170204

文藝散歩 

柳田国男著 「日本の祭」
角川ソフィア文庫 (2014年新版)

太平洋戦争の只中、日本の神の発見によって柳田民俗学を創始した記念すべき著作 

太平洋戦争勃発の直前、昭和16年(1941年)の秋、柳田国男が東京帝国大学全学教養部の教養特殊講座で行った講演がもとになって、本書「日本の祭」が翌17年(1942年)11月に刊行された。聴衆は文系の学生は少なく、理系の学生が多かったという。つまりこれまでこのような問題を聴く機会が少なかった学生を相手に、噛んで含める様に「日本の祭」を説き起こしている。神事の故事来歴を扱うのは専門家の仕事だとしても「一通り国の固有信仰のあり形を知らしめるには、別に十分なる要約がなければならぬ」と目的のために本書を著したという。つまり国民が健全なる常識を養うことは、国民の前途を考えるうえで必要欠くべからざる準備であるという認識があった。専門家の見解も、ここに書いた内容も一つの見方である。うっかり丸呑みに信じてはいけないと批判精神を持つこともあわせて注意を促している。本書の内容は、第1章「学生生活と祭」(祭を学ぶ態度)、 第2章「祭から祭礼へ」(祭の特徴)、 第3章「祭場の標示」(神地)、 第4章「物忌みと精進」(神屋)、 第5章「神幸と神態」(神態)、 第6章「供物と神主」(神供)、 第7章「参詣と参拝」(祭日)からなり、第1章は「序章」で第2章から第6章までの6章が本章の内容である。本書は祭という言葉は「マツラフ」という語と同じように、神の御側にいて、神に奉仕する意味であろう。祈願という意味はついでにという意味で、本来の目的は神と一緒にいるということであった。神=支配者という構図は統一国家形成後の絶対神からくる後付けの意味であり、本来の神とは神=先祖であり、沖縄の民謡に「死んだら神様よ」と同じように、神は無数にいる八百神である。この弥生時代の村落共同体時代の記憶が「我国固有の神」という柳田氏の基本的考えであった。(縄文時代のアニミズムはさらに昔の話で本書では扱わない) 著者は祭の要素として五項目を挙げている。神地、神屋、神態、神供、祭日である。祭りの五要素に入る前に、祭の特徴についてまとめておこう。
@ 祭りの重層性: 日本の祭りには重層性が見られる。部落の祭り(一族の祭り)がありそのうえに村の祭りがある。まとめて氏神の祭りと呼ぶこともある。村の氏神に対して一族の氏神を内神と区別する呼び方もある。このような祭りの重層性は地方行政の変更による(特に明治22年に施行された新町村制)。町村合併により従来の村の氏神が格下げになって部落神になり、新たな村の氏神がその上にできた。その時一つの部落の氏神を新村の氏神にしたものや、新しく村の氏神を勧請した場合があった。または複数の部落の氏神を合同して村の氏神にした例もある。これには氏神、産土神、鎮守神の区別に関する複雑な問題である。ここでは神道の事は扱わない。 
A 内神と外神: 自分たちの氏神、産土神のことを内神と呼び、ほかの村の神、他所から持ってきた神などを外神と呼んだ。外神を排斥することなく、隔てなく敬神の気持ちを抱いた。内なる神と氏子の関係は家族みたいなもので神意を聴く必要もなかったが、新しい神は神託を降した。日本の神社には寄り宮、相殿、行逢祭という共同の祭式、末社と言って数々の神の歴史が境内に存在する。まさに時代の変遷そのものを受け入れる素地が開けていた。
B 物忌みと祭り: 物忌みとは神を祀るにふさわしいように精進潔斎することです。具体的には「オコモリ」のことです。籠ることが祭りの本体なのです。本来は酒食をもって神と共にあるあいだ、一同が御前に待座することが「マツリ」であった。そして神にささげた酒食を、末座におおいて共々に賜わることが「直来」であった。オコモリを全うするには一切の不浄を遠ざけなければならない。それがために精進屋を設ける。頭屋の家を神宿として、注連縄を張り主人以外はそこに入れない、また外来者も入れない。祭りの期間中に、お産や死者の出た家のものを遠ざけることがある。すべての氏子がオコモリを長期間行うと生産活動に支障を起すので、頭屋の主人だけが物忌みを行う。物忌みが厳格なところでは、お灯明を上げ、潮を浴びて潔斎をするとか、他家では飲食はしない、他人が来ても茶や煙草も出さない、夫婦の交わりを断つなどをしたという。
C 祭りの変遷: 政治経済など実生活から受ける制約によって信仰生活も影響を受けて祭りは変遷した。このことは6) 「参詣と参拝」に述べられている。春秋2階の祭りに神が降臨され、神の恵みを受けてお告げを聴き、五穀豊穣・村内安全を祈願した。「村祈祷」、「村祈願」をおこなっていたが、社会生活が複雑になると村内の利害が複雑になると「個人祈願」が始まった。(現在はこれが主流で、企業隆盛祈願は村祈願の変形であろうか) 個人祈願が普通になると神社のほうが賽銭箱を用意するようになった。賽銭の前は「オヒネリ」といって紙に洗い米を包んで奉納した。米を銭に替えたものもオヒネリという。毎朝参拝という敬神家も現れ、神を祭るための参拝ではなく、神を敬するため、個人祈願するための参拝になった。参詣も簡略され、礼拝するだけの礼式となった。
D 若者と祭り: 東京帝国大学で行った講義の聴衆は学生であったので、祭りに関しては参加者ではなく見物人であろう。しかし氏子として祭りに参加することは青年の義務であり権利であった。神輿を担いだり、獅子舞や神楽の芸能を演じるのも青年であった。戸主になる青年のみの参加を認める制もあって祭りが村落社会の上に持っていた重要性が伺える。古来日本に持ち得た物心両面の生活様式を受け継ぎ覚え込むのも青年の義務であった。家制度が崩壊すれば、その信仰も変化を受けざるを得ない。今や有名な神社の祭典は見物客や参拝者のための観光行事として盛大に行われている。

次に祭の五要素についてまとめておこう。
@ 神地(祭場): 本来神は祭の時降臨するのだから普段は地上のどこに居られないはずである。しかし神社が建てられご神体を神殿に納めるとするなら、神が常住することになる。そこで神殿以外の場所を祭場とするとき、そこを御旅所として神が神幸されると解する。山の神祭りに神依木を選定するとか、祭りには必ず木を立てること、これが日本の神道の特徴であるとされる。神木と称してシメを張った大樹が祭場の標示にほかならない。
A 神屋(祭儀を司る家): 祭を営む人の家のことである。神職が行うか、氏子の中から祭儀を営む人を頭屋・頭人という。頭人は抽選とか、順の持ち回り制にする。また頭屋には誰でもなれるわけではなく、頭屋株を持つ家でなければならないと定める場合がある。頭屋は1年交代が多いので一年神主と呼ばれる。頭屋の中で交代しないで世襲的な頭屋を常頭屋と呼ばれ、こういう家が神主家となった。
B 神態(神事): 祭の中心となる神事のことである。現在は全国の神職の行う祭儀は、明治以降定められた神社祭礼によってどこの祭りもほぼ一様である。しかし神社によっては昔からの伝えによった神事を執り行うところもある。っこれを特殊神事と呼ぶ。現行祭式は神前に供物を捧げ、神事の代表的なものは舞と神楽である。神楽は今や芸能化しているが、もとは神が出現して神言を述べることであった。神楽は音楽につれて舞を舞う者が祭具を手にしそこへ神霊を依らしむので、巫女舞は神が依り付いた人となる。巫女が神意を伝えるのである。神事の中で最も華やかなものは神幸である。御輿を奉じて行く祭りが多い。神幸には風流と言われる各種芸能が付随する。山車、屋台鉾などが繰り出される。神事のすべてを見るには、京都八坂神社の夏祭「祇園会」が適している。
C 神供: まずお神酒がある。例えば山の神を祭るには、竹で作った折掛樽という物にお神酒を入れて供える。神供はそれを神と人とがともにいただくものであることから、人が食べるような状態(料理にして)出すのが本式である。日本の祭りには神供として海のものを供えることである。
D 祭日: 祭はたいてい祭日が決まっている。臨時祭りにも毎年恒例として行われる祭りもある。月では15日が多い。だいたい満月の明るい夜に行うからである。または上弦・下限の日、七、八日か二十三、四日が多い。季節は春と秋が一般的である。夏祭りは都会的である。祭りにかかる費用が膨大なものになるので、数年に1回の大祭として行う場合もある。冬まつりには御火焼きをするところが多い。                                          

「日本の祭」は柳田国男が創った民俗学という分野が持つ可能性を端的に示す書である。柳田氏の民俗学を受け継ぎ、独自の古代学として大きく発展させた折口信夫氏は、戦後昭和22年の「先生の学問」という講義の中で、柳田民俗学の本質について次のように「語った。「先生の学問は一口で言えば、『神』を目的としている。」 折口氏は「先生の学問」で考察しているのは、戦時中に書かれた「日本の祭」1942年、「先祖の話」1946年、「祭日考」、「山宮考」、「氏神と氏子」と続く一連の仕事である。この作品群こそ柳田氏の民俗学の起源と直結するとしたうえで、柳田氏の官僚時代の専門であった農政学がバックボーンとなって、神の発見が柳田氏を民俗学へと導いたのでした。明治時代が終わるころ、柳田国男氏が相次いで出版した三冊の著作「後狩詞記」、「石神問答」、「遠野物語」によって、日本民俗学が誕生した。柳田氏は農業政策(農政学)の実践的活動から、日本農業の展望を、広大な土地を持ちながら自らは農業をしない大地主と、直接農業に従事しながら自らの土地を全く持たない小作人の両方を無くしてゆく農業政策の提案を行った。自ら耕す十分な土地を持ち近代的な生産方式の農業に意識的な中規模農家の育成こそが日本の農業の発展する道だと考えたのです。そして生産計画からその手段、収穫、販売までの管理を共同で行う近代的な「産業組合」を組織しなければならない。柳田氏が実践しようとした農政学には、多様なものを一つに結び合わせる「組合」の論理がつながれていた。(企業組織論、農協論の芽生え)  柳田氏は理想の「産業組合」の可能性を求めた全国へ講演と調査の旅に出る。そこで柳田氏は農村で、氏族村落共同体の古い形を見る。貨幣経済以前の前近代的な平等社会と神聖な共同作業に励む姿を見た。九州地方の山村の視察では、そこでは農地共有の思想、いわば社会主義的なユートピアが実施されていた。宮崎県椎葉村では、平地で行われる日常的な焼き畑の世界と山地で行われる非日常的な狩猟世界において、山は神が住む聖なる場所であった。この経験は「後狩詞記」となた。また山形県遠野村から来た青年の話にのめり込んだ。遠野村は山に囲まれた平地の境界にあった。この地の不思議な話は「遠野物語」となった。柳田氏は境界の地に祀られた神に興味を持ち調査を行った。こうして記紀神話以前の列島に住んでいた人々の信仰生活を知った。山神、石神、道祖神、宿神、客神の話を整理し「石神問答」を著した。この三書によって柳田氏は民俗がを創始した。地上の人は天上の神を迎えるための「祭」を行っていたのだ。祭りごとは組合の論理では「祝祭」となる。「祭」はあらゆる絆を甦えらせる。戦後社会を束ねる象徴は天皇でなくてもいい、「祭」が統合の象徴であると言わんばかりである。柳田氏は学生に向かって「祝祭の論理」をかいつまんで述べてゆく。第1章「学生生活と祭」(祭を学ぶ態度)からその趣旨を見てゆこう。学生は如何なる分野に進もうと、最小限一つの史学に対する態度を身に着けていなければならない。初めから人に教えらることがないように、それも人生修練である。歴史を人生に役立てようと思えば、学ぶべき方法はいくつもあるが、「それはまだ気が付かなかった」という学ぶ心が必要である。歴史は本来変革を求める政治家の学問である。しかし歴史の背後には塊としての国民の生き方と考え方が何時も働いている。そのために歴史を学ぶには「日本の祭り」を考えるのはいい教材となる。

そこで日本の伝統というものを考えてゆこう。大学生は特殊な集団である。大学生気質にもその国の時代が色濃く反映している。日本では古い時代から大学教育は即戦力の職業教育であった。平安時代から大江とか菅原という名門家が学問を独占していた。それは即官僚として立身出世するからである。遣唐使は仏教や律令制を直輸入する派遣生制度であった。比叡山や興福寺の法師は名門家から選ばれエリートで、異色の分子は出現しなかった。鎌倉時代に大学が設置され武家階級の新しいエリートが出現した。徳川時代の文事奨励策は学者を育てたが、学者世界は「長袖階級」と呼ばれた朱子学を中心とする狭い特殊な知識階層であった。民衆階層からすると、医者、儒者、易者らは別扱いするしきたりがあった。この特殊階層から民衆に語りかけることはほとんどなかった。武士階級は武芸の習練があり、農民・商いの家では家業をおろそかにはできないので、学問に精を出すことはあり得なかった。子供頃は寺子屋で手習いが主で、本を読むことは従であった。土地に根をさす事を安全と考えた人々に、大学教育を受けたがためにその地と絶縁してしまうことは危険であった。人口の増加による家々の余った労働力、いわゆる次男・三男の問題は我国の社会史を大きく変化させた。周囲に開拓の余地のあるうちは、親は家財産を長子に与え、自分と末子で開墾に当たるという「末子相続制」が存続していた。新しく開いた土地に親が次男以下を連れて出てゆくのである。つまりは「分割相続」の一種であった。大家族は外に向かっては一つの力であるが、その構成員にとっては、うまくゆかない場合は貧民化が待ち受けていた。これを「対等分家」という。日本独特の相続法「婿養子」は女子相続法の一種で、極めて不安定であった。そして近世以来都会においては消費生活向け店舗職業の増加である。酒屋、質屋、肥料屋、米屋などである。日本は島国でありこれ以上伸びようがないからである。資金がなくても始められる分家職業として、学者修業が一番高尚な方法となった。学者になるということは禄を取る手段である。だから大学生は職業教育なのである。これには頭脳の良しあしが左右するので、多くは親方取り、いわゆる年季奉公(職人、商家)であった。明治以降人々は古い職業を捨てることが容易になった。武士階級の廃止は大量の失業者を生んだ。国が新しくなるという事は、意外な変化を強要するものである。大学生は生まれた家の伝統などは捨ててもいい人であったし、官吏・教員なども生まれた家には戻れない職業であった。明治以降の新職業者が群れをなして新組織を作り、都会に大きな勢力を張り、社会の一つの上層勢力となった。こうして読書階級が成功したからこそ、学問の効用が信じられた。しかし学生生活は一般社会から遊離しており、社会の中で日本人らしさを身に着ける機会を無くしてきたのである。日本人らしさとか常識というものは激しい時代変化を受ける。地元においては必ず青年の一時期学ばなければならない「社会律」は多い。これを失すると非難され叱責される。そのなかで次の三つの法則は必須項目である。@婚姻道徳に関する法則、A共同労働(青年団・村組織)に関する法則、B祭・信仰の法則である。神社は宗教ではないと今の政府は言うが、国家の成立以降は神と支配者が一体をなしている。それ以前では個々の家では先祖と神様を一つに見ていたと思われる。大学制度と学者の増加によって、断絶の恐れが生じている日本の伝統は、実はこの辺に潜んでいるようだ。

1) 「祭から祭礼へ」

日本では「祭」という行事を介してでないと、国の固有信仰の古い形とその変化を窺い知ることはできない。その理由は文書(経典)を持たないからである。行為と感覚だけをもって伝達されてきたのである。以前は専門の神職や教団組織も存在しなかった。1年に1回程度行われる祭という飛び石を踏んで進むしかない「神ながらの道」であった。祭と祭礼とは実は同じでない。村の人が集まるだけで祭礼がない祭もある。祭礼は有名な御社の大きなお祭に限って行われる。大祭=祭礼と理解されるのは、昔は朝家官府・領主貴族がお祭りされるから「大祭」、そうでないのが「祭」と呼んでいたらしい。別々の起源を持つようである。「マツリ」が古語日本語であるなら、仏教のような定まった様式で行われたのではなく、バラバラの統一がない様式で行われたと考えられる。祭の様式は社ごとに古例があって、変遷の段階が見られる。小社の素朴な様式を見て、大社の趣向を凝らした祭礼を見ると、前者に古い形が察せられる。松明の火から提灯に至るまでさまざまな変遷があったのである。幟(のぼり)は、一反の布に竿を通し、五穀成就などの祈願の字を大きく書いたもの。しかしこの幟が盛んになるのは最近のことで、絵巻や中世の記録には見えない。つまり趣旨は分かっても、外に現れる形は大きな変化を示すのである。又祭礼の一般的な特徴である御輿の渡御には、京都では中世以来この行列を風流と呼んで意匠を凝らした。風流とは思いつきのことで、他にないことを求めたのである。神輿の渡御があるために、祭が祭礼になったともいえる。しかし神々の降臨、すなわち神が祭場にお降りになることは古くからの考えである。神様を祭場にお迎えするには、乗り物として神馬がもう少し前からあり、御輿は中世より比叡山日吉神社の神輿があり、春日の神木手輿にお載せした。飾り御輿は京の祇園が最初であった。日本の祭りの重要な変わり目は、見物という群れの発生からである。信仰を共にしない人々が都の行事として華やかさを求めたことである、平安朝の頃と考えられる。葵祭も本来は朝廷の使者が賀茂神社に立つことであったが、これが観光化してあのような華やかな行列となった。農民はいつもこの「見られる祭」を美しくしようとして、神様と祖先の祭りを新たな装いで変化させ、様々な行事をおこなった。神様を祭場にお迎えする儀式は複雑で微妙な変化をしている。神殿の鏡を神輿にお移しするとか、神馬の鞍に御幣を立て神霊の依座(ヨリマシ)とした。御幣の代わりに生きた人間を使うこともあった。熊野新宮では馬上の人形になっている。この神の御移り場面は最も微妙な場面として人の目から遮断するため、灯の無い暗闇で行ったりした。日本人の一日の始まりが午後6時ごろであったという説がある。つまり祭はこの夕がたから翌朝までの一夜が祭りの大切な部分であったという。この夜分を主にした祭は多い。宮中の御祭儀にも、大嘗祭、新嘗祭、御神楽がそうであった。官吏は夕の御饌、朝の御饌を賜って退出する。古い祭の式は一般に、この夕朝二度の供餞の続きであって、夜を徹して奉仕するのが日本祭である。御夜籠り、お通夜という言葉となっている。「マツル」の語源は「マツロウ」であるという説が有力である。「御側にいる」で「奉仕」ともいえる。遠くから敬意を表するというだけではない。参拝の「参る」は「随従」の意味である。「お詣り」のように遠くで頭を下げる意味では不十分である。つまりは「参る」ということは「籠る」という事も同じで、ある一つの祭典に参加することであった。神前に立礼することは古来なかった。膝をついて扇を前に広げて拝むのである。この参り方が急にぞんざいになった。幟にしても大きな木綿布に字を書いて遠くからでも見える様に高い竿に付けて風に棚引かせることは、標示したいという念慮の表れである。目印だから夜になると火を灯したいということから、大松明を引き起こす儀式があったり、投げ松明の競技(運動会の玉入れと同じ)、燈籠、提灯、高灯籠、御燈明、蝋燭など、技術の進歩にあわせて様々な工夫がなされた。祭の時期であるが、先の祭りの五要素の祭日に書いたので省略する。

2) 「祭場の標示」

祭には必ず木を立てること、これが日本の神道の古今を一貫する特徴の一つであると、先の祭の五要素の@ 神地(祭場)で述べた。そしてその様式は際限もなく変化している。すくなくとも変化の広汎な事を認める必要がある。幟にしろ御幣にしろ、大きさや本数はいくらでも変化する。東北「オサンボウ」という御幣は二尺から三尺もある。小さいものは千本幟と言って箸ほどの大きさである。この間の変化はいつの日か説明がつくと柳田氏は楽観的に見ている。生きた樹木を立てるか、木を削った棒を立てるかの違いがある。又その折衷もある。生樹の先を加工し柱の頂点を飾るとか、4月8日の天道花のように躑躅や石楠花の花木の枝を竿の先に結わえるものがある。生木が先で柱はあとで発生したと見るのが常識である。また「祭上げ」、「とむらいあげ」という33年目(50年目)の法要の最期に「ウレツキトウバ」という、墓の上に立てる木がある。杉の生木の先端はそのままにして四方を削って戒名などを書く「生き塔婆」がある。墓に立てる木は塔婆というのが普通であるが、関西では親戚知人が各自1本づつ立てるので、卒塔婆が墓の周りに林立するのである。樹の代わりにその柱竿を用いたという記録がある。日本書紀の推古帝の大柱直の記事は、山陵の塚の上に檜を立ててあまりに立派だったので、この姓を賜ったとある。ただ一本の重要な柱を心柱、心の御柱と呼んだ。宮の太柱の特別な一本に、霊を籠めた何か特別な儀式が行われたものと思われる。諏訪の御柱四本のうち一本が最も高くしてあるのも意味があるようだ。これも祭の場所を指定して、その内は神聖な領域、神様のお降りになる庭を標示しているのであろう。柱を立てて外部の穢れを遮断するという趣旨は、大祭でなければできない。紀州岩出神社(総社権現)の「齋刺(ヨミザシ)」祭がそれである。8月朔日の夜、村の東西に榊の柱を立てる(刺す)。信州穂高の「境立て」もそうである。九州宇佐八幡宮の「柴刺」の神事は、2月と11月の大祭の7日前の夜45本の榊の齋柴(イミシバ)を諸所に刺して歩く行事である。記録には「致斎」と書かれている。齋刺とは忌刺、柴指ともいう。九州の南の農村では門口や軒先に挿すことは正月に松を立てることと同じである。柴指は旧8月の壬(みずのえ)の日といい、先祖を祀る日の始めであった。日本の祭りというものの大きな変遷の一つ、正月や節句とかの家の行事と、村の神社の共同の祭りとが本来は一つのもので、後に二本立てに別れたのではないかと推測される。頭屋の家には柴指と同じ標識を立てる地方がある。頭屋と神職も元は同じ人物が勤めていたと考えられる。頭屋の選任方法にも、変遷があった。最も普通には「軒並み順位制」、立候補者が数ある中では「籤引制」があった。ツカサすなわち巫女になる女性を決めるのもこの神託による籤引という手続きを取る。「指名制」では木を削り白紙をしでに垂れた御幣を頭屋に渡す。近江多賀御社の馬の頭でも頭人を指名するに、神職がオサシ棒という大きな幣を頭屋の門に挿したという。白羽の矢が立つという言葉も、神の意志による人選という形をとる趣旨であった。頭屋の任期は1年が普通で、決まった後は家を掃き清め、注連を張り巡らせ、潔斎を行わなければならない。オハケサンという大きな幣や、榊の木、または幟を家に立て頭屋であることを標示する。そのやり方や立てる場所には変遷が激しい。しかし古くは南西諸島の柴指のように、各戸全員が物忌みに入り、その標を出すこと、そして賀茂の祭りに日に先だって軒の簾に葵を掛ける習わしが連綿と続いている。都の松尾神社では今も榊立てと称して、青年団が家々の屋根に榊の小枝を投げ上げる。こうした総員奉仕の形式が最初にあったものとみられる。秋田県生保内村の「カクラ祭」では、頭屋を務める家に法印がやってきて舞を舞う習わしがあった。これを「ミテグラ」と呼び、先のとがった御幣を屋根の上に投げて挿して標識とした。ミテグラとは神坐となる幣のことで、御幣とか幣帛の意味を持たせたのは後の事である。後年新しい土地に勧請する場合が増えたので、このミテグラを手に持つものが、神の指令を受けてお祭りに奉仕する主要な役柄になった。近代日本国が列島の四辺、大陸に進出するにつれ、神をミテグラによって迎え奉ることが頻繁となった。キリスト教が全世界に広がることで各地に教会が建てられたように、日本の進出先に神社が盛んに建てられた。しかし信仰は根もなく広がるものではなく、論理や考えに先行するなんらかの性向がなければならない。さもありなんという気持ちがなくては、あり得ないことを信じることはできないからである。沖縄でな「蒲葵葉世(コバノハヨ)」という言葉がある。すなわち岩根木草の言問い交わした世を容易に信じること、神霊が人に憑いて語ることの二つが古い常識であったという。神道はその上に立っている。夢と託宣を認めるかどうか、これが信仰の分かれ目である。地方におけるあらたな祭場の設定は、この伝説的な経験によって可能だったと思われる。歴史上の古い例では東国の鹿島御子神、西国では八幡神の見た子への進出であった。北野天神の勧請が大きなものだけで全国で2万数千社、賀茂・春日・八坂・鹿島・香取・諏訪・白山がほぼ同数勧請されている。神木は社殿の建築の華やかさに比べ見劣りするが、八幡太郎の旗立桜、白旗松、逆さ杉、衝立銀杏などが伝承を伴ってその数が多い。この錯綜を極めた文化複合のなかで、日本民族の比較的単純なこともあって、記録なき歴史の追跡ができる可能性がある。諏訪の御柱行事として山に入って柱とすべき木を定める作法は神職が行う。神職が鎌をもってこれぞという木に打ち込んで決定した。この鎌を「薙鎌(ネェカマ)」という。東国では箱根などの頂上に「矢立て杉」という大木があって、それに矢を射立て神を祀らった。社殿の発達によって神の住居が固定されると、神木はますます大切になる。人に対しても神に対しても標識を立てる必要があり、注連を張って穢れを遠ざけるのである。「ホデ」という標示を立てる。「シデ」と呼ぶ人もいる。神聖な木であることを示す標識であった。シデの要部はその幣串にあり、榊の小枝の玉串はここから出た言葉である。御幣は後に脩祓(おはらい)の道具にもなった。このミテグラを手にする人が、特殊の階級(神職、巫女)となった。もとは旧家の本家筋の人が世襲に依て神を祀っているうちに神職になった例が多い。

3) 「物忌みと精進」

この章は日本の祭りの特徴のA 神屋(祭儀を司る家)の内容です。いわゆる祭礼の「ヨミヤ」というは夜の宮ではなく、「忌み屋」という意味だそうです。徳島県では「ショウジリ」と呼んでいますが、「精進入り」のことです。祭の精進をするには、普通の生活と隔絶された一つの建物が必要です。「精進屋」という仮小屋を設けるのが普通で、九州南部では「ハチヤ」といいます。精進という言葉が外来語なら、日本固有の言葉では「イミ、イモイ」、「オコモリ」、「オヨゴモリ」、「ゴヤゴモリ」、千葉の漁村では「オロシゴモリ」などがそれに相当します。京都では正月15日または7日に行われる御柱の火祭りを「左義長」といいます。関東では「サエノカミ」と呼びます。宮籠りをたんに懇親会程度に思っている人が多いのですが、初めに神を拝み、持参の酒や食物を椿の葉に載せて神に供え、その後で分配、交換して食べるのです。神の供物を賜ることを「直会」といいます。これは夜アカシの行事です。つまりは、籠ることが祭りの本義だったのです。「直会」が神と人の相饗なら、食べ物は極めて清潔でなければならず、人も物忌みをして穢れの無い者でなければなりません。何が穢れかはっきりしませんが、子の慎みの最も完全な状態を「物忌み」、「精進、、「オコモリ」と呼んだのでしょう。神道では死穢を最も嫌いますが、仏教では厭いません。それで仏者が神に近づくことを禁じています。12月25日から1月16日の間念仏を唱えることを禁止しています。仏教が主流になるにつれ、神道の精進の規則の方の簡素化がなされました。一番大きな物忌みの拘束はその期間の長さでした。通常は1週間精進が行われていたようですが、働く人々には2,3日前から前夜祭までとなりました。京都南の「忌籠り祭」は2日前から氏子全員の物忌みが始まります。神職、頭屋だけの謹慎ではなく村住民全体に及んでおるのが特徴です。関東千葉の「ミカワリ」祭もそういう習わしです。摂津西宮の1月9日の忌籠りは「ミカリ」ともいいますが、神職だけの物忌みです・阿波の奥木頭のミカリは頭屋だけの物忌みです。「ミカワリ」も「ミカリ」も御猟というのではなく、身を変えるという意味で人が神と接するために通常とは違う姿になるということです。栃木県矢板木幡神社の旧12月の「遊行神事」、宇都宮二荒神社の「オタリア祭」(渡祭)でも、約半月前から糸を紡がず、機を立てず、針を取ることもしない。「オタリア祭」は「遊行」と同じ意味の御渡りで、神様が村々を御巡りになるという信仰があった。神巡遊の信仰は、11月23日の「御大師講」である。この話の由来は入り乱れている。伊豆七島では「忌の日」は1月24日で、その夜は神の来臨を伝え、物忌みをする。冬至を中心とした忌祭は著名な御社に多い。羽後の鳥海山の大物忌神社、長門の忌祭(オイミ講)は11月14日以降3日間は仕事を休み物音を立てないようにする。出雲神社、佐陀神社の御忌祭もその忌みの期間は長かった。島ではこういった古い習慣は大事に守っていたようで、沖縄諸島の8月の物忌み、壱岐島の「オイミサン」は6月晦日にあった。西国の6月の祭りは「夏越祭」と同じように水の神の祭りであった。佐渡ヶ島などの忌みの日は冬春の境である。冬春両度の節日を設ける習わしは東京では12月と2月の8日であった。「オコト8日」と称し、餅をつき、オコト汁を供え竹の籠を高く掲げる習わしがある。魔物退散のまじないである。初春に神を家々に招いて祭りをすることが大切な「オコト」である。古い日本の信仰には言葉が存在しないため、人は正確に把握することができない。日本の知識層が明治以来子供の頃から家を離れ、村落共同体から切り離されて、国民の伝統を顧みる機会がなかったことで、大きな断絶が生じて貴重な体験が失われた。2月や11月の山の神の祭日には山に入ってはいけないことを子供に教えるために、妖怪話が発明された。8日の「コト」の日に仕事をしていると「ヨウカゾ」というお化けが出るとか、正月の晦日に山に入ると「ミソカヨイ」と呼ぶ声がするとか、12月20日を「ハテノハツカ」と言って恐れる習わしなどは、忌みの日に注意することを促す禁戒なのである。はたして自分が穢れのない身かどうか自信のない人には「祓い」、「禊ぎ」、「潔斎」を行ってけじめをつけるのである。「祓い」という言葉は非常に古い。その祓いの行事も近年非常に簡素化した。儀式化したのだ。いわゆる御幣を頭の上で振って貰えば罪穢れが亡くなるという便利な式となった。最も本式な祓いの方法は「禊ぎ」である。沖縄では「潮蹴り」、水祓いがそれである。上賀茂神社の禰宜は神社の務めに入る前に、自宅の庭で「水垢離 コリ」を行うそうである。垢離(コリ)という漢語はなく当て字であるので、「籠り コモリ」から出たものと考えられる。関東の「寒参り」もその遺風である。水による祓いは、地方によって「石の手水鉢」、内宮五十鈴川の「精進川」、「垢離場」に名残りが残っている。潮水を汲んで家をまたは身を浄めることを「シオイ」と呼んだ。沖縄では「シオカキ」という。隠岐の島では「シオタカ」という。信仰には神と人間の間に立つ専門家が調停や理論化を行うと、次第に時代の要請が主導して儀式化し本筋から離れてゆくものである。神話が祝詞の文句に解消されたり、祝詞の文句の回数をカウントするに過ぎなかった「玉串」がオハライとなってしまうのである。生活の上で総員が物忌みができないので、頭屋の制ができ、また家全体が物忌みができないので、当主だけが籠る「ひとり精進」もあった。中世応仁の乱から戦国時代にかけて、物忌みの代理業として神職や修験者が台頭し、理論化を行って全国的な神の統合を行い、「神道」という国家宗教集団の形をとるようになった。

4) 「神幸と神態」

この章は日本の祭りの特徴のB 神態(神事)の内容です。神事の内容とは何か、そして全国の祭りの共通点を考えてゆこう。祭場すなわち祭の庭と、祭の行事(神事)は本来べつのものであったが、我国ではそれが結び合っている。なぜかというと神の御降りの意味が随分不明瞭になって、「遊幸、神幸」を祭の本体とする考えが重要になった。式と行列は最初から一体化していた。祭礼は必ず行列を伴うという風に理解されてきた。祭の中心は何かということはその祭りの名称(通称、俗称)が実にさまざまに変化していることに見られる。三河の「テンテコ祭」、能登七尾の「チャンチキヤマ」、京都赤山神社の「サンヤレ祭」、厳島神社の「チンチリビツ」などその祭礼が行列に力を入れ囃し声や掛け声が祭りの名称になった。食べ物が祭とすぐにわかる、府中大国魂神社の「スモモ祭」、京都祇園の「ハモ祭」、ほかには「甘酒祭」、「ナマズ祭」、「シオデ祭」など数多い。行列の囃し声や家での食べ物の他には、火祭り、田植え祭、的射祭、鬼追い祭など神事に関わる名称がある。数千の御社がいろいろなことに力を入れて祭りをやっているのだが、どこでも必ず見られる行事は神供すなわち食べ物を神に供えることである。人が最高の賓客を迎えた時と似ていることである。酒と食べ物を挙げ、夜は松明、篝火を焚いて明るくしておく。中には御火焼きが主のような印象を受ける祭りもある。富士吉田神社の「火祭り」、羽黒山の「歳夜祭」、1月15日の「左義長」は火祭りである。次に祭で多いのは庭上での催しものである。「相撲奉納」、「法楽」(連歌の座)、「綱引き」、「鶏合わせ」、「闘牛」、「馬駆け」、「御弓・御射的」、「かち弓」、「玉せせり」、{印字うち」、「流鏑馬」、「犬追い」などである。これら行事の芸能後継者・名手がいないと形だけの式、或は単なる飲み食いの集まりに堕することがある。日本の運動行事は、ほとんど全部がこの種の催しから始まっている。相撲や競馬はすでに信仰行事の外にある。年に一度の祭りの時に、くつろいでおられる神の真意を伺うべきいい機会との考えられ、年占いの神事が行われた。1年間の計画や企てはリスクを伴うもので、この未来の不安を信頼と覚悟に替えるための行事であった。簡単なものでは世ためしの神事といわれ、水試し、氷試し、炭置きの神事がある。「豆占い」、「クルミ占い」は、「筒粥管粥の神事」では榛名神社や河内枚岡の粥占いがが著名である。東北の農村では正月15日の晩か、大晦日の晩に家々で粥占いを行う風習がある。馬駆け神事も趣旨は単に競馬の娯楽ではなく、色の違う馬たちが馳せ進む状をもって年占いとした。一家一門や社会の大事件について、神の啓示を承る儀式が重要になってきた。宇佐八幡の神勅は特に有名な話であるが、国家の大事を神が人の口を借りて宣託するのである。神の宣託にも臨時と定期の区別があって、定期の宣託が祭りの日に形式的に進行した。やり方としては催眠状態の巫女の口を借りる方法、湯立て(問湯)という方法があった。何か神意によってしか解決できない問題が起きた時、大きな釜に湯を沸かして、神の意志を伺うのである。万座に人に笹を振り回して湯を振りかける「湯垢離」という儀式であった。備中吉備津の宮の座では湯の鳴り音の高さで吉凶を占うことや、煮え湯の中へ手をいれる占いが行われていた。この問湯の効果は人を神憑きにする作用であり、普通音楽が用いられた。単純な詞の連唱による心理効果である。千度祓い、六根清浄、神歌ともいわれる。沖縄では巫女の祈願詞「オタカベ」、そして「ミセセリ」という神から人への伝言があった。神から人への啓示が専門職で行われるようになり、「口寄せ」、「巫女修験」の輩が横行した。これは明治維新で強い禁令が出た。「たたり」という言葉は本来は示現という意味であったが、なんか神の罰のような意味合いに取られている。通俗的には臨時の託宣が述べられることはなかった。神舞という伎芸は舞と踊りからなる。踊りは行動であり、舞は行動を副とする歌または語りごとである。舞は神祭の信仰上の現象であった。熱心に繰り返し語っているうちに自然と高揚して、体が動き出し人か神かの境に入るようである。芝居で使われる「オギワザ」とは神を招く技という意味である。能ではシテという舞人は神、精霊、物狂いといわれる境界の人である。数ある芸術の多くは、最初は祭の讃え事に始まり、人が自然と高揚した舞の手の仲介を経て、長く国民の間に伝わった伝統の世界であろう。ところが神と人間の間の距離が時代が進むにつれて離れて行き、今では神を讃えることは、貴賓を歓待する場合に似てきた。多くの神社で行われている「田植え祭」、「田遊び」は舞ではなく、田植え踊りである。田歌があり、出演者の決まった芝居になっている。東北や北陸地方では正月15日の前の晩に、「皐月」とか「田植え」という踊りをする。あるいは子供が家の門で田植えの真似をして餅や銭を貰う習わしもある。一つの遊芸として神事から切り離して楽しむ傾向がある。御旅所への行列も趣向を凝らして「風流」を生み、祭の神事からそれていった。

5) 「供物と神主」

この章は日本の祭りの特徴のC 神供(御饌供進)の内容です。日本の祭は必ず神に食物を御進め申すことである。西日本では「御散供」と称して洗い米を白紙に包んで持って行き、供えるかまたは打ち撒きにする。関東・東北では餅を持参し供える。奥羽の山では藁に餅を包んで木にかけ、カラスなどの鳥に食べさせる「ミサキドン祭」と呼ぶ。山の神の餅を鳥に食べさせることは、神が食べた証拠だする「トリバミの神事」、「オトグイの祭り」と呼ぶ。この供物の餅の半分を水に漬けこれを水餅といい、凍らせて干し6月になって食べると力になると信じられている。これを氷餅と呼ぶ。子供らしい年中行事の一つになっている。「カァカァ祭」とも呼ばれ少年の行事である。静岡県の村では「オコンコンサマ」という狐の真似をする子供行事であった。越後では山の神である「オシャガミ」と呼ぶ。子供を神に代わって饗応を受けさせる趣旨である。中国や朝鮮にも古くからある風習であった。能登半島の農村では田の神様への御礼のため「アエノコト」(饗の事)という神事を行う。旧家の本家では田の神様に風呂に入ってもらい、そのあと食事をしてもらう真似の神事である。家の年中行事である神祭では、家のものが食べるご馳走とおなじものの「初穂」を上げる。神様と同じものを神前に列座して共に戴くのであり、日常とは違う御馳走を食べる節日の供物「晴れの膳」である。歳神様歳徳様または正月様ともいう神を歳棚に祀って初穂を捧げる。正月年男が主催するこの行事を「神やしない」と呼ぶ。正月の門松を御松様と言い、本来、神の御座所であった。冬の始めまたは年の暮れに行われる「恵比須講」は商家の楽しみで、正座に神を祀る。北陸や東北では「田の神・作の神」と伝えていることを、九州や四国の村では「大黒様」、中部では「恵比寿大黒」、関東では「恵比寿様」と呼んでいる。食べ物とお酒を神様に供えるのであるが、この日のお供え物は「恵比寿膳」と言って、折敷の板の木目を縦に据える慣習がある。播州では「ソウバ膳」と呼び、神様と人が食べる物や器は同じものであることが恵比須講の作法である。本来神様と同時にたべる「直会」が、最近は神職が神事が終わってから下げて別の場所で食べるような意味になってきた。飯を神供として供える場合には、この「相饗の思想」が如実である。五斗十斗という飯を大釜で炊いて、神さまと同じ飯を戴くのである。茶碗の飯を円錐形に高く盛り上げて先を尖らせる盛り方を九州・近畿では「御清盛り」、「オキョウサマ」と呼ぶ。神様には藁を椀に巻いた「鉢巻結び」で差し上げる。肥前の天川村では「オキョウモウシ」は旧暦11月丑の日の収穫祭の主要行事であった。同じ飯を参拝者に分け与える習わしであって、京都や東京では「御供」といって菓子などを参拝者に付与した。魚類は神にはそのままの形で供し、後で卸して参拝者に与えた。それから魚の名のついた祭が全国にある。丹波篠山の「鱧切り祭」、美濃の「鰻祭」、近畿では「エソ祭」、「棒鱈祭」、「カスベ祭」、「鯰祭」などがある。野菜の名が付いた祭では、諏訪御座石神社の「独活祭」、甲州羽根子の「蒟蒻祭」、長門吉部八幡の「芋煮神事」がある。神様に魚や野菜をそのままお供えすることは、間違いなく「相饗思想」(直会)の衰微につながった。多くの旧社には御炊屋御水屋、御供舎という建物がある。料理施設がない場合、指定された家から御膳を運ぶときは頭の上に膳を乗せて運ぶのである。飯ではなくて米だけは生のままで神に出す習わしがあり、「花米」、「御散供(オサング)」と呼んだ。神様の供物が人間の食べ物と別れてきた経緯には、新しい時代の趣向や技術が絡んでいる。「相饗思想」(直会)の衰微がそれであるが、神職という神供調達係りの管理と配当がそれを促進したらしい。神事を書いた文章がなかったことも伝統や慣習の保持ができなかった理由である。現在の神社制度は中央管理制度であって、外から来た神職(巡回神職)は地方の実情に従わざるを得なかった。神職としての「ホウリ」、「タユウ」という職は内容はさまざまだが、伊豆七島ではホウリは名主を兼ねた世襲で重々しい職であった。鹿児島でもホウリは家筋と年功によってその地位は相当に高く、族長の神を祀る権能ある者であったようだ。職業というより地位というべきであろうか。ところが南九州で「ホイ、ホッドン」というのは祭の雇われ人で軽い地位である。遠江天竜川上流では「ホウジ、ホウジン」は更に地位は低い者である。「タユウ 太夫」という名前もホウリと同じような意味を持つもので地位はさまざまである。タユウの古語は「モウチギミ」侍者という。中国地方では「タクダユウ」、土佐では「イチダユウ」と呼ぶ。関東では「舞太夫」という者は御社に専属する神楽の社人・伎芸者のことで身分は低かった。村のホウリつまり頭屋は大きな名誉職で、旧家の特権でもあったが、義務も多かった。神主や巫女という名称も地方によって内容がさまざまである。神主は神職と思っていない土地は多い。神職は祭事の司会であり管理者であるが、神主はただ本百姓の重役だと心得ているのだ。神職には@その土地の住民、氏子から出た神職、A外から入ってきた神職がある。第1の名門の宗家で、家と神社との関係が不可分で、時として神の血筋を引いた直系の子孫と信じている者もいる。こういう人が神主であり神職である。その変形が持ち回り制の頭屋である。第2の外部からの神職の起りは新しい。大和朝廷ができてから大社(三輪、鹿嶋、八幡など)を託宣を持って全国に移動されたためにできた神職である。祭神と自分の家との縁故では外戚関係の家である。この外来神職家には、鈴木・榎本・小野・横山・長谷川・五十嵐という名の家がある。官府の庇護があるか、無ければ農耕を行う土着化によって家を維持しなければならない。別に漂泊の移動をおこなう神職もある。神祭の管理者が専業にならなければ修めることができないような学問「神道」が中世から急に盛んになってきた。吉田神道、吉川惟忠、吉見幸和の神道家が輩出したためである。儀式が複雑化して、祭の任務が重すぎ農業経営の傍らでは実行できなくなった。頭屋交代制や代願代参代垢離の風習が盛んになり専業化した祭の執行役の需要が増したのはこのためである。

6) 「参詣と参拝」

神社の御賽銭箱は必ずしも100%拝殿の前に置かれているわけではなく、関東以北や京阪神の大社ではこれを欠くものがある。正月や大勢の人が参拝に来るとき、拝殿正面に白い布を敷いて、そのうえに紙幣・銅貨やオヒネリ状のウチマキ(打撒き)が投げ込まれているのを眼にする。神を拝する者の立場から何のためにお賽銭を投げ込むかと言えば、現代風に解すれば、お願い事を聴いてくださるようにという御利益を期待して金を入れるのである。つまり卑俗な言い方をすると期待を買う行為である。そこで御賽銭の変遷を振り返ってみよう。「賽銭」とは輸入漢語です。賽銭と呼ぶ前は何といっていたのでしょうか。それは「幣 ヌサ」ではないか柳田氏は推測しました。ヌサを手向けるとは歌にもある通り、旅をする者の臨時の祭りの捧げものです。布帛または紙帛だったと思われます。神に当時の貴重な物(宝)を捧げると言ってもいいでしょうか。貨幣という言葉にもヌサを使っています。銭貨のことを「オアシ」とか「オチョウモク」というのも、神や貴人に対するヌサです。「オヒネリ」という古風な言葉には、本来チップのような小銭を投げ遣るという意味はなく、この紙袋の中には必ず洗い米が入っていました。これを「オセンマイ」、「ウチマキ」と言いました。トビをひねって結わえる行為は、対象に宿る神に対する敬意であったのです。今日神社でおみくじを引いて、その紙を木の枝にねじって結わえることと同じ意味です。東京のように銭を白紙に捻ったものを「オヒネリ」というのは随分最近のことです。代願代参の風が盛んにおこなわれるようになると、代理業に手数料プラス「十二銅」を出すのと同じような寄付行為に近い感覚です。又信仰上「ウチマキ」という言葉と「ソトマキ」という言葉があり、御散供を「ウチマキ」と呼び、その一部を取っておいて箱の中に入れることを「ソトマキ」と呼んでいた。参拝者が大きな社に参るとき、境内にある小祠にも残らず拝して「鳩目銭」を置いていった。これは内なる一座の神を拝する時、これに伴って外の神にも拝しなければならない習わしがあった。祖霊神を内なるかみ、村の氏神を外なる神と区別しながら、同時に拝することを怠らない習俗があったようです。その一番の経験は羇旅です。外神の恩恵があってこそ遠く離れた土地でもうぶすなの保護を期待できたのです。祭には守るべきものがあり、参拝については近年それがとみに衰退していった。祈願は旅人の切なる志の表れであったのに、各人の信心が廃れつつあるのです。何の願いもなくおそらくは深い期待も持たない人々が、ただ名ある神々の前でぬかずくだけで事足れりとするようになったのは大きな変化であった。村々の祭りがいつの間にか参詣に変わり、世を追って臨時の祭りが数を増やした。風・旱・虫疫、災害を払いのける祈祷、漁に出る船出の祭り、戦いの必勝祈願祭など、臨時祭が人の活動の活発化に伴って飛躍的に増加した。また個人的な病や死に対する祈りを「千祈願」、「勢祈願」と呼んだ。さらに身内や親族だけの千度詣り、お百度もあった。氏神が本来一族のための神様であったことは言うまでもなく、個人の祈願、公共の為のみならず私の祈願まで聞き届けてくれると信じたのである。参詣の準備も簡素化し、その必要が多くなるにつれ「日参」も現れた。ただ毎日の無事息災を願う毎朝神拝が日課となった。生活の複雑化によって神の数と種類は増加した。八百萬の神も足らなくなったようである。国が統一されるにしたがって、部族割拠の大昔に比べてこの国の信仰は融合してしまった。そして我国の固有は国の必要に応じて際限もなく寛容になり、簡素化・空疎化されていった。語るに落ちた。


読書ノート・文芸散歩・随筆に戻る  ホームに戻る
inserted by FC2 system