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文藝散歩 

柳田国男著 「海南小記」
角川ソフィア文庫 (1972年改版)

南の島の生活研究から日本人の宗教・信仰をさぐる民俗学の出発点

本書は「海南小記」、「与那国の女たち」、「南の島の清水」、「炭焼小五郎が事」、「阿遅摩佐の島」の五作品からなる。すべて南方諸島の話である。「海南小記」は大正14年4月20日の作品である。29章からなり、本書の約半分を占める。「与那国の女たち」は大正10年4月の刊、「南の島の清水」は大正10年5月の作品、「炭焼小五郎が事」は大正10年1月1日―15日朝日新聞連載の作品、「阿遅摩佐の島」は大正10年2月21日久留米中学校での講演である。

1) 「海南小記」

「海南小記」に書かれた西南諸島の旅は、大正9年12月15日方翌年2月にかけてのことであった。柳田氏47歳のときであった。柳田氏は大正9年8月に貴族院書記長を最後に官職を辞し、東京朝日新聞客員になった。最初の3年間は旅をさせてほしいという条件での入社であったという。宮仕えがいやになって満を持して最初の足袋は8月より東北地方に行き、紀行作品は「雪国の春」が生まれ、10月には中部地方に旅して「秋風帖」が書かれた。12月には西南諸島(九州東岸をふくむ)を旅した「海南小記」が生まれた。「海南小記」の旅は、大正9年12月13日に東京を立ち、15日神戸から春日丸に乗船し別府に着いた。大分から臼杵までは汽車でゆき、臼杵から船に乗って九州東海岸沿いに南下し大隅半島の都井岬に着いた。都井岬に上陸して汽車で大隅半島を横断して、高須から船で鹿児島市に出た。鹿児島の年末の混雑を避けて船で鹿児島から大根占に上陸して大隅半島の南端佐多岬まで行った。そこで大正15年の元旦を迎えた。1月3日鹿児島から沖縄行きの宮古丸に乗った。翌日奄美大島の名瀬に寄って1月5日那覇に上陸した。2週間ほど那覇に滞在し、各地を巡り多くの人に会い図書を照覧したという。首里の里の他、国頭山、今帰仁の諸喜田、大宣味間切の塩屋浦、久志の瀬高に各一泊した。この間東西の離れ島には渡っていない。宮古島には船で往復しただけで、石垣島には五日間滞在し、おもと嶽を訪れた。2月2日宮古島経由で那覇に戻り、1週間日帰りの一人旅をつづけた。斎場御嶽に詣でたり、各地の話を聞いて回った。2月9日奄美大島の名瀬に戻って、船で島めぐりを、15日に鹿児島に着いた。東京へ帰ったのは3月1日だった。「海南小記」は東京朝日新聞の3月29日から5月20日までの計32回連載された。旅の帰路長崎で「国際連盟委任統治委員会」への出席要請を打診された。これは同じ農政学の先輩新戸部稲造氏(当時国際連盟事務総長であった)の推薦に依ったものらしい。同年5月ジュネーブの連盟本部へ出張し、また翌年5月にもジュネーブに滞在した。その地で、旧知の言語学者で「琉球諸文典並びに辞典に関する試論」を著わしたチェンバレン教授との再会を期待したものの果たせなかったことを回想した小文を「海南小記」の自序にに掲げている。チェンバレン教授は沖縄と本土の文化が同源であることを言語学に説いた先覚者であったという。チェンバレン教授の見解は、昭和36年柳田国男氏の最期の著書「海上の道」において結実したと言える。日本人の祖先は黒潮に乗って南から移住してきたのであろうという日本人起源論というべき説であった。
1-1) 唐芋地帯
甘藷(さつまいも)は南九州では「カライモ」、「トウイモ」、九州の北から中国地方では「琉球いも」と呼び、琉球(沖縄)では「ンム」(イモのこと)と呼んだ。このことから甘藷は南シナから輸入したことが分かる。いまや東北地方まで甘藷を栽培している。特に凶作の歳だけの手べものではなく、広く農作物として栽培されている。粟、栗、豆、里芋の雑穀類よりはるかに調理法が簡単で、荒れ地でも生育するにで、今日の日本人を養ったのはこの薯ではなかったろうか。豊後では甘藷を「トウイモ」と呼び唐芋地帯に属している。従ってこれから旅行する豊後から日向、薩摩という南西諸国は唐芋地帯という事ができる。
1-2) 穂門の二夜
穂門とは豊後臼杵の沖にある保戸島の事である。ここには「夜乞い」という祭りの夜宮があり、小さな神様が御降りになる。この島には平地がないので傾斜地に家の境も不分明に建てられ、出入り口だけが違う二階建てのようになっている。島の男は壱岐五島に稼ぎに行っていて三、四百人も帰ってくると寝る場所もない。人の家や役場に寝泊まりする、つまり島一つが大家内の一家のようなものである。水は1か所の泉に400戸が依存しており、絶対的に水が不足している。船で水を運んでくることもある。燃料はすべて外部から買う。島は9部どおりが畠で薯ばかりを作っている。野菜はほとんど輸入している。夜宮では婆さんらは伊勢踊りを歌う。そんな島ですと島の様子を記録している。
1-3) 海行かば
豊後水道の流れは速い。海で死ぬ若者が多い。海で行方不明になると、役場の人は毎年の徴兵事務で行方不明者の煩わしい手続きを繰り返さなければならない。残された人に死んだ人の場合より一層の苦痛を与えるのである。臼杵の近くにあるセメント工場に粘土を運んでくる伊予の八幡浜の舟が、豊後水道で水難にあい船と亡くなった人全員が船に綱で結ばれて大浜村に漂着した。亡くなった人の順に縄で船に括り付け、最後に船長が荒縄で結ばれていたという。船長の身体には一切の帳面と紙幣まで素肌に巻き付けてあって、子細は瞬時に判明したという。出来ない事であり、皆の涙を誘ったという。豊後は舞の「百合若大臣」の故郷であり、玄海灘の小島に流された百合若大臣は豊後の府中にすむ妻の元へ緑丸という鷹に手紙を添えて飛ばした。血と筆で単衣の袖をちぎって手紙を書いて送ると、奥方は硯がないのかと勘違いして、硯を鷹に括り付けて戻した。緑丸は途中で力尽き、玄海の渚で死んだという。これが我国伝来の海の文学で、かつ海の民の嘆きであった。今も鷹は生霊の音信を伝えるものと信じられている。
1-4) ひじりの家
日向の延岡の修験者家話である。著者柳田氏と龍泉寺の法印谷村氏との関係は何一つ書かれていないので個人的なことは分らない。ただ「深浦沿革史」を著わした貝浦義観市から紹介されたとある。江戸時代、延岡の地で土持家が盛んだったころ、谷村覚右衛門という人が大和から兵法の師範としてこの土持家の家来としてやってきた。所領は大貫村で野田に砦を構え城内の鎮守は稲荷であった。藩主が内藤氏に代わった時に、臣下となり山伏として稲荷山の行者となった。明治5年に修験の職は廃止された折、潰れ寺の名跡を買って竜泉寺とし法印となったという。修験派独立運動として東京神田で期成同盟集会に法印谷村氏は参加した。その谷村氏を柳田氏が野田稲荷山に訪問された。日本の風土によく合った修験道を真言仏教に編入したことを憤りながら、もはや後継者のいないことを悔やんでおられたという。
1-5) 水煙る川のほとり
日向の飫肥の町に12年ぶりに訪れた。ここは山の町である。人は山から平野に出て度々の戦いを経験した。与えられた平和をできるだけ楽しみ、安楽の生涯を送っていた多数の高潔の士は、永遠に歴史から消え去った。この地は昔工藤犬房丸の子孫が開いた地で、伊東家はこの地に墓域を築く権利があった。明治の戦いでは賊として多くの若者が戦死した。小倉処平、平部俊彦の墓銘が見える。その師橋南翁は「六隣荘の記」を書いて東京を去りこの町に帰った。もはや子孫はなく忘却の彼方に消えた。こうして我々の平和の基礎にはたくさんの忘却が必要であった。酒谷川は今朝も水煙が覆っていた。
1-6) 地の島
柳田氏は西南諸島の旅で、まず豊後臼杵から船に乗りそれから海岸線伝いに南下し大隅半島東端の都井の宮浦に至った。その途中で出会った地の島(ほとんど地続きの島)を点描した。豊後臼杵湾の津久見島には人影がない、沖の無垢島、地の無垢島、保土の島、鶴見崎の沖に大島、大入島、鶴見の鼻から芹崎まで無人島が続く、沖の黒島、日向路の東臼杵の沖に枇榔島、巾着島、飫肥の油津海岸では小場島(蒲葵島)、大島は良馬の産地である、市木村の築島にも蒲葵の林が見えた、鳥島、幸島に猿は多いが人は見かけない、都井の宮浦は高鍋藩の管轄で福島馬の産地である。福島は櫛間院の訛りで櫛は岬の事である。又この地は天然記念物の野猪の捕獲が禁じられている。そして大隅半島を西に行くと志布志の蒲葵島がある。
1-7) 佐多へ行く路
柳田氏は宮の浦から汽車で高須に至り、船で鹿児島に行ってすぐさままた船で大隅半島に渡った。正月を大隅半島の先端佐多の田尻の町で過ごすためである。大隅半島の大根占から汽車で南下し、伊座敷の町で下車し車で島泊へ向かった。この道は山越えの道と新たに作った西の道がある。西の道はむかし豊後から来た炭焼きの人が私財をなげうって開いた道である。道の斜面には薯畠ばかりである。島泊を過ぎて尾波瀬で2つの道は合流し海岸線の渚の道になる。尾波瀬から遊牧地を横切って大泊という昔種子島行きの帆船が出ていた港がある。今は大型船のために種子島航路の発着港は別の港に移った。尾波瀬から海岸線の道で南下すると田尻の部落がある。蘇鉄が多く繁殖している。田尻より佐多岬は山の道をくねくね通って行く。
1-8) いれずみの南北
鹿児島の南にある薩南諸島南端の宝島と、沖縄群島の北の奄美大島の笠利岬との間の最も潮の流れが速い約90Kmは、やはり民俗の上から見ても一つの境界をなしている。頻繁な交流が期待できなかったからで文化習俗の混合が少なく差異が見えるからである。その一つに女が頭に物を乗せて運ぶ風習「カネリ」、「イタダキ」は中国。四国地方から九州南部で広く行われている。ところが奄美列島(与論島まで)と沖縄本島の北部では組紐を額に引っ掛けものを背負うのである。日本内地の地方でも胸の上部に紐を回して物を背負う姿がある。次に入れ墨とおはぐろの習俗も違う。薩南諸島七島では入れ墨の習俗はなく、お歯黒と言って歯を鉄漿で黒く染める習わしがある。内地では13歳の5月に一度だけ鉄漿をつけるだけである。明治の末に入れ墨禁止令が出て。この習俗は途絶した。沖縄ではハチジといって、針突きと称した。手の甲または手首に菱形、星形の形を彫る。沖縄では入れ墨によって出身地が分かるように島ごとに細かな差異があったようである。
1-9) 三太郎坂
奄美大島の名瀬は鹿児島港からの舟が着く港である。そして沖縄本島への舟が出る重要な港である。この付近の小湊では鯛がよく釣れる。糸芭蕉の畑と蘇鉄の林がある。名瀬を南下して和瀬を経て東仲間という海岸に出る。東仲間の部落から明治になって新路ができた。この峠の林を開拓して道をつけ茶屋を開いた人がいて、その人の名をとって「三太郎坂」と呼ぶようになった。ところが新道がこの峠を通らずにできたため、茶屋は廃業したそうである。明治以降の僅か4,50年でこの島に大きな幸福をもたらし、ここからも人材を輩出したが、一部では今も呻吟している人々がいる。名瀬の近くの作大能という地では、ある飢饉のとき山に男女数十人が食うものもなく阿檀の木下で首をつって死んだという。この世で救うだけの力の無い人びとは、亡者の弔いと悲痛な歌を残して今もため息をついている。
1-10) 今何時ですか
奄美大島の子どもの奇妙な遊びについて述べている。外からの客を見ると「今何時ですか」と声をかけて、時計の大きいか小さいかや金か銀かを言い当てる遊びである。上海でもこのような遊びがあるらしい。彼ら小児は村から出ることはめったにない。すると誰かが持ち込んだのだろうか。大島の子どもは意外に大人びて臆面もなく旅人に話しかけてくる。正月に住吉村の部落の宿屋でみると、子どもらが旅人を見ながら大きな声でわめくのである。これは正月で大人が酔っ払っているので、子どもらもわけのわからない叫び声をあげているのかもしれない。こんな気の毒な正月の過ごし方が子供らにあっていいのだろうか。昔から正月の遊びはどうしたのだろうかと、柳田氏はいろいろな遊びをあげてみる。「ネン 根木」、「イハ 金輪なげ」、「シッチャガマ 田の神をまつる」、「八ッブロ 餅もらい」、「ウニムチュー 鬼餅」、「アツラネ 蝮を追い払う儀式」などである。
1-11) 阿室の女夫松
奄美大島本島の南部にある屋喜内湾の阿室には男松と女松の大木があったが、大正5年の失火がもとで焼け落ちた。地元では神の御嶽の樹を切った祟りだという事で、御嶽の拝殿を立派に建て、秋葉神社となずけた。サンゴ礁の石を組んで白砂を敷き詰め先島の御嶽のオブと同じように作られた。御嶽にはノロ(祝女)が5人、ワキガミが2人と計5人が祭りの日に神の山に詣でた。ノロは生まれた年月日の吉凶で決められた。水の性が一番いいいそうである。大島には沖縄と違ってグジと言われる男の補佐役が5人いて、古代歌謡を語り伝える。
1-12) 国頭の土
奄美大島の加計呂麻島と、沖縄本島の国頭とのつながりを考える。沖縄では身分の差なく銀の簪をさす風があり、この可計呂麻でもおなじ風俗である。真美緒島が琉球の属島になったのは文明3年以降だとしているが、はっきりした征服の跡はなく靡く様に島は琉球に帰順したのである。加計呂麻島の長は御印加奈子(かなしとは尊者の意味)と呼んでいる。御印とは首里のお墨付きを得たということである。大島が薩摩島津支配になった慶長14年でも、ノロ(祝女)だけは琉球の任命であったが、寛永にはこの制も廃せられたが、ノロは生涯に一度だけ琉球の大君にまみえる事は許されていた。大島のノロには2系統あって、嫡流のノロはマスジ(真筋)と呼ばれ真須知組である。大島の南部や加計呂麻島で信仰されていた。分家のノロはシュウタと呼ばれ「須多組」である。大島の北部名瀬の辺りで信仰され、鹿児島との交流、日本人の現地妻である「刀自」になることを禁じなかったが、マスジは古法を守った。屋喜内方の湯湾には有名な湯湾五郎の話がある。五郎は貧しい家に生まれたので糠五郎と呼ばれた。そのころ琉球の風習として、国王世子の初めての宮参りには、誰でも最初に出会った人を頼んで父となし按司に召し出すことがあった。糠五郎はその王子の行列に出会って義理の父となり按司に任命されたという話である。この静かな海には木や芭蕉を積みだす山原船が出入りし、大いに栄えていたのでこのような話が出来上がったのであろうとされる。
1-13) 遠く来る神
沖の永良部の後覧村に沖縄世の王の墓があって御嶽(神域)になっている。沖縄本島の国頭の今帰仁王都三代の栄華は北山古城跡に偲ばれる。逆臣本部大原の謀略によって王の遠征中に都は灰塵と化した。今から400年以上前の第第五王朝のことである。すべてが忘却の彼方にあるが、島民は今も城跡に登って香をたくのである。この世と吾家の初めをたどってくれる「物知り」という女性がいある。沖縄ではユタと呼ぶが、大島加計呂麻ではホゾンカナシ(本尊の力)と呼ぶ。百世に対する期待、自分ですら忘れてゆく数々の愁いと悩みは、実は民族の感情に最も鋭敏な女の歌い部(ノロ、ユタ)の力に依らなければ、とても文字では伝わらないのである。汀間の入り江には、歌で名高い汀間の神アシアゲがある。ここに呼ぶ神をニライ神加奈子という。大島ではナルコ神テルコ神と呼んでいた。
1-14) 山原船
沖縄本島中頭部の恩納の仲泊から美里の石川まで島の幅が30町(正確ではないが1町=100mとすると3Kmとなる)しかない。神話では昔潮流がこの地を洗ったという。いまでもサバニという刳り舟(丸木舟)なら岬を越えて大回りするより、船を陸に上げて担いで往来したという。日本本土でも船越という名の地名は小型の舟を別の海へ運んだ古跡である。明治の頃サバニは木をくりぬいて作った。糸満の漁師は遠く屋久島の杉で船を作り、鱶の油で船を塗った。本当の丸木船はもう見られない。刳り舟の縁を別材で接合しし、漆喰で留めた船を綴じ船という。板付船は板を釘で打ち付け、艫には三角形の板を張っている。大きな進貢船などは中国福州あたりの造船場で作ってもらう。そして那覇の船大工がそれを参考に大きな船を工夫して作るようなった。中国のジャンク船にそっくりの舟が沖縄にあるのはその結果である。船の初めに関する物語が竹富島、黒島、宮古島に伝わっている。また船の海難よけの形や装飾が工夫された。八重山の舟は百足の形をまねて竜巻イノーを防ぐ工夫がある。山原船には眼球を描いて魔除けとした。今ではエンジンのある船に乗っているのである。
1-15) 猪垣の此方
首里那覇の貧窮士族が「原屋取り」といって、山の中腹に新しい部落を作った。明治以降の屋取り人の生活は困窮以下である。長い石垣を巡らせて山からの侵入者(野猪)を防がなければならない。沖縄本島国頭郡ではこれを「イヌガキ」と呼んでいる。イヌとは狗(犬)の事である。けっして「イガキ猪垣」ではない。かって猪のことを「イ」と呼んでいたことの誤用であろう。野猪はヤマシシ、牛のことを田シシ、カモシカのことをアオシシ、鹿のことをカノシシという。シシとは食用の獣の肉の総称である。豚は一般に「ワ」と呼んでいる。正月に豚肉(ワノシシ)を食べる。野猪は容易に家猪になり食用にしていたが、豚のように繁殖させて用いることはなかった。それで山には野猪が跋扈するしているのである。
1-16) 旧城の花
沖縄本島中頭群の蒲添城外には桃より彼岸桜よりも紅い桜が2月立春の頃に咲く。城の石垣の上から東西の海がよく見える。国頭郡嘉津宇嶽の麓に運天の港があり、800年前に百按司の将軍が大和から船でやって来て上陸し海岸線沿いに南下して牧港から帰国した。残波岬を見下ろして座喜味の城山がそびえている。護佐丸は中頭郡中城に城を築いたが、勝連の阿麻和利と争って滅んだ。この城は栄えた時期よりさびれた時期の方がずっと長かった。大和の船頭殿加奈之、日秀上人、鎮西為朝公の北の方と若君も朴港に来たという。首里の丘には松が茂っている。沖縄では那覇と泊が栄え、安謝と牧港は色あせた。首里は清水の美しい町である。しかし聞得大君は去り、百浦添の南の芝生には大葉、酢漿草の花だけが咲いていた。
1-17) 豆腐の話
結縄には豆腐屋が多い。名護街道では道端に買う人より店の方が多いくらいである。那覇の遊女病院に客が豆腐を土産に持って見舞に来るそうだ。沖縄には白い色が豊かではないが豆腐だけは白い。たぶん自家用に作った豆腐を売りに出して、売れなかった分を自分たちで食べるそうである。泊の製塩場ににがりを買いにくるのは女の仕事である。
1-18) 七度の解放
平敷屋朝敏が36歳で謀反の罪で安謝の浜辺で切られ、妻は奴婢にされ子どもは与那国の島に流された。安謝に降りる坂の口に「ナチューフィー」の墓がある。七度身を売って奴となり七度贖って自由の身となって長者になったという七与平利富の伝説がある。子供を七度売るという親は、中国の舜の父のような悪の魂であったのだろう。これが親孝行と言われても残酷すぎるのである。その子はよほど忍耐強く気の強い若者であったというべきであろう。
1-19) 小さな誤解
日本と沖縄の関係について、そして琉球語の問題について考えた。江戸時代に馬琴の「椿説弓張月」や近松の「国姓爺」でとんでもない関係説を述べているが、事実は昔手を分かった同胞ではなかったかという気がするのである。沖縄の知識人階級は島津藩を介さなくとも、日本の古典を読んでいたことは200年前の「混効験集」が日本の古典を引用していることから明らかである。16世紀には日本の平仮名の石碑が多く遺っており、日本の神道より熊野の権現信仰が盛んであった。袋中大徳の「琉球神統記」は天竺の歴史、仏教の伝来について語っている。唄や言語のうえにも鎌倉趣味が濃厚であった。問題は琉球言語の統一が十分でなく、首里の都の言葉は盛んに外来語を取り込んで変化していたという。ただこれを用いたのは首里の上流階級だけで、田舎に行くと首里語は用いられていなかった。明治維新後の国語成立前の状況と同じであった。沖縄では国語運動は完成できなかったが、文字は大和と共通の漢字であった。九州の方言が多く採用され、原義が忘れられて形だけが残っているのである。これが小さな誤解の始まりなのである。
1-20) 久高の屁
東西古今の昔話に艶絶な屁の話があるが、これと同じ話が久高島に残っている。久高島外間の根人(住民)真仁牛に姉妹がいた。姉の於戸兼は外間の祝女(ユタ)で、妹の思樽は巫女で首里王城の巫女になった。国王の目に入り内宮の人になった。周囲の内宮の女の嫉妬をかい孤立していた。ある時おならの音が聞こえ宮中の噂で持ち切りになって、思樽はいたたまれなくなって久高島に戻った。しばらくして王の子どもを生んだ。貴い子であるので屋を新築し思金松兼という名をつけた。思金松兼が成長し8歳になって自分お素性を母に聞いて自分が皇子であることを知った。国王に面会したくて願をかけて祈ること七日めに海岸に金の瓜が流れ着いた。黄金の瓜をもって王城に行き国王に面会を求め、この瓜を屁をひらない女に植えさせると黄金がなりますというと、国王は笑って「屁をひらない女などはいない」といった。そこで母親と自分の事を国王に話して、国王には世子がいなかったので、思金松兼を世継ぎと定め、ついに王となったという。この話を1460年頃の第四王朝の尚金徳王の伝説という説がある。中山国王は毎年久高島に向かって礼をとるのはこのせいであるという。また毎年久高島の根人と外間祝女が国王に魚を献じる風習があった。尚徳王の時代に王が祝女の色香に狂い、乱がおきて王朝は滅んだが、久高島の人の前朝を偲ぶ情は続いた。思金松兼の産屋は今でも保存されているという。
1-21) 干瀬の人生
干瀬とは沖縄の干潟の岩場のことです。島の周辺を白波の帯のように取り巻き、海の瑠璃色と一線を画している。喜(鬼)界島に流された僧俊寛や成経泰頼はこの大潮の波を見ては涙を落していたと平家物語に書いてある。女々しい都人にはこの美しさが分からなかったようである。薩摩の坊津浦では暮春初夏の「花瀬見物」と称して小舟を漕ぎ出し、岬の外の潮の底の五色を賛美したという。大島でも磯があれば砂を沈着させところどころに砂原(兼久)をつくり、村里がその上に形成されていった。ここ沖縄では干瀬と呼ぶまでにこの岩が高く、不断の白波が打ち寄せて美しい景観をつくっている。人々の生活はこの干瀬によって外の世界とつながっている。この浜に吹き寄せられた宝貝は沖縄では貨幣にはしなかったが、刺網の錘に用いられた。人々が島を出なかった時代から干瀬と生活は固く結び付いていた。家々の柱の礎石、石垣の石、大島ではもやという墓の囲い、御嶽の霊地もナバ石で囲まれている。道路には真砂を敷き詰めている。八重垣諸島の石垣島の大浜では西瓦東瓦の兄弟の動乱の話が伝わっている。カワラとは久米島のチャラ、運天のジャナと同じく部落の長(尊長)のことである。この兄弟が島の戦乱に終止符を打って宮良と白保に居を構えた。そして島を整備した。干瀬にまつわる話も多い。宮古島は珊瑚でできた島だけに、干瀬に姥捨て山伝説がある。西銘の主嘉播の伝説では、引き潮時に親を船で移し、満潮の時流すという風習であったという。また伊良部島の漁夫が干瀬に出て蛸をとっていて、手が岩の隙間から抜けなくなり助けを求めて女房を譲る約束をした。ところが女房が利口で、人の難儀で女房をとるのは良くないが、約束を破るのもよくないといい、そこで3人で夫婦となったという話である。石垣島の沖に牛の方干瀬という恐ろしい岩場があった。伝馬船の3人が遭難し、二人が死亡したが、一人は波が収まって竹富島から干瀬伝いに歩いて帰ってきたという話である。
1-22) 島布と栗
沖縄の芭蕉布、奄美大島の絣の紬、先島列島宮古島の紺白の上布は今では晴れ着として珍重されている。そのため布を織る女性の仕事は「七つ木綿の糸の数」を数えるような、果てしない作業の上で成り立っていた。しかし価値が高く貢納に換えることができ、宮古では藍染めの布を織る為、若い女性は指を真っ黒にして働いた。また指が白い女性は発言力がなかった。この黒い指を女性は誇り(伊達名聞)にしていた。宮古の女性の入れ墨の習俗も同じようなものである。甘藷が輸入されるまでは宮古島ではもっぱら栗を食べていた。400年間の人頭税もこの栗で納めていた。布を収める人もいた。栗は酒蔵に払い下げられ、泡盛を醸造したのである。本来の泡盛はは今の米で作る焼酎よりずっと辛く強かったそうだ。宮古島の若い娘にとって、沖縄からくる官吏の現地妻になり男の子を生むことが生活の方便であったらしい。男の子は士族に取り上げられるからであった。それでも立身出世をしなければ女の生活は楽にならず機織りをしなければ食って行けなかった。女性にとって宮古島の生活は苦労の連続であったが、人口5万の島で毎年1万個の泡盛の酒甕が輸入され、男や父に飲ませなければならなかったそうである。
1-23) 蘆刈と竈神
1-21) 干瀬の人生の姥捨て山伝説で紹介したが、年老いて盲いたので子に捨てられ、鱶に救われて孝行娘に助け出された西銘の主嘉播の翁の前半生にはさらの二つの伝説が纏わり付いている。その二つとも大和の昔話から採ってきているようだ。炭焼き太良の話である。この話は全国に分布しており、特に豊後臼杵の満月寺、三重の内山観音寺が有名である。宮古の話は、寄木の神々の生まれた子の運命評定で、運のいい女(額に墨をつけて生まれた)と運の悪い男の結婚から、女房は別れて別の家に嫁ぐ。運の悪い夫は食べるものに困って元の女房の家に乞食にゆき、女房と分かって絶望してその場で憤死してしまう。女房はその死体を竈の裏に埋めたという。これが東北の話では醜い顔をした竈の神(火男)となり、火を吹く顔が「ひょっとこ」となった。良い女と悪い男の単純な話は、この民衆の続く限り、どこへ行っても火を炊くごとに繰り返されるようである。離別された妻の幸福話は沖縄の踊りに「花売りの縁」、大和では「蘆刈の話が知られている。蘆刈とは「あしかりけり」からきて、難波の浦の蘆刈になった。
1-24) はかり石
沖縄諸島では石敢当はいたるところにある。本土にもある。石に漢字を彫る習わしは中国から来たようだが、八重山諸島の石垣島ではイシガントウと呼び、T字路の突き当り、人家の表口、石垣の角には文字を刻していない石がある。年寄りは「ビジュル」と呼んでいる。沖縄本島の国頭郡には文字を刻んでいない石があり、信仰上の石だそうだ。内地では「ハカリ石」と呼び、願をかけて石を持ち上げ軽いと感じた時は願いが叶うそうである。つまり古い石占であった。信仰が廃れた時は、背比べのハカリ石となる。八重山の石敢当ビジュルはまだ信仰が残っており、石が倒れると雨が降ると信じられている。雨乞いに石を倒すのである。昔は魔除けの石神を武神と考え、石将軍だったようである。神社の石の鳥居に小石を投げ上げ乗ったら願いがかなうというのもこの流れにあるようだ。
1-25) 赤蜂鬼虎
八重山諸島の石垣島の八百神伝説を述べる。赤蜂本瓦は八重山の独立派であった。それに反対したのが長田太主派であったが、尚真大王が八重山を征服した。赤蜂滅亡後半世紀して鬼虎の反乱が起き、西表島の祖納堂もまた古英雄であった。与那国を打ち取った武人である。赤蜂は八重山ではアカブザーと呼ばれ、酋長を意味するカワラであった。赤蜂・鬼虎・祖納堂・仲宗根豊見親・美宇底獅嘉殿らが神話の戦国時代を戦った。赤蜂征伐軍(64隻の中山軍)は久米島の巫女の長を舳先に立て、石垣島の大浜に上陸した。この戦いに勝利した大阿母(巫女の頭)の下で、聞得大君の神道に統一された。
1-26) 宮良橋
八重山の神代は15世紀の終わり、宮古の豊見親が沖縄本島の兵船を誘導して石垣島に上陸した時代まで遡る。赤蜂の乱はその動乱の始まりであった。その時代に石垣島には新しい歌が起った。これを受け継いだ若殿原は、琴、三線で島を慰問した。当時には職業的歌人・踊り手がいなかったが、歌舞は士族にあらざるは古曲に触れることは許されてなかった。ユカルビト(上流階級)でも女性は三線・琴に手を触れなかった。舞うのは美しい平民百姓の娘たちであった。その歌には八重山の悲しい響きに満ちていた。
1-27) 二色人
八重山諸島石垣島宮良にあるナビントウという洞窟で、毎年6月にプーリ祭りが行われ、赤又と黒又の神(二色の神という意味で、二色人ニイルピトと呼ぶ)が宮良の家々を回って励ましや寿ぎの詞をかけて歩く祭りである。神の衣裳は茅や草の葉を身に覆った人が恐ろしい形相をした面を被るのである。初春の門付け行事である春駒、鳥追いとは違って、家の人は本当に神の詞と信じていて、他人には言外しないことである。宮良の二神は新城の島から渡来した。大海鳴りの後小島から移住させられた民が持ち込んだ祭りで、小浜、新城、古見にも同じ祭りが存在する。石垣島には川平、桴海にもよく似た儀式がある。これを「マヤの神」となずけている。マヤとは猫のことで猫の仮面をかぶって現れるという。
1-28) 亀恩を知る
石垣島の万年青オモト岳は千古の霊山である。その裾が八重山文化の地である。藤山旅館の女将は亀の命の恩人として知られている。わずかばかりの金で亀を捕らえてこの旅館に持ち込んでくる。女将は悉く買い取ってやり、海に帰している。だからいつも貧乏で新しい着物を買ったことがないらしい。女将さんが船で島を離れると気には亀たちが見送りに寄り添ってくるらしい。これを信じるかどうかはその人の心情にかかっている。わずかに利口なだけでこの島も苦労をしている。我々がとうの昔に忘れてしまったことを、この島は今忘れようとしているのだ。
1-29) 南波照間
ハテウルマ波照間の島の南の果てに南波照間の島がある。語尾にマとつく島は多い。宮古群島の来間島、八重山群島の東にある多良間、沖縄の西南にある慶良間、奄美大島の南にある佳計呂麻などである。かって島をウルマと呼ぶ人々がいた。南波照間は石垣島の西南十一里の海上にある。これが日本列島の最南端である。上古にはパエパトローと呼んでいたそうだ。ハエは南のこと、パトローは波照間のことである。昔百姓の年貢があまりに重かったころ、ヤクアカマリというものが、民を救わんと移住を決意し、南波照間という島を発見した。新たな島を求めんとする心は、人の世が住みにくくなる前から、久しく島人の希望であった。深夜数十人を舟に乗せ出発するとき、ある女が鍋を忘れたので取りに戻っている間に夜が明けそうだったので船出をしてしまった。女は浜辺で嘆きもだえ浜の真砂を鍋で書き散らしたことから「鍋掻」という故跡ができた。「今昔物語」の土佐の妹背島の話にも似たような話がある。幼い兄妹が船で流されて孤島に漂着し、島に定住し夫婦となって一族の祖となったという。

2) 「与那国の女たち」

与那国は行政的には石垣島の直接管理似里、遠くは沖縄琉球の元にあった。だから石垣島から来た実業家や官吏の有限期間の仮の妻(現地妻、刀自)となって子をもうけて生活し、何時かは別れる運命の与那国の女性哀史を述べなければならない。石垣島(女護の島)では与那国のことをユノーンと呼んでいる。与那島ではみずからをズナーンという。石垣島からは与那国は西表島が邪魔をして眺めることはできない。与那国の女は手に入れ墨をしている。日本政府が入れ墨(針突き)の習俗を禁止したのは明治31年のことであるので、著者が沖縄に旅行した大正9年頃では、年配の女性には入れ墨をしている人が多かったという。与那国では苗字よりは屋号の紋で識別することが普通であった。与那国には浮いた話が多いのも色町に出る女性が多かったせいがある。ここも日本国の一つで、貧しい弱い者が余分の苦しみをするという社会通念の支配するところであった。「ゴンボウ」を大切にする。「ゴンボウ」とは島の人を父としないで生まれた子をそう呼ぶ。那覇の色町ではただの浮気とか、仮の妻とかいう意味であったのが、その結果生まれた子のことをさすことになった。琉球で在番役人の子を産めば、平民が士族になれた。そうして士族には経済上の特権があったので、ある時限りの刀自になることを承知の上で仮の現地妻になることをいとわない女性がいた。今ではもうそういう慣習はないのだが、島の現在の有力者の大部分はゴンボウの子孫であるという。先島諸島(宮古島)の情緒を説く文人はウヤンマーの曲をあげる。八重山諸島ではこれを承認しない。先島諸島ではウヤンマーは阿母加奈子と同じく地位ある令夫人のことだが、八重山諸島(石垣島および与那国)ではカリヤヌアンマという。カリヤは在番の官舎のことで役人の婦人ということになる。そして歌われるウヤンマーの曲がまがい物で、与那国のしょんがれ節の盗用だという。石垣島の戦国神話の時代の赤蜂本瓦の乱を征服した宮古の仲宗根豊見の征服戦争以来、石垣島の支配階級は宮古系に変わった。与那国の鬼虎の乱が石垣島によって征服された。石垣島の人口が疫病などで約1/4に減少し、近くの小島から強制移住させたため、石垣島の文化や伝承がすっかり失われた。悲しい歴史はいくらでも悲しくなる。生きるという事はそれだけで大事業である。あらゆるものが犠牲となる。しかし人には美しく生きたいという願いがある、だから苦悩せざるを得ないのだ。与那国の生活は楽ではない。しかし島の女性は強い気性を持っている。男を応援し、負けん気が強く徹夜で道路工事に出かける。先島諸島の住民は沖縄本島のことを「悪鬼納」と呼ぶ。稀で「鬼畜米英」のスローガンのように、支配者沖縄本島を畏れ忌み嫌う。荒海は天然の障壁であって、これが守られれば外界の幸福を愁い憤ることもない。

3) 「南の島の清水」

沖縄のセリフつき舞踊、組踊「手水の縁」は、清水を手に掬って旅人に飲ますという美しい少女の舞である。その舞には清水のあこがれる島人の気持ちと泉にまつわる村の女性の生活が描かれている。どの島も飲み水に不自由している。近くに良い井がある家は少なく、入り江の対岸の泉から水を汲んでくるのである。水を売る船が島に出入りしている。井戸を「カワ」というのは沖縄だけでなく九州でもこれを「イカワ」と呼ぶ。「イ」とま川の水をせき止めることが語源である。堀井戸のことを宮古でも八重山でも「ツリカー」と呼ぶ。その鶴瓶は蒲葵フキの葉を丸めて作る。蒲葵は軽くて弱いため今ではブリキ板から作っている。「ウリカー」とは降りて酌む井戸の事で、深い場合には30メートルも昇降しなければならないので女性にとって大変な重労働である。奴婢の娘が水汲みの身の悲運を嘆いた古歌が「古琉球」の中にある。島で水がない場合には、船に乗って水を貰いに来る島がある。沖縄本島の国頭の古宇利の島、先島の水納ノ島など水に乏しい島として知られている。屋古の共同井では水に関わる作業は井戸を共有して行う。水車小屋などもそうであるが、村の生活は泉を中心として、共同体が構成されているのである。沖縄本島糸満の嘉手志川は別名「カタリガー」といわれ、伝説のある川として知られている。大旱の時船を仕立てて水を求めに出かけようとすると、一匹の犬がびしょぬれで現れた。不思議に思った村人が犬の後をつけて林に入ると清水が湧いている場所があった。イヌは水中に入って一個の石に化し神の使いであることが分かったという。この話は東アジアではありふれた物語りであり、台湾の部落で犬に導かれて清水を発見した話はいくらでもある。屋古の語り井の歴史は、南山王国の歴史の盛衰でもあった。水を大事にしなかった王は滅ぶというように、水の徳は神の徳であり王の徳でもあった。白鳥処女伝説は、美保の松原や近江の余呉湖の羽衣伝説に発展した。沖縄で泉の神の信仰が、玉城朝薫の銘苅子の曲や、謡曲の羽衣に近い。銘苅子は安謝村の農夫であった。安謝村には銘苅子の祀堂がある。長い髪の毛が泉に浮かんでいるのを見た銘苅子が様子をうかがっていると、衣を木の枝にかけて髪を洗う天女を発見した。衣を奪って女を家に伴い妻とした。一女二男のこをもうけたが、姉の子が男の子の子守をするときに、「泣かぬならやろうよ母の飛び衣」とその隠し場所まで歌っているの聴いた母は、衣を取り返してすぐに子供は置いて天に還ったという話である。これと同じ話が「球陽」に二話書かれている。察度王の家の話と我謝の烏帽子井問う話である。さらに「琉球国由来記」にも遠蘇古井の神女の話がある。天女が人間と婚姻をして優れた家系を作った信仰上の天降りの姫神は羽衣伝説に結び付いた。天女が生んだ子が巫女ノロとなる伝説である。日本本土の神道では、神が清水のほとりに下りたたもうたもうたと信じられた例は多いが、とはいえ神の姿を直接見た人はいないければ、神と人の距離は隔絶している。これに反して南の海の島々では、昔から天降りが盛んで神のお姿を拝んだ人が多い。人と神との接触が多いのである。1745年中山王国の史書「魂陽」には久高の島に二柱の神が現れ、全村の糸がこれを拝んだという。神劇か現か、無論神に扮したのは村の祝女ノロであったに違いない。間切りの稲嶺村では毎年春の稲穂祭りの日にノロが神々の社を巡拝することをしない。そのわけは昔若い容色麗しいノロに恋慕した伊茶謝の按司が近づこうとしたが拒絶され、祭りの前の日にノロが寒水井で衣を洗って干したところを、按司が暴力的に襲ったがノロは御嶽の奥深く逃げ、以降稲嶺ではノロがこの巡行を行わないことになった。島では人天の境は明確ではなく、村の御嶽の霊地は男禁制である。羽衣伝説のように人間が神の衣を奪うとは想像もできないので、政治権力の方が宗教より強力な時代になって、神を畏れず、神を妻として人の子を産ませる羽衣伝説が生まれたのであろうか。久高の島で最近まで行われていた刀自覓目の習慣があった。祝言の席から嫁が逃げ出し、これを夫とともだちが必死に探し求める儀式である。約束では四日間で見つかることにしてあるが。昔は二週間とか一か月も見つからなかったことを自慢する嫁もあったという。嫁はノロではないが、久高の島では成人した娘は神人と考えていた。男は年中海に出ているので、女が祭りの実行者であり(神人)、農作業を分担していた。島独特の銘苅子の髪の毛の話がある羽衣伝説は、宮古島旧史によると根間の伊嘉利という人が、天女が下って泉で沐浴しているところを見て長い髪の毛を2本拾った。この髪の毛を天女に返したところ、後日磯部で異人に出会い海中の島に導かれて、ツネーリ(鼓錬)の舞を習ったという話が残っている。さらのこの話は浦島伝説に近づき、三すじの髪を返したお礼に竜宮城へ案内され三日間遊んで戻ると3年経過していたことに気が付く話になる。南風原間切りの与那覇に浦島伝説に似た話がある。亀を助ける話はないが、美し女性に誘われて竜宮城に三か月遊んで帰ると、三十三代経過して子孫も途絶え知る人もなく、土産にもらった箱を開けると白い髪の毛があってこれが煙となって男は衰老となって死んだ。沖縄の神女はことに沐浴を好むようである。泉が若さを保つ生命力であったのだろう。酒造も女性の仕事である。沖縄の酒泉伝説では、女性が祭りと水を司るがゆえに清水と処女が結び付いている。水の伝説は日本本土では仏法臭い弘法大師に結び付いているが、沖縄では神の管轄であった。弘法大師説話は沖縄には来なかった。

4) 「炭焼小五郎が事」

「炭焼小五郎」の話は全国に分布しているが、ここではまず豊後(大分県)の話を紹介する、豊後の真野長者は昔三重の内山に住む小五郎という貧しい炭焼きでした。そこに京都の清水の観音様のお告げであなたの嫁になるためといって美しい娘がやってきました。食べるものもないのでお断りをしたら、男に小判2枚を渡して町で食料を買ってくるようにといいます。途中の池のおしどりが二羽いたので、小判2枚を投げても当たりませんでした。男がしおしお家に帰ってくると娘はびっくりしてあれは小判というもので石ではない、あれで食料ならかなりのものが買えたのにと残念がりました。小五郎はあんなものなら裏山にころがっているといいます。つまり小五郎は小判や金の価値を全く知らなかったのです。そして二人は裏山に行き金塊を拾って小屋に入れ、おお金持ちになったそうです。観音信仰と金の価値のお話です。 この話が沖縄地方で多彩な展開をするのだが、また別の機会に紹介したい。

5) 「阿遅摩佐の島」
蒲葵   檳榔   棕櫚   蘇鉄

蒲葵(枇榔)                  檳榔                       棕櫚                         蘇鉄

九州、西南諸島、沖縄諸島の南国情緒を代表する植物である、蒲葵(ビロウ枇榔、コバ、アジマサ)、檳榔、棕櫚、蘇鉄の写真を上に示す。よく似ているようで紛らわしいので、葉の形に注目して間違いのないようにしておきたい。本章の題名は「阿遅摩佐」であるので、主役は蒲葵(枇榔、コバ、アジマサ)である。平安時代の京の都をビロウの葉でもって美しく飾った車が優雅に長閑に貴族の遊びのお供となっていました。「飾抄」という書には、びんろうは関白近衛殿の御領、鎮西志摩戸荘の土産であると書かれています。志摩戸とは島津家の名前となった地で、大隅半島の東の境にある広大な荘園でした。志布志の港町の海上に蒲葵島があり、全山すべて蒲葵であり朝廷へ献上の笠扇などもこの島の産でります。島津の所領は中世以降膨張して、秋目の港外に枇榔島、津木野の沖に羽島、雌島(桑島)、そして宮崎の青島も蒲葵の産地として有名でした。奉納物については九州では大宰府が取り揃えて朝廷に貢納しました。民部省式には檳榔の馬蓑60領、螻蓑120領と書かれています。典学寮式には大宰府より雑薬檳榔子20斤とあります。ただ蒲葵と檳榔とは別種で枇榔子が正しい表記です。蒲葵の名前としては枇榔、アジマサが正しくそして沖縄ではコバと呼ばれていました。またビロウを比閭(棕櫚)と間違えて表記しることもありました。棕櫚の皮の毛は縄にするほど丈夫です。九州以外からも檳榔の葉は貢納されていました。伊予から土佐辺り(幡多郡柏島 蒲葵島)からも貢納の記録があります。延喜式の内膳司式には飯を炊くのために檳榔の葉が扇として納められました。山伏修行者も峰入りの時は腰に扇をさして、護摩の火をおこしました。天狗が手に持つ扇を想像すればいいようです。蒲葵の扇は実用の具だけでなく、風きり音から信仰上のシンボルとなっていました。光仁天皇の時、渤海国の使節らに蒲葵扇を贈ったと書かれています。渤海国は契丹に阻まれて唐と直接交易できなかったためです。蒲葵という植物分布をみてゆこう。薩摩(鹿児島)の西海岸からさらに北に行くと肥後(熊本)八代郡にも檳榔島(着島)がある。肥前(佐賀・長崎)の松浦郡値嘉郷大近島、平戸付近の島にも蒲葵が多くゴハと呼ばれているとあります。朝鮮全羅の多島海に檳榔島がある。ゴハという名はコバの聞き間違いではないかと思われる。沖縄ではクバと訛って呼ぶからだ。赤染衛門の歌にもコハすなわち蒲葵のことをいう。紀州湯浅の八幡宮が蒲葵の北限だと思われる。檳榔毛の輿や車は、蒲葵の葉が手に入らぬ場合の代用で、さらに菅の葉も代用された。伊勢神宮の田植祭で、かならず蒲葵の笠を着用していたとかいう。いまでは菅の笠や蓑が主流である。古事記垂仁天皇の条に出雲国に檳榔(アジマサ)之長穂宮に座すという記載があった。出雲の島にもアジマサがあったとみるべきかもしれない。ここで植物学上の区別を記しておく。蒲葵(ビロウ枇榔)はヤシ科の常緑高木で、沖縄ではクバ(古名アジマサ)という。庭木や街路樹として植えられ、葉は扇や笠に利用される。若葉は食用にある。棕櫚はヤシ科シュロ属で蒲葵に似ている。ワシュロが耐寒性がある。シュロの皮は縄、たわし、箒に利用される。檳榔はヤシ科、種は檳榔子と言われ咬みたばこのような趣向品、薬物である。歯磨き粉、虫下しに用いられた。マレーシア、台湾に生育する。蘇鉄はソテツ科、常緑低木で、九州南部、南西諸島、台湾に生育。鉄によって植物が蘇生することから蘇鉄と呼ばれる。窒素固定細菌と共生する。種子は毒性があるが、飢饉のときは晒して食用にもなった。蒲葵の分布は鳥が媒介するかどうか問題となったが、ヤシほどの大きさがあり実の殻が堅いのでとうてい鳥が咥えて運ぶことは不可能だという結論が主流である。蒲葵の林が繁殖しているのは大概神社の森であり、手を加えないことで命を保っているようだ。それほど繁殖力はなく宗教的存在であることが蒲葵の保護になっている。鳥が運んだというより、神が運んだ(人が神の森として植裁したことで広がった)というべきかもしれない。

このようにコバ(蒲葵)の分布と保存に神道が関与していることを知るには、沖縄の島々を見て歩く必要がある。沖縄の神道は中国からの影響は少なく、また仏教との関連性は全くない。沖縄諸島の神道の特徴を列記してゆくと、@女性だけが、祭礼に仕えてきたことです。巫女を通じてしか神の声は聴けません。祭りにはノロ祝い女とカミンチュ神人など女性だけが式法に従って出入りする。A勧請分霊の沙汰がなかった。古事記や日本書紀のようにかみさんを修正するような冒神的な企てはなかった。B神は神殿の中に居られるのではなく、天然霊域を御嶽として崇拝していた。C神人と人神の区別が峻烈であった。死んでから神になる場合と最初から神であった神が人の前の現れることです。ウタキ御嶽とウガン拝所は同じではない、斎場御嶽には数か所の拝殿がある。御嶽ウタキは必ずしも高い山ではない。宮古島・八重山島は沖縄本島と違って外の入り口に鳥居があって、拝所はそのうちにある。零場の中央オブは珊瑚の石で区切られ、その中を覗くことは憚れる。小さな内陣の門があって奥にはコバの樹木が茂っているのである。沖縄本島の神の森はコバ森、コバの嶽と呼ばれる。「琉球国由来書記」に収録された神の名で一番多いのがコバツカサノ御イベと呼ばれる。600足らずの御嶽のうち80がその名である。これはコバ樹の神で、次いで多いのがイシラコノ御イベという石の神である。蒲葵の繁茂が神意であるという痕跡は、久高島における穀物起源伝説にある。流れ着いた白い壺の中に麦、粟、黍、豆という穀物と、そしてコバとアサカンキョという植物の種が入っていた。以降コバの樹が茂ったところを御嶽として崇拝するようになったという。自然環境が我々の生活を規定し、生きてゆく規範となり歴史を作って来たといえる。小島にいる限り我々は互いに争い、殺戮することが原始状態としてあった。戦争が経済であったのです。いわば神代史として伝わっている戦国時代(ホッブスの社会契約論では自然状態という)がありました。神に仕える女性が仲立ちとなり、闘争時代から部族制社会として一つの家門(酋長、王)を認める時代になった。家の優越は神の優越であって、神はこうして統一されていった。島限りの歴史が形成された。沖縄本島の国頭の村では、大折目という祭りの祭りの日にコバ餅を作ってアシアゲの神に供えます。現在の粽チマキ、笹餅、茅餅と同じ風習です。沖縄本島南部の島尻地方では、鬼餅はサンニンの葉で包みます。これを門戸に飾って邪鬼を祓いとされます。蒲葵の葉が根元で連なっていることで、丸めると水を入れることができるので、釣瓶の代用とします。掘った井戸はツリカワという。蒲葵は強度が弱いので現在はブリキで代用している。蒲葵の用途として船の帆があった。帆布が手に入らぬところでは小舟に蒲葵の葉を張って動力とした。又神風を起す扇には宗教的意味合いで使用した。船の戦いでは巫祝の人はこれを手に持って、舳で天に向かって叫びました。修験者や御嶽の巫女は扇をもって神を招き寄せます。コバ蓑やコバ笠は雨具というだけでなく、宗教行事ではこれを身にまとうと神となります。国頭三座の霊山の頂上に君真物という神が現れるとき、かならず赤、黄の大きな涼傘g立ちます。首里の宮殿にアモリの神を迎える10月には、30本余りの涼傘を建てます。沖縄では世の始まりの原始時代には男も女も腰にコバで作った蓑のようなものを纏っていました。これが腰巻の始まりだという人がいます。コバは衣類だけでなく住居のも多く用いられました。祭りの時の小屋は蒲葵をもって葺くという。


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