北原白秋の詩は、特に唱歌や童謡などでよく聞かれるので知らない人はいないでしょう。短歌にも秀でた句を多く残している。そのジャンルの広さは日本の近代文学において巨大な足跡を残した。私は見たことはないが、岩波書店から「白秋全集」全40巻が刊行されているそうである。だが白秋の全部を読み通した人は少なく、そのジャンル間の作品は互いに深いつながりを持っている。つまり同じ素材を用いながら短歌が詩になり、詩は童謡になり、詩が短歌になるという。共通するイメージの言語化は媒体形式を通じて重なり合っている。これを著者は「心的辞書」と呼び、様々なイメージを言語化して言葉を操る「言葉の魔術師」という。ジャンルの形式、差別性、独自性を十分認めたうえでの言語表現の違いです。白秋は「芸術の円光」の中で次のように述べている。「私は感動の度合いとその形式の差別によって、抒情といわず、長詩、短詩、小曲、小唄、民謡、短歌、短唱、俳句、新古さまざまの形式をもって自由に表現することにしています。一つの形式を固執しません」という。また白秋は「かなとこ、かなしき)」という詩の「添削実例集」を出している.。詞を何度も変えて、推敲、調啄を繰り返すくせがあった。元に戻ることもあったという。詞を鍛え上げる創作者の姿である。時代時代を反映して変化してゆくが、白秋が脳に蓄積したイメージ=言葉の中には生涯変わらなかったものもある。「変わったもの」、「変わらなかったもの」という観点で「言葉の魔術師」を解剖するのが本書の目論見である。下の表に北原白秋の年譜(1885-1943年)を示す。本書で言及されている重要な詩集は太字で記しました。本書はこの年譜をいつも見ながら時系列的に話を進めてゆくので重要になります。著者今野真二氏は初めて読む人なので、著者のプロフィールを見る。1958年神奈川県鎌倉市生まれ。1982年早稲田大学文学部国文科卒、1985年同大学院博士課程後期退学。1986年松蔭女子短期大学講師、助教授、1995年高知大学助教授、1999年清泉女子大学文学部助教授、教授。2002年『仮名表記論攷』で金田一京助博士記念賞受賞。専攻は日本語学である。主な著書は、『消された漱石――明治の日本語の探し方』笠間書院 2008、『大山祇神社連歌の国語学的研究』清文堂出版 2009、『振仮名の歴史』集英社新書 2009、『百年前の日本語――書きことばが揺れた時代』岩波新書 2012、『盗作の言語学 表現のオリジナリティーを考える』集英社新書2015 、『辞書をよむ』平凡社新書2015、『リメイクの日本文学史 リライトの日本文学史』平凡社新書2016などがあります。著者は言う「言語学(日本語学)というのは、目にはみえないけれども共有されているであろうルールみたいなものをみつけていくという面があるわけです。日本語の研究や日本文学の研究をとおして、言語を使って思考するということをおぼえてもらおうとしているわけです。そういう応用力を身につけてほしい。」という。
詩歌について私に発言権があることを証明するつもりもないが、経験の蓄積としてこれまで私が読んだことがある詩集(俳句・和歌を含む)を、日本の詩、西洋の詩、中国の詩(漢詩)別にまとめておこう。監修者も記さず順不同で示す。
1) 日本の詩集:
万葉集(角川文庫)、古今和歌集(岩波文庫)、山家集(岩波文庫)、金槐和歌集(岩波文庫)、奥の細道(岩波文庫)、芭蕉俳句集(岩波文庫)、芭蕉紀行文集(岩波文庫)、蕪村俳句集(岩波文庫)、一茶俳句集(岩波文庫)、一茶「父の終焉日記」、「おらが春」(岩波文庫)、子規句集(岩波文庫)、正岡子規「仰臥漫録」(岩波文庫)、正岡子規「病床六尺」(岩波文庫)、高浜虚子「俳句はかく解しかく味わう」(岩波文庫)、種田山頭火「山頭火句集」(ちくま文庫)、赤彦歌集(岩波文庫)、斎藤茂吉歌集(岩波文庫)、土井晩翠詩抄(岩波文庫)、宮沢賢治詩集(岩波文庫)、中野重治詩集(岩波文庫)、中原中也詩集(岩波文庫)、与謝野晶子歌集(岩波文庫)、伊藤佐千夫歌集(岩波文庫)、高村光太郎詩集(岩波文庫)、石川啄木歌集(岩波文庫)、吉井勇歌集(新潮文庫)、尾崎喜八詩集(新潮文庫)、伊藤静雄詩集(新潮文庫)、伊藤整詩集(新潮文庫)、堀口大学「月下の群れ」(新潮文庫)、井上康「北国」(新潮文庫)、高村光太郎「智恵子抄」(新潮文庫)、高村光太郎詩集(新潮文庫)、萩原朔太郎詩集(新潮文庫)、三好達治詩集(新潮文庫)、西脇順三郎詩集(新潮文庫)、室生犀星詩集(新潮文庫)、村野四朗詩集(新潮文庫)、草野心平詩集(新潮文庫)、会津八一「鹿鳴集」(新潮文庫)、島崎藤村詩集(新潮文庫)、北原白秋詩集(新潮文庫)、上田敏「海潮音」(新潮文庫)、若山牧水歌集(新潮文庫)、立原道造詩集(角川文庫)、高見順「死の淵より」(講談社文庫)、佐藤春夫詩抄〈岩波文庫)、谷川俊太郎詩集(岩波文庫)、谷川俊太郎詩選集1-3(集英社)、宮沢賢治詩集(新潮文庫)、現代詩人全集第9−10〈岩波文庫)
2) 西洋の詩集:
ボードレール詩集(堀口大学、新潮文庫)、ボードレール「悪の華」(堀口大学、新潮文庫)、ポー詩集(安部保、新潮文庫)、ランボー詩集(堀口大学、新潮文庫)、ランボー全詩集(宇佐美斉訳、ちくま文庫)、ランボー「地獄の季節」(小林秀雄、岩波文庫)、ヴェルレーヌ詩集(堀口大学、新潮文庫)、コクトー詩集(堀口大学、新潮文庫)、ヴァレリー詩集(鈴木信一郎、岩波文庫)、ジャム詩集(堀口大学、新潮文庫)、ハイネ詩集(片山敏彦、新潮文庫)、ゲーテ詩集(高橋健二、新潮文庫)、バイロン詩集(安部知二、新潮文庫)、ヘッセ詩集(高橋健二、新潮文庫)、リルケ詩集(富士川英郎、新潮文庫)、アポリネール詩集(堀口大学、新潮文庫)、プーシキン詩集(金子幸彦、岩波文庫)、コウルリジ詩集(斎藤勇、岩波文庫)、シェークスピア詩集(高松雄一、岩波文庫)、ツルゲーネフ詩集(神西清、岩波文庫)、シュトルム詩集(藤原定、角川文庫)、ゲーテ詩集1−4(片山敏彦、岩波文庫)、ローラン詩集(有永弘人、岩波文庫)、マラルメ詩集(鈴木信一郎、岩波文庫)、サンドバーグ「シカゴ詩集」(安藤一郎、岩波文庫)、ワーズワース詩集(田部重治、岩波文庫)、ギリシャ抒情詩選(呉茂一、岩波文庫)、ヘンダーリン詩集(小牧健二、岩波文庫)、ローレンス「愛と死の詩集」(安藤一郎、岩波文庫)、ハイネ新詩集(番匠谷英一、岩波文庫)、ゲオルグ詩集(手塚富雄、岩波文庫)、リルケ「ドッイノの歌」(手塚富雄、岩波文庫)、ヴィヨン全詩集(鈴木信一郎、岩波文庫)、グレイ「墓畔の哀歌」(福原麟太郎、岩波文庫)
3) 中国の詩集:
杜甫詩選(岩波文庫)、唐詩選(上・中・下)(岩波文庫)、中国名詩選(上・中・下)(岩波文庫)、蘇東坡詩選(岩波文庫)、李賀詩選(岩波文庫)、陶淵明全集(上・下)(岩波文庫)、王維詩集(岩波文庫)
年代(日本年代) | 年 齢 | 事 項 |
1885(明18年) | 1 | 1月25日 白秋誕生(現福岡県柳川市) |
1901(明34年) | 16 | 実家焼失 妹ちか死去 |
1904(明37年) | 19 | 親友中嶋鎮夫自殺 早稲田大学高等予科文科入学 若山牧水らと出会う |
1906(明39年) | 21 | 明星に多数の詩を発表 |
1907(明40年) | 22 | 九州旅行 紀行文「五足の靴」連載 |
1908(明41年) | 23 | 新詩社を離れ、「パンの会」を始める |
1909(明42年) | 24 | 「邪宗門」刊行 スバルに詩・短歌を多数発表 雑誌「屋上庭園」創刊、生家破産 |
1910(明43年) | 25 | 隣家の人妻松下俊子に出会う |
1911(明44年) | 26 | 「思い出」刊行 |
1912(明45年) | 27 | 姦通罪で告訴され、市谷未決監に拘留され、示談成立釈放される |
1913(大2年) | 28 | 「桐の花」刊行 三浦三崎に転居、俊子と同棲 「東京景物詩」刊行、巡礼詩社創立 |
1914(大3年) | 29 | 小笠原父島に俊子療養のため移住、東京に戻り俊子と離別 「真珠抄」、「白金之独楽」刊行 |
1915(大4年) | 30 | 阿蘭陀書房創立、雑誌「ARS」創刊 「わすれなぐさ」、「雲母集」刊行 |
1916(大5年) | 31 | 江口章子と結婚、「雪と花火」刊行 紫煙草舎機関誌「煙草の花」創刊 |
1917(大6年) | 32 | 弟鐡雄が出版社アルス創立 萩原朔太郎、室生犀星詩集に序を執筆 |
1918(大7年) | 33 | 鈴木三重吉主宰「赤い鳥」に多くの童謡を発表 |
1919(大8年) | 34 | 小田原伝肇寺に家を新築「みみづくの家」と名付ける 「白秋小唄集」、「トンボの目玉」刊行 |
1920(大9年) | 35 | 「雀の生活」、「白秋詩集T」刊行 章子と離婚 |
1921(大10年) | 36 | 佐藤キクと結婚 「白秋詩集U」、「兎の電報」、「童心」、「雀の卵」、「まざあ・ぐうす」刊行 |
1922(大11年) | 37 | 「斎藤茂吉選集」と「北原白秋選集」を互選で刊行、「日本の笛」、「祭の笛」、「観音の秋」刊行 長男竜太郎誕生、雑誌「詩と音楽」創刊 「羊とむじな」、「白秋民謡」、「白秋童謡」刊行 |
1923(大12年) | 38 | 「水墨集」、「花咲爺さん」刊行 |
1924(大13年) | 39 | 短歌雑誌「日光」創刊 「あしの葉」、「お話・日本の童話」刊行 |
1925(大14年) | 40 | 「季節の窓」、「子供の村」刊行、樺太北海道旅行 |
1926(大15年) | 41 | 「二重虹」、「風景は動く」、「象の子」刊行 詩誌「近代風景」創刊 |
1927(昭2年) | 42 | 「芸術の円光」刊行 |
1928(昭3年) | 43 | 「詩人協会」創立 「フリップ・トリップ」刊行、芸術飛行行う |
1929(昭4年) | 44 | 「緑の触角」、「篁」、「月と胡桃」、「海豹と雲」刊行、「白秋全集」アルス版全18巻刊行開始 |
1930(昭5年) | 45 | 満蒙旅行 |
1931(昭6年) | 46 | 「北原白秋地方民謡集」刊行 |
1932(昭7年) | 47 | 「日本幼児詩集」刊行 「新詩論」、「短歌民族」創刊 |
1933(昭8年) | 48 | 鈴木三重吉と袂を分かつ 「白秋詩抄」、「全貌第T」、「明治大正詩史概観」刊行 |
1934(昭9年) | 49 | 「白秋全集」アルス版全18巻刊行完 「白南風」刊行 台湾旅行 |
1935(昭10年) | 50 | 歌誌「多磨」創刊、「きょろろ鶯」刊行 朝鮮旅行 |
1936(昭11年) | 51 | 「躍進日本の歌」刊行 |
1937(昭12年) | 52 | 「新万葉集」選歌 眼底出血で杏雲堂病院に入院 「雀百首」刊行 |
1938(昭13年) | 53 | 退院するも視力回復せず 添削実例集「かなとこ」刊行 |
1939(昭14年) | 54 | 「雲と時計」、「夢殿」刊行 |
1940(昭15年) | 55 | 「黒檜」、「新頌」刊行 |
1941(昭16年) | 56 | 「白秋詩歌集」全8巻刊行 |
1942(昭17年) | 57 | 再入院 「短歌の書」、「港の旗」、「朝の幼稚園」、「満州地図」、「香ひの狩猟者」刊行 11月2日死去 |
1943(昭18年) | ー | 「水の構図」刊行 |
北原白秋は明治18年1月25日、福岡県山門郡(現在の柳川市沖端町)に生まれた。北原家は九州では有名な海産物問屋で、祖父の時代から酒造業を営み、世間は「油屋」あるいは「古問屋」と呼んだ。柳川語で「油屋のTonka John」(大きな家の坊ちゃん)として育ったという。幼年時代のことは「思い出ー抒情小曲集」という自伝的作品に描かれている。「郷里柳川は水郷である。・・・その水面の随所に、菱の葉、蓮、真菰、河骨・・・の浮草の強烈な更紗の中に微かに淡紫のウオタアヒヤシンス(ホテイアオイ)の花を見出すだろう・・・従妹とその背に背負われた私と、つい見惚れて一緒には陥った」とそのおぼれかけた思い出が語られている。昭和18年白秋の死後に刊行された柳川の写真集と白秋の詩篇である「水の構図」にも水ヒアシンスの写真がある。(布袋葵は今では、湖沼の富栄養化を象徴するものだ) これこそが白秋のほとんど変わることがない「思い出の世界」であろう。昭和14年刊行の短歌集「夢殿」にも、「溝渠ほりわり」と「汲水場」に柳のしだれかかる風景が謳われている。いつも白秋は柳川語(方言)にローマ字を充てている。その(ゴロ)発音に郷愁を抱いたのであろう。「Tonka John」(良家のお坊ちゃん)、「SORI-BATTEN}(しかしながら)、「BANKO」(縁台)などである。白秋の「柳川イメージ」について作家の竹西寛子は「詩人は自らの理性で再認識し、再構成した感覚の表現」と述べている。追憶の柳川という意味ではなく、投げ出され、再認識、再構成された柳川と言う意味である。登場人物の「私」も再構成された回想のフレームとして機能している。だから「思い出」はありのままの「非象徴詩」ではない。「詩的言語」を読むということは、白秋のイメージと読者のイメージとが重なり合う時のみに読み手の持っていたイメージが連鎖的に喚起されてゆくのであり、それが詩を読めたという事であり、詩が分かったということである。白秋は「私の郷里柳川は水郷である。そうして静かな廃市の一つであった」と最初から「初めに喪失があった」といかにも末期象徴派好みの「廃市」であることは、上田敏の「海潮音」の収められたローデンバックの「死都ブリューゲル」からきていることは明白である。こうした引用の連鎖、或はイメージの連鎖を意識することも詩の読み方の一つである。明治34年の沖端の大火による実家の被災、兄弟姉妹の死去、明治42年実家破産などが重なって、故郷の喪失感をにじませている。
2) 詩集「邪宗門」のころ 「あの青き花をたづねて・・・人の世の 旅路に迷う」 「邪宗門」より明治34年の沖端の大火の頃、白秋は17才で雑誌「文庫」に短歌181首を発表し、歌壇で注目された。雑誌「文庫」は「明星」とともに白秋の重要な発表の場であった。「文庫」に発表された詩は後に「白秋詩集T−W」に収められた。白秋は「小さな町が憎くて」柳川を捨て、明治37年に早稲田大学に英文科予科に入った。同級には若山牧水や土岐善麿らがいた。牧水とは下宿先が同じであった。白秋は横瀬夜雨(筑波詩人)らと文庫詩人の中堅をなした。明治39年(21才)に白秋の号を使うようになり、与謝野寛の勧めにより新詩社に参加し、明星に詩を発表した。与謝野晶子、吉井勇、木下杢太郎、石川啄木らと交流し、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫蘭も認められるようになった。この頃白秋は「美辞麗句」の時代と呼ばれる。詩は五・七調に整えられ、読み手に与える影響の強い言葉や漢語・和語が頻用された。「邪宗門」に入る前に、日本の「近代詩」について概観しておこう。明治15年外山正一らにより西洋詩の訳詩が「新体詩抄」に発表された。明治30年島崎藤村の「若菜集」、明治34年の「落梅集」が日本最初の近代詩の誕生となる。島崎藤村は「雅語の不利」を嘆き、日本語の組織が韻律を含まないので詩形の発達が阻害されていると考えた。そして藤村は詩という器から離れて小説に入った。上田敏は明治38年訳詩集「海潮音」を刊行し、フランスの高踏派、象徴派の詩を紹介した。七五七五の24音を一行とする形に工夫した。和歌や俳句は「韻文」とは言うものの実は韻を踏んでいない。日本語を使った文章で、「散文」と「韻文」の違いは五拍七拍を基調とする定型を保つかどうかであった。日本語以外の言語で作られた定型を備えた詩を日本語に翻訳する時、その定型を五拍七拍を基調とする定型で受け止めようとすることは自然であった。翻訳となるとすべての内容を日本語に移さなければならない。そのためには和歌で使われてきた和語語彙のみでは翻訳そのものが困難であるなら、書き言葉から話し言葉まで動員し、概念そのものがない場合には漢語を使わなければならない。明治以来西洋文明の移植のために漢語が果たした顕著な役割は、詩歌の世界まで見習ったのである。白秋の「心的辞書」は「海潮音」を始め作品に使われていた語彙を次々と取り込み、短時間で強化されていったのであろう。明治31年から明治41年まで、蒲原有明は詩集「草若葉」、「独弦哀歌」、「春鳥集」、「有明集」を刊行した。七五調四行詩、四六七の十四行詩、四四五調など詩のリズムに苦心して定型詩にこだわった。島崎藤村の「初恋」が七五調、または五七調を基調としたのはまだ簡単と言わざるを得ない。蒲原有明までが文語定型詩の到達点であったが、明治41年吉井勇、北原白秋、木下杢太郎らが明星を脱退し、、同年明星は廃刊となった。明治ロマン主義はここに終焉した。新しい言文一致文、口語自由詩の動きが起ったためである。韻を踏みにくい日本語では形式は定型に求めるしかなかった。伝統的な文語定型詩から口語自由詩の流れは当然と言えよう。雅語では切実な内容を表現することがそもそもできなかったので、夢だ、夢幻だ、技巧だ、近代的でないとか酷評が浴びせられたためである。明治40年代に自然主義が文壇の主流を占め、大正3年に刊行された高村光太郎の「道程」をもって、口語自由詩の確立となるのである。それまでの期間は、白秋や三木露風の文語自由詩の時期にあたる。
与謝野鉄幹は明治33年明星を創刊して、伝統的な和歌の革新を目指し、ロマン主義詩歌結社東京詩社を結成したが、自然主義文学が台頭して明治40年ごろには明星の立場も揺らぎ始めていた。それを巻き返すべく与謝野鉄幹、吉井勇、平野万里、北原白秋、木下杢太郎ら五人は明治40年夏に九州講演会旅行に出かけ、その行状記は毎日新聞に「五足の靴」となって連載された。白秋は「天草雅歌」の詩を発表した。明治15年の「新体詩抄」から明治42年の「邪宗門」にいたる象徴詩の流れは、島崎藤村の「ロマン詩」から薄田泣菫、蒲原有明の「象徴詩」そして北原白秋の「邪宗門」となった。「邪宗門」は明治42年に発刊され、同年に「思い出」抒情小曲集も書かれている。この二つの詩集は車の両輪のように白秋の初期芸術の色調を代表するので、どちらを先に出版しても良かったはずだが、白秋はあくまで自分の出発点を「邪宗門」に置いたのである。邪宗門の表紙の裏には「詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。」とある。これは「詩的言語」すべてについての白秋の認識である。この「邪宗門」が象徴詩集であることは論を待たないが、南蛮趣味をてこにして増幅された象徴主義であった。この詩集を評して同時代人で友人の木下杢太郎は「暗示の詩集とは、感覚および単一感情の配調である。朧げなるものを暗示するのみである。故に読者は各自の連想作用をこの織物に結び付けなければならない。読者の連想的内容が豊富にして、作者の個人の連想作用と重なるとき、はじめてこの詩を理解したと言える」という。この本の著者今野真二氏は、白秋の詩について木下杢太郎を補助線として理解している。木下杢太郎と同時に、「白秋の三羽烏」にあたる室生犀星と萩原朔太郎の両氏の白秋評も理解の重要な補助線である。犀星は「白秋は、活字をこのように美しく巧みに眼の前に煌めかす人である」という。白秋の詩の本髄は詞の配置にあるので原著にあたって読むべきだとし、この評伝的説明には詩本文は長くなるのでなるべくは割愛し掲載しない。文芸と美術との交流を目的として明治41年12月、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、長田秀雄、長田幹彦、高村光太郎ら詩人らと、石井柏亭、山本鼎、森田恒友らの画家グループとが集って「パン(牧神)の会」を結成した。白秋はこの会を通じて永井荷風や小山内薫らと知り合った。パンの会は次第に耽美主義に傾き明治43年には解散した。明治42年白秋は森鴎外を中心として石川啄木が発行人を勤める雑誌「スバル」の同人となった。白秋は邪宗門に収められた6篇の詩を発表した。「もののあはれ」という短歌63首を発表した。この歌は「銀笛哀慕町」といわれ、大正2年に刊行された第1歌集「桐の花」に収められた。明治43年はパンの会の最盛期と言ってよく、白秋は次々と作品を発表していった。第2詩集「思い出」、第3詩集「東京景物詩及その他」、第1歌集「桐の花」が同年に作られた。
3) 歌集「桐の花」のころ 「かわたれのローゼンバッハ芥子の花ほのかに過ぎし夏はなつかし」 「桐の花」より明治44年(1911 26歳)ごろの白秋の生活は実家の破産によって困窮し、母から仕送りの小判を換金して生活をしていたようだ。しかし明治43年は白秋は次々と作品を発表して充実した成果をあげ、詩人としても歌人としても認められていった。この年に「思い出」が出版され、上田敏はこれを激賞した。白秋は「思い出」は私の童謡の源泉であるといった。抒情小曲集という副題に見るようにこの本のキーワードは「抒情」である。童謡もこの抒情に流れ来る一つである。室生犀星は大正7年第2詩集「抒情小曲集」で抒情を「善良や善美と反省」のキーワードで捉えている。伊藤新吉は1969年の「抒情小曲論」において、「抒情は近代詩の 一領域として 小さい作品であるけれど詩的実質と呼べるものを内包していたが、大正末期には消滅した」という。大正2年「桐の花」が刊行された。本の装幀がパンの会の全盛期の詩と絵画の接近を示しているだけでなく、活字面の構成、挿絵、体裁、包装、用紙のすべてに著者の創意がみなぎっていた。収録された作品の官能、感覚が悉くこの本の体裁・装幀 と寸分なくマッチしていた。つまり本自体が芸術品で会った。「桐の花」のタイトルページに「抒情歌集」という副題がついている。短歌集の合間に「小品6篇」と呼ぶ散文詩風の文章(詞書きに相当)が埋め込まれている。「小品5篇」があることによって、短歌は凝縮の美しさを発揮し、短歌という表現形式(器)がどういう者かを感じ取ることができる。 白秋は「あたらしき詩を書かんとする人々に」と題して「詩となるべき材料と、散文となるべき材料は根本的に違う。象徴詩の意味は単に伝統的な言葉では言い表すことができない複雑な心境をそのままに気分の上に言い表すことだ」と言います。しかし白秋はどのような器(詩・短歌・散文)にも同じ材料を言い換える才能に優れていた。つまり器にこだわらない性格でした。大正元年白秋は人妻松下俊子との恋愛事件で姦通罪という罪で告訴された。二週間市ヶ谷の未決監に拘置され、弟の尽力で示談が成立し釈放された。翌年大正2年に「桐の花」が刊行されたのだが、「桐の花とカステラ」 の、「古い小さい緑石」と、「チャルメラ」という抒情イメージがキーワードになる。このイメージは「邪宗門」や「思い出」、「東京景物詩」に収められた作品にも形を変え器を変えて使われ、その度毎に輝きを異にした作品となっている。 赤と黄は「邪宗門」を彩る色彩であるが、「赤く赤く狂える椿」というイメージを大事にしている。 白秋はイメージとなる言葉を繰り返し添削している。添削をしながらだんだんいい形に近づいているのか、ぐるぐる回っているのか一概には言えない。白秋の「心的辞書」には、あることを表現しようとしたとき次々に詞が浮かび上がってくるようである。中野重治は1964年「斎藤茂吉ノート」で、「桐の花」に収められた 歌を評して「白秋には、気分、風情、けはいが先に立つ」と述べた。雰囲気(観照)こそが白秋のキーワードだったようだ。物と我の間に立つ気配であり、物と物の間の気配である。そして中野は「斎藤茂吉は強い打楽器の音楽で、白秋は柔らかい繊細な管楽器主体の音楽である」 と述べた。そういう意味で白秋の歌は理性的というよりは感覚的であるが、私小説的告白や自然主義的文学館とは無縁であったといえる。
大正2年1月白秋は東京から居を三浦半島の三崎に移した。離婚した後胸を病んだ山下俊子を救うため正式に結婚して三崎に招いた。約1年間三崎に住んだ。歌集「桐の花」が発刊されたのが大正2年であり、この歌集はやはり山下俊子の影が濃厚である。「桐の花」の「哀傷篇」の扉ページには白秋自筆の挿絵が「罪びとソフィーに贈る」と書かれているソフィーとは山下俊子の愛称であった。この「事件」で白秋は無罪放免されたが、むしろその後に白秋は苦しんだ。「桐の花」の「小品六篇」にある「白い猫」のイメージは、「寂しい闇の核心を凝視しながら、更に新しい霊魂の薄明を待つ」という意味である。三崎から小笠原への療養生活、そして俊子との離別を経て江口章子との結婚までの時期が「汚され」、「滅びむ」世界からの回復期であった。三崎での哀愁を歌った「三崎俗調」、「三崎ノート」などを発表したが、短歌26首が大正4年の「雲母集」の「三崎哀傷歌」に収められている。「小品六篇」にある「白い猫」の扉ページに描かれた黄色いタンポポの花は、友人中嶋鎮夫の自殺に関連した赤い血につながり、タンポポ黄→血→赤→夕日にイメージが展開した。白秋は「雲母集」巻末に雲母集は大正2年から1年足らずの三崎における生活の所産であると述べている。「静かな生活は我が人生のなか最も重要なる一転機をなした。小児のように歓喜に燃えた心が次第に四方鬱悶の苦しみとなり、ついに豁然として一脈の法悦味を感じ得た」というほど重要な時期であった。大正3年俊子と姉妹そして白鳥らは、俊子の結核療養のため小笠原父島に転居したが、島民が肺病を忌むため4か月後には島を離れ東京に戻った。「三崎俗調」(歌謡曲)の作品の代表が有名な「城ヶ島の雨」である。「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利久鼠の雨がふる。・・・」 この歌は大正2年梁田貞が作曲し有楽座で新作歌謡の発表が行われた。同じような「三崎俗調」には「雨中小景」、「三浦三崎」などが創られ「畑の祭」の収められた。短歌には「澪の雨」6首が作られた。これらの歌謡、詩、短歌には同じイメージの連鎖がある。この場合は歌謡→詩→短歌という器で次々とつないだ。「言葉の魔術師」白秋の面目が如実に表現されている。大正3年東京に戻った白秋は俊子と正式に離婚し、「地上巡礼」、インド更紗第1輯短唱集「真珠抄」、第2輯「白金之独楽」を発刊した。大正4年白秋の弟鐡雄と雑誌「アルスARS」を創刊した。白秋は「真珠抄」で短唱という形式を試行した。白秋はどのように区切るかということ自体が既成形式を離れた「独自の創見」であるとその余言に書いている。俳句なら5・7・5(17拍)、短歌なら5・7・5・7・7(31拍)である。白秋は36拍や45拍を試みた。そういう意味で短唱とは詩と短歌の中間的な形態であるといえる。自由律俳句の萩原井泉水はこれに注目した。白秋の「真珠抄」、「白金之独楽」、「雲母集」の3冊の詩歌集に共通するイメージは、晩秋、落日、吐息、赤い酒であり、これを「金色化」と呼ぶ。このイメージの連鎖は室生犀星、萩原朔太郎にも共有されている。
4) 葛飾での生活 「東京景物詩」、「雪と花火」 「蝉の声がする 涼しい海の風が吹きぬけてゆく 私は生き返った」 「雀の卵」より大正5年5月江口章子と結婚して千葉東葛飾郡(市川市)真間に住んだ。そしてすぐに東京南葛飾郡三谷(北小岩井)に移った。同年に「東京景物詩及其他」、「雪と花火」、「白秋小品」、雑誌「煙草の花」を刊行した。宮沢賢治の詩集「雪と修羅」に白秋の話題が登場する。「あの白秋が雪の日のアイスクリームを褒めるのと同じだ」という。白秋は「雪と花火」に、「花火が上がる、銀と緑の孔雀玉…パッとかなしくちりかかる。・・・アイスクリームひえびえとふくらむ手つきに散りかかる」を指していったものだ。賢治も咀嚼したうえで白秋のイメージを受け継いでいる。賢治は白秋に「雪と修羅」初版本を送呈している。詩は概念よりもリズムこそ重要だという点で賢治と白秋は共通しているようだ。白秋は詩歌の合間に散文を書いている。「葛飾小品」がそれである。なぜか真間よりは三谷がいいと言って転居している。江戸川一つ渡っただけで、田舎じみた真間より三谷の人間と密着した風景が好みだという。やはり白秋は都会好みなのだったといえる。「白秋小品」には「葛飾小品」を始め「折々の手記」まで多くの散文が収められている。この「白秋小品」はいろいろなところで発表した文章を編集してまとめたもので、一度書いた作品の言葉が次の作品を生むという意味で白秋は「編曲家」であり、作品のヴァリエーションは「変奏曲」であった。白秋より1歳下の谷崎潤一郎は大正4年「詩人のわかれ」という小説を書き、葛飾時代の30歳前後の白秋とその周りの人物を描いている。大正6年白秋は築地本願寺の横で間借り生活を始めた。大正9年詩文集「雀の生活」、大正10年に「雀の卵」を刊行した。葛飾時代のキーワードは「雀」と言ってもよいだろう。「雀の卵」に収められた「葛飾閑吟集」の短歌にはさまざまな鳥が謳われ、谷崎潤一郎が白秋のことを「田園詩人」と呼んだ。「雀の卵」の序文に「私の歌は拙かった。洗練に洗練を経るほど、磨けば磨くほど私は厳粛になった」という徹底した推敲ぶりがうかがえる。大正6年萩原朔太郎の第1詩集「月に吠える」、室生犀星の第1詩集「愛の詩集」に序文を寄せ、白秋は自分と弟子たちに共通した「心性」を心から喜び、楽しんだ。
5) 童謡の世界 「意気なホテルの煙出に けふも粉雪のちりかかり 青い灯が点きや、わが心何時もちらちら泣きいだす」 「白秋小唄集」より大正7年3月白秋は小田原市お花畑に移転した。7月には鈴木三重吉が主宰する児童文学雑誌「赤い鳥」の創刊に参画して、児童自由詩を担当した。大正8年「トンボの眼玉」を発刊した。「山火事焼けるな ホウホケキ」で始まる「トンボの眼玉」には、教訓的な、学校唱歌的な、西洋詩集の翻訳歌蝶を批判している。「芸術教育」論においては、児童の言葉と声、すなわち児童による児童のための詩と音楽でなければならないとして、児童自身によって美的淘汰を行わしめるという「児童自由詩運動」になって広がった。「雨」、「赤い鳥小鳥」、「あわて床屋」と言った今日でも残っている唱歌が収められている。白鳥は「トンボの眼玉」と一緒に「白秋小唄集」をアルス社から発刊した。これまで数多く作った詩歌の中から、民謡調の風を帯びた歌いやすいものだけを選んだという。「私の詩風の基調をなす」という民謡は、江戸時代の俚謡にもとずく、江戸趣味といってもいい。「白秋小唄集」の冒頭には「城ヶ島の雨」が置かれている。大正9年、章子と離婚した年に洋館3階建ての家を新築した。白秋に未練があったのか、章子との離婚話を進めた谷崎潤一郎とは交際を断ったと言われる。この辺りの事情については中河与一氏や佐藤春夫氏が小説を書いている。白秋は大正10年佐藤菊子と結婚した。この年に童謡集「兎の電報」、散文集「童心」、歌話集「洗心雑話」、歌集「雀の卵」刊行し、大正11年には歌謡集「日本の笛」を出した。同年1月には斎藤茂吉との互選歌集「白秋茂吉互選歌」、童謡集「祭の笛」、長歌集「観想の秋」、童謡「羊とむじな」を次々とアルス社から出版した。大正12年に詩集「水墨集」、童謡集「花咲爺さん」をアルスから刊行する。この年関東大震災が起り、アルス社は焼失した。大正13年短歌雑誌「日光」を創刊する。同人には前田夕暮、釈迢空(折口信夫)、土岐善麿、木下利玄、古泉千樫らがいた。小唄集「あしの葉」、「白秋童話集」第1巻、「お話・日本の童謡」をアルス社から刊行した。「水墨集」は純粋に詩集として発刊したもので口絵や挿絵、カットの類が一切ない。「水墨集」の冒頭に「詩論」が展開され、「詩の香気、気品、気韻」というキーワードが繰り返され、「詩においては内容即形式であり、このデリカシーを感じ得ない人は詩人ではない」と述べた。大正14年に白秋は随筆集「季節の窓」、童話集「子供の村」をアルス社より刊行した。8月に樺太観光団に加わり、この旅行記を「フレップ・フリップ」として寄稿した。「心は安く、気はかろし、揺れ揺れ、帆綱よ、空高く・・・」という浮き浮きした文体で綴られていた。樺太旅行から帰って大正15年(昭和元年)に小田原の生活を終えて、東京谷中天王寺に居を構えた。童謡集「二重虹」、「からたちの花」、随筆集「風景は動く」、童話集「象の子」を刊行し、芸術雑誌「近代風景」を創刊した。ここから都会生活、東京の風景を描く時代になった。
6) 言葉の魔術師 「海豹と雲」、「白南風」 「蘆むらや 開閉橋に落つる日の 夕凪にして 行々子鳴く」 「水の構図」より昭和2年3月、大森馬込緑が丘の洋館に転居した。翌年4月には世田谷区若林に転居する。昭和4年満鉄の招待で満蒙各地を巡る。八幡製作所の歌を作るため北九州福岡を訪れ、柳川にも帰省する。昭和に入って白秋の行動は軍部の意向及び大政翼賛会的な風潮を帯びてくるのも時代の流れであろうか。童謡歌集「緑の触角」、長歌集「篁」、童謡集「月と胡桃」、詩集「海豹と雲」がアルスより刊行される。昭和8年鈴木三重吉と断交し「赤い鳥」との関係も断つ。岩波書店より「白秋詩抄」、「白秋抒情詩抄」が刊行される。昭和9年には「白秋全集」全18巻が完成し、第6歌集「白南風」をアルス社から刊行する。昭和10年には雑誌「多磨」を創刊する。詩集「海豹と雲」より、斎藤茂吉と同様に日本民族主義賛歌の歌が多くなってくる。満州事変から日中戦争に向けて急速に天皇制軍国主義の精神的旗振り役を演じるのである。歌集「白南風」には東京の4つの風景がある、谷中天王寺、馬込緑が丘、世田谷若林、砧村であるが、これが「近代的風景」だと述べている。昭和2年ごろ、出版界は一冊1円で販売される全集もの「円本」ブームで活気づいていた。アルス社は「日本児童文庫」全76巻を、文藝春秋社は「小学生全集」全86巻を出版した。芸術自由教育同人の哲学者土田杏村の発案であったが、芥川龍之介は両方の執筆者に名を連ねていた。アルス社は自社の企画を盗んだとして文芸春秋社を告訴する事件が発生し、芥川は板挟みとなって悩んだ末自殺したと伝えられる。白秋は告訴側の人間だが芥川については沈黙を守って、芥川の自殺を悼んだ。歌集「白南風(しらはえ)」と詩集「海豹と雲」の共通点を見ると、「やや黄なる風景」という同じ題がある。ほとんど同じ内容の風景表現である。「近代風景」は文明批評の格好材料であるが、白秋にとっては自身の一つのイメージをくくるキーワードの一つであった。もう一つのキーワードは「架橋風景」である。架橋風景は長年にわたって話題にしてきた題材であるが、特に白秋の短歌の場合、生活体験中の素材が作品の形をとるまでに何年もかかっている例が多い。詩集「海豹と雲」にも「架橋風景」という題がある。詩と短歌という形は変わっているが、ほとんど同じ内容である。詩集「海豹と雲」に「鋼鉄風景」という題の詩がある。レーニンは「鉄は国家である」と言ったが、近代文明とは鉄であった。それを白秋は「神は在る・・・」の繰り返しで鉄製製品を歌い上げ、最後は皮肉なのか装甲車と爆弾となって終わる。白秋は物として鉄はキュビズムの極致であるという。昭和18年白秋の死後刊行された詩集「水の構図」には、「開閉橋」、「永代橋」、「品鶴線の橋」の詩と写真が白秋の近代風景の終着点であった。それは直後の空襲によってすべて破壊されたのも、日本の近代の挫折と終焉の象徴であった。なお本書には「小国民詩集」という戦争へ子供を駆り立てる詩集があるが、これはもはや取り上げるのは忍びないので割愛する。