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文藝散歩 

西永良成著 「レ・ミゼラブルの世界」
岩波新書 (2017年3月)

19世紀前半フランス大革命の動乱期、ひとりの徒刑囚が偉大なる聖人として生涯を終えるまでの苦悩の物語

ビクト―ル・ユゴー     ミュージカル「レ・ミゼラブル」
ビクトール・ユゴー                   帝国劇場(東宝) ミュージカル「レ・ミゼラブル」

ヴィクトル・ユゴー(1802−1885年)の大作(長編小説)「レ・ミゼラブル」のことを知らない人はいないだろうが、全文を読み通した人もいない。ユゴーが1845年から書き始め1862年に発表した「レ・ミゼラブル」の邦訳は、1902年翻訳者黒岩涙香が『ああ無情』と題して、日本で定着させて以来、映画、テレビ、ミュージカル、児童書などに普及した。アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と並んで19世紀フランスを代表する国民文学であった。この二つの本はいずれも大作(前者1486頁、後者1398頁)で、時代を巡る共通点が多い。作者はともにナポレオン麾下の不遇の将軍の息子として生まれ、同じ年の友人関係であった。それぞれの作品を書き始めたのが1840年代中頃の同時期で、物語は歴史小説でストーリーは1815年からスタートしている。物語の主人公が長く牢獄生活を送った後、波乱に満ちた冒険を繰り広げることも共通している。さらに王政復古時代を背景とする物語にナポレオンの影が差していることも共通している。しかし異なる点も多い。ディマの作品は2年間の新聞連載小説として息もつかせないストーリ展開に徹しているが、ユゴーの作品は執筆から出版までに17年間もの歳月が必要であった。さらに「レ・ミゼラブル」では作者が小説にしばしば顔を出し、人生哲学や歴史、政治、思想、宗教観を余談の形で挿入し、多くお読者を困惑させ読みづらくしている。ユゴー自身が「迅速で軽快な劇は1年の読者を飽きさせなないが、深遠な劇は10年の読者をひきつける」と自覚している。だからユゴーの作品は「冒険小説」ではなく、「全体小説」であると言われている。本書は次のような内容からなる。
第1章「レ・ミゼラブルとはどんな小説か」: この小説の構成、あらすじ、手法、話法、時代背景など。
第2章「二人のナポレオンとレ・ミゼラブル」: 作品の背景をなすユゴーが勝手崇拝したナポレオン1世、呪詛したナポレオン3世との関係、正義と自由を求める彼の政治活動を概略記述する。
第3章「再執筆とナポレオンとの決別」: クーデターによって第2帝政の皇帝となったナポレオン3世に対立して国外追放処分を受け、19年間英仏海峡の孤島でナポレオン3世に対する批判と抵抗に関する記述と、これと密接にかかわる「レ・ミゼラブル」誕生秘話を語る。
第4章「ジャン・ヴァルジャンとはどういう人物か」: 主人公ジャン・ヴァルジャンの内面の変化を克明に追うことで、ユゴーがなぜ元徒刑囚にして聖人の苦悩を描いたかを考察する。
第5章「哲学的な部分とユゴーの思想」: 小説に挿入された「哲学的な部分」を中心に、ユゴーの社会・政治思想、歴史観、進歩の概念、宗教観を考える。

小説「レ・ミゼラブル」に入る前に、本書の巻末の年表よりヴィクトル・ユゴーの生涯を概観しておこう。ユゴーは1802年ナポレオンが終身総統に就任した年に、共和派でナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユーゴーとソフィー=フランソワーズ・トレビュシェの三男として、父の任地だったフランス東部のブザンソンで生まれた。ユゴー家はロレーヌの農民の出だが、父親はフランス革命以来の軍人。母親はナントの資産家の娘である。生後6週間目に一家はマルセイユへ転居した。以降、コルシカ島のバスティア、エルバ島のポルトフェッラーイオ、パリ、ナポリ、マドリード、と主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを転々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと根っからの王党派の母ソフィーの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのである。この確執はのちに「レ・ミゼラブル」の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となる。1814年次兄ウジェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会の近くの寄宿学校に入る。その間にナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポールはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に没落してしまう。父親は彼を軍人にするつもりだったが、本人は詩作に夢中で、1816年7月10日には詩帳にこんな言葉を残している。「シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。」1819年2月トゥルーズのアカデミー・デ・ジュー・フロローのコンクールに詩が2編入賞する。5月には、詩1編がアカデミー賞に輝く。12月には「コンセルヴァトゥール・リテレール」誌を創刊した。1820年3月9日「ベリー公爵の死についてのオード」でルイ18世から下賜金を受け、ビッグ・ジャルガルを「コンセルヴァトゥール・リテレール」誌に掲載する。1821年6月27日母ソフィーが他界する年の10月12日、幼馴染アデールとサン・シュルピス教会で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通りに居を構えるに至る。1822年には、「オードと雑詠集」によって国王から年金をもらえることになり、ロマン派の旗手として目覚ましい活躍を始めた。1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受ける。同年5月29日にはランスで行われたシャルル10世の聖別式にも参加した。こうして少しずつ名誉が与えられてゆく中で、少年時代は疎遠であった父ジョゼフ・レオポールとの仲も親密になっていった。愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これをきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになる。創作熱も加速していくが、1828年1月28日パリで父ジョゼフ・レオポールが他界した。1829年1月「東方詩集」、2月7日に「死刑囚最後の日」を刊行する一方、コメディ・フランセーズで上演予定だった「マリオン・ドロルム」が8月13日に上演禁止令を受けてしまう。理由は、この作品に登場するルイ13世の境遇が悪すぎて、シャルル10世の非難を買ったからであった。それから約2週間後の1829年8月29日から9月24日に「エルナニ」を執筆した。10月5日にコメディ・フランセーズ座で上演する運びとなった。古典派の常識を逸脱したこの戯曲はたちまち問題となり、「エルナニ」公演の初日、いわゆる「エルナニ合戦」が起った。これ以降、ユーゴーはロマン派と古典派の戦いに巻き込まれることとなる。1830年4月ジャン・グジョン通りへ転居する。そこで七月革命の混乱が押し寄せる。たとえルイ18世から年金を貰っていた身分であっても、七月革命に参加していたのは「エルナニ」でともに文学革命に参加した仲間であったため、己に危害が加えられる心配はなかった。「エルナニ」で大成功をおさめ、ロマン派の詩人・作家として名声と富に恵まれたユーゴーは、1832年10月8日、ジョン・クージョン通りの家を引き払い、ロワイヤル広場の豪華な家に移ったが、妻アデールがサント・ブーヴと恋に落ちてしまい、1833年2月、ユゴーは「リュクレス・ボルジャ」に出演していた女優ジュリエット・ドルエの愛人になる。ジュリエットとの交際が始まって1年が過ぎた1834年、彼女との恋をうたったロマン主義詩編の最高傑作との評判名高い「オランピオの悲しみ」を生みだした。1836年2月18日と12月29日にはアカデミー・フランセーズに2度も落選し、翌1837年3月5日には、妻アデールを愛したがために発狂してしまった次兄ウジェーヌが入院先のシャラントン精神病院で自殺してしまうという不幸がユゴーを襲った。同年7月3日にレジオンドヌール勲章(オフィシエ[27]、将校)を授与される。その間、戯曲や詩を創作しながら、ブルターニュ、ベルギー、シャンパーニュ、プロヴァンス、と各地を転々と旅する。1837年、ルイ・フィリップの長男オルレアン公フェルディナン・フィリップの結婚式に呼ばれる。ルイ・フィリップの肝いりで1841年1月7日にようやくアカデミー・フランセーズの会員に当選する。彼は亡くなるまで、第10代座席次14番を受け持つことになる。かねてよりアデールやジュリエット以外の複数の女性と恋愛関係にあったが、画家のオーギュスト・ビヤールの妻レオニー・ビヤールと姦通している現場を警察に押さえられてしまう。彼を可愛がっていたルイ・フィリップはビヤールにヴェルサイユ宮殿の壁画を描く仕事を与えることでスキャンダルの帳消しを図った。ユゴーsはレオニーを経済的に支援しなければならなかった以後、2人の恋愛関係は長く続くことになり、ジュリエットを苦しめることになる。1843年から1852年までの約10年間、作品を1冊も出版していない。これには戯曲「城主」の失敗とそれにともなうロマン派文学の凋落、議員活動の忙しさもあったと思われるが、もうひとつ大きな理由があった。それが、のちにフランス文学史上屈指の名作といわれるようになる「レ・ミゼラブル」(最初の題名はレ・ミェ―ル)の執筆である。執筆は1845年11月17日から始まった。1845年4月13日、オルレアン公爵夫人エレーヌの後ろ盾があったおかげで、ルイ・フィリップから子爵の位を授けられた。貴族になったことで政治活動にも身を置くようになったが、1848年2月の二月革命で、ルイ・フィリップはイギリスへ亡命し、フランスは第二共和政へ移行することとなる。政治家としてのユーゴーは1830年代より続けていた死刑廃止運動や、教育改革、社会福祉などを主張した。1848年には共和派となり、1848年12月10日の大統領選挙ではルイ・ナポレオンを支持し、強力な論陣を張って彼を支援した。しかしナポレオンは次第に独裁化し、連続再選禁止条項の改正を国民議会に提出するなどして、このころにはユーゴーはナポレオンの強力な反対者となっていた。ナポレオンは1851年12月2日にクーデターを起こして独裁体制を樹立し、反対派への弾圧を開始した。ユーゴーも弾圧対象となり、12月11日にベルギーへと亡命を余儀なくされる。以後19年に及ぶ亡命生活の始まりであった。1852年8月にはブリュッセルでナポレオン3世を弾劾した「小ナポレオン」を出版した。これは10年ぶりの新作であり、以降ユーゴーは再び精力的に執筆を再開する。「小ナポレオン」は熱狂を引き起こしたが、フランスからベルギーへの圧力を恐れたユーゴーは出版の前日に英仏海峡に浮かぶイギリス領チャネル諸島のジャージー島へと移住した。ここでは1853年に、やはりナポレオン弾劾の書である「懲罰詩集」を発表している。1855年には隣の島であるガーンジー島に移住し、1870年にフランスに帰還するまでの間15年間ここで過ごした。ガーンジー在住中には、1856年に「静観詩集」、1859年には「諸世紀の伝説」の第1部、そして1862年には中断していた「レ・ミゼラブル」が完成してベルギーより出版され、大反響を巻き起こした。1870年に勃発した普仏戦争はフランスの大敗北に終わり、セダンの戦いでプロイセン王国の捕虜となったナポレオン3世は失脚した。これによってユーゴーは帰国を決意し、19年ぶりに祖国の土を踏むこととなった。フランスでは英雄として迎えられ、その後も1877年には「諸世紀の伝説」の第2部を発表するなど活発な活動を続けた。1885年5月22日、パリにて死去。享年83。国葬でもって葬られ、文豪としてパンテオンへと埋葬された。

第1章 「レ・ミゼラブルとはどんな小説か」

小説のあらすじを略記する。
[第1部「ファンチーヌ」] 1815年10月のある日、76歳のディーニュのミリエル司教の司教館を、46歳のひとりの男が訪れる。男の名はジャン・ヴァルジャン。貧困に耐え切れず、たった1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19年も服役していた。行く先々で冷遇された彼を、司教は暖かく迎え入れる。しかし、その夜、大切にしていた銀の食器をヴァルジャンに盗まれてしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えたもの」だと告げて彼を放免させたうえに、2本の銀の燭台をも彼に差し出す。それまで人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は司教の信念に打ち砕かれる。迷いあぐねているうちに、サヴォワの少年プティ・ジェルヴェの持っていた銀貨40スーを結果的に奪ってしまったことを司教に懺悔し、正直な人間として生きていくことを誓う。 1819年、ヴァルジャンはモントルイユ=シュル=メールで「マドレーヌ」と名乗り、黒いガラス玉および模造宝石の産業を興して成功をおさめていた。さらに、その善良な人柄と言動が人々に高く評価され、この街の市長になっていた。彼の営む工場では、1年ほど前からひとりの女性が働いていた。彼女の名前はファンティーヌ。パリから故郷のこの街に戻った彼女は、3歳になる娘をモンフェルメイユのテナルディエ夫妻に預け、女工として働いていた。しかし、それから4年後の1823年1月、売春婦に身を落としたファンティーヌは、あるいざこざがきっかけでヴァルジャンに救われる。病に倒れた彼女の窮状を知った彼は、彼女の娘コゼットを連れて帰ることを約束する。実は、テナルディエは「コゼットの養育費」と称し、様々な理由をつけてはファンティーヌから金をせびっていた。それが今では100フランの借金となって、彼女の肩に重くのしかかっていた。だが、モンフェルメイユへ行こうとした矢先、ヴァルジャンは、自分と間違えられて逮捕された男シャンマティユーのことを私服警官ジャヴェールから聞かされる。葛藤の末、シャンマティユーを救うことを優先し、自身の正体を世間に公表する。結果、プティ・ジェルヴェから金40スーを盗んだ罪でジャヴェールに逮捕される。
[第2部「コゼット」] 終身徒刑(=終身刑)の判決を受けて監獄へ向かう途中、軍艦オリオン号から落ちそうになった水兵を助け、海に転落。通算5度目となる脱獄を図る。 そして、1823年のクリスマス・イヴの夜。今は亡きファンティーヌとの約束を果たすためモンフェルメイユにやって来たヴァルジャンは、村はずれの泉でコゼットに出会う。当時、コゼットは8歳であったにも拘らず、テナルディエ夫妻の営む宿屋で女中としてただ働かさせられている上夫妻から虐待され、娘たちからも軽蔑されていた。ヴァルジャンは静かな怒りをおぼえ、テナルディエの要求どおり1500フランを払い、クリスマスの日にコゼットを奪還する。道中、後を追ってきたテナルディエを牽制したヴァルジャンは、コゼットを連れてそのままパリへ逃亡する。パリに赴任していたジャヴェールら警察の追っ手をかいくぐり、フォーシュルヴァン爺さんの協力を得たふたりは、ル・プティ・ピクピュス修道院で暮らし始める。母のことをあまり覚えていないコゼットは、ヴァルジャンを父として、また友達として心の底から慕い、愛し続ける。ヴァルジャン自身もコゼットを娘として、あらゆるたぐいの愛情を捧げる絶対的な存在として、彼女にまごころからの愛を注ぎ続ける。
[第3部「マリエス」] フォーシュルヴァン爺さんの没後、パリのプリュメ通りにある邸宅に落ち着いたヴァルジャンとコゼットは、よくリュクサンブール公園に散歩に来ていた。そんなふたりの姿をひとりの若者が見ていた。彼の名はマリユス・ポンメルシー。共和派の秘密結社ABC(ア・ベ・セー)の友に所属する貧乏な弁護士である。ブルジョワ出身の彼は幼い頃に母を亡くし、母方の祖父に育てられたが、17歳のとき、ナポレオン1世のもとで働いていた父の死がきっかけでボナパルティズムに傾倒し、王政復古賛成派の祖父と対立。家出していた。マリユスは美しく成長したコゼットに一目惚れし、「ユルシュール」と勝手に名づけ、何も考えられないほど彼女に恋焦がれてしまう。
[第4部「ブリュメール通りの牧歌とサン・ド二通りの叙事詩」] テナルディエの長女エポニーヌの助けを得て、マリユスは「ユルシュール」の住まいを見つけ、同じころ彼に惚れていた「ユルシュール」ことコゼットに、ようやく出逢うことができた。この出逢い以降、ふたりは互いを深く愛し合うようになる。だが、1832年6月3日、コゼットはヴァルジャンから、1週間後にイギリスへ渡ることを聞かされ、それをマリユスに話してしまう。ふたりの恋路は突然の別れという最大の試練に塞がれてしまった。 コゼットと、彼女に絶対的な愛を捧げるジャン・ヴァルジャンとマリユス――この3人を中心とした運命の渦は、ジャヴェール、テナルディエ一家、マリユスの家族や親しい人々、犯罪者集団パトロン=ミネット、そしてABCの友のメンバーまで巻き込んで、「悲惨な人々」(レ・ミゼラブル)の織りなす物語をあちこちに残していく。
[第5部「ジャン・バルジャン」] 大きくなった運命の渦は、七月革命の影響で混沌のなかにあるパリを駆けまわり、やがて1832年6月に勃発する六月暴動へと向かってゆくことになる。これは、ひとりの徒刑囚が偉大なる聖人として生涯を終えるまでの物語であり、その底を流れているのは、永遠に変わることのない真実の「愛」である。

レ・ミゼラブル(貧しい人びと・惨めな人たち)は「クロード・グー」以来28年ぶりに出した6冊目の小説である。この小説は空前のベストセラーとなり、今日でもなお読まれている本のうち、聖書についで第2位だそうだ。ただ長大かつ複雑極まりない小説であり、一気に読み通せる小説ではないという。ちくま文庫版の西永良成氏の訳本では500頁前後の文庫本で5冊の分量である。また登場人物が100名以上(ロシアの長編小説も登場人物が多く、相互関係を忘れそうになるので。私はいつも人物リストとその解説を手元に置いて読むのが常であった)を超え、小説の内容が多彩になる反面ストーリの展開が複雑である。また小説の中にユゴーの余談・蘊蓄が挿入されており、その「哲学的な部分」で読者は読む勢いをそがれてしまう。レ・ミゼラブルは5部からなり、各々の部の内容はうえのあらすじに書いたように、次の区分となる。第1部「ファンチーヌ」、第2部「コゼット」、第3部「マリエス」、第4部「ブリュメール通りの牧歌とサン・ド二通りの叙事詩」、第5部「ジャン・バルジャン」である。この小説には何度も偶然の一致が重なるメロドラマ(演劇的)手法が駆使されている。ユゴーは「エルニナ」など多くの戯曲を書いてきた劇作家であったが、1843年の「城主」の失敗に懲りて戯作はしないと誓ったことの埋め合わせがこの小説であった。19世紀の小説技法に一つでもあった演劇化は、小説をハッとするような意外性で展開するテクニックであった。また悪事の権化のようなテナルディエは典型的な悪漢を早変わりで演じている。いやがうえにも劇的なあざとい山場をいくつも出してくるユゴーの手法はエンターテイナーで、観客(読者)の趣向好みを満足させて小説を面白くしている。また常識は元より、フローベル以降の近代小説では考えられないほどの長セリフこの小説の特徴である。小説の演劇性とも関わるユゴーの目立った特徴は、誇大な比喩によってかなり時代がかったものになっている。使用される言語の多様性にも特徴がある。物語体、著者が介入する論説体、詩・歌謡体、ラテン語・スペイン語、隠語まで出てくる。これが小説を豊かなに彩り、広がりを持たせている。レ・ミゼラブルという小説の最大の特徴をなすのが、「哲学的な部分」と呼ぶ考察・論説部分である。ユゴー自身の言葉として、小説のストーリーとは関係なく挿入されてくる。例えば聖教者ミリエルの様々な高徳を示すエピソード、哲学、歴史、宗教が長々と述べられる。ワーテルロー会戦のこと、修道院制度、パリの浮浪児の生態と歴史、王政復古からルイ?フィリップの7月王政の歴史、下層階級の隠語の由来、パリ下水道の歴史、1832年の6月革命の歴史などである。この部分がなければこの小説に固有の力が失われるであろう。すなわち小説のストーリーよりもテーマの統一性を優先することが、この小説に深みを与える。というのもこの「哲学的な部分」は最初の執筆された時にはなかった。12年後に再執筆された時に加筆されたものである。レミゼラブルが執筆され始めたのは1845年11月で、この時の題名は「レ・ミゼール」であった。1843年まで執筆されたが、「二月革命」、「六月騒動」の影響で一時中断した。1860年に執筆を再開し1861年6月に一応の完成をみた。その時小説の分量は2倍に膨れ上がり、主人公の名前もジャン・ヴァルジャンに変え、題名もレ・ミゼラブルに変えた。そして1962年4月から刊行された。その時ユゴーは60才であった。この小説の中断と再開の間に何があったのかを明らかにすることが、本書の目的であると筆者は言う。ここでフランス大革命とナポレオンについて時代と意義について振り返っておこう。1789年のフランス大革命は欧州を驚愕させた大事件で、1917年のレーニンのロシア革命と同様にフランスのみならずヨーロッパの歴史を大きく変えた。自由・平等・博愛をスローガンとして「人権宣言」を行った革命は今でも人類共通の普遍的価値観となった。このような革命に対して旧支配層からの抵抗と反動もすさまじかった。当時のフランスでは革命に共鳴するもとを「共和派」といい、旧体制の王政に戻ろうとするものを「王党派」と呼んだ。「波乱万丈」と言われるフランス19世紀は、この共和党と王党派との対立抗争の歴史であったと言える。自国に革命が波及することを恐れたプロシア・オーストリア・オランダなどの王政がフランス貴族と結託してフランスの国政に干渉した。革命派による1793−94年の「恐怖政治」には4万人の死者を出すほど急進派と旧体制派の間の血の抗争は激しかった。このような統制不可能な混乱を武力によって終結させ、偉大なフランスにむかって海外遠征に明け暮れたのがナポレオンであった。革命軍の司令官として功績を上げたかれは1799年11月9日「ブリュメール18日のクーデター」によって、第1頭領になり絶大な権力を持ち、1802年には終身頭領に。1804年には皇帝となった。ユゴーが生まれたのは1802年のことであった。こうして偉大なフランスの第1帝政が始まったが、王政各国を次々に征服しヨーロッパの盟主となった。ところがが1812年のモスクワ遠征に失敗し弱体化して、1814年ライプツィヒで連合軍に敗退すると、ナポレオンは退位させられた。代わってルイ18世による第1時王政復古体制ができナポレオンはエルバ島へ追放された。戦後体制を議論するウィーン会議がもたついている隙をねっらって、1815年3月ナポレオンはフランスに帰還し「100日天下」の権力を握ったが、同年6月オランダのワーテルロー会戦で反フランス連合軍に再度完敗しセント・ヘレナには配流された。再びルイ18世が復帰し第2次王政復古の時代となった。ルイ18世の後を継いだシャルル10世の反動的政策に対して1830年議会を解散し、選挙法を変えたため、パリの民衆が蜂起し「七月革命」が起き、シャルル10世はロンドンに亡命した。その後の実権を握ったのは共和派ではなく、振興ブルジョワジーがルイ・フィリップの「七月王政」を実現した。この王政は1848年までの18年間続いたが、民衆や共和党の蜂起・暴動が各地で起き、1832年「六月蜂起」、ルイ・フィリップが追放された1848年の「二月革命」、「六月暴動」が頻発した。このフランスの歴史の目まぐるしい交代劇については柴田三千雄著 「フランス史10講」(岩波新書 2006年5月)に詳しい。小説「レ・ミゼラブル」の時代設定は、ジャン・ヴァルジャンがトゥーロンの徒刑場から釈放される1815年から、死亡する2833年6月までである。ナポレオンの完全な敗北からルイ・フィリップの「七月王政」の当初のパリの民衆による「六月蜂起」までの時代である。この小説は全体小説であると同時に「歴史・政治小説」の側面も強く持つのである。文学的なロマン派という観点でユゴー作品を見るだけでなく、「レ・ミゼラブル」もその政治的な側面、ユゴーとナポレオン1世と3世との関係が色濃くにじみ出ていることを見落としてはならない。

第2章 「二人のナポレオンとレ・ミゼラブル」

ヘーゲルが「世界精神」の化身を馬上のナポレオンに見たことは有名であるが、日本の「義経伝説」にも似たようなナポレオン伝説は今では想像もつかないほどフランス文学に影響を与えた。スタンダールの「赤と黒」、ファブリス・デル・ドンゴの「パルムの僧院」、バルザックの「人間喜劇」そしてロシア文学のトルストイの「戦争と平和」、ドストエフスキーの「罪と罰」などはナポレオンのがいなければ存在しなかった文学作品であり、ユゴーの場合もそれ以上にナポレオン伝説の影響が大きかった。レミゼラブルの冒頭は「1815年、ミリエル氏はディーニュの司教だった」で始まるが、1815年とはナポレオンのエルバ島脱出、百日天下、ワーテルローの敗戦、第2次王政復古の年だと誰しもが了解している。レ・ミザラブルの中でなナポレオン(ボナパルト)の名が出てくるのは111カ所もある。しかしナポレオン3世の名は、ユゴーがこの小説を再執筆している時期においても一度も言及されていない。ナポレオン・ボナパルトの名はこの小説に遍在していると言える。この小説の主人公ジャン・バルジャンの生年は、内容から換算して1769年でこれはナポレオンがコルシカ島で生まれた年と同じである。つまり、ナポレオンとジャン・バルジャンは同じ年に設定されているのである。これは意図されたものである。ジャン・バルジャンがパンを盗んで逮捕されるのが1795年で26才であったが、その時ナポレオンは革命軍の司令官として王党派の反乱を平定し、内国軍最高司令官にまでなった。ジャン・バルジャンとナポレオンは天と地の境遇の開きを持って設定された。ナポレオンを光とすると、ジャン・バルジャンは影となる。そこにユゴー(1802−1885年)の出自が重なってくる。ユゴーはかってスペイン領であったコンテ地方のナポレオン軍の将軍を父として生まれた。父がナポレオン派とすると母は王党派であったために、夫婦仲は悪く両親は同居することはほとんどなかった。ユゴーは母親に育てられたため青年になるまでの時期はその影響下でフランス宮廷に出入りができたが、ユゴーがボナパルト主義の父を理解したのは、1821年の母の死以降であった。小説の中のマリエスに、ユゴーと同じ要素を見出すことができる。ユリウスは王党派の祖父(ジルノルマン氏)に育てられたため、父親が亡くなったのを機会にしてボナパルト主義者になることで共通している。マリウスとコゼットの結婚の顛末は、ユゴーとアデルの結婚の想いでからなっている。つまりレ・ミゼラブルには自伝的要素が少なからず取り入れられている。マリウスは若きユゴーの分身と見なしてもいい。ユゴーの生い立ちと成長については、すでに書いた「ヴィクトル・ユゴーの生涯」に述べた。ユゴーは生涯5冊ほどの詩集を上梓したが、最初の詩集は13才から始まり、15歳にアカデミー・フランセーズのコンクールに入選しデビューし20歳の時「オードと雑詠集」を刊行した。国王ルイ18世に気に入られ、年金を貰えるお抱え詩人となった。1827年(25才)新しい文学運動であるロマン派の会を主宰した。1829年(27才)で史劇「マリオン・ド・ロルム」がルイ13世をグロテスクに描いたという理由で上演禁止となった。彼は年金を返上して王党派と決別した。1830年(28才)劇作「エルニナ」を発表し、一躍「ロマン派の総師」として確固たる地位を築いた。1828年父の死を契機にナポレオン賛美の詩を書くようになった。彼のナポレオン賛歌の熱は1840年12月、ナポレオンの遺骸がフランスに戻されたときに最高潮に高まった。さらに1847年、長く国外に追放されていたナポレオンの末弟ジェロムが祖国帰国を願う嘆願書を貴族院に出した時、ユゴーは「ナポレオン一家」という応援演説を行いこれを支持したばかりか、ナポレオンの甥ルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)も帰国できるよう取り計らった。少なくとも1830年代から40年代中頃までユゴーは全面的ななアポレオン崇拝者だったが、レ・ミゼラブルの中ではナポレオンに対してむしろ否定的な評価をするようになった。第2部第1篇では英雄も野原のアブラムシも同じだというのである。第3部でボナパルト主義者に転向したユリウスが共和主義革命派ABCの会でナポレオン賛歌の演説をぶつと、皆から冷ややかな目で見られ孤立し、ユリウスはナポレオンから離れていった。レ・ミゼラブルではユゴーの熱狂的なナポレオン崇拝はすっかり姿を消し、統治者の偉大さより善良さの方に傾くようになった。

19世紀フランスには詩人・作家にして政治家という人物が少なからず存在し、ユゴーもそれを狙っていたようだ。彼が政治志したのは1835年頃からである。1830年の「七月王政」、32年の「六月蜂起」、34年の共和派蜂起の際にもユゴーは目立った行動はしていない。当時のフランスの選挙法では、大土地所有主や金融資本家ではなかったユゴーは「法定国民」ではなく、被選挙権もない一介の市民に過ぎなかった。そこでユゴーにとってはアカデミー・フランセーズ会員になることだけが、「議会的君主制」の国王によって貴族院議員に任命される唯一の資格だった。そこにユゴーにとって幸運がドイツから舞い込んだ。国王ルイ・フィリップはオルレアン公の結婚披露宴にユゴーを招待し、そこで公女エレーヌの目にとまったことで、1841年のアカデミー・フランソワーズ会員に推挙された。45年にルイ・フィリップの勅命によって子爵の爵位を得て、貴族院議員に任命された。ユゴーが議員になって3年目、1848年2月14日普通選挙を求める労働者の蜂起「二月革命」がおこり、18年間続いた七月王政のギゾー内閣が崩壊し、第2共和政の時代になった。こうしてユゴーは執筆中だった「レ・ミゼーレ」を中断し、政争の渦中に巻き込まれた。ラマルティーヌを首班とする協和国臨時政府が成立した。ユゴーは6月の国民議会補欠選挙でルイ・ナポレオンと共に当選した。「普通選挙法」の盲点から権力の座に這いあがったのは共和党ではなくルイ・ナポレオンであった。もしこの普通選挙がなかったなら第2帝政などは考えられなかっただろう。(これは普通選挙制度が悪いという問題ではなく、数の原則で多数派が政権を取る議会制民主主義の盲点を突いたことによる。ナチも選挙で政権を合法的に取ったのだから) 多数派議員になったのは都会の労働者に基盤を置く共和派ではなく、有権者の3/4が居住する農村の名望家が当選してきたのであった。こうして保守派の議会によって政権を与えられた政府がったことはというと、「金融資本の利害」を優先することであった。露骨に経済政策を優先させた政府の政策は労働者の不満と失望、権力への憎悪を掻き立て、6月23日の「六月暴動」となった。この緊急事態を共和派素人政治家集団にはとても対処できないとみた憲法制定国民会議の保守議員は、カヴェニャック将軍に全権を委ね、この非常な軍人は戒厳令を敷いて3000人を殺害し2万5000人を逮捕して民衆蜂起を弾圧した。ユゴーもこの時の恐怖をレミゼラブル第5部第1篇に記した。保守勢力側はこの頼もしい軍人政治家によって国内秩序を保ち、彼を共和国大統領にしようと考えた。11月4日に第2共和国憲法が議決され、アメリカ型の大統領制に近い二元的議院制と普通選挙制度となった。この共和制憲法の一番弱い点を突いてのし上がったのが、ルイ・ナポレオン(1808−1873年)であった。ほぼユゴーと同じ世代の人間である。ルイは自らのナポレオン人気に自信をもち、混乱する社会の英雄待望論を切り札にした。権謀術数に長けたポピュリストであり、自分を支持するようようにユゴーを訪問して「自由主義者で民主主義者」と売り込んだ。ユゴーはこれにうっかり乗せられ大統領候補支持に動いた。大統領選挙でルイ・ナポレオンは72%の支持を得て圧勝した。ところが12月に大統領に就任するや、共和主義者を排除し王党派連合政権を発足させた。このナポレオンの策謀に憤慨したユゴーは翌年49年5月に行われた立法議会選挙に立ち当選し、以降はだんだんと左傾化していった。ルイ・ナポレオンが推進した集会結社の自由の禁止、ストライキ権の廃止、出版印紙税による言論の自由の制限、宗教教育の復活、大統領再選禁止の憲法の改悪案(終身頭領制へ)といった反動的政策にユゴーは悉く反対した。51年12月2日の朝、ルイ・ナポレオンはクーデターを敢行し国民議会を解散し戒厳令を命じた。ところがパリの市民や兵士の反応は何も起こらず、ユゴーらは「抵抗委員会」を作ってバリケードに立てこもった。共和派の議員らは命からがら国外へ逃亡した。「この下らない男」ルイ・ナポレオンはそのクーデターの是非を国民投票に問い、投票率83%、賛成92%という圧倒的多数を得てクーデターを合法化した。翌年1852年12月2日ナポレオン3世と名乗って、18年にわたる第2帝政を開始した。ユゴーらは追放令を受け、これ以降18年間フランスの地を踏むことはできなかった。この天が与えた公的業務が無くなった休息の時間にユゴーは「レ・ミゼール」の見直しと再執筆、そして共和主義という確固たる小説のテーマを設立した。「レ・ミゼラブル」の語り手が、一貫した共和主義者となり、大革命後のフランスの政体の交代劇をたどりなおしたり、1832年の「六月蜂起」を取り上げ、共和政の理想を歌い上げることは、ルイ・ナポレオンとの対決姿勢なしには考えられなかった。

第3章 「再執筆とナポレオンとの決別」

亡命はユゴーにとって決定的な転機をもたらした。亡命期(1851−1870年)におけるユゴーの驚くべき変化、旺盛な創作力に注目される。作品執筆に大半の時間を割けるようになって、「懲罰詩集」、「静観詩集」、「諸世紀の伝説」、「レ・モゼラブル」、「シェイクピア」など後世に残る作品を次々と生み出した。この時期をユゴーの全盛期と呼んで差し支えない。クーデターの4日後(1851年12月6日)ユゴーはベルギーのブリュッセルに着いて、クーデターに関する「ある犯罪の物語」を書いた。ロンドンの出版社がためらったため、刊行されたのは1877年のことであった。「ある犯罪の物語」は簡単なパンフレットの「小ナポレオン」として8月に出版された。フランス政府の圧迫を受けるベルギー政府の軋轢を避けるため、ドーバー海峡の英領ジャージー島に移住した。冊子「小ナポレオン」には、クーデターの違憲性、弾圧、国民選挙の不正、ルイ・ナポレオンの人格を暴いたものであった。ユーゴーはルイを「ナポレオンの名誉を無にした男」として糾弾した。「懲罰詩集」は眠りから覚めないフランス市民を呼び起こすために書かれたが、ルイ・ナポレオンに対する呪詛に満ちたアジ演説に満ちていた。「贖罪」という長詩には、脱ナポレオンというユゴーの内面の革命が試みられている。ナポレオン崇拝が完全な幻滅、辛辣な嘲笑、呪詛に変わった。ナポレオンが犯した最大の罪とは「ブリュメール18日」(ナポレオンがクーデターを起こして独裁制を敷いた1799年111月9日のことである)、つまりナポレオンの原罪はクーデターにある。こうしてユゴーは二人のナポレオンが犯した罪(クーデター)を同一視し、同列において嘲笑したのである。それはナポレオンを崇拝したユゴー自身の罪の贖罪でもあった。この内面の革命がやっとレミゼラブル再執筆への展望を開くことになった。「懲罰詩集」の終わりに「結語」という有名な詩がある。これはポレオン3世の帝政にあくまで抵抗する決意を述べたところである。最後のひとりになっても、戦うというすさまじい決意である。この姿勢は1870年のナポレオン3世の退位まで続いた。歴史家のモーリス・アギュロンは「ユゴーとナポレオン3世の対決、それは共和国と帝国との対決である」といった。こうしてユゴーは19世紀中葉以降のヨーロッパの自由と良心の象徴的存在になって、サルトルはユゴーのことを「半ば詩人、半ばアナーキスト、文句なしにこの世紀の王者だった驚くべき男」と評した。ユゴーは1854年にレ・ミゼールをレ・ミゼラブルに改題したあと、1860年4月に12年ぶりに旧稿の再執筆にとりかかった。そして1861年6月に一応の完成を見て、1862年5月見直しをすべて終了した。この間全面的に見直しを繰り返し、分量は旧稿の2倍となり主人公の名前もジャン・トレジャンからジャン・ヴァルジャンに変わった。1861年の5月5日(ナポレオンの命日)、ユゴーはベルギーのワーテルローに出向いていた。しかもワーテルローではユゴーは連合国軍の司令官ウエリントンの陣地に立って、ナポレオンを見ていたのである。ここでナポレオン崇拝に対する自らの内面の革命、脱ナポレオンのプロセスを完了した。そしてユゴーはいずれ帝政は共和制に代わるという信念を持っていた。1870年ナポレオン3世は晋仏戦争に敗れ退位し(73年にルイ・ナポレオンは死亡)、1871年第3共和政の時代となった。85年にユゴーが亡くなった時は国葬によってパンテオン(偉人廟)に祀られた。

第4章 「ジャン・ヴァルジャンとはどういう人物か」

ユゴーは小説「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・ヴァルジャンに託して表現したかったことは何だろうか。作者の生い立ちが重ねられたマリウスと違って、ジャン・ヴァルジャンは作者の想像力によって徐々に形成された人物である。少なくとも作者ユゴーの実像とは縁もゆかりもない誠実な男として描かれている。ジャン・ヴァルジャンは無名で無一文の徒刑囚であり、何から何まで作者とは正反対の人物であった。なぜユゴーがナポレオンと入れ替わる形で、このような自分とは正反対の人物を造形し、彼に何を仮託しようとしたのか、あらすじをたどりながら考えてゆこう。1769年にブリーのファヴロール の貧しい農家の子供として生まれた。父親はジャン・ヴァルジャン、母親はジャンヌ・マティユー という。両親を幼い時に亡くし、年の離れた姉に育てられるが、25歳の時に姉の夫が死去。1795年の終わり頃、姉の7人の子供達のために1本のパンを盗んで逮捕されてしまう。1796年にトゥーロンの徒刑場へ送られるが4度も脱獄を図ったため、19年間もの歳月を監獄で過ごすことになる。1815年10月に出獄した時、すでに46歳となったヴァルジャンは長い監獄生活のなかで人間社会に対する憎悪の塊となってしまっていたが、ミリエル司教の情愛により改心する。悩み、苦しみ、時には哀しみと絶望を味わいながらも、常にミリエル司教の説く「正しい人」であろうと努め、日々を過ごす。1815年の12月、モントルイュ=スュール=メールにやって来た彼は、「マドレーヌ氏と名乗る。産業で成功し、人望を集めた結果、1819年に国王ルイ18世の命で市長の座に就く。フォーシュルヴァン爺さんが、馬車の下敷きとなっているのを馬車を持ち上げることにより救助し、ジャヴェール警部にその正体がヴァルジャンではないかと疑われるようになる。1823年の1月にファンティーヌを救い、コゼットを連れ帰ることを約束するがその約束が果たされるまでに1年近くを要することとなる。悩んだ末身元を自分でばらし、ジャヴェール警部により逮捕され、無期徒刑囚となるが同年11月17日に脱獄、モンフェルメイユに向かう。1823年のクリスマスにテナルディエ夫妻からコゼットを奪還した後、パリへ向かう。フォーシュルヴァン爺さんに匿われ、プティ・ピクピュス修道院で庭師として暮らす。以降、フォーシュルヴァン爺さんの弟の名を借り、「ユルティーム・フォーシュルヴァン」として生きていくこととなる。1829年10月、60歳になったヴァルジャンは、フォーシュルヴァン爺さんの死をきっかけにプティ・ピクピュス修道院を出、コゼットとともにプリュメ通りの庭園つきの邸宅に引っ越す。母屋にコゼットと老女中トゥーサン を住まわせ、自身は小さな門番小屋で質素な生活を送る。恋愛を知らないヴァルジャンにとってコゼットとは、娘・母・姉妹……と女性が持つすべての立場を兼ね備えた絶対的な存在だったが、コゼットはマリユスと恋をして、更には自らの素性を知り軽蔑するようになったマリユスによって、引き離されてしまうことになる。コゼットを保護してからは、常に警察に怯えながら暮らしていた。ゴルボー屋敷、プティ・ピクピュス修道院での生活を経て、プリュメ通りの邸宅以外にも2軒の家を借り、国民兵としてパリの市門を守っていた。合計3軒の邸宅を借りた理由は、ゴルボー屋敷に住んでいることがジャヴェール警部にばれてしまい、コゼットを連れて逃亡せざるをえなかった経験からくるものであった。国民兵として市門を守ったのは、市民としての使命を果たせるという喜びと、国民兵なら警察も怪しまないという利点があったからだった。1832年6月4日、彼は謎の人物が投げ込んだ一通の手紙に驚愕し、プリュメ通りの邸宅を引き払ってロマルメ通り(現在のサント・クロワ・デュ・ブルヌドリ通りとブラン・マントー通り付近)7番地のアパルトマンへ引っ越してしまう。コゼットの心を奪ったマリユスに嫉妬した彼は悩み苦しんだ挙げ句、コゼットの恋人を救うため、このアパルトメンからル・シャンヴルリー通りのバリケードに向かう。国民兵の軍服を脱いで妻子もちの男を逃がした彼は、銃は持っていても決して敵を殺さない"奇妙な存在"として注目される。さらに彼は、瀕死の重傷を負ったマリユスを背負って下水道を通り、バリケードから脱出する。コゼットとマリユスの結婚式の翌日、マリユスに自身の正体を明らかにする。それ以降、ロマルメ通りのアパルトメンに独りで住み、自分から距離を置いたことと、マリユスが彼を敬遠したこともあり、コゼットとは疎遠になっていく。徐々に肉体的にも精神的にも衰弱していく。1833年の晩夏の夜。遺言を残し、コゼットと二度と逢えないことを嘆いていたちょうどその時、真実を知ったマリユスがコゼットを連れて彼を迎えに来る。彼はふたりに様々なことを話す。自分が託した60万フランを使って男爵にふさわしい生活をすること、テナルディエ一家をゆるすこと、銀の燭台をコゼットに託すこと、コゼットの母の名前はファンティーヌであること、自分の幸せと引き換えにコゼットを幸せにしたファンティーヌに心から感謝すること……それだけ言い残すと、ミリエル司教、ポンメルシー夫妻に看取られながら、幸福な気持ちに浸りながら天国へ旅立った。64歳で死去。彼の亡骸はペール・ラシェーズ墓地の大きなイチイの樹の下に埋葬された。墓石には何も刻まれていない。そのかわりに、木炭で4行の詩句が書かれている。「彼ここに永眠す。数奇な運命にもかかわらず、彼は生きた。天使を失うや、彼はみまかった。死はひとりでに訪れた。さながら昼が去り、夜が来るように」。ジャン・ヴァルジャンは意図的に何度もイエス・キリストになぞらえ、あたかも殉教者のように描かれている。最後には自らの良心=神に従って恥じない清らかで崇高な人生だったと、まぎれもなく聖者として描かれた。最終的には採用されなかった「序文」の「哲学 ある本の始まり」に見るように、ユゴーは最初から宗教的な意味を持ってこの小説を書こうとしたのだ。この小説が司教ミリエル氏の話に始まり、彼が与えた燭台をたえず持ち歩き、最後はその燭台に照らされて永眠するという筋立てになっているのはこの小説が宗教的な意味を持つからだ。ユゴーはジャン・ヴァルジャンを素朴で誰しもが尊敬できる「19世紀に可能な唯一のキリスト」の肖像として描きたかったのかもしれない。ナポレオンと全く同じ年の、まったく非政治的だが、人間的・倫理的に優れた「義人」ジャン・ヴァルジャンを登場させた必然性がある。「イエス・キリストがナポレオンに勝るのは、特殊相対論でいえば、イエスは光りであり、ナポレオンは物質の速度であるという点である」 19世紀にはナポレオン的な「征服の精神」はもはや不要である。

第5章 「哲学的な部分とユゴーの思想」

最後にこの小説の特徴である「哲学的な部分」について考え、その根底にあるユゴーの思想を見てゆこう。内容としては@貧困または社会主義、A進歩主義思想、B死刑廃止論、C宗教観である。
@ 貧困または社会主義: 貧困そのものは「哲学的な部分」というよりも、登場人物の生活描写に赤裸々に描かれている。象徴的まずしさはマリユスが見たテナルディ一家のあばら家の描写である。食事がとれない事や貧乏のリアルな描写はこの小説の全体にわたってこれでもこれでもかと描かれている。19世紀前半のフランスの都会の庶民の貧しさは、同時代の「江戸末期の農民の貧しさに共通するものがある。この小説特有の貧困の代名詞となる「隠語」は解説が必要だと見たのか、強盗団パトロン・、ミネットの場面で、「隠語論」が挿入される。「隠語とは貧困を表現する言語の事である」といって、ほとんどマニアックな隠語収集にかんする彼の蘊蓄を紹介する。ユゴーは、貧困の問題を根底から考えようとすれば、「貧困の言語」、「徒刑囚になった言語」、「闇の住民たちの言葉」としての隠語を取り上げることが不可欠であり有用であると考えていたようだ。このような詳細な隠語研究を行った小説家は古今東西ユゴーを除いて皆無であり、ここにユゴーの独創性がみられるのである。一例を上げるとパリの盗賊の隠語として、「独房」=カストウス(品行方正)、断頭台で首を切られることを「大薪」と表現し、裁判にかけられることを「束ねられる」などと表現する。ユゴーはグロテスクなものと崇高なものが結び付くとロマン主義の新しい美が生まれると言っている。徒刑囚と聖人が結び付くジャン・ヴァルジャンはそのロマン主義美学の具体的な例だと見られる。レ・ミゼラブルの序文で「この地上に無知と貧困がある限り、本書のような書物も無益ではあるまい」というのである。国の産業革命が生み出す貧困は、この時期の焦眉の社会・政治的な課題であった。1948年マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を書くにもこのような背景があったからである。貧困はフランスだけではなく人類の永遠の問題であり、金融資本主義に隷従する現代社会の地球的現実となっている。ユゴーは資本主義社会の貧困という社会問題をいち早く告発した作家の一人であった。19世紀初期の貧困は、マルクスが定義する「労働者階級」というよりは、ルンペン・プロレタリアート、すなわち社会に不安をを醸す「危険な階級」の貧困である。ユゴーは自分が社会主義者になったのは1828年の頃からだと言い、「死刑囚最後の日」や「クロード・グー」は貧しい労働者を主人公とした物語である。社会主義ということばが使われたのは1833年になってからというので、ユゴーのいう社会主義とは社会問題に関心のある者、すなわち左翼という意味で理解していた。ユゴーの友人には、労働組織論のルイ・ブランがいたし、キリスト教社会主義者ラムネ―やプルードン、「個人主義と社会主義」のピエール・ルル―、空想社会主義者のサン・シモン、フーリエらがいた。ユゴーの社会主義とは、富の生産と分配の問題であり、外部の公共の生産力、内部の個人の幸福という二つのものが結び付くことが理想で、私的所有はフランス革命の成果として認めていた。これをユゴーの社会思想の根本と言えるが、革命による新しい共和国における自由、平等、友愛の未来が輝かしいものとして不動の政治思想を持っていた。ユゴーはレ・ミゼラブルで語っているのは、社会主義の原則と理想だけであって、そこへいたる政治的プロセスには全く言及していない。むしろ彼は物質的社会主義を警戒し、「腹だけの社会主義」は政府や資本家に隷従する道だという。詩人ユゴーの限界があり、経済の問題より政治の問題を優先して考え、ユゴーの社会主義は社会共和主義の理想の中に統合された。
A 進歩主義思想: レ・ミゼラブル第4部第十篇に、1832年6月5日の悲劇的な蜂起の叙述がある。歴史の重大事件となれなかった暴動について取り上げる理由は何だろうか。この共和党の蜂起については共和派将軍「ラマルクの葬列の暴動」ともいわれる。この騒動が起きたのはユゴーが30歳の時で、騒動の噂を聞いてソモンのパサージュに駆け付けて30分ほど立ち会っただけであった。この時はむしろ騒動を冷ややかに見ていた。反政府運動を「暴動」と「蜂起」に分け、暴動は物質的な問題から生まれもっとも忌まわしい蛮行に堕する時があるのに対して、ユゴーは蜂起は精神的な現象であり、もっとも神聖な義務となるのでこれを評価したいという。32年の「六月蜂起」には、その急速な勃発においても悲壮な消滅においても、共和国の理想に殉じようとする高邁さがあったという。だから48年の「六月暴動」の反乱よりも、32年の六月蜂起の方がフランス革命の理念を高めるものとして理想化し、「フィクションのリアリティ」として記述したかったのであろう。この自然発生的な民衆反乱と「ABC友の会」のメンバーの壮烈な戦いの描写は読者に感銘を与えた。「勝利は壮麗であり、敗北は崇高である」といって、ユゴーはもう10年続いている第2帝政に対する民衆の戦いを促すという意味があったのであろう。「共和国万歳」と叫んで死ぬ共和国の理想を、普遍的な人類の進歩の理想と信じるが故の壮烈な敗北を生き生きと描いた。進歩は人間の存在理由であり、人類の歴史は進歩の歴史であるという「進歩史観」を信じれば、6月の蜂起者の挫折も進歩に沿ったものとして正当化され崇高なものになるのである。ユゴーの言う進歩とは彼の社会主義と同様に物質的、地上的なものにとどまらず、精神的、形而上学的なものに関わるという特徴がある。「進歩」こそがこの小説の真の主題であり、彼自身の全思想だと考えた。19世紀当時はコンドルセ「人間精神進歩の史的展望」といった進歩思想が流行していたが、進歩思想に対峙するものが懐疑主義である、この思想の系譜も根が深い。気高い魂を忘れ享楽が道徳と心得て、手取り早く物質的な事(貨幣至上主義経済)だけに気を取られている反知性主義的ないわゆる世界のグローバル化の進展がその代表である。にもかかわらずユゴーの楽観的な「進歩」観には、超時代的な人間性への信頼と期待の原則が貫かれている。
B 死刑廃止論: この小説でミリエル司教が処刑に立ち会う場面で、ギロチンに打ち費がれ立ち直れない司教の姿を描いている。「獣性から義務への前進」の一つの例として死刑廃止の訴えを行う。そいう意味でルイ・フィリップス治世で一度も死刑が執行されなかったことを褒め称えている。ユゴーの政治的立場はいろいろ変化したが、一貫しているのは死刑廃止論であった。刑場に群がり興奮する人間の不思議な感情(「怖いもの見たさの残虐趣味)は実際ユゴーの時代の現実でもあった。死刑問題に最初に取り組んだのは、1829年「死刑囚最後の日」という中編小説を刊行したことであった。序文において死刑賛成論者にむけて死刑の無用性を説いた。ユゴーは議院活動によって本格的に死刑制度の廃止に向かう。1848年「二月革命」の憲法にすべての犯罪に対する死刑廃止を盛り込んだ。「死は神にしか属さない」、「人間の命の不不可侵性」に基づく死刑反対という信念は貫かれた。
C 宗教観: 1864年から1962年の98年間、レ・ミゼラブルは教会の禁書リストに入っていた。ユゴーが自らの宗教観を述べているのは、第2部第7篇プチ・ピクピュス修道院のことを紹介したあとの「余談」である。その初めに「この小説は無限を主人公とする劇である。人間は脇役である」と述べる難解な部分がある。実は「無限」は「進歩」と並んでユゴー思想の二大キーワードである。この「無限」は使われ方からして、超越的な存在、ほぼ神の同義語とみなしうる。「進歩は目的であり、理想は典型である。理想とは何か。神である。理想、絶対、完全、無限。これらは同じ言葉である。」と言っているので無限とは神の属性とみて間違いない。「外部(上)に無限があると同時に、私たちの内部(下)にも無限があるのではないか。上の無限が神であり、下の無限が魂である。祈ることにより下の無限を植えの無限医触れ合わせることができる。すなわち良心=魂、無限の自我、それこそ神なのだといっている。ユゴーは無限=神という信念に基づいて、人間の祈りには深い敬意を払いながら、修道院制度を時代錯誤的な、自由のない非人間的制度だと断じる。同じ観点から修道院制度のみならず教会組織を批判している。「神父を遠ざけることは、神を遠ざけることではない。人間が余りに多すぎる所に、神はもはや充分に存在しない」という。フランス革命によって打倒されたカトリックの勢力は王政復古に合わせて権力と影響力を回復しようとした。1850年「教育の自由」の名のもとに教会が初等教育を独占するファル―法であった。ユゴーはこの反動的法案に猛然と反対した。ユゴーはヴォルテール主義で反教権主義の影響を受け、「個別のいろいろな宗教には反対だが、宗教そのものには賛成する」と断言し「何かを信じ祈る宗教は肯定する」という。ユゴーはいかなる政治権力からも、宗教権威からもあくまで自由な立場を貫き、カトリック教会の反感を買った。これは宗教論としては「理神論とキリスト教の中間」とか「無教会派のキリスト教」、「理神論左派」とか言われるそうだ。


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