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文藝散歩 

柳田国男著 新版「遠野物語」 
角川ソフィア文庫 (2004年5月)

柳田国男の代表作、日本民俗学開眼の書

柳田国男の代表作にして、民俗学誕生の書「遠野物語」は明治43年(1910年、著者35歳)に世に出た。そのいきさつを柳田国男は序文に書いている。「ここに掲載した話は遠野の人佐々木鏡石氏から、東京の自宅において明治42年2月ごろから毎月1回の夜聞き取り、筆記したものである。一字一句も加減せず感じたままを書いた。遠野にはこの類の話はなほ数百件あろう、われわれはより多くの話を聞かんことを切望する。同年8月に自分は遠野に遊びたり。花巻から十余里、町場は三か所あり。その他はただ青き山と原野なり」 遠野の印象を自分の目で確認し、佐々木鏡石氏から聞き書きした話を翌年にまとめて出版した。この類の話は現代の流行から外れているので、奇怪な話は憚れるのであるが、聴いた話は人に語らずには置けない魅力がある。「今昔物語」は大昔の話であり、近代のお伽話はいかにも妄誕であるが、佐々木鏡石氏から聞いた話は目前の話で現実味が異なる。それだけに存在理由は十分あると信じる。そして柳田国男氏は第2版出版(昭和10年、1935年)の覚書において、25年前の初版をただ重版するだけではおもしろくないので、内容を追加して「遠野物語の拾遺」として出す計画であったという。付録として重複しないようにし柳田氏の原稿と鈴木氏の原稿から構成したという。ただ初版の文体はそのまま保存したという。本書巻末に大藤時彦という人の解説がある。文中で柳田氏のことを先生と呼んでいるから、おそらくは弟子筋に当たる人であろう。その解説に沿って「遠野物語」の概要をまとめておこう。年譜にもあるように明治42年は法制局参事官の職に在って、九州日向国奈須の山村で行われている猪狩の故実を記した「後狩詞記」を自費刊行し、続いて明治43年「石神問答」と「遠野物語」を著わした。この年は民俗学開眼の歳になった。本書の初版序文にあるように柳田氏は明治42年は8月初めて遠野に行かれた。佐々木氏は遠野にはおられなかったが、自分の目で遠野を見られた。遠野の人佐々木鏡石氏とは明治41年から毎月一度市ヶ谷加賀町の柳田氏宅に小石川に住む佐々木氏が訪問する形で遠野の故事を聞き取ったようである。佐々木氏は晩年は仙台で民俗学研究に従ったが、昭和8年49歳で逝去された。佐々木氏から聞いた話や、土地に伝わる話を記録したものである。古くは安政のころ、新しいところでは昭和初年飛行機が飛んだ記事がある。遠野物語は談話筆記であるが、その文章は柳田氏の手になるものである。「遠野物語」は初版350部印刷し、定価50銭で販売されたが、約200部は親戚・知人に寄贈された。この本を受け取って批評紹介をした人物には、友人の田山花袋氏、島崎藤村氏、泉鏡花らがいた。いずれも好意的に評している。1933年中国の周作人はこれを正当に民俗学の書物として紹介している。周作人は文章の美を高く評した。折口信夫氏は神田の古本やでこの書を入手し、感激して「遠野物語」という長詩をかき、自ら民俗学に触発され同門に入ったという。本書には「遠野物語」(119項目)および「遠野物語拾遺」(299項目)が収録されている。柳田氏は「遠野物語」が刊行された翌年、佐々木氏への手紙の中で「広遠野物語」なる構想を打ち明けていたが、改訂版で追加するか方針が決まらないまま、昭和7年に一部を雑誌「古東太萬」に発表し、更に一冊の本になすべきか思案中に佐々木氏が「聴耳草紙」を出したので計画はとん挫した。佐々木氏は他界され、「遠野物語拾遺」は、柳田氏の編集方針に従って、柳田氏と鈴木棠三氏が集めた記事を同じ編集方針で、前作と同じ体裁でまとめたものである。ここに著者のプロフィール紹介と業績、代表書籍を示すために、本書の巻末にある年譜を抜き書きしてまとめておこう。刊行された著作は太字で示した。

柳田国男 年譜

明治8年(1875年)  誕生 兵庫県神東郡田原村辻川に生まれる。父松岡賢次氏は漢学者であった。
明治18年(1885年) 10歳 高等小学校卒業 辻川の旧家三木家に約1年預けられれる。和漢の漢籍を濫読する。
明治20年(1887年) 12歳 長兄(医師松岡鼎)が住む茨城県布川に移住。詩文集「竹馬余事」を作る。病身のため学校にはゆかず、隣家の小川家の蔵書を読む。関東と関西の違いに驚嘆したという。
明治22年(1889年) 14歳 松岡の両親と二人の弟が伴って茨城県布川に移住してくる。
明治23年(1890年) 15歳 東京下谷御徒町の次兄宅に同居。「しがらみ草紙」に短歌を発表。森鴎外を知り感化を受ける。歌を学ぶ。田山花袋等と知り合う。
明治26年(1893年) 18歳 第一高等学校に入学。寄宿舎に入る。翌年母と父が死去、1年間病気療養のため銚子で保養する。
明治30年(1897年) 22歳 「抒情詩」を田山花袋、国木田独歩らと刊行する。第一高等学校卒業、東京帝国大学法科大学政治家入学。
明治32年(1899年) 24歳 農政学を勉強する
明治33年(1900年) 25歳 東京帝国大学を卒業。卒業後農商務省農務局に勤務する。田山花袋、島崎藤村らと親交を結ぶ。
明治34年(1901年) 26歳 柳田家を嗣ぐ。父柳田直平は大審院判事、牛込区加賀町に住む。
明治35年(1902年) 27歳 法制局参事官に任官される。農政学を講義し、産業組合を説く。
明治37年(1904年) 29歳 柳田直平4女と結婚。横須賀捕獲審検所検察官となる。
明治38年(1905年) 30歳 全国農事会幹事となり、全国各地を産業組合の講演に回る。
明治41年(1908年) 33歳 宮内書記官任命、九州、四国を歩き、この旅行の見聞が翌年の「後狩詞記」の本になる。北陸奥州旅行。
明治42年(1909年) 34歳 「後狩詞記」刊 短歌集「松楓集」
明治43年(1910年) 35歳 内閣書紀官室記録課長任命。「石神問答」刊 「遠野物語」刊 新戸部稲造を中心として郷土会を作る。南方熊楠を知る。民俗学開眼の歳になる。
大正2年(1913年) 38歳 民俗学研究機関誌「郷土研究」発刊。以降4年間編集を行う。
大正3年(1914年) 39歳 貴族院書記官長となる。「山鳥民譚集」
大正8年(1919年) 44歳 貴族院書記官長辞任。 各地を旅行し、郷土研究を鼓舞する講演を行う。
大正9年(1920年) 45歳 朝日新聞社客員となる。「赤子塚の話」、「おとら狐の話」刊。東北旅行。
大正10年(1921年) 46歳 国際連盟委任統治委員会委員となりジュネーブ出張。翌年もジュネーブ出張。翌々年もイタリア、ロンドン旅行へゆく。
大正13年(1924年) 49歳 朝日新聞社ロンセル委員となり社説を書く。(昭和5年まで) 「炉端叢書解題」刊 慶応大学で民俗学を講義。
大正14年(1925年) 50歳 「海南小記」刊。早稲田大学で農民史を講義。北方文明研究会などを開き、折口信夫らを育てる。雑誌「民族」創刊、民俗学だけでなく人類科学研究に踏み込む。
昭和元年(1926年) 51歳 刊 吉右衛門会を開く、昔話研究の萌芽を為す。
昭和3年(1928年) 53歳 「雪国の春」刊 「青年と学問」刊 方言研究会設立
昭和4年(1929年) 54歳 「都市と農村」刊、 「日本神話伝説集」刊、「民謡の今と昔」
昭和5年(1930年) 55歳 「ことわざの話」刊、「日本昔話集」刊 「蝸牛考」刊、「民間伝承大意」講演
昭和6年(1931年) 56歳 「柳田国男集」刊 「世間話の研究」刊 「郷土研究十講」刊 「日本農民史」
昭和7年(1932年) 57歳 朝日新聞社論説委員辞職 「口誦文芸大意」刊 「日本の伝説」刊 「女性と民間伝承」刊 「山村語彙」
昭和8年(1933年) 58歳 「桃太郎の誕生」刊、「地名の話他」刊、「小さき者の声」刊 雑誌「島」を発刊する。
昭和9年(1934年) 59歳 民俗学研究者の集まり「木曜会」を自宅で開く。全国山村生活調査を開始。「日本の昔話」刊 「一つ目小僧他」刊 「民間伝承論」
昭和10年(1935年) 60歳 雑誌「昔話研究」発刊、「国史と民俗学」刊 「民間伝承の会」発足。「郷土生活の研究法」刊 「産育習俗語彙」
昭和11年(1936年) 61歳 「地名の研究」刊 「山の神とオコゼ」刊 「信州随筆」刊 「国語史・新語篇」刊 全国昔話の採集始まる。社会制度・家族制度に関する講演が続く。
昭和12年(1937年) 62歳 全国海村生活調査始まる。東北帝国大学、京都帝国大学で日本民俗学の講義を行う。「昔の国語教育」刊 「分類農村語彙」刊、「葬送習俗語彙」
昭和13年(1938年) 63歳 「服装習俗語彙」刊 「昔話と文学」刊 「分類漁村語彙」
昭和14年(1939年) 64歳 「歳時習俗語彙集」刊 「木綿以前の事」刊 「居住習俗語彙」刊 「孤猿随筆」刊 祭礼と民間伝承を講義
昭和15年(1940年) 65歳 「民謡覚書」刊 「妹の力」刊 「伝説」刊 日本方言学会創立会長就任 「野草雑記」「野鳥雑記」
昭和16年(1941年) 66歳 朝日文化賞受賞 「豆の葉と太陽」刊 東京帝国大学で日本の祭りを講義
昭和17年(1942年) 67歳 「子ども風土記」刊 「菅江真澄」刊 「方言覚書」刊 「全国昔話記録」刊行始まる。「日本の祭り」刊 「木思石語」
昭和18年(1943年) 68歳 「神道と民俗学」刊、「昔話覚書」刊 「族制語彙」刊 
昭和19年(1944年) 69歳 「雪国の民俗」刊 「火の昔」刊 
昭和20年(1945年) 70歳 「村と学童」刊 子ども雑誌に優しい民俗学を説く
昭和21年(1946年) 71歳 「笑いの本願」刊 「先祖の話」刊 枢密顧問官に任官される 靖国神社にて氏神と氏子を講演する。 「物語と語り物」刊 「新国学談義ー祭日考」
昭和22年(1947年) 72歳 「口承文芸史考」刊 木曜会は解消し、民俗学研究所が誕生。(枢密顧問官廃官) 「新国学談義ー山宮考」刊 芸術院会員となる。 「新国学談義ー氏神と氏子考」
昭和23年(1948年) 73歳 「村の姿」刊 「婚姻の話」刊 「北国紀行」刊 学士院会員となる。
昭和24年(1949年) 74歳 国立国語研究所評議員となる。「年中行事」刊 「北小浦民俗誌」刊 沖縄研究を行う。「母の手毬歌」
昭和25年(1950年) 75歳 「方言と昔」刊 折口信夫と西日本を講演旅行、日本離島村落の調査始める。
昭和26年(1951年) 76歳 「民俗学辞典」監修刊行 國學院大學で神道学の講座を持つ。三笠宮と新嘗研究会を開く、稲作文化研究を始める。「大白神考」刊 「島の人生」刊 文化勲章受章
昭和27年(1952年) 77歳 「海上の道」講演 「東国古道記」
昭和28年(1953年) 78歳 「神樹篇」刊 14回「農村青年と語る」放送、「不幸なる芸術」
昭和30年(1955年) 80歳 「柳田国男集」刊 「年中行事覚書」刊 「新たなる太陽」刊 この頃から未解決の問題について後進に託するようになる。
昭和31年(1956年) 81歳 「妖怪談義」刊 
昭和32年(1957年) 82歳 NHK放送文化賞受賞 民俗学研究所解散 「少年と国語」刊 「資料としての伝説」
昭和33年(1958年) 83歳 「炭焼日記」
昭和34年(1959年) 84歳 成城大学にて「舟の話」、「沖縄の話」をする。 「故郷70年」
昭和35年(1960年) 85歳 慶應義塾大学で「島々の話」講演
昭和36年(1961年) 86歳 仙台旅行 「海上の道」刊 日本民族の伝来を探る。
昭和37年(1962年) 87歳 「定本柳田国男集」刊行 8月8日死去

柳田氏は「遠野物語」を出す前々年宮崎県椎葉村をおとずれ、前年「後狩詞記」を刊行されている。従って「遠野物語」には異なった東西の二つの土地の民俗比較という観点が働いている。二つの地点で特別変わった奇習はないという事を信念として、土地の事情、歴史、生活状態を考えてゆこうという。椎葉は全くの山村で、遠野は城下町である「後狩詞記」は猪狩りの故実を記したもの、「遠野物語」は生活全般にわたっている。同じ狩りをとっても前者は団体しゅりょうであり、後者は個人狩猟である。しかし両地とも山幸の呪いにオコゼという小魚を秘持している。そして家の間取りを絵入りで比較している。山間に居をつくる椎葉の家は細長く、前面は縁側で背面は壁である。これに対して遠野の家はいずれもかぎの手型(L字型)である。地名の解釈は後年「地名の研究」となってゆく。この地のコメを食べ生活を共にした人の魂も死んでこの地を離れない死生観を持っている。明治42年の頃このような土地の人の話をまとめた書はなかった。「遠野物語」は現地の人の記したものではなく、採集記録の一つの形態であった。そこから民俗学という学問領域が誕生した。書かれていることは民俗資料である。人類学雑誌にその類型を見る程度であった。本書の題目は「遠野物語」、「遠野物語拾遺」の冒頭にに整理されているように、里の神、家の神、山の神など民間信仰の神々、天狗、山男、山女など山中の妖怪、家の盛衰、雪女、河童、猿、狼など動物譚、年中行事、昔話、歌謡などが語られる。これらの項目は後年民俗学の重要な問題となって成長し、数々の研究論文が発表された。なかでも柳田氏の興味を引いた問題として、神隠しの問題は山人外伝資料として資料が集められ「山のj人生」となってまとめられた。民俗学上、今日でも重要な問題は家の神であるオクナイサマ、オシラサマ、ザシキワラシである。いずれも岩手県に顕著に見られる神々で、三者には共通の性格が見られる。柳田氏の「大白神考」はまだこの微妙な差異については分らないとしている。オシラサマは伊能嘉矩氏が指摘したが、大正2年に研究成果を出した。ザシキワラシについては大正9年佐々木氏が「奥州のザシキワラシの話」を発表した。折口氏も「座敷小僧の話」を発表した。オクナイサマについてはオシラ神との関係性があるようだが、柳田氏は「雪国の春」でさっぱりわからないと述べている。「遠野物語」には昔話が二題採録されている。「牛方山姥」と「瓜子姫」である。語り口そのままに記録した例では一番古い話である。話の終わりはいつも「これでどんとどはれ」という言葉で結ぶ。NHKの遠野の旅館を題材にした朝の帯ドラ「どんどはれ」以来大変有名になった昔話の結び言葉であるので知らない人はいないと思う。遠野の神々の中で、山の神である天狗と山男は類似した内容を持つ。丈が高く赤ら顔で目が輝いており怪力の持ち主である。次に水の神については河童伝説が最も多い。人間の生活圏にいていろいろ悪戯をする困りものである。ただ遠野の河童の顔は赤いというが。雪国には雪女の怪談話が多いが、遠野の雪女は生活の戒め的なまじめな信仰の対象であったようだ。遠野の怪奇譚には人々の内面生活を伝えている。幽霊は人の心を打つ話になっている。動物譚は世界中の民話の主役でアニマルロアと呼ばれ、遠野では狼の活躍が目覚ましい。本編・拾遺を通じて、家の盛衰譚は地方の長者譚と変わりない。オクナイサマ、オシラサマ、ザシキワラシと一緒でれば家は栄え、いなくなれば家は衰退するという。「遠野物語」は日本民俗学開眼の書である。と同時に文学の書として読み継がれてきた。これはひとえに柳田国男氏の才能によるところが大きい。柳田氏は本書を書くに至った動機は今なお大切に受け継がれている。京大の動物学者、登山家として有名な今西錦司氏は山に入る後輩に「遠野物語」を推薦してきたという。自然を観察する目、一筋縄の合理では割り切れないときの態度を養うためであった。それが日本狼の絶滅の解明に役立ったという。群れを作らない狼の習性もある条件では集団行動に走るのである。またフランス文学者で京大人文科学研究所長であった桑原武夫氏は漢籍に埋もれた環境からフランス留学に旅立つときに持って行った本がこの「遠野物語」であったという。明治以来の普遍価値である西欧文明だけではなく、柳田氏の日本民俗学は独自の視点を養ったという。まさに柳田国男氏の「遠野物語」は「立学の書」である。


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