170216

文藝散歩 

柳田国男著 「毎日の言葉」
角川ソフィア文庫 (2013年新版)

方言の比較から日常の語り言葉の語源を説く、柳田民俗学の知の所産

本書の中心となる「毎日の言葉」は昭和17年9月から同18年8月の24か月「婦人公論」に連載された。それが本として昭和21年3月に刊行された。そして昭和31年7月に改版されて新版となった。昭和21年版の自序に、柳田氏は「本書はもっぱら若い女性を読者に予想しています。現代の男はいらだっているので聞く耳を持たない。国語の変遷の解説には、聞く人の緻密な感受性を必要とします。国語は変遷するものだということに気が付くには、まず第1に国語学を、古来の文章の方から、生きて日々働いている口言葉の方に中心を移さなければなりません。書くことから、言うこと、聞くこと、考えることに努力する人の共感を得なければならない。だから国語は我々の心がけで良くなりもしますが、今よりももっと見苦しくもなります。心がけとはなによりもよく知った言葉を使うことです」という。今の国語審議会の歴史を見ると、肝に銘じなければならない言葉です。昭和31年の版の自序においては、「国語史において日本では文章の使用が遅れたため、長い間語り部の時代が続いた。口から耳への感動の引継ぎを記録に替えていた時代がありました。文字の記録だけが史だとする漢字の定義にとらわれて、語りの時代を国語史が考察の外に置くことは許されません。いろいろの力強く美しい単語は(上代語)、当時の日本人の言語能力が十分成熟していたことが伺われます。史書を通じてではなくそれが地方の方言の中に生き残っているかもしれないのです。」という。柳田氏はこの書において方言の比較から古代語を知ることは可能なのだという方法論を提案する。「毎日の言葉」は、日常無意識に使っている言葉一つ一つに発生理由や歴史があることを気付かせます。言葉は使っているうちに古びてしまい、新しい新鮮な言葉に取り変えられます。流行語を使うのは同時代意識としてやむを得ないところもありますが、日本語が良くなるも悪くなるのも我々の心がけ次第だということです。例えば挨拶の言葉は社会生活の第一歩ですが、次のようなものでなければならない。@同じ共同生活の仲間であること、相手に親しみを抱いていることを示す。A相手の勤勉をたたえ、ねぎらう。B相手の幸福を願う。そして毎日の言葉に対して、@よく知った言葉を使う事。A美しい音の言葉を使う。B言葉を選択して使う能力をつける事が大事であると柳田氏は言っている。本書は「毎日の言葉」の他に、「買物言葉」、「あいさつの言葉」、「どうもありがとう」、「女の名」、「ウバも敬語」、「御方の推移」、「上臈」、「人の名に様をつけること」、「ボクとワタシ」を検討の対象にしている。この本を客観的に見ると、どの学問分野に帰属するのか曖昧な「お茶の間の国語学」であり、言葉の問題をたんに音訛現象とか、語法の変遷過程からだけでなく、生活表現としての言語、普通の人の生活感情を基礎にした言語を提案している。あまりに当たり前に使っている言葉の起源を問われて、はっと気づかせてくれる不思議な側面は、言語学でもなければ民俗学でもない、さだめし柳田国男その人の芸領域なのである。柳田氏固有の方法論とは、耳の領域(声、語り部、女、私、地方、方言)と、目の領域(文字、文学、男、中央、共通語)の言葉の比較のもとに、毎日の言葉=日常語の源流や由来を明らかにする。日常生活の研究法に根差した柳田式日本語論については、前にも後にも誰もいない、完全に孤立した知である。

1) 毎日の言葉

1) オ礼ヲスル
お礼とは言うまでもなく漢語ですが、その意味は日本では少し違っています。世話になった人のものを贈るとか、ただありがとうという事を「お礼をする」と言っている場合が多い。いわゆる礼儀の「礼」の意味が狭くなっています。こういう物を送呈する習慣が非常に長かったためです。今も「端午礼」、「盆礼」という新婚の婿が盆節句の日に妻の郷里にあいさつに顔をだします。その時に何か礼の物を持参したからです。しかし「礼」とは、すべて目下の者が目上の者に従属を誓い、同時に保護の永続を願う厳重な儀式でした。いまアメリカの大統領が変わると、世界中の同盟国の首長がなにかしら土産となる約束を携えてワシントンを訪問するようなものです(トランプ大統領に対する2017年2月12日の安倍首相の訪問ですね)。小作人が地主のところへ正月の時に行くことを「小作礼」と言いました。この本式の礼を挨拶とか口上となずけて別にしています。
2) アリガトウ
本来神仏を尊ぶ場合に「アリガタイ」といいますが、それが転じて感謝の際に「アリガトウ」を連発しています。最初は言葉通りありえないことという意味で、人間業を超えた神の徳や力を讃えてそういったのですが、いつのまにか人と人の間のお礼の言葉になったのです。これは外国語でも同じであり、フランス語のメルシ、イタリア語のグラチェも「神の恵みよ」という意味です。上方で「おおきに」、島根で「だんだん」というのも感謝の気持ちの拡大表現です。「大きにありがとう」、「重ね重ねありがとう」という気持ちです。伊豆大島では「トウテヤナ」も神の礼拝の言葉です。秋田の北では「トドゴザル」は尊いでゴザルといういみです。信州北から越後に掛けて「カンブンヤ」は「過分や」という意味です。北陸から岐阜・滋賀県では逆の表現で人から物を貰ったら「ウタテイ」とか「オトマシイ」といいます。貴方は無駄なことをする、無益なことをするという意味です。
3) スミマセン
お礼に「ありがとう」という言葉は元は使わなかったという説があります。「カタジケノウゴザル」と言っていたのが、目上の人に対して「アリガトウゴザイマス」という様になったといいます。同輩の間では「スミマセン」をいうようになった。このような事をされては気が済みませんという意味です。地方では「メイワクイタシマス」、若い女の子は「コマルワ」、東北では本意ないという意味で「ホジネヤ」、「ホンニャクテ」といいます。丁寧に言おうとして「相スミマセン」といもいいます。これがお詫びする立場にない人まで(商品の代金を貰う時)「申し訳ありません」というのは頂けない。
4) モッタイナイ
武家や大地主が下の者から礼をされたり、労働奉仕を受けたりすると「メデタイ」、「メッタイ・メンタイ」と言います。それを指示する時庄内地方では「アンガトセイ」とか「アッツセ」といいます。一般の贈り物を額に押し当てて言う言葉が「メデタイ」でした。モッタイはこのメッタイからきた言葉のようです。モッタイナイ=モッタイ+ナイでナイは否定ではなく、強調の辞でした。「せつな」が「セツナイ」になり、モッタイナイはメデタイこと極まりなしという意味です。北陸では「モッタイシヤ」が面倒なという意味で使われています。「もったいぶる」もこの流れにあるでしょう。この「メンドウナ」は四国から中国・九州地方では「恥ずかしい」、「極まりが悪い」という意味に転じます。
5) イタダキマス
イタダクは元来物を頭の上に載せることでした。目上の人から衣類や物品を貰った時、頭の上に担いで礼を言いました。少し下げて額の辺りまで差し上げて降ろすのを「イタダク」または「頂戴する」ということにしました。祭式で相饗、直会では供物を額まで頂いたと思われます。そこからイタダキマスは食べる時の礼の言葉になりました。
6) タベル、クウ
食べる事を「イタダク」というようになった変遷と同じ経路で「タベル」が生まれました。「タベル」はおそらく「タブ」という動詞(給う)の受身形で、すなわち上の人に給与する人の食べ物に限った言葉です。自分で取ってきた物を食べる時にはタベルという言葉はなかった。九州では食べ物を「タモリモン」、また食うことを「タモル」と言います。タモルは当然、タマウ(給う)からきています。人に食物を勧める時、「メシアガレ」という敬語を使わないで、「食べろ」という命令形ではなく「クエ」という平たい言葉があります。しかし「タベル」という謙譲語が普及したため、クエ、クウという言葉は特に女性は乱暴な言葉に感じられて使用しなくなった。男も次第に使用しなくなりタベルが主流となったのです。「イタダク」に比べると「タベル」も一段低い言葉です。
7) オイシイ、ウマイ
「ウマイ」も「オイシイ」という女言葉に押されて、男言葉に限定されているようです。「オイシイ」は「イシクも・・・」に「オ」をつけた物だろうと思われます。「イミジイ」が中国地方では「イビシイ」、東北では「イッシイ」といいます。「イミジイ」→「イシク」→「オイシイ」と変化したと思われる。やたら「オ」をつけるのは江戸好みです。
8) クダサイ、オクレ
言葉を粗末にするということは、元の言葉の持つ感じを忘れて、ただの符合のように使うことです。本来は下から上の者に用いていた言葉を、後には上の者から下の者にも用いるようになった例が「下さい」です。上の者は滅多に「下さい」は言いません、「オクレ」と言います。オは敬語ですが、「クレ」とむき出しの言葉は言いません。もちろん「クレ」は「来る」からきた言葉です。
9) モライマス
京阪神地方では「モラウ」は「イタダク」とおなじように、「・・・テイタダク」、「・・・テモラウ」という助動詞のようにしか使っていませんが、元は物を食べることでした。しかも一人で食べるのではなく目上の人からわけて食べるという意味で、「モラウ」も「イタダク」も同じです。「モライマス」は関西以外では人望がなく使用が憚られています。それはモラウの特殊な意味で卑屈な「乞う」という言葉を嫌ったからです。「オモライ」は乞食を意味していました。「モライマス」の用法はすでに食べ物の関係を離れて、単なる「許される」という気持ちまで延長しています。東京では「ちょっと来てもらいたい」というように、低級敬語になっています。「モライマス」はそれよりもすこし高い敬語になりました。
10) イル、イラナイ
「イル」はもとは4段活用の動詞です。「借る」、「貸す」という言葉ができたため、イル・イラウという言葉は使わなくなった。この言葉の本来の意味は、単に入用という意味だけではなく、人から借りるという事であったようです。山梨県富士川郷では物を借りることを、「イロウ」、「イラウ」と言います。高知県の「イリタイ」はただ「欲しい」という意味です。九州南西諸島では「イリ」は自分の物にしろという意味です。ですから「イル」の語源は「ウル、エル」からきています。貸借の習慣が発達することで、言葉も整理されてゆきました。イル(借りる)に対してイラス(貸す)と言います。標準語としてまったく姿を消しましたが、南方諸島ではその言葉は残っています。
11) モシモシ
「モシモシ」は気のせく際の重ね言葉で、、起こりは「物申す」で、モウシはその略形です。巡査は「オイオイ」ですが丁寧な巡査は「モシモシ」です。三重鳥羽や山形県米沢では物を買う時のかけ詞は「モウシ」、「マオス」でした。路で知り合いが行きあったとこも「モノモ・ドウレ」です。訪問の辞、人を呼び止める時の言葉です。仙台の城下町では人を呼ぶ言葉に「ムシ・モサ・ムサ・モシャ・ムシャ」の五通りあったということです。東北地方では「申す」を添えれば敬語になるので、「エンシ」といえば「よろしゅうございます」となり、「コダンス」と言えば「こうであります」となった。九州南部では「イキモス・シモス」が申すであり、「マス」は「マイラス」からきています。相手に念を押す場合の「ナア」や「ノウ」に「モウシ」をつけて、「ナアモシ」とか「ネエアンタ」とか言います。
12) コソコソ
ナイショ話のことを「コソコソ話と言います。ここから「コッソリ」という副詞や「コソ泥」という言葉も生みました。コソは「窃かに」という意味ではなく、コソはゾを同じで、ココゾというよく聞く時の感じに近づけるためにコソコソと重ねたと思われる。私語は「ササメゴト」、「ササヤキ」で、九州では「ソソメキ話」、「ソソメク」と言います。何気なく耳に着くという意味でサ行の子音が使われました。東京で使われる「ミミコスリ」、「アテコスリ」は擦るではなくコソコソ話からきています。
13) ゴモットモ
信州松本の節分会の豆撒きでは、二人で前の一人が「鬼は外、福は内」と唱えると、後ろの一人が「ごもっとも、ごもっとも」と相づちを打ちます。まじないの言葉の後からそれを確実にする言葉を唱えるのである。最初はいわゆる言霊の力を確認する言葉であったものが、段々と相手の言うことを何でも承知する言葉になりました。そして「ご無理ごもっとも」という反語的表現にも使われます。「おまえの言うことはもっともだが・・・」はかならず「しかし」という文脈があります。もっともという言葉に後ほど「最も」という漢字を当てましたが、道理のある時は「もっとも」と書き、最初、最後のときは「いっとう」と書きます。
14) ナルホド
ナルホドも初めは言葉通りに、力いっぱいとかこの上なく、出来るだけという意味で使われましたが、「もっとも」と同様「しかし」という文脈で反対の事を言うための枕詞になりました。「なるほど見事でござる」は相手の言葉を承認し、自分もそれに追随する意味がありました。話の受け答えに「なるほど」を連発すると、その後大いに反対の事を言われそうです。
15) 左様シカラバ
「サ」は間接話法の内容を受けて「シカイウ」、「そういった」という意味で用いられました。自分のいう時のみ「トサ」と「サ」に「ト」をつけました。この小さな「サ」の一語をつけると、「嬉しさ」、「恋しさ」というように、形容詞を思想化する働きがあります。「サゾ」、「サコソ」は相手の言うことを信用し拡大する態度を示しています。「サモ」は現在よくない意味で使用されますが、「サモ悲しそうに」と使いました。「サヨ」(そうよ)は女性言葉であったものを、男性社会では「左様」と漢字で書かれ、「左様シカラバ」という様に二重の確認をしているのです。「サラバ」、「サレバ」が前にあったと思われます。別れのことば「サヨナラ」もこの流れにあります。
16) 知ラナイワ
終わりに「ワ」をつける文句はたいてい敬語でした。「アリマスワ」・「アリマセンワ」さらに「ヨ」をつけるのは二重の敬語(丁寧語)でくどいかもしれません。「アルワヨ」・「ナイワヨ」は新しい文句です。女学生がこれを採用したようです。「ワ」の代わりに「ワイ」という方が昔は多かった。「ナイワイナ」はこの種の一語を下に添えて「それを言うのは私である」と強調したかったのでしょう。日本語は代名詞の不要な言語と言われますが、「知らない」を「知らないわ」というと、知らないのは私だということを明言することです。村の児童は「オラシラネ」といいますが、「シラネオラ」が先でした。娘が「知らないわ」というのは「知らないわわたし」と同じ意味です。口語では文句の終わりに「ワレワ」とつけるのが、全国的に共通した法則だったようです。岩手県南部では「ソウカエオラ」といいます。山形県村山郡では「フダドレ」というのは、「ホンダゾワレ」に詰まった言い方でした。滋賀県北部では「そうだ」を「ソウヤナレ」といい、「私のだ」を「ワシノヤナレ」と言います。飛騨では「ワ」は粗暴な言い方と考えて女は「ワイナ」を使います。何でもないを男は「ナモヤワイ」、女は「ナモヤワイナ」といいます。越後ではこの「ワ」が「バ」に変わって、「どうしよう」が「どうしょーばやれ」になります。
17) ヨス、ヨソウ
「ヨシ」は「好し」で古くから感動詞風に使われ肯定の言葉でした。それから脱却して止めるを「ヨス」という様になりました。「トシニスル」は複合動詞で、相手の感情を傷つけないで、勧誘などを拒否する表現法として発達しました。その丁寧語は「オヨシナサイ」です。主に東京を中心に用いられています。「ヨシタ」、「ヨセヤイ」もその流れにあります。紀州では「マイスル」と言い起源は「マアエイ」でした。
18) ヨマイゴト
何の役にも立たない繰り言、未練、愚痴とも称せられる長文句が「トマイゴト」です。世迷語は当て漢字であてにはなりません。「ヨマウ」という動詞とその受身形「ヨマアレル」があったと考えられます。「ヨマアレル」は小言を言われる問意味です。甲州では「ヨマウ」はしかりつける事を「ヨマイコメル」と言います。信州では「ヨマウ」は「ヨモウ」となります。岡山県では「ヨーマ」は無駄口のことです。備後では遠慮もなく人の悪口を言う人を「ヨーマタレ」といいます。群馬県では「ヤレル」(言われる)、千葉県市原では「コゴチャレル」(小言を言われる)といいます。
19) オオコワイ、オッカナイ
東京では恐ろしいが「コワイ」であったのに、関東の東に行くと疲れた、くたびれたという意味で使います。「コワイ」の語源は「コワ飯」、「体がコワバル」という様に筋骨がくたびれて硬直する状態をいい、「肩がコル」もこの流れにあります。凝るという字を当てます。「オオコワイ」は驚きの感嘆詞を添えた言い方が特別に多い。「オオコワイ」、「オッカナイ」はほとんど同じ意味で、「ナイ」は無いではなく、形容詞です。この言葉の語源は同じで、化け物に遭遇した時の驚きの声から発しています。硬直とも関係はありません。「コワ」は「これは」という指定の感動詞です。だから「オオコワイ」は「おおこれは何だ」という驚きを表現しているのです。滋賀県では驚きは「アックワ」(おおこわ)です。大阪では「アックワ」は臆病者です。
20) ミトムナイ
古くから醜を「ミニクイ」といいます。女性には苛烈な表現だったので、いくらかでも和らげた形容詞を求めました。「ミニクイ」も「憎い」とは関係なく、見るに堪えないという同情の感じを持った言葉でした。「ミグルシイ」、「ミズライ」という言葉も改良を求められました。東北では「ミグサイ」、「メグサイ」といいました。「クサイ」はそういう感じがするという意味でしたが、東京では「ミットモナイ」、京阪では「ミトムナイ」といった「見たくはない」という湾曲した複合語に落ち着きました。食べ物の「うまくない」を「モムナイ」(うもうない)と言うのと同じです。現在の「ミグルシイ」という言葉もひどいという事になっています。侮蔑語ととられるのです。言葉は難しい。
21) モヨウを見る
「モヨウを見る」の「モヨウ」に「模様」を当てるのは間違っている。衣類の模様とは染め模様、綾模様のように紋様とも言いました。これを吟味すると日本語の「モヨイ」から出た「モヨウ」の方が正しいようです。「モヨイ」は本来は時の感覚で、目に訴える紋様ではなかったのです。雨モヨイ、雪モヨイ、お天気モヨイがその流れにあります。「モヨフ」という動詞が中央からなくなってしまったことが原因です。名詞形「モヨオス」(催す)だけが残っています。そこで地方語でその語源を探ってゆきましょう。山形県では「二日してから」ということを「二日モヨテから」といいます。宮城県仙台では「オモウ」といいます。「モヨウ」はただ時間がたつというだけでなく、待つとか見合すとかためらうとかという意味に移ってゆきます。秋田・青森・岩手では「モヨル」ですが、新潟では「しばらくモイルとやって来た」といいます。支度をするとか女がお化粧する意味にも使います。
22) よいアンバイに
男が文章を漢字ばかりで書くと、いろいろな無理が重なります。「アンバイ」が塩梅、按排になるのです。明らかに当て字です。ここから意味を取ることはできません。「アワヒ」すなわち間を取ることが語源です。それが「アワイ」となり、「ワ」がバ行に移って「アンバイ」となったのです。濁音のまえの母音にNが付く例があります。関西では人の健康状態をアンバイと言っています。「いいアンバイです」が毎朝の挨拶の言葉です。海に出る人には「アワイ」は「ヒヨリ」と同じです。岡山では風邪を「カゼアンバイ」と言います。「アワヒ」は本来「合う、逢う」という動詞から来た上品な古語でした。「アワヒ」が「アイマ」、「グアイ」に変化しました。
23) 毎日の言葉の終わり(読者のお手紙より)
最終節は読者からのお手紙の質問に答えています。そのなかから面白いものをピックアップして紹介します。
*人が来られた時「イラッシャイ」、「オイデナサイ」は変ではないかという質問にはびっくりした、私は別に変とも思わなかった。已然形の結びなので未来の事かと間違うらしい。昔は「ヨウコソ」を使っていた。挨拶の言葉は短くて何か抜け落ちているようです。
*「ケッコウデス」の意味が分からないという質問です。「結構な」はもと「よい」という代わりに、学のある人が使いました形容詞です。「ヨイ」、「ヨロシイ」と同じです。
*「アリガトウ」に相当する言葉が多いので補足する。秋田県北部では「タイガトウ」、「オホリナイ」、「ホノゴジャンス」という。「耐え難い」、「本意ない」という予期しなかった好意に戸惑う意味です。
*別れの小児語「ハイチャイ」や「アバヨ」はどういう意味ですか。前者は「ハイサヨウナラ」と言いたかったのでしょう。後者は「アハ」は遠くなる後ろ影を見送る感動詞でした。「アハ」を「アバ」に変えたのでしょう。レベルの低い言葉です。
*関東・東北の「コワイ」に対して関西では「シンドイ」というのはなぜですか。これは「辛労」という漢語を永く使っていて「イ」をつけて形容詞にした造語でした。辛労を「シンド」と発音したためです。信州では慰労会を「シンノ」といいます。
*「ドッコイショ」という掛け声は何処から来たのという質問に、「ドッコイ」は「ドコへ」が起源で、「ドッコイそうはさせぬ」という様に、相手の狙いを阻むときに使います。
*しまっておくことを「ナオス」というのはなぜという質問には、「ナオス」はあるべきところに戻すという意味です。

2) 買物言葉

「民間伝承」という雑誌に昭和17年7月に掲載された小文である。子供の買い物言葉から昔の生活の様子が垣間見られる。このことは柳田国男著「小さき者の声」(角川ソフィア文庫)にもあった。東京では「クダサイ」、「オクンナサイ」が多い。茨城県稲敷郡では「カーヨ」、千葉県東葛飾郡では「カァベ」、茨城県水戸では「カーベー」、甲州では「ウッテクダサイショ」、神奈川県三浦郡では「ケイナ」、静岡県では「オクンナ」、「オクー」、「オクッセー」、岐阜県高山では「ヨットクレ」、広島県三原では「ツカワサイ」、大分県西国東では「クテ」、鹿児島市では「クイヤシ」、群馬県では「クレナンショ」、福島県大沼では「クンツァイ」、宮城県では「クナーヘ」、岩手県では「クンチャイ」、「ケラシェ」、「クナンエ」、青森県津軽では「ケヘー」、秋田県では「タンヘ」(たまえ)、「ナンダカー」、「ナニカー」、福井県では「ウンデマ」(売って)、「オッケマ」(おくれ)、熊本県人吉では「クイヤンモウシ」(くれや)、金沢市では「コンネ」(この人に物申さん)

3) あいさつの言葉

本章は昭和19年3−5月の「民間伝承」に掲載された記事です。挨拶という文字は禅僧が中国から輸入した漢語です。挨は押す、拶は押し返すという字で、単に受け答えという意味です。では日本語に「挨拶」に相当する古語がなかったのかと考えると、人が顔を合わせて全く物を言わぬことはあり得ないので、在ったものが消えようとしていると考えるべきです。声をかけるという意味で「モノイイ」(物言い)といいますが、阿波祖谷山には「モノイ」があいさつに相当します。長門の相島では新婿さんのお礼まわりを「モノイイ」といいます。古風な人は玄関先で物申す宣言をします。「モノモウ」といって相手は「ドウレ」と言い交わします。熊野の須賀利では「モロモロ」といい、新潟頚城郡では「モノモノ」といいます。尾張日間賀島では正月の子どもの門口まわりでは「モノモス」という。日本では挨拶の言葉は社会生活の第一歩ですが、次のようなものでなければならない。@同じ共同生活の仲間であること、A相手の勤勉をたたえ、ねぎらう、B相手の幸福を願う、C天候模様の良しあしを含みます。挨拶の言葉は時間によって変わります。
*早朝では、「オハヨウ」が定番です。これは相手の勤勉を感嘆する言葉です。加賀金沢では「オヒナリアソバイタカ」、「オヒンナリ」(目を覚ましたかの上品な言葉)、九州の下五島では「オモンナンシタ」(もうおきられたか)、荘内では「タダイマ」、仙台では「タデェマ」という。挨拶の「今日は」は空疎なのでさまざまな朝の挨拶があります。沖縄では「チウヤウガナビラ」(今日は拝み侍るよ)、種子島では「ケフハメッカリモウサン」、佐渡島では「オツカンナサイマショ」、播磨では「ゴショウダシ」、佐渡では「ゴセイヲオダシナサイマシ」、近江では「オセンドサン」、大和五条では「キビシゴザイマス」、上野多野では「オカマケナンショ」、肥後宇土郡では「オッケナハリマッシユ」、大分では「オヤンサンスロ」などは皆勤勉を礼讃する言葉です。
*昼頃になっての挨拶には、丹後加佐郡では「ノマンシタカ」(お茶したか)、越中砺波では「オチャオアガリ」、関西では「ヨウオアガリ」(仕事を切り上げる事)、関東の下総香取では「オアガリナサイ」、茨城稲敷では「オワガリナサイ」、陸中閉伊では「アガリアンスタカ」というのは、外に出て働く人を休ませ、骨折をねぎらう言葉です。
*晩方になると、もう「オアガリ」とはいわず「オシマイナ」というのが全国的に普通の辞令になります。備後福山では「オシマイナ」、大阪では「オシマヤス」、静岡では「オシマイデゴゼェンスカ」、千葉県香取では「オシマイナサイ」、伊豆韮山では「オシマイナサイマシ」、富山では「オバンデゴザリマス」、静岡では「オバンニナリヤンシタ」、仙台では「オバンニナリシテゴザリマス」、山形県南部では「オバンニナッタナシ」という。心やすい中では食事がすんだか、主人は入鹿を尋ねるのが普通です。肥後球磨郡では「オンナハンモウスカ」、日向椎葉では「オルカヲ」、筑前博多では「ウチナ」、周防岩国では「アンタンデゴザイマスカ」、福井県では「オイデナハイ」、加賀金沢では「コンノシトイライシャルケ」、越中富山では「オイデナハンスケ」、能登では「イラシンスケ」、福島県磐城では「イタゲアリ」、岩手県では「オデヤンシタカ」という。
*東北地方ではもっと略式の挨拶が多い。秋田では「ハアイ」、山形村山地方では「ハイットウ」、陸前気仙沼では「ハイット」、下総東葛飾では「ネ」、近江伊香では「バ」、紀州日高では「ヨイト」、伊予北宇和では「ハイー」という。
*子供の挨拶はみな「ゴメン」、「ゴメンナ」といっていました。長門下関では「オイロン」、壱岐では「ゴヨウシャオシツケラレマッセー」、淡路由良では「ゴシャメンナサイマセ」、近江では「オユルシナ」、加賀では「ゴリサイ」、信州南部では「オヨセテクダサイ」、陸中下閉伊では「ゴメンネァセアンセ」という。
*別れの挨拶はとても重要視されていました。一時的な別れであって、長い別れでないことを確かめるものでした。子供が「イマニイ」、「マタアシタ」というのはその形を踏襲しているからです。日向生目村では「マタクルガノ」、豊前宇佐では「マタナ」、安芸倉橋島では「マタキマショ」、岩見那奈賀では「ヘエマタキマショ」、静岡では「マタヨ」、福島県耶麻郡では「マタガリヤス」、宮城県南部では「オミョウニチ」、山形県米沢では「オアスウ」といいます。送る方では、「イカサイセ」、「イランシテ」、「アエシャレ」という行けという命令形を用います。気を付けて、安全に行けという意味で佐渡では「ヨウユカンシ」、陸中遠野では「カセェデケヤ」、木曽では「タメライ」といいます。帰る客は夜になれば「オヤスミナサイ」とおいうのが標準です。薩摩狐島では「ダーツヤイモセ」、肥前上五島では「ダツヨ」、「ダッチョ、ダッチョナ」、壱岐では「オイザト」、対馬では「ザットヤー」といいます。これは「イザトウ」すなわち何かあればすぐ目を覚ませという意味であった。こうして双方から祝福の言葉を掛け合って、「ソレジャ」、「サヨウナラ・サラバ」と言って別れます。

4) どうもありがとう

この章は昭和27年4月に「言語生活」に掲載された文章です。「どうもありがとう」は普段言い慣れ、耳になれた言葉だと思っている人が多い。しかし子供が使用するとおかしな具合になる。「どうも」は確かに新語であるが、江戸後期から盛んに使用されている。いわば老人語、高等階級の言葉だったのである。どうしても、どう考えても、終局的に判断するとに添えて使う言葉でした。その持って回った言い方を「ありがとう」という平易な言葉に添えることが奇異な感じを受けたのである。同じことは「トテモ」にも通じる。「トテモ」はまずできない相談に付けるものと決まっていた。だから子供が「トテモ綺麗だ」というとおかしく聞こえるのだ。しかし誰もがそう言っているうちにだ誰もおかしいとは思わなくなった。「ドウモコウモ」は一つの言葉と考えている人が多い。「ドウモ」+「トモコウモ」の二つの言葉に分かれる。さらにいうと女の頭巾に「ドモッコ」と「トモコウモ」の2種類があり続けて言うと「ドウモコウモ」となる。「トテモカクテモ」と同様に「どうしてもこうしても・・・できない」という意味に使ったようである。この「トモカクモ」系列の言葉はよく使用され、長く役に立ってきた言葉も少ない。タ行の濁音化は一般の風潮で、「イズレ」を「ドレ」、「イズコ」を「ドコ」、「イズチ」を「ドッチ」、「トモカクモ」を「ドウモコウモ」と大変な活躍ぶりである。和歌や祭詞にあれほど嫌われていた濁音を、D子音をわざと中心や頭に置こうとする傾向が強くなった。「デゲス」、「デハ」、「ダッテ」、「デモ」、「ダカラ」、「デスカラ」、「デハサヨウナラ」などが市民権を得ている。耳障りな坂東語の域を出ている。苦戦したのが女言葉である。トカク系の言葉を「とすればかくなり」、「となりかくなり」、「とさんかうさん」と書き分けるとか、「トヤカク」、「トニカク」という新しい形で対応した。「トモカク」が「ドウモコウモ」に変わり、「ドウゾ」がお願いにつき、「ドウモ」が有難うに付くようなったのはいつからかは分からない。

5) 女の名

この章は昭和19年6月「民間伝承」に掲載された文章です。太閤秀吉は北政所に宛てた手紙の中で「ゴサン」と呼んでいる。「ゴサン」は東京では「オクサン」に相当する濃尾地方の方言です。「ゴサン」は実質上「ゴッサン」、「ゴッサマ」と発音されたそうです。300年前のこの時期に敬称「サン」が使われています。「サン」は「様」のことです。東京では大家の主婦は「オカミサン」、「奥さん」は武家、医者、寺に限られていました。「オカミサン」が長屋まで普及するにつれ、その語感は低下してゆきました。主婦を「ゴッサン」、「ゴッサマ」という言い方は美濃、尾張、紀州にあり、島根石見、下関、徳山、岩国では中流以上の妻女を「オゴウサン」と呼ぶ。濃尾の「ゴッサン」と防長の「オゴウサン」はまず同じ言葉であろう。山口市ではお嬢さんを「ゴウサマ」、馬関や徳山では娘を「ゴウサン」と呼ぶ。女性を尊敬して「ゴ」と呼び、「御」の字を当てている。九州では婦人を「ゴウサン」と呼ぶことはなく、若い未婚の女子だけを「ゴサン」と呼ぶ。九州各地の「オゴ」はすべて娘のことである。東北仙台では武家の娘を「オゴサマ」、山形では奥様を「ゴンゴ」という。京都では「オゴ」は娘の軽い敬称であった。「ゴ」という尊称がなかったら、「ゴゼン」、「ゴゼ」という言葉は出なかった。上方では良家の若い婦人を「ゴリョウニン」(御寮人)という。「ゴリョウニン」は各地で言い方を少し変えて既婚者の敬称となっている。豊後日田では「ゴリエン」、博多では「ゴリョンサン」、備後福山では「オゴレンハン」、飛騨では「ゴレン」、米沢では「オゴリッサマ」と呼ぶ。各地で娘のことを同じ語で呼ぶ習わしもある。

6) ウバも敬語

本章は昭和22年5月「民間伝承」に掲載された文章です。前章の女の名前も変化が激しく、貴女を意味した「オカタ」という言葉は「オッカア」となって劣化しました。「オッカア」は年とった雇い女などかなり低い庶民的な言葉になりました。加賀の能見郡や能登、越中富山では女中を「ベーヤ」、「ベ」といいます。富山では女中の総称として「ウンサメ」といいます。佐渡では母を意味する言葉で「ウメァ」、「ウメェ」といい、安房半島では母を「ウメヤー」、「マイマイ」と呼びます。幼児語から発生した言葉だそうです。滋賀県湖北地方では母を「ウメ」といいます。岩手県では「ウマヤ」、九州肥前五島で母のことを「ウマ」と言います。伊豆では「ウバ」のことを「ウマ」と呼んだ。「ウバ」は祖母、乳母、姥、伯母のことで区別ができない。福島県大沼郡では下婢のことを「ウバ」という。会津では「オバ」になる。伊達では雇い女(下婢)を「オバ」と呼ぶ。大黒(僧侶の隠し妻)や妾を「オバ」と呼んだ。母以外の卑しい女を「ウバ」といい、堅気の既婚者を「アバ」と区別している。

7) 御方の推移

本章は昭和21年10月「民間伝承」に掲載された文章です。主婦の敬称として最もポピュラーなのは、奥さまではなくまたおかみさんでもなく、方言の「オカッサマ」、「オカッツァマ」であろうか。一番広い地域において用いられているからである。福島市、伊達掛田から南の関東の栃木、茨城、群馬、そして中部、九州に広がっている。愛知県三河は「ゴッサン」地域である。能登や出雲では「オカッツァマ」は中流以上の主婦の事だとしている。周防の柳井ではこれを女の総称だと思っている。昔は母を「オカア」、「カカ」という家が多かったが、下品だから「サマ}をつけるように指導したようである。武家で身分の高い人の妻を「オカタ」と呼んでいた実例は「吾妻鏡」、「太平記」の文献に余るほどある。さらに「御方様」という言い方は敬称「様」をつけた言い方で例は少なかった。

8) 上臈

本章は昭和21年9月「民間伝承」に掲載された文章です。女性を尊敬した言葉では、「ゴサン」、「オゴ」の類がかなり古く、他は次々に現れては消えていった。中でも「上臈」は元は漢語で文書言葉であったので、口語として普及することはかなり時間を要したが、使われる例は方言に残るばかりである。上臈という意味は、身分の高い家の夫人であるばかりでなく、労働をせず長い袖の着物を着て、化粧した女性とされるに及んで、都会や港のとんでもない女がこの名称を独占した。もはや良家の女性を呼ぶことは憚られる名称となった。「上臈」から「女郎」へ転落したのである。秋田県由利郡では妻女のことを「ジョロ」、山形県庄内地方では上流の娘のことを「ジョロハン」といった。加賀の金沢では士族の娘を「ジョウロサマ」、大分県では「オジョラサマ」は主婦、奥さま、令夫人を指した。四国讃岐高松では「オジョウロ」といえば豪家の内儀のことで、若い婦人、町の細君は「ジョウサマ」と呼んだ。千葉香取郡では普通のおかみさんは「ジョウサン」、上流婦人は「ジョウサマ」といった。その流れで「オジョウサマ」という標準語が派生した。静岡県東部・伊豆では他家の花嫁に限って「オジョウロ」といった。九州福岡、佐賀、熊本にかけて若い女性の総称として「ジョウモン」といった。石川・富山では「ジャー」、「ジャーマ」という名で母、妻女を呼ぶのが普通である。家庭内で使われる言葉で「サマ」をぞんざいに発音したようである。東北の岩手、秋田では母のことを「ジャジャ」、「ジャッチャ」と呼ぶのも同じようだ。

9) 人の名に様をつけること

本章は昭和27年5月「言語生活」に掲載された文章です。日本語独特の方角の言葉について述べています。「アオムク」、「アオムケニ」という言葉があります。同じようで微妙に違います。「アオムク」、「アオヌク」は腰をかけたまま上半身から首だけを後ろに反らすことで、「アオムケニ」、「アオムケサマニ」は上を向いて寝るということです。ここで「サマ」を入れないと意味が通じない人がいます。この「サマ」は日本語において大いに役に立つべき大切な言葉でした。はじめは主として方角の意味に使われました。「イキシナニ」、「カエリシナニ」という意味と同じです。「イキサマ」、「カエリサマニ」と書く文があります。「オモイサマ」、「イカサマ」(どう考えても)という言葉もあります。今は「ドウモ」がこの「イカサマ」の代わりをしています。「ドウモコウモ」というのは「ドサンコウサン」、「トサマコウサマ」から「サン」が抜けたのです。人の名に「サン」をつけるつけることは九州では「ドン」をつける事よりずっと少なく、「サン」は方角の意味で使います。関東で「方」へという言い方は、九州では「サマニ」、「サマヘ」というところが多い。「サマ」を方角を示す言葉として使う習わしは当方地方において有名で、どこサゆく、おらホサ来るという。「サマ」を人の敬称として付けることは、これも方角の語で、人を見つめたり指さすことを失礼とする文化があったからである。いまも「アノカタコノカタ」、「アナタ」、「ソナタ」という。敬称の順でいくと「御前」、「オマエ」、「オメエ」というのも距離感である。人を呼ぶのに「サマ」という語を添えるのは、この方向、自分が向かっている方向に居られる方ということである。最初は女性の貴人であった。次には名前を言わずに、方向だけの言葉を使う敬称ができた。「オマエ」、「オカタ」がそうである。

10) ボクとワタシ

本章は昭和21年5月「赤とんぼ」に掲載された文章です。「ボク」という代名詞は、人が自分の事をへりくだっていう言葉です。バ行の濁音はあまり好まれないし、「ボク」は本当は良い言葉ではなかった。九州と四国では「ボク」とは一般によくない事をさします。馬鹿とほとんど同じ意味でした。これに当てた漢字は「僕」はしもべ(下男、召使い)という奴隷言葉です。香川県では「ボッコ」といい、ボッコに付ける薬はないという言い方があります。中世の「オコ」が語源ではないかと思われる。京阪地方では馬鹿に大きいという意味で「ボコイ」、「ボッコウ」などという。「ボク」は男性に対して用い、女には「ショウ(妾)」を用いた時期もあった。「ボク」を用いない言い方では、「ワ」→「ワレ」→「オレ」、「オラ」→「ワタクシ」、「ワタシ」、「自分」の順に上品になってゆきました。砕けた言い方には「ワテ」、「アタイ」、「ウチ」、「ワシ」という方言があります。いまでは「ボク」という代名詞は児童語(幼児語)になっています。言葉の変遷による分化には二通りの方向があります。@は今までのものをなるべく保存しておいて、別に普段着のようなものをこしらえる。A言葉の形はそのままにして、意味合いが下に降りて来る方法である。敬語から普段語に格下げするのである。


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