小野芳朗著「水の環境史―京の名水はなぜ失われたか」PHP新書(2001)

   

1)小野芳郎 岡山大学工学部助教授のプロフィール

氏は京都大学工学部衛生工学教室(現環境工学)出身の水処理屋である。京都の水道政策の決定過程を明らかにすることで現在及び将来の政策に関する予防的措置を求めるのが本書「環境史」の目的である。このような目的意識を持って氏は京大人文科学研究所の吉田光邦教授の主催した「19世紀の情報と社会変動」研究班に参画し、また氏の恩師である末石富太郎滋賀大教授の環境史研究会に触発されて本書が企画されたといえる。

2)環境史の可能性

環境史とは聞き慣れない言葉であるが、環境学の時間軸ではない。著者の目論見は、利害が絡み政治的判断の多い環境政策の政策決定力学を明らかにすることにある。いわば政策科学のジャンルに属することらしい。環境史の思想的・文明論的考察についてはかならずしも著者の得意分野ではなく、すでに本誌書評欄で紹介した鬼頭秀一「自然保護を問い直す−環境倫理とネットワーク」(ちくま新書 1996)、加藤尚武「環境倫理学のすすめ」(丸善ライブラリー 1991)に適切な解説がある。しかし著者はいわゆる京都学派の民族学・文明史観に導かれ、環境保全を図るための科学的・技術的・経済的体系としての環境学方法論を目指しているようだ。本書を読む限りその環境史方法論の何者かが明確に論述されているとは言い難く、いわば環境政策・行政史の枠を超えていない。

3)京都上水道政策決定の歴史

京都は古来山紫水明の地と呼ばれ、水の質を基とする豆腐、湯葉、茶、酒などの豊かな文化を生んだ。その水とは地下水であった。この地下水が使われなくなり枯渇に至ったのは実に1895年(明治28年)に始まる京都近代化事業とコレラの流行に遡る事ができる。

@琵琶湖疎水開削と京都近代化事業

琵琶湖疎水開削事業は日本海から瀬戸内海を結ぶ(敦賀−塩津−琵琶湖―大津−疎水−岡崎−鴨川−伏見−淀川−大阪−瀬戸内海)物資の動脈を作ることにあった。1883年(明治16年)に疎水開削が計画され水力発電所建設を組み込んで完成した。1895年(明治28年)より京都近代化事業として上水道、道路、琵琶湖第2疎水の計画が始まり、下水道建設論を排して1906年(明治39年)に起工が認可された。この計画により現在の京都市街の枠が定まり、琵琶湖疎水は飲料水確保のための水道として機能することになった。

A衛生問題と上水道政策

京都近代化事業には道路建設と下水道整備事業をセットにする都市計画論が同時に進行したが、下水道には国庫補助がおりないという財政上の問題と下水道は殖産につながらないという京都市政者の意見が優勢を占め、第2琵琶湖疎水開削による水量確保により電力需要に答えるという殖産政策と水道料金の徴収による収入増をセットにした上水道優先論が産業界の後ろ押しにより決定された。つまり衛生問題をだしに使って産業振興策が決定されたとも言える(これは現在の多目的ダム補助事業と同じ構図である)。この琵琶湖を水源とする上水道計画の実施により、京都の地下水脈は放棄され長く下水に汚染されて戦後は工業の地下水大量くみ上げによりついに枯渇した。京都の名水文化は実質的に途絶した。いまや京都は古都の風貌をなくした薄汚い地方都市に過ぎなくなった。欧州の古都保存か米国のコンクリート都市文明の選択かにもつながる文明問題である(京都へのレクイエム)。 なお衛生学的に結果論をいうと、京都の上水道が完成したのが1912年(明治45年)でありコレラはそれ以後終息したが、赤痢・腸チフスの消化器系伝染病の減少は昭和20年以降の下水道普及を待つ。衛生学的には両方が完成することが必要で、片方の優先論ではないことが明確である。

 
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