森岡正博著 「生命観を問い直すーエコロジーから脳死まで」


ちくま新書(1994年)

人間のより快適に生きたいという欲望が文明を生み技術の進歩をもたらしたが、同時に環境と生命そのものを侵蝕している。

大阪府立大学総合科学部教授 森岡正博氏のプロフィール 

1958年生まれというからまだ50歳前の気鋭の生命学研究者であろう。その頭の良さと言語能力の高さは養老猛氏との対談「脳と生命」ちくま学芸文庫(2003年)の書評に既に述べた。養老氏が朴訥に見えるくらい、一を聞いて十を解説する有様であった。専攻は生命学、環境論、科学論、現代思想に及ぶ。総合的な知の探求の枠組みとしての生命学を提唱している。さらに氏のプロフィールを知りたい方には氏の著作を読むか、生命学のホームページ「lifestudies」を推薦する。

本書のねらいー環境倫理と生命倫理を文明の問題として捉えたい

「生命と自然がいまや危機に瀕している」といわれて久しい。地球温暖化防止枠組み機構がヨーロッパから提唱されようやく軌道に乗り始めたかのように見える。リサイクルシステムや廃棄物対策はいまだに難航しているようだ。生態系保護は雲を掴むような曖昧さのなかで環境省の愚行ばかりが目に余る。私は環境問題の本質は資源・エネルギーの争奪戦にあると睨んでいる。アメリカ・中国・ロシアがいつまでも環境問題に前向きに取り組まないのは自分に足かせがかけられるのを警戒しているからだ。核拡散防止条約は、他国とくに後進国の核使用を制約することだけが目的で自分の核利用には一切制約が架からないシステムである。地球環境問題は後進国の資源利用に制約をかけるための国際運動に過ぎず、自国民の生活やエネルギー使用のレベルダウンは絶対避けたいというエゴの戦争形態だ。

環境倫理の基本的な考え方は加藤尚武著「環境倫理学のすすめ」(本環境問題書評でも取り上げた)がまとめている様に、(1)有限な地球環境のもとで人類が生きてゆくためいは新しい倫理が要求される。(2)今生きている人だけではなく、将来世代のことまで考えて現在の行動を決めてゆこう。(3)人間だけでなく、生き物すべてを配慮して自分達の行動を決めてゆこう。というものである。

また生命倫理学が考えていることは、(1)医療現場の人間関係(患者対医者)を近代市民社会に近づける。自己決定権やインフォームドコンセントなど。(2)人間の生と死に医療がどうかかわるのか合理的に考える。脳死判定や臓器移植、胚選択、遺伝子診断など。(3)健康政策や病院での治療方針に関して、倫理委員会を設けて明確な指針を考える。

生命倫理と環境倫理は今までバラバラに論じられてきたが、「生きてゆく欲望」が持つ内部願望がもたらす環境破壊と自然生物略奪と、生命工学の進歩(とくに生殖工学)がもたらす危険性は本質を一つにしていることに気が付くべきです。これらの様々な問題を文明の問題として捉えることが新しい生命の知をもたらすと期待したい。

環境問題の本質ー南北問題、ディープエコロジーと生命主義を乗越えて

朝日新聞論説委員辰野和夫氏の1992年の記事「森との共生には東洋人とくに日本人の独特の環境哲学が世界を指導する」という考えは、経済大国日本のパワーをバックにした所謂エコナショナリズム(環境民族主義)を扇動する方向に繋がりやすいと森岡氏は警鐘をならした。つまり環境問題の本質が南北問題(先進国と後進国の経済格差)に在ることを隠して格差を固定拡大することである。排他的な民族主義が環境問題に忍び寄ってきていることに注意しなければならない。

思想史のなかで環境問題や民族紛争が激化した背景として、1980年代には「世界を一つの理論で把握できる時代は終わった。」とするポストモダン思想が流行した。そして1990年代にはこのポストモダン思想も終わり、ふたたび大きな物語を渇望する時代が到来した。それが地球環境問題である。混乱した世界に新秩序を再構築し西欧社会がヘゲモニーを握ろうとする世界的政治運動である。先進国は今までの生活レベルを下げることなく新しいテクノロジー開発に邁進した。燃料電池など省エネルギー技術開発やリサイクル技術などはその典型である。ここで先進国群は技術開発力を背景とした経済格差の固定化を目論み、環境問題を後進国に押し付けて足かせを架す方針に出た。

1980年代アメリカを中心にしてディープエコロジー思想が流行した。ディープエコロジー思想とはアメリカの伝統的な自然保護思想、反体制運動、環境運動を背景として、「私が変わるとき、地球も変わる」というスローガンに顕著なように次のことを主張します。
(1)生命や人間は相互連関的に繋がっている。
(2)全ての生命は平等である。
(3)人間社会や生命系に多様性と共生の原理を採用する。
(4)階級のない多様性を主張する。
(5)環境汚染と資源枯渇に反対する。
(6)生命体や自然の中にある複雑性を評価する。
(7)地方の自立と脱中心化を推進する。
人間と自然の関係をバランスと調和に求めた宗教的・哲学的・文明論的世界観を求める運動は新しい環境思想をもたらしたことは認めなければならない。「森の生活」運動である。一方日本では1980年代に「生命主義」という思潮が流行した。宮沢賢治の詩などに見られる生命論を評価する鈴木貞美の「大正生命主義」や東洋思想によって地球の危機を救おうとするニューエイジ運動、気功ブーム、母性と地球と生命をキーワードとする反原発運動、野上ふさ子のアニミズムの世界、鳥山敏子の「いのちの授業」では自分が生きるために生命を奪うエゴを見つめる教育が主張され、医療問題、環境問題、反原発、教育、障害者問題、末期医療、精神世界などに「いのち論」が展開された。

ディープエコロジー思想や生命主義の思想には美しいユートピアの建設を目標とする「ロマン主義」、「フェミニズム」の形をとることが多く、美しいスローガン「共生」、「調和」のまえで思考が停止してしまうのが限界といえる。しかし生命として生きてゆくには助け合い調和すると同時に他の生命を抑圧する原理が内在することを見ることだ。

生殖工学と脳死論ー梅原猛氏の反脳死論「菩薩行」批判

近年の体外受精などの生殖工学の進歩により、受精卵診断による命の選別や余剰卵の研究利用、脳死体の人体実験利用などの生命への侵蝕が危惧される時代になった。これを医学者の密室的専横に任せてはいけない。合理的な倫理基準を確立しなければならない。人の子供が欲しいという欲望がこの生命倫理の侵害を生む原因であるのは悲しいことだ。

1990年梅原猛氏は脳死臨調での自分の意見「脳死・ソクラテスの徒は反対する」を発表した。梅原氏の反脳死論は文明論の文脈では画期的な論理であるので整理すると、
(1)客観的な真理追究と論理的一貫性に追求というソクラテスの原則に基づいた議論
(2)人間も動植物も本来同一なものであるというアニミズム神道や仏教思想
(3)仏教がもたらした平等の精神と利他の精神を評価する。「菩薩行」という他人のための自己犠牲を認める。
デカルト哲学がもたらした心身二元論や人間機械論とアメリカの実用主義プラグマチズムが臓器移植の論拠になっていることは明白だと梅原氏は指摘する。臓器移植をするために脳死という現象が利用された。人間は意識することで人間だとするデカルト哲学により、脳死で意識を失ったものは人間でないという欧米医学界の論拠は暴論である。ここでの梅原氏の論理は極めて明確である。しかしなぜ菩薩行というわけの分からない大乗仏教思想で臓器移植には反対しないということを言い出したのか理解に苦しむということが森岡氏の論点である。

臓器移植は他人の臓器を貰ってまで自分が生きたいとする欲望に起因する(生への執着)。これをみぐるしいというか哀れというかは難しい判断だ。誰でも生きたいという欲望があるのが人間だとすれば必然の成り行きかもしれない。他の生物を食って生きる人間の業と同じレベルであるが、食う対象が同じ人間だというところに悲劇がある。老人は臓器移植を遠慮しましょうとか言っても守る人はいない。金に任せてどこかで必ずやるだろうから。


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