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守田優 著 「地下水は語るー見えない資源の危機」
 岩波新書(2012年6月)

地下水の枯渇、地盤沈下の実態を土木工学が解き明かす

「水資源としての地下水の持続的利用をめざして」という提言はつねに政府審議会で開発主義者から発せられてきた。この大量消費時代に持続可能な資源というものはひとつとしてないことは石油資源を見れば明らかである。いつも開発側は言い訳のように「持続可能性」というきれいごと(嘘)をいう。その実は枯渇するまで取り尽した方が勝ちという。こうしてコモンズはいつも枯渇してきた。さて本書の著者守田優氏は開発主義者なのだろうか。氏のプロ不フィールを見ると、1953年熊本市生まれ、1976年 東京大学工学部土木工学科卒業、1978年 東京大学大学院修士課程(土木工学専攻)修了後、東京都土木技術研究所地盤沈下研究室に入所する。旧建設省に入らなかったのは面白い。都の土木研究所に9年在席して、1987年芝浦工業大学工学部土木工学科に移る。1996年教授となり現在に至る。専攻は都市水文学、地下水水文学であるという。学会は土木学会、水文・水資源学会、国際水資源学会に所属して、国土交通省国土審議会吉野川分科会、東京都事業評価委員会、埼玉県地盤沈下専門委員会、港区環境審議会などの委員を務めてきた。経歴に見るかぎりでは数値解析派の土木技術者で、いけいけどんどんの開発主義者ではなさそうだ。著者守田優氏の専門は水文学という水の収支に関する学問である。地下水の収支は雨がいくら降り、地下水揚水量や湧水や河川に流れ出る量を推し量り、貯蔵量の増減を計算することである。 と簡単に言ってもそれらの収支をとったりある地域での計測は難しいし、境界が無いような場を考えなければならない。地下水は流れているのかどうかという基本的なことも最近まではよく分からなかったという。本書を読んで地下水の水理と収支について、はじめて勉強したような気がした。本書に入る前に、主に上水道関係の環境問題を扱った書籍を何冊か読んできた。簡単に振り返ってみよう。

@鯖田豊之著  「水道の思想−都市と水の文化誌−」(中公新書 1996): 国の水道水質へのこだわりをヨーロッパと日本の文化誌として捉え比較した著者は慧眼である。ヨーロッパでは1981年の上水道統計によると人工的地下水が32%、伏流水が29%、地下水・湧水が28%、谷川水が6%、地表水は工業用水専用で5%であった。地表水をやむを得ず利用する場合浄化処理にどんなに時間がかかっても薬品を多用しない。日本には湧水源が少ないこともあり水源の70%は地表水である。日本ではどんなに薬品を多用しても短時間で浄化しようとする技術背景が存在する。塩素・凝集剤の薬漬けにした日本の水道水でも直接飲用する人は多いというのは謎である。その答えが本書にあるわけではないが、近年益々悪化しつつある水道水質を考えるヒントは提供してくれそうである。
A小野芳朗著 「水の環境史―京の名水はなぜ失われたか」(PHP新書 2001 ): 京都の水道政策の決定過程を明らかにすることで現在及び将来の政策に関する予防的措置を求めるのが本書「環境史」の目的である。環境史とは聞きなれない言葉であるが、利害が絡み政治的判断の多い環境政策の政策決定力学を明らかにすることにある。いわば政策科学のジャンルに属することらしい。 京都は古来山紫水明の地と呼ばれ、水の質を基とする豆腐、湯葉、茶、酒などの豊かな文化を生んだ。その水とは地下水であった。この地下水が使われなくなり枯渇に至ったのは実に1895年(明治28年)に始まる京都近代化事業とコレラの流行に遡る事ができる。第2琵琶湖疎水開削による水量確保により電力需要に答えるという殖産政策と水道料金の徴収による収入増をセットにした上水道優先論が産業界の後ろ押しにより決定された。つまり衛生問題をだしに使って産業振興策が決定された。この琵琶湖を水源とする上水道計画の実施により、京都の地下水脈は放棄され長く下水に汚染されて戦後は工業用の地下水大量くみ上げによりついに枯渇した。京都の名水文化は実質的に途絶した。
B高橋 裕著 「地球の水が危ない」(岩波新書 2003): 1996年国際的NGO「世界水会議(WWC)」が結成され水危機を地球環境問題と取上げ、1997年第1回マラケシュ、2000年第2回ハーグ開催に続いて、2003年月日本の琵琶湖で、「第3回世界水フォーラム」が開催された。2000年には地球人口は60億を超え、人間生存の最低限の生活用水量である一人一日あたり50リットル以上の水を確保できない国は55ヶ国もある(日本人の生活用水使用量は332リットルである)。途上国が今後の水需要増加にどう対処するかが地球環境問題の課題である。WWCは2006年モントリオールで開催する第4回世界水フォーラムのテーマを「貧困と水」とし、2015年までに衛生的な水利用人口と一定水準以上の下水処理施設を利用できない人口を半減することを目標としている。
Cモード・バーロウ、トニー・クラーク著 /鈴木主税訳  「水戦争の世紀」(集英社新書 2003): 日本では水道政策については伝統的に地方自治体の専行事業と決まっていた。下水道事業は最近まで国の事業(今は地方自治体に移管されている)、水源地確保も国の事業であった。先進国の社会はこれまで、無制限な成長モデルや大量消費経済のもとで進んできた。世銀やIMFを味方につけた多国籍水企業は淡水が商売になると見込んで利潤追求に走り始めた。2000年3月のハーグの「第2回世界水フォーラム」が高らかに「水はニーズである」と宣言したことは先に述べた。このフォーラムには140カ国以上の閣僚級代表が参加する国連の公式の世界大会のような印象を与えたが、じつはこの会議を招集したのは「グローバル水環境パートナーシップ」という企業・銀行であった。本書はグローバル資本が世界の水に利潤を求めだしている事への警鐘である。多くの国の自治体政府が管轄する水道事業の公共事業が営利目的の外資系企業に乗っ取られている。

アメリカのグレートプレーンズ(サウスダコダ州からテキサス州にわたる七州に渡る広大な地帯)はかって半乾燥地帯であった、それが1940年代に肥沃な穀倉地帯に変わった。それはスプリンクラー灌漑システムによって地下水を汲み上げて農地に散水することが出来たためである。この地帯の地下にはオガララ帯水層という巨大な地下水脈が存在する。アメリカの全灌漑面積の実に27%に相当した。長年の大量の水の汲み上げにより地下水位が低下し、平均70メートルあったがこの半世紀で地下水は30メートル低下した。アメリカの農業生産を支える地下水の危機は、カルフォニア州の農業生産も同様な運命にある。地下水を過剰に汲み上げると地盤低下が生じる。日本では高度経済成長期の工場用水として大量に利用した結果、1960−1970年代に地盤沈下という典型的な公害問題を引き起こした。世界的な人口増加の圧力は、農業用水の需要を押し上げ、生活用水や工業用水を逼迫させた。日本では農業用水は主として河川水に頼っていたが、都市人口増加による上水道源として、また水利権の制約のない工業用水として地下水に注目が集まり、大量の地下水汲み上げが始まった。地盤低下・海抜0メートル地帯の深刻な事態によって地下水汲み上げは多くの都市で規制された。高度経済成長期のような過剰な地下水汲み上げは過去のものとなったが、2011年度で生活用水と工業用水の25%は地下水に依存している。世界では人口の25%以上が飲料水を地下水に依存している。地下水の枯渇によって、地下水が抜けた地層の地盤縮小は進行しなくなり、地盤低下はほぼ沈静化したように見えるが、地下水位はなお広域的に低下し続けている。さらに地下水の汚染の脅威も消えていない。本書は古典的な地盤低下を歴史的に振り返り、湧水枯渇、そして地下水汚染と地下構造物の問題を取り上げる。そして地下水利用の社会制度として「私水論」と「公共の水論」を議論する。

1) 地盤沈下

地下鉄東西線門前仲町駅を上がって商店街の横に、深川高潮水位の記念物が立っている。これは昭和9年(1934年)9月21日の室戸台風による高潮が深川一円を襲い3/4の地域が浸水した時の水位の記念碑である。人の頭を超す高さである。深川の住民であった菊池山哉は「沈み行く東京」(1935年)を著わし、長期にわたる深川の地表面沈下の実態を明らかにした。当時地盤沈下の原因として、地殻変動説もあって意見は定まらなかったが、西大阪での地盤沈下現象を大阪災害研究所の和達清夫は1940年の論文で「地盤沈下の生じる原因が地下水の過剰汲み上げであるとの結論に至った」と述べた。和達は「地下水を使いすぎると地下水圧は低下し、粘土層が凝縮を起こし,これが地盤沈下となる」とほぼ現在と同じ結論を得ていた。井戸の水位低下と地盤沈下速度を観察すると両者は比例関係にあった。地下水層の構造を見ておこう。東京江東区や西大阪地区はともに沖積低地(河川の土砂が堆積してできた低地)に位置する。上層の粘土層は「加圧粘土層」と呼び、その下には礫や砂からなる水を通しやすい帯水層となっている。この帯水層を「被圧帯水層」(上の粘土層が押さえているので)という。地下水が被圧帯水層全体を充たしており、地下水汲み上げを行なう前には、通常自由水面は無い。揚水する前の被圧帯水層の水頭(ヘッド)は圧力を受けているので被圧帯水層上面より高い。これを静水位という。井戸の汲み上げ中は水位は低下する。これを動水位という。地盤沈下の仕組みとは、被圧帯水層から地下水を汲み上げると、静水位が低下し被圧帯水層の水の圧力が低下する。そのため上の粘土層内の水が帯水層に落下し粘土層は収縮する。収縮した分だけ地表面が低下する。これが沖積低地での表層収縮による地盤沈下の仕組みである。

被圧帯水層の下には(通常20−30メートル)水を通し難い基盤がある。最終氷河期以降の地質を洪積層と呼ぶ。関東平野、大阪平野、濃尾平野などではこの上に沖積平野が形成された。つまり沖積表層は軟弱地盤である。砂や礫からなる被圧帯水層は洪積層である。地盤沈下が始めて測定されたのは東京では関東大震災(1923年)以後のことである。昭和にはいって高潮による浸水被害が出始めた。東京ゼロメータ地帯といわれる江東デルタ地帯(江東区・墨田区・江戸川区)は工業地域として発展し、大正時代から1970年代の高度経済成長期において大量の地下水を汲みあげた。産業の発展とともに東京低地から荒川に沿って埼玉県南部の拡大し、さらに西へのびて京浜工業地帯、南へのびて京葉工業地帯として首都圏高度経済成長の一翼を担った。工業用水には海水(原発冷却用がメイン)は腐食などで使えず、河川水は農業用水や飲料水の利権が先行して制約が多いことや水の点で難点が多く、つまるところ地下水が工業余水の主役となった。地下水は法慣例的には「私水」ということで制約がなかったのである。東京大学理学部構内に深井戸があり過去100年間の地下水のデータが残されている。1900年には平均海面基準に対して地下水位は+10メートルあったが、1970年には−40メートルまで下がった。地下水汲み上げ禁止条例によって水位は2000年では−10メートルまで(高度経済成長が始まる前のレベル)に回復した。東京低地の地盤沈下は1900年を基準にすると、江東区では1970年には沈下量は−4メートルとなった。これが下げ止まりで以降の地盤沈下はないが、地下水位は回復しても地盤沈下は回復することはない。これを沈静化というのか、地下水枯渇による粘土層の圧縮限界というのか複雑な心境である。東京低地での地下水汲み上げによる地下水の流れが生じ(汲み上げがなければ地下水は流れない)、荒川に沿った「浦和水脈」は戸田、足立区、小平、所沢、川越、狭山まで達しているようである。

この地盤沈下減少は1970年代の典型的な公害問題となった。1950年代工業用水と農業用水の水利を巡る争いから、1956年「工業用水法」が制定された。工業地帯を指定地域として、工業用水路によって水源を提供するというもので産業界の要請に沿うものであった。1962年「ビル用水法」が制定され地下水揚水規制基準を定めた。同時に工業用水法も揚水基準を定めた。東京低地の揚水量は1965年に最高値55万立方メートル/日を記録したが、それ以降は漸次低下傾向を続け1975年以降は1/10以下となった。そして1985年には被圧地下水位は漸次回復(−60mから−20mへ)していった。1978年「地盤沈下防止法案」は各省庁の意見がまとまらず法制化は見送られた。多くの地方自治体(385市町村)では独自に地下水揚水規制条例を定めた。こうして地下水揚水による地盤沈下問題は沈静化していった。ビル空調用冷却水型がヒートポンプ型空調機に替わるなど技術面の進歩も貢献した。また工場用水リサイクル利用(クローズドシステム)や膜方式水処理コスト低減技術の進歩など多くのイノベーションを生んだ。何よりも1980年代から産業構造が、水を大量に使用する重化学工業から電気電子ハイテク産業に移行したことが大きい。日本型産業の輝かしい技術進歩の時代であった。

2) 湧水枯渇

都市域の湧水の枯渇問題を取り上げ、水循環(水収支)の不全を明らかにする。1985年環境庁は「昭和の名水百選」を発表し、2008年環境省は「平成の名水百選」を発表した。名水とは水質の事ではなく文化財としての捉え方である。湧水・地下水・河川水を対象として、平成の名水には湧水が64箇所選ばれている。昔江戸時代に開かれた神田上水の水源は井の頭の湧水池であったが、1960年代に井の頭湧水は枯渇し地下水を汲み上げて辛うじて池面を保っている様である。湧水は自然の水が地球を巡る水循環のプロセスの一部である。雨が地上に降り、地表水として河川となったり、地下に浸透した水は地下水となって、それが所によって地表へ流出する場所が湧水である。崖裾から噴出す崖線タイプと、池や湿地に湧き出す湿地・池タイプがあり、井の頭池は後者である。東京の武蔵野台地は洪積台地といい、山から平野へ土砂が流れて扇状台地を作るが、あちことで崖ができ崖線タイプの湧水が見られる。洪積台地では雨が地表から帯水層に直接浸透して地下水となる。武蔵野台地では雨水は地表から関東ローム層を通って浸透し、不圧地下水を涵養する。不圧地下水は自由地下水ともいい自由に流れて崖から湧水として流出する場合と、不圧地下水は更に浸透し被圧地下水層に達し、被圧地下水層が崖に接しているとそこから湧水となって流出する場合がある。武蔵野台地の崖線タイプは両者が共在している。地下水の水循環(水収支)は涵養域・流動域・流出域と区分して考える。武蔵野台地にある井の頭池・善福寺池・三宝池は被圧地下水水位が同じレベルにあって通じているため三者は殆ど同じ時期(1960年代前半)に枯渇した。自由水面のない被圧地下水は圧力と標高落差(重力)の2つの要因で時には流動するものである。地下水汲み上げによって流れが生じるのはこの2つの要因が働くためである。流入(インプット)する水は都市化(舗装道路)と下水道の普及(雨水分離式)によって涵養層に入る水量が減少する。流入(インプット)の減少と流出(アウトプット)の増加(揚水)、そして地下構造物(トンネルなど)による水平方向の流れの遮断、または揚水管の腐食などによる下の被圧帯水層への漏水という垂直方向への流れなどの3つの要素ごとに大小を詳細に論じなければならない。

降水は地表で河川に流出する量を差し引き、地表から蒸発散する量も差し引き、まず流入については、地下水の自然の涵養量は東京台地では1日あたり1ミリメートルが目安である。それに地域の浸透面積率(1−舗装道路率)をかける。次に流出(アウトプット)を見ると、武蔵野三鷹地区での地下水用水量を面積で割った値は3−4ミリメートル/日(1960年代)であった。圧倒的に支出過多で赤字収支となっていた。こうして1950年から1970年にかけて地下水位は海水面基準40メートルから海抜レベル以下まで低下した。それに加えて不圧帯水層と被圧帯水層との間がどこかで薄くなっているか破れている可能性が、水爆実験によるトリチウムをトレーサーとする濃度分布測定で推測された。不圧地下水が下方向への被圧帯水層へと漏れ出している。雨水浸透マスによる涵養増加策が有効であるが、もっと深刻な水循環不全に対しては揚水量を削減して(1ミリメートル/日以下に)被圧帯水層の地下水位を上昇させ漏れをなくすることが唯一の道である。小金井市の水道局の例で言えば、何本もの井戸が掘られ被圧帯水層の水位が低下し空気層が出来て不圧化し、井戸のケーシングを伝わってより下方の被圧帯水層へ水が漏れ出している。

3) 地下構造物と地下水環境

1970年代の高度経済成長と地下水の公害問題の時代は終り、1980年代より「地下水環境問題」の時代となった。1981年シリコンバレーで有機塩素系溶剤によるハイテク汚染がクローズアップされた。これを受けて環境庁は5都市の地下水を調査し、28%の地下水がトリクロロエチレン・テトラクロロエチレンに汚染されていることがわかった。また硝酸性窒素という生活水による汚染も進行していた。1984年暫定的な水道水質基準を定め、これら有害物質の地下浸透は禁止された。1993年に制定された環境基本法の環境基準は公共用水の環境基準を定めたが、地下水はこれに含まれず、新たに1997年26項目の環境基準が追加された。有機塩素系溶剤の地下水汚染を考える上で、地下水の流動すなわち「水みち」に注目することは重要である。深井戸の構造が絡んでいることが判明した。深井戸は何層もの難透水層と被圧帯水層を貫いてケーシングが打ち込まれている。被圧帯水層の部分で管にスクリーンが設けられ集水するための穴が開いている。そしてケーシングと表土層の間には充填粘土でシーリングする工法が取られている。この充填粘土層に欠陥があってそこから汚染物質が管に沿って隙間から下方へ拡散したものと考えられた。また配管用炭素鋼の耐用年数は10年である事から、施工後何十年経過した老朽化した井戸ではケーシング腐食が進行し地下水汚染の温床となっていると想定された。そこで遮水工を深くし、かつケーシングをステンレス鋼に変えることが求められる。水道局では揚水した地下水の曝気処理をするなどの対策を講じている。

地下水位は著しく低下した1970年代多くの地下建造物が建設された。例えば上野地下の新幹線駅は1975年に着工され、当時の地下水は−38メートルで、地下駅底面よりなお8メートル下であった。ところが地下水揚水規制で地下水面が上昇し2005年には駅底面より15メートルも上になった。そのため上向きの揚力を受け躯体の浮き上がりや漏水などの危険性が生じた。重し(カウンターウエイト)を底面に載せ圧力に対抗させ、JR東京駅では下方の地層に構造物を固定する「永久グラウンド・アンカー方式」が採用された。上野駅では地下鉄湧き水を環境用水として渋谷川に流している。同じことは武蔵野線新小平駅で起きて、降雨時レール面が隆起したり湧水が噴出した。戦後地下構造物工法が「ジオフロント」を生み出し地下街・地下鉄道・地下道路の建設が進められた。この地下構造物が地下水の流れに影響を与える「地下水流動阻害」が1990年代に発生した。JR武蔵野西線の地下トンネル工事(地下15メートルで南北に5Km)により、線の西側で地下水位上昇が起り住宅の浸水、東側で地下水位の低下が起り井戸枯れが生じた。この地域のこの深さでは地下水は西から東に向かって流れる不圧地下水(自由流動水)である。地下水を意図的に堰き止める工法は「地下ダム」といわれるが、図らずしてこの地下鉄道工事が地下水の流れを堰き止めたのである。更に大都市では地下40メートル以下で利用する「大深度地下開発」が計画されている。2000年には「大深度地下公共使用のための特別措置法」ができた。環七地下調整池は地下40メ―トルにシールド工法を採用しているので不圧地下水の流れには影響しないと思われるが、被圧帯水層への影響は未知である。東京外郭環状道路は約85Kmの地下道路で,躯体底部深度は最大で70メートルになるといわれる。当然トンネルは不圧地下水の下を通るので問題なしとはいえない。環境評価やモニタリングが必要である。

4) 地下水利用の社会制度

民法207条に「土地の所有権は、法令に制限内において、その土地の上下に及ぶ」というあいまいな表現があり、これは地下水揚水権や日照権を明確に指すものではないが、慣例として「地下水私水論」を作ってきた。山梨県はミネラルウォーターの生産量で34%のシェアーに達し、水源地の保全のため地方自治体は多額の財政負担を強いられているので、受益者負担よりミネラルウォーター事業者に地方税をかける税法上の措置を検討したが、地下水利用産業は工業用水が25%に比べ、ミネラルウォーターは4%であるため、ミネラルウォーター税は特殊すぎるということで見送られた。地下水の利用に関しては明治時代には法規はなく慣習・条理で処理されてきた。1957年の水道法によって地下水の大量揚水が始まった。地下水の大量汲み上げによる塩水化被害の裁判において、はじめて地下水が共同資源であるとの認識が示され、私的地下水利用は合理的制約を受けるとされた。1992年に国土庁は諸外国における地下水法制度の調査を行なった。地下水私有論にたつ国は、フランス、イギリス、オーストラリア、ベルギー、スウェーデン、スイスなどであり、地下水公共論にたつ国にはイタリア、ドイツ、スペイン、ポーランド、リーマニア、イスラエル、トルコなどがある。日本の行政において水循環という言葉が打ち出されたのは、1999年に関係省庁は取りまとめた「健全な水環境系構築に向けて」であった。2007年には「水制度改革推進市民フォーラム」が発足し、「水制度改革国民会議」が設立された。2009年には超党派国会議員は「水循環基本法研究会」を設立した。国土交通省は河川水と地下水を「公共水」として一体管理する事を目指しているが、地域性・多様性の強い地下水の一体管理が果して可能なのだろうか。地方自治体の管理の可能性を残した方がよさそうである。

国分寺崖線の湧水から発する野川流域湧水群の関係自治体は湧水の保全を求めた条例つくりを進めている。野川湧水群は、姿見の池、真姿の池、日立中研内の湧水、殿ヶ谷庭園、貫井神社、東京経済大学内しんじろう池、滄浪泉園、野川公園、深大寺、実篤公園、みつ池、喜多見不動尊、つりがね池などの遺跡から構成されている。1974年住民運動を受けて、東京都は殿ヶ谷公園を36億円で買い取った。滄浪泉園も買い取った。地元では「水みち研究会」が1988年より調査保全活動を行なっている。2004年国分寺市まち作り条例へつながり、崖線周辺の開発行為に対して環境影響評価を義務付けた。小金井市では1981年に雨水浸透事業に着手し、全軒の54%という普及率となった。これは涵養量にして0.3ミリ/日であるが、地下水揚水量は小金井市でまだ2ミリ/日であるので、やはり地下水揚水規制を強めなければならない。筆者の故郷である阿蘇山の伏流水の町熊本市では、水道資源の100%を地下水に依存し、古来「ざる田」という涵養域が有った。近年の休耕田の増加により地下水がピンチにおちいり、2004年度より地下水の人口涵養事業を開始した。水田の水利権を利用し河川水を引く事業である。水循環の健全化は先ず第1に循環不全を防止し正常化する段階があり、地下水揚水を削減し地下水位を回復させることである。第2に水循環を改善する段階(雨水浸透施設など涵養域の強化、流動阻止要因を除去)、最後に水循環を健全化する第3段階からなる。


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