170604
文藝散歩 

柳田国男著 「妹の力」
角川ソフィア文庫 (2013年7月 新版)

我国の民間信仰・神話において、シャーマニズム(巫術)の担い手であった女性の役割を考える

柳田国男はそれまでに発表した12篇の小論を選んで、本書「妹の力」を昭和15年(1940年)8月に出版した。柳田国男が序において述べているように、神々の祭りに奉仕した者が、もとは必ず未婚の女子であり、神様にお供えした供物を取得するする者が、神を代表したその女性に限られていたという。神に仕える女性の役割とその経済基盤が伺える。しかもそれは世襲の女性である場合が多かった。日本の神道においては専業の社家が起って、その時期はとっくに過ぎ去っている。残ったのは迷信ばかりであった。神への供物を食べた女の子は縁遠くなるとか、穢れに近づかない禁忌の言い伝え、神のお告げを伝える者は必ず物狂いであったとか説明しがたい言い習わしを民間伝承という。西欧の学問ではフォルクロアと呼ぶ残留物である。これを何らかの文化史上の意義あるものと認め、類例の比較によって根源を少しでも明らかにしたいということが民俗学の希望である。数々の文庫の森に入って迷うだけでは得ることは少ない。何を知りたいのかの筋が立たない限り、書物は相談相手になってくれないと柳田氏はいう。過去の日本精神文化のあらゆる部面にあたって、日本の女性は活躍し、指導的役割を果たしこともあった。しかし男性社会がすべてを職業化し女性の役割を奪ってからは、女性は家庭に埋没した。柳田国男は、大正2年から3年にかけて、「郷土研究」誌上に「巫女考」を連載した。これは我国におけるシャーマニズム研究の嚆矢をなす文献である。我国の民間信仰において、シャーマニズム(巫術)の占める役割は大きい。従って民俗学で精神的伝承の中で巫女や巫祝を扱うことは多い。また狐憑き、犬神憑き、蛇神憑き、飯綱憑きといった憑依現象は家筋に特有と考えられ、社会問題を引き起こすことがある。 日本人の民族心理と民族宗教の奥に潜むシャーマニズムをあぶり出すことは重要である。 さらに古代社会や古代政治に現れる、女神・女帝・皇后・皇女の巫女的性格が問題となるので、歴史学上も重要なテーマになっている。 本書「妹の力」は全体的には巫女論であるが、巫女をもって口承文学の伝播者と捉えている。この点が前の書「巫女考」とは根本的に異なる視点である。民間伝承(フォルクロア)における女性の役割に重きを置いた視点は、女性の役割を祭祀と巫道という家の宗教行事 に見出したことである。このような口承文芸は誰が語り伝え、誰が全国津々浦々に伝播したのかを分かり易い方法で語っている。柳田国男という博学者はあまりに多くの神話的伝説を語りだし、自分自身が語り手になってしまって、学問としての巫祝論がおろそかになっている。手品のように色々なお話を繰り出すが、その結論がうやむやになっている。本書の大きな成果は古代の祭礼一致と言われた政治形態を、断定の政治的主権を助けた巫女としての「妹の力」 によって明らかにした。本書の第2の成果は「雷神信仰の変遷」に著した御霊信仰と雷神と若宮の関係を明らかにしたことである。天満宮を菅原道真とし、八幡社を応神天皇とすることは常識であるが、雷を神の祟りとすることは、その神が御霊的性格を持っていたとし、それを鎮めるのが御霊会である。この柳田国男の考察がなければ、北野天神と火雷神社の関係を解くことはできなかった。八幡若宮や春日若宮を御霊とする見解はミサキや荒神の様な叢祠、小祠を明らかにした。また第3の成果は 人身御供(人柱伝説)の問題を提示したことである。その巫女的な性格(娘を生贄にする)があることを明確にし、疫病や天災・凶作の原因として「怒る御霊」の妻として神に仕える女性が生贄である。各章の要約や意義をまとめておこう。  

1) 妹の力: 本書の題名(総論)となっている本章は大正14年10月「婦人公論」に寄稿された随筆風の巫女論である。歴史における女性の働きを「祭祀祈祷の宗教上の行為は、肝要なところは不女性の働きに依った」と述べ、巫は日本においては原則として女性が担ったという。祭政一致時代(卑弥呼の時代)の政治の主権者は常に「妹」の巫の言葉を指針としたに違いない。女性が宗教的体質に適しているかどうかはわからないが、我国の古代には母系相続の祖先祭祀があって、祭祀権は母から娘へ継承されたためであろう。倭姫命や伊勢の斎宮なども、もとは祖先神の真意を兄帝に伝え、兄帝の政治を助けるのが我国の古代の祭政一致であった。このような考え方は「をなり神考」と呼び、アイヌや沖縄の兄と妹の祭政や大和政権の斎宮制につながってゆくのだろう。家の神の祭りが特に女性の祭りであったという。
2) 玉依彦の問題: 本章は昭和12年7月に「南島論叢」に掲載された。「玉依彦」と言っているが、13年前に発表された「妹の力」の改訂版のような巫女論である。次の章の「玉依姫」であり「ヲナリ神」が中心である。玉依彦は玉依姫の兄であるが、神ではない。山城賀茂の神伝に詳しく玉依彦のことが書かれてている。本章で柳田国男は沖縄のヲナリと日本の田植のヲナリを比較・類似を展開した。日本の田植歌にヲナリ、ヲナリ姫、ヲナドリの言葉が見えることから、山城賀茂神社旧記の植女、養女に相当する采女やウナイの関係する言葉であろうという。石垣島では姉妹をボナリと言い、その髪の毛が航海の守護霊になるという信仰がある。この関係を賀茂神社の玉依彦と玉依姫にあてはめ、巫祝の母系相続に注意した。
3) 玉依姫考: この章は大正6年に「巫女考」の続編として書かれた。八幡宮の御祭神である比刀iヒメ)大神とある女神が、神意を宣る巫女であることを論証しようとするものである。巫女は玉依姫を呼ばれ、賀茂御祖神社(下鴨神社)の玉依姫、大和大神神社の活玉依姫、大宰府竈門神社の宝満菩薩などはすべて巫女を祭神にしたものであると主張した。つまり「玉依姫」は特定の固有名詞ではなく「霊の依る聖女」を意味する普通名詞と解することができるということである。神の尸(よりまし)としての巫女が各地に散在しているという論法である。この論文は八幡宮の御祭神に、大菩薩と大帯(おおたらし)命と比刀iヒメ)大神の3神を考証することである。宇佐八幡の社殿の位置から比淘蜷_が託宣者であることとした。また本章では玉依姫のご神体が石である例を挙げている。
4) 雷神信仰の変遷: 昭和2年「民族」に「若宮部と雷神」と題して掲載された巫女論であるが、重点は北野神社を始め雷神を御霊とする御霊信仰論と若宮信仰論である。本章は「道場法師の孫娘」、「霊安寺の縁起」、「天満大自在」、「老松と末童」の4節からなる。第1は奈良元興寺の道場法師が雷の子であったので、悪霊鬼を捉える力を持っていたいう話しである。第2は北野天神が、大宰府で亡くなった菅原道真の御霊で、化して雷神になったという。御霊が雷神となった話は、大和五条の宇智郡火雷神社の祭神が光仁天皇の廃皇后井上内親王と廃太子他戸親王の怨霊だったことに見られる。菅公の御霊は火雷天神となり、天満大自自在天に祀られた。第3に老松と末童は悪神とか呪詛神と呼ばれる荒みさきで、若宮であった。若宮は神の子であるとともに荒々しい御霊の神であり、神と人間の中間の人で、神の子にして巫祝の家(託宣者)の始祖であった。この巫祝(託宣者)の子孫を小子部とか若宮部と言ったのだろうという主張である。しかし若宮部は荒魂といわれ、巫祝(託宣者)までは含まないとされている。
5) 日を招く話: 「雷神信仰の変遷」に続いて、昭和2年7月「民族」に「日置部考」と題して掲載された。「日招ぎ部」と解して、田植えに際して日を招き返した因幡の湖山長者や、播磨の朝日長者、肥後の米原長者などを日置部として説明しているが、本論の眼目は心の清い働き者の嫁女が一日では植えきれない田植えを一日で済ますため、日の永きを祈って死んだという伝説から田植え女(早乙女)を田の神、水の神に仕える巫女として描いた。田植えの日に禁忌があり、これを犯した嫁ばかりが自殺に追い込まれる話が多いのは、死人田、病田、癖田と言って忌み嫌う田には嫁が死んだ伝説が重なっていることに注目して、もう少し日が長かったらと日を招き返す気持ちが籠っているので、過酷な重労働である田植えとそれを担ってきた女性の悲話を告発したかったのだろうか。日を招く話と身を投げた嫁の話は表裏をなしており、嫁が淵、嫁殺し池、嫁塚、日暮し塚などとつながる。日暮し塚とは日の永からんことを祈った祭場ではないかと推測する。日を招く話は田楽や田遊びに見られる殖女、養女が水の神に仕える巫女であったと同時に、オナリ・ウナリなどと呼ばれる早乙女であるという結論となる。
6) 松王健児の物語: 昭和2年1月「民族」に掲載され、次章の「人柱と松浦佐用姫」が同誌3月に掲載されるので、この二つの論文で「マツ」「マチ」の名を冠する松王・松童・老松・小松・小町などが神の侍童または従者を意味し、ここでは直接巫女を論じてはいないが、松王伝説や松浦佐用媛伝説を伝播したものが遊行の宗教者であったであろうという点で巫祝論をなしている。松王健児(こんでい)は幸若舞の「築島」で兵庫築港の人柱に立てられた平清盛の侍童であるが、各地で橋や堤に人柱となった人が、松王丸とか松王小児の名を持つものが多い。八幡社にも松王小児を若宮に祀るものがあり、北野天満宮にも菅公の舎人の子孫と伝える松王を名乗る主典の家がある。松王は神の子、すなわち神子(巫)であり、神に仕える侍童を意味した。そしてこうした神子、巫はしばしば神のの牲として神意を和める人柱に立てられることがあった。また人柱に母と子という話しが多いのは、母あって父なき童子神として若宮が祭られるからであるという。豊後の小市朗神もこのような童子神の若宮であると同時に荒神であり、御霊であった。八幡と水神の関係は分からないという。
7) 人柱と松浦佐用姫: 人柱に立てられる児童の名に松王という名が多いことは前章で述べた。同時にお鶴とサヨという名も多い。お鶴についてはあまり言及がなく、古事記で有名な松浦佐用姫に結び付けて悲劇的な女性の名として遊行の宗教芸能者の手によって全国に広まったという点を主張している。まず松浦佐用姫伝説は水の神に供えられた人柱として語られたものが多く、この話には化粧阪、化粧池、鏡の池、かねつけ岩などに関する口碑が付帯している。人柱に立つ前に化粧したからだというが、松浦佐用姫伝説を語る者が遊行女婦の様な芸能者だったことを示唆する。すなわち当時化粧をするということは、神に仕える者以外にはせぬことであったからだ。佐用という名がどこから出たのかことについては、柳田は道祖信仰に出たと推測しているが、根拠はない。村の祭りに化粧して神の故事を演じる遊行の宗教芸能者は道祖にも奉仕しただろうことは想像できる。松浦佐用姫伝説における佐用姫=遊行女婦といつの間にか同一視が成立している。すると遊行女婦も人柱に立ったのだろうかという混乱が生じる。柳田氏の論法を吟味すると、対象の二重性から実体の関連性、そしてすり替え、そしてしりとりゲームのような循環リングで広がってゆく空想の世界を歩くようである。無限に話が紡がれてゆく感覚に酔いしれてしまうのである。佐用姫→遊行女宗教芸能者→小町→小松の平家伝説とつながる様は、著書独特の巫女論と神話伝説の起源論がつながるのである。人柱の時代→平家落人伝説と時代も大きくワープするファンタスチックな民俗学となる。
8) 老女化石譚: 大正5年8月の「郷土研究」に掲載された。諸国に分布する大磯の虎伝説に「虎ヶ石」と言う力石がある。その虎御前なるものが和泉式部伝説と同じく、遊行の巫女であることに注目して、巫女と石の関係を論じた。虎石伝説の例を全国数多く収集し、その念願がかなえば軽く上がり、叶わなければ重くて上がらないという石占いの痕跡ではないかという。一方諸国の霊山の山麓に、比丘尼が女人禁制を犯して登山すると山神の怒りに触れて石と化した伝説をこれまた数多く示して、霊山のいたるところに老尼や巫女の化石譚を披露する。まさに柳田国男ワールドの饒舌さである。しまいには自分もいやになって話を打ち切るのである。彼女らの一群は、熊野比丘尼の様な「道教や仏教の中間をゆく一派の女巫」であったのだろう。この章は前半の「虎石伝説」と後半の「老女化石譚」の関係は、熊野比丘尼の修行では袂に石を入れて遊行し、その重くなったところを神のお告げとして熊野社を祀ったいわれからきているのだろうとした。
9) 念仏水由来: 大正9年「新小説」に掲載された姥神伝説の論である。姥神は山姥や鬼婆などに変形され伝説化されたものが多いが、本考は山の神や道祖神をこう呼ぶと主張するものである。とくに「関の姥様」、「咳の姥様」というのは、道祖神(塞の神)が悪霊をせきとめる力を転化して、咳を止める女神としている。姥神伝説の代表的な話は、「姥ヶ淵」や「姥ヶ池」というもので、姥が怨みを抱いて入水した霊のために念仏すると、淵や池は泡立ち沸き立ってこれに答えるという話しである。姥が自分の不注意などで死なせた子供の後を追って入水したという様に、若子と姥が何時もセットになっている。姥が怨霊になって祟る神であったことと若宮信仰(荒神)と同じものであったことを示す。姥神と若宮との関係の代表例として尼子氏の由来伝説を取り上げた。神の子(天子あまこ)とそれを養育する姥との関係は山姥と金太郎のようなもので、神の胤を宿してこれを生み育てる三輪伝説の玉依姫を姥神と考えた。従って本章は現象的には「念仏水由来」であるが、その本質は「姥神考」と考えられる。「三途河(そうずか)の婆」の話は、閻魔大王とともに念仏堂に祀られながら、咳の神として民俗信仰化する根源が、姥神=道祖神で怨霊をせき止める力があるからである。
10) うつほ舟の話: 大正15年4月の「中央公論」に掲載された。「うつぼ舟」漂着伝説から、我国固有の霊魂観を明らかにした。うつぼ舟は天竺・震旦の高貴な姫君や王子がうつぼ舟に入れて流されたのが漂着したという話しで、その子孫を名乗る九州の原田一族、備前の宇喜多氏、周防の大内氏などが存在する。大内氏は百済の琳聖太子の子孫であるという。また神社の縁起にも、大隅正八幡宮の母神は震旦国陣大王の娘比留女、若宮は太陽で共にうつぼ舟に載せられて大隅海岸に流れ着いたという。日本書紀には少彦名神が豆殻の船にのって出雲の海岸に流れ着いたという記事がある。これらの神の子の乗り物がうつぼ舟という中空の容器であったことが共通点である。容器には桃の実、竹の幹、鶯の卵、瓜の実などいろいろな説話が存在する。中でも面白いのが瓜類の瓢箪である。瓢箪は酒、水の容器であったばかりか霊魂の入れ物でもあった。ほとぎ(壺)や木箱、輪っぱもの、臼も魂の入れ物だった。水子を流した葦舟もうつぼ舟の一種であった。こうして霊を流す習俗には疫神や怨霊を流す神送りの信仰があるなど、話はとどまることなく広がってゆく。
11) 小野於通: 大正14年5月の「文学」に掲載された本論は巫女論というよりは、口承文芸の伝達者としての遊行女婦の出自を論じたものである。同名異人の小野於通の伝説は全国に多く存在する。共通項は於通が美人であること、才女であり、遊行して歌を詠み物語を語ったという点である。とくに三河鳳来寺に縁のある浄瑠璃姫12段草紙ではあきらかに語り部としての小野於通の後裔であろう。このような女性で遊行する語り部は、古代では神の霊験を語り、中世には霊物の因縁を語ったのであろう。ここから路上で於通の手紙を朗読する「文ひろげの狂女」千代女も出た。この職業は盲女に受け継がれ、東北地方のイタコや瞽女となり、一方では浄瑠璃語りを生んだとされる。和泉式部伝説と並んで小野小町伝説もこうした遊行女が語ったに違いない。そうして小野於通と小野小町に共通する小野氏とはどういう由来なのだろうか。小野氏は全国の神社に散在する。太宰府天満宮の三宮司の小野三家、四天王寺太子殿に仕える秋野坊の小野氏、日光二荒山の小野氏、豊後佐賀関の早吹神社の小野氏、横山氏、小野寺氏、小山、緒方氏も元は小野氏の出である。全国に分布した小野氏の本貫は近江で、語り部の司だった猿媛氏と婚姻関係が多かった。これが小野氏が神や霊験を語りながら全故国を遊行する小野氏を名乗る女性を輩出した原因である。本章は小野於通に関する矛盾した伝説を、語り部の女性という職業で説明した論文となった。
12) 稗田阿礼: 昭和2年12月に「早稲田文学」に掲載された。前章の小野於通の続編と言うべき位置の論文で、小野氏と結んだ猿媛氏から出た稗田阿礼は女性の語り部だったことを論証した。猿女氏は天鈿女の子孫として、女系相続で神楽と鎮魂の朝儀に奉仕した。猿女三人を差し出して縫殿寮に所属した。猿女の養田が小野氏の本貫に近い和邇村にあったため、小野氏と猿女氏の堅い婚姻関係を生じ、「猿女小野氏」ともいうべき一派が全国に猿丸太夫の旧伝をもって散在した。日光二荒山神伝に「神を助けた猿」に現れる。猿女氏は神楽を伝えるとともに、猥雑な猿舞を行うことで有名で、猿楽もこれから派生したと言われる。また猿回し(猿曳)芸の宗家である紀州貴志の小山氏もこの流れであった。稗田阿礼が語り部の女性であったことを井上頼圀の「古事記考」より引いて、また彼女が猿女氏の出であったことを「弘仁私記序」の注から導き、我国の口承文芸の保存と伝播に彼女の一派が参加していることを明らかにすることが目的である。


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