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文藝散歩 

今野真二著 「北原白秋ー言葉の魔術師
岩波新書 (2017年2月)

童謡から短歌・詩など様々なジャンルで活躍した白秋の言語空間の秘密

北原白秋の詩は、特に唱歌や童謡などでよく聞かれるので知らない人はいないでしょう。短歌にも秀でた句を多く残している。そのジャンルの広さは日本の近代文学において巨大な足跡を残した。私は見たことはないが、岩波書店から「白秋全集」全40巻が刊行されているそうである。だが白秋の全部を読み通した人は少なく、そのジャンル間の作品は互いに深いつながりを持っている。つまり同じ素材を用いながら短歌が詩になり、詩は童謡になり、詩が短歌になるという。共通するイメージの言語化は媒体形式を通じて重なり合っている。これを著者は「心的辞書」と呼び、様々なイメージを言語化して言葉を操る「言葉の魔術師」という。ジャンルの形式、差別性、独自性を十分認めたうえでの言語表現の違いです。白秋は「芸術の円光」の中で次のように述べている。「私は感動の度合いとその形式の差別によって、抒情といわず、長詩、短詩、小曲、小唄、民謡、短歌、短唱、俳句、新古さまざまの形式をもって自由に表現することにしています。一つの形式を固執しません」という。また白秋は「かなとこ、かなしき)」という詩の「添削実例集」を出している.。詞を何度も変えて、推敲、調啄を繰り返すくせがあった。元に戻ることもあったという。詞を鍛え上げる創作者の姿である。時代時代を反映して変化してゆくが、白秋が脳に蓄積したイメージ=言葉の中には生涯変わらなかったものもある。「変わったもの」、「変わらなかったもの」という観点で「言葉の魔術師」を解剖するのが本書の目論見である。下の表に北原白秋の年譜(1885-1943年)を示す。本書で言及されている重要な詩集は太字で記しました。本書はこの年譜をいつも見ながら時系列的に話を進めてゆくので重要になります。著者今野真二氏は初めて読む人なので、著者のプロフィールを見る。1958年神奈川県鎌倉市生まれ。1982年早稲田大学文学部国文科卒、1985年同大学院博士課程後期退学。1986年松蔭女子短期大学講師、助教授、1995年高知大学助教授、1999年清泉女子大学文学部助教授、教授。2002年『仮名表記論攷』で金田一京助博士記念賞受賞。専攻は日本語学である。主な著書は、『消された漱石――明治の日本語の探し方』笠間書院 2008、『大山祇神社連歌の国語学的研究』清文堂出版 2009、『振仮名の歴史』集英社新書 2009、『百年前の日本語――書きことばが揺れた時代』岩波新書 2012、『盗作の言語学 表現のオリジナリティーを考える』集英社新書2015 、『辞書をよむ』平凡社新書2015、『リメイクの日本文学史 リライトの日本文学史』平凡社新書2016などがあります。著者は言う「言語学(日本語学)というのは、目にはみえないけれども共有されているであろうルールみたいなものをみつけていくという面があるわけです。日本語の研究や日本文学の研究をとおして、言語を使って思考するということをおぼえてもらおうとしているわけです。そういう応用力を身につけてほしい。」という。
詩歌について私に発言権があることを証明するつもりもないが、経験の蓄積としてこれまで私が読んだことがある詩集(俳句・和歌を含む)を、日本の詩、西洋の詩、中国の詩(漢詩)別にまとめておこう。監修者も記さず順不同で示す。

1) 日本の詩集
 万葉集(角川文庫)、古今和歌集(岩波文庫)、山家集(岩波文庫)、金槐和歌集(岩波文庫)、奥の細道(岩波文庫)、芭蕉俳句集(岩波文庫)、芭蕉紀行文集(岩波文庫)、蕪村俳句集(岩波文庫)、一茶俳句集(岩波文庫)、一茶「父の終焉日記」、「おらが春」(岩波文庫)、子規句集(岩波文庫)、正岡子規「仰臥漫録」(岩波文庫)、正岡子規「病床六尺」(岩波文庫)、高浜虚子「俳句はかく解しかく味わう」(岩波文庫)、種田山頭火「山頭火句集」(ちくま文庫)、赤彦歌集(岩波文庫)、斎藤茂吉歌集(岩波文庫)、土井晩翠詩抄(岩波文庫)、宮沢賢治詩集(岩波文庫)、中野重治詩集(岩波文庫)、中原中也詩集(岩波文庫)、与謝野晶子歌集(岩波文庫)、伊藤佐千夫歌集(岩波文庫)、高村光太郎詩集(岩波文庫)、石川啄木歌集(岩波文庫)、吉井勇歌集(新潮文庫)、尾崎喜八詩集(新潮文庫)、伊藤静雄詩集(新潮文庫)、伊藤整詩集(新潮文庫)、堀口大学「月下の群れ」(新潮文庫)、井上康「北国」(新潮文庫)、高村光太郎「智恵子抄」(新潮文庫)、高村光太郎詩集(新潮文庫)、萩原朔太郎詩集(新潮文庫)、三好達治詩集(新潮文庫)、西脇順三郎詩集(新潮文庫)、室生犀星詩集(新潮文庫)、村野四朗詩集(新潮文庫)、草野心平詩集(新潮文庫)、会津八一「鹿鳴集」(新潮文庫)、島崎藤村詩集(新潮文庫)、北原白秋詩集(新潮文庫)、上田敏「海潮音」(新潮文庫)、若山牧水歌集(新潮文庫)、立原道造詩集(角川文庫)、高見順「死の淵より」(講談社文庫)、佐藤春夫詩抄〈岩波文庫)、谷川俊太郎詩集(岩波文庫)、谷川俊太郎詩選集1-3(集英社)、宮沢賢治詩集(新潮文庫)、現代詩人全集第9−10〈岩波文庫)

2) 西洋の詩集
 ボードレール詩集(堀口大学、新潮文庫)、ボードレール「悪の華」(堀口大学、新潮文庫)、ポー詩集(安部保、新潮文庫)、ランボー詩集(堀口大学、新潮文庫)、ランボー全詩集(宇佐美斉訳、ちくま文庫)、ランボー「地獄の季節」(小林秀雄、岩波文庫)、ヴェルレーヌ詩集(堀口大学、新潮文庫)、コクトー詩集(堀口大学、新潮文庫)、ヴァレリー詩集(鈴木信一郎、岩波文庫)、ジャム詩集(堀口大学、新潮文庫)、ハイネ詩集(片山敏彦、新潮文庫)、ゲーテ詩集(高橋健二、新潮文庫)、バイロン詩集(安部知二、新潮文庫)、ヘッセ詩集(高橋健二、新潮文庫)、リルケ詩集(富士川英郎、新潮文庫)、アポリネール詩集(堀口大学、新潮文庫)、プーシキン詩集(金子幸彦、岩波文庫)、コウルリジ詩集(斎藤勇、岩波文庫)、シェークスピア詩集(高松雄一、岩波文庫)、ツルゲーネフ詩集(神西清、岩波文庫)、シュトルム詩集(藤原定、角川文庫)、ゲーテ詩集1−4(片山敏彦、岩波文庫)、ローラン詩集(有永弘人、岩波文庫)、マラルメ詩集(鈴木信一郎、岩波文庫)、サンドバーグ「シカゴ詩集」(安藤一郎、岩波文庫)、ワーズワース詩集(田部重治、岩波文庫)、ギリシャ抒情詩選(呉茂一、岩波文庫)、ヘンダーリン詩集(小牧健二、岩波文庫)、ローレンス「愛と死の詩集」(安藤一郎、岩波文庫)、ハイネ新詩集(番匠谷英一、岩波文庫)、ゲオルグ詩集(手塚富雄、岩波文庫)、リルケ「ドッイノの歌」(手塚富雄、岩波文庫)、ヴィヨン全詩集(鈴木信一郎、岩波文庫)、グレイ「墓畔の哀歌」(福原麟太郎、岩波文庫)

3) 中国の詩集
 杜甫詩選(岩波文庫)、唐詩選(上・中・下)(岩波文庫)、中国名詩選(上・中・下)(岩波文庫)、蘇東坡詩選(岩波文庫)、李賀詩選(岩波文庫)、陶淵明全集(上・下)(岩波文庫)、王維詩集(岩波文庫)


白秋 年譜
年代(日本年代)
年 齢
事 項
1885(明18年)11月25日 白秋誕生(現福岡県柳川市)
1901(明34年)16実家焼失 妹ちか死去
1904(明37年)19親友中嶋鎮夫自殺
早稲田大学高等予科文科入学 若山牧水らと出会う
1906(明39年)21明星に多数の詩を発表
1907(明40年)22九州旅行 紀行文「五足の靴」連載
1908(明41年)23新詩社を離れ、「パンの会」を始める
1909(明42年)24「邪宗門」刊行 スバルに詩・短歌を多数発表
雑誌「屋上庭園」創刊、生家破産
1910(明43年)25隣家の人妻松下俊子に出会う
1911(明44年)26「思い出」刊行
1912(明45年)27姦通罪で告訴され、市谷未決監に拘留され、示談成立釈放される
1913(大2年)28「桐の花」刊行
三浦三崎に転居、俊子と同棲
「東京景物詩」刊行、巡礼詩社創立
1914(大3年)29小笠原父島に俊子療養のため移住、東京に戻り俊子と離別
「真珠抄」「白金之独楽」刊行
1915(大4年)30阿蘭陀書房創立、雑誌「ARS」創刊
「わすれなぐさ」「雲母集」刊行
1916(大5年)31江口章子と結婚、「雪と花火」刊行
紫煙草舎機関誌「煙草の花」創刊
1917(大6年)32弟鐡雄が出版社アルス創立
萩原朔太郎、室生犀星詩集に序を執筆
1918(大7年)33鈴木三重吉主宰「赤い鳥」に多くの童謡を発表
1919(大8年)34小田原伝肇寺に家を新築「みみづくの家」と名付ける
「白秋小唄集」、「トンボの目玉」刊行
1920(大9年)35「雀の生活」、「白秋詩集T」刊行
章子と離婚
1921(大10年)36佐藤キクと結婚
「白秋詩集U」、「兎の電報」、「童心」、「雀の卵」、「まざあ・ぐうす」刊行
1922(大11年)37「斎藤茂吉選集」と「北原白秋選集」を互選で刊行、「日本の笛」、「祭の笛」、「観音の秋」刊行
長男竜太郎誕生、雑誌「詩と音楽」創刊
「羊とむじな」、「白秋民謡」、「白秋童謡」刊行
1923(大12年)38「水墨集」、「花咲爺さん」刊行
1924(大13年)39短歌雑誌「日光」創刊
「あしの葉」、「お話・日本の童話」刊行
1925(大14年)40「季節の窓」、「子供の村」刊行、樺太北海道旅行
1926(大15年)41「二重虹」、「風景は動く」、「象の子」刊行 詩誌「近代風景」創刊
1927(昭2年)42「芸術の円光」刊行 
1928(昭3年)43「詩人協会」創立
「フリップ・トリップ」刊行、芸術飛行行う
1929(昭4年)44「緑の触角」、「篁」、「月と胡桃」「海豹と雲」刊行、「白秋全集」アルス版全18巻刊行開始
1930(昭5年)45満蒙旅行
1931(昭6年)46「北原白秋地方民謡集」刊行
1932(昭7年)47「日本幼児詩集」刊行 「新詩論」、「短歌民族」創刊
1933(昭8年)48鈴木三重吉と袂を分かつ
「白秋詩抄」、「全貌第T」、「明治大正詩史概観」刊行
1934(昭9年)49「白秋全集」アルス版全18巻刊行完
「白南風」刊行 台湾旅行
1935(昭10年)50歌誌「多磨」創刊、「きょろろ鶯」刊行 朝鮮旅行
1936(昭11年)51「躍進日本の歌」刊行
1937(昭12年)52「新万葉集」選歌 眼底出血で杏雲堂病院に入院
「雀百首」刊行
1938(昭13年)53退院するも視力回復せず 添削実例集「かなとこ」刊行
1939(昭14年)54「雲と時計」「夢殿」刊行
1940(昭15年)55「黒檜」、「新頌」刊行
1941(昭16年)56「白秋詩歌集」全8巻刊行
1942(昭17年)57再入院 「短歌の書」、「港の旗」、「朝の幼稚園」、「満州地図」、「香ひの狩猟者」刊行
11月2日死去
1943(昭18年)「水の構図」刊行
1) 幼年期のころ 「思い出ー抒情小曲集」

北原白秋は明治18年1月25日、福岡県山門郡(現在の柳川市沖端町)に生まれた。北原家は九州では有名な海産物問屋で、祖父の時代から酒造業を営み、世間は「油屋」あるいは「古問屋」と呼んだ。柳川語で「油屋のTonka John」(大きな家の坊ちゃん)として育ったという。幼年時代のことは「思い出ー抒情小曲集」という自伝的作品に描かれている。「郷里柳川は水郷である。・・・その水面の随所に、菱の葉、蓮、真菰、河骨・・・の浮草の強烈な更紗の中に微かに淡紫のウオタアヒヤシンス(ホテイアオイ)の花を見出すだろう・・・従妹とその背に背負われた私と、つい見惚れて一緒には陥った」とそのおぼれかけた思い出が語られている。昭和18年白秋の死後に刊行された柳川の写真集と白秋の詩篇である「水の構図」にも水ヒアシンスの写真がある。(布袋葵は今では、湖沼の富栄養化を象徴するものだ) これこそが白秋のほとんど変わることがない「思い出の世界」であろう。昭和14年刊行の短歌集「夢殿」にも、「溝渠ほりわり」と「汲水場」に柳のしだれかかる風景が謳われている。いつも白秋は柳川語(方言)にローマ字を充てている。その(ゴロ)発音に郷愁を抱いたのであろう。「Tonka John」(良家のお坊ちゃん)、「SORI-BATTEN}(しかしながら)、「BANKO」(縁台)などである。白秋の「柳川イメージ」について作家の竹西寛子は「詩人は自らの理性で再認識し、再構成した感覚の表現」と述べている。追憶の柳川という意味ではなく、投げ出され、再認識、再構成された柳川と言う意味である。登場人物の「私」も再構成された回想のフレームとして機能している。だから「思い出」はありのままの「非象徴詩」ではない。「詩的言語」を読むということは、白秋のイメージと読者のイメージとが重なり合う時のみに読み手の持っていたイメージが連鎖的に喚起されてゆくのであり、それが詩を読めたという事であり、詩が分かったということである。白秋は「私の郷里柳川は水郷である。そうして静かな廃市の一つであった」と最初から「初めに喪失があった」といかにも末期象徴派好みの「廃市」であることは、上田敏の「海潮音」の収められたローデンバックの「死都ブリューゲル」からきていることは明白である。こうした引用の連鎖、或はイメージの連鎖を意識することも詩の読み方の一つである。明治34年の沖端の大火による実家の被災、兄弟姉妹の死去、明治42年実家破産などが重なって、故郷の喪失感をにじませている。

2) 「邪宗門」のころ

明治34年の沖端の大火の頃、白秋は17才で雑誌「文庫」に短歌181首を発表し、歌壇で注目された。雑誌「文庫」は「明星」とともに白秋の重要な発表の場であった。「文庫」に発表された詩は後に「白秋詩集T−W」に収められた。白秋は「小さな町が憎くて」柳川を捨て、明治37年に早稲田大学に英文科予科に入った。同級には若山牧水や土岐善麿らがいた。牧水とは下宿先が同じであった。白秋は横瀬夜雨(筑波詩人)らと文庫詩人の中堅をなした。明治39年(21才)に白秋の号を使うようになり、与謝野寛の勧めにより新詩社に参加し、明星に詩を発表した。与謝野晶子、吉井勇、木下杢太郎、石川啄木らと交流し、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫蘭も認められるようになった。この頃白秋は「美辞麗句」の時代と呼ばれる。詩は五・七調に整えられ、読み手に与える影響の強い言葉や漢語・和語が頻用された。「邪宗門」に入る前に、日本の「近代詩」について概観しておこう。明治15年外山正一らにより西洋詩の訳詩が「新体詩抄」に発表された。明治30年島崎藤村の「若菜集」、明治34年の「落梅集」が日本最初の近代詩の誕生となる。島崎藤村は「雅語の不利」を嘆き、日本語の組織が韻律を含まないので詩形の発達が阻害されていると考えた。そして藤村は詩という器から離れて小説に入った。上田敏は明治38年訳詩集「海潮音」を刊行し、フランスの高踏派、象徴派の詩を紹介した。七五七五の24音を一行とする形に工夫した。和歌や俳句は「韻文」とは言うものの実は韻を踏んでいない。日本語を使った文章で、「散文」と「韻文」の違いは五拍七拍を基調とする定型を保つかどうかであった。日本語以外の言語で作られた定型を備えた詩を日本語に翻訳する時、その定型を五拍七拍を基調とする定型で受け止めようとすることは自然であった。翻訳となるとすべての内容を日本語に移さなければならない。そのためには和歌で使われてきた和語語彙のみでは翻訳そのものが困難であるなら、書き言葉から話し言葉まで動員し、概念そのものがない場合には漢語を使わなければならない。明治以来西洋文明の移植のために漢語が果たした顕著な役割は、詩歌の世界まで見習ったのである。白秋の「心的辞書」は「海潮音」を始め作品に使われていた語彙を次々と取り込み、短時間で強化されていったのであろう。明治31年から明治41年まで、蒲原有明は詩集「草若葉」、「独弦哀歌」、「春鳥集」、「有明集」を刊行した。七五調四行詩、四六七の十四行詩、四四五調など詩のリズムに苦心して定型詩にこだわった。島崎藤村の「初恋」が七五調、または五七調を基調としたのはまだ簡単と言わざるを得ない。蒲原有明までが文語定型詩の到達点であったが、明治41年吉井勇、北原白秋、木下杢太郎らが明星を脱退し、、同年明星は廃刊となった。明治ロマン主義はここに終焉した。新しい言文一致文、口語自由詩の動きが起ったためである。韻を踏みにくい日本語では形式は定型に求めるしかなかった。伝統的な文語定型詩から口語自由詩の流れは当然と言えよう。雅語では切実な内容を表現することがそもそもできなかったので、夢だ、夢幻だ、技巧だ、近代的でないとか酷評が浴びせられたためである。明治40年代に自然主義が文壇の主流を占め、大正3年に刊行された高村光太郎の「道程」をもって、口語自由詩の確立となるのである。それまでの期間は、白秋や三木露風の文語自由詩の時期にあたる。

3) 「桐の花」のころ

4) 「東京景物詩」、「雪と花火」のころと童謡の世界

5) 言葉の魔術師 「海豹と雲」、「白南風」

6) 「小国民詩集」と大東亜戦争


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