マーラーの交響曲を聴く


 ・・・人間界の苦悩と哀歓を背負った巨人の音楽はいかが・・・

マーラー  大地の歌、交響曲第9


2004年は災害の年になり、年末にダメ押しというべきスマトラ沖の大地震により津波死亡者が12.5万人(12/31朝7時)という大惨事になった。私の2004年度末はブルックナーとマーラーをじっくり味わう時間が持てたことを神に感謝する。ワーグナーやブルックナーの豪華絢爛たる彼岸の世界音楽が好きなヒトはきっとジャズも好きだろうなという気がする。私にはうるさいだけの逃げ出したくなる壮絶さは聞くに堪えないのでご勘弁願いたい。マーラーかブルックナーかと2者択一を迫られれば、私はマーラーの哲学的晦渋さを取らざるを得ない。本当はモーツアルト的天国音楽がベター選択なのですが。ということでマーラーの音楽を再度聴いてみて、なかなかいいもんだと再認識している今日この頃です。ハイ。

さて今回はあの難解といわれるマーラー(1860〜1911)の交響曲について述べたい。音楽は学問ではないから難解なことは飛ばせばいい。分からないような曲を作るほうがおかしいと尻をまくっても誰も文句は言わない。マーラーは昔から精神病理学者や心理学者の格好の材料であって精神分裂症(総合神経症)であったといわれる。あごが尖っておりやせて神経質そうな顔があてはまるからだ。マーラーの作品も性格を反映して感情の起伏が激しく大きい。精神分裂症の特徴は躁鬱症の振幅をさらに大きくしたもので、今笑ったかと思うと次には絶望の淵に立たされている。恐怖、怒り、笑い、憧れ、夢想が突発的に変化することである。交響曲第7番は陰々滅滅状態で、第5番は支離滅裂で理解不能といわれる。第6番は恐怖の結晶がうまく花咲いたようだ。ところが第1番と第2番はストーリーが分かりやすく古典音楽としてもまとまりが良くできている。第8番は宗教的な静けさに満ちた曲である。最高の出来は「大地の歌」と第9番で、死への恐怖との凄絶な戦いが赤裸々に語られえ永遠の傑作と賞せられるだろう。

私とマーラーの交響曲の付き合いは大学生のころからで、生意気盛りでよく友達に生半可な理解で煙を巻いていたそうだ。その実どれくらいマーラーの苦悩を知っていたかといえばお寒い限りである。たしかに古典音楽ではなく、美しいことを目的にした音楽ではないので、哲学的難解さを楽しんでいた気配がある。若いときはマーラーはヘーゲルやマルクスの延長線上にあったことは確かであろうか。前回取り上げたブルックナーの交響曲とはかなり違った世界である。ベートーベンが近代的自我の英雄的精神を讃えるものであるなら、ブルックナーは宗教的悦楽であり、マーラーはあくまで人間界の苦悩と戦いである。

私が聞いたマーラーの交響曲CDを下に示した。ブルックナーの交響曲と同じように演奏時間はやたら長い。1時間以内にまとまっているのは第1と第4だけであり、なんと第2、第3、第8の交響曲は1時間半以上である。そしてブルックナーの交響曲と同じように短調の交響曲が9曲中に5曲もある(第2、第3、第5、第6、第7)。金管楽器のオーケストレーションでの役割はブルックナーほど大きくはなく弦とのバランスは取れている。マーラーの交響曲の最大の特徴は声楽パートが器楽と共に音響像を構築していることである。ベートーベンも音楽と言語の結合を第9番で目指したが、まだ音楽付交響曲の域を出なかった。後期ロマン派のマーラーでは声楽の構成上の重要性が高く、あらゆる音楽目的に関わっている。


マーラー交響曲の私的聴きどころ

1)交響曲 第1番 ニ長調 「巨人」

第1と第2交響曲が連携すると考えると、第1番の「巨人」という表題は「英雄」に改めるほうがフィットする。第1番の交響曲は分かりやすく古典的でさえある。金管と弦楽器とのバランスはほど良く響く。弦の高音域を持続して緊張感を高め最高潮に達したところで、金管と打楽器でドカンと一撃する手口は玄人だ。4楽章からなり、第1は「森の夜明け」、第2は「田園舞曲」、第3は「森の葬送行進曲」、第4は「悲痛な失恋」と名づけられ英雄の生涯とも言うべき内容になっている。第1楽章がカッコウが鳴き角笛が鳴る、燦然たる夜明けとなる。第3楽章のアダージョでは有名な民謡がコントラバスの独奏で演奏される。第4楽章は初めと中ごろに鋭い金管が痛みを表現する。

2)交響曲 第2番 ハ短調 「復活」

第2番は壮大な音楽である。第1番の交響曲が「英雄の生涯」なら、第2番の交響曲は「英雄の死と復活」というあたかもキリストの復活をテーマにしたようである。第1楽章アレグロは英雄の葬送行進曲。第2楽章アンダンテは英雄の楽園回想。第3楽章は人生の騒がしい営みが鋭い音の爆発で終わる。第4楽章はメゾソプラノの独唱が入り「原初の光」で英雄の天国への憧れが歌われる。第5楽章で英雄の復活が、壮大なオーケストラと合唱+ソプラノ独唱で描かれる。第2番の交響曲では曲の最大の聴き所は第5楽章のスケルッツオとマエストッソのオーケストレーションであることは間違いない。復活というストーリー上のテーマを知らず無心で聴いても雄大な迫力は感じられるだろう。 初めに雷のような復活を意味するエネルギーが発せられ、つぎに金管の響きが大空間で壮大に奏せられ、恐ろしい静けさに舞い戻る。フルートのみが天国へ舞い上がる。ゆっくりと神秘的に合唱とソプラノ独唱が詩を歌い復活を祝う。哲学的にはマーラーの2つのテーマ「憧れと苦悩」が個人の救済を根底とする思いの中で合体するというストーリだそうだ。そういう意味では標題音楽としても好く出来た交響曲である。

3)交響曲 第3番 二短調

マーラーの田園交響曲とも言える。マーラーの自然観は愛らしいもの、すばらしいもの、恐ろしいものすべてが神=愛にまで高まると言うことだ。汎神論ともいえる。第3番は6楽章よりなり、すべてが「子供の不思議な角笛」のテキストに基づいている。「角笛交響曲」3部作はこの3番と、第2番、第4番である。第1楽章から第5楽章までは牧歌的な曲で分かりやすい構成である。第1楽章は「夏の日の到来」、第2楽章は「自然について」、第3楽章「夏の日の終わり」、第4楽章はアルトが歌う「ツアラトゥストラの夜の歌」、第5楽章は少年合唱団の夜明けの鐘の歌からなる「朝の朝の到来」である。終章第6楽章は世にも美しいハーモニーのアダージョである。第1楽章と第6楽章は大きな楽章である。特に第1楽章は4つの主題からなる。この交響曲での白眉はやはり第6楽章の弦楽器を中心としたオーケストラのハーモニーである。弦中心の静かな美しい主題で始まり、すこし上昇して全楽器で一気に壮大な世界へ高めてゆく。そして再び静かな弦中心のハーモニーに戻りクライマックスを迎えるという構成である。このオーケストレーション手法は第5番、第6番、第7番の交響曲の美しい部分でも発揮されている。

4)交響曲 第4番 ト長調

「大いなる喜びの賛歌」といわれる第4番はマーラーの最高の贈り物である。その楽しさにおいてマーラーにしては奇跡的な出来具合である。曲は4楽章からなり、第1楽章は子供のメルヘンというかメロディーの遊園地といえる、まるで魅惑の花園である(疑惑の総合商社ではありません)。第2楽章のスケルッツオは軽快な天使の踊りというべきで作者が「死の舞踏」といった理由が分からない。第3楽章のアダージョは実に清純な至福の美しさに満ちた緩徐楽章である。第3楽章の長さ(20分)をだらだら長いというか、いつまでも続いて欲しいというか個人の勝手だ。第4楽章はソプラノ独唱による天国の楽しい生活が歌われる。要約すると楽しいの一言。

5)交響曲 第5番 嬰ハ短調

さて問題の5番である。5楽章からなる。交響曲は古典音楽では4楽章構成であり、後期ロマン派以降には5楽章以上の構成で一段と複雑に展開されるようになった。これは漢詩でいえば絶句と律詩の違いかもしれない。絶句は4行詩で言葉の制約から言葉の集中度が高く余韻も計算される。何よりまとまりとバランスが重要視される。律詩では8行詩、また歌行では16行、24行詩というように制約が無くなる。したがってストーリ展開が自由で、かつ言葉遊びがますます複雑化する。アナロジー遊びはこれくらいにして本論に移ると、第1楽章嬰ハ短調の葬送行進曲の感情の高ぶりと沈静は十分理解できる範囲である。ところが第2楽章イ短調、題3楽章二長調は最悪だ。のた打ち回るような感情の起伏と癇癪玉の炸裂を常人は理解できない。全体のバランスからして第2と第3楽章は廃止して欲しい。全然違った交響曲になる。第4楽章は映画音楽の流れるようなメロディーに聞き惚れてしまう。ということで第1楽章ー第4楽章ー第5楽章の3楽章形式にすればいい音楽になること受け合いだ。マーラーは怒り出すだろうが、しかしお客さんを怒らすよりはましだろう。

6)交響曲 第6番 イ短調 「悲劇的」

この曲はあまり人気がないという話だが、なかなかどうして充実した内容を持っている。「悲劇的」という別名を持っているが、私は悲劇というより「絶望的」とでも言ったほうがぴったりという感じがする。この曲はなんで聴く必要があるのかという自問もあるが、どうしても聴くに値する精神病理学的症例である。すなわち音楽の対象としては避けて通りたいような内容で、死への恐怖と絶望感を真正面からテーマとしている意味で前例が無い。耽美的死ではなく過酷な運命としての死である。第1楽章は重々しい死の行進曲で始まる。びっくりすること請け合いだ。第1主題が死の行進で、第2主題が生の情熱、いわゆるアルマの主題が交差し、間に死を忘れないために運命動機が坦々と繰り返される。第2楽章スケルッツオは軽快な旋律の中で運命動機が吹かれる意地悪さ。第3楽章アンダンテは緩徐楽章で木管がメロディーを奏でてオーケストラが静かに支える安らぎのひと時である。第4楽章フィナーレは死のハンマー(鉄槌)が3度振り下ろされる恐ろしい場面である。金管楽器による長い緊張を強いた後に鉄槌が下されるというシナリオだ。しかし緊張が長すぎて耐えられないので、一時避難してとなりの部屋で聞いているとなんとこの楽章は映画のスペルタクルシーンの劇的場面に流される曲にぴったりであることに気がついた。劇的高揚(効用)がある。フィナーレは半分の15分くらいに短縮して欲しい。お願いマーラー様。

7)交響曲 第7番 ホ短調 「夜の歌」

この第7番はたしかに退屈で陰鬱な気分ではあるが、私は第7番はマーラーの交響曲のなかで最も難解な曲であると思う。なぜかというとこの曲には古典音楽的な分かりやすく美しいところがひとつもないことである。第5番の交響曲なんかまだ分かりやすい部類に属する。第7番は完全にシェーンベルグ、アルバンベルグの無調性現代音楽の先鞭をなすものだ。これを難解とする人は現代音楽を好きになれない種族に違いない。私もその一人である。第1楽章アダージョの特徴は音の色彩の軽い不整合を楽しむことで、はっきりしない色調で陰鬱な気分が醸し出される。また短調長調の揺らぎが見られ無調音楽への導入口になっているため、前進と停滞、高揚と下降がない交ぜになっている。ということで現代音楽の要素がすべて揃ったことになる。第2楽章アレグロで田園風景を描写するにしては、夜の歌という標題の意味が不明だ。取り外したらどうか。田園風景といっても異質な場面、空想的な描写が投げ込まれたコラージュ的手法による楽章である。第3楽章スケルッツオは奇抜な音(つんざく音、金きり音、あざけるようなオーボエの声など)を多用したグロテスクと、音楽進展の不連続性から構成され現代音楽そのものである。第4楽章アンダンテも夜の歌と標題されているが、基本は優しさであろうか。牧歌的である。そして第5楽章フィナーレは何だ!!いままでの憂鬱と優しさの展開を全く無視した異質なフィナーレになっており、分裂した印象は免れない。癇癪玉の炸裂と大音響は難聴試験のためにあるのか。第6番のフィナーレのドラマチックスペクタクルもない、ただの大音響ヒットパレードだ。戴けない。最悪だ。

8)交響曲 第8番 「千人の交響曲」

第8番の交響曲は「大地の歌」と同様最初から最後まで声楽が入る。1910年ベルリンでマーラーが指揮したとき、850人の合唱団と170人のオーケストラで演奏されたので「千人の交響曲」として有名になった。曲は2部よりなり、第1部はカトリック精霊降臨節の賛歌「現れたまえ、創造の主、精霊よ」で宗教的に高揚した気分が、第2部はゲーテの「ファウスト」の終章の詩が静かに歌われる。音楽的な盛り上がりは少ない。第1部と第2部には歌の関係はないが、音楽的主題/動機が緊密に連携する点が特徴である。すなわち第2部で第1部の音楽がそのまま再現されたり変奏される。第1部ではいきなりクライマックスで始まる。第2部は平坦である。はたして第8番が傑作なのか失敗作なのか、いつも話題になるが結論はない。私が思うには第1部と第2部に何の関連もないことが問題で、切り離して評価すれば各々はなかなかのできではないか。

9)交響曲 第9番 ニ長調

1909年の作。「大地の歌」の終楽章「告別」を引き継いで死の恐怖との壮絶な戦いを描いた。第1楽章アンダンテは弦の表現が苦しいほど切なく響き恐怖におののいている様子が表現される。ホルン、トロンボーンの気味の悪さとヴァイオリンの天国的響きがすばらしい。第2楽章ベース、チェロとホルンの掛け合いに始まり、クラシックオーケストレーションがすばらしい強靭な楽章である。第3楽章ロンドは緊迫感がみなぎったクラシック形式美を保持した名曲である。第4楽章アダージョは美しい弦で始まり全編ハーモニーが美しい。美の極致ともいえる。まいった、マーラーにこんな美しい曲があるのだ。

10)交響曲 「大地の歌」

第1楽章「大地の哀愁を歌う酒の歌」では虚無を、第2楽章「秋にさびしき者」では自殺を、第3楽章「青春について」では楽天さを、第4楽章「美について」は魅惑を、第5楽章「春に酔えるもの」では頽廃を、曲の中心となる第6楽章「告別」では諸行無常から死の必然を歌った構成からなる。曲は中国の詩人李白、孟浩然の詩をテキストにしている。東洋的人生の無常観を自分の人生の不安・恐怖に結びつけて作曲した模様。テノールとアルト独唱を伴った声楽曲。というのが曲の思想的背景であるが、音楽的には第4楽章「告別」における音の綾の美しさが天国的とでも言おうか。


クラシックとCDに戻る ホームに戻る
inserted by FC2 system