桑子敏雄 著   「環境の哲学」

 
講談社学術文庫  (1999年12月)
  

「心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」   (西行)
 
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮れ    (定家)
「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮」 (寂蓮)

これらは「新古今和歌集」の「三夕の歌」として有名である。風、光、色、音、季節、時刻、山、動植物、水、海の空間に置かれた歌人の心情を述べたものである。天才が詠む世界の豊穣さを感じる一方で、もはや21世紀の日本にこんな世界は残っていないと思う。

「田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ不二の高嶺に雪は降りける」(山部赤人)

東海道一の名勝として赤人の歌と安東広重の版画「東海道五十三次」で有名な静岡県由井の景勝の地は東名高速道路に占領され、富士山麓は製紙工場群の煙で台無しとなっている。
現在の工業社会はデカルトの近代合理主義(理性、科学)に始まることに異論のある人はいないが、現在のエネルギー資源枯渇、地球環境破壊もまた近代合理主義のなせるわざである。アダムスミス以来の市場経済は「共同体からの独立」、「自然からの独立」により自由を獲得して限りない経済成長神話と環境資源収奪に邁進した。
本コーナーでこれまで環境倫理、環境社会学、環境経済学、環境考古学、環境文明論などの著書を紹介したが、今回の著書は環境問題では避けてきた歴史的言語文化の価値観を問うている。「物質的豊かさから心の豊かさへ」ということはよくいわれるが、「心の豊かさ」には「豊かな生活を送るにふさわしい空間」が必要である。これを「豊かな空間」と呼ぶ。日本の自然は昔より「白砂青松 山紫水明」と謳われたが今は見る影も無い。近代合理主義の綻びを修復するのは日本伝統の「空間の思想」であるという著者の言い分を聞いてみよう。
なお著者桑子敏雄氏は東京工業大学社会理工学科教授であり哲学の徒である。由井浜の例を見るまでも無く景観に決定的な影響をあたえるのは建設土木政策である。土木工学と哲学という一見かけ離れた分野が日本再生の鍵を握っているということが著者の提案である。
本書を紹介するにあたっては出来る限り宗教的世界(天台密教と本地垂迹思想)は避けた。平安時代以降宗教的空間と言語文化的空間は分かちがたく一体化しているが、現時点でその宗教的理解ははなはだ困難だと判断したからである。


1)「空間の豊かさ」の哲学的基礎―デカルト的2元論批判―

デカルトの近代的自己と世界の関係、筆者の考える「空間の思想」を下に示した。
「デカルトの近代的自己とは抽象的近代理性であり、時空間より独立した普遍的真理である。そこでは自己(理性)が自分や他人の個体や自然物を認識することになる。」それに対して<「空間の思想」とは自己の形成が履歴のある空間の中でなされると考えるところに重点がある。
デカルト的自己は限りなく神に近づく近代的理性といえるが、筆者のいう自己は履歴ある空間により形成される空間と一体化された自己である。仏教的な「抱かれた自己」と言える。


2)伝統的日本の空間思想   

日本の宗教的空間と言語文化的空間は日本の風景・風土の中で歴史的に醸成されてきた。風景を定義すると「身体の配置へ全感覚的に出現する履歴空間の相貌」となる。人は否応無く特殊な関係の中での歴史的な存在に過ぎない。中世以来日本の風景形成に影響をあたえた西行、慈円、熊沢蕃山の3人をとりあげ伝統的日本の空間思想を検証する。
@ 西行は中世の求道者で漂泊の歌人である。西行の旅は仏教の虚空と日本言語文化の空間を、自身の配置を媒介として統合しようとする試みであった。旅は歌枕という履歴(故事)を持つ空間に見を置くことを目的とした。これは近世の芭蕉にも受け継がれ、日本の歌の伝統になった。西行は宗教世界の具現である空間を創造的に解釈し日本の風景の伝統を作った。
A 慈円は鎌倉時代初期に比叡山座主を務めた皇族であるが、歴史哲学書「愚管抄」を日本語で著した。慈円はローカルな日本語で物事を考えることが大切で、普遍的理念(所行無常)やグローバルな基準(仏教)で物事を考えることの愚を明らかにした。
B 熊沢蕃山は江戸時代中期の儒者で農政土木行政官であった。蕃山の経験に基ずく経世の理念は一言でいうと「易簡の善」(シングルイズベスト)である。日本は小国で山谷は浅いので巨大建築土木事業が国土の荒廃を招くという主張である。


3)思考の内在化

環境思想として「think globally、act locally」という言葉がある。西行、慈円、蕃山は日本の文化的伝統にみられる空間の思想を形作り、特に「グローバルな視点」と「ローカルな視点」をどう統合するかという課題を提起した。環境思想はあくまでローカルな空間でのローカルな行動が基本になる。つまり思考のドメスフィケーションが必要になり、「普遍的な問いを抽象的に問うのではなく、世界の自己の配置から問う」ことである。人間と自然との連続性が失われる時「山河崩壊」となる。漢詩に「国破れて山河在り」とあるが、今日では「国栄えて山河破れ」となる。つまりデカルト的近代的自己の行き着く先が環境破壊であった。別の知恵が求められる。


4)西欧型環境思想批判―空間の意味づけによる他の価値の排除―

米国の環境保護運動の中心に「原生自然」の概念がある。手づかずの自然を崇高なものとして他から区別して保存しようというものである。「原生自然」が普遍的価値をもつ概念という時、文明の概念的区別が空間的ゾーニングと連動していることの危険性である。空間的意味付けを伴う概念の適用はじつはそれ以外の空間の意味を排除するからである。米国人の文明地域以外は先住民族の住むところであり、かれらを追い出して原生自然というとき先住民族の歴史を否定することである。
狭い日本には原生自然はもともと存在しない。白神山地などの深山は神の住む地として宗教的対象であったし、かつ水源涵養地でもあった。もともと意味付けされた空間であったし、生活の歴史が裏打ちされていた。日本の山野は、1962年に始まる全国総合開発計画以来、高度経済成長期の日本列島改造ブームにあおられてコンクリートとアスファルトに覆われ、1980年代のバブル経済期にはゴルフ場、スキー場、スーパ林道によりレジャーランド化した。さらに1970年の万博成功の夢を追うテーマパーク(瀬戸博覧会など)が「自然との共生」のもとに、ゾーニングした空間(コンセプト空間)に勝手な意味つけを行い、もとの風景を破壊した。要は開発を行うための煙幕に奇麗事を言っているに過ぎない。


5)社会資本の整備―豊かな空間への行政責任―

社会資本は空間の豊かさの形成に決定的な役割を果たす。我々の世代は豊かな里山や故郷の海に育って現在の都市空間を建設したが、次の世代以降はそのような環境がない空間で育っている。喪われていることも知らないのである。従って社会資本整備は空間の再編と人間の価値観の改変に重大な責任を負っている。空間は我々が存在する条件であって我々の所有物ではない。まして縦割り官庁が狭い権限で処理する空間ではない。社会資本整備は空間の履歴の書き換えということに重大な責任を負う。山を自然林に戻し、河を排水溝から豊かな生態系に復帰させねばならない。蕃山の故郷である茨城県古河市にある総合公園で葦原の復元工事が進められていることは意義深い。


                 
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