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文藝散歩 

斎藤茂吉著 「万葉秀歌」 上・下
岩波新書 (1938年11月)

精神科医でアララギ派の歌人斎藤茂吉が選んだ万葉集の秀歌約400首

「万葉集」は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年以後とみられる。「万葉集』」の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説があり、「古事記」の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である。「万葉集」の成立に関しては、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、「万葉集」は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。「万葉集」二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、おおむね以下の順に編集されている。
第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。代表的な歌人としては額田王がよく知られている。ほかに舒明天皇・天智天皇・有間皇子・鏡王女・藤原鎌足らの歌もある。
第2期は、遷都(710年)までで、代表は、柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろひと)・長意貴麻呂(ながのおきまろ)である。他には天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子などである。
第3期は、733年(天平5)までで、個性的な歌が生み出された時期である。代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人(やまべのあかひと)、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良(やまのうえのおくら)、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした坂上郎女などである。
第4期は、759年(天平宝字3)までで、代表歌人は大伴家持・笠郎女・大伴坂上郎女・橘諸兄・中臣宅守・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)・湯原王などである。
歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったと考えられる。
ただし、この万葉集は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり大伴家持一族も連座したためである。その意味では、「万葉集」という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年)以降にようやく完成したのではないか、と推測されている。「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については延暦4年の事件で家持の家財が没収された。そのなかに家持の歌集が封印され、ようやく平安時代になってに本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから「万葉集」が史料にみえるようになったといわれている。
万葉集は万葉仮名で書かれている。万葉仮名で書かれた大伴家持の歌と訓読みを下に記すが、この例の訓への読み方は比較的簡単な方であるが、なかには必ずしも容易ではなく異義を発生する場合が多い。註釈書が数多く発行されてきた。
(万葉仮名文)都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾
(訓)剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ(卷20-4467)
万葉集の諸本は大きく分けて、古点本、次点本、新点本に分類できる。この区分は鎌倉の学僧仙覚によるもので、点とは万葉集の漢字本文に附された訓のことをさす。その訓が附された時代によって、古・次・新に分類したのである。古点とは、天暦5年(951年)に梨壺の五人の附訓で、万葉歌の九割にあたる四千以上の歌が訓みをつけられた。次点本は古点以降新点以前の広い時代の成果をさし、藤原道長、大江匡房、惟宗孝言、源国実、源師頼、藤原基俊、顕昭など、複数の人物が加点者として比定されている。新点本は仙覚が校訂した諸本をさす。「万葉集」は全二十巻であるが、首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されて寄せ集めて一つの歌集にしたと考えられている。歌の数は四千五百余首から成るが、写本の異伝の本により歌数も種々様々である。各巻は、年代順や部類別、国別などに配列されている。また、内容上から雑歌(ぞうか)・相聞歌・挽歌の三大部類になっている。
雑歌(ぞうか) - 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。
相聞歌(そうもんか) - 「相聞」は、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌である。
挽歌(ばんか) - 棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌である。

斎藤茂吉氏が参考にされた注釈書には、@仙覚「万葉集抄」、A北村穂抄「万葉拾穂抄」、B契沖「万葉代匠記」、C荷田春満「万葉集僻案抄」、D賀茂真淵「万葉考」、E荒木田久老「万葉集槻落葉」、F橘千蔭「万葉集略解」、G富士谷御杖「万葉集燈」、H岸本由豆流「万葉集攷」、I橘守部「万葉集檜嬬手」、J鹿持雅澄「万葉集古義」、K木村正辞「万葉集美夫君志」、L近藤芳樹「万葉集註疏」、M井上通泰「万葉集新考」、N佐々木信綱「万葉集選釈」、O武田祐吉「万葉集新解」、P次田潤「万葉集新講」、Q山田孝雄「万葉集講義」などである。歌の解釈に異議を生じやすい原因は万葉仮名の訓の読み方にある。万葉仮名は、主として上代に日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた文字のことである。楷書ないし行書で表現された漢字の一字一字を、その字義にかかわらずに日本語の一音節の表記のために用いるというのが万葉仮名の最大の特徴である。万葉集を一種の頂点とするのでこう呼ばれる。「古事記」や「日本書紀」の歌謡や訓注などの表記も「万葉集』」と同様である。「古事記」には呉音が、「日本書紀」には漢音が反映されている。江戸時代の和学者・春登上人は「万葉用字格(1818年)の中で、万葉仮名を五十音順に整理し〈正音・略音・正訓・義訓・略訓・約訓・借訓・戯書〉に分類した。万葉仮名の字体をその字源によって分類すると記紀・万葉を通じてその数は973に達する。万葉仮名の最も古い資料と言えるのは、5世紀の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣である。辛亥年(471年)の製作として、第21代雄略天皇に推定される名「獲加多支鹵(わかたける)大王」が書き表されている。漢字の音を借りて固有語を表記する方法は5世紀には確立していた事になる。実際の使用が確かめられる資料のうち最古のものは、大阪市の難波宮(なにわのみや)跡において発掘された652年以前の木簡である。「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)」と和歌の冒頭と見られる11文字が記されている。正倉院に遺された文書や木簡資料の発掘などにより万葉仮名は7世紀頃には成立したとされている。平安時代には万葉仮名から平仮名・片仮名へと変化していった。平仮名は万葉仮名の草書体化が進められ、独立した字体と化したもの、片仮名は万葉仮名の一部ないし全部を用い、音を表す訓点・記号として生まれたものと言われている。例えば「し」の音に対応する万葉仮名には、子 之 芝 水 四 司 詞 斯 志 思 信 偲 寺 侍 時 歌 詩 師 紫 新 旨 指 次 此 死 事 准 磯 為があげられる。また「は」に対応する万葉仮名は、八 方 芳 房 半 伴 倍 泊 波 婆 破 薄 播 幡 羽 早 者 速 葉 歯があげられる。次に著者斎藤茂吉氏のプロフィールを紹介する。斎藤 茂吉(1882年(明治15年)5月14日 - 1953年(昭和28年)2月25日)は、日本の歌人、精神科医。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物であった。山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村生まれで、東京・浅草で医院を開業するも跡継ぎのなかった同郷の医師、斎藤紀一の家の次女の婿養子となった。長男は精神科医で随筆家の「モタさん」こと斎藤茂太、次男は精神科医・随筆家・小説家の「どくとるマンボウ」こと北杜夫が生まれた。中学時代、佐佐木信綱の「歌の栞」を読んで短歌の世界に入り、友人たちの勧めで創作を開始した。高校時代に正岡子規の歌集を読んでいたく感動、歌人を志し、左千夫に弟子入りした。精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学や青山脳病院院長の職に励む傍ら旺盛な創作活動を行った。また、文才に優れ、柿本人麻呂、源実朝らの研究書や、「ドナウ源流行」、「念珠集」、「童馬山房夜話」などのすぐれた随筆も残しており、その才能は宇野浩二、芥川龍之介に高く評価されたという。本書「万葉秀歌」の序において斎藤茂吉氏が述べているように、「歌の数が何せ4500有余もあり、一々註釈書に従ってそれを読破するの尾は並大抵のことではない。(岩波文庫本でも5分冊からなる) 従って本書は選集という形をとった。長歌を止め短歌の実にして、万葉の短歌が4200首足らずであるとして、大体1割ぐらい(400首ほど、しかし茂吉は本書で参考歌として約40首を解説無しで掲載しているので、茂吉のコメントのある歌は361首である)を選んだ」という。万葉集は戦前の日本において我国の大切な歌集であるので、万人向きの歌を選んだというこのセンスが今も通用するかどうかは知らない。そうして選んだ歌の簡単な評釈を加えたが、本書の目的は秀歌の選出にある。歌の評釈は参考程度に考えて、読者自ら自由に歌に親しむことが大切である。本書は一首一首の趣に執着するので、詞にこだわっているが全体の評論は行わなかったという。


巻 1

1) たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野   中皇(女)命(巻1・4)
・ 舒明天皇が宇智野(大和五条町)に遊猟された時、中皇命が間人連老をして献上した長歌に対する反歌である。中皇(女)命は舒明天皇の娘であるので、皇極(斉明)天皇に当たる。斎藤氏はこの歌を万葉集中最高峰の一つだと称賛している。   
2) 山越の 風を時じみ 寝る夜落ちず 家なる妹を かけて偲びつ   軍王(巻1・6)
・ 舒明天皇が讃岐国安益に行幸あったときに、軍王が作った長歌に対する反歌である。軍王とは将軍に相当する一般名であろう。     
3) 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 兎道の宮処の 仮廬し思ほゆ   額田王(巻1・7)
・ 兎道(宇治)に行幸の際に設けた仮宮の記憶を追慕した歌であろう。額田王は鏡王の娘で、鏡女王の妹であった。はじめ大海人皇子と結婚し、次いで天智天皇に寵愛されて近江教に移った。一説に孝徳天皇の御製ともいわれる。   
4) 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は榜ぎ出でな   額田王(巻1・8)
・ 斉明天皇が新羅を討つため船出をし、熟田津に滞留した。お供をした額田王の歌。一句に明確な区割りはなく、「に」、「と」、「ば」、「ぬ」などの助詞で自然につないだ流暢な歌である。 
5) 紀の国の 山越えて行け 吾が背子が い立たせりけむ 厳橿がもと   額田王(巻1・9)
・ 斉明天皇が紀の国の温泉に行幸あった時に額田王が詠んだ歌。前半の万葉仮名の訓みが難しく、いろいろな異説を呼んだ。前半は真淵説に従って訓み、下半は契沖説に従った。吾が背子とは大海人皇子のことと理解されている。  
6) 吾背子は 仮廬作らす 茅なくば 小松が下の 茅を刈らさね   中皇命(巻1・11)
・ 中皇命が紀伊国の温泉に行かれた時の御製3首のひとつ。 まえの中皇(女)命と同じかどうかは不明。単純素朴がいいと斎藤氏は言う。  
7) 吾が欲りし 野嶋は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 珠ぞ拾はぬ   中皇命(巻1・12)
・ 中皇命が紀伊国の温泉に行かれた時の御製3首のひとつ。古調の尊さがいいという。 
8) 香久山と 耳梨山と会ひしとき 立ちて見に来し 印南国原   天智天皇(巻1・14)
・ 中太兄(天智天皇)の三山歌(畝傍、香具、耳成)の反歌である。播磨国風土記にこの三山の争いを調停するために、出雲の阿菩大神が出立し、大和に向かったが播磨国揖保郡まで来たとき争いが止んだという。印南国原にも同様の伝説があったようだ。蒼古の響きがあるという。 
9) 渡津海の 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 清明けくこそ   天智天皇(巻1・15)
・ 三山の歌ともとれるが、単に叙景の歌であってもいい。この歌の様な壮大な趣の歌は後代後を絶ったという。結句の「清明けくこそ」が推量とするか希望とするか、いずれも可だという。   
10) 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなむ 隠さふべしや   額田王(巻1・18)
・ 「しかも」は「そんなに」という意味。「あらなむ」は願望、「や」は強い反語である。結句に作者の情感が集中しているという。  
11) あかねさす 紫野行き標野行き 野守や見ずや 君が袖振る   額田王(巻1・20)
・ 天智天皇が近江の蒲生に薬猟された時、大海人皇子らも従った。額田王がかっての夫におくった歌で、超有名な万葉歌として知られる。「標野」は御料地でしめ縄を張って人の出入りを禁じたいわれからくる。結句の「袖振る」は強い女の気持ちの表出であるという。   
12) 紫草の にほえる妹を 憎くあらば 人嬬ゆえに あれ恋ひめやも   天武天皇(巻1・21)
・ 前の額田王の歌への返し歌である。純粋と集中という点で万葉集中の傑作のひとつだという。  
13) 河上の 五百筒磐群に 草むさず 常にもかもな 常処女にて   吹黄刀自(巻1・22)
・ 十市皇女(父:大海人皇子、母:額田王)が伊勢神宮に参拝されたとき、従った老女吹黄刀自が波多横山の巌をみて詠んだ歌。皇女に対する敬愛の情がみてとれる。常少女(処女)という古語がゆかしいという。十市皇女は大友皇子のお妃として葛野王を生んだが、壬申の乱後大和に帰った。激動の7世紀の厳しい境遇が思いやられる。 
14) うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食す   麻続王(巻1・24)
・ 麻続王が伊勢の伊良虞に流され、余生を送った時の歌。哀れ深い響きを持ち、「うつせみの 命を惜しみ」に一首の感慨が集中している。書紀には麻続王が配流された地は出雲とされているが、伝説化の過程で、常陸行方とか、伊勢説などが生まれたという。
15) 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香久山   持統天皇(巻1・28)
・ 藤原宮の持統天皇の御製である。「らし」(推測)、「たり」(確定)の「い」の韻で調子を作っている。小倉百人一首では「けらし」、「ほすてふ」となって随分印象がことなるのである。目に鮮やかな写生歌である。
16) ささなみの 志賀の辛崎 辛くあれど 大宮人の 船待ちかねつ   柿本人麿(巻1・30)
・ 天智天皇の近江の宮跡の荒れた様子を見て作った長歌の反歌である。大津京(志賀宮)のささなみ楽浪とは、湖西一帯の地名である。志賀の辛崎には何事もないが、もはや大宮人の船はやってこない。  
17) ささなみの 志賀の大曲 よどむとも 昔の人に 亦も逢はめやも   柿本人麿(巻1・31)
・ 前の歌と同じように柿本人麿は志賀の京のさびれた様を嘆き、「船待ちかねつ」、「亦も逢わ¥はめやも」と強い言葉の力で結んだ。
18) いにしえの 人にわれあれや 楽浪の 故き京を 見れば悲しき    高市古人(巻1・32)
・ 高市古人が近江の旧都を懐かしんだ句で、一説には高市黒人作ともいう。天智天皇派の古い人間なのかもしれないと最初に断りを入れている。これらを主観句という。 
19) 山川も よりて奉ふる 神ながら たぎつ河内に 船出するかも   柿本人麿(巻1・39)
・ 持統天皇の吉野行幸の時、従った柿本人麿の献上した歌である。「滝つ河内」は今の宮滝付近の吉野川で、水の廻る流れが強い。か行の開口音が全体の調子を作っているという。 
20) 英虞の浦に 船乗りすらむ おとめ等が 珠裳の裾に 潮満つらむか   柿本人麿(巻1・40)
・ 持統天皇が意背に遊ばれた時、柿本人麿は飛鳥浄御原宮に留まり、行幸を思って献上した歌。一句に「らむ」を2回使って、流れるような歌を構成している。 
21) 潮騒に 伊良虞の島辺 榜ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島周を   柿本人麿(巻1・42)
前の歌の続きで、場所は三河渥美郡の伊良虞辺りへ移動している。島巡り航路で難渋しているのではないかと、細やかな情を見せている。「妹乗るらむか」がこの句の中心であるという。
22) 吾背子は いづく行くらむ 奥つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ  当麻真人の妻(巻1・43)
・ 当麻真人の妻が夫の旅立ち後に読んだ歌である。「奥つ藻の」は名張に係る枕詞である。古来この歌は万葉秀歌として愛されてきたが、分かりやすさと口調がいいからである。 
23) 阿騎の野に 宿る旅人 うらなびき 寐も寐らめやも 古おもふに   柿本人麿(巻1・46)
・ 軽の皇子が阿騎野{宇陀郡松山市)に宿られて、父日並皇子(草壁皇子)を偲ばれた。のちに軽皇子が文武天皇となられる前の歌である。柿本人麿は4首の歌を作って、この句は最初の句である。「やも」は強い反語で、感慨を籠めている。 
24) ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ   柿本人麿(巻1・48)
・ 前の第2句目の歌である。たるみのない一気に歌い上げた傑作である。明け方の強い光に触発されて生まれた名句である。  
25) 日並の 皇子の尊の 馬並めて 御猟立たしし 時は来向ふ   柿本人麿(巻1・49)
・ 前の第4作目の歌で、軽皇子が狩りをなされる朝が来た。父の日並皇子の為されたように馬揃えをして群馬を走らせる日だという期待を柿本人麿が述べている。総じて人麿の歌は重厚で軽薄さがない。万葉集において最も尊敬された歌人が人麿である。  
26) 采女の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く   志貴皇子(巻1・51)
・ 飛鳥から藤原の今日に遷られ、人がいなくなってさびれた飛鳥の旧都には今日も風が吹く。 「采女」は古い訓では「たをやめ」、「たわれめ」と呼んだ。それでは安定が悪いので「うねめ」と読まざるを得ない。
27) 引馬野に にほふ榛原 いり乱り 衣にほはせ 旅のしるしに   長奥磨(巻1・57)
・ 太上天皇(持統天皇)が三河に行幸された時、長忌寸奥磨が詠んだ歌。 引馬野は浜松付近の野である。榛はハンの実か萩の花かというと、ハンの木は摺りぞめにできないので、萩と理解すべきか。かくも万葉仮名を訓読みする時には疑義が生じやすい。
28) いづくにか 船泊すらむ 安礼の埼 こぎ回み行きし 棚無し小舟   高市黒人(巻1・58)
・ 高市黒人は持統・文武両朝に仕えたので、柿本人麿と同時代の人である。安礼の埼は三河国の埼だが場所は不明である。結句のたよりない感じが漂う「棚無し小舟」は4・3調の名詞止で、緊張感のある言葉だ。  
29) いざ子ども はやく日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ   山上憶良(巻1・63)
・ 山上憶良が遣唐使で唐に居る時に、還りの出帆近い時期に作った故郷を思う歌。大伴の御津とは難波の湊の地域の名である。 前の句に期待の緊張が走るが、下の句は多少たるんでいる。山上憶良は漢文の教養が高かったが、大和詞の伝統的な声調を理解できなかったという。
30) 葦べ行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕べは 大和し思ほゆ   志貴皇子(巻1・64)
・ 文武天皇が難波宮に行幸された時、志貴皇子(天智天皇の第4皇子)が同行して詠んだ歌。歌の調子は平明でありながら定式に陥ることはなかった。「霜降りて」という言葉が断定的に響いてここちよい。  
31) あられうつ 安良礼松原 住吉の 弟日娘と 見れど飽かぬかも   長皇子(巻1・65)
・ 長皇子は天武天皇の第4皇子で、摂津住吉の海岸安良礼松原で読んだ歌。弟日娘は遊行女婦(一説に清江娘女)である。松原と弟日娘の両方を愛したようである。「見れど飽かぬかも」は万葉集では用例が多い常套句である。 
32) 大和には 鳴きてか来らむ 呼子鳥 象の中山 呼びぞ越ゆなる   高市黒人(巻1・70)
・ 持統天皇が吉野離宮に行幸されたとき、従った高市黒人が作った歌。呼子鳥には定説はないがほととぎすを指すようである。全体が具象的で現実的である。黒人の歌では佳作の一つであるという。  
33) み吉野の 山のあらしの 寒けくに はたや今夜も 我ひとり寝む   作者不詳(巻1・74)
・ 文武天王が吉野宮の行幸された時、従者の人が詠んだ歌。「はたや」とは「またも」という詠嘆の意味がある。従者にもこれくらいの歌は詠めるという。  
34) ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣 楯立つらしも   元明天皇(巻1・76)
・ 寧楽宮遷都前の藤原宮で詠んだ歌。「もののふの 大臣」とは将軍のことで、将軍が調練する兵の弓の鞆の音が聞こえてくるという歌で、天皇はこの弓の音に怯えたのか、安心したのかは不明である。個人を超えた集団、国家の緊張した世界である。  
35) 飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君が辺は 見えずかもあらむ   作者不詳(巻1・78)
・ 元明天皇は、明日香藤原京から寧楽の京に遷都した時、御輿を長屋原に止め、藤原京の方を眺めた。作者不詳となっているが、天皇の傍にいる人として、天皇の姉御名部皇女の歌とみて間違いないという。歌の内容は説明不要なほど平明である。  
36) うらさぶる 情さまねし ひさかたの 天の時雨の 流らふ見れば   長田王(巻1・82)
・ 詞書には長田王が伊勢の山部の御井で詠まれたとなっているが、それらしくない。「まねし」は多い、しきりにという意味。時雨が降り続くと、うら寂しい心が絶えずおこってくる。「うらさぶる 情さまねし」が歌の中心である。    
37) 秋さらば 今も見るごと 妻ごひに 鹿鳴かむ山ぞ 高野原の上   長皇子(巻1・84)
・ 長皇子が志貴皇子と佐紀宮で宴を持たれた時の歌である。佐紀宮とは生駒郡平城村の長皇子の宮のあったところ。この歌には主観の詞はない。    


巻 2

38) 秋の田の 穂のへに霧らふ 朝霞 いづくへの方に 我が恋やまむ   磐姫皇后(巻2・88)
・ 仁徳天皇の磐姫皇后が、天皇を慕って作った4首の歌の一つである。後后八田皇女との三角関係の最中であろうか。「霧らふ 朝霞」という詞は重厚で並ではない感情の持ち主であることが分かるという。前半は序詞で、本論は「いづくへの方に 我が恋やまむ」ということだ。他の三首もみな佳作であるという。
39) 妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを   天智天皇(巻2・91)
・ 天智天皇が鏡王女にたまわった御製歌である。鏡王女は鏡王の女で、額田王の姉である。後に藤原鎌足の正妻になる。「大島の嶺」は生駒郡平群村あたりだと言われている。歌われたのは近江宮から西南の生駒方面を見られたときの作である。「見まし」、「あらましを」で調子を取っており、古調の単純素朴があらわれ、優秀な歌になっているという。天智天皇と鏡王女との恋愛感情の有無は不明で、単なる安否を問い合わせた問答だという説もある。
40) 秋山の 樹の下がくり 逝く水の 吾こそ益さめ 御思よりは   鏡王女(巻2・92)
・ 前の天智の歌に、鏡王女が和した歌である。歌の前半は序詞で、本質は「吾こそ益さめ 御思よりは」である。形は恋愛歌である。「御思よりは」で止めたところに無限の味わいがある。
41) 玉くしげ 御室の山の さなかづら 寝ずは遂に ありがつましじ   藤原鎌足(巻2・94)
・ 藤原鎌足が鏡王女に答えた恋愛歌である。句の前半は序詞で、「寝ずは遂に ありがつましじ」はお前と寝ないではいられない」という意味で、これが言いたいことのすべてである。そこに至る美辞麗句の遊びが和歌の世界である。肉欲的であるが、「遂に」が強く効果的で、なくてはならない言葉になっている。
42) 吾はもや 安見児得たり 皆人の得がてにすといふ 安見児得たり  藤原鎌足(巻2・95)
  ・ 内大臣藤原鎌足が美人で有名で皆のあこがれの的であった釆女安見児を獲得した喜びを露骨にうたった。「もや」は詠嘆の助詞で「まあ」という意味である。この直截性は戯れ性と一体化している。安見児という名は「安見知し吾大君」(容易に全体を支配する)に通じるからであるという説もある。
43) わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後  天武天皇(巻2・103)
・ 天武天皇が藤原夫人(鎌足の女、五百重娘、新田部皇子の母、大原大刀自ともいわれた。夫人とは後宮の職名で后に次ぐ位置であった)に賜った御製である。大原は今の明日香村小原の地である。飛鳥浄御原宮から少し離れた大原にいる藤原夫人に気使って消息を問う歌である。
44) わが岡の 竈神に言いて 降らしめし 雪の摧し 其処に散りけむ  藤原夫人(巻2・104)
  ・ 藤原夫人が前の天武天皇に和して贈った歌。おかみ竈神とは龍神のことで水や天雪を支配する神である。「そちらに降った雪は実は私が龍神に頼んで降らした雪の断片ですよ」と、天皇のからかいに答えてユーモアをもってした歌である。
45) 我が背子を 大和へ遣ると 小夜更けて あかとき露に わが立ち濡れし  大伯皇女(巻2・105)
・ 大津皇子(天武天皇の第3皇子)がひそかに伊勢神宮の斎宮大伯皇女(同母弟姉の関係)に面会した。大津皇子は史実では天武天皇の崩御後に謀反の疑いで死を賜った。歌の形式から見るとと恋愛歌でもあるが、姉が弟を諭して大和へ帰らせるという意思が「遣る」という言葉に現れている。
46 ) 二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が ひとり越えなむ  大伯皇女(巻2・106)
・ 大伯皇女の前の歌の続きであろう。悲哀の情緒が感じ取れ単に親愛の実ではないと思われる。「代匠記」のは謀反との関連で解説している。
47) あしひきの 山の雫に 妹待つと われ立ち濡れぬ 山の雫に  大津皇子(巻2・107)
・ 大津皇子が石川郎女に贈った歌。「あしひき」は山に係る枕詞。裾を長く引く平らな山という意味合いである。
48) 古に 恋ふる鳥かも 弓弦葉の 御井の上より 鳴きわたり行く  弓削皇子(巻2・111)
・ 持統天皇が吉野に行幸された時(全部で32回)、従駕した弓削皇子(天武天皇第6皇子)から、大和に留まった齢とった額田王に贈った歌。「古に恋ふる鳥かも」という句に簡潔にして情緒あふれる言葉である。このことばで額田王の古い思い出が呼び起こされ、「鳴きわたり行く」で流れてゆくのである。額田王がこれに答えて歌を贈ったことは言うまでもないが、答える方はいつも受け身になるという事は避けがたい。
49) 人言を しげみ言痛み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川わたる  但馬皇女(巻2・116)
・ 但馬皇女(天武天皇の皇女)が穂積皇子(天武天皇第5皇子)を慕われた歌である。皇女が高市皇子の宮に居られ、ひそかに穂積皇子と接したことが人の口に上った時期の歌である。皇女が男に逢って朝川を渡ったことは前代未聞であった。
50) 岩見のや 高角山の 木の間より わが振る袖を 妹見つらむか  柿本人麿(巻2・132)
・ 当時柿本人麿は岩見国の国府に居た。妻はその近くの角の里に居たので、妻を置いて上京する時に詠んだ歌である。現実的には妻が見える距離ではなかったが、人麿一流の波動的声調で統一しているという。
51) 小竹の葉は み山もさやに 乱れども 吾は妹おもう 別れ来ぬれば  柿本人麿(巻2・133)
・ 前の歌の続きである。サとミで調子を取る歌で決して軽薄に流れてはいない。聴覚的な歌である。前半の句は写生的であり、後半の「吾は妹おもう 別れ来ぬれば」が本論である。
52) 青駒の 足掻を速み 雲居にぞ 妹があたりを 過ぎて来にける  柿本人麿(巻2・136)
・ 人麿が岩見から大和へ上る時の歌である。「青駒」は「黒馬」のことである。馬に乗って駆け足で山を越えるさまを表現し、妻の居る里の辺りから遠く離れて、雲にかすんで何も見えなくなったというのである。
53) 磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば 亦かえり見む  有馬皇子(巻2・141)
・ 有馬皇子(孝徳天皇皇子)が斉明天皇の時、蘇我赤兄に欺かれ、天皇に紀伊の牟婁温泉へ行幸を勧め、その間に謀反を決行することを企てたが、事が露見して赤兄によってとらえられ、牟婁温泉の行宮に送られて処刑された。この歌は行宮へ送られる途中の磐代海岸を通過した時の歌である。「天と赤兄を知る」という激烈な皇子の詞は、自分を抹殺するために天皇と赤兄がしくんだ謀略を知ったという意味だが、なおこの歌には話せばわかる式の楽観的な気分が残っており、願いを枝に括り付けるとかなうつもりでいた様だ。現実は甘くはなかった。19歳の皇子には即刻死刑であった。
54) 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る  有馬皇子(巻2・142)
・ 前の有馬皇子の歌に続く。気楽な旅のお話になっており、痛烈、感慨的な言葉は何もない。しかし史実を取り去ってもなおこの歌は尋常な世界から異常な世界へ移行することを暗示している。この歌からそこまで感じなけれbならないという。
55) 天の原 ふりさけ見れば 大王の 御寿は長く 天足らしたり  倭姫皇后(巻2・147)
・ 天智天皇が突然病に倒れられたときの倭姫皇后の歌である。9月に倒れ12月に崩御という急なことであった。天皇の寿命は長く続く(続いてほしい)という希望を述べたものである。
56) 青旗の 木幡の上を 通うとは 目には見れども 直に逢はぬかも  倭姫皇后(巻2・148)
・ 前の歌に続く歌であるが、天皇崩御後の御作歌である。木幡は山城(山科)の木幡で天智天皇の墓のことで、目にはありありと思い浮かべることができるが、直接にお逢いできることはないという意味である。御歌は単純蒼古で万葉集中の傑作のひとつであるという。
57) 人は縦し 思い止むとも 玉かづら 影に見えつつ 忘れぬかも  倭姫皇后(巻2・149)
・ 前の歌に続く。「玉鬘」とは日陰蔓を髪にかけて飾ることから、かけから影に掛けた枕詞である。装飾語的な枕詞よりもう少し実体的な(写像的な)意味を持たせている。人はたとえ忘れても、私には天皇の面影が何時までもかかって忘れられないという趣旨である。前の句が主観的な言葉を使っているが、本歌は少し弱い。
58) 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなくに   高市皇子(巻2・158)
・ 十市皇女(天武天皇の長女、母は額田王、高市皇子の姉、弘文天皇の后)が亡くなられたとき、高市皇子が詠んだ歌。十市皇女は壬申の乱後明日香浄御原宮に帰っていたが、急逝された。挽歌として、道は黄泉の国への道であろう。十市皇女を山吹の花に比していることは言うまでもない。
59) 北山に つらなる雲の 青雲の 星離りゆき 月も離りて   持統天皇(巻2・161)
・ 天武天王崩御の時、皇后(後の持統天皇)が詠まれた歌である。北山とは大和から見て北にある山科の御陵の山である。御陵の上に棚引く雲の中の、月も星も映ってゆく感慨を述べられたものである。斎藤茂吉氏はこの歌を「春すぎてなつくるらし白妙の・・・」の句と同等に愛唱されているそうである。渾沌の気があるという。
60) 神風の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君も有らなくに   大来皇女(巻2・163)
・ 大津皇子が崩じられたとき、大来(大伯)皇女が伊勢の齋宮から京に来られて詠まれた歌。二人は弟姉の間柄。10月に大津皇子は死を賜ったことを姉は知っていたことだろう。11月に天武天皇が崩御され、大来皇女は斎宮を解かれ京に戻った。政治の激変期に遭遇し、運命に弄ばれた弟姉の悲劇は沈痛であったろう。「あらましを」は本来伊勢に居るはずの自分が、誰も頼る人のいない都に、何をしに戻って来たんだろうと激越・自虐の念にさいなまれているという意味に使われている。
61) 現身の 人なる吾や 明日よりは 二上山を弟背と 吾が見む  大来皇女(巻2・165)
・ 前の歌に続く大来皇女の歌。大津皇子を葛城の二上山に葬った時に詠まれた。弟背(いろせ)とは同母兄弟のことをいう。前の激情は収まり、しっとりと底深い感情に沈下している。あきらめの認知に達している。
62) 磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありと云はなくに   大来皇女(巻2・166)
・ 前と同じ大来皇女の歌。「見すべき君がありといわなくに」が本歌の中心である。弟が亡くなったことを世間が言う様に認めている。
63) あかねさす 日は照らせど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも   柿本人麿(巻2・169)
・ 日並皇子尊(草壁皇子)の殯宮の時、柿本人麿の作った長歌の反歌。「夜渡る月の 隠らく」とは日並皇子が逝去されたことをいう。本歌の中心をなす。前半は月と日の対比上そういったまでで、大した意味合いはない。「亡くなられて惜しい」というだけの歌である。
64) 島の宮 まがりの池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜かず   柿本人麿(巻2・170)
・ 日並皇子尊の殯宮の時、柿本人麿の作った歌の一つと言われる。「勾の池」とは島の宮の池(高市村)であると言われる。真淵はこの歌は誰かの歌が紛れ込んだという。歌の格が落ちるからである。参考までにあげたと茂吉は言う。
65) 東の 滝の御門に 侍へど 昨日も今日も 召すこともなし   日並皇子宮の舎人(巻2・184)
・ 日並皇子に仕えた舎人などの作った歌が23首ある。その中の1首である。「東の滝の御門」とは皇子宮(東宮)の正門である。「昨日も今日も 召すこともなし」という侘しい感慨を述べた。
66) あさ日照る 島の御門に おぼほしく 人音もせねば まうらがなしも   日並皇子宮の舎人(巻2・189)
・ 日並皇子に仕えた舎人などの作った歌が23首ある。その中の1首である。前の句と同じ感傷である。「人音もせねば まうらがなしも」が中心である。
67) 敷妙の 袖交へし君 玉垂れの おち野に過ぎぬ 亦も逢はめやも   柿本人麿(巻2・195)
・ 川島皇子(天智天皇の第2皇子)が亡くなった時、柿本人麿が泊瀬部皇女(川島皇子の妻)と忍坂部皇子(泊瀬部皇女の弟)に奉った歌である。「敷妙の」、「玉垂れの」は袖、おち野のかかる枕詞。「過ぎぬ」とは亡くなる事である。越智野に川島皇子は葬られたので、もうお逢いすることはできないという意味になる。
68) 零る雪は あはにな降りそ 吉陰の 猪養の岡の 塞なさまくに   穂積皇子(巻2・203)
・ 但馬皇女が崩ぜられて数か月たった雪の日、穂積皇子が猪養の岡(皇女のお墓)を望まれ、流涕して作られた歌。吉陰は磯城郡初瀬町である。「塞なさまくに」は塞となるだろうという意味であり、感情のこもった言葉である。あまり雪が降ると猪養の岡へゆく道が塞がれてしまう。墓に行きたくても行けないので雪よ降らないでほしいという意味が強く迫っている。
69) 秋山の 黄葉を茂み 迷はせる 妹を求めむ 山道知らずも   柿本人麿(巻2・208)
・ 人麿が妻に死なれて時詠んだ歌。死んで葬られることを、秋山に迷い込んで隠れ給うという。強い哀惜の情が現れている。
70) 楽浪の 志賀津の子らが 罷道の 川瀬の道を 見ればさぶしも   柿本人麿(巻2・218)
・ 吉備津釆女が死んだとき、人麿が作った歌。「(さざなみ)楽浪の」は志賀に係る枕詞。「ら」は複数ではなく親愛を示す言葉。罷道は黄泉国への道のことである。罷道=川瀬の道と?がっている。この歌は不思議に形式に流れず、悲しい調べを持っている。
71) 妻もあらば 採みてたげまし 佐美の山 野の上の宇波疑 過ぎにけらしも   柿本人麿(巻2・221)
・ 人麿が讃岐狭岑島で、男の溺死者を見て詠んだ長歌の反歌。宇波疑は「よめ菜」のこと。「たげ」とは飲食すること。不思議な歌である。人麿は決してこのような事にも他人事ではなく、自分の愛情を注いで作歌している。
72) 鴨山の 磐根し纏ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ   柿本人麿(巻2・223)
・ 人麿が岩見国に在って死なんとした時に自ら悲しんで詠んだ、不思議な雰囲気の歌。石見国鴨山のほとりで亡くなった。人麿の妻の依羅娘子が人麻呂を悼んで作った歌が巻2に収録されている。享年45歳で疫病で死んだと推測されている。自分の死体を想像して、第3者的が見る視点は不思議な体験である。


巻 3

73) 大君は 神にしませば 天雲の 雷のうへに 廬せるかも   柿本人麿(巻3・235)
・ 持統天皇が雷岳(明日香村雷)行幸のときに、人麿が詠んだ歌。雷は天に居られる神d、天皇はその上に立ったという意味である。この歌の荘重な響きは、抒情詩としての人麿の力量からして当然のレベルかも知れないが、声の調子は堂々と争う余地のない出来栄えである。
74) 否といえど 強ふる志斐のが 強ひがたり この頃聞かずて われ恋ひにけり   柿本人麿(巻3・236)
・ この二つの歌は、持統天皇と志斐媼のほほえましい問答歌である。この老女は語り部などの職にあって、ことに話が旨かったのであろうか。もうお話はいらないと言っても、無理強いして話を語る老女の頑固さがにじみ出るユーモアあふれる仕立てになっている。諧謔的問答歌はウイットに満ちたものであろう。
75) 否といえど 語れ語れと 詔らせこそ 志斐いは奏せ 強語と詔る   志斐媼(巻3・236)
・ 二つ目の歌は、媼がもうやめにしましょうといっても、語れと仰せになるので話しているのです、それを強い語りとは何ですかとむきになる様子が面白い。
76) 大宮の 内まで聞ゆ 網引すと 網子ととのうふる 海人の呼び声   長意吉麻呂(巻3・238)
・ 持統天皇(一説には文武天皇)が難波宮に行幸されたとき、長忌寸意吉麻呂が詔に応え奉った歌である。網引く者の人数を揃える海人の呼び声が大宮の中まで聞こえてくるという、飾らない素朴な写生歌となっている。特に帝徳を賛美する形式的な「ごますり歌」になっていないところがすばらしい。難波宮が番屋と同じ扱いなほど、民と朝廷の距離は少ないという寓意に取るのは考え過ぎという。
77) 滝の上の 三船の山に 居る雲の 常にあらむと 我が思はなくに   弓削皇子(巻3・242)
・ 弓削皇子(天武天皇第6皇子)が吉野に遊ばれたときの御歌である。上の句の「・・・雲の」は「常にあらむと 我が思はなくに」に続く序詞となっている。下の句が本歌の中心である。人はいつまでも生きられないことへの感慨が深い。
78) 玉藻かる 敏馬を過ぎて 夏草の 野崎の埼に 船ちかづきぬ   柿本人麿(巻3・250)
・ 人麿の羇旅8首の一つである。いずれも船の旅であることが共通している。敏馬とは摂津武庫郡(今の灘区)の海岸、野崎は淡路の津名郡野島村である。「玉藻かる」は敏馬の枕詞、「夏草」は淡路の枕詞。二つの地名を挟んで「船ちかずきぬ」と距離感が具体的である。
79) 稲日野も 行き過ぎがてに 思へれば 心恋しき 可古の島見ゆ   柿本人麿(巻3・253)
・ 稲日野は播磨の印南郡の加古川の流域である。可古の島は現在の高砂町辺りである。この船の旅は播磨国印南から可古島へ向かう西から東への旅である。「行き過ぎがてに」はなかなか通り過ぎることが出来なくてという旅の難儀の気持ちである。
80) ともしびの 明石大門に 入らむ日や 榜ぎ別れなむ 家のあたり見ず   柿本人麿(巻3・254)
・ 難波から西へ向かう船旅の歌である。「ともしび」は明石に係る枕詞。明石大門辺りまでくると、もう大和の山々ともお別れであるという意味。歌柄の極めて大きいもので、詠嘆の言葉なしに「家のあたり見ず」とくくった手法は敬服すべきであるという。
81) 天ざかる 夷の長路ゆ 恋い来れば 明石の門より 倭島見ゆ   柿本人麿(巻3・255)
・ この歌は西から東へ戻る船旅の歌である。遠い西の国からの長旅で、都を恋い慕って帰る船で明石の大門辺りまでくると、もう向こうに大和の山が見える。人麿一流の声調で強く大きく豊かにに歌い上げた。「恋来れば」が唯一の主観御である。往きは「見ず」、帰りは「見ゆ」で、気持ち次第で見えなかったり、見えたりする。感情の綾であろうか。
82) 矢釣山 木立も見えず 降り乱る 雪に驟く 朝たぬしも   柿本人麿(巻3・262)
・ 人麿が新田部皇子に奉った長歌の反歌で、後半の句に難しい言葉が二つある。「驟く(うくつく)」とは馬を威勢よく入らせること、「たぬしも」は楽しもという意味である。上半分の句は平明である。矢釣山は高市郡八釣村であろう。人麿らしい出来のいい作品である。結句の「朝たぬしも」の意味であるが、雪の日は早朝におくれないで馬を勢いよく走らせて、伺候すべきという儀を考えるといい。ただし「雪にうくづきまいり来らくも」と訓む人もいる。
83) もののふの 八十うじ河の 網代木に いさよう波の ゆくえ知らずも   柿本人麿(巻3・264)
・ 「もののふの 八十うじ」は物部氏に氏が多いことを宇治川にかける序詞である。直線的でのびのびした調べの歌である。歌には意味の部分が後半の句に来て、前半の句に装飾的声調的序詞で豊かな言葉の世界を構成する技巧がある。だから意味を取るには前半の序詞を飛ばして読む方が混乱が少なくていい。すると歌はあまりに単純で、きれいとか悲しいとかにつきることがある。同じ言葉を何回も繰り返す哀韻は幾度も吟誦して心に伝わるものである。分かりやすいだけが歌ではない。斎藤氏はこの歌を人麿一代の傑作という。
84) 苦しくも 降りくる雨か 神が埼 狭野のわたりに 家もあらなくに   長奥麻呂(巻3・265)
・ 神が埼とは紀伊国牟婁郡の海岸であり、狭野(佐野)は素の西南方にあり、いずれも今は新宮市に編入されている。「わたり」は「渡し場」である。「苦しくも降り来る雨か」の本歌の本質がある。「なんと陰鬱な」と詠嘆する様子が分かる。古来、万葉の秀歌として評価の高い歌である。後代の定家のような空想的模倣歌ではなく、あくまで実地での写生歌に徹している。
85) 淡海の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 心もしぬに いにしへ思ほゆ   柿本人麿(巻3・266)
・ 人麿の代表歌の一つであるが、近江旧都回顧の歌と同時の作かどうか不明である。「夕浪千鳥」は古代からの定型句のひとつである。下の句「心もしぬに いにしへ思ほゆ」が歌の本質である。真から心が萎れて、昔の栄華が偲ばれる。「汝が鳴けば」はこの歌の転調点となり、後半の沈厚な趣に導かれる。
86) むささびは 木ぬれ求むと あしひきの 山の猟夫に あひにけるかも   志貴皇子(巻3・267)
・ 「木ぬれ」はこずえ梢のこと、「山の猟夫にあひにけるかも」は猟師につかまってしまうという意味である。歌の意があまりに単純で、まさか動物に対する憐みではなかろうとすることから、寓意が取りざたされてきた。「高望みをすると失敗をする」という寓意である。志貴皇子の人生観と感傷というレベルで鑑賞べきと斎藤氏は言う。
87) 旅にして もの恋しさに 山下の 赤のそほ船 沖に榜ぎ見ゆ   高市黒人(巻3・270)
・ 「山下」は紅葉が美しいことから、赤の枕詞に使っている。「そほ」とは赤赭土から朱にたる鉄分を含む塗料のことである。前の句「旅にして もの恋しさに」がこの歌の契機であり全てである。後半の句は写生である。赤い塗料を塗った船が都を目指して通って行く。羇旅の歌の常套手段である。黒人の歌は具象的で写象は鮮明であるが、人麿ほどの切実さはない、通俗と言ってもよい。
88) 桜田へ 鶴鳴きわたる 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴きわたる   高市黒人(巻3・271)
・「桜田」は尾張国愛知郡作良郷(今の熱田)、「年魚市(あゆち)潟」は愛知郡阿伊智(今の熱田南方の海岸一帯)である。陸から桜田の海岸に向かって鶴が群れて通ってゆく様を写生している。潮干になって餌を求めて渡ってくるのである。地名が二つ、桜田と年魚市潟、そして「鶴鳴きわたる」が繰り返されているので、内容はほとんど単純である。だからこそ高古の響きをもつのである。
89) 何処にか 吾は宿らむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば   高市黒人(巻3・275)
・ 「高島の勝野」とは近江高島郡三山の内、いまの大溝町である。黒人の羇旅の歌8首は場所を変えその都度詠まれている。日も暮れたので今日は何処に宿ろうかなという程度の自然的詠歌である。事件性や感傷性は強くない。
90) 疾く来ても 見てましものを 山城の 高の槻村 散りにけるかも   高市黒人(巻3・277)
・ 「山城の高槻村」は山城国綴喜郡多賀郷という説がある。早く来て見たかった山城の高という村の槻の林の黄葉も散ってしまったというのが詠嘆歌の本意である。「高い槻の木」という意味を持たせているようだ。
91) 此処にして 家やもいずく 白雲の 棚引く山を 越えて来にけり   石上卿(巻3・287)
・ 持統天皇が志賀に行幸あったとき、石上卿が作られた歌である。左大臣石上麻呂かもしれない。天皇が元正天王であったなら石上豊庭説が有力になる。思えば遠くに来たものだという感情を直線的に言い下している。
92) 昼見れど 飽かぬ田児の浦 大王の みことかしこみ 夜見つるかも   田口益人(巻3・297)
・ 田口益人が上野国司となって赴任する途上、駿河国浄見崎を通過したときの歌である。浄見崎は廬原郡あたりの海岸で、今の興津浄見寺だという。田子の浦は今は富士群だが、昔の廬原郡にもかかる広い範囲の海岸であった。なぜ昼に見ないで夜になったかというと宿の間隔と工程上の理由である。上古の田子の浦の考証では「薩?峠東麓から、由比、蒲原を経て吹上浜に至る弓状をなす入江を上代の田子浦とする」トウ説がある。
93) 田児の浦ゆ うち出でて見れば 眞白にぞ 不尽の高嶺に 雪は降りける   山部赤人(巻3・318)
・ 山部赤人が富士山を詠んだ長かの反歌である。「田児の浦ゆ」の「ゆ」はよりという経緯を示す言葉である。古来叙景歌の絶唱と称せられ、赤人の最高傑作である。見た位置は、田子の浦の中である。
94) あおによし 寧楽の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛なり   小野老(巻3・328)
・ 大伴旅人が太宰師であったころ、その部下として太宰少弐小野老朝臣であった頃の作である。天平の寧楽の都の繁栄を謳歌して、直線的に豪も滞るところはなかった。内容は複雑であろうがそれは考慮せずに、宏大な気分だけを現した、傑作である。
95) わが盛 また変若めやも ほとほとに 寧楽の京を 見ずかなりけむ   大伴旅人(巻3・331)
・ 太宰師大伴旅人が筑紫大宰府にて詠める歌。旅人63歳ころの作品。のち大納言となって帰京し、67歳で没した。「変若(おち)め」とは若返ることで、前の句で吾が若い盛りが再び戻ってくることがあるだろうか。それは叶わぬことだと言い切っている。辺土に居れば、寧楽都をも見ないでしまうだろう。自在な作風は思想的抒情詩を開拓していったが、歌は明快であった。その分深みが少ない。昔見た吉野の
96) わが命も 常にあらぬか 昔見し 象の小河を 行きて見むため   大伴旅人(巻3・332)
・ 昔見た吉野の象の小河を見るためにも、長生きしたいものだという。「か」は疑問の助詞だが、希う心がある為である。
97) しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて いまだは着ねど 暖けく見ゆ   沙弥満誓(巻3・336)
・ 沙弥満誓は笠朝臣麻呂で在家出家して満誓となった。筑紫の観音寺を造営したことが続日本記に見える。仏教的観相の歌より、この率直な平易な歌の方が一段上であるとされる。「綿」は「真綿(絹)」のこと。「しらぬひ」は筑紫に係る枕詞。
98) 憶良等は 今は罷らむ 子哭くらむ その彼の母も 吾を待つらむぞ   山上憶良(巻3・337)
・ 山上憶良は遣唐使に従い少録として渡海し、帰ってきてから筑前守となる。筑前守時代の宴会を退出する時の挨拶歌である。子供も女房も泣いているから早く帰ろうという諧謔歌である。憶良は斎藤氏によれば、漢文の素養はあるが、万葉短歌の上代語の声調の理解が乏しく、とつとつとして流れないと批判的である。憶良は明治以降に生活の歌人として評価が高まったし、人間的な実のある歌人であるとされた。この歌はやはり憶良の傑作であろう。
99) 験なき 物を思はずは 一杯の 濁れる酒を  飲むべくあるらし   大伴旅人(巻3・338)
・ 太宰師大伴旅人の「酒を讃むる歌」13首のひとつである。「思はずは」は「思わないで」という意味である。「は」は詠嘆の助詞である。詰まらないことにくよくよせずに、まあ一杯の濁り酒を飲め。この一句は談話言葉による歌である。13首の酒の歌の内、この歌を茂吉は第一にあげる。他の12首の歌を参考に掲載している。思想的抒情詩の分野の歌集である。酒のみの屁理屈集である。
100) 武庫の浦を 榜ぎ回む小舟 粟島を 背向に見つつ ともしき小舟   山部赤人(巻3・358)
・ 武庫浦とは武庫川河口のことで今の神戸市である。「粟島」は淡路島の小島の一つだろうと推測される。「背向に」とは横斜めのことである。「ともしき」とは羨ましいという意味で、見方を変えて小舟を2回繰り返してきれいにまとめている。赤人は場所は違うが同じような情景の歌6首を作り、他5首が参考歌として掲載している。
101) 吉野なる 夏実の河の 川淀に 鴨ぞ鳴くなる 山かげにして   湯原王(巻3・375)
・ 湯原王(志貴皇子の第2皇子)が吉野で作られた御歌である。「夏実川」は吉野川の一部で、宮滝の上流にある。結句の「山陰にして」は作者の感慨が集中した言葉である。静かなところだと言いたいのであろうか。従来よりこの歌は叙景歌の極めつけのように言われてきた。カの発音が多い(河、川、鴨、かげ)こと、「なる」が2回使われ、平易な歌にリズムを作っている。
102) 輕の池の 浦回行きめぐる 鴨すらに 玉藻のうへに 独り宿なくに   紀皇女(巻3・390)
・ 紀皇女(天武天皇皇女で穂積皇子の姉)の御歌である。平易な歌で比喩歌で、鴨に寄せて自分の心情を吐露したものである。一説に皇女の恋人の高安王が伊予に左遷された時の歌であろうとされる。
103) 陸奥の 真野の草原 遠けども 面影にして 見ゆとふものを   笠女郎(巻3・396)
・ 笠女郎が大伴家持に贈った歌3首のひとつ。比喩歌で、陸奥の真野は遠いけれども面影にして見えてくるものを、あなたはちっともやって来ないという女の愚痴だという読み方と、「陸奥の真野の草原」までは遠いに係る序詞として、あなたに遠く離れていても、面影は浮かんできますという女のいじらしさと読むこともできる。さてどちらでしょうか。本人に聞いても口を濁して曖昧な事しか言わないもの。
104) 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ   大津皇子(巻3・416)
・ 大津の皇子が謀反の罪で死を賜った時、磐余の池のほとりで、涙を流して読まれた歌と題詞に書いてある。時に24歳であった。妃山辺皇女は髪を洗ったのち殉死したという。「百伝ふ」は五十(い)そして磐余にかかる枕詞になった。磐余の池に鳴く鴨の姿を見るのも今日限りで私は死ぬという意味である。この歌は全生命を託した語気に圧倒されるが、有馬皇子の御歌と同じように、万葉集中の傑作である。
105) 豊国の 鏡の山の 石戸立て 隠りにけらし 待てど来まさぬ   手持女王(巻3・418)
・ この歌と次の歌の2首は、太宰師だった河内王を豊前国鏡山(田川郡鏡山)に葬ったとき、手持女王が詠まれた歌である。女性の語気が自然に出ている挽歌である。事実を淡々と述べて、結句「待てど来まさぬ」で哀惜の情がほとばしり出ている。「石戸」とは石棺の安置された石郭の入り口である。
106) 石戸破る 手力もがも 手弱き 女にしあれば 術の知らなくに   手持女王(巻3・419)
・ 前の歌と同じ心境であるが、再生を表現する古事記の天の岩戸神話の話を借用されている。
107) 八雲さす 出雲の子等が 黒髪は 吉野の川の 奥になずさふ   柿本人麿(巻3・430)
・ 出雲娘子が吉野川で溺死した。火葬に付した後、柿本人麿が詠んだ歌。人麿と出雲娘子の関係は不詳である。「八雲さす」は出雲にかかる枕詞。「等」は複数ではなく、親しみの詞。「オッフェリア」と同じく、女の水死者の髪が揺蕩うさまは美しくもあり、人麿は真心こめて追悼しているのである。
108) われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城処   山部赤人(巻3・432)
・ 山部赤人が下総葛飾の真間の娘子(真間の手児奈)の墓をみて詠んだ長歌の反歌である。「手児名」は処女のこと。歌枕としての「真間の手児奈の墓」を解説する下の句は淡々としたそっけないものであるが、上の句の「われも見つ 人にも告げむ」は赤人の同情が現れている。
109) 吾妹子が 見し鞆の浦の 室の木は 常世にあれど 見し人ぞ亡き   大伴旅人(巻3・446)
・ 太宰師大伴旅人が、大納言を拝命して京へ還るとき、備後鞆の浦を過ぎて詠んだ3首の歌である。「室の木」とは「杜松」である。鞆の浦の室の木はいつまでもあるが、大宰府赴任の旅で妻と一緒に見た大木も、還りの旅では妻は任地で亡くなり、自分ひとりで見ることになった。吾妹子と見し人は同じ人である。
110) 妹と来し 敏馬の埼を 還るさに 独りして見れば 涙ぐましも   大伴旅人(巻3・449)
・ 第2首はさらに進んで摂津の敏馬(みるめ)の埼を過ぎて詠んだ歌である。「涙ぐましの」という句はこの時代に初めて使用された。歌全体は淡々と進むが巧まずして最後に悲哀がどっと出てくる。
111) 妹として 二人作りし 吾が山斎は 木高く繁く なりにけるかも   大伴旅人(巻3・452)
・ 大伴旅人が都に着いて、わが家を見て詠じた歌である。「山斎(しま)」は庭のこと。都にいない間に、妻と二人して植えた庭の木は大きく茂っていた。単純明快のうちに尽きぬ感慨がこもっている。旅人の感慨が概ね直線的で太いからであろう。
112) あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 吾が大君かも   大伴家持(巻3・477)
・ 安積皇子が17歳で崩じられた時、内舎人であった大伴家持が作った挽歌である。満山の光るまでに咲き誇った花が一時に散ってしまったように、皇子は逝かれた。勉強家の家持はこの歌を作るほどに大成していた。


巻 4

113) 山の端に 味鳧群騒ぎ 行くなれど 吾はさぶしゑ 君にしあらねば   舒明天皇(巻4・486)
・ 歌の口吻は女性のものであるが、舒明天皇が女の気持になって歌ったものか、或は註には斉明天皇(女性)の御製かもしれないという疑問符がついている。「山の端に 味鳧群騒ぎ」は、「行く」に続く序詞で、君以外の人が多く行き来するが、そこには君がいないので寂しいという意味である。この序詞を実景としても意味が連続して流れる。
114) 君待つと 吾が恋ひ居れば 吾が屋戸の 簾うごかし 秋の風吹く   額田王(巻4・488)
・ 額田王が天智天皇を思うて詠まれた歌である。だから近江京での作である。風が吹くのは恋人が来る前兆だという女性らしい信仰があって、巧まずしてこまやかな情味のこもった歌となった。
115) 今更に 何をか念はむ うち靡き こころは君に 寄りにしものを   安倍郎女(巻4・505)
・ 「心はもうあなたのものだから、今さら何を思おうか」、あなた一筋よというまるで演歌のような女の歌である。安倍郎女の伝は不詳。
116) 大原の この市柴の 何時しかと 吾が念ふ妹に 今夜逢へるかも   志貴皇子(巻4・513)
・ 「大原のこの市柴の」は「いつしか」に係る序詞である。歌の本意は「いつか逢えると思うあなたに、今夜逢えるかも」ということである。
117) 庭に立つ 麻手刈り干し しき慕ぶ 東女を 忘れたまふな   常陸娘子(巻4・521)
・ 藤原宇合が常陸守として数年滞在して、任を解かれて都に帰る時、任地で慣れ親しんだ遊行女婦の一人が別れに詠んだ歌。「庭に立つ 麻手刈り干し」は「しき慕ぶ」に係る序詞であるが、そのままで意味がつながる。「東女を 忘れたまふな」とは現地妻の情味というか、凄みというか、いやはやたくましい女である。
118) ここにありて 筑紫やいずく 白雲の 棚引く山の 方にしあるらし   大伴旅人(巻4・574)
・ 大伴旅人が大納言となって帰京した。大宰府から僧になって残った沙弥満誓から見の寂しさを謳った諧謔の歌が都に届いた。旅人の歌は笑うことができない、真面目に答えて剽軽になれぬ太さがある。
119) 君に恋ひ いたも術なみ 平山の 小松が下に 立ち嘆くかも   笠郎女(巻4・593)
・ 笠郎女(伝不詳)が大伴家持に贈った24首の歌より2首を挙げる。「平山」は平城京の北にある寧楽山で松が生繁っていたところである。笠郎女は相当の才女と思われるが、更に文学の習練が必要であった。歌として解釈されるにはまだまだであるが、簡明素朴の万葉長が残っている。
120) 相念はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後に ぬかづく如し   笠郎女(巻4・608)
・ 上の歌と同じく笠郎女が大伴家持に贈った歌である。才気の勝った諧謔の歌である。心の通じない人を慕うのは、餓鬼絵に額づくようなものだと男を笑い飛ばしている。この「唐変木」めと痛罵している。
121) 沖へ行き 辺に行き今や 妹がため 吾漁れる 藻臥束鮒   高安王(巻4・625)
・ 高安王(大原真人)が鮒の土産を娘に暮れた時の歌である。「沖へ行き 辺に行き」と調子のいい掛詞を発した歌謡である。束鮒とは一握りほど(二寸)の大きさの鮒のこと。結句「藻臥束鮒」の語呂がいいので選んだと茂吉は言う。
122) 月読の 光に来ませ あしひきの 山を隔てて 遠からなくに   高安王(巻4・670)
・ 女のつもりで詠んだ高安王の歌。来るのは男、待つのは女が普通の構図だからである。高安王の歌は2首ともに実に軽い、実感もない。
123) 夕闇は 路たづたづし 月待ちて 行かせ吾背子 その間にも見む   大宅王(巻4・709)
・ 月が出ない夕闇は暗くて不安だ。月が出てからいらっしゃい、御逢いしましょうという女心である。
124) ひさかたの 雨の降る日を ただ独り 山辺に居れば 鬱せかりけり   大伴家持(巻4・769)
・ 大伴家持が、新都の久邇京に居て、旧都にいた紀女郎に贈った歌である。「ひさかた」は天(雨)に係る枕詞。歌調はのびやかで率直である。家持の優れた特徴である。


巻 5

125) 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり   大伴旅人(巻5・793)
・ 大伴旅人は大宰府において妻大伴郎女を亡くした。その時京より弔問がきたので、それに答えた歌を作った。世の無常を知る時、いままでよりますます悲しいという。「し」は強めの意味で、仏教の教えで人は無常であることは知っていたが、現実に自分の事として知ったという意味である。思想的抒情詩は難しいもので、誰も大伴旅人の程度を越えることはできない。この歌は一つの記念碑となったという。
126) 悔しかも 斯く知らませば あおによし 国内ことごと 見せましものを   山上憶良(巻5・797)
・ 大伴旅人の妻が亡くなった時、筑前国守山上憶良は「日本挽歌」(長歌1首反歌5首)を作って大伴旅人に贈った。旅人の心になりきって詠んだ歌である。このように妻が無くなることを知っていたならば、筑紫国の隅々を見せてあげておけばよかった。それをしなくて悔しいという気持ちを、旅人に代わって憶良が詠んだ。「悔しかも」という主観の詞を冒頭に持ってくることは万葉集にはなかった。これはむしろ新古今和歌集時代の手法である。憶良の訥々とした語調が伝って、流ちょうに流れるのを防いでいる。
127) 妹が見し 棟の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに   山上憶良(巻5・798)
・ 前の歌の続きである。「棟(おうち)」は栴檀のことで、初夏のころ薄紫の花を咲かせる。妻が死んで涙の乾かない間に、妻が庭に植えた栴檀の花は散ってしまった。逝く歳月の速さにただ驚くばかりであるという意味である。茂吉はこの歌を切実の響きが少ないと批判する。従来から万葉集中の秀歌として名高いこの歌をただ分かりやすいかっただけのことであると切り捨てる。憶良は伝統的な日本語の響きに合体できなかったと結論した。
128) 大野山 霧たちわたる 我が嘆く 息嘯の風に 霧たちわたる   山上憶良(巻5・799)
・ この歌も前の挽歌の続きである。「大野山」は筑紫大宰府近くの山である。息嘯(おきそ)は「おきうそぶく」のことで、「嘆きの息嘯」とは「嘆く長大息(ふかいためいき)」という意味になる。深く長い溜息のために、風が巻き起こり霧が発生するという。「霧たちわたる」を二度使うことで、大野山に霧が立ち渡るのは私の吐く長い溜息のせいであるということになる。線も太く、能動的であるが、人麿の歌の声調ほどの響きがないと茂吉の批評は厳しい。
129) ひさかたの 天道は遠し なほなほに 家に帰りて 業を為まさに   山上憶良(巻5・801)
・ 山上憶良は両親と妻子を軽んじる男を諭すため、「感情を反さしむる歌」を作った。反歌がこの歌である。道徳家である。「おまえは青雲の志を抱いて天に登るつもりらしいが、その道は遼遠である。それより率直に家に帰って家業に従事しなさい」という意味である。儒教精神は実生活の常識であるという道徳観の中で、この歌は窮屈だという。漢文調が好きな憶良らしさ歌で特殊な位置を占める。しかし万葉長にはなじまないというのが茂吉の憶良観である。
130) 銀も 金も玉も なにせむに まされる宝 子に如かめやも   山上憶良(巻5・803)
・ 憶良は「子等を思う歌」長歌反歌を作った。長歌は憶良の歌として第1級の作品である。歌と憶良の信条が一体化している。ここにあげた反歌は憶良の価値観を総括した。又仏典から新しい語感を持つ言葉をもって堅苦しいまでに仕上げている。
131) 常知らぬ 道の長路を くれぐれにと 如何にか行かむ 糧手は無しに   山上憶良(巻5・888)
・ 肥後国益城郡に大伴君熊凝という若者が、相撲部領使いの従者として都に向かう途中、安芸国高庭駅で病死した。18歳であった。詞書には、死にのぞんだ彼の心境を山上憶良が歌にしたと書かれてる。6首のうちの一つである。「かって知らなかった黄泉の国への長い道を、おぼつかなくも心悲しく、糧米も持たずにどう行けばいいのだろうか」という意味である。
132) 世間を 憂しと恥しと 思えども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば  山上憶良(巻5・893)
・ 万葉集の中で特異な位置を占める憶良の「貧窮問答歌」の反歌である。「やさし」は「恥ずかし」という意味である。反歌は長歌の総括的役割であった。一首の意味は「吾々は世間が辛いとか恥ずかしいとか言ってみたところで、鳥のように飛んでどこかへゆけるわけではない」という。筑紫国守でもあった憶良が貧しい生活をしていることはないのだから、実生活を表現するというより、観念歌から出発している。そして憶良の長歌には中国の出典を見つけることができる。
133) 慰むる 心はなしに 雲隠り 鳴き行く鳥の 哭のみし泣かゆ  山上憶良(巻5・898)
・ 老病のために苦しんでいても慰める手段もなく、雲隠れして鳴く鳥のように、一人忍び泣きをするばかりですという意味だ。観念歌であることは分っているが、なぜか悲しい響きが漂うので心が惹かれると茂吉は評している。
134) 術もなく 苦しくあれば 出でて走り 去ななと思へど 児等に障りぬ  山上憶良(巻5・899)
・ もう手段も尽きて、苦しくて仕方がないので走り出して自殺しようと思うのだが、子どものことを思うとそれもできない問意味である。観念歌でも概括的に言わないで具体的に言うのでリアリティがある。朴訥とした調べは憶良独特のものであり共感を生むのである。万葉集の時代にこれだけの材料を使いこなす力量はやはり群を抜いている。
135) 稚ければ 道行き知らじ 幣はせむ 黄泉の使い 負ひて通らせ  山上憶良(巻5・905)
・ 「男子 古日を恋ふる歌」 註には作者は不明だが、憶良の作と言ってもいいだろうとする。この死んでゆく幼子は冥途への道も知らない。冥途の番人よ、お礼はするから、この子を背負って通してやってくれという意味である。仏教的内容をぼつぼつと語る憶良の語り口は妙に具体的で、説得力があル、それが憶良の強みである。
136) 布施置きて 吾は乞ひ祷む 欺かず 直に率行きて 天路知らしめ  山上憶良(巻5・906)
・ この歌も前の歌と同じ趣旨の歌で、布施は仏教語で捧げものという意味で、前の歌の「幣」と同じである。ただ「黄泉」は使わず「天路」という言葉を使用する。どちらも死者の往く道であるが、「天路」は日本的表現である。「欺かず直に率行きて」は妙に諧謔的である。地獄の沙汰も金次第ではなかろうが、子供への哀惜がそう言わしめたのであろう。


巻 6

137) 山高み 白木綿花に 落ちたぎつ 滝の河内は 見れど飽かぬかも  笠金村(巻6・909)
・ 元正天皇吉野離宮に行幸あった時、従駕の笠金村が作った長歌の反歌である。「白木綿花」とは栲(たえ)の川から作った白布である。その白布のように落ちる滝の状況を謳っている。「山高み白木綿花に」までは序詞と見てよい。「河内」は地名ではなく、河川敷を含めた川を遶る土地をさす。結句「見れど飽かぬかも」は万葉集の常套詞である。この歌は華朗で荘重に作っているが、類型的、図案的で人麿からの借り物が多い。人麿の語句、朗々とし荘重な歌調は万葉の伝統であった。
138) 奥つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠れゆかば 思ほえむかも  山部赤人(巻6・918)
・ 聖武天皇が紀伊国に行幸された時、従駕の山辺赤人が作った長歌の反歌である。「奥つ島」とは此処では玉津島のことである。潮が満ちて荒磯の玉藻が水面下に隠れてしまって、心残りがするという意味である。歌の内容としては何の変哲もない「ごますり歌」である。
139) 若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 蘆辺をさして 鶴鳴き渡る  山部赤人(巻6・919)
・ 前の歌の続きである。「若の浦」とは今は和歌の浦と書くが、弱浜とも書いた。若の浦に潮が満ちてくると干潟が無くなり、鶴は陸地の蘆辺を目指して鳴き渡るという意味である。写生像が鮮明でうまい歌である。「潮満ち来れば潟を無み」が説明的言わずもがなの感がある。高市黒人はこの歌に先行する同じ情景の歌で「潟を無み」は使わず、「鶴鳴き渡る」を2回繰り返している。黒人の歌の模倣といわれてもしかたないが、この歌は叙景歌の極みとして通俗化された。
140) み芳野の 象山の際の 木末には 幾許も騒ぐ 鳥のこゑかも  山部赤人(巻6・924)
・ 聖武天皇が紀伊国に行幸された時、従駕の山辺赤人が作った歌の続きである。「象山」は吉野離宮の近くの山である。一首の歌の意味は「芳野の象山の木立の繁みには、実にたくさんの鳥が鳴いている」というだけの中身の少ない歌である。「幾許(ここだ)」という強めの副詞が特徴的である。
141) ぬばたま 夜の深けぬれば 久木生うる 清き河原に 千鳥しば鳴く  山部赤人(巻6・925)
・ 「ぬばたま」は夜にかかる枕詞、「久木」とは歴木とも書き赤目柏である。夜景で河原で鳴く千鳥が主役のたわいもない歌である。実景として見たかどうかも怪しい。夜ー久木ー清きー千鳥の写像の流れで歌っている。分かりやすいスケッチ映像で統一されている。
142) 島隠り 吾が榜ぎ来れば 羨しかも 大和へのぼる 真熊野の船  山部赤人(巻6・944)
・ 山部赤人が播磨国室津の沖にある辛荷島を過ぎて詠んだ長歌の反歌である。山部赤人の乗った船は大和から西に向かっていたのだろう。熊野は木材の宝庫であり、その材で作った船を真熊野船といった。歌の真ん中で「羨しかも」が効果的に存在し、まるで東西する船が交差するように、西に下る船の人がが東の大和に上る船の人を羨んだ様子が図解されるようである。
143) 風吹けば 浪か立たむと 伺候に 都多の細江に 浦隠り居り  山部赤人(巻6・945)
・ 前の作の続きである。この風で浪が荒くなるだろうと様子見をしながら、都多の細江の河口に船を寄せて隠れているのである。「伺候(さもろふ)」とは様子を伺うことである。「都多の細江」とは姫路の西南の津田あたりである。羇旅の苦しさは歌の常套手段で、むしろ冷静に旅を楽しんでいるようだ。赤人をもって叙景歌人の最右翼としたのもうなずける。赤人の歌は激情を排し、しずかに落ち着いて物を見ていることに感心させられる。
144) ますらをと 思へる吾や 水茎の 水城のうへに 涙拭はむ   大伴旅人(巻6・968)
・ 大伴旅人が大納言を牽引して大和に還るとき、多くの見送人のなかに児島という遊行女婦が歌を贈って別れを惜しんだ。旅人の歌はそれに応えたものである。「水茎の」は「水城」に係る枕詞。自分はますらおと自任しても、お前との別れがつらく、水城のうえに涙を落としている。諧謔の歌に分類されそうであるが、決して軽薄ではなくしっとりした情緒を演出している。
145) 千万の 軍なりとも 言挙げせず 取りて来ぬべき 男とぞ念ふ   高橋虫麿(巻6・972)
・ 藤原宇合(不比等の子)が西海道節度使(西方面師団)になって赴任する時、高橋虫麿の詠んだ歌。「言挙げせず」は不言実行の精神である。命を受けたら、あれこれいわずに、直ちに敵を討って取ってくるのが男だという意味である。この歌は調べを強くして、武将を送るにふさわしい声調を出している。茂吉はこれを万葉調の神髄だというが、もうそれはないと嘆いている。
146) 丈夫の 行くとふ道ぞ 凡ろかに 念いて行くな 丈夫の伴   聖武天皇(巻6・974)
・ 聖武天皇の御製。唐の制度に倣って節度使の制を敷いた。四道(東海、東山、山陰、西海の方面軍)の常駐軍制度となった。任地に赴く節度使に与えた聖武天皇の歌である。ますらおたちよ、夢おろそかに思わず大任を果たせという意味である。
147) 士やも 空しかるべき 萬代に 語りつぐべき 名は立てずして   山上憶良(巻6・978)
・ 山上憶良が病に臥した時、藤原朝臣八束が河辺朝臣東人を使として、病を問うたことへ答える歌である。丈夫として後の代に伝えられるような名を立てないで死ぬのは残念だという意味である。中国の思想として歴史に名を記されることが最大の名誉とされた。歌としては大づかみで感慨は少ないのはやむを得ない。
148) 振り仰けて 若月見れば 一目見し 人の眉引き おもほゆるかも   大伴家持(巻6・994)
・ 大伴家持の作った「三日月(若月)の歌」である。三日月は一目見た美人の眉引きの様だというたわいもない歌である。
149) 御民われ 生ける験あり 天地の栄える時に 遭へらく思えば   海犬養岡麿(巻6・996)
・ 海犬養岡麿が詔に応えたうたである。こうした政治色の強い歌は、おうおう天皇が気持ちよくなるだけが目的の「ごますり歌」に堕して、無内容な歌になる。それでも歌にするにはそれなりの力量が要求される。万葉前半期には耐える力量を持つ歌人がいたが、後半期には存在しない。
150) 児等しあらば 二人聞かむを 沖つ渚に 鳴くなる鶴の 暁の声   守部王(巻6・1000)
・ 聖武天皇が難波宮に行幸あった時、守部王(舎人親王の子)が応えた歌である。歌の内容はさしたることもないのだが、茂吉はこの歌が後世新古今和歌集時代の「名詞止めの歌調」の先駆けを為すからだという。結句を「暁の声」で締めている。上代の古調歌にはない名詞止めの歌であるからだ。


巻 7

151) 春日山 おして照らせる この月は 妹が庭にも 清けかりけり   作者不詳(巻7・1074)
・ 作者不詳の民謡調の歌である。「この」は「現に今」という限定の意味である。春日山一体を照らしている月明かりは、妹の家にも現に清く照らしているという意味である。のびのびした濁りのない歌は、「妹が庭にも 清けかりけり」という結句で個別的、具体性を帯びるのである。
152) 海原の 道遠みかも 月読の 明少なき 夜はふけつつ   作者不詳(巻7・1075)
・ 海岸に居て、夜更けに上った月は光りが清明ではなくいくらか霞んでいるように見える。光が海原をはるばると通ってくるためだろうか。主観的にそう思うだけなのか、海上の水分を含んだ空気の為なのか、それは云々していない。
153) 痛足河 河浪立ちぬ 巻目の 由槻が岳に 雲立てるらし   柿本人麿歌集(巻7・1087)
・ 痛足河(あなしがわ)は大和纏向村にある、今の巻向川のことである。巻目(まきむく)ともいう。「由槻が岳」は巻向山の高い一峰である。痛足河に浪が立っている。おそらく由槻が岳に雲が立ち雨が降っているのだろうという意味である。「河浪立ちぬ」と「雲立てるらし」の繰り返しにそれほど違和感がない。固有名詞を三つ並べても荘重な響きを保てるのは人麿の作であろうと推測される。
154) あしひきの 山河の瀬の 響るなべに 弓月が岳に 雲立ち渡る   柿本人麿歌集(巻7・1088)
・ 前の歌をそのまま引き継いだ歌である。「山川」とは「痛足河」のことであり、「弓月が岳」とは「由槻が岳」のことである。違う点は中間の「なべに」という言葉である。共に、連れてという意味である。ふたつの自然現象(川浪が立つことと、岳の上に雲が立つという事)をそのままさながらに表現した写生の極地というべき作品である。山が雲で隠れる時にはすでに山には雨が降っている、そしてその結果川の水量が増え波立つのである
155) 大海に 島もあらなくに 海原の たゆたふ浪に 立てる白雲   作者不詳(巻7・1089)
・ 持統天皇が伊勢に行幸されたとき、従者が詠んだ歌と推測される。大海には山を持つ島は一つもないのに、たゆとう海上の波には白雲が立っているという意味である。この海原の自然現象をここまで大きく歌うことができるのは人麿クラスの歌人であろう。
156) 御室斎く 三輪山見れば 隠口の 初瀬の檜原 おもほゆるかも   作者不詳(巻7・1095)
・ 「御室斎く」は神を祀る社がある」という意味で、三輪山に係る枕詞である。「隠口の」は山で囲まれた地勢を示し「初瀬」の枕詞である。三輪山の檜原を見ると初瀬の檜原を思い出すという。鬱蒼とした檜の山林は神聖な場所と古代人には映ったのである。
157) ぬばたまの 夜去り来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き   柿本人麿歌集(巻7・1101)
・ 夜になると、巻向川の川音が高くなった。多分嵐が強いのだろうという意味である。単純な内容だが、前の歌と同様に流動的で調子が強い。結句の「嵐かも疾き」で強く締まっている。結語が「疾き」という二語で終わるのは万葉集でも珍しい。「独りかも寝む」などがある。人麿を彷彿とさせる歌である。
158) いにしえに ありけむ人も 吾が如か 三輪の檜原に 挿頭折りけむ   柿本人麿歌集(巻7・1118)
・ 今の吾にのように、昔の人も三輪の檜原に入って挿頭を折ったのだろうか。品が佳く情味のある歌である。昔の人は何の木でも小枝を折って頭に刺した。
159) 山の際に 渡る秋沙の 行きて居む その河の瀬に 浪立つなゆめ   作者不詳(巻7・1122)
・ 「秋沙」とは鴨の一種で小鴨といった。山際を飛ぶ小鴨が川に宿るだろう。その川に浪を立てないでくれという意味である。小鴨に愛情が集中して、妙に象徴的な意味合いを持ってくる。近代歌としても通用する。
160) 宇治川を 船渡せと 喚ばえども 聞こえざるらし 楫の音もせず   作者不詳(巻7・1138)
・ 山城の宇治川で作られた歌。宇治川の岸に来て、船を渡せと叫んでも、漕いでくる楫の音もしない。宇治川の急流を前にして、大きさを感じさせる歌である。
161) しなが鳥 猪名野を来れば 有馬山 夕霧立ちぬ 宿は無くして   作者不詳(巻7・1140)
・ 「しなが鳥」とは猪名に係る枕詞。しなが鳥は鳰とりのことで、「しなが鳥居並ぶ」の「居」と「猪」が同音なので、猪名野の枕詞になった。猪名野は摂津猪名川流域の平野である。「有馬山」は有馬温泉のあるあたりである。猪名野に来ると有馬山に夕霧が出ている。さて困った野宿はできないしという意味になる。
162) 家にして 吾は恋ひなむ 印南野の 浅茅が上に 照りし月夜を    作者不詳(巻7・1179)
・ この歌は旅先で詠んだ歌か、家に戻ってから読んだ歌か議論のあるところだ。この本では羇旅で詠んだことになっている。印南野は「いなみぬ」と読む。とすれば印象がかなり鮮烈で、この景色はきっと思い出すことになると予感した歌のようである。
163) たまくしげ 見諸戸山を 行きしかば 面白くして いにしえ念ほゆ    作者不詳(巻7・1240)
・ 「見諸戸山」とは後室処山」すなわち三輪山のことである。「たまくしげ」は三輪山に係る枕詞で、「面白く」は感深いという意味である。三輪山の風景が佳くて神々しく感じられるので、神代のことも思われるという意味である。
164) 暁と 夜烏鳴けば この山上の 木末の上は いまだ静けし   作者不詳(巻7・1263)
・ 「山上」は「をか」または「みね」と読む。もう夜が明けたといって夜烏が鳴くけれど、岡の木立はまだひっそりとしている。還る男を引き留める女の心情かもしれない。万葉の歌はだいたい男女関係の歌と見た方が無難な場合が多い。
165) 巻向の 山辺とよみて 行く水の 水泡のごとし 世の人吾は   柿本人麿歌集(巻7・1269)
・ 妻を亡くして嘆き悲しむ人の歌であろう。人の人生は、巻向山の近くを音を立てて流れる川の水のようにはかないものであるという意味になる。仏教用語の無常の観念から生まれた歌ではなく、川のたぎつ流れを見てから出てきた表現であるという。
166) 春日すら 田に立ち疲る 君は哀しも 若草の 嬬なき君が 田に立ち疲る   柿本人麿歌集(巻7・1285)
・ この歌は短歌ではなく旋頭歌である。柿本人麿歌集には旋頭歌が23首ある中のひとつである。万葉集には旋頭歌は少なく、内容的には古歌歌謡(労働歌)を人麻呂が集めたともいわれる。
167) 冬ごもり 春の大野を 焼く人は 焼き足らねかも 吾が情熾く   作者不詳(巻7・1336)
・ 比喩歌で「草に寄する」というが、激しい恋心を謳う。「冬ごもり」は春の枕詞。私の胸が燃えて苦しいのは、あの大野を焼く人が焼き足らないで、私の心を焼くのかしらという意味である。恋心と春の野焼きが連想させられるが、「焼く」を3回繰り返すところに民謡風の軽いリズムが発生する。
168) 秋津野に 朝ゐる雲の 失せゆけば 昨日も今日も 亡き人念ほゆ   作者不詳(巻7・1406)
・ 熊野の秋津野(火葬場がある)に朝雲がなくなるたびに、昨日も今日も亡くなった人のことが思い出されるという意味である。挽歌としてとくに優れているわけではないが、「雲の失せゆけば」という言葉が哀愁を呼ぶのである。
169) 福の いかなる人か 黒髪の 白くなるまで 妹が音を聞く   作者不詳(巻7・1411)
・ 「福」は「さきはひ」と読む。自分の事は書いていないが、前提として、自分は早く恋しい妻を亡くしたが、白髪になるまで健やかで妻の声を聴ける人は幸せであるという意味になる。
170) 吾背子を 何処行かめと ささ竹の 背向に宿しく 今し悔しも   作者不詳(巻7・1412)
・ 「ささ竹の」は背向に係る枕詞。「何処行かめ」とは「あの世に行ってしまうとは」という意味である。私の夫が死んで行くなどとは思いもよらず、(生前にはつれなくも)背を向けて寝たりして、今となってはそんな自分が悔しい。


巻 8

171) 石激る 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも   志貴皇子(巻8・1418)
・ 「石激る」は「垂水」の枕詞であるが、意味が十分に伝わるので、形状を述べる言葉の形式化、様式化と見なし得る。「垂水」はあまり大きくない滝と理解される。巌の面を音たてて流れ落ちる滝のほとりには、もう蕨が萌え出ずる春となった。悦ばしい。志貴皇子の御歌は歌調が明朗・直線的で、荘重な歌である。「垂水 さ蕨」で「の」を3回連ねるリズムが素晴らしい。「春なりけるかも」で「に」をつらねる響きもまた良いものである。万葉集の「なりにけるかも」の用例は多いが、志貴皇子の御歌はけだし万葉集の傑作ともいえる。
172) 神奈備の 伊波瀬の杜の 喚子鳥 いたくな鳴きそ 吾が恋益る  鏡王女(巻8・1419)
・ 鏡王女は額田王の姉に当たり、始め天智天皇の寵愛を受け、藤原鎌足の正妻となった。つまり天智天皇のお古を鎌足が有り難くいただいたのである。これも臣たるもの政略であろう。神奈備とは龍田の神奈備で、龍田町の南の杜が伊波瀬の杜である。呼子鳥は閑古鳥である。神奈備の伊波瀬の杜に鳴く喚子鳥よ、そんなに鳴くな、私の恋心が増すばかりだからという意味である。時代は万葉前期に相当するので、そのころの純粋な響き・語気を伝えている。
173) うら靡く 春来たるらし 山の際の 遠き木末の 咲きゆく見れば   尾張連(巻8・1422)
・ 尾張連とあるが、伝不詳。山間の遠くまで続く木立には多くの花が咲いている。もう春になったのだ。花は山の麓から頂上へ向けて駆けあがってゆく様子である。華やいだ感慨がつたわる。
174) 春の野に 菫採みにと 来し吾ぞ 野をなつかしみ 一夜宿にける   山部赤人(巻8・1424)
・ 春の野に菫を採みに来た自分は、野を懐かしく思って一夜宿たという。恋愛歌とも受け取れる。赤人の歌は晴朗な響きのする歌である。万葉第一流の歌人といわれる。
175) 百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りし鶯 鳴きにけむかも   山部赤人(巻8・1431)
・ 是も赤人の歌である。百済野は大和北葛城郡百済村の原野である。冬がれた萩の木は相当高い木になったようだ。その枝に居て春を待つうぐいすが鳴き始めたようだ。あまり構えずに気品を以て居るのはさすが赤人の歌であるからだ。
176) 蛙鳴く 甘南備河に かげ見えて 今か咲くらむ 山吹の花   厚見王(巻8・1435)
・ 甘南備河は飛鳥川にしておく〈龍田川でもかまわない)。この歌が後世の新古今に載っているのは、この歌の中心をなす「かげ見えて」と「今か咲くらむ」が後世の詞の先取りであるからだ。軽い歌であるが、後世本歌として模倣されたのである。
177) 平常に 聞くは苦しき 喚子鳥 こゑなつかしき 時にはなりぬ   大伴坂上郎女(巻8・1447)
・ 大伴坂上郎女が佐保の自宅(大伴安麿)で詠んだ歌。普段は聞き苦しい声で鳴く閑古鳥も、春になると懐かしい聞かれる季節になった。季節の変化に敏感な女の心に触れている。「時にはなりぬ」に詠嘆がこもっている。
178) 波の上ゆ 見ゆる児島の 雲隠り あな気衝かし 相別れなば   笠金村(巻8・1454)
・ 遣唐使(多治比真人広成)が立つときに、笠金村が贈った長歌の反歌である。波の上の小島のように見えなくなってしまって、ああ息衝くことだ、別れは悲しいことだ。「あな気衝かし」とは、吐息をつくという感嘆詞を唯一使っている。
179) 神名火の 磐瀬の杜の ほととぎす ならしの岳に 何時か来鳴かむ   志貴皇子(巻8・1466)
・ 前の句で鏡王女が「神奈備の伊波瀬の杜の喚子鳥」を謳ったが、大伴家持は「神名火の磐瀬の杜のならしの丘の霍公鳥」を謳った。場所(竜田川)を同じくする、同じ構図の歌である。志貴皇子の歌はおおらかで、感傷の詞はないが独特の風格を感じさせるという。
180) 夏山の 木末の繁に ほととぎす 鳴き響むなる 声の遥けさ   大伴家持(巻8・1494)
・ 大伴家持の霍公鳥の歌は、夏木立の中で聴く、木立で反響した遥かな声であったという。「声の遥けさ」がこの歌の中心である。こだまする声の現実感がすばらしい。
181) 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝宿にけらしも   舒明天皇(巻8・1511)
・ 秋の雑歌で、舒明天皇の御製である。「小倉山」は山城嵐山ではなく、岡本宮に近くの山であろうか。夕方になるといつも小倉山で鳴く鹿が、今日は鳴かない。多分もう寝てしまったのかなという意味である。いつも妻を求めて鳴く鹿が、今日は妻を得て寝るという意味にもとれる。調べ高くしておおらかで、豊かにして弛まないこころを現している。「いねにけらしも」の一句は古今無上の結句だと茂吉は言う。素朴・直接・人間的・肉体的で後世こうして歌はなくなったという。茂吉はこの歌を万葉集中最高峰のひとつだという。えてして茂吉は天皇の御製を無条件に賛美するきらいがある。だから茂吉は天皇主義者と言われるのである。
182) 今朝の朝 雁がね聞きつ 春日山 もみじにけらし 吾こころ痛し   穂積皇子(巻8・1513)
・ 今朝雁の声を聴いた。もう春日山は黄葉したであろうか、身に染みて悲しいという歌である。痛切な心境を暗示させるのは、但馬皇女との関係があったのだろうか。
183) 秋の田の 穂田を雁がね 闇けくに 夜のほどろにも 鳴き渡るかも   聖武天皇(巻8・1539)
・ 「秋の田の穂田を刈る」は「が音」にかけている序詞である。暗闇の中で暁の天に向かう夜の雁を謳った。
184) 夕月夜 心も萎に 白露の 置くこの庭に 蟋蟀鳴くも   湯原王(巻8・1552)
・ 湯原王の蟋蟀の歌である。白露のおく庭で蟋蟀の声を聴くと心も萎れるというものである。
185) あしひきの 山の黄葉 今夜もか 浮かびゆくらむ 山川の瀬に   大伴書持(巻8・1587)
・ 大伴書持(ふみもち)は旅人の子で家持の弟にあたる。橘宿祢奈良麻呂の屋敷で宴をした時の歌である。山河の瀬に黄葉が浮かんで流れゆく写像である。「今夜もか浮かびゆくらむ」が本歌の中心をなす詠嘆詞である。山にしろ川にしろ固有名詞が一切ない普通名詞で扱うところが象徴の余地を大きくしている。万葉末期の移行時期の歌かもしれない。
186) 大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに   舎人娘子(巻8・1636)
・ 舎人娘子の伝は不詳だが、舎人皇子の従者だとすると持統天皇の宮女であったかもしれない。「大口」は「真神」に係る枕詞。真神の原は高市郡飛鳥にあった。贈答歌のように、ありのままに詠んで親愛の情のこもった歌である。
187) 沫雪の ほどろほどろに 零り重けば 平城の京師し 念ほゆるかも   大伴旅人(巻8・1639)
・ 「ほどろほどろに」は沫雪の形容で、形を成さない重くて消えやすい雪の様のことである。ほどろを2回繰り返すところにその様子が強められる。線の太い、直線的な歌い方は旅人の真骨頂である。哀感を感じさせない歌い方に共感を覚えるという。
188) 吾背子と 二人見ませば 幾許か この零る雪の 懽しからまし   光明皇后(巻8・1658)
・ 光明皇后が聖武天皇に贈られた歌である。光明皇后は藤原不比等の娘で皇后となられた。説明不要であろう。


巻 9

189) 巨椋の 入江響むなり 射部人の 伏見が田居に 雁渡るらし   柿本人麿歌集(巻9・1699)
・ 宇治川にて作れる歌2首のひとつである。「巨椋の入江」とは、山城久世郡の巨椋池のこと(今は干拓されて、ない)である。「射部人」は臥して矢を射ることから「伏見」の枕詞。巨椋の池の入り江に大きな音がする、これは雁の群れが伏見の田に向かって飛んでゆくからだという意味である。「入江響むなり」がこの歌の決定打となっている。古調の響きがいい。万葉集でもズバリ言い切る使い方は少ない。
190) さ夜中と 夜は深けぬらし 雁が音の 聞ゆる空に 月渡る見ゆ   柿本人麿歌集(巻9・1701)
・ 人麿が弓削皇子に奉った歌三首の一つである。「月渡る」は月が傾きかかることである。夜を2回繰り返し、夜がさらに更けてゆく様子を演出している。淡々と言い放つところに日本語の良さが見えるという。
191) うちたをり 多武の山霧 しげみかも 細川の瀬に 波の騒げる   柿本人麿歌集(巻9・1704)
・ 人麿が舎人皇子に奉った歌二首のひとつ。「うちたおり」とは「うちた折り撓む」から「多武(たむ)」の枕詞となった。多武峯は高市郡にある塔の峯、談山神社のある談山のことである。「細川」は飛鳥川の上流にある。多武の峯に雲霧がしげくかかっているのか、細川の瀬に浪がたち騒いでいる。鋭敏な感覚は人麿の特徴である。
192) 御食むかふ 南淵山の 巌には 落れる斑雪か 消え残りたる   柿本人麿歌集(巻9・1709)
・ 「御食むかふ」は「南淵山」とミを同音とするところから枕詞となった。「斑雪」は「はだれ」と読む。叙景の歌で、弓削皇子の居られる宮よりまじかに見える南淵山の景観を謳ったと言われる。
193) 落ちたぎち 流るる水の 磐に触り 淀める淀に 月の影見ゆ   作者不詳(巻9・1714)
・ 吉野の宮に行幸のあった時に詠まれた歌だが、誰の歌か、どの御代かは不明。前半は滝の落ちる流れ、後半は月の影を詠んでいる。動と静の対比、印象の明瞭な歌である。真淵は人麿の作ではないかという。
194) 楽浪の 比良山風の 海吹けば 釣りする海人の 袂かへる見ゆ   柿本人麿歌集(巻9・1715)
・ 「楽浪の」は「比良山」の枕詞といってもいい。近江の比良山から湖水の面に吹き降ろす風が、釣りをしている漁夫の袖を翻らせる。前半のさわやかな諧調音は人麿の技とみられる。
195) 泊瀬河 夕渡り来て 我妹子が 家の門に 近づきにけり   柿本人麿歌集(巻9・1775)
・ 舎人皇子に奉った歌二首のひとつ。「泊瀬河」は長谷の谷を流れ佐保川に合流する川である。「門」は「かなど」と読む。愛する女の家に近づいてゆく様子が軽快に詠まれている。
196) 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 吾が子羽ぐくめ 天の鶴群   遣唐使随員の母(巻9・1775)
・ 遣唐使(多治比真人広成)の船が難波の津を出帆した時、随員の母親が詠んだ歌。遠く唐に旅する子が宿りするあの地で霜が降ったなら、天の鶴の群れよ翼を広げてあの子を守っておくれという意味である。文学的表現に優れた歌である。
197) 潮気立つ 荒磯にはあれど 行く水の 過ぎにし妹が 形見とぞ来し   柿本人麿歌集(巻9・1775)
・ 「行く水の」は「過ぎにし(亡くなった)」に係る枕詞である。潮煙の立つ荒涼としたこの荒磯だが、亡くなった妻の形見と思ってきたという意味である。緊張感のある情景と共に哀感漂う歌である。 


巻 10

198) ひさかたの 天の香久山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも   柿本人麿歌集(巻10・1812)
・ 藤原京辺りから香久山を眺めた歌だろう。「ひさかたの」は「天」に係る枕詞。「この夕べ」という分岐点の詞が妙に落ち着いてしまっている。霞がたなびいて春らしくなったことよ。屈託がなく巧まないところが気楽に作っている。
199) 子等が名に 懸けのよろしき 朝妻の 片山ぎしに 霞たなびく   柿本人麿歌集(巻10・1818)
・ 朝妻山は大和南葛飾郡朝妻のある背の低い山。「片山ぎしに」はその朝妻山の麓にあって平野に接するところ。「子等が名に 懸けのよろしき」は序詞で、親しみやすい名前だという意味から「朝妻」に係る。すると序詞と場所を除けば、この歌の本質は春の「霞棚引く」だけである。一気に詠んで、心地よい歌は人麿の歌の一つの特徴である。
200) 春霞 ながるるなべに 青柳の 枝くひもちて 鶯鳴くも   作者不詳(巻10・1821)
・ 春霞と萌え出る青柳の緑、それらを仲介するうぐいすの声で春のオールキャストは揃った。
201) 春されば 樹の木の暗の 夕月夜 おぼつかなしも 山陰にして   作者不詳(巻10・1875)
・ 春になって木が萌え茂り、木の間が薄く暗く感じられ、山影にあるため夕月の光もおぼつかない。「おぼつかなしも」がメインテーマとなっている。
202) 春日野に 煙立つ見ゆ 娘嬬等し 春野の菟芽子 採みて煮らしも   作者不詳(巻10・1879)
・ 「娘嬬」は「おとめ」と読む。「菟芽子」は「うはぎ」と読み、嫁菜のことである。「春日野」は平城京の東に広がる野で遊楽の地であった。「春日野に煙が立つのは、野遊びにきた娘たちが嫁菜を採んで煮ているようだ。」
203) 百礒城の 大宮人は 暇あれや 梅を挿頭して ここに集える   作者不詳(巻10・1883)
・ 「百礒城の」は多くの石で築いた城という意味で「大宮」の枕詞とした。「(今日は)大宮人は、暇なのか、梅花を挿頭にしてこの野に集まっておられる」 奈良朝の太平豊楽を賛美する気持ちが表面に出でている。
204) 春雨に 衣は甚く通らめや 七日し零らば 七夜来じとや   作者不詳(巻10・1917)
・ 女から男にやった歌で、男がやって来ないことを揶揄している。 「あの程度の春雨で衣が濡れ通ることはありますまい、もし七日雨が降り続いたら、七晩やって来ないというの」と女の肉声を聞くようである。平安時代の理知的な才気とはまた違う迫力がある。
205) 卯の花の 咲き散る岳ゆ 霍公鳥 鳴きてさ渡る 君は聞きつや   作者不詳(巻10・1976)
・ 問答歌でこれは問である。「卯の花の咲き散る岳を越えて鳴き渡る霍公鳥の声が聞こえますか」 簡潔で、技巧もあって「卯の花の咲き散る岳ゆ鳴きてさ渡る霍公鳥」と持ってくるところがうまい。
206) 真葛原 靡く秋風 吹くごとに 阿太の大野の 萩が花散る   作者不詳(巻10・2096)
・ 「阿太の大野」とは吉野下市付近の原野である。「真葛原 靡く」は大野に係る枕詞ととることも可、意味を取ることも可。「葛の原をなびかせる秋風が吹くたびに、阿太の野の萩の花が散る」
207) 秋風に 大和へ越ゆる 雁がねは いや遠ざかる 雲がくりつつ   作者不詳(巻10・2128)
・ 「秋風が吹いて大和の方へ越えゆく雁は、雲の中に隠れつつ次第に遠ざかってゆく」
208) 朝にゆく 雁の鳴く音は 吾が如く もの念へかも 声の悲しき   作者不詳(巻10・2137)
・ 「朝早く飛んでゆく雁の音は何となく物悲しい。私のようにもの想いをしているからだろうか」 惻々とした哀感が伝わる。
209) 山の辺に い行く猟夫は 多かれど 山にも野にも さを鹿鳴くも   作者不詳(巻10・2147)
・ 「山の辺りに行く猟夫は多いのだが、それにもかかわらず野にも山にも、妻を求めて鳴く鹿は出歩いている」 恋は盲目というところだろう。「鳴くも」という言い方は万葉集には甚だ多かったが、しだいに感傷語に嫌気がさしてきて少なくなった。
210) 秋風の 寒く吹くなべ 吾が屋前の 浅茅がもとに 蟋蟀鳴くも   作者不詳(巻10・2158)
・ 「吹くなべ」は吹くに連れてという意味。「寒い秋風が吹くにつれて、我が家の前の浅茅の下で蟋蟀が鳴くようになった」 「我が家の前の浅茅の下」が身近な具体性を以て面白い。
211) 秋萩の 枝もとををに 露霜置き 寒くも時は なりにけるかも   作者不詳(巻10・2170)
・ 「枝もとををに」は「枝も撓うくらい」という意味。「露霜」は初冬の寒露のこと。「寒くも時は」の「も」、「は」の助詞が感嘆の意を深めている。
212) 九月の 時雨の雨に 沾れとほり 春日の山は 色づきにけり   作者不詳(巻10・2180)
・ 「時雨の雨に 沾れとほり」がこの歌の中心である。のびのびと秋の景観を歌い上げている。空気の温度と清涼感を現すこのような表現は成功している。
213) 大阪を 吾が越え来れば 二上に もみじ葉流る 時雨零りつつ   作者不詳(巻10・2185)
・ 「大阪」とは大和北葛城郡下田村で大和から河内に抜ける坂である。二上山はその峠の南に位置するので坂を越えると二上山の紅葉が見えるのである。「もみじ葉流る」とは、時雨が横殴りに降ると紅葉葉も流れるのである。
214) 吾が門の 浅茅色づく 吉陰の 浪柴の野の もみじ散るらし   作者不詳(巻10・2190)
・ 「吉陰(よなばり)の浪柴(なみしば)の野」とは大和磯城郡初瀬町の東にある。持統天皇も行幸されたことがある。「自分の家の門前の浅茅が色づくころ、もう浪柴の野の黄葉がちるだろう」
215) さを鹿の 妻喚ぶ山の 岳辺なる 早田は苅らじ 霜は零るとも   作者不詳(巻10・2220)
・ 「もう早稲田は実っているだろう、しかし牡鹿が妻を喚ぶ丘に霜が降る季節になっても、鹿が哀れで稲を刈り取れないでいる」 主観語は一切使用していない。人間的感情が、有情・非情に及ぶことを「人間的」と呼ぶ。
216) 思はぬに 時雨の雨は 零りたれど 天雲霽れて 月夜さやけし   作者不詳(巻10・2227)
・ 「思いがけず時雨が降ったけれど、何時の間にか雲が無くなって月明かりとなった」というだけの平明な歌であるが、すらすらと言い連ねて充実した内容になっている。
217) さを鹿の 入野のすすき 初尾花 いづれの時か 妹が手まかむ   作者不詳(巻10・2277)
・ 前半の句は序詞で、「いづれの時か 妹が手まかむ」だけが意味部分である。「いつになったらあなたと寝られるのだろう」に尽きる。入野は山城国乙訓郡大原野上羽にある入野神社辺りである。鹿の居る入野はススキか初尾花のいずれだろうかと言って、いずれの時かに結び付ける。手の込んだ序詞テクニックで、初めて読んだときは面食らうのである。
218) あしひきの 山かも高き 巻向の 岸の小松に み雪降り来る   作者不詳(巻10・2277)
・ 高い巻向の山の「山かも高き」という表現は万葉の常套句で、「岸の小松に み雪降り来る」が歌の中心である。
219) あしひきの 山道も知らず 白橿の 枝もとををに 雪の降りければ   柿本人麿歌集(巻10・2315)
・ 「白橿の枝も撓むほどに雪が降ったので、山道は見えなくなった」
220) 吾が背子を 今か今かと 出で見れば 沫雪ふれり 庭もほどろに   作者不詳(巻10・2323)
・ 「ほどろに」は消えやすい沫雪がぼったりと庭に積ったということである。雪の降る夜に今か今かと男を待つ女の恨めしい語気が伝わる。
221) はなはだも 夜深けてな行き 道の辺の 五百小竹が上に 霜の降る夜を   作者不詳(巻10・2336)
・ 「五百小竹」とは茂った笹のこと。「な行き」の「な」は禁止で、行かないでという意味である。「道の辺の茂った笹に霜が降る夜は、夜更けになってからは帰らないで、暁になってお帰りなさい」と男を引き留める女の歌である。


巻 11

222) 新室を 踏み鎮む子し 手玉鳴らすも 玉の如 照りたる君を 内へと白せ   柿本人麿歌集(巻11・2352)
・ 旋頭歌である。前の句は新しく家を作るための地鎮祭で大勢の乙女が手飾りの玉を鳴らして踊るのが見える。下の句はあの玉のように光り輝く男性をこの新しい家の中へ入るようにお招きしなさいと言う意味である。旋頭歌では「手玉鳴らすも」で休止になり、第4句で新た起す特色がある。民謡的な労働歌というもので、旋頭歌には人麿作というものはない。人麿歌集には旋頭歌がまとまって載っているので、これらには人麿の試作品があるかもしれない。
223) 長谷の 五百槻が下に 吾が隠せる妻 茜さし 照れる月夜に 人見てむかも   柿本人麿歌集(巻11・2353)
・ 旋頭歌である。「長谷」は初瀬(泊瀬)である。「五百槻(ゆつき)」とは「いおつき」と読み、たくさんの枝のある槻(欅)(けやき)のことである。上の句は「長谷の欅の下に隠しておいた妻」、下の句は「月の光のの明るい晩に他の男にみつかるかも」という意味である。民謡的で素朴で当時の風俗を反映して面白い。短歌のように一首としてまとめ上げる必要はないので、大きく変化させることが可能である。内容が複雑になることを嫌って単純にするため、繰り返しが多いのが特色である。
224) 愛しと 吾が念ふ妹は 早も死ねやも 生けりとも 吾に依るべしと 人の言はなくに   柿本人麿歌集(巻11・2355)
・ 旋頭歌である。上の句は「かわいいと思う自分のあの女は、いっそのこと死んでしまえばいい」、下の句は「たとえ生きていても私になびきよる気配がないから」という意味で、上下入れ換えて詠んでもいい。女を独占したい気持ちが面白く逆説的に表現されている。
225) 朝戸出の 君が足結を 潤らす露原 早く起き 出でつつ吾も 裳裾潤らさな   柿本人麿歌集(巻11・2357)
・ 旋頭歌である。上の句は「朝早くお帰りになるあなたの足を濡らす露原よ」、下の句は「私も早く起きて裳裾を一緒に濡らしましょう」という意味である。別れを惜しむ女の気持ちが濃厚に出ている。
226) 垂乳根の 母が手放れ 斯くばかり 術なき事は 未だ為なくに   柿本人麿歌集(巻11・2368)
・ 「年頃になって母離れして以来、これほど苦しい思いをしたことは未だ一度もありません」と恋の苦しみを謳う女心の様です。
227) 人の寐る 味宿は寐ずて 愛しきやし 君が目すらを 欲りて嘆くも   柿本人麿歌集(巻11・2369)
・ 「味宿」は安眠のこと。「目すらを」は目を強める言い方で「目ですらも」おいう気持ち。「(この頃は物思い乱れて)世の人のするように安眠ができません。いとしいあなたの目でさえも見たくてたまりません」という女ごころを謳った。この歌の詞の中心は「目すらを」にある。
228) 朝影に 吾が身はなりぬ 玉輝る ほのかに見えて 去にし子故に   柿本人麿歌集(巻11・2394)
・ 「朝影に」は朝早く還る人の影が細く映ること。「玉輝る」はほのかにかかる枕詞である。「日の出間もないころに帰る自分の影が恋に痩せた者のようにほのかに見える」 しみじみとした恋の歌である。
229) 行けど行けど 逢はぬ妹ゆゑ ひさかたの 天の露霜に 濡れにけるかも   柿本人麿歌集(巻11・2395)
・ 行けど逢えない女のために、露霜に濡れてしまったという意味である。民謡風の歌で、のびのびと歌うことが人麿風である。
230) 朱らひく 膚に触れずて 寐たれども 心を異しく 我が念はなくに   柿本人麿歌集(巻11・2399)
・ 「朱らひく」は「あからひく」と読み、紅顔からきた言葉で、雪のような膚の色が少し紅になることをいう。官能的な言葉である。「心を異しく」は心変わりをする意味。「今夜は事情があってお前の所に行けず、美しい肌にも触れず一人寝をしたが、決して心変わりをしたわけではない」という、女に送る言い訳の歌。
231) 恋死なば 恋ひも死ねとや 我妹子が 吾家の門を 過ぎて行くらむ   柿本人麿歌集(巻11・2401)
・ 「恋死なば 恋ひも死ねとや」は万葉集の常套句で、恋に死ぬなら勝手にせよという意味。一ひねりした恋の心情で面白い表現である。
232) 恋ふること 慰めかねて 出て行けば 山も川をも 知らず来にけり   柿本人麿歌集(巻11・2414)
・ この恋の切ない気持ちを慰めかねて出てきたので、周りのことなど何一つ目に入ってこないという意味である。
233) 山科の 木幡の山を 馬はあれど 歩ゆ吾が来し 汝を念ひかね   柿本人麿歌集(巻11・2425)
・ 「山科の木幡の山」とは山城国宇治郡宇治村木幡(今の桃山御陵の東)の山である。「貴女を念って、歩いてきた」という恩着せがましい言い草である。それで誠意が通じると思ったらしい。
234) 大船の 香取の海に 碇おろし 如何なる人か 物念はざらめ   柿本人麿歌集(巻11・2436)
・ 「大船の 香取の海に 碇おろし」までは、碇に係る序詞で意味はない。「私と同じように、物を念はない人はいないだろう」という事が歌の本意である。恋に苦しむ男の歌。
235) ぬばたまの 黒髪山の 山菅に 小雨零りしき しくしく思ほゆ   柿本人麿歌集(巻11・2456)
・ 「ぬばたま」は黒に係る枕詞。「黒髪山の 山菅に 小雨零りしき」は「しくしく」に係る序詞である。降りしきる様子が「しくしく」という女々しい語感にぴったりだからである。詰まりこの歌は「しくしく思ほゆ」だけである。結句だけが歌という珍しいものである。「山菅」は山に生えるスゲまたは竜のひげのたぐい。
236) 吾背子に 吾が恋ひ居れば 吾が屋戸の 草さえ思ひ うらがねにけり   柿本人麿歌集(巻11・2465)
・ 「私の夫を待ちどおしく思っていると、我が家の庭の草さえも思い悩んで枯れてしまった」 句の前半で「吾」を3回も繰り返しているのはくどくてリズムを破っている。「草さえ思ひうらがねにけり」が伸びやかでしみじみしていることに救われた歌。
237) 山ちさの 白露おもみ うらぶるる 心を深み 吾が恋止まず   柿本人麿歌集(巻11・2469)
・ 「山ちさ」は食用にする「ちさ」のこと。うらぶれる心を形容した「山ちさの 白露おもみ」までは序詞である。「心を深み吾が恋止まず」がこの歌の本意である。
238) 垂乳根の 母が養う蚕の 繭隠り こもれる妹を 見むよしもがな   柿本人麿歌集(巻11・2495)
・ 「垂乳根の」は母の枕詞。「母が養う蚕の 繭隠り」までが「籠れる」に係る序詞である。「家にこもって外に出ない深窓の娘を見たいものだ」が歌である。「家にこもる」と「繭隠り」が同じイメージであるので譬えを序詞にしたものである。
239) 垂乳根の 母に障らば いたづらに 汝も吾も 事成るべしや   作者不詳(巻11・2517)
・ 「母に障らば」とは母の承諾が得ら得ないということで、母の機嫌を損なうという意味は当たらない。「母に気兼ねをして、ぐずぐずしているなら、お前と私の恋は遂げられない」という意味になり。男が女の決意を促す場面である。娘の方は母の反対に気を病むところは自然なことである。人生の実相を現して面白い歌である。
240) 苅薦の 一重を敷きて さ寐れども 君とし寐れば 寒けくもなし   作者不詳(巻11・2520)
・ 「薦蓆一枚を敷いて寝ても、あなたと一緒なら寒くはない」という可愛い歌である。
241) 振分けの 髪を短み 春草を 髪に綰くらむ 妹をしぞおもふ   作者不詳(巻11・2540)
・ 「振分けの髪」とは髪を肩の辺りまで垂らして切るのでで、まだ髪を結ぶまでに至らない童女のことである。「綰く」とは髪を束ねあげることである。「振り分け髪でまだ髪を結えないでいるが、春草を足して髪に束ねているのだろうか、かわいい幼い妹が気にかかる」という意味である。源氏物語の葵の君のような幼女を妻とした風習風俗が思い出される。
242) 念はぬに 到らば妹が 歓しみと 笑まむ眉引 おもほゆるかも   作者不詳(巻11・2546)
・ 「念はぬに」は相手が思っていないのに突然にということだ。「突然に女のところへ行ったら、うれしいと言って眉をひそめて笑う様子が想像されて楽しい」ということである。「笑まむ眉引」という言葉が旨い。
243) 斯くばかり 恋ひむものぞと 念はねば 妹が袂を 纒かぬ夜もありき   作者不詳(巻11・2547)
・ 「このように逢わねば苦しい思いをするとは思わなかったので、お前を抱かない夜もあった」という意味であるが、裏返してみると、歌謡曲にある「逢えば別れがこんなにつらい、逢わなきゃ夜がやるせない、どうすりゃいいのか思案橋」という心境ではないかな。
244) 相見ては 面隠さるる ものからに 継ぎて見まくの 欲しき君かも   作者不詳(巻11・2554)
・ 「面隠さるるものからに」は恥ずかしい気持ちが先に立って、自然に顔を隠したくなるものですがということ。それなのに度々お逢いしたくなのですという女のつつましさがあらわれている。 
245) 人も無き 古りにし郷に ある人を 愍くや君が 恋に死なする   作者不詳(巻11・2560)
・ 「愍くや」がこの歌の重要点で、可哀そうと思わないのですかという反語である。「もう誰もいない旧都に残っている私に、可哀そうにも恋死をさせるつもりですか」
246) 偽りも 似つきてぞする 何時よりか 見ぬ人恋ふに 人の死にせし   作者不詳(巻11・2572)
・ 「偽りも似つきてぞする」がこの歌の重要点で、「嘘もでたらめでは困る」とか「嘘も休み休みに言え」という意味である。「嘘を言うのもいい加減にしなさい、何時からあったこともない女に、恋死にする人がいるのですか」 調子のいいことをいう男を痛烈に皮肉った歌である。
247) 早行きて 何時しか君を 相見むと 念ひし情 今ぞ和ぎぬる   作者不詳(巻11・2572)
・ 「早く行って、一時も早くあなたに逢いたいと思っていたのだが、こうしてお前を前にすると安心した」という。「今ぞ和ぎぬる」という結句がこの歌の面白い表現。
248) 面形の 忘るとならば あじきなく 男じものや 恋ひつつ居らむ   作者不詳(巻11・2580)
・ 「あじきなく」は甲斐のないこと、「男じもの」とは男らしいもの、男子たるものという意味である。「あなたの容貌が忘れられるのなら、男子たる俺が、こんな甲斐のない恋に苦しむことはないのだが」これは裏返しの解釈で、本当は「あなたの容貌が忘れられないからこそ、男子たる俺はこんなにも甲斐のない恋に苦しんでいるです」という。
249) あじきなく 何の枉言 いま更に 子童言する 老人にして   作者不詳(巻11・2582)
・ 「なんと言う愚かな戯痴けたことを言ったものか、この年寄りが今更子供じみたことを言って」 老いらくの恋を謳った歌である。この歌の結論である「味気なく」をズバリ冒頭に持ってきた。
250) 奥山の 真木の板戸を 音速み 妹があたりの 霜の上に宿ぬ   作者不詳(巻11・2616)
・ 「奥山の真木の」は板にかかる序詞である。女の家の板戸を叩いたが、その音が余りに大きく響くので、家人に気付かれないように妹の家の近くの霜の上に寝た」という。「霜の上に宿ぬ」は文学的虚構かも。
251) 月夜よみ 妹に逢はむと 直道から 吾は来つれど 夜ぞふけにける   作者不詳(巻11・2618)
・ 月の明かりをたよりに、真っすぐに妹の家を目指して急いできたが、それでも夜は更けてしまった。
252) 燈の かげに輝ふ うつせみの 妹が咲し おもかげに見ゆ   作者不詳(巻11・2642)
・ 「恋しいおんなが燈火のもとにいて、微笑んでいる時の美しい現身(うつせみ)が、今おもかげに見える」 映画で見るようなぼかした女身のなんという官能美であろうか。男は夢のように最高に美化した映像を見ているのである。それはそれで良しとしよう。
253) 難波人 葦火焚く屋の 煤してあれど 己が妻こそ 常めずらしき   作者不詳(巻11・2651)
・ 「難波の海人の葦を焚く家は煤けているが、私の妻ももう古く煤けた年になったが、吾妻だけはいつまでも見飽きない」 夫婦の愛情の変わらないことを謳っている。万葉の歌は万事写生であるから、たとい平凡な日常を描いても人間性がでているのである。
254) 馬の音の とどともすれば 松陰に 出でてぞ見つる 蓋し君かと   作者不詳(巻11・2653)
・ 女が男を待つ心で、技を要しない歌である。
255) 窓ごしに 月おし照りて あしひきの 嵐吹く夜は 君をしぞ念ふ   作者不詳(巻11・2679)
・ 「窓から月の光が差し込んで、嵐の吹く夜は身に沁みてあなたが恋しい」 「おし照りて」という言葉が生きている。「おし」という動作を伴うからである。
256) 彼方の 赤土の小屋に 霖降り 床さえ濡れぬ 身に副へ我妹   作者不詳(巻11・2683)
・ 赤土の上に建てた粗末な家に小雨が降るという状況設定で、「身に副へ我妹」という結句が用意されている。貧乏子だくさんにならないようにとは余計なお節介だろう。民謡風でもあり、労働歌でもある。
257) 潮満てば 水沫に浮かぶ 細砂にも 吾は生けるか 恋ひは死なずて   作者不詳(巻11・2734)
・ 「潮満てば水沫に浮かぶ細砂にも」は譬えか序詞とされ、歌の本質には関係ない。歌の意味部分は「吾は生けるか恋ひは死なずて」だけである。近代の象徴詩かもしれない。細砂に自分の命を譬えて、繰り返す恋にもまれて、はかなくも生きているようである。
258) 朝柏 閏八河辺の 小竹の芽の しぬびて宿れば 夢に見えけり   作者不詳(巻11・2754)
・ 「朝柏 閏八河辺の 小竹の芽の」は偲ぶに係る序詞で、歌の意味部分は「しぬびて宿れば夢に見えけり」だけである。
259) あしひきの 山沢回具を 採みに行かむ 日だにも逢はむ 母は責むとも   作者不詳(巻11・2760)
・ 母の監視が厳しいので、山沢に回具を採みに行く日に、御逢いしましょうという歌である。
260) 葦垣の 中の似児草 にこよかに 我と笑まして 人に知らゆな   作者不詳(巻11・2762)
・ 「似児草」とは箱根しだといわれる。「葦垣の中の似児草」は「にこやかに」につづく序詞である。私と一緒に居てニコニコしているところを、人に知られたくないという意味である。
261) 道のべの いつしば原の いつもいつも 人の許さむ ことをし待たむ   作者不詳(巻11・2770)
・ 「道のべのいつしば原の」は「いつもいつも」に続く序詞である。男が女が許すのを待つ、気長な気持ちも愛情表現の一つである。
262) 神南備の 浅茅小竹原の うるはしみ 妾が思ふ 君が声の著けく   作者不詳(巻11・2774)
・ 「神南備の浅茅小竹原の」は「うるはしき君」に続く序詞である。飛鳥の雷ヶ丘あたりの飛鳥川沿岸に小竹原がある。浅茅小竹原を麗しいと感じる作者の感性がこの序詞を生んだ。麗しい(恋しい)と思うあなたの声だけが、はっきりと聞こえてくるという気落ちを万葉歌に詠みこんだ作品は秀作である。
263) さ寝かにば 誰とも宿めど 沖つ藻の 靡きし君が 言待つ吾を   作者不詳(巻11・2782)
・ 「沖つ藻の」は「靡きし」に係る枕詞、 「さ寝かにば」が難しい表現で、私と寝たくないというなら、私は誰とも寝よう。しかし一度は私に靡いたあなたの事だから、あなたの気持ちを待っていようという意味である。その頃の男女の会話(今でも同じだが)を歌にすることは難しい。
264) 山吹の にほえる妹が 唐棣花色の 赤裳のすがた 夢に見えつつ   作者不詳(巻11・2786)
・ 「唐棣」と庭梅のこと、山吹は黄色、唐棣花色は赤である。「山吹のようにはなやかな貴女が、赤い裳を着けていた姿を夢に見た」という色彩豊かな幻想の歌である。ここまで色彩を読み込んだ万葉歌は珍しいという。
265) こもりづの 沢たづみなる 石根ゆも 通しておもう 君に逢はまくは   作者不詳(巻11・2794)
・ 「こもりづの沢たづみなる石根ゆも」は「通して」に続く序詞である。石根をも通して流れる水のように、あなたに逢いたいと一徹に思っていますという意味である。
266) 人言を 繁みと君を 鶉鳴く 人の古家に 語らひて遣りつ   作者不詳(巻11・2799)
・ 女の歌と解せられ、「人の噂がうるさいので、鶉がなく古い空き家に案内して、そこで語り合いたい」ということ。「語らいて」に強い意志を感じる。
267) あしひきの 山鳥の尾の 垂り尾の 長き長夜を 一人かも宿む   作者不詳(巻11・2802)
・ 「あしひきの 山鳥の尾の 垂り尾の」は「長き」に続く序詞である。拾遺集に人麿作として載り、小倉百人一首にも選ばれた。歌の内容は「長夜を一人かも宿む」だけである。口調の良い序詞だけで秀歌となった希有の歌と言える。


巻 12

268) わが背子が 朝けの形 能く見ずて 今日の間を 恋暮らすかも   柿本人麿歌集(巻12・2841)
・ 「私の夫が朝早くお帰りになる姿を良く見なかったので、今日一日物足りなくて心寂しい思いをしています」 「朝明の姿」とは万葉古語のいい言葉です。「今日の間」も良い響きです。この歌のいいところは、一般化せずに個別の感情を大切にしているからセス。
269) 愛しみ 我が念ふ妹を 人みなの 行く如見めや 手に纏かずして   柿本人麿歌集(巻12・2843)
・ 私の恋しく思う女を、歩いて行く普通の女として見ていられようか。恋の相手としていつも見ている。情熱を抑えながら一句が仕上がっている。
270) 山河の 水陰に生ふる 山草の 止まずも妹が おもほゆるかも   柿本人麿歌集(巻12・2862)
・ 「山河の 水陰に生ふる 山草の」は「止まず」に続く序詞で、「止まずも妹がおもほゆるかも」だけが歌である。しかし「水陰」にようにひっそりとという感じを出す象徴詩かもしれない。この時代には幽玄という言葉はなかったが、奥深い気持ちを大事にしながら写生を忘れていないのである。
271) 朝去きて 夕は来ます 君ゆゑに ゆゆしくも吾は 歎きつるかも   柿本人麿歌集(巻12・2893)
・ 「ゆゆしくも」がこの歌の最重要点である。「ゆゆしくも」は慎みなく、憚らず、忌々しい、厭わしいという意味である。あまりいい意味ではない。夫が朝に帰って、夕方にやってくるというのに、あさましいくらいあなたのことが待ちきれない、恋しいといいう。女の欲望が丸出しで自分でも忌々しくなるのだろう。
272) 玉勝間 逢はむといふは 誰なるか 逢へる時さへ 面隠しする   作者不詳(巻12・2916)
・ 「玉勝間」は「逢う」の枕詞。「玉勝間」は蔓を入れる箱で蓋と籠が合うことから、逢うの枕詞になった。「逢おうと言ったのは誰だろう。折角逢っても顔を隠したりして」という男と女の会話である。恥ずかしいという姿態は本来淫靡なものであるが、それを表現しない(できない)のが万葉古語のいいところ。
273) 幼婦は 同じ情に 須臾も 止む時もなく 見むとぞ念ふ   作者不詳(巻12・2921)
・ 同じ内容を男がいってきたので、乙女はそれにこたえる様に「同じ情に」といった。歌の内容は「須臾も止む時もなく見むとぞ念ふ」で、ひと時も止むことなく、あなたを見続けたいというお熱いメッセ―ジである。
274) 今は吾は 死なむよ我背子 恋すれば 一夜一日も 安けくもなし   作者不詳(巻12・2936)
・ 「今私は死にそうだ、あなたに恋すれば、一日一夜も心の休まるときがない」という女の歌。「よ」は詠嘆の助詞。この歌の直接性が万葉歌である。
275) 吾が齢し 衰えぬれば 白細布の 袖の狎れにし 君をしぞ念ふ   作者不詳(巻12・2952)
・ 「年を取って体も衰えたので〈昔のようにしげしげかようこともないが)、長年狎れ親しんだお前のことが思い出される」 「白細布の」は袖に係る枕詞。老いらくの恋の一つである。
276) ひさかたの 天つみ空に 照れる日の 失せなむ日こそ 吾が恋止まめ   作者不詳(巻12・3004)
・ 「ひさかたの 天つみ」は空に続く序詞。「空に照る日が無くなる日まで、私はあなたを恋する」というオーバーな愛の表現。
277) 能登の海に 釣りする海人の 漁火の 光にい往く 月待ちがてり   作者不詳(巻12・3169)
・ 「能登の海人の漁火の光りを頼りにあなたに逢いに行く、月が出るのを待てないので」という意味である。
278) あしひきの 片山雉 立ちゆかむ 君におくれて 顕しけめやも   作者不詳(巻12・3210)
・ 旅立ってゆく男に向かって女が言ううたである。「あしひきの片山雉」は立つに続く序詞でほとんど意味はない。「顕(うつ)しけめやも」は、心乱れて、正気でいられようかという意味。


巻 13

279) 相坂を うち出でて見れば 淡海の海 白木綿花に 浪たちわたる   作者不詳(巻13・3238)
・ 山科から近江に出る坂を「相坂(逢坂)」と呼んだ。近江の恋人に会いに行く歌である。「逢坂を越えると、近江の湖水に白木綿花に似た白浪が立つのが見える」 源実朝がこの歌を模した歌を作った。「白木綿花」は幣の代用とした。
280) 敷島の 大和の国に 人二人 ありとし念はば 何か嗟かむ   作者不詳(巻13・3249)
・ 「敷島の」は大和に係る枕詞。「この国にあなたが二人おられると思うなら、どうして嘆く必要がありましょうか。貴方は一人しかおられないから悲しいのです」という意味。
281) 川の瀬の 石ふみ渡り ぬばたまの 黒馬の来る夜は 常にあらねかも   作者不詳(巻13・3313)
・ 「ぬばたまの」は黒に係る枕詞。「川の瀬の石を踏み越えて、あなたが黒馬に乗ってやって来られる夜は、いつも変わらないであってほしい」という意味。 13巻は実は長歌に優れたものが多い。掲載した短歌はごくわずかである。


巻 14

282) 夏麻引く 海上潟の 沖つ渚に 船はとどめむ さ夜ふけにけり   東歌(巻14・3348)
・ この14巻はいわゆる「東歌」になり、東国地方に行われた民謡的な短歌を収集したのである。従って基本的に作者不詳である。言葉使いも訛りがあって、同じ歌い方ではなかった。「夏麻引く」は麻を引く畑畆の「う」から海にかかる枕詞。海上郡は下総国の利根川河口あたりをいう。「海上潟の沖にある州のところに船を泊めよう、今夜はもう更けてしまった」ということ。結句「さ夜ふけにけり」は詠嘆の助詞止めになっている。
283) 筑波嶺に 雪かも降らる 否をかも 愛しき児ろが 布乾さるかも   東歌(巻14・3351)
・ 常陸国の歌、「筑波山に白く見えるのは、雪だろうか、いやそうではなくて可愛い娘らが白い布を干しているのだろう」ということ。「児ろ」の「ろ」は親しみの接尾語である。
284) 信濃なる 須賀の荒野に ほととぎす 鳴く声きけば 時過ぎにけり   東歌(巻14・3352)
・ 「須賀の荒野」は筑摩郡芋賀郷で梓川と楢井川の間の曠野だといわれる。「信濃の須賀の荒野に霍公鳥が鳴く声を聴くと、もう時季が過ぎて夏になった」ということ。民謡なので歌にご当地の地名を入れる。
285) 天の原 富士の柴山 木の暗の 時移りなば 逢はずかもあらむ   東歌(巻14・3355)
・ 「天の原 富士の柴山 木の暗の」は「暮」につづく序詞である。「(逢おうと言っておきながら)このまま夕暮になってゆけば、逢うことができなくなるかもしれない」ということ。駿河国の歌で相聞に分類されている。
286) 足柄の 彼面此面に 刺す罠の 鹿鳴る間しづみ 児ろ我紐解く   東歌(巻14・3361)
・ 「彼面此面」は「をてもこのも」の訓である。「あちらにもこちらにも」という意味である。相模国足柄山の歌。鹿を捕る刺網猟で、網に動物がかかると鳴子が音を立てので、「足形山のあっちこっちに網を仕掛けて、鹿がかかるまでの間じっとして息を凝らしている間に、可愛い娘の下帯を解いて寝る」ということ。卑猥な内容の猟師の労働歌である。
287) ま愛しみ さ寝に吾は行く 鎌倉の 美奈の瀬河に 潮満つなむか   東歌(巻14・3366)
・ 相模国の歌。「美奈の瀬河」は稲瀬川の海に入る小川である。「ま」や「さ」の助詞は歌調を快くはこぶ小道具で、音楽的になくてはならぬものである。「いとしいあの娘のところへ寝に行くが、鎌倉の美奈の瀬河に潮が満ちて渡れなくなっていないだろうか」ということ。
288) 武蔵野の 小岫が雉 立ち別れ 往にし宵より 夫ろに逢はなふよ   東歌(巻14・3375)
・ 武蔵野の国の歌。「武蔵野の 小岫が雉」は「立ち別れ」に続く序詞である。「岫(くき)」は雉などが住む洞のこと、「岫」−「雉」−「立つ」が続くのである。「あの夜別れて以来、恋しい夫には逢わずにおります」ということ。結句の訛りと「よ」は特殊な言葉。
289) 鳰鳥の 葛飾早稲を 饗すとも その愛しきを 外に立てめやも   東歌(巻14・3386)
・ 下総国葛飾の歌。「鳰鳥の」は葛飾に係る枕詞。「今は葛飾で採れた早稲を供える祭りの時期ですが、あの愛しいお方を家の外に立たせておく事はできません」ということ。農業民謡で集団で歌う事も出来た。
290) 信濃路は 今の懇道 刈株に 足踏ましむな 履著け我が夫   東歌(巻14・3399)
・ 信濃国の歌。「信濃の新しく開かれた道(墾道)はまだ出来たばかりで、木の切り株を踏んで足を痛めないように、吾夫よわら履を履きなさい」ということ。農業歌であろうか。
291) 吾が恋は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくもかなしも   東歌(巻14・3403)
・ 上野国(群馬県)多湖郡の歌。「草枕 多胡の入野の」は奥に続く序詞で、中に入る序詞は珍しい。「入野」は山の中へ深く入り込んだという意味。「まさかも」はまさしく、現にという意味。「自分の恋は、今現にこんなにも深く強い。奥の奥まで行っても深くて強い」ということ。この歌のキーワードは「悲し」で2回も使われている。「悲し」を「深くて強い」という意味に取ったのは茂吉の解釈。「今もそして行く末も吾恋は悲し」
292) 上毛野 安蘇の真麻むら 掻き抱き 寝れど飽かぬを 何どか吾がせむ   東歌(巻14・3404)
・ 「上毛野安蘇」は下野(栃木県)阿蘇」であろう。元は上野に入っていたのだろうか。あるいは阿蘇が上野と下野の両方にかかっていたことが分かる。「上毛野 安蘇の真麻むら」は「抱く」に続く序詞である。「可愛いお前を抱きかかえるようにして寝たが、飽きることはなかった。どうしたらいいのだろうか」ということ。序詞に無理がなく流れる様に恋愛情緒になる。結句の「あどかあどせむ」という訛りも面白く落ちがある。「いかにかもせむ するすべもなし」が正統的な言い方。しかしそんな教養もない人が「あどかあどせむ」と言った方が、面白い。
293) 伊香保ろの やさかの堰に 立つ虹の 顕ろまでも さ寝をさ寝てば   東歌(巻14・3414)
・ 伊香保の歌。「伊香保ろの やさかの堰に 立つ虹の」までが、「顕わに」に続く序詞である。「世間に露見するまでお前を抱いて抱いて」が歌の部分である。「顕ろまで」は「顕るまで」が訛った。
294) 下毛野 みかもの山の 小楢如す 目細し児ろは 誰が笥か持たむ   東歌(巻14・3424)
・ 下毛野三鴨郡の山の歌。「下毛野 みかもの山の 小楢如す」は「目細し」に続く序詞。「古楢の葉のように可愛いあの子は、誰の妻になって食事の世話をするのだろう」ということ。言いたいことは自分の妻になるだろうということである。
295) 下毛野 安蘇の河原よ 石踏まず 空ゆと来ぬよ 汝が心告れ   東歌(巻14・3425)
・ 下毛野安蘇川の歌。「下毛野 安蘇の河原よ 石踏まず」は「空」に続く序詞。「空を飛ぶようにしてやって来た、お前の気持ちはどうなんだ」ということ。民謡の一節のように軽やかな歌。
296) 鈴が音の 早馬駅の 堤井の 水をたまへな 妹が直手よ   東歌(巻14・3439)
・ 国地域は不詳、雑歌に分類されている。「鈴が音の」は早馬に係る枕詞。「早馬のいる駅の堤井の水を、あの娘の手ずから飲みたいもの」ということ。 江戸時代の駅ごとにある水茶屋みたいな風俗店があったのだろうか。馬方の労働歌である。
297) おもしろき 野をばな焼きそ 古草に 新草まじり 生ひは生ふるがに   東歌(巻14・3452)
・ 「快いこの春の野を焼くな、昨年の枯れ草に、今年の若草が混じってきているから」ということ。「生ひは生ふるがに」は生きとし生けるものだから」という意味。民謡であるので、古女房にも愛情をという連想も働くのだが。
298) 稲舂けば 皹る我が手を 今宵もか 殿の稚子が 取りて嘆かむ   東歌(巻14・3459)
・ 「皹る(かがる)」とは「ひびぎれ」のことである。「稲を舂くとひびわれのする私の手を、殿方の息子が手に取って嘆くではないか」ということ。村里の娘の労働歌である。民謡でもいい。
299) あしひきの 山沢人の 人多に まなといふ児が あやに愛しさ   東歌(巻14・3462)
・ 「あしひきの 山沢人の」は「人多に」に続く序詞。「山沢人」は山の木こりをいう。「まな」とは可愛いという意味。「大勢の人々が可愛いと評判しているあの娘がこの上もなく恋しい」ということ。木こりの間の民謡であろう。
300) 植竹の 本さへ響み 出でて去なば 何方向きてか 妹が嘆かむ   東歌(巻14・3474)
・ 「植竹の」は「本」にかかる枕詞。防人の旅立ちの歌であろうか。「家じゅうが大騒ぎして私が旅だったら、妻はさぞ嘆き悲しむであろう」ということ。
301) 麻芋らを 麻笥に多に 績まずとも 明日来せざめや いざせ小床に   東歌(巻14・3484)
・ 「多(ふすさ)に」はたくさん路言う意味。「麻糸をそんなにたくさん笥に紡がなくても、又明日が来ないわけではないのだから、その辺にしてさあ寝床に行って寝よう」ということ。夫婦和合の農業民謡といえる。
302) 児もち山 若かえるでの 黄葉まで 寝もと吾は思ふ 汝は何どか思う   東歌(巻14・3494)
・ 「子持山」は伊香保温泉から見える渋川町の北にある山。「若かえるでの」は青葉の楓の葉(蛙の手)という意味。「あの子持山の楓の若葉が、秋になって紅葉するまでお前を一緒に寝ていようと思うが、お前はどう思う」ということ。会話のような歌である。
303) 高き峰に 雲の着く如す 我さえに 君に着きなな 高峰と思いて   東歌(巻14・3514)
・ 「高い山に雲が着くように、私はあなたに尽きましょう」ということ。民謡風の直接性がいいという。
304) 我が面の 忘れむ時は 国溢り 峰に立つ雲を 見つつ偲ばせ   東歌(巻14・3515)
・ 「もし私の顔をお忘れの時は、国中にある山の立つ雲を見て私のことを思い出してください」 雲が人の顔に似るということか。諧謔性よりももっと重いものを感じる。防人の妻の歌のようでもある。
305) 昨夜こそは 児ろとさ宿しか 雲の上ゆ 鳴き行く鶴の 間遠く思ほゆ   東歌(巻14・3522)
・ 「雲の上ゆ 鳴き行く鶴の」は「間遠く」に続く序詞である。この序詞が面白い。「昨夜寝たばかりなのに、ずいぶん前のようにおもわれる」ということ。 朝になるとまた抱きたくなったようである。
306) 防人に 立ちし朝けの 金門出でに 手放れ惜しみ 泣きし児らはも   東歌・防人(巻14・3522)
・ 防人の歌。「防人に旅立つ朝、門を出る時手を握って別れてきたが、妻は泣き明かしている。」
307) 葦の葉に 夕霧立ちて 鴨の音の 寒さ夕し 汝ををば偲ばむ   東歌・防人(巻14・3570)
・ 「葦の葉に夕霧が立って、鴨の鳴き声が聞こえる寒い夕方には、あなたのことが偲ばれるだろう」ということ。本書ではこれ以外に東歌29首をコメントなしに掲載している。万葉集は地方の歌謡や防人の歌を広く集めている。平安末期の後白河法皇の「梁塵秘抄」のようなコレクター精神である。


巻 15

308) あをによし 奈良の都に たなびける 天の白雲 見れど飽かぬかも   作者不詳(巻15・3602)
・ 天平8年新羅に行く入新羅使の一行を見送る宴の古歌。「あおによし」は「奈良」にかかる枕詞。解釈不要の古調ゆたかな万葉歌。
309) わたつみの 海に出でたる 飾磨河 絶えぬ日にこそ 吾が恋止まめ   作者不詳(巻15・3605)
・ 「わたつみの 海に出でたる 飾磨河」は『絶える」に続く序詞。「飾磨河」は播磨国(姫路市)船場川だと言われる。これも新羅使を送る歌であるが、恋の歌とされる。「飾磨河の流れが絶える日はないように、私の恋心も止まりません」という反語の歌。
310) 百船の 泊つる対馬の 浅茅山 時雨の雨に もみだいひにけり   新羅使(巻15・3697)
・ 新羅使の一行が対馬の浅茅浦に停泊した時、風を得ず5日間逗留した。「もみず」は時間が経過すること。現地での作品だけに強みがある。
311) 天離る 鄙にも月は 照れれども 妹ぞ遠くは 別れ来にける   新羅使(巻15・3698)
・ 前の歌の続きである。「天離る」は「鄙」にかかる常套句(枕詞)。このような辺鄙なところでも月は照らすが、遠く都においてきた妻のことが思い起こされる」ということ。哀感漂う歌である。現地での作というリアリティが感じられる。
312) 竹敷の うえかた山は 紅の 八入の色に なりにけるかも   新羅使(大蔵麿)(巻15・3703)
・ 「竹敷」は対馬の竹敷浦(港)のこと。「うえかた山」は上方山で(今の城山)のこと。「紅の八入(やしお)の色」とは何度も染めた真紅の色のこと。新羅使の小判官大蔵忌寸麿の歌である。このとき18首の歌が作られた。この中には大使阿倍継麿、副使大伴三中、大判官壬生宇太麻呂らの歌に交じって、遊行女(うかれめ)の歌も混じっている。
313) あしひきの 山路越えむと する君を 心に持ちて 安けくもなし   狭野茅上娘子(巻15・3723)
・ 中臣朝臣宅守が越前(福井)に流された時、親しかった蔵部女官狭野茅上娘子(さぬのちがみのおとめ)が詠んだ歌。「山路を越えようとされる貴方のことを思いますと、不安でなりませぬ」ということ。
314) 君が行く 道の長路を 繰り畳ね 焼き亡ぼさむ 天の火もがも   狭野茅上娘子(巻15・3724)
・ 「越前の方へおいでになる遠い道を手繰り寄せて、それを畳んで焼いてしまう天の火があればいいのですが」ということ。「天の火」とは劫火のような思いがけない火のこと。文の才と情熱を兼ね備えた女性の凄まじい語気が伝わる歌である。
315) あかねさす 昼は物思ひ ぬばたまの 夜はすがらに 哭のみし泣かゆ   中臣宅守(巻15・3724)
・ 流された中臣朝臣宅守が娘に贈った歌。地味で苦労している割には心に訴える力がない。
316) 帰りける 人来れりと いひしかば ほとほと死にき 君かと思ひて   狭野茅上娘子(巻15・3772)
・ 「越前から罪を許されて帰って来る人がいると聞いて、貴方かもしれないと思うと、うれしくて死にそうだった(胸が張り裂けそうだった)」 しかしあなたの名前はなかった。「ほとほと死にき」がこの歌の中心である。


巻 16

317) 春さらば 挿頭にせむと 我が思ひし 桜の花は 散りにけるかも   壮士某(巻16・3786)
・ 複数の男性に言い寄られて、どちらとも決めかね首をつって死ぬ話は、妻争い伝説として、「桜子」、「真間の手児名」、「葦原の兎原処女」は同じ種類のものである。「挿頭にしようと思っていた桜の花は、春が終わって散ってしまった」という表の意味と、「自分のものにしようと思っていた桜子は、春が去って死んでしまった」という裏の意味もあります。
318) 事しあらば 小泊瀬山の 石城にも 隠らば共に な思い吾背   娘子某(巻16・3806)
・ 「小泊瀬山の 石城にも」は「隠らば」に続く序詞である。「石城」は石で築いた郭で墓の事である。「親の許しが得られなかったなら、死んでいっしょの墓に入ればいい」ということ。男の方がぐずぐず躊躇している時、女が男に与えた勇気づけの歌。男の優柔不断に対する、女の割り切り方が対照的である。女は強しということ。
319) 安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 吾思がなくに   前の釆女某(巻16・3806)
・ 「安積山 影さえ見ゆる 山の井の」は「浅き」に続く序詞。「安積山」は福島県安積郡比輪田町の山。「浅き心を吾思がなくに」だけが歌の中心で、これだけでは何のことやら理解できない。葛城王が陸奥国の派遣された時、国司の接待がよくないとして、御馳走に箸をつけなかった。そこで機転の利く釆女が盃を以て王に近づき王の膝を叩いてこの歌を歌い御機嫌を直したという。遊行女婦(うかれめ 接客婦)は歌を歌って歓待するのが商売なので、江戸時代の島原の花魁のように教養あるコンパニオンと思われる。今も昔も変わらない、中央の役人と、地方の役人と、接待婦の構図である。
320) 寺寺の 女餓鬼申さく 大神の 男餓鬼賜りて その子生まはゆ   池田朝臣(巻16・3840)
・ 池田朝臣が大神朝臣奥守に贈った歌。「寺に居る女餓鬼が、大神の男餓鬼を貰って子どもを生みたいと言っています」ということで、大神朝臣が痩せ男だったので痩せた女餓鬼がプロポーズしていますよという俳諧歌、滑稽歌であろう。
321) 仏造る 真朱足らずは 水たまる 池田の朝臣の 鼻の上を穿れ   大神朝臣(巻16・3841)
・ 上の歌に対して大神朝臣奥守が池田朝臣に、「仏を作るための朱が足らなかったら、俺の赤い鼻の上を掘ればいい」という歌を反した。「水たまる」は池にかかる枕詞。この歌も仏教関係の諧謔歌で、上の歌に引けを取らないうまさである。
322) 法師らが 髭の剃杭 馬つなぎ いたくな引きそ 法師半かむ   作者不詳(巻16・3846)
・ 法師らの無精ひげをからかった滑稽歌である。「髭の剃杭」無精ひげを剃杭といって、「そのひげを馬につないで強くひっぱたら、法師が半割きになってしまう」ということ。
323) 吾が門に 千鳥しば鳴く 起きよ起きよ 我が一夜づま ひとに知らゆな   作者不詳(巻16・3873)
・ 「一夜づま」は「一夜夫」と解釈される。「我が家の門に千鳥が起きよ起きよとしきりに鳴いています。私がはじめて寝た一夜夫よ人に知られぬうちに帰ってください」とうこと。


巻 17

324) あしひきの 山谷越えて 野づかさに 今は鳴くらむ 鶯のこゑ   山部赤人(巻17・3915)
・ 「野づかさ」は野の丘陵をいう。「山や谷を越えて今は野の丘にうぐいすの鳴く声が聞こえます」 こんな清淡な歌を赤人が詠んでいる。しかし平凡な歌の中に在って赤人の歌は平易なのに異彩を放っている。
325) 降る雪の 白髪までに 大君に 仕えまつれば 貴くもあるか   橘諸兄(巻17・3922)
・ 聖武天皇の天平18年正月、雪が降って積った。左大臣橘諸兄、大納言藤原豊成ら諸王諸臣をさそって宮中の往き祓いをしたのち、酒席を賜って歌を奉った。「降る雪の」は「白髪」にかかる枕詞。「白髪になるまで大君に仕えられることは貴くありがたいことだ」ということ。新春歌始めの会のようなめでたい席に年老いて参加できる幸せを謳った。
326) たまくしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり   大伴家持(巻17・3987)
・ 「たまくしげ」は「二上山」にかかる枕詞。二上山は越中射水(いするぎ)郡・氷見(ひみ)郡の聳える山である。「春になり、二上山に鳴く鳥の声が懐かしい季節になった」ということを、理屈で運ばず、語気で運んだ家持流の剛毅な歌である。
327) 婦負の野の 薄おし靡べ 降る雪に 宿借る今日し 悲しく思ほゆ   高市黒人(巻17・4016)
・ 「婦負(めひ)の野」は射水郡小杉町の平野であると言われる。黒人の羇旅の哀愁の歌である。
328) 珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり   大伴家持(巻17・4029)
・ 題詞に珠洲郡より船出して治府(国府)に帰る際、長浜湾に泊して、月光を仰ぎ見て作れる歌」である。中央官僚の家持が春の出挙(官の稲を貸す)で地方巡行をしている時の歌である。「朝早く珠洲を船出して、長浜の浦で夜になった。月が美しく照らしている」つこと。「月照りにけり」という表現は万葉では唯一であって、それが家持の句だという。


巻 18

329) あぶら火の 光に見ゆる 我が縵 さ百合の花の 笑まはしきかも   大伴家持(巻18・4086)
・ 越中国府での酒宴で、主人の少目石竹が客人らに、豆器に百合の花を載せて配った。挿頭(縵)にという趣向であった。「あぶら火の 光に見ゆる 我が縵」と「さ百合の花の 笑まはしきかも」という感覚の統合が実に見事で、家持のものを捉える力量に並み々ならぬものを感じさせる。
330) 天皇の 御代栄えむと 東なる みちのく山に 金花さく   大伴家持(巻18・4097)
・ 天平感宝元年、越中国府で「陸奥国より金を出せる詔」を賀する歌を作った。特に是という内容もない賀歌である。東大寺大仏造営に役立った。
331) この見ゆる 雲ほびこりて との曇り 雨も降らぬか 心足ひに   大伴家持(巻18・4123)
・ 雨乞いの歌である。「ほびこりて」は「はびこりて」と同じ意味で雲が群がり集まってということ。「心足ひに」は心が満足するまでということ。前半の句「この見ゆる 雲ほびこりて との曇り」に家持特有の波動的声調の力強さがあるという。
332) 雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ 愛しき児もがも   大伴家持(巻18・4134)
・ 北陸居住が長かった家持にして詠める歌で、人麿にはこういう体験がない。雪の上に照る月の美しさは家持の生活体験に根差している。


巻 19

333) 春の苑 くれなゐにほふ 桃の花 した照る道に 出で立つ嬢嬬   大伴家持(巻19・4139)
・ 「美麗にしてあでやかな桃李の苑の、桃の花の下に乙女らがにおい立つ」ということで、中国的詩的感覚が濃厚な世界である。ピンクの世界だからこそ、「出で立つ嬢嬬」の名詞止にして締めている。これも一つの工夫か。
334) 春まけて 物がなしきに さ夜更けて 羽ぶき鳴く鴫 誰が田にか住む   大伴家持(巻19・4141)
・ 「飛び翔ける鴫を見て」作った歌である。「春まけて」は「春になって」という意味で「春になって何となく物憂さを覚えるのに、此の夜更けに羽ばたきをしながら鴫が鳴いて飛んだ。いったい誰の田に住んでいるのだろう」というのである。「誰が田にか住む」によって一般手的な民謡調を脱し、個別の感情に入る。
335) もののふの 八十をとめ等が 汲み乱ふ 寺井の上の 堅香子の花   大伴家持(巻19・4143)
・ 「もののふの」は「八十」にかかる枕詞だが、乙女を詠む歌に「もののふの」は適さない。「堅香子(かたかご)の花」はカタクリの紫の花のこと。「寺に泉があって水を汲む多くの乙女らが集うところにカタクリの花が咲いている」という。なんという清楚な雰囲気であろうか。
336) あしひきの 八峰の雉 鳴き響む 朝けの霞 見ればかなしも   大伴家持(巻19・4143)
・ 「あしひき」は「峰」にかかる枕詞。「群がる山の峰の雉が鳴く声が響く、そして暁の白い霧が一面に立ち込めているのを見ると、うら悲しく身に沁みる」
337) 丈夫は 名を立つべし 後の代に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね   大伴家持(巻19・4165)
・ 家持の丈夫ぶりの歌である。「がね」はそうありたいと願うことである。ますらおは世に伝えられるような名を立つべしという事に尽きる。
338) この雪の 消えのこる時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む   大伴家持(巻19・4226)
・ 「山橘の実」とは赤い藪柑子の実のことである。「残雪のころ皆して、赤い山橘の実を見に行こう」という。
339) 韓国に 往き足らはして 帰り来む 丈夫武男に 御酒たてまつる   多治比鷹王(巻19・4262)
・ 多治比真人鷹主が、遣唐副使大伴胡麿宿祢を餞して作った歌。寿歌の体をなしている。
340) 新しき 年の初めに 思ふどち い群れて居れば 嬉しくもあるか   道祖王(巻19・4284)
・ 正月石上朝臣宅嗣の家での祝宴で、大膳太夫道祖王が作った歌。新年の祝賀会の雰囲気がよく出ている。心のあった友人が集うのは楽しいねというくらいの歌である。
341) 春の野に 霞たなびき うらがなし この夕かげに うぐいす鳴くも   大伴家持(巻19・4290)
・ 家持即興の歌。「霞棚引き」とか「夕かげにうぐいす鳴く」が雰囲気を盛り上げ、「うらがなし」という哀愁の気持ちに落ちる仕掛けである。この深く細身のある歌調は家持の開発したもので、人麿以前にはなかった。
342) わが宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕かも   大伴家持(巻19・4291)
・ 後世の「あわれ」の歌調であろう。叙景からさみしい・悲しい心情の変化が万葉に出てきたのである。前半が叙景、後半の句が叙情である。しかしこの歌はまだj叙景に具象性(写生)があるので、中世の「幽玄」にはならなかった。
343) うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり 情悲しも 独しおもへば   大伴家持(巻19・4292)
・ 「うらうらに」は「春うらら」のこと。前半の句が叙景、後半の句が叙情である。「麗らかに照らしている春の光の中で、雲雀が空高くのぼる、独るでいると心が悲しい」ということ。この歌と前の2つの歌は独詠の歌である。


巻 20

344) あしひきの 山行きしかば 山人の 朕に得せしめし 山づとぞこれ   元正天皇(巻20・4293)
・ 元正天皇が添上郡山村に行幸になった時の御製歌。「山裏(やまづと)」とは山のお土産のようなもの。「山に行ったら、山の住民がいろいろお土産をくれた。これがその土産だ」ということで、神仙的な中国の故事をなぞった歌である。
345) 木の暗の 繁き尾の上を ほととぎす 鳴きて越ゆなり 今し来るらしも   大伴家持(巻20・4305)
・ 「鬱蒼とした木立の茂っている山上を霍公鳥が今鳴いて越えてゆく、間もなくこちらにやってくるようだ」 現在の「ほととぎす鳴きて越ゆ」から未来の「今し来るらしも」につなぐ、時間の経緯の処理がこの歌の持ち味である。
346) 我が妻も 画にかきとらむ 暇もが 旅行く我は 見つつ偲ばむ   大伴家持(巻20・4305)
・ 天平勝宝7年、坂東諸国の防人を筑紫に派遣して、先の防人と交替させた。その時派遣される防人が作った歌が一群となってこの巻に収録されている。この歌の作者は物部古麿である。「自分の妻の姿を画にかいておく時間がほしい。これから筑紫仁旅立つ自分はその絵を見て妻を思い出したいのだ」ということ。自分の妻の絵を描くという所作が珍しい。
347) 大君の 命かしこみ 磯に触り 海原わたる 父母を置きて   防人(巻20・4328)
・ 丈部造人麿が作った歌。「天皇の命令で任地に行く船旅で、何度も船が磯にぶつかるという危ない思いをして、海を渡って防人に行く。父母は故郷に置いたままだが」ということ。動詞がブツ切で綴ってゆくのは、作歌の習練が未熟なためである。防人の歌には両親の事を云うものが多い。特攻隊兵士の遺書を見る様だ。特攻隊兵士の悲惨な点は、書いたものに検閲が入るので言いたいことは言えず、威勢のいいウソしか書けなかったことである。
348) 百隈の 道は来にしを また更に 八十島過ぎて 別れ行かむ   防人(巻20・4349)
・ 刑部三野の作った歌。難波から船出をする時の歌。これまで陸路をはるばるといろんなところを歩いて来たが、これからは更に船に乗って多くの島を過ぎて筑紫へゆくことになる」ということ。巧みではないが、真摯に歌って歌となっている。
349) 葦垣の 隈戸に立ちて 吾妹子が 袖もしほほに 泣きしぞ思はゆ   防人(巻20・4357)
・ 上総国市原郡 刑部直千国の作った歌。「出立の間際まで葦の垣根の隅に立って、袖もしほほに泣いていた妻のことが思い出されてならない」ということ。
350) 大君の命 かしこみ出で来れば 我ぬ取り着きて いひし子なはも   防人(巻20・4358)
・ 上総国周准郡物部竜の作った歌。「天皇の命令を畏み出立してきたのだが、私にとりついて泣き言をいういとしい妻よ」ということ。「子なはも」は「子ろはも」が訛ったもの。
351) 筑波嶺の さ百合の花の 夜床にも 愛しけ妹ぞ 昼もかなしけ   防人(巻20・4369)
・ 常陸国那賀郡大舎人部千文の作である。「筑波嶺の さ百合の花の」は「夜床(ゆどこ)」に続く序詞である。場所を表現した序詞で意味がある。「夜の床でも可愛い妻であるが、昼間でもやはりかわいくて忘れられない」ということ。この歌は素朴直截的で親しまれる。
352) あられ降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍に 吾は来にしを   防人(巻20・4370)
・ 前と同じ大舎人部千文の作である。鹿島の神と香取の神は軍神として古代から崇敬されてきた。防人らは出立する前、またはその途中に御参りをして武運長久を祈願したのである。常陸国の国府は今の石岡にあったから、徒歩で鹿島神社に行き、そこから下総国海上郡に出た。「武神であられる鹿島の神に参拝し、武運を祈って天皇の軍隊に私は加わりました」という。
353) ひなぐもり 碓日の坂を 越えしだに 妹が恋しく 忘たえぬかも   防人(巻20・4407)
・ 上野の他田部子磐前の作。「ひなくもり」(薄日)は「碓日」にかかる枕詞。「碓氷峠を越えたばかりだというのに、残してきた妻が恋しくて忘れられない」ということ。群馬県から碓氷峠を越えて信州に入りそれから美濃へ出るコースは今と同じ。
354) 防人に 行くは誰が夫と 問う人を 見るが羨しさ 物思ひもせず   防人の妻(巻20・4425)
・ 防人の妻が作った歌。「防人に行くのは誰と、何の屈託もなく話している人見るのは羨ましい」ということ。赤紙(召集令状)を貰った夫の妻と、そうでない女性の会話の落差、悲嘆と羨望の谷間にいる妻の気持ちがよく出ている。
355) 子竹が葉の さやぐ霜夜に 七重着る 衣にませる 子ろが膚はも   防人(巻20・4431)
・ 「笹が騒ぐ霜の夜は、七重の衣より、お前の膚が温かい」ということ。これは防人の歌というより、ただの東歌に類した民謡であろう。
356) 雲雀あがる 春べとさやに なりねれば 都も見えず 霞たなびく   大伴家持(巻20・4434)
・ 防人を検校する勅使や、兵部の役人の宴での家持の歌。「さやに」は、清に、明瞭にという意味である。辺地に防人を送っておきながら、中央官僚は酒宴を開いて都を恋しがっている構図です。
357) 剣刀 いよいよ研ぐべし 古ゆ 清けく負いて 来にしその名ぞ   大伴家持(巻20・4467)
・ この歌は不気味な響きのする歌です。家持は天平勝宝8年に「族に諭す歌」を作った。淡海真人三船の讒言によって、出雲守大伴古慈悲が解任された事件が契機になっています。一族の心を引き締め、天皇の兵部としての大伴氏の家柄を守るため、一族の心を引き締めるための歌です。名門大伴の家運が下火になっている状況に警鐘を鳴らしています。取りようによっては、クーデターの烽火のような歌です。
358) 現身は 数なき身なり 山河の 清けき見つつ 道を尋ねな   大伴家持(巻20・4468)
・ 大伴家持が病に臥して無常を悲しみ修道を欲して作れる歌です。仏教の教えに導かれて、濁世を厭離し、自然に抱かれて極楽往生を願う歌です。一種思想的叙情歌であるので、難しい歌になり易いのだが、家持は感傷を以てそれを統一している。
359) いざ子ども 戯わざな為そ 天地の 固めし国ぞ やまと島根は   藤原仲麿(巻20・4487)
・ 天平宝字元年、藤原仲麿(恵美押勝)が作った歌。橘奈良麿らが仲麿の専横を憎んで乱を図った。それを未然に防いだ仲麿の歌である。「廷臣よバカなことをするな、大和の国の土台はしっかりしているのでビクともしないわ」という勝利宣言である。とげとげしく増上の気配が強い嫌な歌である。藤原一族の朝廷支配に対して、旧来豪族と貴族の反抗があちこちで噴火した時期である。こうした抗争を通じて、藤原一族の一元的支配が確立してゆくのである。
360) 大き海 水底深く 思ひつつ 裳引きならし 菅原の里   石河郎女(巻20・4491)
・ 藤原宿祢麿朝臣(宇合の子、内大臣)の妻、石河郎女が離別され悲しみて作れる歌。「大き海 水底深く」は「思いつつ」に続く序詞。「菅原の里」は大和生駒郡(奈良市の東)の宿祢麿の屋敷がある地である。「深く君を思いながら、裳を引きならして遊んだあの菅原の里がなつかしい」ということ。離縁という事件を考えないなら、この歌のやや軽いことは否めないのは時代になすことかも。
361) 初春の 初子の今日の 玉箒 手に取るからに ゆらぐ玉の緒   大伴家持(巻20・4493)
・ 孝謙天皇が正月三日(初子の日)、王臣に玉箒を給い、宴を開いた。「玉箒」は玉で飾った箒のことで、目利草で作った。農桑の奨励のため、天皇自ら玉箒をもって蚕卵紙を払い、鍬鋤で耕し豊作を祈願すした後に、臣らに玉箒を賜った行事があった。流麗な歌調の内に重みをたたえる歌であるという。
362) 水鳥の 鴨の羽の色の 青馬を 今日見る人は かぎり無しといふ   大伴家持(巻20・4494)
・ 正月七日の白馬の節会(青馬を見て一年の邪気を払う)に作った儀式歌である。青馬とは白馬のことである。なぜ白馬がめでたいのかは不詳だが、寿命が限りないということらしい。神社の馬は白馬である。「水鳥の 鴨の羽の色の」は青に続く序詞、青の形容詞である。
363) 池水に 影さえ見えて 咲にほふ 馬酔木の花を 袖に扱き入れな   大伴家持(巻20・4512)
・ 家持の「山斎属目」の歌だから、庭の様子を写生している。「馬酔木の花を袖に扱き入れな」がこの歌の眼目である。家持は特に苦労しないで、従来の手法を踏襲しているだけである。全体として写生が足りないという。
364) あらたしき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事   大伴家持(巻20・4516)
・ 因幡国庁において、正月元旦に国司の大伴家持が国府の役人を集めて饗した時に作った歌。正月の恒例の形式的な吉祥歌である。万葉集最後の結びに位置し、万葉集編集の最大の功労者である家持の歌を挙げたまでである。


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