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武田邦彦著 「環境問題はなぜウソがまかり通るのか 2」

 洋泉舎(2007年9月)

地球温暖化、バイエタノール、ペットリサイクルの環境問題のウソがまかり通る理由

武田邦彦教授は旭化成でイオン交換膜ウラン濃縮技術を長く手がけられた。名古屋大学教授を経て現在中部大学総合工学研究所教授である。ほかに日本工学アカデミー理事、内閣府原子力安全委員会専門委員、文部科学省科学技術審議会専門委員でもある。著書に「リサイクルしてはいけない」(青春出版社)、「リサイクル汚染列島」(同社)、「リサイクル幻想」(文春新書)、「エコロジー幻想」(青春出版社)を著わし、環境省やメディアの環境政策に大きな疑問を呈して世間の注目を引いている。教授の主張は「エントロピーの法則より、稀散した物質を濃縮するにはエネルギーが必要。多くのエネルギーを使ってまでリサイクルしてはいけない」にある。これまでは主にプラスチックリサイクル運動に疑問を投げかけてきた。氏のプラスチックリサイクル論に私は原則的に賛同したい。今回の「環境問題はなぜウソがまかり通るのか 2」では環境問題全体にコメントし、地球温暖化、バイオエタノール、プラスチックリサイクルの問題や、国、学者、報道機関の問題について幅広い言及があった。一読して長年私が疑問に思っていたことと符合する点が多いので紹介したい。環境対策、環境保護のためという大義名分(環境全体主義)を掲げれば、本当は間違った政策でもまかり通ってしまう。やはり間違っていることは間違っていると言わないと、地球温暖化のための環境税など高コストな社会となる。ここで日本の環境政策を考えるいい機会を本書は与えてくれた。

地球温暖化防止枠組み条約「京都議定書」(1997年)での欧州・米国の政治的狙い

武田氏は「地球温暖化は環境問題ではなく政治問題だ」という。その通りである。私は地球環境問題はエネルギー・資源問題であると信じている。その独占を図る米国とその追随者の画策した政治問題であろう。今から10年前1997年12月京都国際会議場(宝池)で開かれた「第3回気候変動枠組み条約締結国会議(COP)」で「京都議定書」が締結された。条約締結国は155カ国にのぼり、アメリカのゴア副大統領と日本の橋本首相が中心となった。この条約では温暖化ガス(炭酸ガス、メタン、一酸化チッソ、メタンガス、フロンガス[HFC,PFC,SF6]の6種類のガス)の削減目標を定めた。炭酸ガスは石油などの燃焼によって発生するので、削減することは即ちエネルギー使用を減らすことになる。日本の石油使用量は、1960年より高度経済成長にあわせて急速に上昇し1973年と1979年の2回の石油危機によって一時停滞し、10年間は省エネルギーが進んだ。エネルギー構成も変化し、天然ガス、原子力に転換しつつエネルギー使用は1985年からまた増加した。エネルギー自給率は6.3%に過ぎない(原子力もウラン輸入)。

京都議定書は削減目標を先進国の欧州が8%、アメリカが7%、ロシアが0%、日本が6%とし、途上国(中国など)には削減目標は定めなかった。欧州と日本はこの条約を2002年に批准したが、アメリカは2001年に離脱し、ロシアは2004年に批准した。アメリカは1997年7月上院で条約に不参加を決めており最初から批准する気はなかった。京都議定書はいくつもトリックが仕掛けられていた。アメリカの不参加であり、旧東欧を抱えた欧州連合は全体で目標達成ということ、排出権取引、共同実施、クリーン開発メカニズム、森林シンクと云う京都メカニズムの採用、そして1990年を基点とすることである。欧州は1990年を基点とすることで東欧の吸収による削減しろの確保が出来何もしなくても旧東欧の非効率な施設の休止で目標以上に達成できる見通しになった。ロシアも然りである。欧州連合は1989年からの旧共産圏の没落と云う政治事件を巧みに利用して、1990年を基点とすると云う絶妙なトリックを編み出した外交の勝利であった。結局削減目標を負ったのは日本一国という、外交無策振りとお人よしを曝露した。先ず世界の笑いものになったのは日本だけであった。中国は今や世界に冠たる輸出国・経済成長国であるにもかかわらずいまだに議定書では途上国扱いで全く制約を受けていない。日本の政府、外務省・環境庁のバカさは世界一流であった。しかも日本は省エネルギー技術と電子機器の発達で他に先んじて省エネ環境社会を達成していたので、削減努力しろはなくなっていたのである。欧州の石炭火力発電所の切り替え策などは日本では遠い昔に達成していたのである。

アメリカの離脱はブッシュ共和党政権がもたらしたのだと云う見解はウソである。1997年7月(京都会議の3ヶ月前)に上院において民主党と共和党の共同提案で「バード・ヘーゲル決議」が95対0で採択された。アメリカでは条約の批准は上院が行う。アメリカは最初から京都議定書と云う条約を批准しないことを表明してからゴア副大統領を京都へ送り出したのである。その目的は、日本の手を縛るためであった。誠に複雑な手をアメリカはとる。正論で日本をおだててトリックの満ちた条約をつくり、日本だけに削減目標を定めた。欧州の目的はアメリカは批准しないことは分っているので、自分達が会議を主導したと云う世界認識を持たせ、やる前から目標達成は出来ていた「出来レース」に日本を乗せて、日本の経済発展を阻止することであった。さらに手の混んだことに、複雑な「京都メカニズム」という計算方程式を与えて、削減できない時の手を準備した。しかしただではない。日本にお金を使わせることである。日本の金がODAに準じて途上国やロシア・旧東欧へ流れ込む手である。ここまで皮肉に世の中を見なければ、欧米の手練手管にはいつも負けてしまう。真珠湾攻撃を挑発され中国紛争から太平洋戦争に誘導されたようなものである。京都議定書はいわば第一次世界大戦後の世界の軍事力を制限する国際連盟の軍縮協定の枠組み交渉と同じように見える。アメリカはモンロー主義というか手を縛られたくないので国際連盟に参加していない。京都議定書離脱の米国の戦略は当時と変わりはない。日本は軍艦の比率をめぐって国際連盟を脱退した。当時すでにアメリカは巨大軍艦の時代が過ぎ去り、航空母艦を主とした空軍力に重点を移していたのである。京都議定書のように石油にこだわらず、日本こそが次のエネルギー戦略に邁進すべきではないだろうか。

地球温暖化防止条約が斯くも政治的問題に変形されたといえども、誠実に努力すれば本当に地球温暖化防止に役立つのかと云う疑問が湧く。この節では「地球温暖化に関する政府間パネル」IPCCが2007年2月に出した第4次報告書にしたがって地球温暖化予測を見て行こう。第4次報告書第一作業部会報告(英文)はhttp://www.ipcc.ch/ipccreports/ar4-wg1.htmで閲覧できる。IPCCと云う機構は1988年に設立された国際的気候変動研究機構であり、研究者の集まりで現在の科学的見解を知る上で欠かせないものである。科学的議論はここから始めなければならない。メディアや環境省や専門家はここから都合のいいデータのみを切り抜いて発表するので、おかしいと思ったらIPCCの報告書で検証すべきである。気象庁から第4次報告書第一作業部会報告書(日本語訳)「政策決定者向け要約」が出されている。こちらは日本語なのでお勧めする。URLはhttp://www.data.kishou.go.jp/climate/cpdinfo/ipcc/ar4/index.htmlである。先ず過去百年(1906−2005)の地球の温度は0.74℃上がった(詳細に言えば1900前後と1940年から1970年までは寒冷期があった)。地球温暖化の原因は7%が太陽活動で、93%が人間の活動である。炭酸ガスの影響は53%、メタンやフロンの影響が31%、オゾン層破壊が10%である。地球温暖化の原因のうち炭酸ガスの影響は0.93×0.53=0.49であり、ほぼ半分が人間が出す炭酸ガスによる。IPCC内部でも異論があるが、異論は記述されている。海面水位は過去40年(1961−2003)で70mm上がった。毎年1.8mmの上昇と云うことになる。海面上昇の原因は海水の温度による膨張が0.42mm、大陸の氷河の溶融が0.5mm、南極やグリーンランドの氷床の溶融は0.19mmとされる。いつもテレビに出てくるクリーブランドの氷床崩落映像(季節的な通常現象)は映像効果を高める故意の誤報か錯覚の報道である。北極の氷床はもともと水の中にあるのでアルキメデスの原理で解けても容積は変化しない。(厳密には密度の温度依存で寧ろ縮小し水位は下がる)そこで結論であるが、過去40年間の海面上昇は70mm(100年では160mm)、これを大きいと云うのか、なんだそんな程度かと云うのかは読者の理性に任せる。いずれにせよ地球表面の大変動という事態は経験したことがない。

IPCCの描く「将来の気候変動に関する予測」では三つのケース(使いたい放題、中間的な抑制政策、本格的抑制政策)での今後百年の温度上昇は第一ケースで4℃(2.4ー6.4℃)、第2ケースで2.8℃(1.7−4.4℃)、第3ケースで1.8℃(1.1−2.9℃)である。そのときの海面上昇は第1ケースで26−59cm、第2ケースで21−48cm、第3ケースで18−38cmの予測である。一方石油の生産量と発見量であるが、発見量は1965年をピークとして指数関数的に減少しているのと、石油生産量は増え続けているので、2040年ごろには石油は枯渇する予想である。石油はなくなりつつあるのに石油燃焼による後遺症をくよくよ考えるのは「両価性」と云う矛盾に気がつかないようだ。石油が何時までも大量消費できてその影響を受けたがっているのだろうか。猶参考のため海面は毎日変化している(変動の原因は月の引力と温度による海水容積変化による)。基準位からの潮位は1ヶ月で200cm上下、夏と冬の差は40cm、大阪の地盤沈下による100年間の水位上昇は260cmである。それと較べる意味はないかもしれないが、地球温暖化による海面水位は過去100年で16cm上がったとIPCCは見ているのだが、日常の潮位変動のノイズのレベルかもしれない。おなじIPCCの報告書を見ていても、メディアや機関の捉え方は違うのである。NHKは温度上昇を6.4℃、環境省は2.4−6.4℃、イギリスBBCは1.8−4℃、アメリカのNYタイムスは1.8−4℃と報じている。日本の環境省は最悪のケースを範囲で表現し、NHKは最悪のケースの最大値を一点で6.4℃といい、イギリス,アメリカのメディアは中間のケースを範囲で表現している。人々を動かすにはセンセーショナルのほうがいいと云うのが日本のメディアの態度であろうか。インパクトのある表現を好む習性が見られる。

京都議定書で本当に温暖化が防げるのだろうか。簡単な寄与率の計算をしてみよう。1997年の世界の炭酸ガス排出量は242億トンであった。先進国が59%、途上国が41%であった。アメリカは23%、欧州は18%、ロシア東欧圏は13%、中国15%、日本は5%であった。地球温暖化の原因のうち人間活動によるものが93%、そのうち炭酸ガスによるものが53%、京都議定書の対象となる先進国の排出は59%、批准した国が対象国の排出量の62%である。すると京都議定書でカバーできる割合は0.93×0.53×0.59×0.62=0.18つまり京都議定書が対象とする炭酸ガス量は18%である。京都議定書で平均6%削減と云うことになったので、0.18×0.06=0.011である。つまり約1%である。京都議定書は温暖化の1%を改善するに過ぎない。これでも偉大な一歩というのか、ごまかしと云うのかは読者の知性に任せる。地球温暖化は環境問題といえない。何の影響も実感できないからだ。単純な計算でも京都議定書の効果は無きに等しい。この地球温暖化防止空騒ぎは一体何なのか。アメリカのアル・ゴア氏は十年たって、ブッシュの任期切れ近く、今日また地球温暖化のヘゲモニーを取ろうとしているのはどういう企みがあるのだろうか。地球温暖化問題はたしかに世界の政治潮流を米国欧州を核として一致団結させるドグマであり、アメリカの覇権誇示にはとてもいいテーマである。イラクと中東の石油とガスの利権集めに狂奔したブッシュUの稼ぎを元に、民主党の価値観の多様性を謳うには格好の政治テーマである。どちらもアメリカのエネルギー政策なのだ。環境NGOが非難するようにゴアー氏の豪邸の電気量は月100万円を軽く越すそうだ。ゴア−氏は偽善者と呼ばれてきた。ゴアー氏の「不都合な真実」とは欧米とくにアングロサクソン民族にとって不都合に過ぎない。彼らの正義とはアングロサクソン民族の正義である。日本はそれに御付き合いする必要はない。国内総生産あたりの炭酸ガス排出量は甘えリカは日本の3.1倍もある。しかしアメリカ人は自分達の石油大量消費生活を決して改めようとはしない。6000ccのアメ車がぶっ飛ばす生活を見直すことはない。いまこそ日本は徹底した脱石油生活と経済と技術をアメリカより先立って開発するいいチャンスと考えて努力すべきだろう。京都議定書に縛られるよりは、縛られた振りをして、脱石油文明を築いててゆくなら、今日の地球温暖化防止策も背面教師の役目はあるだろう。

京都議定書の京都メカニズムで設けられた共同実施という内容は、削減義務を負わない途上国の第三国と共同で実施した地球温暖化政策は削減義務を負う先進国の実績としてカウントされるというものだ。ただしODAは除くと云う条件付である。日本の省エネ技術の粋である自動車、家電製品などに排出権をつけて外国に輸出すればいい。日本の製品を売ることは炭酸ガスの削減に役立つからだと著者はやけくそ気味に云う。外国との交渉でこれくらいの屁理屈をいえなければ、欧米の強引な屁理屈に負けてしまうのである。これが外交能力というものである。日本は他国に先んじて省エネルギー技術と電子機器の発達で省エネ環境社会を達成していたので、削減目標は既にクリアーしたといえばいいのである。地球温暖化対策は省エネに遅れた欧米の問題でしょうとなぜいわなかったのか。地球温暖化防止対策とは先進国にとって省エネの問題であり、省エネ化すると身軽になってさらに大量消費が促進されると云うジレンマがある。良かれと思うミクロな技術開発が社会全体のマクロには却って悪い方向に向うことを「誤謬の合成」という。

欧米は「地球温暖化」と云うドグマをどう利用するつもりなのだろうか。20世紀から私達はアメリカの政策によって手ひどい五つの悲劇を負ってきた。一つは6000万人と云う膨大な犠牲者を出した二つの世界大戦、二つは広島と長崎への原爆投下、三つはアメリカの覇権主義が明確になった冷戦崩壊後の湾岸戦争からアフガン・イラク戦争の流れ、四つは世界に金融システムを破壊したアメリカのヘッジファンドを象徴とするグローバル金融政策、五つに地球温暖化と云うエネルギー多消費アメリカ流生活様式であった。15世紀の大航海時代の幕開け以来ヨーロッパ先進国は世界を植民地化し、その富の収奪と蓄積によって産業革命を成し遂げ、近代工業文明を作り世界を20世紀末まで支配した。南北格差の固定、軍事的・政治的隷従化によって世界の国々には悲惨な災厄が襲った。欧米の植民地戦略の延長(新植民地主義の亡霊)こそが地球温暖化問題である。もはや露骨な支配は出来なくなった今日、世界に対立点を設けて世界を一極支配で動かすには「戦争」(テロへの戦い)とならんで「地球温暖化」は格好のテーマである。1980年から90年にかけて世界は地球の大気に穴が開くといって騒いだ「オゾン層の破壊」問題は今やどこへ行ったのか(冷媒に特定フロンを使用しないことで決着)。紫外線で皮膚がんになるのは白人だけ、有色人種はメラミン色素があるから関係ないはず。2000年からは「地球温暖化」で地球が丸焼きになるような大騒ぎ。今後100年で2.8℃気温が上昇して、ゴアーのいう不都合があるのか。その50年前に石油はなくなってしまっている。こんな馬鹿げた矛盾に気がついているのかついていないのか、日本政府と官僚の無邪気な空騒ぎ。安倍前内閣の「美しい日本」とおなじ言葉遊びで「美しい星50」と云うとんでもないことを言い出す始末だ。欧州とアメリカは当面中国とインドの経済発展を阻害し、日本を味方につけつつ牽制しておきたいつもりらしい。

バイオエタノール問題(2007年)での米国の政治的狙い

2007年の春、突然ブッシュUはバイオエタノールを打ち上げた。木材を燃やすこともバイオ燃料であるが、ここでは穀物を原料として発酵法でエタノールを生産し、自動車燃料の一部に混ぜることをバイオエタノールと定義しておく。日本では次世代エネルギーとして燃料電池を完成させ後は水素インフラを完成させるところまで迫った段階で、近代文明のアメリカのブッシュが50年以上も前の過去にもどってアルコール自動車を言い出すとは、言葉通りには絶対受け取れない。直ぐに見え見えのうそをついている。その前からヘッジファンドのサブプライムローン問題でアメリカ金融界のお粗末さが世界に曝露された。同時にヘッジファンドは原油先物取引になだれ込んで一時はバレル100ドルを突破するような高騰を引き起こした。次は穀物市場の先物取引にヘッジファンドの金が流れている。バイオエタノールは格好の材料となった。原油と同じく穀物生産は別に減少したわけでもないのに、エタノール生産に使われて品不足となるような危機感を煽り立て、とうもろこし、小麦粉などの値段が高騰している。日本の食品工業界も連動して値上げに動いた。つまりサブプライムローンでしくじったアメリカの金融界がぼろを隠すために新たなターゲットを原油と穀物に求めているのである。ブッシュUが戦争に行き詰まって、こんどは金融資本のお先ん棒を担いでいるわけである。その流れでみれば「バイオエタノール」問題は笑止千番である。しかしヘッジファンドは技術的にどうこうではなく騒ぎになって人の興味が集まり資金が運用されればいいのである。一儲けしたら「バイオエタノール」問題は消え去るであろう。二、三年は続くだろうが。

木材、石炭、石油などの燃料は、化学的には炭素(カーボン)元素に水素元素が結合した「還元型」の分子が、空気中の酸素と結合(燃焼)する際に発生するエネルギーを利用することである。燃料の歴史は木材、石炭、石油、天然ガスへと変遷した。その過程で石炭や木材の油化が検討されたが、石油の安さもあってコスト的に成り立たないとして断念された。たとえば木材を油化するとき、半分は炭と云う固形物になり、油は50%回収されるが、プラントの運転に40%の油を使うので差し引き10%の油が回収できるに過ぎない。結局油化事業は赤字になる。同じような計算が「バイオエタノール」問題でも成り立つ。環境省が37億円の建設費をかけて大阪堺市に作った「バイオ燃料工場」(バイエタノール・ジャパン関西)(出資者:大成建設、サッポロビールなど5社)の例を検証しよう。1400キロリットルのエタノールを作る計画である。4万トンの木材から得られるエタノール収率は3%で、残り97%は廃棄物である。コストで云うと廃棄物処理に16億円かかり、エタノールの売価は1億円程度である。木材は廃物間伐材なのでただとしても、製造原価でガソリンの2倍だという。この技術は食糧をエネルギーに変えることで、「エネルギーより食糧のほうが大事」と云う価値観は別にしても、はたして穀物は人間の使うエネルギーの何割を賄えるのか。世界の穀物生産量は年間約20億トン、エネルギーを石油換算して石油は約100億トン使用している。もし余剰穀物が10%回せるとして2億トンとすると、穀物は80%利用可能でんぷんだとして、ブドウ糖からエタノールへの化学式では理論収率は50%である。そして製造に必要なエネルギーは得られるエネルギーの半分が必要になる。2億×0.8×0.5×0.5=0.4億トンで石油換算エネルギーの0.4%である。全く経済的に成り立たない政策である。あえて話題にしようとするアメリカの意図はどこにあるのだろうか。現在穀物の自給率が100%を越えるのはアメリカとフランスである。アフリカやアジアの国では飢餓に苦しんでいる人々が大勢いる。食糧をエネルギーにすることは「人の命より自動車が大事」と云うことであり、人倫に反する。エネルギー政策は、発電については石油から原子力や核融合へ、自動車は近未来的にはハイブリッド、将来的には燃料電池車へ、自然エネルギーは稀薄すぎて将来も期待できないと云うことである。持続可能な開発と云う産業界の期待は現実的には虫が良すぎる。大きな産業構造の革命が必要になる。インフラ整備に多大の資産が費やされるだろう。

ペットボトルのリサイクルは止めなさい

ペットボトルのリサイクルについては武田邦彦氏は「リサイクル幻想」文春新書(2000年)と云う本で回収・再生の原理原則を述べられている。既に紹介したことがあるが、再度論点を次の四点について整理しておく。
1)リサイクルの矛盾
@リサイクルの劣化矛盾:材料は劣化する(例:プラスチック)
Aリサイクルの需給矛盾:下位の用途が無い(例:スラグの建設資材化)
Bリサイクルの持続性矛盾:リサイクルにはエネルギーという再生不能資源を使用する(例:紙)
Cリサイクルの貿易矛盾:消費した国でのリサイクルは国際分業に反する。バーゼル条約の規制
Dリサイクルの増幅矛盾:持続性矛盾に同じ(例:石油使用量 ペット製造40g/再生160g)
E環境主義の両価性矛盾:産業活動は資源消費拡大志向で環境主義と両立しない
Fリサイクルの浄化系欠陥:有害・不純物の混入(例:鉛/ガラス、銅/鉄くず)
2)分離の科学
リサイクル社会は生産活動、収集、浄化経路から成り立つ。使用済み材を収集、分離するには労力が必要である。物質の価値関数は含有率、再生品純度、リサイクル率から計算される。ゴミ中の含有率が低いとその再生にかかるコストは増大する(天然資源の採掘コストに同じ)。理想的リサイクルカスケードの単位分離工程(分離ユニット)の労力はユニット関数といい、分離速度、分離係数、能率が良いほど低い値となる。従ってリサイクルに必要な作業量SWUはユニット関数/価値関数である。などの分離工学上のパラメータが述べられているが、リサイクルでは具体的にどう計算するかは不明でかなり難しいと見られる。
3)循環社会の基本
日本の産業物流総量は20億トン(輸入エネルギー4億トン、輸入原料3億トン、国内建設用資源13億トン)で、産業廃棄物総量は4.5億トン(総物流量の1/4は廃棄物化)になっておりこのままGDPの維持は不可能と考えられる。リサイクルには平均3倍のエネルギーと物質を必要とするため、時間空間的に生産工場内での再生が一番望ましい。「可燃廃棄物は分別せず埋め立てず、総て焼却しその熱で発電し残りの灰を人工鉱山に貯蔵する」という提案をしている。貴重な資源は動脈産業のみで再利用すること。
4)リサイクル論争
論争点   国連大学 安井副学長の主張点          中部大学 武田教授の主張点
立脚点     リサイクル推進派(静脈社会)              焼却派(動脈社会)
人件費    労働費用は環境負荷ではない            労働=コスト=エネルギー負荷
社会的公正 鉄、ガラス、紙と同様にプラスチックも回収        焼却により使用量が抑制
リサイクル法   問題はあるが推進(官庁派)             間違った解決法(産業派)
労働問題   静脈産業で雇用促進                  動脈産業は静脈産業を排除
さてどちらの意見が正当なのだろうか。現在鉄、紙、ガラスなどは回収ルートが確立している。しかし価格変動が激しいため回収が安定しているとは言いがたい。また回収資源の輸出問題もあり回収資源が日本の資源でなくなることもある。武田教授の言い分は恐らくプラスチックを念頭にした考えであろう。プラスチックは燃焼して熱回収したり、鉄鋼の還元燃料としてコークスの代わりにもなる。プラスチックだけの技術的議論であれば武田教授の考えは正当な場合がある。安井教授の主張は正論であるが、コストも考慮しなければ環境全体主義に陥る恐れもある。

さて本書に戻って、重複する部分も多いが、ペットボトルのリサイクルについて検証する。1年間に生産されるペットボトルは50万トンを越える。約14万トンが再利用可能なプラスチックペレットに戻されている。最終製品にリサイクルされているのは約3万トンに過ぎないと見られる。回収率は28%、完全なリサイクル率は6%である。ペットボトルを償却する場合とリサイクルする場合に使用する石油量を計算しよう。プラスチック材料PET(石油から作られる)が持つ石油換算エネルギーは無視して、500ccボトル一本を作るのに80グラムの石油を必要とし、ペットボトルを自治体が回収・運搬・処理するのに石油が16グラムかかり、リサイクルしてペレットにするプロセスで石油が240グラムかかり、再生ペットボトルに加工するのに石油が140グラムかかる。すると1回使って焼却する場合96グラムの石油が必要で、リサイクルする場合(2回目)476÷2=238グラムの石油が必要となる。リサイクルすると云うことはかくもエネルギーを使うことである。資源保存や石油を節約すると云うのがリサイクルの目的なら止めたほうがいい。リサイクルを正当化するため焼却を悪者扱いする論理が構成された。プラスチックは燃やすと最強の毒性物質ダイオキシンが出るとか、焼却炉を傷めるとか、プラスチックを埋め立てるにも埋め立て上がないと云う理屈である。反論すると、第一にダイオキシンは猛毒ではない。ダイオキシンで認められる病例は皮膚の塩素「あばた」のみである。高性能焼却炉で焼くとダイオキシンは発生しないし炉は傷まない。焼却すれば完全にガス化するので埋め立てる必要もない。家庭一般廃棄物の発熱量は2536Kcal/Kgであり良く燃えるごみである。それからプラスチックを排除すると発熱量は330Kcal/Kgとなりごみに重油をかけて燃焼させる必要が出る。これは本末転倒である。資源回収と云う観点から従前通リアルミや鉄、銅、貴金属(家電製品メッキ)に限ってリサイクルし、他の家庭一般ゴミは焼却処理が理にかなっている。自治体の財政圧迫を助けることにもなる。例えば名古屋市では分別収集を徹底することで、04年に費用が16億円から70億円に達したと云う。

廃棄物行政の現状を検証しよう。ペットボトルや紙、鉄などの半分は中国に輸出されているらしい。廃棄物リサイクルは資源獲得競争と云う市場に支配されている。廃棄物処理業界は既に底が抜けているのである。自治体がお金をかけて収集し、分別し、まとめて業者に渡した途端に、業者は処理をせず輸出するのである。税金をかけて中国に再利用資源を手渡しているようなものである。日本では収集コストは400円/Kgであるが、これを中国は40円/Kgで買うのである。ある調査によるとペットボトル50万トンのうち、20−25万トンが海外に輸出されているようだ。

回収率を上げようとするとその費用は回収率に正比例する。10%の回収に較べて100%の回収は8倍のコストがかかる。回収率をrとすると、n回回収するとゴミ母体に含まれる回収品の割合はrのn乗であるので、40%の回収率で3回回収すると割合は6%に過ぎない。リサイクルと云う面目を保つために回収率を上げざるを得ないが、そうするとコストが高くなると云うジレンマがあり、かつ資源の中の不純物の割合も上がると云う二重苦になるのである。この不純物を本気になって除去すると更に処理コストは急騰する。リサイクル法には自動車、家電、包装容器と食品が対象であるが、食品リサイクルはありえない時代錯誤である。コンポストにして畑に戻すと云うストーリは農水省が農家の指導をするならともかく、国全体でどうして堆肥プラントを作ると云うのだろうか。近所から臭いと云う反対運動が起きる。出来ない相談だ。包装容器リサイクル法といいながら、法で記述されているのは分別、回収、処理までであって材料の再利用は言及されていない。したがってPETボトルリサイクル推進協議会が「2005年の回収率は65.6%で世界最高水準」というのは、回収率が65.5%であって再利用率は20%以下である事には目をつぶっているのである。回収して輸出しているだけのことである。リサイクル法は環境省の描いた最もお粗末なシナリオである。最後に国や国立機関が出してくるLCA(ライフサイクルアセスメント)のデータはパラメータをいじくれば0から100までいかような数字も出せるプログラムである。まじめに計算している研究者は悔しいだろうが、依頼主は自分の求める数字が出るようでないと金を払ってくれない。新橋周辺にある官庁向けのシンクタンクは心得た者で、顧客の望む答えを聞いてから結果を出してくる。

環境問題のウソと環境省・専門家・メディアの問題

環境省は何故「レジ袋削減・マイバック持参」、「家庭内炭酸ガス削減」に熱を上げるのだろうか。国民の意識が低いと叱りつける傲慢さはあいかわらずである。環境問題が公害を意味している時代は国民は被害者であったが、地球環境問題と云う時代になると国民も知らない間に犯人にされてしまった。お金を出して市が指定する大きなゴミ袋に、個別の小さいスーパーで貰ったレジ袋に詰めたゴミを入れて出すに過ぎない。事態は何も変わっていないのである。あたらしく指定ゴミ袋が増えただけである。国民はしぶといですよ。お上の云うことなんか聞いていない。市民は指定ゴミ袋を買うことで生産する会社に新しい仕事ができたので、更に消費社会が進んだのです。何をやってるんだろうね。環境のためといいながら、何かをすると更に消費が進む。レジ袋は原油中のジーゼルオイルの位置つけに似ている。レジ袋の材料はエチレン、ポリプロピレン、ブチレンといったオレフィン系炭化水素で石油精製で出てくる副産物である。ここから高分子製品(プラスチック製品)が生産された。ジーゼルオイルもガソリン精製の徒着に出る副産物だから税金が安く設定されているのである。トータルで原油を余すところなく使いきらなければならないのである。原油の最後の廃棄物はアスファルトであるがこれは道路建設になくてはならないものになっている。プラスチックの生産量は年1400万トンで、レジ袋の生産量は年30万トン以下である。

炭酸ガスの排出は経済活動(運輸・サービスも含む)の結果であって、「家庭内炭酸ガス削減」というスローガンは市民に何をしろと云うのだろうか。電力会社は省エネを謳うが電気使用量の削減は決して言わない。省エネして更に電気を使ってくださいといっているようなものです。環境対策を市民にすり替えて、環境省は何の徳にもならないはずである。そっぽを向く産業界の協力を取り付けるために、国民を抱き込もうとする手かもしれない。クールビズとか流行語を作って何の約にも立たない運動を行っている。官庁の冷暖房費が具体的に下ったと云う話は聴かない。ヒートアイランド化した都会では他所のビルの廃熱から守るために冷房をしているのであって、過密が問題なのである。政府で環境問題を扱うグランドプランを省を越えた議論をしなければならない。残念ながら環境省に限らずすべての官僚が取り仕切る審議会には政府方針に反する人物は絶対に出られない。委員には、出来レースに賛同する人しか官僚は選ばないのです。

今の大学や専門家は本当のことが言えなくなっている。それは政府の「競争的研究資金」の縛りのためであるという。政府が「環境」、「食品」、「健康」に関して何かターゲットを決め、メディアに流す。そして内閣の「総合科学技術会議」で日本の研究の方向を決める。そして研究費を配分する。大学や独立法人研究所は官僚に決めたテーマに沿って研究費を申請する。研究費は「競争的研究資金」として各省庁に申請するが、「社会的に有意義な研究」として官僚のストーリに合致するテーマにしか金は下りない。研究結果は必ず「成功」しなければならない。こうして研究者は独創性のある研究が出来なくなってゆくのである。研究者の良心にそって官庁のストーリーに合わない結果を報告すると二度と研究費は頂けない。官僚から馬鹿にされた大学の研究者は研究の創造的部分まで官僚に売り渡してしまっている。競争原理のおかげで大学の存在意義がなくなった。研究意図やレベルが民間企業と同じになってしまった。もっと哀れなのが独立法人省庁管轄研究所の研究者である。存在意義が何処にもない。重複部分で蠢いている。日本が経済や産業工業で世界一流になれたのは優れた人材とその育成機関である大学の貢献である。古い言い方で「大学の自治と自由」があったからだ。ところが1990年以降「失われた十年」で競争原理の導入という政策のお陰で、「効率の悪い何をやっているのかわからない大学の改革」がすすみ、「競争的研究資金」というシステムで見識のない官僚の作文に支配される哀れな研究者の集団になった。1990年は学問に自由が日本から消えた大きな転換点となった。大学に文部官僚の天下りが目立つようになった。民間企業の研究でも同じことは成立するのであるが、私の知る範囲では結局会社のドル箱となる差別的独創的研究成果は、先の見える研究からは生まれない。全員が先の見える研究だけやっれいれば、それは未解決事項のないシステム研究になり要素技術開発にはつながらない。当初何になるか分からない研究こそが他社に先駆けた独創研究なのです。全員が与党になるような社会はフレキシビリティがなく大政翼賛会みたいなもので、異論・懐疑論があって弁証法の発展ができるのである。

報道の自由とは「時の権力に都合の悪い情報をも報道する権利」であろう。しかし環境問題についての報道は殆ど環境省の云う通りの報道に過ぎない。何故メディアは自分の見解がもてないのだろうか。一つは現場取材をしていないからで、取材なしの報道は八割がたあるようだ。その代り、政府発表や学者のコメントの写しを貰って記事にしている。NHKは金を払っている視聴者のほうを向かないで政府のスポークスマンに成り下がって恥としない。民放は面白ければいいとばかりに質の悪い曝露物に飛びつき、科学的事実を正確に伝える能力を持っていない。アサテレのダイオキシン騒ぎ(久米キャスター)がいい例である。環境関係では政府発表以外の異論・疑問・懐疑論は決して取り上げない。政府官僚が如何に信じられないかは、最近では道路公団や社会保険庁や厚生省薬害エイズ・肝炎訴訟、防衛省汚職事件でとくとご承知のはずであるのだが。大量消費時代と循環型社会が両立する幻想は捨てなければならない。持続的開発もウソかもしれない。そこで著者は人間の存在その物が環境を破壊するのだから、日本の人口を欧州並みの6000万人(約半分)に減少した社会の建設が理想と云うのである。今の人口統計から2005年より日本は人口減少時代に突入している。2050年には人口は1億人を切り、2100年には6000万人になる予想である。これも環境破壊を抑える一つの解決法かもしれない。間もなく石油がなくなり、人口が減るそれだけで環境問題にとっては朗報である。ところが政府はその逆を主張するのである。

武田邦彦・池田清彦対談「環境問題のここがヘン!」

対談の内容に入る前に池田清彦氏の紹介を兼ねて、池田清彦氏の著書「環境問題のウソ」ちくまプリマー新書(2006年2月)を紹介しておこう。
池田氏の専攻は理論生物学、構造主義生物学である。生物の分類、構造主義生物学の著作が多い。本書「環境問題のウソ」はちょっと異な本だなと思って興味半分で読んでみた。内容は(1)地球温暖化問題のウソとホント」(2)ダイオキシン問題のウソとホント(3)外来種問題のウソとホントという三部構成である。著者の専門からして、最後の外来種問題が著者の意見と見られる。ただし共通していえることは、政策課題は必ずしも科学的に正しい事柄だけではない、正義の物語と利権が結びつくと増幅作用が働いて現実の政治や世間を動かす力になるということは私にも納得できる主張である。地球温暖化は必ずしも炭酸ガスをはじめとする温暖化ガスがすべてではない。ところが地球温暖化防止は世界の新しい枠組みをめざす欧米の覇権争いでやり取りされる世界的政治思潮である。もはや科学の問題ではないことは自明であることは著者は分かって言っているのだろうか。環境問題そのものが資源・エネルギーの争奪戦という生き残り戦略である。新しい形での南北問題化である。ダイオキシン問題は最近めっきり話される事もなくなった。朝日テレビと焼却炉メーカーの陰謀であったことも自明である。「ダイオキシンで死んだ人はいない、ダイオキシンで食っている人は多いが」という冗談も囁かれていた。謀略によりダイオキシンをダイレクトに飲まされて顔の肌が荒れた旧ソ連圏の大統領もいたが、殺されたわけではない。ダイオキシンという恐怖物語が横行しただけのことである。そこで本書で取り上げる価値のある話題は外来種問題のみである。
2005年施行の「特定外来生物被害防止法」は稀に見る悪法だという著者の主張を聞いてみよう。確かに「絶滅危惧種保護法」でレッドゾーン種を指定して保護しようとする政策には一理があった。それでも人間の生態破壊活動をそのままにして、保護が出来るわけでもなく、効力の期待できない法律である。「特定外来生物被害防止法」はその愚を上塗りしたようなばかげた法律である。在来種といっても長い目で見れば交雑種に過ぎず、人間だって交雑可能は種として一つであるという定義もある。(黒人、白人など人種は存在しない)日本在来種の定義も不可能である。いってみればすべて交雑種であって純血種があるような誤解を招く発想は血の優越をいうナチズムの通じる思想である。日本人は純血だというのも誤解に過ぎず、多くは戦前の軍国主義・帝国主義・植民地主義がでっち上げた幻想である。平安時代以降の鎖国主義によって交雑が禁止されたためこの1000年ぐらいは日本人が固定化されたに過ぎない。外来種は悪者という発想は生物学的にも間違っている。生物の進化は遺伝的交雑により成し遂げられたのであって、種の保存などということは細菌の無性増殖以外には考えられない。

武田邦彦氏と池田清彦氏の対談は共通の題の著書「環境問題のウソ」から始まる。武田氏は分離工学者、池田氏は理論生物学者である。武田氏は「包装容器リサイクル法」は官僚の作文で事実・科学に基づかないといい、池田氏の主張は、環境省の「特定外来生物被害防止法」は稀に見る悪法だという。両者の主張は環境省や政府の環境施策は誤謬だらけと云う点で一致している。池田氏は「特定外来生物被害防止法」で琵琶湖のブラックバス退治にお金を出して駆除しても、本当にブラックバスが優勢なら、90%除去しても10%から直ぐに繁殖して数年後にまた元通りになるという。過去何処まで遡れば在来種と云う固有日本種がいたことになるのだろうか。歴史的に植物動物の導入や交雑は頻繁に起きていた。特に明治以降は学問ばかりか西洋の種も大量に輸入された。農作物はそのいい例である。今の日本の農業は西洋の外来種なしでは考えられない。日本の在来種を絶滅させるかも知れないと云う恐怖物語は、今西錦司しの「すみわけ理論」にも反する。捕食関係からは一方的な絶滅ではなく、どこかで生態的バランスが出来るのである。セイタカアワダチソウも今では日本の薄とバランスを取っている。アメリカザリガニは残念ながら農薬で絶滅寸前である。日本種の保護と云うのは、優生種だから保護するのか外来種は須らく悪魔なのか。日本民族純血主義に近い戦前の理屈を持ち出しているのだろうか。お金をだしてまで外来種を駆除するのは、誠に環境省は愚の骨頂である。環境省がどんな意見に組するのは勝手だけれど(世界の嘲笑は買いますが)、愚策に国民の税金を使うのは許せない。池田氏は外来種問題で批判的意見を言ったら環境省から一言もお声がかからなくなったと云う。政府の科学音痴をさらに増幅した形がマスメディアである。地球温暖化についての掘り起しが全くない。池田氏は「森林シンク」を否定する。森林は最終的(長い目でみると)に炭酸ガスの吸収もしないし、排出もしない。この理屈は元素不滅の法則から出ている。植物は炭酸ガスの形態を炭水化物に変え、自然がそれをまた炭酸ガスに戻すのである。森林が炭酸ガスを吸収するのは若い成長期であって、後は朽ち果てて微生物が分解して炭酸ガスを出すのである。結局森林は炭酸ガスの除去をしているのではない。

各国は本当に炭酸ガスが影響するとは思っていないから、現実の削減政策に熱心に取り組まないのである。日本でも京都議定書締結後十年経ったが、削減計画は一向行われてはいないどころか、既に排出量は14%も増加している。しかし、数値合わせのための京都メカニズムのために国税を2006年には1兆円、2007年には1兆2000億円も使った。これで儲けるのは旧東欧とロシアである。旧共産圏の復興のために欧州連合の代わりに日本が金を出している構図である。うまく日本は利用されている。日本は無尽蔵の金蔵か打ち出の小槌とみなされている。これで800兆円と云う莫大な借金を抱える日本の構造的欠陥が見えてくる。戦後経済界・国民の努力の上に胡坐をかいた政治家の無能と官僚の腐敗が今日の日本の病根である。


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