安田善憲「環境考古学のすすめ−文明の環境史観−」 丸善ライブラリー(2001年)

   

安田京都大学国際日本文化研究センター教授のプロフィールと本書のまとめ         

安田教授は京都大学理学研究科、国際日本文化研究センター教授を兼任されている。20年前世界で初めて環境考古学を提唱され、10年前に水月湖で年縞を発見して10万年以上前の地球環境が年毎に精確に測定する手法を開発した。
この書の内容は極めて過激である。その言わんとするところは「プロトインド・ヨーロッパ語族及び漢民族という麦作・牧畜の民が紀元前2000年前の気候の寒冷化によって西へ南へと怒涛の如くに移動し、インダス文明、長江文明、クレタ文明、ミケーネ文明を滅ぼし、西ではギリシャ文明を、東では周王朝を樹立した。この麦作・牧畜の民は森を徹底的に破壊した。メソポタミアから西へ向かったプロトインド・ヨーロッパ語族は地中海に入りヨーロッパからアメリカへ渡って近代ヨーロッパ文明を作った。大量生産・大量消費という考え方はわずか300年の間に北米の森を破壊し尽くした文明そのものである。また黄河文明を起こした漢民族もこの3000年に中国全土の森を丸裸にして、漢民族の行くところ草も生えないと言われた。21世紀は恐らくこのアングロサクソン民族と漢民族が世界を支配し地球を破壊し尽くすかもしれない。気候変動枠組条約から米国は脱退し、中国はこれかも地球を汚染する権利があると公言してはばからない。これに対し稲作と漁猟民族である日本はそのルーツを長江文明に発し、豊かな森と水田に恵まれた農業と漁業中心の生活スタイル(循環と再生の生活様式)の文明を作った。日本の森林面積は国土の65〜70%を占め、森の国と言われるフィンランド、スウェーデン、ブラジルと肩を並べる。ちなみにアメリカは29%にすぎない。21世紀を救えるのは稲作・漁業を特徴とする森の民である日本しかあり得ない。森を破壊し尽くした近代文明に代わるものは森の文明を持つ稲作文明である」と要約できる。
  この論理は一つの学問分野からの成果だけでは結論できないはずであるが、著者は多くの学際分野との共同研究でこのような結論になったのか、それとも著者自身の見解なのかは明確ではない。日本が次世代を担う主役的思想の持ち主であったとはすこし単純にすぎるではないか。しかし森の循環と再生の生活様式に学ぶ必要があることは確かである。


1)環境考古学とはなにか    

1980年に著者は梅原忠夫の「文明の生態史観」に立脚し、文明や歴史をその舞台となる自然環境との関係で捉えようとする環境考古学を提唱した。民族大移動を初め歴史の大変革期は気候の寒冷化と深い相関があることを命題として、主体と環境のあり方はデカルト的二元論ではなく、マルクス的自然支配論でもなく、循環的・相互作用的に自然と人間が全体として歴史を動かすと言う見方が「文明の環境史観」である。
  考古学上の年代を推定する方法として14C年代測定法は過去5万年が測定限界であり統計上の誤差が±100 年である。また年輪法ではいろいろな場所の年輪を継ぎ足しても1万2000年が限度であり、得られる情報は気温と水温に限定される。著者らが開発した年縞法は1991年に福井県水月湖で縞状の堆積物が発見されたことに端を発する。この年縞法は水月湖の1ヵ所だけで10万年以上の測定が1年の精度で出来ることである。その縞状の模様は主として春、夏にケイソウが繁殖してできる白い縞と、秋、冬にかけて粘土鉱物が堆積してできる黒い縞がバーコード状に積層したものである。1つの縞から花粉、ケイソウ、プランクトン,植物遺体、粘土鉱物、黄砂などが観察され、気温、水温のみならず植生の変化、海面の変化、洪水・地震の回数、風向きなどが復元できる。環境情報が極めて豊富である。この年縞法と伝統的考古学の手法を使って環境変化と人間の活動の関係を詳細に論じることが出来るようになった。

2)気候と文明   

気候の変動期に人類は新天地を求めて移動し文明を築き、絶滅することもあった。人類は500万年前に誕生し、地球は90万年くらい前から約10万年の周期で氷期と間氷期を繰り返していることが分かっている。氷河の年層を分析することで過去15万年間の気候の詳細がかなり明らかになった。最後の氷期は11万5000年前に始まり、その後周期的に亜氷期と亜間氷期を24回繰り返し、短い期間で激しい気温変化(5〜10℃)があったが、1万4800年前には終息に向かって気温は急激に温暖化した。年縞中の花粉、ケイソウなどの分析により、氷河期の生態系(マツ、トウヒの森)から温暖期の生態系(スギ、ブナの森)へ変化し、人類は旧石器時代から縄文時代へ移行して定住生活に入ったことが分かった。1万2800年前に一時寒冷期になったが、人類は森林から草原に出て麦作農業ついで稲作農業を開始した。9000年前に地球は再び温暖になり気温は2〜3℃上昇して豊かな農耕文明が開花した。6300年前に気候は寒冷・乾燥期になり人類は金属を手に入れて武装しメソポタミアで初めて城壁都市国家が樹立された。同時に文字を発明して社会の組織化が進み国家が出現した。

3)森を破壊する文明   

6000年前にメソポタミアに成立した都市文明は麦作農耕と牧畜を特徴とする文明で、農耕地・放牧地を確保するために森林を伐採し、さらに燃料、建築材料、船舶建造のために森林を破壊した。森林を求めて都市はメソポタミアからレバノン、シリア、クレタ、ミケーネ、ギリシャへと3000年前には地中海に進出した。紀元前後には文明の中心はイタリアから中欧へ移動した。シーザの「ガリア戦記」に記されているようにゲルマニア(ドイツ)、ガリア(フランス)には巨大な森が存在したが、16〜17世紀までに欧州の森はほとんど破壊し尽くされ牧草地になった。イギリスでは80%の森は消失した。欧州の森を食いつぶしたアングロサクソン文明はアメリカに新天地を求め、17〜20世紀の300年間でアメリカの80%の森は失われた。このように麦作農耕と牧畜の文明はメソポタミアからアメリカ西岸にいたる森林を完全に破壊した。人類にはまだ大きな森林の破壊者が存在した。それは北方モンゴリアン(漢民族主体)であり、同じく麦作と牧畜を生活基盤としていた。モンゴル、黄河流域、四川省、チベットなどの森林は丸裸にされ砂漠化の進行を止めることが至難な状況である。

4)森と稲作の文明   

近年、中国長江流域の日中共同遺跡調査により数々の大発見がもたらされた。4500年前の遺跡と言われる四川省古城宝 遺跡では稲作と魚食の生活跡が見られ、7000年前と言われる浙江省河姆渡遺跡では明らかに稲作が証拠づけられ、6000年前と言われる河南省城頭山遺跡では水田と祭壇跡が発見された。これらの遺跡から約1万前に稲作農耕が長江流域で開始され稲作と魚食を特徴とする長江文明が存在したことが日中で議論されてきた。長江文明を担った人々は森と河川の間で農耕生活する森の民であると見られる。4200年前に気候が寒冷化したため北方漢民族は食を求めて怒涛のように南下し長江文明を崩壊させた。長江流域は黄河流域漢民族の植民地となり(ローマ時代のエジプトのように)、長江の民は難民となってさらに南方(雲南、貴州、四川など)へ移動した。その一部が黒潮に乗って日本列島に稲作を伝えたようである。日本では幸いにも東シナ海が北方漢民族の侵略を阻んだため、長江の稲作文化の伝統が守られた。当時の日本は縄文人の森の文化であったが、同じく魚食文化が共通していたためすんなりと稲作文明を受け入れた。日本は世界の中でも数少ない森の民の少数民族・少数言語国家であり、中国南部の少数民族との人類学・文化・宗教上の共通点が多い。例えば蛇、烏、太陽、カイコなどの神格化、母系社会、神話(植林する神)などが挙げられる。

5)地球環境問題と日本人の使命   

歴史的に見て家畜の民の猛威に森の民である日本人の生活がさらされている。科学技術のグローバル化は結構であるが、守るべきことは絶対に守らないと日本民族の崩壊になる。守るべきは日本語、農林業、漁業である。牧畜の民による地球破壊に備えて食糧自給体制は確保しなければならない。為替レートだけで日本の1次産業を破壊してはならない。


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