城山三郎 著  「辛酸」−田中正造と足尾鉱毒事件−
 角川文庫(1979年)

   
       

JR宇都宮線に小山で乗り上野に向かう時、電車が古河を過ぎて利根川の鉄橋に差し掛かると、右側(西方)に広々とした河川敷が広がり、渡良瀬川が利根川に合流する風景が眼に印象的である。美しいと思うと同時に明治の昔足尾鉱毒事件で谷中村が水没させられた事実を想起するのは私一人ではなかろうと思う。この地で明治の佐倉惣五郎と呼ばれる田中正造翁が谷中村存続をかけて闘争され、悲劇的な野垂れ死にをされた。著者城山三郎氏は企業物小説で有名であるが、昭和36年に「辛酸」という小説を書かれた。「富国強兵」をスローガンにし欧米強国に列する明治国家の建設途上、国家という強権により蹂躙された早すぎた公害闘争の記念碑として、城山氏は公害闘争史という観点よりは、谷中村強制取り壊し後の田中正造翁の人間性に肉薄した。正造翁は絶望的な野垂れ死にをあえて厭うことなく妥協を排して明治国家に抗議し続けることで、生を全とうすることを得た。

足尾鉱毒問題
  

明治の資本主義黎明期に古川財閥は足尾銅山を経営し日本二大銅山の一つとして産業、軍事用の資材を供給した。農業から工業への重点的投資は国策であって、日清、日露戦争に向かって増産拡大が至上命令であった。足尾銅山闘争の歴史を田中正造翁の足跡の点から纏めた。

@明治24年(1891年) 帝国議会にて田中議員は以後10年間反対質問を続ける。
A明治30年(1897年) 大隈農商大臣鉱毒予防工事命令を出すなど一定の成果があった。
B明治34年(1901年) 田中議員、帝国議会開院式で天皇に直訴。
C明治40年(1907年) 谷中村400戸買収遊水池化決定。水没化した谷中村に残留した19戸に強制取り壊し命令

ここから城山氏の「辛酸」の物語が始まる。殆どの村民は涙ばかりの補償金で北海道開拓村に立ち退かされ、川中に残留した19戸の裁判闘争に田中翁は心血を注いだ。翁は鉱業停止、関宿石堤除去、谷中村遊水池化反対を訴えたが政府、栃木県は強制収用を断行した。
D明治43年(1910年) 渡良瀬川改修案議会通過。河川法適用で谷中村は川地になった。
E明治45年(1912年) 土地収用補償金額裁定不服訴訟で敗訴
F大正2年(1914年)  田中翁逝去

谷中村の地形と治水問題
  

足尾銅山から流れる渡良瀬川は現在の国道50号線とほぼ平行に東行し、藤岡町で南下して巴波川、思川を合流して古河市と栗橋町の間で利根川に流入する。この渡良瀬川、巴波川、思川の集まる三角地帯が現在の渡良瀬遊水地である。旧谷中村は谷中湖の湖水に水没している。江戸時代に関東防衛の軍事上の戦略地として現在の千葉県関宿に石堤を築いて川幅を狭め、利根川を天然の要塞としたため、この三角地帯は絶えず洪水に見舞われた。足尾鉱毒問題をこの治水問題にすりかえたのが明治政府の悪知恵である。鉱毒問題は渡良瀬流域のどこで発生してもいいはずであるが、谷中村で鉱毒反対運動に猛然と火がついたのは次の理由によると考えられる。

@天然の湿地帯である谷中村周辺を遊水池化し、鉱毒(銅)の沈殿池とする。
A田中正造を中心とする鉱毒反対運動の急先鋒を圧殺する。
B洪水防止の治水事業と称する。

悲しいまでの結末であるが、翁は自分の力の到底及ばざるを知って「わしは谷中の村で死なせて欲しい。この村で野垂れ死にしたい。村以外にわしの死に場所はない。」と死に場所を求めた。


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