加藤尚武著   「合意形成とルールの倫理学」 
  丸善ライブラリー(2002年11月初版)

   

加藤尚武氏は2001年3月に京都大学を停年退職して鳥取環境大学長に就任された。加藤氏の「環境倫理学のすすめ」(1991年初版)は本誌(Vol.2,No.8,2000)で紹介した。旧著はエコロジー運動の哲学的・倫理学的基礎の解明をめざして生まれた環境倫理学により地球環境問題を考察するものであった。人間が長い間抱きつつけてきた生命感や環境感が根底から変ろうとしている。本書は生命操作の行方、地球環境問題解決の合意形成のあり方など社会問題解決のための展望を示す。生命問題として第T部「生体利用の安全性」、第U部「生殖補助医療と幸福追求権」、第V部「身体の金銭化とドーピング」、環境問題として第W部「国際公共財と世代間倫理」、第X部「正義と合意形成」、第Y部「刑罰の根拠」からなる。

1) 生体利用の安全性

[現状]人間が長い間抱いてきた生命感は、生命を一回性、全体性、自然性で捉えてきたが、現在の生命工学の示す生命概念は反復性、部分性、人工性である。これはES細胞培養、遺伝子操作、DNAチップ、オーダーメード医療、ゲノム創薬、遺伝子診断という技術が可能となったからである。
[倫理問題]生命工学の倫理問題として@安全性確保、A人間の個別性への侵害、B生体利用承諾問題、C遺伝子・組織プライバシー問題(ゲノム差別)、D人体組織の金銭化問題などが発生した。
[展望]社会が巨大な危険に対してリスクを冒す利益を認めない時には、予測の義務(危害原則の拡大、完全注意義務)が登場した。新生児、胎児を対象とするテーラーメード治療では代理決定へ転換する。診断可能でも治療不可能な事例では「知らされない権利」も発生する。

2)生殖補助医療と幸福追求権

[現状]生殖補助医療(ART)には、非配偶者人工授精(AID)、配偶者間人工授精(AIH)、配偶子卵管内移植(GIFI)、接合子卵管内移植(GIFT)、代理母(SGM)、代理出産(貸し腹HM)、体外受精(IVF)、卵細胞質内精子注入(ICSI)、胚移植(ET)が開発されている。
[倫理問題]不妊の悩みを持つ夫婦は約10%いる。90%の多数者が生殖補助医療を禁止するという合意形成は少数者の「幸福追求権」を侵害するため正しい合意形成といえるだろうか。生殖補助医療に対する規制根拠は安全性の確立されていない医療行為の「他者危害原則」である。現在AIDが正当化されているので衡平の原則により類似の事例は正当化される。 他人の人格の人間性を目的として取り扱い、単に手段として扱わないならば代理母、代理出産は禁止できない。生まれた幼児の法律上の母は代理母になる。生まれた幼児の権利(トラブルなく引き渡される、十分な扱いを受ける、遺産相続、出自を知る権利)を国家が守る義務を負う。
[展望]法律で禁止するだけが正当ではない。勧告、説得、心理治療、臨床判断、医療関係者自主規制、不利益処罰などで運用が可能である。

3)身体の金銭化

[現状]知識は金銭化され知的所有権の対象になる。スポーツはショーとして金銭化され売買の対象になって高額所得者を生んでいる。身体も細分化され、培養され、金銭化されて医薬品資源になる。身体の金銭化風潮に対して「身体金銭化絶対禁止論」、「身体金銭化弊害論」、「身体金銭化権利説」、「身体金銭化必要説」が混沌とした状態で存在する。知識、スポーツ、身体は本来物として売買の対象とすることには根強い抵抗があったが、現状ではビジネス対象とする動きは止めようがない。
[倫理問題]金銭的報酬には同意に基づく「契約」と人間的拘束力が働く「黙約・盟約」があり、つぎの形態で運用され倫理的問題を引き起こしている。@無報酬の超義務(自発的犠牲は見返りを求めない。匿名的)A厳密な実費主義Bお布施型(未完了の権利義務で一方的支払い、非匿名で発生)C香典返し型(互酬性ではお返しの奉仕で配慮)、D契約報酬型(市場原理)
[展望]日本では売血はやめて完全に献血だけで運用できている。完全にデータが保存されている人体組織がすべて金銭化された取引対象となることは非常に危険である。やはりお金ではなく福祉の場合のように互酬性が求められる。

4)国際公共財と世代間倫理

[現状]環境問題は全世界に利害関係が及んでいる。それは環境問題が資源問題、エネルギー問題、人口問題、貿易問題、税制問題など多方面の国家戦略に関係するからである。環境問題の国際条約では非締結国の存在により有効性が疑問視される。貿易問題であれば非締結国は参加出来ないので実質的な問題は少ないが、温暖化対策としての京都議定書の有効性を発揮するためには非加盟国のただ乗りを許してはならない。これが製品の国際競争力の差となって努力をしたものが損をすることになり公平性が失われる。利害関係の範囲が個人的であれば自己決定権に委ねるが、利害関係の範囲が未来世代にまたがる場合未来世代の合意が得られない。環境問題とは利害関係と決定方式の一致を図るという合意形成の基本原則を守る方法の追求である。
[倫理問題]未来世代との間の利害関係とは配分と継承である。資源を残し負の遺産を残さないことである。しかし地球温暖化や放射性廃棄物問題などの時間差が長く、行為をなした世代への懲罰が機能せず前世代の合意形成は未来世代の合意を得ていない。これまで経済は有限な生態系の中で人工的な世界をつくり外部を無視し利益の配分の不公平を是認してきた。経済の外部を内部化しなければならない。我々の法律はヒトの所有する物件の保護体系であり合法的に生物種を絶滅してきた。生物種が絶滅の危機にならない範囲でしか利用してはならない。
[展望]欧州は成長から成熟へ経済システムを切り替えようとしている。米国の石油戦略による京都議定書離脱とイラクフセイン体制攻撃は持続可能性に対する露骨な挑戦である。

5)正義と合意形成

[現状]正義の意味は一つは「つぐない」(悪いことに対する不均衡の是正)であり、二つは「公平の原則」(同じものごとは同じに扱う)で示される。償いとしての復讐は禁止されている。そのかわり第三者による裁判という形で行う。公平の中身(実体的正義)を達成するための手順のことを手続き的正義という。多数決は合意形成の最も重要な手続きであるが多数決で個人の権利・幸福を奪っていいかというとそうではない。個人には生存、自由、幸福追求などの権利を認め、社会との一定の制限・限界を認めなければならない。
[倫理問題]自由主義の原則は危険の経験的予知可能性を前提として自己決定権を認めることである。現在では安全性は情報に依存し個人では予知しがたい事項が多い。当局者は安全性を説明する義務があるが、それをチェックする方法がなければならない。そのためにもNGOの存在は欠かせない。私的な利害の追求が公共の善になるという古典経済学や最大多数の最大幸福という民主主義の精神が次のような問題を起こしている。@多数決のために重大な利害関係者に決定権を認めないことになっているA世代間の不公平が生じるB弱者、少数者の権利が合法的に侵害されるC主権国家、多数決主義、市場経済が社会の阻害要因にもなる。
[展望]「権利を侵害するよう合意形成は無効である」とするならば権利は合意形成に優先する。正義は完全義務で善意が不完全義務という伝統的な枠組みが力を持ってきた。現代世界の1つの特徴は不完全義務の完全義務への移行である(wantからmustへ)。開発途上国援助も自然保護も情報倫理も経営倫理もすべて不完全義務の完全義務への移行である。     


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