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文藝散歩 

柳田国男著 「先祖の話」
角川ソフィア文庫 (2013年新版)

1945年3−4月東京大空襲下で書かれ、日本人の死生観の根源から霊の行方を見つめる書 

本書「先祖の話」は序に書いてあるように、昭和20年4月から5月に書かれた。3月10日の東京大空襲は死者10万人以上(20万人ともいわれる、広島原爆投下と同程度の民間犠牲者)を出した。これ以降東京空襲は4月13日から5月26日まで続いた。本書の執筆の契機は明らかに東京大空襲によるものである。そして空襲下で本書が書き下された。柳田氏の話は話題が点々と移り行くため、その主題を捉えることが簡単ではない。しかし本書は動機がはっきりしているため主題ははっきりと捉えられる。本書の最期の81節「二つの実際問題」の中で著者はこう言っている。「少なくとも国のために死んだ若者だけは、仏徒の言う無縁仏の列に残しておくわけにはゆかない。もちろん国と県には晴れの祭場(靖国神社と護国神社)がありるが、一方には家々の骨肉相依るの情は無視すわけにはゆかない。家としての新たなる責任そして義務は、記念を永く守る事、そうしてその志を受け継ぐこと、および後々の祭りを懇ろにすることで、これには直系の子孫が祭るのでなければならない。一代限りの思想(英霊の神にして終わり)を改めなければ浮かばれないのである。」という。つまり霊を先祖の列に加えて、家の永遠を誓うのでなければならない。この場合家とは修身斉家治国太平に連なる序列の家制度ではなく、家族あるいは一族の永続・繁栄・和合を現世と来世とから願う祭りを絶やしてはいけない。この終戦をまじかに書かれた書は、靖国や護国神社に祀れば死者の魂は慰撫されるのかを問うているのである。戦死した人は「天皇陛下ばんざい」を唱えて死んだのではない、「お母さんすみません」と言って死んだのだから、家族で祀らないと休まるところがない。だから死者を祀る主体としての「家」の消滅、祀る子孫さえもが絶えてしまうことにこそ、柳田氏は最大の危惧を抱いたのである。「先祖」の概念についても柳田氏は新説を打ち出している。@家の中興の祖と言われる傑出した個人ただ一人をさす。系図の上で先祖とのつながりを見る。A自分たちの家で祀るのでなければ、どこも他では祭るところがない人の霊を総じて「先祖」と呼ぶ。柳田氏は後者の見方を取る。つまり近世の新しい家制度と、それ以前に人々が生き育んできた「民俗」をはっきり区別している。「正月に祀る神」とは、それぞれの家に戻ってくる先祖ではないかと考える。「先祖の話」において一貫しているのは、国家神道や戦時下の国家神道への違和感であり、柳田氏は反天皇主義者ではないが、その根拠としては民俗といまは「先祖」となった人々の心に重きを置くのである。先祖の霊が生まれ変わるという言い伝えが各地にあるが、本書の80節「七生報国」は決して軍国主義の事を言っているのではなく、「子供を大事にするという感覚」にも先祖や死者への信仰が重なり合っていたのである。我々が皆他の世界に行ってしまっては、この世を良くしようとする計画はなくなってしまう。人の生まれ変わりを信じることは、次の明朗な社会を期すること、つまりより良い社会を夢見て信じることであると柳田氏は説明する。「幽冥」つまり「幽世(かくり世)」は私とあなたとの間に充満している、独りでいても卑しいことはできぬということである。その「かくり世」を感じ取る事人間の倫理や道徳のよりどころであるという。アダム・スミス著/水田洋訳 「道徳感情論」(岩波文庫)においても、「私の行動には公平な観察者の目が光っている」ことを感じることが、利己的な個人の共存のための道徳として重要であることが述べられている。本書の自序(昭和20年10月22日付)において柳田氏は本書の歴史的意義を十分に認識していることを縷々述べている。「もちろん最初から戦後の読者を予期し、平和になってからの利用を心が得ていたのであるが、これほどまでに世の中が変わってしまうとは思わなかった。人が静かに物を考える様になるまでには、なお数年の月日を待たなければならないが、その考える材料が乏しくなってしまうとしたらどうなるだろう。家の問題は自分のみるところ死後の問題と関連し、また霊魂の観念とも深い関係を有している。人の行為と信仰は時と共に改まってゆく。今の時点でしか得られない材料もあって、もし伝わっていてさえすれば大体に変化の過程を跡付けるられのである。日本民俗学の提供せんとするものは結論ではない、事実の記述である。出来る限り確実な予備知識を保存しておきたいだけである。今度という今度(敗戦)は十分に確実な、またしても反動の犠牲になってしまわぬような、民族の自然と最もよく調和した、新たな社会組織が考え出さなえければならぬ。現にこれからの方策を決定するに当たっては、多数の人を相手になるほどそうだというところまで対談しなければならない。面倒だから何でもかでも押し付けてしまえ、盲従っせろということでは、それこそ今までの政治と格別の変わりはない。人に自ら考えさせる、自ら判断させようとしなかった教育が、大きな禍根であることを認める人は多い。」 日露戦争あたりを契機に靖国神社が象徴するように「死者の国家管理」が始まり、国家に祀られる死者を英霊と呼んだ。柳田は死者を祀るのは「家」であり、「先祖」という民俗信仰に根差した死者ととの生き方を重んじた「新たな社会組織」を作らなければという。柳田氏の民俗学は「国の作り方」ではなく、「社会の作り方」をめぐる思想であった。死者と弔う権利を放棄し、死者を弔うことの民俗学的な意味も習慣も忘却し、ただ死者は政治的に利用される。本書はその卑しさを諫める「かくり世」を感じ取れなくなった私達を告発しているのである。本書を「靖国問題」異論の書と理解してもよい。

1) 先祖とは(本書第1節ー第8節)

第1節 「二通りの解釈」:  先祖という言葉は、二通りに解釈されています。一つは家の最初だった人ただ一人が先祖だったと思っている。それは大変古い時代の人です。ですから自然と系図の初め出てくる人の事です。もう一方には、先祖は祀るべきもの、そして自分たちの家で祀らなければ、どこでも他では祀る者がない人の霊、すなわち先祖は必ず家々に伴うものと思っています。仰々しくは自分は桓武天皇から何代目と数える人が多いのは明治以来の慣習である。
第2節 「ちいさな一つの実例」: 我国では藤原という姓が多い。恐らく百万以上はあるだろう。しかし藤原は天児屋根彦命という神を祖とするが、この神を祀る不藤原さんはいない。藤原鎌足を祖として祀る家もない。「尊卑文脈」によると、関東の田舎では山陰流、魚名流の系統の家が多かった。さらに秀郷流もあり足利や佐藤の姓や波多野の姓もその流れにあるという。柳田という姓の流れは藤原魚名だそうだ。
第3節 「家の初代」: 著者柳田氏の祖先に柳田監物与兵衛という人がいた。自慢ではないから自分の家の話をするという。戦国時代の末に(栃木県の)宇都宮家のために働いて功があったので献物という名を貰った。秀吉によって宇都宮家が取り潰された後、監物は真岡に引っ込んで農業をしていた。真岡の領主の堀という侍が一万石の烏山の領主に取り立てらた時、監物は再び武家となった。旗奉行となり百石の禄を戴いた。そこで柳田家では献物が初代となっている。先祖棚に忌日と戒名が記されている。先祖の祭りは子孫の義務だというばかりでなく、正統嫡流の権利でもあった。
第4節 「ご先祖になる」: 「御先祖様になる」という言葉がある。一家を創立しまた永続させるだけの力のある人に与えら尊称である。明治以降の新華族というものの半分は一代で家を築いた(初代となった)人々であった。子供たちに家を持たせ、自分を祀らせようとする計画は古風であるが穏健な心掛けではないか。
第5節 「相続制と二種の分家」: 過去300年以上の長きにわたって、家の根幹を太く保つ「長子相続法」と、家を分け平等に子供に財産を与える「分割相続法」の二つが並立してきた。家を強くすることは、惣領の権限を太くしておくことであった。その分次男以降の取り分は少ない。特に封建時代の軍制は家の惣領が配下を従えてはせ参じることであり、長子相続法が基本であった。ところが明治政府の税制からすると家ごとに課すので戸数の増加を奨励するようになった。それでもなお旧家門閥では苦心をして分家問題に対応しなければならなかった。
第6節 「隠居と部屋」: 農家では一戸あたりの石高を一石以下にしないという決まりを設ける地方もあった。親が次男以降を引き連れ相当な地面をもって分かれ、親が亡くなったても本家に戻させない家を「隠居」という例がある。分家をすべて隠居と呼び年とった親がいるかいないかを問わない。それは元は隠居以外には、家を二つにすることを許さなかった名残である。分家を「へや」という地方もあり、母屋以外に部屋を造る場合や母屋内に住む場合もある。そこにいる人を「部屋住み」と言い、主人夫婦ではない者のことである。先祖祭りをするという分家はないが、新宅を作った分家には先祖祭りがあった。
第7節 「今の昔との違い」: 部屋と隠居は本来は分家とは言えなかった。寝食を一緒にするだけでなく、祀りの時は母屋に集まって共同の作業をする設備(カマドなど)はすべて本家にしかなかった。独立の生計がなかった生活集合体は我国の大家族制の形態であった。これがいいとは柳田氏は思っていない。我々の生活は今より良くなるように、改良していかなければならないが、たしかにこのような事実があったということは記録しなければならないという。
第8節 「先祖の心遣い」: 源平藤橘の名家でも本当の本家だという家は見当たらない。大抵は皆その当時の分家であった。神に仕える家だけが神代以来の嫡流だと言っているだけである。昔の分家は多くは遠く離れた土地に創設された「開発地主」である。先祖から譲られたものは本家に属する。それを削っては家を弱めので、山野の空地を探して耕作し次男以降に与えるのは問題ないと考えた先祖の苦労と心遣いを思い知るべきであろう。

2) 家とは(本書第9節―第14節)

第9節 「武家繁栄の実情」: 長子相続が通則となっていた中世)鎌倉・室町時代)では、親は子供のために苦労していた。武蔵国で有力な武家として「武蔵七党系図」ができていた。有力な武家はだいたい3,4戸の分家をしている。長男夫婦に本家を渡し、若い郎党を連れて原野に隠居をして開墾に着手した。それが分家して新たな苗字の家を作り、娘には猶子、養子をとってこれまた面倒を見た。しかしそのような空き地など無くなってしまうと、武力で人の土地を略奪することもあり、訴訟の絶え間がなかったという。本家の雑用役となって郎党・家来になることも多かった。又兵役のため京都に出て、知り合った家に養子に入ったり、地方では名門家の若者は受けが良かったので、人事の交流が盛んとなった。関東武家の武力・政治の特権から、わずかな期間で関東武士は九州、奥羽まで分散した。
第10節 「遠国分家」:  坂東八平氏や武蔵七党の名流が広く全国に見られるのはこのためである。飛び飛びの所領こそは、本家に依存しない独立の分家を立てるには最も適した状態であった。中世以来この家々についている根本の財産を「トク」と呼んでいる。家督や所得の起源かもしれない。
第11節 「家督の重要性」: 家督を分けて貰ったのなら分家、自分で稼いで作ったのなら別本家と呼ぶ。商家の子弟は分家には何の意味もなく、独自にご先祖に成り得た人が多かった。ただ民法上は分家である。すると本家には精神上の家督しか残らない。子孫末裔を死後にも守護したい、家を永遠に続けるという念願が家督には具現されているのである。
第12節 家の伝統」: 家督と不動産は同じものではない。物以外の無形のあるものを相続するという意味もある。商人では「暖簾」といい、得意・信用という。伝統というのは形ではなく。、無形のものを教え訓練し身に付けさせることである。商人や職人の世界では家督の中心をこれにおいている。医者・学者・役人・軍人階級では地位職分を持つことで家を建てることがある。家門はこの意味で年代を超越した縦の結合体である。
第13節 「まきと親類と」: 分家には異地分家と異職分家とがある。本家の統制が及ばないから、一代で別本家を立てることができた。kれが大家族制の解体の過程とも見える。地方には合地・地類(地縁)という家には血縁関係のない家族が団結している。関東では遠い親戚が重親類といって同姓のよしみを忘れず団結している。将来国際進出が盛んになれば、同族連合は解体する運命にある。共同生活を続けていた家々の結合は変化してゆくであろう。
第14節 「まきの結合力」: 同一苗字を持つ古くからの結合体であった、遠地に別れて住む先祖の出た家が特別の理由をもって団結している時、これは親戚とは言わず「一家」、「一統」、「ヤウチ」、「クルワ」、中部以東では「マキ」という。古い約束だけは保存され、それを守らないと義理を欠くという。その一つは毎年の年頭作法、先祖祭への参加などである。

3) 先祖祭1ー年の神(本書第15節―第22節)

第15節 「めでたい日」: 日本の年中行事の最も大きいものは、正月と盆である。盆は先祖を祀るためにあることは明白であるが、正月は何を祝う日なのだろうか。祝うということは心の静かな状態をいうので、慎み深いと、人にめでたいと言われる。年頭事例として、「御無事で相変わりませず」と言い交わす。本来は家の祝を正月に持ってきたようで、一族・家来が参賀して家への忠誠を誓うのであった。家来とは家礼と書く。家の作法を守る人を「けらい」といった。
第16節 「門明け・門開き」: 年始から賀詞交歓会は公人の務めというが、元は正月は家で祝うものであった。元旦早朝に行うことは、氏神社への参拝と本家への年頭礼があった。四国中央の地方ではこれを「かど明け」と称して一家一族の厳かな作法としている。信州伊那地方では「門びらき」と呼び、注連縄や拝み松などの正月飾りは大晦日の夕方に飾るのである。年越しの御膳というのも大みそかの晩の夕膳のことで、一日の始まりであった。
第17節 「巻うち年始の起源」: 巻うち年始(一族の内の年始儀礼)と大晦日の歳末の礼がセットとなって行う地方がある。歳末には巻内で餅つきの手伝い、箸梳り、年奉公の行事がある。門松だけは一番分家の主人が来て立てるなど本家の祝い事の親密な共同作業があった。この正月の儀礼の精神は、各自の生活力を強健ならしむため、進んで本家の祭典の参加し、先祖を共にする者の感銘を新たにすることであった。
第18節 「年の神は家の神」:  正月は世を祝い身を祝い遊び楽しむだけのものではなかった。本家が正月に祀る神は何だったのだろうか。年越しの御膳、元旦の雑煮の二度、神棚に燈明をあげお神酒と神餞を供えて、その前でお目でとうを交換した。伊勢のお祓いの札や土地の氏神社のお札も神棚に上がっている。一国の宗廟を拝むというのは新しい明治以降の習慣である。古来正月は家の神を拝むのである。
第19節 「年棚と明きの方」: 正月に家々を訪れる神ははっきりしない。一般に「歳徳神」、「正月様」と呼んでいる。これらは陰陽道から出たようで、「恵方」、「吉方」、「明きの方」ともいい、棚は常設の家の神棚とは別の筋交いに年棚、年神棚、恵方棚を設ける。
第20節 「神の御やしない」: 歳神の祭壇は藁の莚の上に米俵を3,5俵を広間の神棚の下に設けた例がある。地方によって定まっていないが、大松に白紙の幣をつけて「ホダレ」、「カイダレ」という削花を添える。奥州では「拝み松」と言って表玄関に置く(門松は門の前)。門松は京都にはなかったもので、地方の武士が持ち込んだ風習でる。朝廷では門松に重きを置かない。正月の松飾りには注連縄以外に、藁を曲げて作った皿または壺を「オヤス」、「タスノゴキ」と呼ぶ。この上に供物を置く食器である。これを「親養い」というが「オヤス」が語源である。
第21節 「盆と正月との類似」: 正月迎えの松飾りは大晦日までには作ることになっている。正月行事と盆の行事には類似点が多い。盆棚盆迎えは明らかに仏事であり、正月は清浄第一のめでたい儀式である。昔は正月は盆とまる半年離れた15にちの満月の宵であった。常設の仏壇の他にあらたな歳棚を設けることは同じだが、盆には恵方という問題はなく、盆は霊が取り付きやすい場所を選ぶ。盆花取りと言って季節の花を盆棚に飾る。また盆草刈りといって山の高いところから里に下りてくる道を清掃する。正月と同じように「盆礼」、「盆義理」という訪問がある。まず先祖棚にいって丁寧なお辞儀をする作法がある。
第22節 「歳徳神の御姿」: 正月と盆の比較をする前に、「ミタマの飯」の話をしなければならないが、盆の精霊の送り迎えについて書いておく。春毎にくる年の神を商家では福の神、農家では田の神とい兎場合が多い。間違いではないが、懇ろに祀れば家が安泰というということを約束するのは先祖の霊の他にはないだろう。歳徳神は吉方明きの思想と共に陰陽師の創造なのだが、神の姿まで指示していない。天女、七福神に擬することが多い。霊の融合の思想、すなわち多くの先祖たちが一体となって、子孫末裔を助け護ろうととする信仰を考えると、年神は我々の先祖であろうと思われる。

4) 先祖祭2−正月と盆(本書第23節ー第30節)

第23節 「先祖祭の観念」: 正月と盆との二つの祭り、昔ははるかに近いものであった思われる。この二つが引き離された原因の一つは仏法による介入とそして神の観念が時代とともに狭くなってきたためであろうと考えられます。先祖祭についてかんがえると、先祖という観念と先祖祭の形態がまちまちであった。高野山の明遍僧正は、父の13回忌追善供養に反対し、何時までも六道の巷で流転しているのは仏法の教えに背くし、もう浄土に往生しているはずだという理由であった。仏教では念仏によって霊を早く浄土へ送ることを目的としていた。日本人の死後の観念、すなわち永久にこの国土の内にとどまって、霊は遠方へは行かないという信仰がまだ根強く持ち続けられていると柳田氏は考えている。先祖が何時までもこの国に留まるか、浄土という遠方へ行って往来はないとするかで、先祖祭りの目途と方式は違うわけである。
第24節 「先祖祭の明日」: 旧家を中心とするまきの年中行事の、正月と盆を除いた別の日に先祖祭を行う例が一番多い。家には先祖棚には忌日表のようなものがある。その日に名を唱えて鉦を鳴らす仏事を行うのは簡略に流れやすい。家が繁盛して永続していると、先祖の数も多くなると、段々と祭りかたが粗末になる。旧家では通称が同じことが多いので何代目の「吉右衛門」か明確にされてない祀り方、歴史に傑出した人物ならともかく、無名の先祖を祀る場合がほとんどで、先祖に対する情愛は薄れ、ただ法事の余禄みたいな行事に堕しやすい。
第25節 「先祖正月」: 先祖の霊を一人づつ何十年目かの忌日に祀る事は鄭重に見えて、実はゆき届かぬことが多い。子もなく分家もせずに亡くなった兄弟は大抵は無縁様になりやすい。人は亡くなってある年限を過ぎると、後は先祖様またはみたま様となって一つの霊体に融合してしまうものであるという。まきの本家において営まれる毎年の先祖祭は、祀る対象は不定のご先祖様である。普通は時正と言われた春分秋分の両日の墓所を拝みに行く習俗を「彼岸会の日」とした。仏法では「施餓鬼供養」と呼ぶ。薩摩の奄美大島諸島では、七島正月の習がある。旧正月の1か月前(新暦の正月前後)に大きな祭りを行うのである。明らかにこれは先祖祭である。「親玉祭」と呼んでいた。
第26節 「親神の社」: 親とは、目上の人を親と呼び、自分の親だけとは限らない。「オヤオヤの魂祭」である。佐渡島の内海地方では正月六日をその親神さんの年夜と称する。奄美大島の七島正月は、家々の先祖祭だけを、表向きから引き離して、温かい土地柄1か月前に繰り上げたのかもしれない。大分県鶴見崎半島では先祖祭を2月1日に行う村がある。正月を外して1か月ずらせたものであろう。
第27節 「ほとけの正月」: 近畿地方では正月6日を神年越しと呼ぶ人が多かった。この神年越しの神は年神の事で、また家々の先祖であろうと思われる。正月15日を神様の正月、16日をほとけの正月ともいう。おのおの前の日の宵を年越しと呼ぶ。正月16日をもって、先祖を拝む日としている例は極めて多い。南の徳の島でも先祖正月はこの16日である。越後東蒲原では16日を「後生はじめ」といっている。子お16日に仏正月の墓参りをする。個人の霊を「ホトケ」と呼んでいたのがまずかった。人は、故人はこの地と縁を切らず、日を決めて子孫の家と往来し家の発展を見たいと思っているという心情をもっている。
第28節 「御齋日」: 東京を江戸といった時代には、正月と盆の16日を「御齋日」といい、地獄の釜も開いて閻魔様を拝みに行く風習があったという。齋とは物忌みで穢れがないということで「御饌」が供せられ、葬式や法事の時は「おとき」の膳という。先祖祭の正月16日も「とき日」という。中国地方では三とき五節句の祭りの日がある。三ときとは正月、5月、9月の三度の16日(満月の日)のことである。1月16日は全国的にトキの日である。5阿月16日は最も重要視されるトキの日である。6月16日「かつう」、「嘉定」と呼びこれもトキの日であろう。7月16日をとき祀りとすることは関東から会津の人に見られる。8月16日はお盆である。盆には精霊送りがある。9月16日は5月と対応される。お伊勢の御齋日もこの日である。
第29節 「四月の先祖祭」: 正月と盆は春秋の彼岸と同様に1年に二度のとき祭りである。越後村上の一族では毎年四月十五日と九月二十三日に先祖祭をしている。「しんと祭」と呼ばれている。まきの家から出る世話人を「かぐら番」と称する。
第30節 「田の神と山の神」: 家の成立には、かって土地が唯一の基礎であった。田地が家督であり、先祖以来の努力がその地に注がれてきたからである。「御田の神」、「農神」、「作の神」は神道からは位置づけできない家ごとの神つまり先祖の霊であったろうと考えられる。春は山の神が里に下りてきて田の神になり、秋の終わりには山へ帰って山の神になる。多くの農村では山神祭、山の講の日に祀るのである。現在は2月と11月に行うが、東北ではトキの日の16日をもって農神、御作神の昇り降りの日としている。盆は完全に仏教の支配下に置かれたが、なお田舎では年の暮れに魂祭りが残っている。

5) みたま思想(本書第31節ー第38節)

第31節 「暮れの魂祭」: 徒然草に晦日の夜に亡き人が来るとして魂を祀る祭りはもはや都にはない、東国にはなお存在するようだという記載がある。元は新年の魂祭だったのだが、これを年の暮れの行事と思うようになったのもこの頃であった。魂を迎えるのが年越しの前であったのみならず、その祭りも夜のうちにすまして元朝の晴れの式とは境目をたてたのであろう。越後では暮れの精霊は晦日の午後に来て、正月元旦の卯の刻(午前6時)には還ってゆくとしていた。信州でも東京でも正月様は元旦卯の刻には還るという言いつてがあった。これは先祖祭りを正月全体の儀式から、段々と切り離そうとした傾向を示すものである。すなわちこの神は本来祖霊であった。魂祭がすなわち先祖の祭りであったことが忘れられてゆく過程を示している。
第32節 「先祖祭と水」: 盆の魂祭が複雑なのに比べると、暮れから正月にかけての行事は簡単である。古くから魂祭作法の部分はできるだけ簡略化して一般新年行事の中に織り込んでいいとしていたのであろう。そして魂祭りでは我国だけの特色で、米と水の二つが欠くことのできない供物であった。これを「茶湯」と称する。また墓石に水を注ぎかけるのは仏典には存在しない行為であった。遠い先祖の霊を故郷の土にとどめるには、水と米がの二つが最も親しみのきずなであった。陸中の村では、この祭りの中心をなす「みたまの飯」を、元朝の朝に汲んできた「若水」で炊く習慣があった。この若水迎えも、松迎えと同様、魂祭りに先行する行為であった。
第33歳 「みたまの飯」: 陸中安家の里では、暮れの魂祭を年神祭と混同して一つの祭りになっている。年神さんには鏡餅を、みたま様には白米の飯を供えるが、それが一緒くたになっている例は珍しくない。現在はみたま飯は仏壇の中に上げる例が最も多い。握り飯をあげる例が東北六県に多く、信州では折敷のお鉢に飯をうず高く盛るだけである。これをご先祖様に供えてから仏壇の戸を閉め、正月三が日は明けないということは共通していた。みたまの飯を七日の小豆粥に加える、七草粥に加えて煮る例が秋田鹿角にある。
第34節 「箸と握り飯の形」: 米をもって祀る「みたまの飯」は全国で共通しているが、些細な点では相違は多い。握り飯か鉢に盛り上げるか、握りの数と形状、笹の葉に取り分けて盛るかなどである。箸を飯の上に立てることは忌み嫌われている。一本箸をたてるのは死者の枕元に限られている。ただし暮れの魂祭では箸を折って飯に突き刺したり、握り飯に箸を立てたり、箸で握り飯を12個繋ぐことが行われる。飯を高く美しく盛り上げるのは先祖様の供物であることを示す
第35節 「みたま思想の変化」: 「みたまの飯」を一定期間後に降ろして、家の主人や惣領息子が食べるという習慣は、先祖に子孫を繋ぎ留めておく紐帯としてこれほど具体的なものはないだろう。秋田県鳥海山麓では12個の握り飯に杉箸を一本づつ立て、神棚に「にたまの座」というものを設けて繭玉をつるす。年神祭の代わりになっている。岩手県水沢町ではこれを仏壇に上げる。南安曇では晦日の夜、飯を山盛りしてその上に箸を5本立てる。これを「みたま祭」といい、親戚が集まることをみたま詣りという。年内に死者のあった家だけが行う「初みたま」というのもある。これも一つの変化である。
第36節 「あら年とあら御魂」: 喪の穢れを忌み嫌う習性は最近めっきり衰退している。古い時代には「喪屋」を作って、関係者を一定期間その中に閉じ込め、祓除の手段が講じられた。正月は神詣の御社祭、正月の注連の内を特別に清浄な日とした。またいつとはなく忌の拘束期間を緩め、喪の穢れを軽めてしまった。僧侶は正月三日は寺年始にはやって来ない。僧侶は年取りの祝の前に、年内に不幸のあった家にはあら年の見舞いに行く。あら年のみたまは「あらみたま」と呼ばれ、にいそんじょ、にい精霊ともいう。「荒忌」、「荒御霊」からきている。和やかな先祖祭にはふさわしくないと考えられた。
第37節 「精霊とみたま」: 盆と正月の二度の魂祭が発展して、両者を区別する方向になり、新年には「みたま」といい、盆に限って「精霊」さんというようになった。盆に帰ってきて、元気に暮らしている両親に挨拶に行くことを「生みたま」と呼ぶ。播州でも、盆の15日には小豆飯を焚いておむすびに握って芋の葉の上に載せるのを「みたま」という。両者はもともと同じだったが、盆の「みたま」を漢字に直訳して「御霊」という字を当てた。しかし平安時代初め政変で恨みを持って死んだ者の霊を慰めるための行事を「御霊会」といった。そこで盆のみたまには難し漢字「精霊」を当てたのだそうです。舌を噛みそうな言葉です。
第38節 「精霊と亡霊」: この節は「みたま」の漢字命名法につて述べる。「精霊」は元は「聖霊」と書くことが多かった。しかし石清水八幡宮、北野神社、天王寺などで「聖霊会」を「御霊会」の意味で使う場合が多く、yむなく「精霊」という字を使ったようである。発音しにくいので様々な方言を生んだ。東北では「オソレア」、近畿地方では「ソンジョ」、九州では「セロ様」といった。「みたま」が歴史ある良い日本語だとすると、「精霊」は知識人のあしき漢字趣味といえる。「幽霊」、「亡霊」なども当て字のあしき例で、まるで妖怪の仲間の様である。

6) 魂棚ーほかい(本書第39節―第47節)

第39節 「三種の精霊」: 「精霊」に関する定義の混乱でさまざまな意義の分化が行われている。このために本来の精霊の姿が見えにくくなっている。一つは年内に亡くなった荒忌のみたまを「アラソンジョ」、「ワカソンジョ」、「新精霊」と呼ぶ。精霊というと新亡者のことと思う人もいる。九州南部から西南諸島にかけて、さらに関西以西では「外精霊」と呼んでいるものがある。「ホカドン」、「トモドン」、「御客仏」、「無縁様」といい、さらに「餓鬼」と呼ぶところもある。これらの言葉・考え方には大分違いが大きい。家で祭るべきみたまより他の霊が集っている来るT考えている。岐阜県では「一切精霊様」、壱岐の島では「サンゲバンゲ」と呼ぶ。これらは我国の先祖祭思想の想定外の霊である。信仰共同が普及して「施餓鬼が盆」という仏教思想によるところ大である。和歌山県でいう「御客仏」は、妻の親兄弟、他家に嫁入りした姉妹、甥姪などの新たに精霊になったもののことである。日本の「外精霊」は統一も何もなく、分別も定かでない。
第40節 「柿の葉と蓮の葉」: 盆の魂棚の位置・構造・管理方法は、年棚に比べて何倍か地方毎の変化が大きい。その原因は無縁仏、外精霊が加わったためである。近世江戸幕府の「宗門改めの制」によって、盆棚はいっそう仏法臭くなった。日本は太古から大きな力強い神によって統御していただく信仰であったが、この「遊行神」、「無縁仏」と、家々の祀る子孫の無い無縁様は別のものであった。昔子のない老女をからかって「柿の葉」といったが、柿の葉は本来素朴な食器であった。無縁様に供する食器は柿の葉をもってした。後には里芋の葉となり、蓮の葉となったが、いまでも無縁と本仏を区別するため精霊棚の祀るとき、柿の葉の供物は一段と低いところに置き、その卸しは捨てた。
第41節 「常設の魂棚」: 年棚(正月様)は家ごとにそのたびに設けたが、盆の魂棚は常設の仏壇で行う家が多かった。つまり仏壇は本来常設の魂棚に他ならなかった。特別に盆に限って精霊棚を祀るときは、位牌を仏壇から取り出し、それを新たな精霊棚に移す。仏壇は信州では「御留守居様」、奥州では「空棚」と呼ぶ。
第42節 「仏壇という名称」: 常設の魂棚をお仏壇というのは、人は往々にして盆を仏教が日本に入って来てから始まった行事のように誤解していた。神道の「神葬祭」は先祖祭も葬式も仏式に寄らないのは、これは復古ではななく新式であった。戒名というのは元来生きている人が仏法の五戒十戒を守っているしるしとして付与されもので、それが何時の間にか、死んだ人の名前にしてしまった。神道でも同じように死んだ人の名をつける習わしがある。祖先の個性をいつまでも維持しようとする試みが、柳田氏が主張する祖霊の融合化という思想から離れてゆきつつある。最近の信教自由化の流れが祖霊を粗末にする無関心派を生んでいる。
第43節 「盆とほかい」: 盆という字を考えてみよう。仏教の方では旧暦7月15日におこなわれる法会を盂蘭盆会(梵語のうらぶんな)というが、これを盆とする説がある。しかし中世以前の盆には瓦の字を用いている。瓦も盆もともに土を焼いた食器のことである。どちらの説を起源とするかは分からない。土佐では盆の14,15,16日の三夜家々の門口に焚く火をホーカイと呼び、柱松明も法界火、放火会と呼ぶ。長崎の港町のホウカイは、盆の精霊棚の方脇に無縁の霊を祀り、供物を供える「外精霊」の事である。ホウカイ飯は家の者は食べない。東北の諸県ではいまも墓前に供える食物をホウカイという。
第44節 「ほかいと祭との差」: 墓前の飯をあつめて乞食に与えることから、乞食のことを「ほかい」、「ホイト」と呼ぶ例が東北に残っている。ホガウという動詞は盆の墓前に供物を手向けることである。すなわち盆の「ほかい」は日本の古語である。はたして「ほかい」と「まつり」が日本の言葉として全く同じものかどうか考えてみるに、宮崎高千穂では、飲食をする前に神に供える儀式をおこなう。酒を飲む前に指先で酒を三度空中に散らす行為を「ホカウ」という。「ホカウ」は神にお神酒を上げることであるが、正月4日に食物を供えて祀る田植えの行事は各地に残っている。京都から西の地方は「ホナガ」、「ホカイ」、阿蘇山麓では稲の穂を供えることを「オガエル」、土佐では不漁の時松明を焚くことを「オガホ」、壱岐の島では屋根ふきの祝を「ホガウ」と呼ぶ・。「ホカイ」が神または霊に、供物を進めるだけの式ではなく、不特定の参加者を想定していたようである。これが「祭り」と「ホカイ」の区別である。
第45節 「かわらも行器」: 「ホカイ」(外居)は漢名を行器と書いて、食物を家から外へ運搬する木製の容器である。外(そと)も他(ほか)も祭りのために屋外に据える机のことである。瓦の字をほかいと呼んだかどうかは知らないが、食物を入れて菩提所や墓所に送る土器である。ホカイが木製の行器であって、ひょっとすると土器の行器があって、それを盆と書いたのかもしれない。鎌倉時代に「塵袋」には、「ほときは盂蘭盆の時に用いる。瓦は器物の一つである。盆の字はヒラカトと読む、ほときは缶の字を読むが、共にほときという」
第46節 「ホトケの語源」: 死者を無差別にみな「ホトケ」と呼ぶようになったのは、本来はほときという器に食物を入れて祀る霊ということで中世の盆の行事から始まったのではないか。ホトケを仏法の如来という意味で使う人やニューアンスが違うと捉える人は東北や西南の地方に多い。西南地方でホトケは卒塔婆の事であった。法事のことを西南では菩提という。菩提が終わったら木の板を精霊のよる座として、ホトケと呼んだ。奥羽地方では法事をホトケカキと呼び、塔婆を書いて貰う事であった。卒塔婆をホトケ棒という。小型の塔婆を柾ボトケと呼ぶ。
第47節 「いろいろのホトケ」: 「詣りのホトケ」という言葉は、先祖祭または祝い神というものに近く、これを管理する者はまきの宗家であった。江刺郡では旧十月十五日に「エドシ」という行事を行う。同族の数戸を招いて祭りを行う。年越しのみたまの飯に近く、Kボトケ、K本尊ともいう。他には樺皮ホトケ、十月ボトケなどがある。オシラボトケは春秋の御縁日に女・子供の縁者が集まり一日を楽しむ行事であった。イタコを呼んでお告げを望んだ。おしら様のひとりを鉤ボトケと呼び、いろいろな占いに使う。

7) 祭式と場所(本書第48節―第55節)

第48節 「祭具と祭式」: 死者を祀るには日本では木を依座として立てるのが常であった。仏式では「浮屠の木」と呼んだ。東北地方ではホトケには、卒塔婆や位牌だけでなくオしら様という木人形のホトケも含んでいる。仏陀という中国仏教から影響を受け、仏をホトケというのは、言い換えに過ぎない。仏教の隆盛から市民権を得た名称である。ホトキとは家より外で飲饌をもって供養するため、ほときという土製の食器を用いて祭りをした。仏式で悉皆成仏といって毎年施餓鬼を営み、霊を浄土へ送り込むのが僧の務めである。ほとき(缶)という意味で十分である。ホトキもサラキも器物であるのでケの方が先であろう。だからホトケ、サラケとなる。
第49節 「祀られざる霊」: 盆と言いホカイというのは、先祖の祭りに連なる行事であるということが柳田氏の主張であった。ホカイが行器の名でもあり、盆は家から外運ばれる供物であった。祭りは遠い親戚と子孫の間にかわされる交歓であった。定まった日に於て年久しい家の神々をお迎えする式であり、祭主も当然決まっている。不幸に死んだ者の霊を子孫が祭らなければ誰が祭るのか。今生きている者の不安を救うために、仏教に頼んでかえって亡霊を遠い浄土へ追いやってしまう愚を犯した。古来我々の先祖祭は複雑を極め、様々な外精霊や無縁仏のために外棚・門棚・水棚などという棚を設けた。墓は元来先祖の祭場であったが屋外にあったなど内外の区別が立ちにくいのである。疫病はいつも群霊の技と見なされ、腸チフスをボまたはボウといってボの神送りが東北では行われている。ボとは盆のことで、盆神の小さな祠があり、これを祀り追い払いもした。これが盆踊りの目的であった。京都の町の地蔵盆という祭りもこれに由来するようだ。仏式のお地蔵さんに代わっている。
第50節 「新式盆祭の特徴」: 盆の魂祭が最も分かり易く変化も大きい。祭りの行事の新たな特徴をみると、第1の変化とは、外精霊のためにするほかいを盆の先祖祭の条件とし、その他の(正月祭など)からはだんだんとこれを除いていったようである。二つ目の変化とは荒忌の霊の祭りを別にする動機が異なることである。いわゆる新盆供養が盛んになって来た。ここに念仏宗教が入り込んできた。盆の時期は農作業もあらかた片図いて稲刈りを前に一息つく休息の期間であったはずなのに、そこへ悲しみの霊が加わり、しかも正座を占めるようになった。忌と祭の混淆である。
第51節 「三十三年目」: 荒忌の霊だけは盆と日を違え別の席で供養をしたと思われるが、荒忌の期間をどこまでとするか三回忌でもよかったのだがその悲しみを記憶する者がいる限り相当長い期間が必要であった。通例は三十三年(稀には四十九年)にとぶらい上げ、問い切りとして、その日から先祖様になるとした。沖縄では霊が神になると信じられてる。位牌を川に流す習慣が東北にある。つまり一定の期間を過ぎると、祖霊は個性を捨て融合してご先祖様に一体化すると認められた。最後の法要の日、大きな木の塔婆を立てた。葉付塔婆、ホトケ棒など地方によって呼び方は違う。樹種は松・杉・榊・柳で定まっている。信州ではこの木から霊は鳥になって空に飛び立つと考える人もいる。
第52節 「家々のみたま棚」: 盆の祭りの変化は、ご先祖という言葉の意味が少し変わってきたことである。先祖を荒忌の魂に近い捉え方である。若い人にとって先祖とは理解できないものになった。昔は先祖棚があったが、仏壇だけの小規模の家や分家では先祖霊は縁の遠いものになった。仏教から神道やキリスト教に変わった家では仏壇さえない。家が解体過程にある時代には、先祖霊の下で統合される意識も薄くなった。家が分かれる時、みたま様だけは本家に留めるので神棚さえない。
第53節 「霊神のこと」: 神とみたまが、現在では二つの異なるものとされている。死者の霊魂を敬う事は自然だとしても、かって人であった霊を神にするには非常な抵抗がある。人あらたに社に祀るには霊神の称号が必要である。あらたな神社の階級制はなかなか信用されない。
第54節 「祭場点定の方式」: 家の神棚魂棚の起源は、家の一区画を清浄なものにするため、打ち板を床の上に敷いて供物と飾り物を並べて置く。神社では木の台をしつらえる。この木の台の四隅をもって宙づりにすることもある。屋敷の片隅に石を置き榎木を植えて祭場とする農家も多い。こうして常設の棚が建築上生まれたのである。神棚は主人の背後にあり、婦女はそこを通り抜けすることはできないという配置上の事は、柳田氏著の「火の昔」に詳しく書かれている。屋外に神棚を設けることは仮屋で耐久性がなかった。家の先祖棚があり、先祖祭を営むのが慣行である場合、氏神の御社と二重になることはなかった。
第55節 「村の氏神」: 氏神といっても、複数の氏、苗を異にする系統が一つの氏神を祀るのは解せない現状である。甲信地方の齋神にように、まき毎に一つの神を祀ってそれを氏神という地方も多いのである。村の祭りの合同という経過は複雑であるが、人が現在の氏神は氏の神ではないと思うようになったのは、名ある国内の大神(賀茂・北野・八幡・春日など)を勧請した氏神社が多いからである。間違っても一国の大神を氏神とは言えない。清く祀らなければならない先祖のみたまのために、屋外の一地点に社を点定したことが、全国の御社の始まりである。

8) 墓所ー黄泉思想(本書第56節―第63節)

第56節 「墓所は祭場」: 墓所がまた一つの屋外の祭場であって、神仏に関係なく荒忌のみたまを別に祀る隔離された場所であったに違いない。日本では死者を埋葬した場所というものは墓所と異なることが普通であった。この風習を両墓性といい、顕人や王には多かった。埋葬地はいけ墓・上の墓・捨て墓といい、多くは山の奥や海端にありいずれは不明になってもいいとされ、墓所は参り墓・祭り墓・内墓・寺墓と呼んだ。埋葬地で有名なところは京都四周の五三昧(鳥の辺、化野・・・)が小さな面積でよかったのは墓を立てなかったからである。初めから共同の埋葬地を区画せず廟所を兼ねた単墓制はかえってすぐに土地が足らなくなった。先祖祭の方式もやや不明にした。盆には墓は空っぽという考えで墓所に参らない人が東京に多い。石塔は霊位であり盆にはここにみたまを迎えることがあり、石碑と墓を一つにする習わしが盛んになった。
第57節 「祖霊を孤独にする」: 荒忌の穢れを畏れて、早く清浄になってほしいという願い事を一手に引き受けたのが法師の供養という仕事である。はやく人を浄土に送り付けることから、生死を隔離し祖霊を一人ぼっちにしてしまったのである。御霊はそれから個性を捨て去り、先祖という一つの霊体に融合し、自由に家のために活躍することを期待した、これが氏神信仰の基底にある。石塔が埋墓とは独立した祠廟であった。墓石が明治以降にどんどん作られた。昔は先祖代々之墓が非常に多かったが、個人のために立派な墓石が作られた。それが結局家系が絶えると無縁墓となって整理されるか倒壊して廃棄される運命にある。祖霊はずっと孤独であった。
第58節 「無意識の伝承」: 盆の行事は仏法の影響で、明らかに変形しているが、些細な無意識な行為に案外昔の伝統が残っていると思われる。荒魂のない健やかな家庭の先祖祭は待ち遠しいものであった。殺生をするな、盆には働くなということは物忌の慎みであった。牛馬のための草刈りは早く済ませて盆中は刈りに出なかった。13日の魂迎えに先だって盆草刈り、盆路作り、墓薙ぎという道の清掃を行う。11日の盆花採り、15日の夕方の松迎えに続く魂迎えの行事がある。精霊を迎えるのは、京都珍皇寺の槙の小枝、稲荷山の杉、愛宕山の樒、岩木山の松のように霊山から霊を迎える方式は似ている。珍しいのは九州南端の田舎では、盆市に出て魂を迎えて連れて帰るのである。東北八戸でも年の暮れに市でみたまを迎える風習がある。
第59節 「このあかり」: 盆の13日の魂迎えの行事には、仏法では説明できない風習が残っている。この日の夕方迎え火を焚くところが、墓の石塔の前や、門口だけに焚くことや、路の辻や小川の岸で迎え火を焚くkとや、こどもが近くの丘の上で松明を燃やす、竿の頭に高灯籠をかかげ、柱松明を焚く事、日の前で招魂の辞を唱えることなどである。諏訪地方でははや6日の晩に火を焚いて子供が「キャランノウ」(来たまぬかよ)と呼ぶ。島根県では「コナカレ」(このあかり)という。弘前では13日の魂祭を「ほかひ」するという。樺の木の皮を門ごとに焚くのである各地方には招魂の唱え言葉がある。信州の例では「じいさん、ばあさん、このあかりでお出やれお出やれ」という。
第60節 「小児の言葉として」: この行事にも子供が親しみを持てるように工夫するのである。関東では盆に来るご先祖様を「ノンノジイ、ノンノバア」という者がいる。ノンノという言葉は日月神仏をノノ様というところからきている拝む意味である。13日の暮れには火を焚き提灯に火を移してから、子どもは「さあ行きましょう」とおんぶする真似をした。又は墓の前の小石を手背負にして帰る者もいた。お迎えの言葉も生き人ン対するように丁寧に「よくいらっしゃいました。…良く御逗留くださいました」と主人が羽織袴で表玄関に出て、口上を述べる家もあった。
第61節 「自然の体験」: ご先祖様になるということは、正月と盆、春秋の彼岸の中日、毎年少なくとも一日戻ってきて子孫と共に暮らせるという事であった。日本では今でもそう思っている人が多いのは確かである。この信仰は人の人生を通じて、家の中で養われてきたのである。盆には仕事を休んで、家を清潔にし平和裏にみたまを迎えることが生きる者の務めであるかのように信じられてきた。
第62節 「黄泉思想なるもの」: 霊魂の行方については民俗毎にそれぞれの考えがある。自分自身の考えとか理論は功だという主張は信仰とは無縁である。我々と共に生きている人々が、最もふつうに、死後をいかに想像し感じているかが知らなければならない事柄である。寺と家の目論見が違っていても仕方がない。この節から地面の下の黄泉の国の信仰を考えてみよう。
第63節 「魂昇魄降説」: 魂と魄は別だとする「魂魄二体説」なる折衷案がある。謡曲「実盛」にあるように「魂は冥途にありながら、魄はこの世に留まって・・」という様に、死んでもなお生きた人の社会と交流したいと思うのが先祖の霊だと容認せざるを得ない。仏法の日本化は近世の宗門改めによって形式化な形相だけが表に出た。家を見守りたいという先祖様の意図は日本の場合は異に強固であり、それが日本国家の繁栄につながってきたという歴史を主張する者もいるが、訂正されるべき歴史は鏡であり、民俗学は反省の科学であると柳田氏はこの殉国思想にペンディングをつける。

9) あの世とこの世(本書第64節ー第71節)

第64節 「死の親しさ」: 世の東西を問わず、生と死は絶対の隔絶であることは違いないが、両者の距離と久しさが妙な折り合いをつけている時代が確かに日本にあった。「死は易し」という考えが今度の戦争で全国民を巻き込んだ。その是非は今は問わないが、これから先の平和な時代に考えなければならない問題である。日本人の死生観の特徴を上げると、@死んでも霊はこの国のなかに留まって遠くにはゆかない、A顕幽二界の交流が繁く、招き招かれると持っていた、B生きた人のいまわの念願は、死後には必ず達成されると思っていた、C子孫のために何回も生まれ変わって、同じたくらみを続けられることと思う人が多かった。これは集団宗教ではないので、文字には存在しないので段々変化を受け弱まってきた。この考えは家々の年中行事とは別にあり、村々の氏神信仰と重なって、我国の固有信仰を特色づけた。
第65節 「あの世とこの世」: 霊魂不滅を信じた人は魂が行くあの世は何処にあるのは、誰も答えて人はいない。沖縄ではあの世の事をグショウ(後生)と呼んでいるがそれは近くの事だと考えているようだ。日本学で「幽冥道の問題」に注目したのは平田篤胤の頃からと言われるが、あの世に行って来た人の証言はあやふやな点が多くとても学にはならない。
第66節 「帰る山」: 無事に人生を終えた人の霊のゆくところは、近くの山でおよそ住んでいた場所を望みうる場所と考えられていた。。だから村の周囲にある山の峰から、盆には道を刈り払い山川の流れの岸に魂を迎え、やまから盆花を採ってくる習俗が、ひろく山村で行われている。霊山の崇拝は仏教伝来よりも古い。仏教はむしろこの信仰を利用した。越中の立山、熊野の樒山など死者の往くと言われる山は全国に分布している。五月早乙女が山の姿を礼賛する歌をうたうのは、周辺の峰が田の神の宿りと考えられていたからである。4月8日の山登りという風習もこの先祖霊と会うために山に行くことに間違いない。阿波の剣山の山勇みと称する登山はもそうである。
第67節 「卯月八日」: 旧暦4月8日を大祭とした神社は相当な数になる。背後に霊山の崇拝を負うている神社のあることは確実である。山宮・里宮の二つの聖地があって神渡御の儀式が執り行われる。卯月八日の山登りと共通の起源を持つとみられる。この風習は関西に比べると関東は希薄であると思われていたが、赤城山にはこの山登りが行われている。過去1年内に死者のあった家からは必ず登山する慣習がある。山中には六道の社や賽の河原、血の池地獄という地名が残っている
第68節 「さいの河原」: 賽(京都では佐比)の河原という字には最初から漢字がない地名で日本思想に由来し、仏教がこれを利用して地獄の説明に使ったものである。空也作と言われる「地蔵和算」には「みどり児の所作として、河原の小石を取り集め、一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、三つ積んでは兄弟のため・・・」という哀れな歌がある。仏教の賽の河原では、亡き児が願をかけて小石を積んでは地獄の鬼に蹴倒されるという筋になる。信州の水窪川、佐渡の海府の願の賽の河原、京の佐比の河原が著名である。巡礼が通り過しがたい寂しい関門のような地に小石の塔が積まれていったのだろう。人の世とあの世の境と考えたようだ。道祖神信仰の「さえ」との共通性を説く人もいる。
第69節 「あの世へ行く路」: 羽後の飛鳥にもひとつの賽の河原がある。ここは岩石の荒浜で小道に誰が積むともしれない石の塔がある。大きい岩で1mはある。正面に霊峰鳥海山が横たわっている。この小道で歌を聴いたら近在の村で人が亡くなっているという言い伝えがある。死者が通る道という解釈ができる。岩手県では「でんでら野」とった。蓮台野という意味だそうだ。埋葬地または詣り墓にも近い。
第70節 「ほうりの目的」: 生と死の断絶を認めない人はいないのだが、生きている者の側に強い牽連を断ち切れない時、完全な霊と認めたくないことがある。民衆(常民)は死骸は速やかに消滅するのでこれを保存する気はなく、亡骸を幽界の代表として拝み奉仕するつもりはなかった。下越後では埋葬地の上に若木を植え、特徴ある小石を枕石として置く風習があった。幾年か過ぎてその地が風化してただの山腹や野原に戻ることは自然であった。墓石を加工し文字を彫刻するようになって、荒墓になり、石は再利用された。都市において無限に墓地が増えることにはできず、埋葬法は乱雑を極めた。田舎のように土地に余裕があるところだけは、野や山に送って死骸を静かに消滅させる(現在は火葬で灰にするが)ことができた。魂が身を去って高い嶺にゅくという考え方と、その山陰に遺骸を贈る慣行は繋がっていた。天に近い嶺の清浄な地に安らかに集まっておられると信じていた。豪族の古墳はその山を造営し死骸を埋葬したのである。
第71節 「二つの世の境目」: 山の中の賽の河原の石塔は古い信仰の痕跡であって、仏教の地獄物語とは関係がないという。山を霊地とする我々の信仰は、山中の狭い地の石塔は境の関所「さえ」の表示であって、喪の穢れの終始点で、清浄な神々の地への登り口であった。この賽の河原から霊峰が高々と仰がれる地点が理想であった。峰から空への通い道の入り口である。精霊送りの燈火も霊の送り迎えの道である。

10) 魂―生まれ変わり(本書第72節ー第81節)

第72節 「神降ろしの歌」: 追分節の起源が吉野宇陀にもあるという話しと、岩手県に住む柳田氏の盟友佐々木氏が、娘が亡くなって40日経つ日の夢に娘が現れて追分節を歌いながら明るい空を歩む姿を見たという話しがあった、また岩手県の「イダコ」という巫女が歌う神降ろしの歌の半分ほどが追分節と同じ節であったという。羽黒山を本山とする者の歌は追分節に近く、死者の霊の御山に行って迎える時に歌われるのである。追分節は碓氷峠の馬追歌が越後に伝わり、船に乗って北海の船乗歌に広まったそうである。東北の巫女の魂迎え歌になったとしても不思議はない。民謡採録事業は軌道に乗りつつあるそうだ。
第73節 「神を負うてくる人」: 馬で山から神霊をお迎えする式は神社や家々にも見られる。特にお産には山の神と箒の神が関係するようで、関東越後から奥羽にかけの広い地域では、お産が長引くと馬を牽いて山の神を迎えに行く風習が稀に残っている。馬のかすかな動きから神が載ったことを察知し引き返してくるのである。馬の無い家では背負い縄を肩に掛けて出かけたという。島根県石見の山村では背負い台に載せるという。馬追歌が神降ろし歌になった経緯にはこの習俗も関係していたようである。
第74節 「魂を招く日」: 明治新政府は一切の御宣託(祈祷・卜占・呪禁)という物を公認しない様にしている。口寄せ取り出しはご法度である。この法律は正しい知恵がないと固有信仰が進んできた道を分からなくする嫌いがある。口寄せ業は神と死者と生霊を口寄せするというが、霊と人の交流のうち現世の終末ばかりが取りざたされるからである。地方によっては彼岸の春秋の二度、年寄りの夫人が口寄せをする。戦や旅で何の遺言もなく死んだ者は一度呼び寄せて、話を聞いてやらぬと?の子が生まれるという言い伝えがある。葬送の後の「仏降ろし」は必ずすべきことと信じる者は多い。
第75節 「最後の一念」: 口寄せは彼岸の中日以外の日にやると、ほとけの位が一つ下がると、香川県では言う地方がある。この世の執着を断ち切ることを解脱の道というが、ほとけの言い訳が一日しか与えられなかったことは、先祖に成る道を妨げると考えたからである。最後の一念が、長く後の世に跡を引くという考えがあったからであろう。志を遂げられずに死んだ人の一念を後代に晴らしてやろうとか、志を受け継ごうとする意志から来た「ほとけ降ろし」である。
第76節 「願ほどき」: 最後の一念を貫徹しようとすることを、個人の解脱に置き去ろうとすることは心得違いであろう。仏教一色に塗りつぶされた死生観に、希望を後代につなごうとする信仰があったに違いない。これは日本を永遠の住みかとする民族の心だったのかも知れない。霊はこの国土に留まり、徐々にこの国の神になると信じる者が確かにいたのである。葬式のあと、死者が今までかけていた神仏への祈願を撤回する式を「願戻し・立願ほどき・願はらい」と称する。白扇の要を外してバラバラにして屋根に放り上げる行為である。「もう物は申しません」という意味の式である。
第77節 「生まれ替わり」: あの世とこの世の距離が近かった日本では、「生まれ変わり」といった魂がこの世に復帰する信仰がある。仏法でも「六道輪廻」という思想がある。これに対して霊が現世の汚濁から遠ざかり、神というより高い天に上ると信じる思想もある。神となってしまうともう生まれ変わりはないのである。魂が生身を離れることを「飛びたま」という。子供は魂が離れやすいので、宮参りの日に太鼓の音で産土神に魂を入れてもらう式を行う地方がある。これを「うぶをいれる」とか「うつつを入れる」という。
第78節 「家と小児」: 生まれ変わりは小児になるということで、魂を若くすると信じられた。小児の生身魂は「マブリ・ウブ・ウツツ」と呼んだ。沖縄や中国地方では幼くして死んだ子供の墓は別に設け、「童墓」、「子墓」と呼び、葬式も成人とは異なっていたという。水子には墓は設けなかった。青森では小さい子の埋葬には魚を持たせた。7歳までは子供は神だという諺もある。
第79節 「魂の若返り」: 甲州では没後50年に柳の木の卒塔婆をたて「草木国土悉皆成仏」と書くらしい。富士の忍野では夢の中で亡くなった人に会うと、その人は生まれ変わっていると信じた。生まれ変わりは必ず同族の氏族、血筋にまた現れると思っていた。跡取りは先祖の生まれ変わりともいう。
第80節 「七生報国」: 「七生報国」は決して楠木正成のような尊王論軍国主義の事を言っているのではなく、「子供を大事にするという感覚」にも先祖や死者への信仰が重なり合っていたのである。我々が皆他の世界に行ってしまっては、この世を良くしようとする計画はなくなってしまう。人の生まれ変わりを信じることは、次の明朗な社会を期すること、つまりより良い社会を夢見て信じることであると柳田氏は説明する。
第81節 「二つの実際問題」: 日露戦争あたりを契機に靖国神社が象徴するように「死者の国家管理」が始まり、国家に祀られる死者を英霊と呼んだ。柳田は死者を祀るのは「家」であり、「先祖」という民俗信仰に根差した死者ととの生き方を重んじた「新たな社会組織」を作らなければという。柳田氏の民俗学は「国の作り方」ではなく、「社会の作り方」をめぐる思想であった。死者と弔う権利を放棄し、死者を弔うことの民俗学的な意味も習慣も忘却し、ただ死者は政治的に利用される。本書はその卑しさを諫める「かくり世」を感じ取れなくなった私達を告発しているのである。本書を「靖国問題」異論の書と理解してもよい。


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