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文藝散歩 

柳田国男著 「昔話と文学」(新版) 
角川ソフィア文庫 (2013年8月)

昔話と説話文学の接点から、物語の変遷を読む

この本は昔話の好きな人にとって、考証学に相当するので、煩わしいだけで余り面白い話ではないだろう。しかし昔話を多く読んでゆくと、ある話を読んだ時あの話とどこか似ているなとか、西欧の昔話にそっくりなのでびっくりしたとか、木に竹を継いだような話で前半と後半に話に連絡があまりないとか感じた人も多いのではないでしょうか。この本は、どこが似ていてどこが違うのかを明確にして、本の話の形は何だったのか、どちらが古いのか、どちらが修飾されているとか、なんか脱落がありそうだとか、もっと専門的になると似たような話を数十収集して、それを類似性から発生学的に、数種の系統に分けるいわゆる文献学的研究の本です。ただ結論は明確ではなく、統一された判断基準があるわけではなく、民俗学は(本書の段階 昭和初期では)まだ、日本人の古層と言った、民族学的、社会学的意義を明確にできるレベルには到達していません。現象学的に差異に注目して、二つの話の由来を考える段階です。それさえはっきりしないから本書を読む人には納得も同意もできないのです。要するにこの時点では(現在の民俗学についてはよくわかりませんが)民俗学は始まったばかりです。本書「昔話と文学」は昭和13年(1938年)に刊行された。それ以前には昭和8年に「桃太郎の誕生」が出されている。この頃は各地から昔話の採集記録が報告され始めた時期で、外国の昔話研究の状況も漸次知られるようになり、昔話の比較研究に必要性が痛感されたころであったという。昔話研究の目的をどう設定するか筆者の模索が始まった。昔話の研究には、昔話自体の比較つまりある昔話の原型がどのようなものであったか、またそれがどのように複合分化してきたか、またその話の分布状態はどのようになっているかという問題がある。それから昔話の宗教的起源とか、昔話の社会的背景などの問題もある。著者が「昔話と文学」を執筆した動機は、この本の序文にかかれているように、昔話に対する世人の興味を喚起し、その研究が盛んになることを願ったのである。著者は昔話を収集して分かったことは、遠隔の地に同じ話が伝えられているということであり、しかもそういう話には古いものが多いという事実である。昔話は中世以降になると、特殊な職業者が語り出したものが目に見えて多くなる。僧侶、お伽衆、馬方牛方、桶屋、大工、座頭、瞽女などが語った話がある。近世以降に発達した笑い話になると、この傾向はもっと著しい。本書で著者は、家庭などで語り継がれてきた古い昔話を収集することが急務であるに関わらず、それらが急速に失われつつあるからだと言います。日本の昔話は衰退期にあるがゆえに、比較研究を急がないと、もう何もかも分からなくなるからだという焦りがあるようです。そうだとしても著者はまだ日本には資料が西欧に比べてまだ豊富であると言います。近代化、物質文明によって生活が激変することで、昔話は急速に存立基盤を無くしてゆきます。だから日本の近代化が西欧に追いつくころには、西欧並みに資料も失われる運命にあるのです。昭和のはじめという西欧に対する日本の時代の遅れが幸いにも、昔話話が残っている理由の一つであります。著者は昔話について、「昔話が大昔の世の民俗を結びつけていた神話の名残かもしれない。従って方法を尽くせば、この中から一国の固有信仰、我々の祖先の自然観や生活理想を尋ねることは可能でして、これを昔話研究の究極の目途とすることは、決して無理な望みではない」と言います。著者がこう述べてから78年が経過したが、果たしてその望みがどこまでできたかどうかは、1945年の敗戦を挟んで十分検証されていないのではないか。本書「昔話と文学」は、両者の関係を論じようとするものであるが、、昔話は民間文芸、口承文芸と言われているが、これと文字文芸とはどんな関係にあるのだろうか。中世の「今昔物語」「宇治拾遺物語」、さらに下って近世の「お伽草紙」などのいわゆる説話文学にみえる話が、昔話と一致するものは多い。今昔物語から154話、宇治拾遺物語から57話、お伽草紙から23話が掲載されている。説話文学の話が民間に伝わって昔話として語られたのか、昔話を素材として説話文学の中に取り入れられたのかは、この問題を取りあげて著者は本書において「竹取翁」以下13題の論考を行った。

「今昔物語」は平安朝の説話文学である。この今昔物語は王朝文学とは違う全く異色な世界を展開した。一方の極に華麗な貴族文化「源氏物語」、「枕草紙」、「和歌集」を生んだが、王朝文学とは全く異質な文学を対極に生んだ。それが今昔物語である。今昔物語に扱われた題材から推して、今昔物語が作られたのは平安朝も末期に近い12世紀の前半と考えれている。いわゆる院政期の時で世の中は武家階層の台頭で動揺しつつ不安な世相であった。今昔物語は創作ではなく説話集であるので、著者は恐らくは無名の書記僧ではなかったかといわれる。説話の教訓的落ちに仏法臭いところがあり、今昔物語の構成は天竺・震旦・本朝の三部構成で、本朝篇に「仏法」が含まれているので、仏教に詳しい者でなければ書けないからだ。全体で1040話からなる膨大な作品群である。本書は福永武彦氏が選んだ本朝篇からの作品155話を紹介したものである。今昔物語の本文は漢字片仮名交じり文で、いかにも固い印象である。女性が優美なひらかな文を使用したのに比べると漢字片仮名交じり文ははっきり男性の文である。同じ口語表現とはいえ独特の単語や言い回しは永く男性の教養として伝えられ、明治以降の森鴎外の名文に結実した。何と言っても今昔物語の魅力は題材の豊富さ、幅の広さにある。天皇・貴族、僧、随身、舎人、武者、下人の女、強盗、乞食、農民、商人、果てには狐や猪まで登場する。題材の新鮮さと描写の巧みさには舌を巻くものがある。しかし描き方は情緒や心理、切ない気持ちのほうへは向わずに、ドライに事を述べ人の有様を描くことで終わる。これはあくまで男の発想である。 「今は昔・・」で始まる、今昔物語は31巻からなり、天竺(第1巻から第5巻まで)・震旦(第6巻から第10巻まで)・本朝(第11巻から第31巻まで)の三部構成である事は先に述べたが、訳者福永武彦氏は、似たような話を類別して第1部(世俗)、第2部(宿報)、第3部(霊鬼)、第4部(滑稽)、第5部(悪行)、第6部(人情)、第7部(奇譚)、第8部(仏法)に分けておられる。氏の分類に従って作品を紹介するのが私の務めである。話の最後の一、二行に付け足しのような抹香臭い教訓を垂れるところがあるが、話の面白さには何の関係もないので無視する。 日本文学にもこの今昔物語に材をとった作品は多い。有名なところでは芥川龍之介の「鼻」、「芋粥」をはじめ、杉本苑子「今昔ファンタジア」や、田辺聖子「今昔まんだら」、そして訳者福永武彦氏は「風のかたみ」を始め19作品を今昔物語から取っている。訳者福永武彦氏は本書を1964年河出出版より発刊した。ちくま文庫本は1991年の発刊である。福永武彦氏は異色の知的作品の作家として知られているが、むかしは韻律詩の習作をし、長い療養生活の間に作品を書き、学習院大学仏文科教授のかたわら作家活動をしていたが1979年に亡くなった。
「宇治拾遺物語」 は鎌倉時代の説話文学である。「宇治拾遺物語」と「十訓抄」は説話文学と呼ばれ、説話集のなかでもとりわけ人に親しまれてきた。説話という言葉は近代以降の術語で昔は「物語」として表現されていた。「説話」は創作された小説ではなく、実際にあった出来事、言い伝えの話である。現在の科学に時代からみれば荒唐無稽な事実があったわけではなく、当時の人が思い込んでいただけのことかもしれない話が多い。しかし出来事が書いたり口伝えで伝わっていたのが「説話」である。「宇治拾遺物語」も「十訓抄」も集められた話は大変幅広く、人間ドラマのあれこれが展開する。概して短い話が多いが、話題の豊富さ、多様さが醍醐味になっている。話は平安時代・鎌倉時代初期を舞台にしているので、登場人物は天皇、貴族、武士、商人、僧、農民など身分も多様だ。この説話集の著者は不明であるが、読み手は恐らく徒然草と同じような、和歌・漢詩に通じる教養を身につけた、没落貴族や僧、武士階級であっただろう。制作年代の校証では「宇治拾遺物語」は1210-1242年、「十訓抄」は1252年頃とされている。 同時期になった説話集には、「宇治拾遺物語」、「十訓抄」のほかに、「今昔物語」、「古本説話集」、「古事談」、「古世継物語」などがあり、多くの話が重複して掲載されている。宇治拾遺物語の成立は序によると、宇治大納言源隆国(1004−1077)が年取ってから宇治平等院の近くに籠って昔物語を編纂し十四帖に書き付けた。これを「宇治大納言物語」という。これが侍従の俊貞に伝わり、「宇治大納言物語」に漏れた話を色々な人が書き足したので「宇治拾遺物語」といった。侍従の俊貞とは実は源隆国のひ孫「侍従俊貞」のことであろうと比定されている。12世紀の初めに「侍従俊貞」が第一次加筆編纂を行い、第二次加筆編纂は「宇治拾遺物語」の成立時(説によって、1212または1242年)に行われた。だから鎌倉時代初めまでの話が入っている。源隆国は皇后宮大夫を務め、浄土教学を編纂したり、和歌勅撰集に6首の歌が入ると云う歌人でもあった。奇行の噂高く、天皇の着替えを手伝っていつも天皇の陽茎を触っては叱られたという。「宇治拾遺物語」は室町時代には逸散して、その話は「今昔物語」などの説話集と混合してしまったという。ストーリーが同じだけではなく文章もかなり近いので、他の説話集の典拠に「宇治拾遺物語」があったと考えられている。 「宇治拾遺物語」の話には読んで笑える話と、難しくて真意を測りきれない話がある。「小野篁の妙答の事」がそれである。遣唐使に反対して嵯峨天皇の怒りを買い隠岐に流された小野篁は文人嵯峨天皇の中国文化と日本文化の争いの協調と緊張関係の中で解釈しなければならない人物である。宇治拾遺物語にはさまざまな含意が込められている。深読みが要求される場合もある。天皇などの権威権力への尊敬と批判、仏教への信と不信、武士階級への尊敬と脅威など共存した複雑な意識が見られる。宇治拾遺物語は全197話からなる。今昔物語の1040話からみると1/5程の量である。本書はそのうちから37話を取り上げた。
「お伽草紙」は室町時代の説話文学である。平安時代に始まる物語文学の伝統は鎌倉時代にも綿々と続けられたが、公家勢力の衰退と共にしだいに衰えてゆき、平家物語、徒然草、日記文学、今昔物語、宇治拾遺物語などの説話文学の伝統の上に傑作は出なくなった。南北朝時代が公家貴族勢力と武家地頭勢力の完全な交代時期であり、文学にも貴族文学から庶民大衆文学へ移行した。説話文学の読み手はやはり貴族・僧侶階層の知識人であったが、その伝統の流れで幅広い読者を勝ちえたのが短編物語である。室町時代から江戸時代初期までの約300年間に作られた作品は500篇にも達するといわれる。室町時代には絵入り写本で行われたが、江戸時代の印刷技術である絵入り板本として板行された。そのなかから板元が23篇を編集して出板したのが「御伽草子」、「御伽草紙」と名づけた叢書がこの本である。この叢書は室町時代から江戸時代にかけて出された色絵入り奈良絵本に基づいており、現在揃いで残っているのは1661年「大阪心斎橋順慶町 書林渋川清右衛門」二十三冊版である。1729年になると「祝言御伽文庫」(二十三冊または三十九冊)という名で売られていた。江戸時代後期には23篇以外の話も入れたいるが、23篇に限定して室町時代物語または中世小説と呼ぶ事も行われている。 御伽草子の制作年代、作者も不明である。平安時代・鎌倉時代の物語文学が公家階級(僧侶も含む)の人々の作であったのに対して、御伽草子の作者は公家のほか文筆を好む武家階級も加わり、江戸時代には町民(都市住民)も加わったのではないかと推測される。読者も良家の子女、女中に広がって広い読者層を獲得したようである。この叢書の目的は「古来の面白い草子の集成」、「子女教養の書」と書かれている。教養性、啓蒙性も持たされていた。「御伽」とは本来お相手と云う意味で、人の徒然を慰める話し相手と云う語源であった。短時間で絵も入っていて見て楽しむ趣向もなされている。まさに教養の書として明治以来の国語教科書の原型となるものであった。

1) 竹取翁

竹取物語は本書第1講目とあって、43頁を費やした本格的な論文です。他の論考はほぼこの半分以下の分量です。だからこの第1講はしっかり聞く必要があります。著者柳田国男が何かを言うとき、どのくらいに裏付けと考察をしているのかの一端は分るからです。「竹取物語」は我国の物語の祖と言われる代表的説話です。昔話と文学の関係について詳しく論じている。とはいっても著者がたとえ100頁を費やしてもなお決定的なことは何もわかりません。失われた進化のリングの再構築をめざして、推論の上に推論を重ねているからで、今日の科学的手法全盛時代では本書は科学とは言い難いからです。つまり再現不能だからです。与えられた貧弱な材料から解釈の仕方で破綻の少ないものを良しとせざるを得ないからです。竹取物語の素材は、ほかの昔話のあるものと一致していることは、竹取物語が全くの創作出なかったことを意味します。それならば竹取物語のどの点が他の昔話(どちらが前か後かは別の問題)と一致し、どの点が物語作者の創意に依ったものなのか、その点を本書は問題としているのです。竹取翁の話は古くは@「万葉集」、A「今昔物語」、B「風土記逸話」、C「源氏物語」」などの文献があります。本書はそれ以外の文献として、D本朝文粋「富士山記」、E詞林采葉抄「富士縁起」、F本朝神社考「富士浅間縁起」、G「海道記」鶯姫故事、H「伯耆民話記」羽衣石伝説、I「帝王編年記」、J「球陽」、K「小県郡民譚」美保松原羽衣伝説、L「天草島民俗誌」羽衣伝説、M「聴耳草紙」機織故事、N「古事記」小古部連物語、O「紫波郡昔話」、R「烏帽子折」舞故事、S「吉蘇志略」箕作翁故事、21)「臥雲日件録」鶯卵故事、22)「三国伝記」、23)「広益俗説弁」などを傍証に使用している。また各地から収録した昔話も数多い。さて本論に入ろう。本書はまず「竹取物語」の最期にあるフ富士山について、D本朝文粋「富士山記」とE詞林采葉抄「富士縁起」を援用して、富士山を取り巻く海岸地方に竹取り翁の話が伝えられていることに注目し、「竹取物語」に「羽衣説話」が参与しているという意見に賛成したうえで、羽衣伝説が舞や歌に残っており、文芸の「竹取物語」を仲介しているのではないかと想定している。羽衣説話は風土記の逸文をはじめとする記録や説話の全国分布からして、長い年月を経た説話であることが分かるという。その変化の手掛かりとして、翁が犬を飼っていること、豆の木を伝わって天に上る事、羽衣を失って過去を忘却すること、天女が機織に巧みだったことを比較考証している。口承文芸が盛んだったころ(古事の暗誦者稗田の阿礼が重用されていたころ)には、記録文芸もそれに制約を受けていたに違いない。そこで問題となるのが、「竹取物語」の作者の創意は何処にあったのかが問題となる。著者は5人の貴公子の失敗談(無益に終わる妻問い)の記述が独創的であるという結論を下している。この点について時代は下るが「今昔物語」の方は民間説話のもとと一致している。竹取物語ができてからも、別種の話は存続し続けたというべきである。最後に「竹取物語」のかぐや姫が他の話では鶯の卵から生まれた鶯姫として語られていた。鳥の卵から人間(天子)の子を得たという伝承の方が古いことに注目している。そして著者は小さい子が異常な速さで成長し大きくなる話はすでに上代から行われていたと主張する。また竹取翁の社会的位置は極めて低く、微賎の者が宝の子を得て長者になるという話が最も古層の話であるという。つまり竹取翁が無上に幸福なる婚姻をしたという話が昔話一般の基本形で流布し、それにいろいろな話が付加し、変形され、継ぎ足され、創造されて、今の「竹取物語」となってきたようである。 

2) 竹伐爺

著者はこの「竹伐爺」を竹取物語の系統を引く話と位置付けた。この話は北は青森県から南は熊本県に至るまで間断なく採集されており、関西以西では一般に「屁こき爺」という名で通っている。この民話の筋は、貧乏な爺が竹を伐っている。そこへ殿さまが現れ、そこにいるのは何者だと問うと、爺は日本一の屁こき爺だと答える。そして殿さまの前で珍しい音を出して屁をひると、殿さまは面白がってご褒美を出す。隣の爺がこれ真似して殿さまの前で屁をひるが、失敗して尻を切られという話である。これは日本の昔話に多い隣の悪爺型と言われるもので、花咲爺、舌切雀などに多く見られ話である。竹伐爺がどうして妙な屁の音を出すようになったかを説いているものがある。鳥呑爺と言われる話で、爺が誤って小鳥を飲み込んでしまったので不思議な音が出るようになった。この屁こき爺の記録文芸に取り込まれた話に、お伽草紙の「福富草紙」がある。ただこの話には竹伐爺が出てこないので、竹取物語との連絡は切れている。竹取物語との連絡をたどるには民間説話によらなければならない。著者はこの話の中心題目である屁の音の比較を試みている。「福富草紙」では「あやつつ、にしきつつ、こがねさらさら」という文句は中国地方に伝わっている。因伯童話では「ジージーボンボン、こがねさらさら、チチラポン」、備後では「こがねさらさら、にしきさらさら、スッポコポンノポン」、陸中紫波郡では「にしきさらさら、ごようのまつ、チリンホンガラヤ」、遠野郷では「アヤチュウチュウ、にしきのおんたからで」、秋田仙北郡では「あやチュウチュウ、にしきサラサラ、ごようのまつ、とおってまいれや、トッピンパラリのプー」、信州伊那郡では「ちちんプヨプヨ、ごようのおんたから」、信州小県郡では「ピピンピヨ鳥、ごようのさかずき」、甲斐昔話では鵯から「ピピンぴよどり」、駿河安倍郡では「にしきからまつ、したからヒヒン」などである。爺の腹の中に入って片羽、または片足を出した鳥の名前は、雉、鳩、鵯、山雀の他に、加賀では雀、しじゅうがら、中国では鵐(あおじ)などがある。ただ雀は小型の鳥の総称でもある。記録に残る限りでは、竹取説話異伝では、翁を富ませた小鳥は鶯である。竹伐爺の話には鶯との縁が少ない。そして竹取爺の話は、竹の中の鶯の卵が美女となって、後に帝妃となって翁一門を高貴な種族に至らしめた。だから鳥呑爺の話とは越えがたい空白がある。同一系統の変形というには遠すぎる。しかし著者は未発見説話によってこの溝はきっと埋められると信じている。

3) 花咲爺

この昔ばなしはその分布が全国に及んでいない。そして記録文芸の影響を受けることなく、民間の説話として自由に変化していることが特徴である。隣の爺婆型の話と同様にヴァリエーション(変化)が激しいのである。花咲爺の標準型では老人夫婦が犬を飼う理由が述べられていないが、越前坂井郡の話では、爺が三国の港に子を貰いに行く途中、白い子犬が現れて申し子にしてくれというのが発端で、それから爺と婆は我が子のように子犬を育てた。犬を山につれてゆくと「ここ掘れわんわん」というので掘ってみると金銀の財宝がでて爺婆は裕福になったという。これを見た隣の爺が犬を借上げ、粗末なえさをやって山に行くと何も鳴かないので怒った隣の爺が犬を殺して埋めた。犬を埋めたところから松が生え一夜にして大木となった。それを伐って臼を作って米を搗くと「ポポンのポン」と金が出た。隣の爺がこの臼を借り受け臼を搗いても出てくるのは砂ばかり。怒った隣の爺は臼を焼いてしまったというのでその灰で枯れ木に花を咲かせた。殿さまの耳に入り頼まれて枯れ木に見事な花を咲かせたのでご褒美を戴いた。隣の爺は殿さまの前で灰を撒いて自分の目に灰が入って転げ落ち、それを婆が木で打ったという。これを基本形とし(原型)として、ほかに色々に変化した話を列記している。奥州五戸や肥前島原や備前岡山では授かった子は小さな田螺であり、羽前東田川郡の話では川の上流から流れてきた香箱に子犬と猫が入っており、打ち出の小槌と延命小袋で爺婆の家を裕福にしたという。筑前鞍手郡の話では海神から子犬を授かり大事に育てると、金銀のありかを爺に知らせて裕福になったが、隣の爺が現れて以降は普通の花咲爺の話に同じである。この水の神のお礼が子犬であった代わりに、猫だの石亀、馬、醜い男の子であったりした話が多く全国に残っている。筑前宗像郡や豊前築上郡の話では石亀である。鹿児島の南喜界島の話では、善良な弟と強欲な兄が登場し、弟が水神様のお礼で竜宮に行って子犬をもらって帰ってくる。大事に育てていると犬は弟の狩猟の手伝いをして猪をたくさん獲てくるのである。兄が犬を殺して埋めたところから竹が生え、天に届いて米が降って来た。これ以降は標準型の話に同じである。奥州の灰撒き爺(雁取り爺)と花咲爺の話を比較すると、元来は善悪二組の爺婆が、一方は幸運に恵まれ家は富み栄え、羽藤はすべてがその逆になって破綻する話郡の総称であったようだ。これらの昔話は東北の各地にわたって20近くあるそうである。些細な点は異なるが、概略は基本形に則っている。古い民間説話が童話に流れる道と、いわゆる笑話化とは本来は別々の流れであった。童話には哄笑爆笑は必ずしも比須のものではなかった。しかし童話のつぎはぎを繰り返しているうちに、子どもを笑わすことが昔話と理解するようになった。花咲爺の分布が著しく中央部に偏し、地方では「雁取り爺」のような粗野な話になったのは文学の素養を持たなかったためである。物を改める力は都会の方が強い。否かは律儀だが保守的で、思い切った改良を施すだけの力がなかったといえる。近畿中央部の童話において、子犬が人間の子のように大事に育てられ、子犬が人間の言葉を発するという点においては前代の大切な名残が遺されている。東北地方の雁取り爺話では事件が三段(ここ掘れわんわん→臼から米・小判ざくざく→灰撒きで花が咲く)に展開するが、竹伐り、猿地蔵、団子浄土など多くの隣の爺型の昔話は1回きりで運・不運が決着する。悪い欲張りの隣の爺は結果を希求するあまり1回で失敗し反省する間もなく破綻する。中国においても日本の花咲爺と同じような内容の「枯樹開化」という話がある。どちらが輸入かどうかは判別しないが、中国文化輸入の最前線にいた遣唐使の知識が説話を接近させたことは考えられる。世界の諸民族の説話にはいまだ説明のつかない理由によって一致する点が見られる。一概に輸入とは言えない。中国とインドという文明国間の交流は(仏教にみるように)よくあることであるが、東海の離れ島の日本ではガラパゴス的進化があるため悠久の時間と距離を隔ててもなお奇しくも一致することは皆無とは言い切れない。日本的な変化の積み重ねを明らかにすることがまず大切であるという。

4) 猿地蔵

猿地蔵はやはり隣の悪爺型の話である。猿地蔵説話の我国で採集されたものは、 岩手県で五つ、青森県で七つ、秋田県で二つ、長野県に一つ、島根県と広島に各一つ、大分県に二つ、福岡県・熊本県に各一つで合計21話で、筑後と喜界島に変わり型がある。そして14世紀室町時代の無住法師の「雑談集」の文書記録とこれら民間説話を比較すると近世以前と言っても昔話が新しくなってゆく傾向が察せられるのである。書物の記録はこれら説話の一つの段階を記録しているにすぎない。一つの標準形として山形県江刺(現 奥州市)の一例を見ておこう。原題は「猿らと二人の爺の話」である。前半は良い爺の成功譚である。@爺が蕎麦焼餅を昼弁当に持って山畑に行って草取りをしていると、山から猿が出てきて爺の焼餅を食ってしまう。爺は畑の真ん中でじっと見ていると、A猿らはここに地蔵さんがおられる。川の向こうのお堂にお移ししようと、猿らは手車を組んで爺を乗せ、川を渡るとき「猿べのこよごすなとも、地蔵べのこよごすな」と囃し詞を唱える。B爺はおかしくても笑いをじっとこらえていた。堂の上座にお地蔵様を据えると、多くの猿が御賽銭をあげて帰っていった。爺はその銭を集めて持って帰った。そして後半は隣の爺の真似の話である。C隣の婆がそれを羨み自分の爺にも同じことをさせる。山の畑でそば饅頭を置いて作業をして、猿らが爺を担いで囃し詞を唱えながら川を渡った。Dその言葉が余りに面白いので、爺が思わず笑ってしまったので、猿らは驚いて爺を川に投げ込んだ。E命からがら川から這い上がって自分の家に帰ると、婆は新しい着物が買えると思い古い着物をみんな燃やしてしまっていた。全般的に見ると説話の変化の少ない部分は後半である。前半の猿らの囃し詞に趣向が集まり、筑前鞍手郡では「猿はぬれても爺さんぬらしゃせぬ ヨイショコラ」、奥州五戸では「猿の舟濡らすとも地蔵の舟ぬらすな」とか「地蔵のふんぐり流すとも、猿ふんぐり流すな」、石見国の説話では「ブラと下がったなんじゃいな、お香の袋、プゥンと出たなんじゃな、お香の匂い」、安芸の山県郡ではこの屁問答が「今のは何の音 ありゃりんの音」、豊後の杵築では「地蔵のちんちんぬるるな」となっている。また喜界島では屁問答の原型みたいな話があり、中国地方より西の猿地蔵に屁問答という変わった型がある。羽後角館(秋田県)ではお賽銭の代りに猿が爺の地蔵さんを支えるために千両箱を前後に二つ置き、これで爺様は大金持ちになったという話に変形している。奥州の南部では爺の地蔵さんが猿に命じて大槌と袋を用意させ、その袋の中に猿を入れて大槌で皆殺しにしたという狩猟時代を反映するかのような殺伐とした話に変形している当然後半の話はない。。八戸でも猿を皆殺しにする話になっている。無住法師の「雑談集」ではマメ者とものぐさ者という名の爺が登場する。地蔵は最初から仏様となっている。そして猿が川に入る仕草がこと面白く「袴かき揚げよと尻尾をかき揚げけるおかしさに」と描かれている。ものぐさ者は最初から仏の衣装を着て畑に立っている。動物は猿以外では、豊後東国東郡では、猿と蟹に、筑後八女郡では狐と狸と兎が登場する。猿地蔵譚には三つの型があるという。@猿が偶然に間違ったという偶然型、A爺さんが体に粉や餅米を塗りたくくって地蔵に成りすましたという計画型、B猿に蕎麦焼餅を食べられても怒らなかった爺にたいする謝恩型に分類されるという。無住法師の「雑談集」は、マメ者とものぐさ者という名の爺に対して倫理観から話をしているが、農民が田畑で居眠りをすることは考えられず、猿に昼飯を盗まれても怒らなかった爺に対して動物が幸運をもたらす「動物援助譚」の古い形ではないかという評価である。

5) かちかち山

これは五大お伽話の一つに数えられている。この話は前段(狸の婆殺し)と後段(兎の仇討ち)の継ぎ合わせがはっきりしている。標準的な説話の前半部において発端の狸の登場の由来がはっきりしないというか脱落している。花咲爺でも発端の脱落がしばしばみられるが、昔話の原型を知るには、このところが大事なのである。民間説話では爺が種まきをしているところを狸が皮肉を言ってからかうので、木の株に餅を縫って狸を捕まえることになっている。そしてぐるぐる巻きにされた狸が狸汁にされる前に婆さんを騙して縄を解き、逆に婆さんを殺して食べてしまう。後半部では兎が婆さんの仇打ちをする段になると狸は全くのお人よしになって容易に捕まる話となる。狸の性格が前半と後半で矛盾しているのでこれは異なった由来の二つの話を継ぎ合わせたことがわかる。前半を更に二部すると、爺をからかっていた皮肉屋の狸が爺に捕まるというドジな狸の性格と、婆さんを騙して逆襲する狡猾獰猛な狸の性格を描き、後半では狡猾な兎に関単に捕まり仕返しをされるという愚か者に変身をする3つの性格転換をしている。このような一貫しない性格は日本の昔話にはよくあることで話者のご都合主義ともいえる。「牛方山姥」や「天道様金網」に例がみられる。童話なのでその知的レベルに合わせて無理は筋の展開も容易なのかもしれない。こういった昔話には外国に類例が多い。世界的に研究を必要とするが、まずは日本の昔話の変化の跡を調べる必要があるというのが筆者の信念である。後半部は「兎と蝦蟇」や「猿蟹合戦」といった動物間の抗争を描いた動物説話の分野となる。狸が婆を殺して狸汁と偽って爺に食わせる残酷な話は、グリム童話に類を探すまでもなく日本の説話にも見出される。東北地方の「瓜子姫」がそうである。瓜子姫は瓜から生まれた美しい小さな姫で川上から流れてきて爺婆に育てられる。機織が上手であったがあまのじゃくという怪物にいじめられる。中部より西の地方の瓜子姫説話は動物に助けられるが、東北地方の昔話では殺されて食われてしまう。天邪鬼は瓜子姫の皮を着て機織りをして爺婆を騙した。そして台所の隅に瓜子姫の骨をかくしておいて爺婆に瓜子姫の肉を食わせる。主役が食われては話は終わりである。東北の瓜子姫は無残な結末に終始する。天邪鬼が瓜子姫に忍び寄る姿は西洋の「赤頭巾ちゃん」と同じである。カチカチ山の前半のストーリである狸と爺さんのやりとりを東北地方の「聴耳草紙」に見てみよう。爺が山畠で豆をまいている。爺が「一粒撒けば千粒、二粒撒けば二千粒」と祝い言葉を唱えると、木の伐株の腰かけた狸が冷やかす。「ハァ一粒撒けば一粒よ、二粒負けが二粒さ、北風ァ吹いたら元なしだァ」と憎まれ口をきく。翌日餅を伐株に塗っておいて爺さんが種まきをすると、狸は伐株の腰を下ろしたまま逃げることができないところをぐるぐる巻きにして捕縛した。狸の皮肉な文句が格別に面白かったと見え各地に囃し詞が変化している。遠州では「爺さん畑打ちゃ腰ぼっくりしょ」、肥前諫早では「あの爺が田ァ打つにゃ、左鎌にゃぎっくり、右鎌にゃぎっくり、のちゃ尻ゃどっさとせ」となる。また陸中紫波郡では狸は猿となっている。沖縄では猿ユーム―が欲張り長者の代名詞である。しかし狸、猿といった獣が人に害をあたえて罰せられるという話自体がもはや独立した話として存在できない。爺婆の昔話で、婆が狸に殺されて爺が騙されて婆の肉を食うといった不愉快な結末では話にならないので、後半の兎による仇討という動物譚が付け加えられた。しかし兎という動物は愚か者、悪智恵ちったマイナスイメージの説話が多い。越後では貉の仕事を全部やらせて、背中の藁に火をつけて「かちかち虫が鳴いている」とごまかしてやけどを負わせる。東京地方では同じ兎が同じ狸を何度の騙すところが面白いらしい。岩手山の雫石の説話では兎が熊を同じ手口で騙している。加賀の江沼郡昔話では兎は熊を焼き殺すのである。備前邑久郡の説話では姥が炊き殺される話、鳥取県では鬼婆が騙されて焼き殺される風景をのんびり描いている。もはや滑稽譚である。

6) 藁しべ長者と蜂

「今昔物語」、「宇治拾遺物語」、「雑談集」に収録されており、いずれも大和長谷寺の霊験譚として語られている。一本の藁しべを次々と他のものに取り換えて長者になったという成功譚である。里巷につたわる昔話も大体この話によったものと思われるが、少しづつ違いがある。著者はこれを説話が文章に固定化された後も、まだ変化する力があったとみている。この類話を各地の昔話をあげて説明している。長谷寺の霊験記以前にもまたは並行しつつ話は変化してきたのである。面白い部分ほど変化しやすいのは常である。話者の創意工夫の力が入るからである。なかでも藁で結わえた虻である。長谷寺霊験記では虻であるが、民間の説話では蜂となっている。蜂の援助で幸福な婚姻に至る話は「難題婿」のもある。逆に長谷寺の虻は民間の蜂の話の変化形かも知れない。我々の伝承には表と裏、外形と内部感覚の二筋の道があったようだ。大きな動物より小さな虫や小鳥の援助譚を喜んだようである。霊魂はこのような小動物の姿をして飛び歩くという信仰があったのかもしれない。長谷観音霊験記によると、藁しべ一本から始まる話の展開を記すと、藁しべで虻を結わえる→参拝の子どもの三つの蜜柑と取り換える→喉の乾いた上臈に蜜柑を与えて白布一反と取り換える→倒れた名馬を白布一反と取り換える→生き返った馬を売って田一町と米少々(今昔物語)、または田三町と家を借りる(宇治拾遺物語)→この家も家主の死去によって手に入れ長者への第1歩を歩み出すといった筋で進行する。「今昔物語」、「宇治拾遺物語」、「長谷寺霊験記」の三者の前後関係、民間説話との前後関係など考証すべき内容は多岐にわたるが、民間説話そのものが変化しつつあるので自体は一層複雑である。東北の紫波郡には「蜻蛉(だんぶり)長者」という説話には「藁しべ長者」とほぼ同じ順序で同じ内容の話があるが、これが藁しべ一本から始まるのではなく、お寺の門を出て最初につかんだものが、蜻蛉を結わえた馬の尾の毛であった。長谷寺の霊験譚に取り込まれなかった別系統の藁しべ長者の話は、壱岐島の昔話にある。ここには虻も蜂も登場しないが、婿になるには藁しべ一本を千両に変えてくる条件で冒険の旅に出る。藁しべ→芭蕉の葉→味噌一玉→剃刀→脇差→千両という展開である。五島列島民俗話では、藁しべ三本→葱→三年味噌→さびた刀→大蛇を切って娘を助けて1300両を得た。また喜界島や沖縄にも藁しべ長者の異説がある。                                  

7) うつぼ舟の王女

この章はバシレの「五日物語(ペンタメロウ)」にベルヴォントという醜い男の子と王様の娘ヴステラの話を契機として起こした一文である。ベルヴォントは薪を切りに行ったが、途中三人の魔女の子が野原で昼寝をしているところを日影を作ってやって、そのやさしさに感謝した魔女の子はベルヴォントに願い事は何でも叶う約束をした。薪を馬に変え町へ行ったベルヴォントはお姫様ヴステラにその醜さを笑われ、腹を立てて「わしの子を孕め」という願いをすると姫は二人の男の子を生んだ。子供が7歳になった時王様はその子の父親を見つけさせたが子供は醜いベルヴォントを父だといった。怒った王様はベルヴォンと母親ヴステラと二人の子の四名をうつぼ舟に押し込めて流した。ヴステラはベルヴォンを恨んで理由を問うと、ベルヴォンはこれまでのいきさつを語った。そこでベルヴォンの願い事は何でも叶う力があるならうつぼ舟を陸に付けさせた。そして希望通りのお城を建てさせ、最後にベルヴォンを美青年に変えて、四人仲良く御殿に住んだという話です。王様と再会した四人は一切を説明し王国と城を継いだという事です。西欧の説話研究者は300年前にできたこの話の起源を探ったが、大体この話には八つの奇抜な話の為を持っている。@貧しくとも醜くともある霊の力添えがあれば出世できる、A非凡な如意の力、B処女受胎、Cうつぼ舟に入れて流すこと、D子童の英明霊智の力、E父親発見の手法、F幸運の本人が妻に促されるまで自分の力の使い方を知らなかったこと、Gわずかな人の知恵でもって世界を推し量ることはできないということである。高貴な姫君(妃)が殿さまの怒りに触れ、うつぼ舟に乗せて流される話、またその船が流れ着いたという説話が伝えられている土地は、二、三にはとどまらない。茨城県蚕影山縁起にも、うつぼ舟で流されてきた女性のことがあり、熊野には天竺から流されてきた王女ののことを伝える話がある。次にこの話の主人公である男は不思議な力を持っていながら女房に言われるまで気が付かないか、その力を行使しなかったということである。これは我国には「炭焼長者」の話として残っている。黄金の石の存在に気が付かなくて、貧しい炭焼きをしてきた男が、女房にその価値を教えられて億万長者になった。沖縄に分布する話では、殿の前であくびをしたり屁をひったために流され、流れ着いた土地で殿の子どもを産み、その子が成長して殿の居城に行き、屁をひらぬ女が作った茄子を売りに行く。殿は屁をひらぬ女がどこにいると大笑いをするところで、母の話をして父の殿をやり込め、親子三人が再会を果たすという物語である。

8) 蛤女房・魚女房

衣類婚姻譚のなかで、異類が人間の女房になる話である。蛤女房の話はわずかであるが、一般に鯛や鮒が人の女房になる魚女房と話の筋は同じである。普通はこのような異類婚姻譚は人が魚類の命を助けたり、傷を介抱してやると言った報恩譚であるが、蛤女房や魚女房ではそれが脱落して、なぜ女房になってきたのか理由が分からないものもある。著者はこれは水の霊が人間に嫁いでくる話の型である竜宮女房型という。天から花嫁が下りて来る昔話と、海から迎えられる話はどこかの時期に分化したに相違ないとする。これらの蛤や魚が女房になると毎日の汁のものの味が良くなることが共通の効果である。不思議に思った亭主が出かけるふりをして台所を覗いて見ると、女房が汁鍋にまたがって小便を入れている。見られたことによって結婚は破綻となり、女房は元の姿に戻って海に帰ってゆくのである。なお「お伽草紙」の「蛤の草紙」(母親孝行が観世音菩薩によって賞せられ、童女神が大蛤となって嫁いだ)とはあまりに開きが大きく、同一の根を持つものとはいいがたい。海から遠い信州上伊那郡の蛤女房の話が典型となる。島原半島にも同じ話がある。これが山の国である信州にどういう流布をしたかは分からない。話はいつから女房が汁鍋にまたがって小便をする話になったのかは分らないが、女陰が蛤に似ていて蛤が潮を吹くことに連想を得たという説が、公式な場では唱えることはできないがある意味で有力である。魚女房話は越後長岡の鯛女房が有名である。命を助けてくれた亭主に対する典型的な謝恩型の話である。秋田県仙北郡の鮒女房も謝恩型で小便を入れて味を良くする点では共通である。岩手県雫石のある鯉女房は体を汁の中で洗う仕草で味を良くした。同じ仙北郡の鯉女房では「食わず女房」で貧乏な亭主に奉仕してくれた。これは貧人致富譚である。蛤女房の話には滑稽に傾いている面は否定できない。魚類や水の霊を迎える竜宮女房説話には決して覗くなという戒めが機織り、産屋にありそこに台所も加わった。

9) 笛吹き婿

著者は昔話の「笛吹き婿」と記録文学のお伽草紙の「梵天国」の比較を行っている。結論はお伽草紙が昔話を写し取ったものと言える。お伽草紙の「梵天国」は次のようなストーリーである。五条右大臣が清水の観音に祈って儲けた子の玉若が笛が上手でその名声が梵天帝釈天にまで聞こえ、梵天王はその娘を玉若に与えた。時の淳和天皇はその娘を得たく思い、難題を持ちかけた。梵天王の娘の力でその難題は切り抜けてしまう。最後に梵天王の御判を取りに天上に上がった時、羅刹王に恵みをたれたばかりに娘を奪われてしまった。娘を取り返しに、迦陵頻と孔雀の助けを得て首尾よく娘を取り返して帰還したという話である。これを昔話の「笛吹き婿」と三点で比較した。@天皇の難題(難題婿)、A女房を羅刹王に奪われる、B奪われた女房の奪還の点である。Aの話はこの話特有で、他には見当たらない。Bの笛で鬼たちを服従させる話は真野の長者の牛飼い童の物語、牛若丸の浄瑠璃御前の話にも見えている。この三点でお伽草紙と同じ内容の記録された昔話は三つ存在した。@「陸中紫波郡昔話」の「天のお姫様と若者」、A「昔話研究」越後南蒲原郡の「笛吹男」、3「昔話研究」八戸市「三国一の笛の上手」である。では昔話「笛吹き婿」を語っていた人が梵天国を読んでいたかどうか、もし知らなかったとすると両者の一致は間違いなく移動(お伽草紙が昔話を書き写した)である。いずれにせよ梵天国は複合型の話である。ただ昔話「笛吹き婿」の話の方が自然で、お伽草紙の「梵天国」は手が込んでいる。細部では八戸の昔話では、女房の奪還を助ける迦陵頻と孔雀という鳥は昔話では鶴になっている。鬼の軍団に追われてもうだめかという時天上から鶴ヶ三お降りて鬼の戦車を破壊する。お伽草紙の「梵天国」と昔話「笛吹き婿」の話が決定的違う点は、昔話は天井に居る舅の梵天王に婿の始礼の為であるが、お伽草紙の「梵天国」では最後の難題を解くためとなっている。しかもお伽草紙の拙劣な点は再度迦陵頻と孔雀を登場させるところである。やはりどちらが自然かと言えば昔話の方が単純で自然で、お伽草紙は手が込んでいるので複雑という展開になっている。もう一つ違う点は天王(梵天帝釈天)がせっかく捉えて鎖で縛っておいた羅刹鬼を、笛吹婿の慈悲心があだとなって、取り逃がし娘を奪われる始末となる記述が異なる。昔話の陸中と八戸の二つの話では、共にその飯を一粒食うと千人力となる米の飯であるが、越後の話では千人力の力の出る薬となっている。お伽草紙では長さ一尺もある米粒を大げさな表現で、婿が鬼に焼き飯を与えようとすると鬼は薬を下さいと言う。つまり京都で書かれた「お伽草紙」は二つの民話を知っていて綜合したのである。ここから民間説話の方が古い形だという事が判明する。民話とお伽草紙が決定的に違う点は、笛吹婿が最後に天上に登ったた理由は、説話では婿独りで天井の舅に初礼に行ったという単純な話であるが、お伽草紙では第4番目の難題でる天王の御判を貰う事であったが、この話はすべての民間説話にはない。婿の娘の実家への挨拶というありふれた習俗を、お伽草紙の作者は知らなかったようである。そこで柳田国男氏はお伽草紙の作者を世間知らずの大奥の女官小野於通とか、冷泉など身分の高いものではなかったかと推測している。民間説話を、文を書けない鄙びた農村の人々が文字化して流布することはとてもできないという前提で、自分たちの農村の風俗習慣を話の中に取り込んでいる。婿の舅への初礼とか、実家の案内、厩見学などは都の上流階級では逆に書けないのである。お伽草紙の目的は、自由領域においてできる限りの新意匠を出す事であった。竹取物語の五人の求婚者の難問難題がそれであった。お伽草紙の難題は第4の難題にあった。

10) 笑われ婿

昔話はまず三種類に分類される。本格説話、動物説話、笑話であり、これらの先後関係が説かれる。動物譚や笑話は簡単であるからと言って一番最初という事ではなく、昔話の発展順序は話の変遷からから考察するのが正道である。日本は島国で地形が山林が主であることから話の伝搬、混合が起こりにくく話の内容が保存されやすいという特徴を持っている。昔話が本格説話が最初でそこから動物譚や笑話が分かれた。本格説話は土地ごとに根差して少しづつ異なっている。本格説話と笑話の相違は笑話が全国を通じて数が最も多く、内容がほとんど同じである点である。都市では昔話といえば笑話のことであった。TVタレントというとお笑いタレントが最も多いのと同じ現象である。笑話の方が話が簡単で変化のしようがなかったことにもよるが、話の運搬車の果たした役割が大きかった。笑話を聞かせる職業者が存在し、師匠の系列にそって全国へ普及した。聴衆の好みに応じて、笑話の内容は多様化してゆく。趣向の上からは次の四つに分類される。@悪者の失敗談、A大話、法螺話、誇張談、B術比べ、知恵比べ、C婿入り話である。婿はそもそも笑われ嘲られやすい側面があるので、婿入り話は次第に馬鹿らしいものになった。炭焼長者のような金の価値に気づかなかった例もある。話の自由区域で、語り手が婿殿の愚行の数々を加えるにしたがって、愚か婿の笑い話になっていった。そしてそれ近世になって印刷技術の進歩とともに記録され書物化されると、膝栗毛のような滑稽文学が生まれた。しかし丹念に見ると笑話(滑稽譚)にも本格説話との連絡が取れ、昔話の規範が守られているのもある。語られる説話であれば自ずと聞き手の制約が入ってくるのである。かってな創作をしても聴衆が承知しないし、昔話とは認めなかったのであろう。昔は国民の99%は昔話の笑話によってしか、外部を笑うことを許されなかった時代は、江戸時代の膝栗毛の類を通しても国民の笑いを拘束していたのである。人は闘争や憎悪の危険を犯さない限り、そう自由には笑えなかったのである。刑死を覚悟しなければ直訴という形で意見・要望を表明しえなかった時代のなせる社会的制約であった。日本人がユーモアのセンスに欠けていたのではなく、長い間こんな狭苦しい道を通って昔話が伝えられてきた。支配者にとって痛くもかゆくもない笑い話は許された社会の窓であった。昔話の主人公(婿入りの若者)が、若いころは微賎で、控えめであるため鈍と見えて軽蔑されたが、予期せざる天禄によって美しく賢い妻を娶り、一躍して富貴円満の長者になるという事は、世界のあらゆる民族に行き渡った昔話の原型であった。いやしくも本格的昔話の語り語との原型である。だから愚かな婿殿の笑い話にも、本格的昔話との連絡が付くのである。これを無意識の連絡という。バカ婿といえば必ず馬の話を伴うのも一つの伝統である。武家時代の現実であったがゆえに、笑い話として独立する前からもう欠くべからざる婿入り話の叙法となっていた。これに愚かさの語り口の巧みさが加わると、話の根幹とは縁の切れた別個の存在である笑い話になってしまうのである。「結い付け枕」、「首掛け素麺」、「飛び込み蚊帳」の話が飛騨、陸中、甲州、因幡にほぼ同じ話が伝わっている。嫁の弁疏というべき嫁のフォローがあってバカな婿を守る話も多い。関西の「隣の寝太郎」、奥羽の「せやみ太郎兵衛」、「蕪焼き笹四朗」といった能無しの怠け者の成功譚がある。旧来の伝承から笑いの部分を拡大した「曽呂利新左エ門」、「野間藤六輩の新案」がある。笑い話の分類の@悪爺の強欲譚、A大話、B術比べなどがまだめでたしの昔話の中にあって独立していない話もある。婿と舅の会話が妙にぎこちなく、間が持たないで中断といった笑い話が「醒睡笑」に収録されている。A大話〈誇張譚)では「兎と山芋」、「まの良い猟師」、「鴨取り権兵衛」、奥州陸前桃生郡の「三人婿」に見られる。笑話はなんといっても昔話の零落を意味している。嫁の役割を説く女子教育と考えられなくはない。バカな亭主をサポートする話は多い。「鉢かつぎ」草子が伝えている。西洋の灰かぶり娘シンデレラに相当する「姥皮」(その男ものである灰坊太郎もある)は「糠子米子」、「紅皿欠皿」という名であった。

11) はてなし話

果て無し話は昔話の一つの型として世界中に分布している。普通子供が次々と昔話をねだることがうるさくて仕方がない時、大人が子供に失望させあきらめさせるためにやる巧緻なやり方である。つまり同じ事項を何度も繰り返して話すのでいつまでも続けてゆくことができる。果て無し話は近代の一つの教育様式であった。昔話はこれ以前の生活と無関係ではなかった。近代の忙しい生活はしだいにこの単調を続けてゆくことを不可能とした。そこで単調の忌むべきことを子どもに知らしめるため果て無し話を登場させたのではないかと著者は推測している。従って昔話はだんだんと短くなり、数と種類ばかりが多くなった。同じ型の話を何度も繰り返す神話の語り口は聴く者のリズムを整え印象を強めてゆく作用がある。神話の歌謡はまさにこの果て無いの手法を採用している。果て無し話の代表として肥後の上益城の村に「チュウチュウドンブリ」という話がある。飢饉の年に長崎の鼠が相談して船に乗り薩摩の国に移住しようとした。すると肥後の沖で薩摩からくる鼠の集団の舟と行き当たった。薩摩の鼠は長崎へゆけば少しは食うものがあるかもしれないと相談してやって来たのであった。長崎の鼠と薩摩の鼠は絶望してもうどこにも行くところがない、揃って海の中に入って死のうという事になり、まず長崎の鼠がチュウチュウと鳴いてドンブリと海に身を投げました。続いて薩摩の鼠がチュウチュウと鳴いて海にドンブリ身を投げました。その次に長崎の鼠が・・・・・・・・と聞き手がもうやめてくれというまで繰り返すのです。聴く者の希望と話す者の下心が乖離しています。こうした残忍な方法で笑いとう意味を教わるのでした。それでもこの話には飢饉という現実の恐怖を教えるという教育譚でもありました。あえて言えば失望と忍耐という意義をいたずらに笑いの陥穽に誘いこむことなく教えることでした。あるいは果て無い話は子供の眠りを誘うための手段だったかもしれません。(羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹・・・・・) 子供でも単調は忌むべきであることを悟らざるを得ません。こうして昔話も知らないうちに非常に短くなり、その数ばかりが年とともに増大してゆきました。昔の神話時代の人にとって、数字によって各人の生活を想像するようになったのは、よほどの知性の訓練を積まなければできなかった。未開の部族にはある事故で何人の人が死んだかを報告する習慣もなかった。何時誰と誰がどこで死んだという記憶は克明に覚えていても、何名の死亡者であったかは、指が折れる範囲でしか把握できなかったのです。これは数学史でも指摘されることです。日を数えることも宗教祭祀の知識人でないと、歴さえ読むことは出来なかった。祭祀に関係する名家の人は何十代前の先祖の名を覚えている。

12) 鳥言葉の昔話

これは放送原稿(昭和12年6月14日)であり、昔話の世界一致の原因を尋ねている。鳥言葉の昔話については、ベンファイ、フレイザー、アールネの三人の欧州の碩学の論文によると、三人ともインド紀元説を取っている。著者はこの意見に承服せず、インド説は日本やアジア諸国の分布は何も説明していないという。アーリア系民族として同根のインドとヨーロッパの場合はそうであっても、日本のケースは未検討であるというのだ。西欧の鳥言葉は紀元前から複合型であるが、日本には複合型は見当たらず単純型であるという。日本の鳥言葉説話は「聴耳頭巾」で知られているように、この頭巾を被ると鳥のことが分かるので、鳥どうしの会話から殿さまの娘の病気の原因を知って、娘の病気を治し裕福な暮らしができるようになったという話である。沖縄の昔話ではこの頭巾を竜宮からもらうことになっている。また「安倍の童子丸」という話ではこの鳥言葉が取り入れられている。インドの古い記録の昔話(紀元5世紀のラマーヤナ、マハバータラン叙事詩)やヨーロッパの古い記録では、鳥の言葉を聞いて笑ったがために家を出だされたり、女房に咎められたりする複雑系の話である。そこで著者は単純系は複雑系の前にあったと主張するが、私見であるが私は古代インド文明(紀元前1000年頃)の話が、日本の話の後塵を拝するとは言い難いので、いいところ両者は無関係に発生したというべきであろう。


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