銅山鉱毒事件と谷中村貯水池化をめぐる、
明治政府、古河財閥、栃木県に対する田中正造翁と谷中村民の闘争史

最初に荒畑寒村とはどのような人かを紹介しておこう。若い人には分らないであろうが、オールドマルクスボーイには実に懐かしい名前である。明治時代からのマルクス主義者で日本の社会主義、共産主義運動の生き字引であり、この人を語らずして日本の社会主義の歴史は語れない。そして歴史上の人物かと思っていたら、なんと94歳の長寿を全うされた。

荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年8月14日 - 1981年3月6日)は、日本の社会主義者・労働運動家・作家・小説家。元衆議院議員。 神奈川県横浜市永楽町の横浜遊郭内で生まれる。幼少期を現在の横浜市港南区野庭ですごす。社会主義者の幸徳秋水や堺利彦らが発行する週刊『平民新聞』の非戦論に共鳴し、社会主義に接近する。その後、行商・新聞記者を経て平民新聞の編集に参画。1908年、赤旗事件で検挙され入獄し、結果的に「大逆事件」での検挙・処刑を免れる。出獄後、1912年に大杉栄と『近代思想』を創刊、さらに月刊『平民新聞』を発行するが、サンディカリズムを唱えた大杉とマルクス主義に立脚する荒畑との対立が次第に表面化。大杉と訣別して後は労働組合活動を続けながら、関西で活動。1920年に日本社会主義同盟・1922年に日本共産党の創立それぞれ参加する。その後共産党を離れ、山川均・猪俣津南雄らと1927年に『労農』を創刊、労農派の中心メンバーとして非共産党マルクス主義の理論づけを行った。1937年に人民戦線事件が起こると、山川・加藤勘十らとともに検挙。戦後は全金同盟の委員長に就任するとともに日本社会党の結成に参加。1946年以降衆議院議員を2期務めた後、1949年1月総選挙では社会主義政党結成準備会(いわゆる山川新党)を母体に無所属で立候補したが落選、以後評論活動に専念。

次に明治時代の足尾銅山事件の全容を紹介する。日本の公害問題の原点といわれる。この事件について読みやすい本がある。城山三郎著 「辛酸」−田中正造と足尾鉱毒事件−角川文庫(1979年) は、田中正造という地元出身の明治期の国会議員が足尾鉱毒事件に敢然と闘った記録を、城山三郎氏の思い入れを込めて書かれた書物である。JR宇都宮線に小山で乗り上野に向かう時、電車が古河を過ぎて利根川の鉄橋に差し掛かると、右側(西方)に広々とした河川敷が広がり、渡良瀬川が利根川に合流する風景が眼に印象的である。美しいと思うと同時に明治の昔足尾鉱毒事件で谷中村が水没させられた事実を想起する。この地で明治の佐倉惣五郎と呼ばれる田中正造翁は谷中村存続をかけて闘争され、悲劇的な野垂れ死にをされた。著者城山三郎氏は企業物小説で有名であるが、昭和36年に「辛酸」という小説を書かれた。「富国強兵」をスローガンにし欧米強国に列する明治国家の建設途上、国家という強権により蹂躙された早すぎた公害闘争の記念碑として、城山氏は公害闘争史という観点よりは、谷中村強制取り壊し後の田中正造翁の人間性に肉薄した。正造翁は絶望的な野垂れ死にをあえて厭うことなく妥協を排して明治国家に抗議し続けることで、生を全とうすることを得た。というのが城山氏の視点である。

足尾鉱毒問題

   明治の資本主義黎明期に古川財閥は足尾銅山を経営し日本二大銅山の一つとして産業、軍事用の資材を供給した。農業から工業への重点的投資は国策であって、日清、日露戦争に向かって増産拡大が至上命令であった。足尾銅山闘争の歴史を田中正造翁の足跡の点から纏めた。ここから城山氏の「辛酸」の物語が始まる。殆どの村民は涙ばかりの補償金で北海道開拓村に立ち退かされ、川中に残留した19戸の裁判闘争に田中翁は心血を注いだ。翁は鉱業停止、関宿石堤除去、谷中村遊水池化反対を訴えたが政府、栃木県は強制収用を断行した。
@明治24年(1891年) 帝国議会にて田中議員は谷中村の足尾鉱毒事件を追及する。以後10年間反対質問を続ける。
A明治30年(1897年) 大隈農商大臣鉱毒予防工事命令を出すなど一定の成果があった。
B明治34年(1901年) 田中議員、帝国議会開院日に日比谷で天皇に直訴。
C明治40年(1907年) 谷中村400戸買収遊水池化決定。水没化した谷中村に残留した19戸に強制取り壊し命令
D明治43年(1910年) 渡良瀬川改修案議会通過。河川法適用で谷中村は川地になった。
E明治45年(1912年) 土地収用補償金額裁定不服訴訟で敗訴
F大正2年(1914年)  田中翁逝去

谷中村の地形と治水問題

足尾銅山から流れる渡良瀬川は現在の国道50号線とほぼ平行に東行し、藤岡町で南下して巴波川、思川を合流して古河市と栗橋町の間で利根川に流入する。この渡良瀬川、巴波川、思川の集まる三角地帯が現在の渡良瀬遊水地である。旧谷中村は谷中湖の湖水に水没している。江戸時代に関東防衛の軍事上の戦略地として現在の千葉県関宿に石堤を築いて川幅を狭め、利根川を天然の要塞としたため、この三角地帯は絶えず洪水に見舞われた。足尾鉱毒問題をこの治水問題にすりかえたのが明治政府の悪知恵である。鉱毒問題は渡良瀬流域のどこで発生してもいいはずであるが、谷中村で鉱毒反対運動に猛然と火がついたのは次の理由によると考えられる。
@天然の湿地帯である谷中村周辺を遊水池化し、鉱毒(銅)の沈殿池とする。
A田中正造を中心とする鉱毒反対運動の急先鋒を圧殺する。
B洪水防止の治水事業と称する。
悲しいまでの結末であるが、翁は自分の力の到底及ばざるを知って「わしは谷中の村で死なせて欲しい。この村で野垂れ死にしたい。村以外にわしの死に場所はない。」と死に場所を谷中村に求めた。

荒畑寒村著 「谷中村滅亡史」

第1 鉱毒問題の起因
荒畑寒村が本書を著したのが明治40年(1907年)7月の谷中村貯水池化決定の時であった。自序に書いているが、谷中村問題を世に訴えるために田中正造翁に頼まれて筆を取ったと云うことである。田中正造と木下尚江の序もある。そもそも足尾銅山鉱毒事件が顕在化したのは、明治14年(1881年)栃木県知事藤川為親氏が渡良瀬川の魚類を食することを禁じたことで左遷されたことに始まる。江戸時代から採掘されていた足尾銅山を、明治十年明治政府は古河市兵衛(古河財閥の祖)に貸与し、古河は銅の生産拡大に邁進した。銅採掘精錬に伴う鉱碎屑や排水、山林伐採、硫黄を含んだガスは、山林を丸裸にしてに、雨が降れば洪水によって大量に下流に流失し、渡良瀬川の魚類と草木、近隣百姓を冒した。

第2 鉱毒問題第一期
明治21年の大洪水は田畑を覆いつくし、翌22年は鉱毒のため不作。24年にまた洪水。24年12月被災村一同の連署で持って政府に請願書を提出した。これを受けて代議士田中正造は「政府の対策緩慢な理由、救済の手段、将来の予防策」について質問書を提出した。農商務大臣陸奥宗光の回答は「原因は不明、現在専門家が試験中、古河足尾鉱業所は粉鉱採集器を設置して防止策を準備中」といった。陸奥宗光の息子は古河市兵衛の婿養子であって、政府と資本が結託して組織的公害隠蔽を決め込んだ。この政府答弁書は議会解散直前に出されて議論はなかった。この政府答弁は現在の政府の答弁と余りに似ているのではないだろうか。100年以上前の明治政府と今の官僚と自民党の政府の基本的スタンスは同じである。

第3 鉱毒問題第二期
明治25年の春政府大干渉下で行われた総選挙に田中氏は当選し、更に国会で鉱毒問題の質問を行った。専門家の試験結果は「田圃被害は足尾銅山にある」ことを認めた。明治の鉱業条例でも「監督所長は公害予防または操業停止を命ずる」となっているにもかかわらず、河野敏鎌農商務大臣は「公害の程度は激甚ではない、被害には政府は職務上責任なし、古河足尾鉱業所は粉鉱採集器、沈殿地を準備中」といって、被害状況を認めようとせず、政府の責任を否定した。

第4 鉱毒問題第三期
明治25年古河市兵衛は仲裁人を立てて示談交渉を開始した。このため栃木県知事、官吏が動員されて村長を説得して示談契約書が交わされた。約9万円を道義上示談金や寄付金として供与し、明治26年から29年までに粉鉱採集器を設置する、そのかわり村民は一切損害賠償を起さないというものであった。足尾鉱毒問題の原因を粉鉱のみに限定して粉鉱採集器を持って防止措置とするという姑息な手段であった。じつは足尾鉱毒問題の最大の原因は河川敷に投げ捨てた鉱屑(6%の銅を含む)が下流に流れ出ることにある。むしろ大雨や洪水の時は鉱業所はダイナマイトでこの鉱屑ボタ山を破砕して、人為的に流してしまうと云うことをやっていたのである。これで貯まった鉱屑を一掃したのである。

第5 鉱毒問題第四期
明治29年7月大洪水があって渡良瀬川沿岸は氾濫し、その毒水は利根川に入って関宿から江戸川に向った。鉱毒水の濁流は江戸川流域の本所、深川に押し寄せ、農商務大臣榎本武揚の邸宅に浸水した。明治30年田中正造は国会で質問をし、農商務大臣榎本武揚、内務大臣樺山資紀連盟の弁明書を得た。弁明書では明治29年古河による示談交渉が終了し、粉鉱採集器の設置も終わっているので民法上の鉱毒問題は終結しているというものであった。この答弁書を見た被害者村民は大挙して上京して政府に抗議した。警察が検挙抑留をしたので騒ぎは更に大きくなった。政府は驚いて鉱毒調査会を設け、被害者の免租命令を出した。この免訴措置によって選挙権が奪われ(当時は選挙権と納税の義務はセットになっていた)、自治権の侵害であった。

第6 狂徒事件起こる
明治31年9月大洪水があった。死者が出て、耕作物、田畑を失うもの被害は広がった。ついに明治33年2月群馬、栃木県34か村の3000人の大衆が鉱毒歌を歌い国務大臣に訴えると蜂起した。翌日には館林市で12000人の大衆と警察官が激突した。10数名の負傷者を出して「狂徒聚衆罪」で逮捕された。

第7 田中翁の直訴
田中正造氏は憲政党員を脱退し、衆議院議員も辞職して個人として鉱毒問題に取り組むことを宣言した。明治34年12月第16議会召集の日、田中氏は日比谷通りにおいて天皇に鉱毒問題解決を迫る直訴をなした。田中氏61歳のことである。謹奏書にその赤心一途が伺える。しかるに時の政府は田中氏を発狂者と云うことにして問題化を逃げた。

第8 鉱毒問題の埋没
政府の足尾銅山鉱毒問題の方針はついに鉱毒問題自体を抹殺することに傾いた。谷中村治水問題にすり替えることである。そのために谷中村を貯水池にするため、村民を全員退去させ(土地収用法)、谷中村の村名(藤岡町に合併)から存在そのものを(貯水池の下に)消し去ることである。

第9 官林の払い下げ
谷中治水問題が起った所以は、明治21年政府は足尾の官林11300町を古河市兵衛と安生順四郎に11100円で払い下げたことに始まる。古河と安生によるr濫伐と硫黄排ガス(銅鉱石は硫黄化合物)により山は裸に成り、森林は枯れ果てた。現在でも足尾に行くと山は禿山である。凄まじい破壊振りで、古河鉱業所が廃鉱になり最近ではようやく林が戻りつつある。現在、こんな凄惨な現場を世界遺産にしようと云うのは、反面教師として環境問題の教科書にするつもりなら分るのだが、まじめに世界遺産と云うのだから情けなくなってしまう。鉱毒と洪水は裏腹の関係にあった。洪水の原因は銅山の毒と濫伐によるのである。政府は苗木を植えようとか(68万円)、河川を浚渫しよう(650万円)とか姑息なことに金を使ったが所詮対策と云うには憐れむべき方策である。官林を1万円で売って800万円も対策費を出費するのは愚かなりといわざるを得ない。

第10 谷中村買収の口実
明治29年7月の大洪水で江戸川も氾濫したことは、政府の恐怖するところとなった。銅鉱毒水が東京の下町まで押し寄せたのである。そこで利根川から江戸川の河口を縮小したのである。その結果利根川の水面は上昇し大雨があるごとに群馬、埼玉、茨城、栃木の交わる一帯は浸水した。そして政府は谷中村を貯水池にして,利根川の水位調節にしようとした。

第11 日本無比の沃土
谷中村は栃木県南部に位置し、渡良瀬、巴波(うずま)、思(おもい)の三川に囲まれた約1000町の肥沃な地であった。エジプトのナイル下流域と同じように水が運ぶ栄養分で肥料を施す必要もないくらいであった。明治維新以来築堤も進み耕作人口も増えたにもかかわらず、明治35年の大洪水で耕作不能の地に成り果てた。村価3000万円を僅か48万円で買収しようと云うのである。

第12 安生の奸計
明治27年3月、伯爵大木喬任の姻戚で陸奥宗光、古河市兵衛との関係が深い安生順四郎は谷中村の村債として70馬力の排水器の設置事業の契約を行った。これは古河財閥に対する協力事業費を村に負わせる悪辣な企みであった。結果は能力が10分の1くらいで全く役に立たなかった代物である。

第13 醜類 法廷に争う
安生順四郎は堤防修復事業と称して、村債10万円を起した。しかるにおんぼろポンプを買うのに5万円、5万円を賄賂など使用する使途不明金として着服した。これがスキャンダルとなったが、裁判所でうやむやの示談として処理された。この事件を見ていると現在の政治家・実業家が賄賂金をひねり出すために公金をくすねる手段になんと酷似していることやら。百年たっても収賄の構図は変わらない。

第14 政府 堤防を破壊す
明治36年、37年の両度の堤防復旧工事の名において堤防を切り欠き、土台石を掘り崩すなど堤防破壊の内命を受けた栃木県庁の土木官僚の悪辣さは、村民の生活基盤を掘り崩すが如き行為である。この年、明治37年田中正造氏は谷中村に入り、村民と苦労をともにした。

第15 谷中村の運命決す
明治37年7月の洪水で修復工事の終わった堤防が決壊して村は水面下に埋没した。同年12月19日知事白仁武は栃木県会議員36人を収賄し秘密会において谷中村買収案を決議した。村人は大挙して県庁と内務省に押しかけ堤防修復の誓願にでかけたが、田中正造氏らは上野駅で警察に拘束され、何度も誓願を試みたがその都度警察に拘束検挙されな内務省にたどり着くことは出来なかった。

第16 排水器の買い上げ
明治37年役立たずの安生の排水ポンプは県庁が75000円で買い上げることになり、5万円を勧業銀行に払い、25000円が使途不明金となった。さらにこのポンプを業者に760円で売り払ったという。1万円で売るつもりが760円になった理由について会計検査院が正したところ、原敬内務大臣は「谷中村買収費用が予想以上に安かったので余剰金を当てたのであって全体として目的は達している」と云うような返答で切り抜けた。この答弁どこかで最近聞いたような気がする。すべて官僚の裁量内で、目的が果たされていれば経過に怪しいところあっても問題としないというようである。ところが真実は詳細に存在するのである。なかで公金を貪る腐敗した連中がいるのである。

第17 政府 人民を苦しむ
明治38年100名の悪漢が村に入り込み、家具商と称して買収・暴力・窃盗を持って村民の財産を奪った。さらに40名の警官、県会議員、土木技師が入って谷中村の土地財産を調査した。39年10月土木課長が樋門をクギ付けし、このために浸水して麦撒きができなかった。県は買収に応じた村人には他郷に移民を勧め、これにだまされて移った土地が耕作に適せず悲惨な生活を送った。

第18 買収の悲劇
買収の手段は卑劣を極めた。あまりにくだらないのでここには記さないが、わずかばかりの買収金を使い果たして流離するもの、色酒に溺れて先祖代々の財産を逸散するもの数知れず、土地を負われた弱い人間の愁嘆場は悲惨だ。農民には働く場所が農地である。これを奪われたら自暴自棄になる人がいて不思議はない。

第19 政府 人民を欺く
明治38年より39年にかけて県庁は谷中問題の運動者を買収し、かつ多くの村人を欺いて他郷へ移住させた。移住先は官林で到底耕作地ではなかった。ゼロからの出発である。

第20 罪悪の受け継ぎ
折田栃木県知事は鉱毒事件の示談交渉を斡旋した。明治35年以来の栃木県知事は溝部、菅井、白仁の3人である。明治35年、溝部知事は谷中村買収のため災害土木費として108万円の県債を起草し、ついで明治36年、菅井知事は県債108万円議案を可決して、45万円を別途貯金した。37年には白仁知事はこの貯金を合わせ48万円(名目は谷中村補償処分費)で谷中村買収に乗り出した。

第21 谷中村の合併
人口2700人を擁した谷中村は、買収や移住のため明治40年には僅か400人に減少していた。明治37年村会は村債をめぐって紛糾し議会は総辞職した。新たの選ばれた村長は村債に反対だったので知事は村長を追い払い、村長代理の猿山、村井の命じて村債に偽った。明治39年鈴木村長代理は知事の命を受けて、38倍の課税として払えない者は財産差し押さえにすると云う処置に出た。他郷へ出るものは課税を免除するということなので、村民は流離した。そして白仁知事は、4月谷中村を藤岡町に合併すると云う命を出した。この話は現在の北海道の夕張市の財政破綻処理に酷似していると思いませんか。市民は減り、市職員は逃げ、税金が上がりまさに夕張市は滅亡の運命を待つのみです。

第22 政府 堤防を破壊す
明治39年4月17日県庁は赤麻沼急水予防工事破棄の命令書を出した。「27日までに堤防を官自ら破棄せよ、かつその費用は村民より徴収すべし」と云う苛酷な命令であった。30日に堤防破壊は終了した。

第23 貯水池無効の実例
堤防内の住家は17戸であった。小学校2校を廃した。6月には田中正造翁に「予戒令」を出して行動の自由を奪った。谷中村を貯水池にすると、利益より害の方が大きい。逆流は一端緩和されるも付近地の浸水の引きが悪くなりかえって農作物に被害が出る。谷中村に接近する町村は県庁に谷中村貯水池化反対と廃止の請願を出した。

第24 貯水池設計の無謀
明治40年4月、代議士河井重蔵氏は政府の谷中村貯水池設計なるものが誤謬に満ちている事を指摘した。ようするに降雨量の見積もりが一桁小さいため、貯水ちの耐える時間を政府は8時間としているが、1時間程度しかもたないと云うものである。他の河川に較べてもその見積もりが少なすぎ杜撰だ。この話は現在の国土交通省の官僚の出す河川工事・ダム工事で降水量の見積もりや用水計画が、工事する方向へ都合のいいように歪められている事と同じ構図である。また空港や高速道路工事において利用客の見積もりが一桁少ないと云うことはよくある話である。ようするに工事をすることが前提で、そのための数値は後つけで任意に裁量されているのである。その結果は赤字経営となる。しかし土建業者は儲けている。赤字は県が負担、税金で補助と云うのが現在の構図である。

第25 土地収用法出ず
明治40年2月、政府は県庁に対して土地収用法の適用を認可した。内務大臣原敬が西園寺公望首相の決裁を得た。内務大臣原敬は古河工業所の顧問であった。

第26 谷中村の滅亡
明治40年6月29日より7月5日の一週間で堤内に残留していた16戸の村民116人を強制排除し、家財を持ち出し、家屋を破壊した。田中正造氏、木下尚江氏らは堤防上で見守り、抵抗する農民をただなだめるしか手はなかった。県庁土木部の破壊隊200余名が入って破壊作業を行った。佐山梅吉宅、柴田四郎宅、小川長三郎宅、川島伊勢三郎宅、茂呂松右衛門宅、渡辺長輔宅、島田熊吉宅、島田政五郎宅、水野彦市宅、染宮与三郎宅、水野常三郎宅、間明田久米次郎宅、間明田仙弥宅、竹沢勇吉宅、竹沢釣蔵宅、竹沢蔵方宅、宮内勇次宅が取り壊された。

結論
陸奥宗光、古河市兵衛、陸奥の息子である古河順吉(東京十条にある古河邸はこの婿殿のために建てた屋敷である)、内務大臣原敬ら支配者階級(紳士閨閥階級)の手によって、谷中村は水没せしめられた。これは足尾銅山鉱毒問題を隠蔽するための行為であった。議会、法律、県庁官吏、警察、暴徒をすべて動員して資本家のためにおこなった犯罪である。


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