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文藝散歩 

柳田国男著 「火の昔」
角川ソフィア文庫 (2013年新版)

火と照明、煮炊き、暖房の生活を振り返る。忘れてしまった昔が甦る。

今の方がはるかに暮らしよくなっていることは確かであるが、子供たちに、火については昔の人は苦労したということを忘れてしまわないように本書を書いたと著者は言っている。文化とか分明とか、エネルギー資源とかいう小難しい言葉は極力使わないようにして、火について考えてみるきっかけになることを念願している。しかし今のままでは(昭和18年頃)、長くはいられないという思いが本書を書かせたようである。この書物ができたのは何と昭和18年のことで、太平洋戦争の敗色が明らかになり、東京では敵機の襲来に備えて灯火管制が次第に厳しくなる頃でした。町の灯は消え、燃料は乏しく、輸入が途絶えて石油や鉄は枯渇した時期です。食べるものもなくなり世の中が暗くなって、鬼畜米英というような狂信的な歴史の逆戻りが行われた時代でした。こういう時期こそ子供たちに火の問題を考える機会をつくることが大切と感じられたようでした。柳田氏は一生を通じて最も政治の問題から離れた立場に身を置いて、離れているからこそ、無力ではあるが自由にものを考えることができた人でした。執筆された時期から20年近くなって(昭和38年、1963年柳田氏の死の翌年)本書の改版がなされた。あの戦争末期の不自由さはウソのように日本は高度経済成長期になっていました。「火の昔」という題のもとで、柳田氏は、電気、ガスを全く知らなかった時代の我々の祖先が、どのような火をどのように使ってきたのか、その移り替わりを述べています。火の管理と発火法について縄文時代から説き起こし、いつでも安定して火を作り、安全に便利に管理する方法の変遷を述べています。燃料としての火の使い方、作法、家族の中心としての囲炉裏といった文化・社会学にまで論が及んでいます。多くの実例を丹念に集めて、これによって日本人の火を中心とした生活の歴史にアプローチしています。一つの時代において、古いものと新しい者が場所や機会を違えて同時に存在する様を示します。文化の中心から離れた村には都会ではとっくに忘れた風習が残っているものです。又年中行事や祭りには古くからの行事が繰り返して行われています。こういう古い習慣を集めて、今までの人々の生活、考え方の変遷を探るのが民俗学なのです。日本は明治大正の文化・技術移入や産業の革新によって、世界のトップに近づくところまで来ましたが、昭和の恐慌と農村の疲弊によって日本の古い構造(天皇制軍国主義)が一気に噴き出しました。明治大正の進歩主義から昭和初期の太古への復古主義といった歴史の逆戻りにより民衆の生活は昔に戻った感があります。この異様な歴史の揺り戻し現象によって、光・熱・装置の問題がいやおうなしにクローズアップしました。「油断」という堺屋太一著の本が生まれた1970年代の石油ショック時を考えるべきです。このショックによって低燃費車の開発、省エネルギー機器の開発、公害防止技術の開発が進み、日本の産業技術は世界のトップレベルになりました。そのためには人の考え方が自由でなければなりません。狂信的復古主義は国を誤った方向へ陥れます。神風は決して吹きません。火の問題は地球上の生物の中で人間だけに与えられた(プロメテウスの火)課題です。3・17東電原発事故の教訓は子孫・世界に伝えなければなりません。そういった意味で本書は読む価値があります。懐かしいノスタルジーという文脈だけで読むと価値の少ないものになります。本書は平成25年(2013年)に新版が出ました。

1) やみと月夜: 世の中が進んだということ、今が昔に比べてどのくらい良くなったかということを、考えるには火の問題が一番分かり安いでしょう。ということで出だしの話は闇から始めます。戦時中は(昭和18年頃)燈火管制をしなければならぬほど、燈火は明るくなっています。昔はその闇を明るくするために大変な努力をしてきました。「親と月夜はいつもよい」という子守歌があります。暗いことは恐ろしいことだったのです。だから燈火がまだ発達しなかったころ、月夜ほどうれしいものはなかったのです。太陰暦という古い暦では、月の15日が満月、その反対の月の終わりの日を「つごもり」、翌日を「ついたち」といいました。いろいろの行事はこの満月の晩を待って行いました。月の23日は夜中過ぎまで月が出るのを待つ行事を「二十三夜さま」と呼びます。夜に月が隠れた後の闇を「暁やみ」といい、二十日過ぎて月の遅く出る前の暗さを「よいやみ」といいます。暁やみは静かで厳粛な闇で、畏れ慎むことで、家の中で静かに休むことがすべてでした。

2) ちょうちんの形: ちょうちんは日本語ではないので、中国から入って来たものと思われます。しかしその形は異本独自の進化をしています。ちょうちんの構造は、竹などのひごを曲げて輪にしてその上から和紙を貼ったものです。輪の直径を漸次変えることで、まあるい卵型にしたことが日本的なちょうちんの特徴です。真ん中の輪を大きくしてふっくら丸くすることで、炎のあるところが紙から遠ざかって、焼ける危険性を少なくしています。ちょうちんをそのまま地面に立てておくことができないので、つっかい棒を支柱にし、鯨のひげで弓張りしたのが「弓張じょうちん」です。1600年代中ごろの工夫であった。また雨が入るのを防ぐため上蓋をつけたのを「箱じょうちん」といい、子ども用の小さなものを「ほおずきじょうちん」といいます。そのための小さなろうそくを「仰願寺」と言います。

3) ろうそくの変遷: ろうそくは奈良朝にその名が見えますが、用途は朝廷とお寺でしか用いられませんでした。非常に高価で庶民には縁のない物でした。明治時代に入ってろうそくの進歩は心(芯)の変化です。紙をまいてひねった紙しんかトウキビののずいを使ったものです。ずいはそのままでは早くロウを消費しますので先端を叩いたり切ったりして小さくしました。小さなちょうちんに小さなろうそくが必要で「燈心」の工夫が施されました。ろうそくの傍には必ず心切の晩が必要でした。切った心は「ほくそとぎ」という土器に入れました。そして西洋から木綿の糸をより合わせた糸心が導入されました。これで心切りは必要なくなりました。ろうの材料は「蜜蝋」は日本では利用できなかったので、主として「はぜうるし」が利用され、煙が出て粗悪品であるが「松やにろうそく」もありました・。ろうそくが普及しだしたのは菜種油が量産された江戸時代からです。はぜうるしに菜種油を混ぜて加温したろう液をしんの上に塗り重ねてバウムクーヘンのように少しづつ太くしてゆきます。そしてロウを晒す技術が発展して、白い美しい色艶を持った「白ろう」が売られました。古い「松やにろうそく」だけはラッソクという名を残しています。ところによると「よじろう」(松脂の事をヨジロというから)という名も残っています。

4) たいまつの起り: たいまつ(松明)と言う言葉は「手火」からきているようです。伊邪那美の命が「タビ」を使ったことが日本書紀神代紀にあります。手元を明るくするくらいの短いものでした。ろうそくの流れ落ちたロウを再度溶かして紙こよりに塗ったのが「紙燭」といいましたが、手元燈みたいなもので。これで遠くまで行けるものではありません。もし2里も3里も夜に出かける用事のある人はろうそくちょうちんを使いました。1本で1時間は持ちますので、2,3本ろうそくをもってちょうちんで足元を照らして出かけたものです。たいまつは松明と書きますが、松以外にも麦わら、竹くず、檜のけずりくずを利用しましたが、長時間の利用には大変な量のたいまつを用意しなければなりません。そしてたいまつは野火となる火災の危険もあり、ろうそくちょうちんに変わて行きました。今でもたいまつを使用する習慣は虫送り、雨乞いなどに残っています。

5) 盆の火: 神さまも夜には明るい方がいいだろうと思って、盆には迎え火・送り火を門口で焚きます。春と秋の彼岸にも入りの日に火を焚く儀式があります。信州には108本の線香を砂に立てる線香山の習慣もありました。子供たちは草鞋のたいまつに火をつけて振り回す行事があります。魂送りにはたくさんの燈火をにぎやかにして灯りをつけました。精霊贈りと言って舟型にろうそくを灯す行事は今も残っています。零が見つけやすいようにと家の門口に高い燈籠(高燈籠)を竿の上に括り付けました。盆燈籠は家の軒先に吊るします。新盆の家は必ず立てておくべきものでした。

6) 燈籠とろうそく: 高い竿のの先に火をあげて、空を来る神霊を案内する風習は、まだろうそくや灯籠ががない時代からありました。たいまつに火をつけてから引き起こす「柱たいまつ」は燃え尽きるのが早い欠点があります。そこで竿の上に「ほかご」をつけてそこへわらくずや柴を入れて燃やす方法もありました。燃料の補給は下から火をつけた小さなたいまつをほおり投げるのです。これを投げたいまつと言います。これは一種の競技になりました。運動会の玉入れと同じやりかたです。燈籠は高灯籠の上げ方と同じで「セビ」で上下しました。経費の点から燃料はろうそくから油に変わり、油を燈蓋にいれました。東北では「タンコロ」、上方では「ヒョウソク」と呼びました。こういった照明の歴史を知らないと、今の時代(太平洋戦中)のありがたさが分かりません。

7) 家の燈火: 昔都会では家に人の出入りが多く、灯りは一つだけでは済まなくなりました。そこで各部屋に照明の明かりをつけることになるのですが、今日のように電灯やランプさえなかった時代には、菜種油を灯すあんどんを天上に取り付けました。これを「八間」と呼びました。形が八角形だったからで、広い範囲を照らすことが出来ました。ろうそくは高かったので、普通の家庭では臭いのは仕方がないとして魚油を使用しました。魚油・ごま油・茅の実・椿油は次第に菜種油に変わりました。これは大きな生活改良です。菜種は中国からはいって来た栽培種ですが、日本の農村の景色を一変しました。日本では水田一本やりだったのが、それ以来日本に畑作が盛んになり、麦畑や肥料用としてれんげ草が栽培されました。これにより菜種の量産と油の絞り技術が工夫され、照明用の菜種油の価格が下がり、一般人も利用できるようになったのです。江戸時代後期の蕪村は「菜の花や 月は東に 火は西に」という句を詠み、一面の菜の花畑の農村風景を描いています。

8) 油とあんどん: あんどん(行燈)の燃料油の変遷について記します。胡麻の油は高価だったので燃料以外に使いました。代わりに荏という実の油や椿油、かやの実が使われました。かやは普通はいぬがやを使いましたが、少し匂いが強く食料にはならずもっぱら燈火のために使いました。九州では「ヘボガヤ」、中部地方では「ヒョウビ」、東北では「ショウビ」と呼びました。京都では「へーべー」とよび、越後では「ヒョウミ」、東京では「ヘッタマ」とも言いました。この油の特徴は寒中でも凍らないことで、大昔の遺跡の石器や縄文式土器からヒョウビの実が発見されました。山奥の村では今でも使われていることがあります。最近はもうこの名前は忘れられ、油と言えば菜種油をさすほど普及しています。行燈は移動式照明具です。形は丸行灯(別名遠州行灯)、角行燈(引き出しが付いています)がありますが、丸行灯は半分が解放されていますので明るく、角あんどんは四面が和紙で囲われていますので少し暗くかつ心出しに多少不便です。角行燈の引き出しには心やはさみなどの小道具や小銭を入れておくものでした。

9) 燈心と燈明皿: 油を入れて燈心を灯す皿を「スズキ」と言いました。行燈の下から三分の二くらいの高さに十字に木をうってその上に燈明皿を置きました。あんどんも元はちょうちんの一種で移動する時の(懐中電灯の役目をする)照明でしたが、次第に一つ処におく灯となりました。移動する照明の用途は後にボンボリや手燭となって残っています。灯心はい草から出来ており、燈心草ともいった。空気にさらしておくと痩せて細くなるので、ミョウバンに浸し痩せをて防止しました。油に浸した灯心はふらふら移動しやすいので燈心おさえという瀬戸物で抑えました。この燈心や燈蓋皿の管理は12,3歳ごろの娘の役割でした。燈明皿からこぼれたり心から下に落ちる油を受ける役目が上下二枚の燈明皿であったり、燈蓋皿です。手に着いた油は自分の髪に撫でつけます。この女性らしいしぐさはあんどんが無くなってもなお残ってています。

10) 油屋の発生: 燈火の油の普及には油屋という流通業の商売の役割が決め手でした。室町時代の俳諧師山崎宗鑑は油売りでした。油売りは首の下から膝の下まで覆う腹掛けをしているのですぐにわかります。汚れ仕事で、かつ一滴もこぼさない技能を要する熟練職でした。油座という同業組合を作り、値段を規制し、修行徒弟制度を作りました。油は他の商品に比べると高価なので、小さな油てんこという徳利で秤買いをしました。その使いは子供たちです。また農家は材料を持ち込んで油にしてもらうことがあります。その際油屋は銭を取らず、材料の一部を引き取って残りを油に搾ります。材料の一部が油屋の商売に使われます。旧暦11月15日は油しめの日と言って祝っていました。寒い冬を前にして、灯火用だけでなく食糧用の油を使い始める儀式だったのです。油を使った食物を食べる日です。

11) ランプと石油: 前節を受けて、町の油屋が利益の出る商売となり、農村には菜の花畑が広がる景観を生み出しました。明治にはいってしばらくすると石油という新しい燃料が入ってきました。これによって以前の菜種の燈火道具が一切利用できなくなりました。はじめはブリキで作ったカンテラを使いましたが、小さくてかつ危ないので、ガラスのホヤのついた豆ランプが農家では使われ始めました。日本での石油生産地は秋田県の一部にあります。ホヤにはガラス細工技術が必要で、形は丸ホヤやタ竹ホヤがあります。竹ホヤは日本独特の形で、煙突付きです。石油ランプは電灯にとってかわられましたが、離島や山小屋には残っています。石油ランプが伝統に代わる一時期、都会では街路灯に「ガス燈」が流行しました。銀座の風物詩でした。

12) 松のヒデ: 菜種油のあんどんの前の時期に「ヒデバチ」という照明器具がありました。松のヒデをを燃やす最も古風な道具でした。石で作った餅つき臼のようなくぼみに松脂の豊富な枝を引きちぎって燃やすものです。関西では「コエ松」といい、東北では「アブラ松」、浜松では「ベタ松」、岐阜では「ロウ松」、京都では「ジンド」、鹿児島では「ツガ松」と呼んでいました。一種のかがり火です。昔の燈火の欠点は、いつも火の管理者が必要で、心切役はそばにいて太い心を切ってはホクソツボに投げ込みます。農家の夜なべには、この「ヒデマツ」が必要になり、火の番は子供でした。この炎の下で子供は本を読んで勉強します。だから顔が煤で真っ黒になって「黒猫」と呼ばれました。

13) 松燈蓋: あかりの道具は古いものと新しいものがゆっくりと遷り変りました。神話時代は松の木のかがり火でした。岩手県二戸や九戸の山村では、今でも大きないろりに、松の枝ぶりのいいのを切って真ん中にくぼみを作って、それを灰に差し込みます。その上に石をおいてアブラ松を焚くのです。これを「松燈蓋」と呼びました。ほかに「木割台」とか「コンニョウボウ(小さな女の子)」と呼びます。こういった生活は非常に長い間続きました。松以外の燃料には、京都ではヒョウビ油を用いました。この名残はお祭りの御神楽をあげる時とか、柴燈護摩の祭りに残っています。燃料は松の木と限られています。

14) 屋外の燈火: 漁業の焚き入れでは、石油やアセチレンが使われていますが、今でも川魚を取りに行く時は松のヒデを割った物をかがり火にしています。狩猟でも松の木を使った「トモシ」をもって山野に入ります。この松のヒデで反射した獣の眼を見て矢を射ったり、鉄砲を打つのです。「宇治拾遺物語」では聖が鹿の殺生をする猟師をいさめるため自分が鹿の皮を着て林の陰に潜んでいますと、漁師は松の光に照らされた眼光を見てこれは鹿ではないと思って、射るのを止めて近づきますと聖であることが分かり、反正氏それ以来猟師を止めたという話しがあります。「松明」と書いてたいまつと呼んでいますが、たいまつとは手に持つ火(手火)です。「松明」はマツアカシと呼ぶべきです。

15) 火の番と火事: 手火(たい)またはたいまつという火の持ち運びができると、その火をどう作るかが大問題です。都会特に都には「御垣守衛士」という御所の番人が火を焚きました。又町の辻48カ所には「かがり屋」を置き、番兵が交代で火の番をしました。辻番小屋の脇に「火焼屋」があって、常燈をつけて道しるべにしました。夜なかに無燈で歩くことはご法度で、それをとがめることも辻番の役目でした。この秩序が崩れると火事が起こりやすく、番人は巡警を行います。戦争になれば多くの篝火をたくので火事場のように明るかったといいます。軍略上から町屋を焼くことを「捨てかがり」と言ってたいまつで放火してゆきます。火を消さずに置く習慣は都会で始まった。番をしない火が家事の元になりました。火は結局番人がいるもので、家と火の関係は切り離すことができません。家が火の中心であり、火の管理者は主婦だった時代、火は安全だったのでした。

16) 火を大切にする人: 日本で最初に火の燃料となった木は何だろうということの結論は出ていないと前書きして、柳田氏の推論が行われた。沖縄ではオマツは火と同じ言葉だった。檜は火を作るときの摩擦用の木であり、まつは作られた火を維持する燃料であったと考えられます。鹿児島で台所で働く女をオマツと呼びました。おマツは少なくとも火の管理者であったろうと見てよい。大古には火を作るのは男、火を管理するのは女の役と考えられたようですが、火打石が常備されるようになって女性が火のすべてを管理することになりました。また向こう三軒両隣という言葉が近所を表したように、近所で火を融通し合う関係を「火貰い」、「火取隣」と呼びました。

17) 火を作る法: 世界の発火法の最も原始的なものとしては、まず木をこすって火を作るには三種の法があります。@火鋸、Aポンプ型、B火錐型です。日本ではBの火錐型のみです。一人で手のひらを合わせて木の棒を廻し、木の板に穴をあける様に回すと摩擦熱で熱くなってくすぶり始めたら薄い木くず、藁などを被せて火をつける方法で、出雲神社の祭りでは今でもこの方法で発火させています。操作と労力が簡単な火打石の利用法が知られると一気に普及しました。古事記によると。日本武尊が姉からもらった火打石で窮地を脱出することが出来ました。鉄で石を打つと火花が出る現象を利用しました。そしてこの火は清い火とされ、邪悪を退ける意味で、銭形平次の出かける時、沙羅場に出るやくざの出入りの時、出征兵士の見送りに、頭の上で火を放ちました。

18) ほくちおよびたきつけ: 火打石で発生した火花に火をつける方法として、木をこすってできる子の粉が非常に燃えやすいことに着目し、これを集めて「ホクチ(火口)」としました。ホクチの材料には、山桜のような木の枯れてボロボロになったもの、桐を消し炭に焼いて粉にしたもの、豊北地方では猿の腰掛類のキノコを乾燥してくだいたもの、奉書という紙をほぐした繊維くずなどがあります。商品としてのホクチには薄の刈れ穂、かがみの綿、ガマの乾燥したもの、木炭の粉などです。関東地方ではかまどの焚きつけを、「フッタケル」と言います。それには火吹き竹の筒で空気を吹き送ります。吹いて焚きつけるという方法です。小さな炎が出来たら、焚きつけには油マツやカンナ屑、竹屑など付け木が必要です。

19) いおうつけ木と火吹竹: 付け木の薄板(薄皮)の火付きが良いと炎は安定します。日本は火山国ですので各地の山でで硫黄が採集できます。これがホクチと相まって発火法はおおいに改善しました。硫黄の付け木ができてから後はもう吹くことは必要なくなりました。ホクチは安いもので、燈心やもぐさよりも安かった。硫黄付け木の出現で付け木が大幅に節約でき、娘や女房の腕の見せ所となりました。硫黄付け木は関西では「イオン」といいました。もちろん硫黄の訛りです。鳥取では「タテヨ」と言いました。ヨはイオウの訛りです。幅の狭い付け木を奥羽地方では「マサツケギ」と呼びました。近所から貰いものがあれば、このイオン一枚、半紙一枚、マッチ箱一個をお返ししました。

20) 民の煙: 人口が増えてゆくと、木の燃料を使っていると、禿山が出現します。都市は最初から自給自足ではなく。燃料は買うものでした。女の仕事は燃料の種類を十分吟味し、上手に無駄なく利用する経験を積むことでした。女房の火を守る仕事はつとめであるとともに責任者でもあります。これが下手で燃料を乱費すれば人に笑われます。西洋ではシンデレラという名は「灰かぶり娘」ということです。火焚き場の煙を少なくすることが技量に一つだったのです。東北では火焚き婆さんといます。煙を出さず、不完全燃焼の「ボヤ」を出さない事、いかに早く燃えつく焚き付けをするかで大きな苦労をしました。日頃から燃えつきがいい枯松葉を熊手で集めておくことも女房の役目でした。

21) しばと割木: 枯松葉は火付きはいいのですが、燃料としては煮炊き物など強力な火力がありません。お餅をついたり、赤飯を蒸かしたりするには、おくどさんと釜と火力の強いマキを用意しなければなりません。関西では「割木」という薪のことです。西欧ではストーブの薪です。関東では「松まき」と呼びます。松を割ったマキは正月用の門松の根元に使います。新年を迎えるにあたっては、燃料と食料を十分に備えないと年が越せません。宮中でも年越しには百官が薪をもって参上します。これを「御竈木進献」といい、12月13日の行事でした。農村にも「13日柴」という形でこの行事が残っています。主婦には一冬の燃料確保と、その使い廻しという才覚が必要でした。雑木または小木、小端を先に使うという挌付がありました。東北では「バイタ」、九州では「バイラ」と言いました。お茶を沸かす程度の火は、早く消えてもいい「ヨドロ」というものを焚きます。東京近辺では「ボヤ」、「モヤ」といい、いばらやすすきなどの草叢の焚きつけになる小さな燃料を言いました。

22) ホダと埋火: この「ヨドロ」という雑駁な燃料には硫黄のツケ木が便利でした。家の囲炉裏の火種だけは消さぬようにしておけば、簡単に火を焚くことができます。埋火という技術は女の知恵でした。それには炉の真ん中の「ホド」という部分の灰を柔らかくしてそこに太い木の燃えさしを埋め、上には温灰(ぬくばい)をかけておくのです。温灰には小さな粉炭が混じっています。さらに周辺の灰をたっぷりかけて火種を隠します。この大切な火の管理技術、夜中でも必要な時にすぐ火を起せ、危険性が少なく、皆が安心して寝て居られる技術を「火を留める」と言います。

23) 火を留める: 木曽や飛騨の山奥では、灰の代わりに多量のもみ殻をかけておく家があります。空気の流通がよく火種が消えないのですが、夜中ぶすぶすといぶって煙が出ます。夜着や綿布団が使われるようになると、囲炉裏の火の管理は重要です。薪の燃え残りに水をかけ土間の隅や壁の近くへ出します。残り火はあんかに入れたり、火消壺の中で消します。火留めに都合のいい木のことを「ホダ」といい、越後では「火休め木」、九州では「ヒケギ」、「トキ」といいます。ホダは堅い木の根部分を使います。ホダには樫、梅、椿が選ばれました。ホダは囲炉裏の四隅から真中で交差さて焚くのが基本でした。「ヨツギホダ」という言葉もあります。吉野の山村では「セチボタ」とも言います。北国では「年越しホダ」、「ツゴボタ」、「福ボタ」とも言いました。鹿児島では正月7日間焚き続けられる「ナンカントキ」という言葉もあります。七草雑炊、餅やき、小正月の小豆粥になくてはならない火正月でした。

24) 炉ばたの作法: 炉端の社会学です。炉が火鉢となり、コタツとなったころから、家というものの形が少しづつ改まり。とくに女性の職分と権限が異なってきました。炉は祝い事だけでなく、家そのものの組織の中心でした。家にはその機能上決まっている場所があります。常の日は中央の大きな中の間に家族は集まっており、客にもここで会いました。「居間 いま」がそれです。後には「茶の間」と呼ばれる頃になると,囲炉裏(いるい)ではなく長火鉢が置かれています。東北地方では「常居 じょうい」といい、九州では「中居 なかい」、「御前 ゴンゼン」と呼びました。この「イロリ」の四方には座るべき人の座が決まっています。囲炉裏から南面した土間に面して上がり口から最も奥に戸主の座があります。ここだけは畳一枚が敷かれた入ます。上座とは言わず横座と言いました。亭主席、親座敷、旦那イドと呼ぶ地方もあります。この亭主座の左右(細長い座)にはゴザが敷いてあって、たて座と言います。客座、南座、より座、よりつき、人座敷と呼ぶ地方もあります。入り婿の初見参も客座に座りました。主婦の座は亭主の横座に近く、女座、かか座、うば座、女房入れなど言い方は変わります。主婦の座はなべ座、ヤゼ、バンシ座(食事座)と言いました。

25) 下座と木じり: 亭主座(横座)に向き合った下の座には、畳もゴザもなく板敷です。すえ座といい、大きな家では下男下女の座る場所です。九州ではデカン座といいました。嫁座敷ともいいました。神棚や仏壇は亭主座の背後にありました。下座から薪の木をくべます。トグチとかタキモノ尻と、火の尻、ホダ尻ともいいます。焚き物を置く場を木じりといいます。炉端でい一番重要な座席は横座とかか座、すなわち主人夫婦の座です。婿と亭主の関係、嫁と姑の関係は微妙でかつ厳格であったと言います。「しゃくしを渡す」という主婦の職能と権限の委譲は座の移譲でもありました。

26) 火をたく楽しみ: 火を焚けば自ずと話が弾みます。一つ火を共にすることが家族を感じる場であったでしょう。ここで童歌やお伽噺や昔話の花が咲きます。言葉を覚える子供の教育の場でもあった。関西では松かさの事を「チチリ」、「チッチョロ」などと呼びました。石川では「ケンケラマツ」、山口では「コッケラ」といいました。児童用の燃料の言葉です。燃えやすい木を「バアバ木」、「バンバ」、ボヤ」、「モヤ」とも言いました。

27) 火正月: 1月14日の夜を火正月、花正月と言います。子供たちには楽しい晩です。節日には音のする(中国では爆竹ですが)ものを入れて燃やす儀式がありました。天竜川流域では「パチパチ」といってひのきの青葉を炉に投げ込みます。奈良では「パチコ」という馬酔木の木を燃やします。兵庫ではこの馬酔木を「ベリベリシバ」、広島では「バリバリシバ」といいます。東京では「トベラ」という木の葉を焚きます。大変臭いものです。節分には豆殻を焼きます。大みそかの晩には、大きな火を炉にくべます。14日の花正月には木を削って飾りものを作ります。小正月の前の晩、月占いといってくるみか小豆を月の数だけいろりの灰の上に並べて、その変化から天候や農作物の出来の吉凶を占うのです。餅を並べて焼いて占うのは子供たちの遊びで一家団欒の時を過ごしたものです。家が一つになって生きてゆくという姿は、炉がなくなってしまうと見られなくなった。

28) 炉のかぎのいろいろ: 母親が年を取って忘れっぽくなると、いろりのカギに白い紙、布切れを結び付け、母親はいつも目をやって忘れないように心掛けたそうです。子供がまき銭を貰った時は穴あき銭を炉のかぎに括り付けてきました。親は旅僧や巡礼に上げたそうです。又炉のかぎには神社の火伏せ札を結えたりします。だから日ごろから鉤(かぎ)は大事にします。鉤の中ほどに木の魚や絵馬板などを結わえますが、長崎では「出鉤入魚」といって、カギは出口に向かい魚は奥へ向かうようにしなければなりません。この「木鯛木鮒」は炉の神様の信仰を表しているようです。鉤の高さを調節する「自在かぎ」が工夫され全国にさまざまな形のかぎが存在しますが、今や骨とう品として収集している人もいます。魚の形をした鉤のとめ木を「こざり」、「こざら」という地方があります。

29) かぎから鉄輪へ: 鉄を用いる前のかぎは山奥の村には残っています。ギザギザをつけた木だけでできた鉤は、適切な高さで引っ掛けるためです。自然の木の股を利用した鉤もあったでしょう。まだ山中の小屋では使われています。材料の木は小枝が多かった榎木(良い木)が用いられ、縄には丈夫なふじづるがほぼ永久に使われています。炉のある部屋には天井は張りませんが、火の上には炉とほぼ同じ大きさの火棚、ヒアマという棚を渡して、煤の掃除に便利にしました。東北では「火げた」、「えぞかぎ」と呼びました。油を燈火にして別置きにするようになれば、いろりの照明としての役割はなくなり、ものが煮える程度の炎の高さでよいことになり、煙を少なくするため炭火の役割が分かって来ました。十能、五徳のような鉄輪(カナワ)が発達しました。カナワをいろりに使う地方が増えて全国では多数派になっています。

30) おかまとへっつい: 歴史的に「いろり」よりも「へつい」と「かまど」のほうがずっと以前から存在していました。いろりの「ロ」は「火ドコ」、「火ジロ」を先祖とするようです。火を焚くという行為は一つでも、炉とかまどとは二つ別の者で、どちらもなくてはならなかった。炉の目的は暖房が主で、煮炊き、照明は付随です。したがって寒い時しかいらないのです。煮炊き専用には竈(かまど)があり、居間から離れた場所にあり、これを暖房や照明用と考える人はいません。数名の人の寄り合いの際の暖房には「火鉢」がありました。「へつい」と「かまど」は規模が大きくなると「かま屋」という別棟になりました。鉄釜に重い蓋をしてしっかりした飯を焚くかまどは、飯の量が多くなるほどおいしく炊けます。大勢の料理人や運び人が出入りします、食物の清潔さを保つためです。小規模の食物料理にはいろりの出番です。魚の炉端焼きも始まりました。室町時代以降お茶を煎じて飲む習慣が庶民に広がると、いつでも手軽に湯を沸かすいろりが便利です。また簡単な料理でもできるようになりました。

31) 庭かまどの変遷: 土間の真ん中にかまどを築く家は少なくなり、内庭にかまどを置く風習がなくなりつつあるのです。敷地一杯に家を建てる都会では、かまどの占める面積と場所の不便が重なっています。家の格式を張るほど土地の広さに余裕がないからです。小屋、分家、新屋、隠居屋には不似合いだった。大屋・本家の庭かまどは儀式の時や、働く人が同時に本家で食事をとる場合に必要だったのです。この庭かまどのお世話になる頻度も下がりました。強飯、餅つきなどの利用回数が減り、大家族・大所帯が少なくなり少量の食事作りなら炉で間に合うからです。分家の場合最初から竈を壁に接して建築する事が普通となりました。いろりを廃して「かまどをたてる」ことが独立所帯の代名詞となったのです。それでもなお牛馬の餌づくりに大かまどが利用されていますし、旧家や大屋敷では3つ竈、5つ竈が連なっていることがあります。

32) コンロになるまで: かまどのカマもへっついのヘも共に煮炊きものをする器のことです。例えば炉の中に3個の石を置いて鍋釜を乗せるとか、鉄輪を火の上におくだけの事です。かまどには煮炊き専用の実用以外の目的はありません。ですから旧式のかまどを改良する余地がありました。今ではガスコンロや電磁調理器まで改良さて来ました。竈の口の広さ、高さ、内側の湾曲などに工夫が凝らされ、さらに土のかまどに置くなべの丸みやつばの役割も改善されました。それには商人や職人がこの改良に参加したからです。小さなかまどをクドと呼びます。いろりのホド、かまどのクドというと古い呼び方ですが、クドもカマドもオヘッツイも改良されてコンロ・七輪に変化してきました。かまどは板の間の端に持って行き、土間で立って働けるようにしました。土間・内庭というものの最初の用途は、半分は夜の仕事のため、残りは煮炊きもの場を居間から引き離すためでしたが、土間も内庭も必要がなくなって、ただ履物を脱ぐところだけになり大幅に縮小されました。履物箱とドアーの間に人が立てればいいだけの窮屈な玄関になりはてたのです。

33) 漁樵問答: 薪取の樵(木こり)が、燃料として炭焼きを担うお話です。まず薪の流通機構について考えましょう。町や都会の燃料としての薪は買うものでした。従って漁業・農作物と同じように都市の需要に応じて町には木こりが多く出入りをしていました。農村は周囲に裏山を持ち、里山・、村山・垣内山・さんや(山野)があり、農民は入会地に薪やキノコを採ることが許され、山に入っていました。漁樵問答というのは中国のお話です。山の薪売りと川の猟師が町でばったり会って話をするという筋立てです。豊後の野津市の吉右衛門の柴売りを騙すという強欲な話とか、京都大原女、宇治の柴舟が有名です。都会は冬に入る前に大量の柴を必要とします。所有する山の中から早い瀬に乗せて柴を都市に送る専門の有力者の商売がありました。又は山奥の人の税を軽減して入用の木を税として下流に流させました。流す木には業者の木印をつけ、山子を使って流しました。今の木場のようです。都北ではこの流し木のことを春木と言います。春の雪解け時に流すからです。それを下流の木屋が受け取り町の流通業者に売るのです。目方で売買するので「かけ木」とも言います。

34) わらとわら灰: 川には増水時に持ち主不明の木が流れてきて、これを掘り起こして薪に使いました。埋め立て新田は、薪の手当てを全く考えていない役人の計画で行われました。また塩田で海水を煮詰めるために大量の松を使ったため海辺の山や岡は丸裸にされ土砂が流出しました。古い村里では屋敷を広くとって竹や木を茂らせ薪としました。川の曲がり角のような不用地に生える雑木を「カクマ」と称して薪にしました。つばがまの発明や炉の改良でわらでもご飯を炊けるようになると、わらで飯を煮ることができるようになりました。しかしわらの用途は多彩で、祭りの飾り物、はきもの、布団替わり、家畜の飼料、縄やかます、畳の芯床、藁半紙などに使いますので、わらが燃料として廻ってくる量は僅かでした。藁の手当てやわら灰の始末は女性の仕事でした。

35) 木炭時代: 日本は木炭の最大消費国で、戦時中には自動車も木炭で走りました。もとは木炭の使用は鋳物師といった金属を溶かす仕事や、鍛冶屋のように金属鍛造や加工する仕事に限られていましたが、明治時代の中頃全国的に炭焼きが始まりました。炭がまの技術はセンターのようなところで開発され広められました。その中心は栃木県、大分県などにありました。都会や貴族階級ではいろりに集まる必要はなかったので、冬は部屋ごとに火桶を持ち込むという習慣が始まりました。火ばし、火ばちの改良により普及しました。火ばちは陶器の進歩で堅く強くなりました。それでも最初の内はいろりのおきの火を分けるだけで、山で焼かれる木炭は、火鉢には使わなかった。コタツというものも火鉢と連動して進歩しました。やぐらに浅い火桶をつけた置きこたつ、行火(あんか)、番所こたつ、ネコなどは火鉢の改良から生まれました。

36) ふろとこんろ: 火鉢や土製の置きごたつが普及すると、どこの家でも炭の入用が増えてきました。木炭を使用しないで火種を用意するには、台所のかまどの改良があったからです。かまどはそれ自体が炭がまでした。この消し炭の需要が増大しました。それを火消壺にいれ、夏の間に冬用の燃料生産(けしこ)を心がけていました。火かき、火すくいは鉄板製で売られました。地方ではセンバ、台十(十能)と呼びました。一方家の構造も、戸障子・間仕切りで断熱性が改良され、炉の火の周りでないと生活できないことはなくなりました。どこへでも持ち運びができる、大小いろいろな火入れ、火鉢が出来ました。炉は冬だけのもので、越後では長火鉢のことを「夏炉」と呼んでいました。山形県では「ブショウ」、「ブシブロ」と呼びました。長火鉢は座ったままで仕事ができ、小物を入れておく引き出し机になりました。「フロ」は元は小型の炉、一種火鉢のようなものでしたが、片方に口を開け風通しが良いように作ってある「風炉」でした。浴場をふろというのは、周りを締め切ったサウナ(蒸し風呂 こうじむろ)のことです。茶の湯では火鉢を今でも「ふろ」と呼び、東北地方ではコンロの事を「ハヤフロ」と呼びました。木炭が重用されたのは、茶の湯のあの「ふろ 風炉」のころからです。

37) 町の燃料: 我国は水と燃料に恵まれた国でした。国土の6−70%は森林地です。仙台などではできだけ屋敷を広く取り端に大きな木を植えます。ところが都会では燃料を無視して住宅地が増えました。欧州では木炭を使いません。石炭や薪ストーブだけです。日本の火ばち・こたつ・行火の特徴はわら灰(熱灰)でもって炭の火(おきの火)を包むことです。改良されたコンロは炭の使用量をどんどん増やしました。わら灰の多くは米俵から作ります。古い米俵の縄は燃料だったのです。藁や薪をかまどで焚いていたころは都会は莫大な灰の生産地だったのです。灰は染物、あく抜き、土壌改良剤に使われます。都会から田舎へ灰が帰ってゆく流通が確立されていました。川越では灰市が立ちました。

38) 燃料の将来: この節はいわばエネルギー資源問題を扱います。昔の人は火に清いと汚いの感覚があり、「朝縄夕ふじ」という風に燃料を選択していました。炭家のちり芥を固めた「たどん」や「練炭」を戦後しばらく燃料屋で売っていました。火付きが悪いのでコンロで木くずで火をつけてから火ばちやコタツに移しました。火力は強くないので、豆などをぐつぐつ煮るために使いました。農家の風呂が普及したのは、このごみやごもくの再利用でした。津軽の十三潟では「サルケ」という泥炭を乾燥させ燃料にしました。亜炭や褐炭も東北では使用されています。石炭を炭・薪の代わりに使うことは案外古い時代から知っていました。関西では「ウニ」、「スクボ」、「ゴヘイダ」と呼ばれました。臭くて煙が多いことは今も同じ悩みです。今後、石炭・石油・ガス・電気の利用と関連製品の開発が進むことでしょう。

39) 火の文化: 人間と他の動物の違いを火の利用に求める考えがあります。食物を美味・衛生の観点で料理するため、赤道直下の地域でも火を使います。文化生活には火は欠かせません。


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