170210

文藝散歩 

柳田国男著 「小さき者の声」
角川ソフィア文庫 (2013年新版)

児童の遊びと言葉から見えてくる日本の昔

本書の題名とその収録された小篇の構成は誰が決めたのだろうか。角川書店「柳田国男傑作選」編集委員会あたりで決めたものであろう。構成は、@「小さき者の声」(昭和35年 角川文庫)、A「子供風土記」(昭和35年 角川文庫)、B「母の手毬歌」(昭和20年 朝日新聞社)、C「野草雑記」(昭和37年 角川文庫)、D「野鳥雑記」(昭和37年 角川文庫) E「木綿以前の事」(昭和30年、角川文庫)の6篇からなる。「子供風土記」が本書の約半分を占める。本書の題名「小さき者の声」という趣旨からすると、前半3篇がそれに関係し、後半3篇は特に子供には関係ない。前半の3篇だけで本書を作ってもよいはずで、その方が分かり易い。後半3篇は関連性のない付録みたいに考えておこう。本書の題名は第1篇「小さき者の声」をそのままとってきた。

1) 「小さき者の声」

子供の言葉があるものの変遷や過去を焼きつけている。子供は尋ねなくとも表すものであるから、こちらがその気になって聞く気になれば、子供の文化はおいおいと分かってくる。おとなの文化から消え去ってものさえ、窺い知ることができるはずである。なぜなら老人の昔話こそが子供が目を輝かして聞きそして覚えているのである。子供たちが歌う民謡「お月さんなんぼ」という月よみの歌、「お月さんなんぼ 十三ななつ まだ年は若いな 云々」から、子どもはお月さんをどう呼んでいたかを、全国に流布している歌詞から探ってゆこうという。紀州では「アトサン」、淡路洲本「アトサン」、周防長門「アトサン」、長門下関「アトサン」、肥前島原「アトサン」、長崎「アトシャマ」、「オトシャマ」、日向飫肥「オトサン」など、月を「オトサン」・「アトサン」と言っている地方は方言集からはこの他の地方では、伊勢山田、米沢、秋田、羽後川辺などである。月の異名については、盛岡で「トデッサン」、岩手郡巻堀で「トド」、柴波郡では「トデアサマ」、仙台周辺では「トデサマ」(太陽は「アットデサマ」)、佐渡で「トウトサマ」、沖縄糸満で「トートーメ」(メは前を言う意味でサマと同じ)という。これらは「あな尊と」という礼拝の言葉からきていることは明白である。さらに月の異名には、信州下水内郡「ナンマンサ」、近江愛知郡「マンマンサン」、大和高田「マンマンチャン」、羽後仙北「ニョニョコ」、常陸稲敷郡「ノンノサン」、福井「ナンナ」、近江膳所「ノノサン」、伊予西条「ノノサン」という呼び方が多い。「ノノサン」は非常に幅広い意味に適用されて起源はつかみにくい。例えば米沢では仏像を「ノノサマ」、書物を「ノノ」、僧を「ノンノ」という。僧を「ノノ」という例は他には、秋田、常陸稲敷、上総長生郡にもある。越前では月や仏さまを「ナンナ」、飛騨吉城で「ナンナサマ」、大和高田で「マンマンサマ」という。これらは仏語「南無阿弥陀仏」からきていることは間違いない。関東では「ナムナム」、関西では「マンマン」という。「あな尊と」という意味で神仏、仏、太陽、雷、神、星、薬を一般に「アトサン」というのである。ナム天照神宮様という様に、神に対して仏語「ナム」をつける前は、神をどう呼んでいたのだろうか。神を拝むときの言葉の全国小学校調査で分かったことは、古い言葉は都を離れた遠い地域で遺るという鉄則がある。壱岐・肥前松浦で「アアトウト」、陸前気仙・陸中釜石・盛岡・羽後秋田で「アットウダイ」、陸中平泉で「トデトデ」という。だから神様は「アトサマ」、「アットデサマ」であろう。「アト」という言葉が挨拶の掛詞「アン」、「アー」、「アアイ」にまでに変化している。信仰には「モッタイナイ」、「メデタイ」、「アリガタイ」が「聖なる」という意味に使われたようだ。「アナトウト」は仏教の御詠歌にも使用されている。「ナム」がなぜこれほど浸透したかを考えると、音節の力が働いているようだ。信州では呼びかけに「ナムホイ」、三河尾張では話の終わりに必ず「ナモ」、「ナアモシ」をつけるし、幼少時には「ナ」音が重要な発音である。千葉では、姉を「ナナア」、兄を「ナアサン」といい、山形荘内では母を「ナナ」、土佐でも母を「ナナサン」越後では祖母を「ノノサン」、丹後では子守を「ナア」、「ネエ」、「アネ」、近江では稚児を「ナナヤン」、幼児を「ネネ」という。幼児語以外でも、長者を「オトナ」、丁男を「セナ」、秋田では戸主を「アナ」と呼ぶ。これらから掛け声の「ナモシ」、疑いの「ナニ」という語感が共通して「ナム」という外来語を吸収したのではないかという著者の意見は示唆に富んでいる。月の「アトサマ」や「トデサマ」の「サマ」という言葉は大正を直指するのでなく、忌み詞から敬語に変化した。単語は発生の始めは簡単でなければならない。だから児童は神仏に対すると同じように、月に対して礼拝の言葉を名づけたのであろう。サマという敬語は予期しないでものまでつけられた。サマをつけて置いたら無難というか、あたりのいい言葉になった。豆を「マメサン」、鉤を「カギハン」、蚕を「オカイコサン」などなど何でもサンづけで呼んだ。尊い事から「トウトゴ」、「トドコ」、「オデコ」、「デコボコ」も面白い例である。また「トウザイトウザイ」も「東西」ではなく「尊い事」から来たと思われる。つぎにままごと遊びから「オママゴト」を考えてみよう。「オバチョコ」、とか「チンガラコ」という詞の起源である。御馳走に招くという「ヨブ」、「ヨバッコ」が起源であった。饗応を「オフルマイ」というが、これがままごとの意味で、津軽では「オフルメヤコ」、秋田では「オフルメエッコ」、米沢では「オフルマエゴト」という。信州では「オバゴト」、「オキャナンコ」、東京では「アネサマ」遊び、甲州では「オカタゴッコ」(オカタは主婦のこと)、秋田では「ジャジャボッコ」(ジャジヤは母のこと)、紀州では「チャチャボコ」、秋田男鹿では「トナナンコ」(トトは殿、賓客)、諏訪の「オキャナンコ」、熊本の「キャクナンド」、上総市原の「ボボタンコ」、安房では「ケアドッコ」、「カイドゴト」(カイドとは玄関のこと)、駿河富士郡で「オコンバ」(今晩は)、九州五島では「ババジョ」、「ツツゴマジョ」、博多では「ママンゴウ」、長崎では「ママンゴ」、平戸では「ママゴジョ」、鹿児島では「マゴンマネ」、豊前宇佐では「マンマンゴト」という。「ママゴト」という方言が一番広く分布しているので標準語となった。ママとは小児語で食事の事です。日常の食事ではなく、公式の食事(晴れの会席)を意味してお振舞事も同じであった。表に食事用具を持ち出して遊戯するので、紀州日高郡では「カドママ」といい、美濃加茂郡では「辻飯」という。これは道饗祭と同じで門出が無事であることを祈るのである。3月3日のひな祭のあと岸辺で相嘗をするとか、遊山をするのと同じである。神事であることを大人は忘れてしまっていることを、子どもたちは面白かったので形だけを繰り返していることで伝わったのである。

2) 「子供風土記」

この文は、朝日新聞の連載記事として開始され、子どもとお母さんが一緒に読めると趣旨であった。項目は全40項目、1項目は文庫本で3頁なので、全部で120頁の内容量である。昭和16年12月14日に本となった。本書 柳田国男著 「小さき者の声」の約半分を占める。本書の読者層は子供というよりは、年配の方と若い青年(つい先ほどまで子供であった)が子供時代の追憶に懐かしく浸れる読み物となったようである。母親が童話絵本のように子供に読み聞かせるという図式ではなかった、新聞記事に使われた挿画(初山滋 画)が記事ごとに挿んであるので、なお具体的にイメージできる楽しみはある。記事の内容は40篇が独立した内容というのではなく、一つの話題を2,3回続けて自然と他の話題に移る。 そこで適当かどうかは自信ないが、おおよそ9の話題に分けてひとくくりで内容をまとめて行こう。
1) あてもの遊び(鹿遊び、カゴメ・カゴメ、中の中の小仏、地蔵遊び)
一人が壁にむかって四つん這いになって、その上にまたがった子が背中に指(本数だけ)を押し当てて、「鹿・鹿・角・何本」という問いかけをする遊びである。世界中に分布しているらしく、アメリカの大学から「日本にもこのような遊びがあるか」という問いかけがなされた。そこで「民間伝承」という会報誌で告知すると、何名からか「有る」という返事をもらった。滋賀県今津、福岡県久留米から報告があった。1か所だけなら外国の宣教師から教わったかもという推測もできるのだが、離れた数か所で発見されたなら、日本にも独立して存在したことになる。東京でも下校時の別れ際にいう鵜人の背中に指をあて「おみやげ・三つに・気がすんだ」という遊びがある、人の背中を打ってあてもの遊びをするを考えてみよう。指を同時に打たれて何本かを当てられるかどうかきわめて疑問だが、果たしてどういうルールなのだろうか。遊戯と童言葉jは表裏不可分であった。手をつないで、くるくる回っている間に歌う言葉であるが、「かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるとかめがつ-べった」・・・「後ろの正面だあれ」というものです。あきらかに「あてもの遊び」のひとつである。ここで「カゴメ」とは「かがめ」という意味ですが次の籠に引きずられて「かごめ」となったようです。いくつか意味不明の言葉がある。「中の中の小仏」というものは「中の中の小坊さん なァぜに背が低い 親の逮夜にとと食うて、それで背が低い」・・・「後ろにいる者だぁれ」というあてもの遊びです。鹿児島では「マメエダレ」は真前誰というものです。山梨県では小坊が地蔵さんに代わって、「中の中の地蔵さん 外の外の小僧ども なぜ背が小さい・・」となっている。茨城県の「地蔵遊び」は、一人を真中にかがませて目隠しをさせ、周囲の子どもらが「なぜ背が低い」と唱えて回り、運動を止めるや、中の地蔵さんが一人を捉えて誰さんと名をあてるのである。福島県では中の中のに替えて「お乗りやァれ地蔵さん」と唱える。一つの文句を繰り返しているうちに催眠状態から「神の口寄せ」に近いやり方であてものをおこなう。つまり子供たちはその真似を繰り返し、形だけでもこれを伝えているのかもしれない。
2) 鉤占い
箸とかこよりとかの先を少し折りまげてくるくる両手で揉み回し、その先端が止まった先の人を指定する遊びを「鉤占い」という。それが隠したおならの犯人を捜し当てる遊びに集約している。四国・九州では「ヘヘリカノド」、「カネジョ」と呼んだ。カネジョもカンドも元は鉤の意味である。上方では「ベロベロの神様」という。「ベロベロの神様は 正直な神様で おさきの方へ面向ける」と囃しながら先の曲がった棒を手で回した。鉤の霊の尊いことを讃えて占った昔の人の所作をまねているもであろう。東北の子どもがぺろぺろ野遊びをするときは、今の小枝が鉤(鍵)状に別れているのを折って持つ。長野では正月の三日を「ペロペロの歳取り」と称して、小枝の鉤を神棚に上げておく。ペロペロというのは口元で回して呪文を唱える行為が嘗めるようだからである。人形のように見ることもできる。「オシラサマ」という木の神、とぷきょうでは「オシャブリ」、関西では「ネブリコ」という木の人形は今のこけし人形の一つ前の形であった。子供の玩具を「オモチャ」というのは弄び物からきている。子供に買ってあげる玩具はおみやげであり、それは「御宮笥」からきている。木の枝には力があるという信仰は鉤曳神事に見いられる。木の小枝を大木の高い枝に投げ掛けることを「鉤かけ」、「カンカケ」という。小石を鳥居の上に載せる行為、沓掛と言って草鞋を投げかける行為も同じである。
3) 念木・ねんがら
木の鉤の先を尖らせたものを、柔らかい田の土に打ち込んで、先に相手が立てた木を倒す遊びを「ネッキ」(根木)、「ネンボウ」と呼んでいる。たおした相手の木は自分のものになるルールである。この遊びは全国的に流布している。東北では「笄(こうがい)打ち」、「ツクシ打ち」と呼んでいる。「ネッキ」を根木という言い方と念木と考える見方がある。後者の見方は古い時代の神事を思いおこさせる。柳田氏の目的は自分のにある古い「日本」の再発見にあるので、各地の呼び方を収録してみると、北陸能登では「ネンガラウチ」、鳥取では「ネンガラ」、長崎五島や熊本天草では「ネンガラウチ」と呼び旧11月丑の日の山神祭に遊ぶのである。これは信仰上の儀式と結びついている。鹿児島では「ネンガラ」、「ネン」と呼ぶ。関西では鉤のないネンボウが多い。従って「ネンウチ」は「念打ち」と書くほうが意にかなうようである。豊前築上郡ではこの棒を「ネンギ」、伊予宇和島では「キネン」という。神戸では「ネンガラ」といい5寸釘を用いるという。有馬郡櫃神社に伝わる「ネングイ」は、正月二日の鬼打ち神事の一部をなしている。的射行事の後に弓の周りに24本の杭を打ち、月々の吉兆を占うらしい。尾張の知多半島ではこの遊びを「ネギゴト」といい、木の棒を「ネギ」と呼ぶ。
4) 子供組
的射行事は四国や九州では「百手祭」、「オマトイの神事」という。農民は弓矢は不得意で神祭りの時しかやったことはない。又射手はたいてい男の子で部落を代表して「弓太郎」と呼ばれます。京都の大きな社では賭弓の御式があって、左右に分かれて勝負を競います。応援する人々を「念人」と言います。相撲、鶏合わせ、綱引きなどの競技は子から大人への過渡期に行われる儀式ともいえる。昔の親御さんは子供の遊びには全く無関心であった。親子で遊ぶのではなく、少年の仲間の中で遊ぶので、年長の子が世話を焼いてくれますし、子供は子供のしきたりに従います。子供は大人社会を見て成長してゆきます。12,3歳(元服)で子どもは若者(青年)の組織に入ります。九州や東北では子供から若者への時期に綱引き行事に参加します。村の鎮守の草相撲、盆踊りなどの遊びを子供たちは自分らの遊びと心得ていますので、大人は口を出しません。子供たちは農作業にもそれなりの役割を引き受けます。モグラ退治といって畑を踏み鳴らすとか、関東・信越地方では海鼠の匂いをモグラが嫌うといっては、海鼠を縄でくくって畑を引っ張り歩く習わしもあります。東北では海鼠の代わりに束子(たわし)を引きずって歩きます。海鼠のことを「オゴロモチ」、「トウラゴ」ということから、京阪地方の正月の遊びに「おごろもちはうちにか、とうらごどんのお見舞いじゃ、おるす、おるす」という節を唱えます。正月は子供らは忙しい。モグラ退治のほか鳥小屋の行事があります。柳の木を削って飾りをつけた祝い棒をめいめい手に持って、この棒を打ち鳴らして鳥を網に追い詰めるのです。「ワアホイ小屋」、「ホンヤラ党」と呼び村もありました。村の鳥追いの詞が広く東北には分布しています。
5) 祝い棒の力
子供は棒を手にすると少しは強くなった気がするようです。虫や害鳥を駆逐し、果樹を叩いて豊作にするばかりか、若い主婦を腰を叩いて子供を生むように促したりする特別な力があるように思っていた時代がありました。この棒を「ダイノコ」と呼ぶ地もありました。関東以北では「ヨメツキボウ」、九州では「ハラメンボウ」、対馬では「コッパラ」、鹿児島では「ダシヤレ棒」といっていた。正月15日の夜羽後の飛鳥では、子どもたちは両手に「ヨンドリ棒」をもって、家の門口に押しかけ、そこの夫婦の悪口を言って悪態をつくのです。「ヨンドリ棒」は桑の木でできており、先端を削って目鼻口を書くのですが、「オシラサマ」に似ている。その時唱える文句に「ゆの木の下のおん事は さればその事めでとう候」は意味不明です。日本外史の楠正成の話に楠の木の下を指して安らかな御座所といった例が思い起こされる。「やなぎの下のおん事」という地方もあって、「ゆ」とは「ゆゆしき」という齋の詞かもしれない。信州松本では盆の七日に柱の下に子供を座らせて祭りをしたというが、神が依る木から尊い言葉を伝えるのが祭りの子どもの役目だったようである。それがまた祝い棒に特別の力を与えるとした古代人の信仰が伺えるのである。
6) 左義長
東北では正月の「春田打ち」、または「田植」という行事に、子どもたちが「明けの方から早乙女が参った」とか「田人が来たよ」といって、門口で家の人からお餅を貰う行事がある。もとは1年の始め、田植えのまねごとをして農作物の吉凶を占うという習わしから来た子供だけの行事であろう。これに似た行事は、四国の「粥釣り」、中国地方の「コトコト・ホトホト」、「トロベイ」、九州山奥の「カセドリ」など起源はちがっても、正月に子供の口から縁起のいい言葉を聴こうとしたのでしょうか。筑前博多では「センザイロウ」という子供行事では「千ぞ万ぞ 御船はぎっちらこ」と唱える。門付三河万歳のようにめでたい詞を正月に聞く習わしであろう。東京高井戸の甲州街道に「お撒きやれお道者・・・」と唱えて旅人に銭を撒くことを要求する子供の姿があったという。この卑しい乞食のような行為の原因はよくわからないが、連歌師の文芸として宗祇法師の逸話に、「さる稚児問答」というものがある。伊勢の櫛田川あたりで子供が木に登っているのを見て連歌師が「さる稚児と見るより先に木に登り」というと「狗の様なる法師来れば」と逆襲された話が残っている。子供らはいたずら好きである。8月15日の満月の日のお月見の夜、子供らが長い竹竿をもって団子を刺して盗るいたずらがあった。逆に村で嫁迎えがあると、その家に竹さおの先に樽、笊、釣瓶をつけて差し入れる風習があった。「樽入れ」、「笊転がし」、「釣瓶さし」といった。饅頭を盗まれても誰も文句はいわなかった。千葉県の村で苗代の種まきに、子どもらは焼き米袋を首にかけて村中を貰い歩いた。又ひな祭りの日は供え物を貰い歩いたという。これを「雛あらし」と呼んでいた。これら公認されたいたずらが最近めっきり少なくなった。正月小屋の小正月前後の左義長のころ、道祖神の勧進を強要する子供らの悪太郎ぶりは先に書いた甲州街道の旅人に銭を撒くことを要求する子供らであった。正月ばかりは子供は神様の代理だからというのであろうか、この悪太郎を許す習わしがあったようだ。左義長は関西ではただ飾り物を焼く行事になっているが、「おこもり」小屋に入って、子どもが差配する行事だと思っていた。愛知県では15日にその小屋を焼くことで祭は終わった。東京多摩川の村ではこの正月行事を「サイト焼き」という。藁で作った8畳ほどの小屋をやいて、木の枝に刺した団子を焼くのである。正月小屋ではおかしいくらい子供の自治が行われる。15歳くらいの少年を親玉、中老、隠居などと呼び絶対服従をする。この子供組制度がよく発達しているのが、信州北部から越後にかけての農村である。それは青年団との関係が強い地域であろう。
7) 女児のおままごと
男の子のもぐら打ちや鳥追いなどは単なる遊戯というより、村の共同作業の一部が残っていました。秋田のカマクラという雪小屋にも、以前の鳥追い、御火焚棒がまだ残っていますが、今や女の子がコタツを持ち込んで飲食を楽しむだけになっています。もちろん他の正月小屋でも子供だけの食事をするだけであるが、これには女の子を入れない。天竜川の雛送りのように三月節句の日に河原に莚を敷いて、火を焚き飲み食いする女の子だけの集まりがある。若狭の常神村の「カラゴト」は河原で粥を焚くことです。外で料理・食事行事をする習わしは、美濃「辻めし」、五島「門めし」、紀州「門まま」と言って中元の行事であった。ままごとは盆の行事から来ている。瀬戸内では「餓鬼飯」、浜名湖では「ショウロめし」というとおり、外精霊や無縁仏が家の中に入らないようにするため、戸外で別の台所をつくり食物を作って供養してお帰り願うことが目的の盆(中元)行事であった。この小さな女の子に外精霊の接待をさせることは村の公務と言える。徳島の「盆のままごと」とはこの精霊飯の儀式である。子供組に似た組織が女の子にも存在することが、讃岐小豆島の「餓鬼飯」に見られる。16,17の女子が参与し女の子の集会を行うようである。左義長と同じような組織であった。対馬阿連村では盆の14日に「ボントコ」をする。トコとは釜壇のことである。17歳の女子が首領となって、大きなかまどを二つ土を練って作り上げ、15日には飯を焚いて村の若者連を饗応し、盆踊りと芝居をする。信州浅間ではこれを「カマッコ」という。京都の地蔵盆もこれと似ている。備前の邑久郡ではママゴトを「バエバエゴク」という。バエとは釜の火の形容である。九州では「バエラ」、中部では「バイタ」、「モヤ」、「ボヤ」、近畿では「チチリ」という。ままごとは下総海上郡では「オミッチャゴ」というが「御水屋事」という意味である。安房半島では「ケンゴト」というが「ケ」とは食事の事である。ままごとはしだいにお客遊びの方へ流れていった。富士山南麓では「オコンバ」という。これは今晩わという訪問辞である。徳島県北部では「クバリアイ」(配り合い)、飛騨高山では「クバリゴト」という。甲州北巨摩郡では「オワザッコ」というが、「ワザット」は東北では物を配る詞であった。しるしばかりのものですがという意味である。「コト」とは儀式もしくは祭典という意味である。法事にも使う言葉である。津軽の「ジサイコ」は法事・仏事のことである。加賀の金沢ではママゴトのことを「オジャコト」というが「オジャ」とは御座といういみである。仏事だけでなく訪問者の集まる事も含んでいる。米沢でもままごとを「オフルマイゴト」、伊豆半島では「フルミヤッコ」と呼ぶ。お客遊びを上州桐生では「オキャクサンヤッコ」、大垣では「ゴチソウサンゴト」といい、信州上田では「ヨバレッコ」という。大分市には「オクサンゴッコ」、越後では「オカサマゴッコ」という。甲斐であh「オカタゴッコ」、宮城県では「オカタブツ」といった。主婦の事を「オカタ」というのは中世以降の事であるが、今日の「カアサン」、「カカサン」、「カカ」、「オッカー」などの語源である。主婦がジャジャと呼ばれる秋田ではままごとを「ジャジャやボッコ」という。越前、紀州もそれに近い「ジャジャンコ」、「チャチャボコ」という。未婚の娘をオバコ、婦人のことをおばさんと呼ぶがままごとにも適用されて「米沢では「オバコダチ」、但馬地方では「オバサンゴト」と呼ぶ。上流社会では主婦をオカタというが、常人社会ではウバという。東北ではアッパ、沖縄ではアンマという。信州松本ではお客遊びを「オバゴト」という。薩摩ではママゴトを「バッコ―」と呼ぶ。紀州東熊野尾鷲では「ナコビ」、「ゴコトンボ」という。中国地方では若い女性を「ゴコ」とよぶので、「ゴコトンボ」とはゴコとウバの合成語である。三宅島では「ネザンバ」というのは姉さんと婆さんのことである。子供が若い花嫁ゴコが家のウバに挨拶する様子を見て真似をする訪問遊びであったようだ。
8) 鬼事言葉
姉さま遊びは三宅島では「ネザンバ」という。子供が若い花嫁ゴコが家のウバに挨拶する様子を見て真似をする訪問遊びでした。この姉さま人形が遊びに入ってくると、ままごとは食べる遊びではなくなって、言葉の楽しみを味わう場となった。言葉の楽しみは今の子どもよりずっと大きな比重を占めていたようです。そのなかでも神社仏閣の鬼追い行事に少年を参加させた「アブト鬼」はことば遊びとして面白い。全国各地の鬼事述語が「静岡県方言誌」に収録されている。野球規則の「タイム」の言い方の多様性に驚く。ミッキ、マッチ、チョマ、ゴイ、ゴー、タンマ、タンコ、テンマ、オヒマ、マヒ、ベンなどなどである。信州小県郡の鬼きめ詞に「鬼のくるまで 洗濯ジャブジャブ、鬼の来るまで 豆でも炒りましょ、ガラガラガラガラ 石臼ガラガラ、豆はたきトントン」があり、備前岡山では一寸法師の詞「つーちゃこもちゃ蔓の葉、ねんねが持ったらちょっと引け」があります。鬼きめとは子供を並ばせ小さなこぶしの上を指でついてゆく遊びで最後の文句で止った人が鬼になるのです。肥後球磨地方のモウゾウ隠れ(かくれんぼ)の歌に「だあまれだあまれ雉の子 鉄砲かたげがとよっぞ うんともいうな屁もひんな」があります。狐遊びというのは、鬼を山のおコンといってはやし立て、歌の最期で一斉に逃げるのを鬼が追いかけて捕まえる遊びです。讃岐の「オトリコトリ」も鬼事の一種です。強い子を先頭にして皆が順に帯に手をかけ蛇のようにうねり運動をします。それを鬼が尻の子を捕まえようとするのを、皆で複雑な動きをして妨害する遊びです。子買い問答というのは大阪では「子買お子買お 子を買うてなんにする 赤のまんまに魚そえて食わそ」という。越後岩船郡では「猫じゃ猫じゃ」という遊びでは、「猫じゃ猫じゃ どの猫ほしい 後の・・猫ほしいわ」という。欲しい子供の名を指定する遊びです。雀取りもある。子買い問答はもはや鬼ごっこではなく、言葉遊びとなっています。このように児童文化は孤立した別個の文化ではなく、一時代・一社会の文化相を通して見れば子供の遊びが分かります。信濃の子守歌に、おじいさんが囲炉裏の脇で孫の手をもって、「ひいひいたもれ ひがないと この山越して この田をおりて」と歌うのは、一時代昔の火貰いの記憶があるからです。
9) 鹿遊びの分布
「鹿・鹿・角・何本」遊びは近頃まで、九州福岡、四国愛媛、千葉外房、越後、佐渡で行われていた。この鹿遊びは男の子の粗暴な危険な遊びで女の子は参加できなくなっていた。伊予では胴乗りともいった。この遊び言葉も随分変化して、鹿の角という意味も忘れ京都では「ぺスペスこれなんぼ」と唱える。人の背中を打つあてもの遊びよりも胴乗りという運動遊びに変化してきた。そして「跳び箱」の起源となった。また二つの遊びが結合する場合が多い。たとえば石蹴りは東京では「チンチンモガモガ」、関西では「足ケンケン」と呼ぶ。石を蹴ることと片足で跳ぶ運動の複合である。念木・念棒のあそび「ネンガラ」、「ネンガリ」は昔は鉤のついた小枝を使ったのだが、二又に別れた木の枝に特別な霊の力があるという信仰が基にあった。占いの枝という。豊後では鉤の無い鉄で打たせたり、山口県では「キリコ」、「ネコ」が鉤のついたものである。朝日新聞の「子ども風土記」を連載していたら170通の手紙が来たと柳田氏は反響に驚いた。「鹿・鹿・角・何本」遊びは84カ所以上の地(24市・55郡)で見られたが、その資料を表にまとめている。この遊びは九州と四国、とくに福岡・愛媛に集中しており、トビトビに他府県にまたがっていた。遊びの方法は大体馬乗り式である。これを「胴乗り」呼ぶ村もあり、馬飛びの運動に結合したようだ、背中を叩くのは少ない。しかも鹿遊びだということは忘れ、無意味な囃し文句に代わっている例が多かった。大分郡と別府郡では「レイボン何本」という意味不明なことをいっている。他府県では「何本なりや」といった子供が使わない書き言葉に代わっている。

3) 「母の手毬歌」

「母の手毬歌」という題名はなんて素敵な言葉でしょう。「良寛さんの手毬歌」とは違った、どんなお話が聞けるのか胸が膨らみます。女の子のお正月の遊びは、羽根羽子板と手毬でした。戦争が起きるまではゴム製の手毬がありましたが、南方からゴムが入手できなくなって、昔の木綿糸の手毬に戻りました。又米軍の爆撃を恐れて田舎に学童疎開の時代になり、思いがけなく昔話や遊びに接する機会が増えました。木綿糸を巻いてこしらえた手毬にさらに色とりどりの糸で巻き上げた美しい糸かがりが流行りました。その芯には綿を丸くして入れて弾むように工夫したものでした。キリシネ、ハタシの糸を繋いで飾ったのです。正月前にはどこの家でも二つか三つの手毬を母に拵えて貰って、夜は枕元に置いて、もういくつ寝るとお正月と指折り数えて子供たちは待ちました。手毬がこのように美しくなったのは、家々に木綿機があって織られる様になったからです。木綿の着物が着られるようになったのは江戸時代も中頃の事です。それまでは麻布の衣類が普通でした。柳田氏の御母堂は、この文章が書かれた時にすでに50年前に亡くなっておられる。いつかは「母の手毬歌」というような文章を書いてみたいという気持ちが、本文を生んだようです。母の思い出に満ちた美しい文章です。全国の手毬歌は明治に大和田氏が収録されている。その手毬唄の中には大きく二通りに手毬唄があり、早い調子の「つき手毬歌」とゆっくりした「揚げ手毬唄」がある。母堂が楽しんでで歌ったのは「揚げ手毬唄」で、玉を放り投げている間に間延びする歌詞が謳われる。柳田氏が憶えておられた母の手毬歌は次の三つであった。「とのは丹波の助三さまよ・・・」、「寺へさしゃげて手習いさせて・・・」、「鎌倉の椿」だという。この「鎌倉の椿」の歌は母の小さい頃武家屋敷に奉公に出ていた時に覚えた歌でかなり古風なので、大和田氏の採集に漏れたものと思われる。冒頭は「あれ見ーいやれむーこう見−やれ 六枚屏風にすーごろく すごろーくに五−ばん負けて 二―度とうつまいかーまくら 鎌くーらにまーいるみーちで つーばき一本見−つけた」と双六遊びです。「そのつーばきだーてのつーばき お寺にもーててそーだてた 日が照−ればすーずみどーころ あーめが降‐ればやめどころ」と続いて「そのあーめに降り込めらーれて お茶もいやいや煙草もいやいあ しょんがいな しゅおんがいな しょんがい婆さん こーとし九ーじゅう九で くーまーのへ よーめりしよとおーしゃる・・・」となる。このしょんがい婆さんのあたりから手毬の手は急に早くなり、歌の調子もアップテンポになる。「しょんがいな」というのは流行唄の囃し文句である。母に捧げるバラードのような優しい文章である。

4) 「野草雑記」・「野鳥雑記」
タケニグサ
タケニグサ

「野草雑記」は、「タケニグサ」という野草の名前の付け方についての蘊蓄です。著者のみならず現在の私たちは野草の名の教育は受けたことがない。柳田氏が喜多見の原の家(今の渋谷区砧)に住んでから、周りの植物草叢は激しく変わったという。萩、山菊、すみれ、杉菜、芒、根笹、竹、そしてタケニグサの興亡が著しかった。ウイキペディアによると、タケニグサ(竹似草、学名Macleaya cordata)はケシ科の多年草で日当たりのよい草原、空地などによく見られる雑草である。語源には茎が中空で竹に似るからというもののほかに、竹と一緒に煮ると竹が柔らかくなって加工しやすいからとの俗説もある。別名チャンパギクともいい、チャンパ(南ベトナム)付近からの帰化植物と思われたためらしいが、実際には日本および東アジア一帯の在来種と考えられている。アルカロイドの一種サングイナリン(Sanguinarine)、ケレリスリン(Chelerythrine)を含み有毒で民間療法で皮膚病や虫さされに使われたが、逆にかぶれることも多く危険である。と書いてあります。日本での名前の付け方は、チャンパギクというところは一つもなく、三重県と奈良県の境で「ゴウロギ」、信州では「ガラガラ」と呼んだ。日本人はいつも嫌なものは濁音にする癖があるので、荒れたところを意味するゴロ、ガラという名をつけたようだ。越後西頸城地方では「ツンボ草」、下総印旛郡では「ドロボノシンヌキ」という奇抜な名もある。「泥棒の尻ぬぐい」という意味である。播磨では「オオカメダホシ」といい、狼がこの草を食べると倒れるという意味である。津久井の山村では「ササヤケ」という。笹の焼けたような色を帯びているからだという。山が崩れたり、水で荒れたりすると何よりも一番早く飛んで来てそこに目を吹くのはこの草である。
「野鳥雑記」は我々が野鳥の鳴く声を聴いてどのように表現したかという、面白くかつ空想力を要する文である。野鳥が以前は人間であり、今では人の心を持ってその思いを我々に語っているという想像上のお話である。以下鳥の名ごとにまとめておこう。
雲雀: 「テンマデノボロウ テンマデノボロウ」、「オリヨウ オリヨウ」
燕: 中国地方「ツチクテムシクテクチシーブイ」
頬白: 関東「イッピツケイジョウツカマツリソロ」 遠江国「ツントイツツブニシュマケタ」 薩摩「オラガトトハ三八二十四」
時鳥: 秋田「アチャトデタ コチャトデタ ポットデタ」 紀州「ホンゾンカケタカ」、「トッテカケタカ」
沓手鳥: 北信州「オットコイシ」 能登・越中「弟コイシ 掘って煮て食わそ」

5) 「木綿以前の事」

この章は「母の手毬歌」でも述べたが、木綿布の普及と利点と弱点(同じこと)を述べたもので、文明とは二面性で見る必要があるということである。芭蕉七分集の付け合いや、「炭俵」にも「はんなりと細工に染まる紅うこん」という木綿の肌触りのはんなりした、美しい染色の良さを読んだ歌がある。「比佐古」の亀の甲に「そめてうき木綿袷の鼠色」とある。それでも芭蕉の元禄初めには江戸の人が木綿といえばこのような優雅な境遇を連想する習わしであった。それが江戸中期には木綿布は江戸市民の間に普及したその理由(利点)を挙げると、@肌触りのよさ、A染色が容易な事で、以前の麻布を圧倒した。木綿の袷に中綿をたっぷり入れると肩腰が柔和になり全体に伸びちじみが容易になった。着こなしが優雅になったということである。それは瀬戸物の白磁、薩摩芋の馬さと匹敵する文明の大改良であったようだ。ただ木綿の欠点は夏の暑さと毛埃(製造時の肺疾患職業病)であった。


読書ノート・文芸散歩・随筆に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system