160630

文藝散歩 

西郷信綱著 「古事記の世界」
岩波新書 (1967年9月)

律令制度に組み込まれる前のぎりぎり遺された、神々の声が響き合う倭の神話の世界

古事記は上巻で神話時代を、中卷で神武天皇から応神天皇まで、下巻で仁徳天皇から推古天皇までを扱っている。古事記はいうまでもなく正史としての歴史書(それは日本書紀に譲る)ではないが、政治的に奈良時代の天孫系皇統の正統性を主張していることは明らかである。本書、西郷信綱著 「古事記の世界」は古事記上巻(神話時代)と中巻の神武天皇だけを対象としている。神話の内容としては、@イザナギ・イザナミ 黄泉の国、Aスサノオ命 罪、Bアマテラス 天の岩屋戸、Cオオクニヌシ大神 出雲神話、D八千矛神 古代歌謡、E天孫降臨 地上君主の出現、F日向三代 聖なる系譜、G神武天皇 初代天皇 からなる。本書が対象とする神話時代は歴史ではない。時間軸もない。しかし古事記中巻と下巻は地上の王権を対象とするので、すべてがそうでないとしても一応歴史時代に入ると考えなければならない。史実と対応をよく吟味しなければならない。そういいう意味で古事記は全部文学的神話だという事ではない。しかし本書は神話時代しか扱わないので、古事記全体の評価は別途考えなければならない。ではその古事記の神話をどう読むかが問題とされる。著者西郷信綱氏の読み方は「共存関係」を通して飲み相手を理解しうるという原理に基づく。現在の社会学者や人類学者は必ずフィールドワークを基本とする。一定期間(2回体験する意味で最低2年)は現地の住民と言語と生活を共にすることが必須の条件となる。外から眺め各種資料を読んだうえでの知性主義の人類学とは、方法論上決定的な差異がある。古典の読み方もテキストとして読んでいるだけでは決して本質に迫ることはできない。明治以来天皇制国家主義を国是としてきた故に、古事記は大きくイデオロギーによってゆがめられた。古代人と同じ言葉で会話することは限られた人以外にはもう不可能であるとしても、彼らの生活の背景について十分に想像力を働かせないとテキストの理解はおぼつかない。黄泉の世界、スサノオの凶暴性、天の岩戸ごもり、天孫降臨、出雲神話の二重構造など、簡単には理解できない問題である。古事記はメソポタミアの「ギルガメシュ叙事詩」ほど古い時代ではないにしろ、日本最古の文献である。8世紀初めに編纂された、「風土記」や「日本書紀」に先立つ文献である。古事記の言葉の註釈も完全とはいいがたく、その本質は未だに理解されていないという。「天」、「葦原」、「天の岩戸」、「産屋」など古代においてどのような意味を放射していたかほとんど解明されていないという。著者は決して「反知性主義」を標榜するわけではないが、古代の言語社会の理解はそれほど難しいということである。それを認めたうえで江戸時代の伊藤仁斎や本居宣長とかが苦労したことを、再度考え直そうという事である。本居宣長は近代の合理主義を「賢しらな道」といって排除した。古代人の非合理性を強調して現代人の合理性を買いかぶるが、過酷な状況で生きて対処してきた古代人の生活が非合理であったなら、とっくに人類は滅んでいた。むしろその時古代人がどう考えどう対応したかをその時代に戻って想像する力が私たちには欠けているのではないか。古代人=非合理、現代人=合理的知性という図式は素朴な進化論に過ぎない。津田左右吉「日本古典の研究」は古事記・日本書紀研究の歴史的価値を持つ著作であるが、その基調は19世紀風の知性主義・啓蒙主義・進化論にあった。神話=未発達な文化ととらえ、「後人の追加」、「潤色」とかいって本来検討対象であることをあっさり切り捨てるために濫用された。神話はあやまれる科学であり、幼稚な思想であるという。一番先に歩いているのはイメージや象徴であり、理論や概念は後から追いかけるものだという考えが見直されてきた。理論とイメージ、概念と象徴、科学と神話という対比は克服されべきことではなく、並行して存在するものである。明治以来の絶対主義的天皇制の迷信の衣をはぎ取る津田歴史学の功績は大きいが、この抽象的合理主義と非合理主義は、神話の克服と復活は歴史学では永遠の循環を繰り返している。神話とロマンは芸術の永遠のテーマであるが、政治的世界では高貴な野蛮と残忍な野蛮との二重性が繰り返される。現代政治においてもナチスや天皇制ファッシズムは、自分は高貴な民族、他人は殺してもいい劣った民族という図式で残忍な戦争を正当化・美化した。「美しい日本」とは「高貴なアーリア民族」と同列である。だからユダヤや韓国を侵してもいいという論理にすり替えられた。こrを「代用神話」(欺瞞、嘘 原発安全神話)と呼ぶ。しかし人間の生にとって神話とは何かを吟味しなければならない。神話は子供っぽい未熟な思想ではなく、祭礼と絡み合った思想以前の言葉を持ってする「象徴行為」である。それは生活的・社会的・宗教的範疇を持つ。範疇(内容、背景)を持たない情緒的象徴主義がはびこるとついには人間の理性を踏みにじる。神話は科学でいう処の仮説に似ている。実証(証明)前の行動原理である。古事記は古代人の経験の現れであり、まず理解できないことを含めてその意味を問い続けることで本質に迫ることだ出来る。古典「古事記」は目の前にある山のようなもので、特定の概念で内容を排除されてはならない。ましてや神話が一つの政治体制の擁護のために利用されると、神話は支配イデオロギーの道具に堕落する。古事記は決して最高でも最上でもない。そのものとして理解しなければならない。古事記はいつも反動イデオロギーのいいカモであった。本居宣長は古典を解するには、「言」と「意」を明らかにすべきだと言ってきた。その言と意において古事記の本質をを読み解くことが本書の目的である。

著者は本書の「あとがき」に、影響を受けた3人について書いています。一人は言うまでもなく本居宣長です。「古事記伝」の著者ですので当然なのでしょうが、さかしらな合理主義を排して知覚の信に基づいて事物の本質に迫る学問の方法論です。彼には国粋主義や神秘主義という間違った方へ流れたという欠点がありますが、彼の学問自体がすでに古典です。小林秀雄全著作集 「本居宣長」(新潮社)という本第28章から第31章にかけてに本居宣長の古事記研究がまとめられている。
第28章 古事記序 稗田阿礼の誦習について宣長の意見
宣長は稗田阿礼が誦習したを大変大切なことと考えた。「ただに義理をのみ旨とせむには、まず人の口に誦習はし賜うは、無用ごとならずや」 すなわち古事記の修史の目的が内容ではなく古辞の表現に在ると宣長は断定したのである。それ以降にも柳田国男氏の稗田阿礼を語り部猿女君の流れに見る意見や、折口信夫氏の口承文藝の伝統を祝詞や宣命に原点を求める意見があり、二人は宣長派直系ともいえる。天皇が昔の言葉の意味を保存するためという文学趣味で、勅命で古事記を編纂するとも思えない。やはり宣長の言う「内容より言葉だ」という見解は頂けない。ただ日本書紀が漢文で書かれたことと古事記が日本語(音訓読みの漢字)で表記されたことは、編纂目的を異にするはずである。律令制の国体が整備された後で中国を強く意識して、国史を書き直したのが日本書紀だという現代の意見もうなずける。
第29章 古事記序 稗田阿礼の誦習について津田左右吉の意見
津田左右吉氏の「神代史の新しい研究」の「記紀研究」(大正2年)では、徹底した科学的批判が行られ津田史学はその後の歴史研究に多大の影響を与えた。津田氏は「宣長の古事記研究の成果は無視できないし、是については感嘆のほかはない」ともいっているが、ここで問題にするのは古事記序の稗田阿礼の誦習についてである。津田氏は日本書紀から引用し「帝紀及び上古諸事」とあるのを引いて、「辞」を「事」とする考えを動かさない。つまり古事記は言葉ではなく事跡を記録したものである。誦習とは暗誦ではなく、「誦む」は「訓む」つまり解読という意味である。宣長と同じ問いかけ「便利な漢字があるのになぜ、記録するためになぜ口うつしの伝誦が必要なのか」から出発して、宣長とは違う見解に達した。
第30章 古事記撰録の目的、 「訓法の事」
宣長は「そのかみ世のならひとて、万の事を漢文に書き伝ふとては、その度ごとに、漢文章に牽かれて、もとの語は漸に違いもてゆく故に、かくては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ裳のぞと、かしこく所思看し哀しみたまえるなり」という風に、言葉が漢字に毒されて失なわれてゆ事を天皇が哀しんで撰録を命じられたといっている。何処にそんなことが書いてあるのか。宣長は紙面にないことを言っている。小林氏は「支配者大和朝廷が,己の日本統治を正当化しようがための構想に従って書かれた物で、上代のわが民族の歴史ではないと言っても、何を言ったことにもならない。編纂が政策によったものにしても、歴史事実を無視しては進めない」という風に極めて物分りのよさそうな出だしで訳の分からないことをいっている。
第31章 古事記神代之巻
古事記神代之巻の荒唐無稽な内容は近世の多くの史家を悩ました。儒学者特に朱子学者は合理主義者であり、古事記の非合理的解釈を拒否して、水戸光圀編纂「大日本史」や、林鵞峯編纂「本朝通鑑」にしても神代は敬遠して神武から始めている。ところがなぜか江戸幕府の儒者新井白石は将軍家宣の要請で「古史通」を著し、そこで神代の合理的解釈の一例を示したが、納得できるものではない。津田左右吉氏は記紀研究において「新井白石は、元来不合理な話を合理的に解釈しようとして牽強付会に陥っている。宣長は一字一句文字通り真実とみなしているが、人間として不可能でも神としては可能だという。これはもう論理ではない。
二人目の著者が影響受けた人はエヴァンズ・ブリッチヤードを中心とする英国の社会人類学です。西郷氏は本居宣長を縦糸に、英国社会人類学を横糸にしたと言っています。原始的文化や社会との交わり方を教わったと言います。三人目の影響を受けた人として、メルロ・ポンチの哲学「知覚の現象学」を挙げています。哲学が個別の学に先行し、それらを主導する力に衝動を覚えたと言います。これらの理論に導かれて、本書の始めに「神話の言語・範疇」という章が設けられています。

1) 神話の言語と範疇

古事記においてはもちろんのことであるが、その言葉を理解するには、それがいかなる主体によっていかに語られているかが大切である。特に神話の言語は簡単に現代語訳ができない独特の範疇と性格を持っているので、註釈の誤読には気を付けなければならない。古事記における一つの例として「葦原中国」がこれまでいかに誤読されてきたを吟味する。頻繁に使われてきたが古事記の本質を理解する戦略的価値を持たされている。@宣長の解釈は天より見るとと葦原の中にある国という意味で天上から見る視線である。A次田潤一氏は「五穀豊穣の地」という。B松岡静雄氏は開墾されていない地を天上人が見た命名で、ある特定の地を指していたようだという。C白鳥庫吉氏は繁殖力の大きい天国のような豊かな地であるという。D古典文学大系「古事記・祝詞」では高天原と黄泉国の対するもう一つの世界を指す。人の生きる現実の国という意味である。E古典全書「古事記」では生命力の象徴と読む。以上がすべてではないが、いろいろに解釈されてきたことが分かる。宣長の説を除いて他はすべて的外れだと著者は評している。葦原を荒原野とみるか、「豊葦原の水穂国」とみるかのイメージ論争である。そして中にいる者の自然状態の表現か、ある者の視線から見るかという「方位」の問題である。「葦原中国とは高天原よりいえる号」とした宣長の卓見を除いては逸脱と歪曲だらけの解釈であるという。高天原からの方位という、徹底した宣長の経験主義の勝利と言えるが、それは歴史上の位置ではなく一つの神話的世界を意味していた。事実の次元を超えた想像力の世界では宣長は無力であった。葦原とは葦の茂った未開野蛮の地という規定が高天原から名づけられた。それ故に天孫によって征服と統治の対象となった。原始社会で名をつけることで所有することを意味する。これは自然状態における私的所有の発生に似ている。そこにおける付加価値とは墾田と治水である。葦原中国は「ちはやぶる荒ぶる神ども」の多くいる国とされている。天照大神が「いたくさやぎてありなん」と言って、葦原中国が争いの多い混乱した国というイメージを植え付けた。「醜めき国」の王である大国主神を「葦原醜男」と呼ぶ。つまり具体的には{葦原中国」は大国主神が治めている出雲の国のことであった。古代では葦原という言葉は、荒、穢、醜とかいうマイナスのイメージで差別される蔑称領域のことであった。葦原中国という表現は、出雲を志向するというこの神話的構造が支配的である。高天原、葦原の中つ国、黄泉の国という上・中・下の三重構造の神話的世界像に他ならない。出雲は黄泉の国の至る入口であると考えられた。高天原は、日本の主権の正統性が由来する天上の世界であった。高甘原をいわゆる「天孫族」の故郷と短絡すると、それはあしき歴史主義に流れてゆくのである。国に対する天はイデーの神話的世界である。神代の物語(古事記上巻)はこの天上の他界としての高天原を座標として語られている。決して大和を座標とは限定していない。二つの座標が等速運動をしているなら、相対性原理から二つの座標で成立する法則は等価である。これが歴史主義という近代知性の主張であるが、しかしいまのところイデーとしての神話的世界はこの世の時間軸に制約されるものではないとしておこう。大国主神のいる出雲は、古事記神話の舞台で並々ならぬ比重を以て、決定的な役割を果たしている。征服されるべき対象というより、並び立つ相補関係にある。出雲と大和、そして卑弥呼が君臨したという邪馬台国との関係はどうなっているのだろうかと歴史好きにはロマンを掻き立てられる。歴史時代に入った記紀神話では邪馬台国は一切無視されている。村井康彦著「出雲と大和」(岩波新書 2013)は、出雲王国の考古学遺跡から始まって邪馬台国、出雲国の建設、大和王朝へ国譲り、出雲国造と風土記の関係を論じる見通しのいい学説である。古事記は失われてゆく神話を語るのもであり、歴史への束縛は趣旨に反するので紹介するにとどめる。

大和と出雲を結ぶものは神話的世界であり、日いずる大和から見て出雲は西の果ての日の没する方位を代表していた。大国主神を祀る社は「日隅宮」といわれた(日本書紀一書)。出雲は古事記では「八十隈手」という道の限界という僻遠の地にあると言われた。こういう日隅、退く、幽る、隠れる、くまといった言葉はすべて同一の範疇(概念のエリア)に属する語である。八雲立つ出雲という褒め言葉も、雲に閉ざされた国というイメージを持たされている。出雲が黄泉の国の入り口であるとされるが、黄泉の国を訪れたイザナギがイザナミに追われた黄泉比良坂は出雲の伊賦夜坂だと古事記は言う。神話は政治の反映ではなく、その独自な表現(イメージ支配)であったと見るべきであろう。神話的(宇宙的)なものは社会的なものに優先する時代が確かにあった。神的・祭礼的権力こそ王権そのものであった。日の没する出雲と日のいずる大和の関係(宇宙軸)は伊勢に至って完成した。大和の象徴的中心が香久山で、伊勢の中心は伊勢神宮である。風土記にも見えるように天から降りてきた天の香久山はアマテラス大神のいます天への登り口であった。大和の宮廷が高天原に連なる聖なる中心点とされた。東進する大和王朝は伊勢神宮に居を置いた。江戸幕府を築いた家康を祀るため、江戸の東北の方位に日光東照宮を置くと同時に、江戸の西南の久能山に東照宮を置いたのと同じ方向感覚である。日本書紀では伊勢神宮に天照大神、倭大国魂二神をまつり、豊鍬入姫とヌナキ入姫に託して祀り、途中で豊鍬入姫を外して倭姫命に代えたとされる。天照大神が宮廷から外され伊勢神宮に移したことは、神人分離といわれ、また斎宮制の始まりとされる。初代斎宮は倭武の姉倭姫である。斎宮制は邪馬台国女王卑弥呼にその原型があるといわれる。女王卑弥呼は古来より政教一致の原型である。又古くから九州地方の土蜘蛛(地方豪族)の首長として、女の首長は風土記に多く見られる。彦姫による政治的・宗教的二重統治が古い日本では固有の形態であった。さらに天王と斎宮との関係は、兄妹ではなく父娘の関係に変えられ、政治的中心から離れた伊勢の地に配置することで、天皇の政治力の相対的独立性が高まった。部族社会では女性もトップで活躍したものだが、天皇制が確立されるにつれ女性は斎宮制(霊の世界)の中にとじこめられた。伊勢神宮は最初から天孫系のものであったのではない。ウズメ(猿女)と猿田彦を祖とする伊勢の土豪が取り込まれたのである。斎宮が中央から派遣されるようになって、猿女は追い出されたのである。伊勢は「傍国のうまし国」と謳われた伊勢は出雲と同じように辺境の国であった。しかし伊勢は太陽に近い。夜に近い出雲とは好対照をなす。伊勢神宮に祀られているもう一人の柱である大和大国魂は後日ヌナキ入姫から、倭国造の祖長尾市宿祢に祀らせることになった。神武天皇の東征の水先案内人を務めたのが倭国造の祖椎根津彦であった。大和朝廷が大和を支配下に置くにはその国の神の協力が必要であったため、功労者として天照」大神と倭大国魂とが相殿に祀られた。そして倭大国魂はたんに大和の地の神であるにとどまらず、大穴大神の出雲大社の別宮であった。このことは出雲国造神賀詞にしっかり描かれている。こうして倭大国魂が大国主の荒魂で、大物主はその和魂として、出雲の大国主神の分霊として天皇の守り神となったといういわれである。その過程こそ大国主のいわゆる国造りの実質であった。国造りは国譲りとほぼ同義である。大国主がたくさんの魂(名前)をもっていることは、古代の国造りが多数の部族の離合集散の過程を経ていることから、大国主はその象徴としての名であり、それはいくつにも分割され、供給される融通無碍のイデーであったと見るべきである。天照大神を中心に天つ神の世界が形成される過程は、同時に大国主を極として多くの神が収斂されてゆく過程なのであり、出雲大社と伊勢神宮の創立はやはり同じ過程の二元的対立で会った。大和の地から全国支配へと発展しつつあった王権の政治的・宗教的表現、つまり二重構造を表現しているのが古事記であると言える。古事記が読み間違われるのは、言葉が言語の問題だけではなく、神話的思考の本質までに関係しているからである。そこで下に範疇表を作成し、古事記の読み方の参考にしたい。

範 疇 表
分類
神話的イメージ
甲類
(天上)
a 高天の原
b 天つ神
c 伊勢
d 日向
e 大和
a  聖
b 善
c 陽
d 天
e 父
f 東
g 中心
h 上
i 秩序
j 文明
乙類
(地上)
a' 葦原中国
b' 国つ神
c' 出雲
d' 熊襲
e' 熊野 
a' 俗
b' 悪
c' 陰
d' 地
e' 母
f' 西
g' 隅(周辺)
h' 中
i' 混沌
j' 未開
乙'類
(地下)
a" 黄泉の国
  (根の国)
a" 穢
b" 罪
c" 暗
d" 地下・海底
e" 極西
f" 隅の外
g" 下
2) イザナキ・イザナミ 黄泉の国

イザナキ・イザナミ二神は、四国、本州の国々を次々と生んだ。これを大八島国という。さらに吉備の児島、小豆島、そして海の神、山の神、風の神など合わせて35柱の神を生んだ。イザナミは最後に産んだ火の神カグツチによって焼かれて死んだ。イザナキは亡くなった妻に会いたくて黄泉の国に行った。死者の世界は範疇表に見る様に、穢れた世界である。腐敗した妻の死体を見たイザナギは恐れおののいて逃げだしたが、見られて恥をかかされたイザナミは怒って黄泉醜女にイザナキを追わした。「見るな禁止」を犯したイザナキほうほうの態で黄泉比良坂を「千引の石」で塞いで逃げるという逃亡譚である。その逃亡譚が実に面白く笑えるのである。「見るな禁止」譚は他に、山幸彦の妻豊玉姫のお産の場面がある。海族神の妻の正体が鰐であることを覗き見された豊玉姫は海に逃げ去る話である。「見るな禁止」を破って責任をとらずに逃げるのが日本人の原罪であると、古事記を精神病理学から読んだ、北山修・橋本雅之著「日本人の原罪」(講談社現代新書 2009)という本がある。死者は殯(あらき、かりもがり)の一定期間(49日)は魂は体と共にあるとされる。つまり死者の通過儀礼としての「あらき」を描いた場面である。その間に、生き残った者の間に身分上の再編成が行われ、相続問題が取り決められる時間が必要である。古代朝廷ではこの期間に王位継承に絡んだ反乱が引き起こされた。殯(あらき)の期間とともに生物的死と社会的死が終了するのである。それが死者への恐怖と重なるからである。死体安置所であるアラキに固有の腐臭がある。霊的ではなく肉体的悪臭である。火葬の普及とともに死者の世界が理念化され、アラキの制も廃止された。人は死者の恐れから解放されたが死の恐怖が目覚める。仏教が普及するまでは死後の世界はこの世との連続性がみられる。黄泉の坂をふさいだ石のことを古事記では「道反大神」、「塞ぎ座す黄泉戸大神」と呼び、書紀では戸の塞の大神」と呼ぶ。この塞を民間の「さえの神」(道祖神)信仰につながる。村の境で悪霊の侵入を防ぐ石神である。地蔵信仰もその仏教的変容である。書紀の一書にはイザナミを厄病神として遇されていることを示している。鎮花祭は季節の花で疫病退散を願う祭りである。死者は恐怖の対象であるとともにケガレの源であった。神道はケガレを忌む宗教といって過言ではない。「いなしこめしこめき穢き国」とは黄泉の国を指す。イザナキが禊ミソギをしたのは筑紫の日向である。この地は詮索してもしかたがない。暗い黄泉に対する日の照らす東の海という概念に過ぎないからである。イザナキが禊をして天照大神、月読命、建スサノオ命の三神が生まれた。

3) スサノオ命 罪

イザナキは、天照には高天の原を、月読は夜の世界を、スサノオには海原を治めよと命じたが、スサノオはいう事を聞かず母の国根の堅州国に行きたいと泣き騒いだ。このことからスサノオが海と黄泉国に深い関係を持つことが分かる。海底と地底という、天上のイメージの対極を象徴している。スサノオはもともと黄泉国の住人で、黄泉と海の印象が切り離せないのである。風土記に伝える浦島子物語も海阪を越えなければ陸上には還れなかった。海洋民族の古い共通のイメージがそこにはある。皇孫の朝廷が地上のありとあらゆる罪を海原に解き放った。河瀬にいたセオリツヒメ、荒塩のハヤアキツヒメ、悪気のイブキドヌシ、根の国のハヤサスラヒヒメらに罪を呑み込み、吹き散らし、流失させたという徹底ぶりである。天孫の朝廷は地上からあらゆる罪(悪)を払しょくした。大祓という儀式で罪が根の国に追い払われるのは、根の国が罪の源泉であると考えたからである。まさにスサノオが根の国の罪の荒ぶる化身であったというようである。大祓は今も6月晦日と12月晦日に行われ、6月のは平安期には「夏越の祓」と呼ばれる。また道饗祭は6月晦日の大祓の後に行われる。罪を黄泉の国に追い払って、悪霊が黄泉国から入ってこないようにする祭りである。さらに農村には虫送りと称して藁人形を村の境界の外へ送り出す民俗行事も罪の概念から来たものである。かかる悪霊の化身がスサノオであることは明白であろう。スサノオが高天の原で働いた数々の悪行である、畔放、溝埋め、頻蒔、串刺、生?逆剥、糞戸などを大祓の天つ罪と呼ぶ。農業神としての朝廷の「大嘗祭」の神聖を穢す罪である。聖なるものを穢した罪によって、天照大神は天の岩戸にこもり、スサノオは出雲に追いやられた。天つ罪に対して、国つ罪とは、生膚断、死膚断、白人、胡久美、母を犯す罪、子を犯す罪、畜を犯す罪、昆虫の災、高津神の災、高津鳥の災、畜仆、蠱物の罪である。人倫という道徳項目や病気、災いが罪となった。邪霊のなせる業と見なされた。自分の中にいる悪霊を払えば、人倫や病気、災いもよくなると信じられていた。スサノオが追いやられた地が出雲の肥の川上であった。ここは黄泉国の入り口であった。スサノオは稲作に害を及ぼす邪霊として年ごとに追い払われたが、神話的次元では秩序から追放される運命であるが如き荒ぶる巨人の役割を演じさせられた。古事記ではスサノオを悪魂として劇的なストーリーが展開されるが、書紀にはそんな物語の面白さはない。スサノオのオロチ退治の話は出雲地方の創造神話を取り込んだものである。稲作民族にとってオロチとは蛇のことであり、農業の死命を制する水の神であった。だから戸毎に桟敷を結い酒を置いてオロチの来るのを待った。そこへ天孫族がもたらした大陸の鉄器生産技術は農耕に革命をもたらした。それを象徴する英雄神がスサノオであった。古事記では(日本書紀もそうだが)敵を倒すには正規の軍隊で圧倒するというやり方ではなく、英雄が詐術で敵をだましてすきを見てやっつけるとう話がほとんどである。神武天皇の倭平定はすべてトリックによる勝利物語であった。これが智恵の勝利として英雄譚となった。スサノオがオロチ退治をして結婚したのがクシイナダヒメであった。スサノオは水の神オロチの巫女として仕えた娘を救い出し、稲の豊穣神となった。聖婚歌「八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を」という、豊穣祭の物語である。葦原の中つ国の王として国譲りする大国主は、このスサノオの末裔であった。

4) アマテラス 天の岩屋戸

スサノオの悪行に憤った天照大神は天の岩戸にさし籠った。これを「岩戸がくれ」と呼ぶ。宣長の古事記伝には「必ずしも実の岩戸ではない。尋常の殿をいったにすぎない」という。すると「かくれ」というより「こもる」という意味に近い。忌ごとを避けて外へ出ないとか、寺社に参篭するなどの、外界から隔絶して意味である。神話と祭式が連関し合っているのである。神話が祭式から発生してきたという説は、神話が古代人の幻想ではなく、生きた人間社会を表現するという見解が主流となった。無論神話は多元発生であり、祭式行為や、それとは関係ない民間伝承もあろう。逆に昔話は神話の退化であるという事もあり得る。しかし古事記に限って言えば、日本の主権(支配権)の縁起を語る神話としてそれが祭礼に基礎づけられているといえよう。古事記の記事は何らかの祭礼行為との関連を有し、それを動機として語られたといえる。古代祭式を記録した書として、貞観儀式や延喜式が遺っている。(ユダヤ教の祭礼儀式を図入りで描いた旧約聖書のように) そしてアマテラスが岩戸ごもりしたあと、八百万の神が天の安川原に集まって、岩戸の前で祭礼を取り行った。祭礼を行った神は、イシコリドメ、タマノオヤ、アマノコヤネ、フトタマ、アメノウズメらであるが、猿女の祖アメノウズメのほぼ全裸となった狂乱の舞踏はすさまじいものがあった。八百万の神のどよめきが聞こえてくるあまりの賑やかさにふと顔を出したアマテラスを引き出したのは天手力男神であった。このくだりが鎮魂祭である。鎮魂とは浮遊する魂を呼び戻して身体に鎮めるのであるが、「魂振り」と呼び魂を新たにする意味がある。一種の再生の祭礼である。魂が理念化され抽象化されるのは仏教定着後のことで、古代では魂は物的な存在で、魂は白鳥となって飛び去り浮遊するものとしての魂を揺さぶり目覚めさす行為が球振りである。今日、年玉とかあらたまの年という言葉が残っている。宮廷鎮魂祭としてはアメノウズメの原始的狂態はさすがに平安時代にはなくなっていた。アメノウズメは伊勢旧来の土豪が宮廷に差し出した巫女である。原始的ワザオギは伊勢神宮の祭神であるアマテラスを呼ぶ戻すための猿女演技である。そして鎮魂祭は豊穣を祝う大嘗祭の一部で有り、その直前に行われる。鎮魂祭は11月半ばに行われ、大嘗祭は翌日である。大嘗祭の中核は天子が殿に閉じこもって行う秘儀にありこれが「こもる」につながる。アマテラスは日の神、太陽神である。八幡系神社の縁起にはヒルメなる娘が火の光を受けて妊娠し子を産む伝承がある。風土記に見る賀茂社の賀茂別雷神の縁起に同じような神話がある。光と朱塗りの矢の違いだけである。アマテラスという名はこのヒルメが神に昇格した者であろう。海から太陽が生まれる伊勢の地に伊勢神宮が創建される過程は、ヤマト王権が政治的発展の過程に呼応する宗教的次元のことである。アマテラスは女である。それを嫌った書紀の方では、タカミムスヒを主役にしようとしている。柿本人麿は伊勢の神を「天照す日女の命」と呼んだ。天の岩屋戸は範疇表からいうと、暗闇の世界(陰、出雲国)に対する、太陽神(陽、天孫系倭王朝)の勝利という文脈の神話的表現である。そして斎宮制(父に隷従する)による女性首長の敗北物語である。

5) オオクニヌシ大神 出雲神話

中村啓信監修 「風土記」(角川ソフィア文庫 2015年)の「出雲国風土記」によると、「出雲と号した理由は、八束水臣津野命が八雲立つと言った故に、八雲立つ出雲という」と記されている。八束水臣津野命とは大国主とは別系統の国引きをした出雲の祖である。風土記を書いた責任者である出雲臣広嶋が大国主の拠点出雲郡ではなく、意宇郡を拠点とする別の出雲族である。意宇郡を中心にして出雲国が再編成さ大和朝廷に隷属してゆく過程が国引き神話の内容である。古事記ではスサノオが須賀の宮を作り「八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに・・・」と歌った起源説話を載せている。大和から見ると伊勢は太陽が昇る国であり、出雲は太陽が沈む国である。杵築大社は「日隅宮」である。その国の大王である大国主命は「葦原醜男」で、国は「いなしこめしこめき穢き国」で黄泉国に接する土地とされた。このイメージは範疇表にまとめた。大国主命は実に多くの名前を持っている(で呼ばれる)。大国主、大穴牟遅(オホナムジ)、葦原醜男、八千矛、顕国王、大国王、大物主の7つの名を持つ。この国の成長過程でいろいろな名で呼ばれていたようだ。その中で一番土地の匂いがする名前が大穴牟遅(オホナムジ オホナモチ)で、土地を持つ者という意味である。出雲風土記ではオホナモチで通し、古事記でも高天の原と関係のないところではオホナムジを用いる。ヒルメがアマテラスになったように、オホナムジが大国主になったのである。最初に出でてくる神話が「因幡の白兎」である。風土記本文ではなく風土記逸文にも「因幡の白兎」がある。古事記をまねただけのことかもしれない。書紀の一書にこの神は獣や人民のために病を療むる力すなわち「巫医」の神の性格を持たせている。そしてオホナムジの苦難の物語が展開される。スサノオの末裔であるオホナムジは動物や昆虫の助けによって、成人に至る通過儀礼を克服するのである。だから大国主は優しい性格を持つと理解され、説話として童話として親しみをもって語られる。このオホナムジ説話を締めくくるように、オホナムジがスサノオの髪を岩柱に括り付け、部屋の戸を巨岩で塞いで、武器を奪って、スセリヒメを背負って逃亡した。スサノオはオホナムジを黄泉比良坂に追い詰めたが、オホナムジに向かって「お前が大国主神に成れ、ウツシ国魂神(現世の地上の国王)となりスセリヒメを妻としてウカノ山のもとに宮を作り高天の原に君臨せよ」と叫んだという。ここでオホナムジから大国主神へ変身したのだ。地方の政治的な君主の姿が現れる。イザナキの黄泉の国からの逃亡とオホナムジの逃亡が軌を一つにしている。宮廷での即位式の儀式もかくありなんと思わせる。大国主神が宮柱を建てたウカノ山は風土記にもある出雲郡宇賀郷がそれにあたる場所である。またウカ(稲)の魂という農業豊穣霊としての地方神の誕生が語られている。この豊穣な世界の誕生説話は書紀では消されている。即位式=大嘗祭における天皇の誕生話の反射光で見えなくなったのであろう。その前提として出雲の大国主を核とした葦原中国への統合収斂が説話として語られた。出雲地方の諸部族の王は大国主のもとへ参列した。俗に神無月というのは、6月に出雲国の全土から神が集合する様を描いた俗話である。大国主の国造りはいつもスクナビコナとの共同作業として語られる。スクナビコナはオホナムジの義兄弟、鏡像、連称(対称)であった。注意すべきはオホナムジと対になっていることで、大国主との対ではない。大国主との対は大物主」である。国造りの創業作業の途中でスクナビコナは亡くなった。一人でどうしようかと嘆いているオホナムジの前に現れたのは大和の三輪の大物主であった。ここにスクナビコナとオホナムジの対と、大国主と大物主の対の二つの対がある。出雲国風土記にみえるようにスクナビコナとオホナムジの対は農業神として直接的に関係する。オオとスクは対称であり、ナは土のことである。大小の土地を併せて国造りに励むという意味で語られた。大国主と大物主の対はそれとはまったく違った過程を表現している。三輪の大物主は大国主(オオナモチ)の和魂である。つまり大和朝廷との関連で語られている。つまり「皇孫命の近き守り神」となるべく、大国主を分割配置させた。大国主が国作りをした出雲国が豊葦原の水穂の国に逆転写されるのは、皇孫が治める国になったからである。出雲の葦原中国を征服するべく、天よりアメノホヒが遣わされるが、3年経っても復命しなかったので謀反と見なされ、次いで天若彦が派遣されたが、これも大国主命の娘を妻として8年間復命しなかった。次に建御雷の猛攻によって大国主はついに国譲りを誓った。アマテラス大神の息子であるアメノホヒが出雲国造の祖となっていることは、ホノニニギの子であるホテリ命(海幸彦)は隼人の祖になる話と同じである。その弟ホヲリ(山幸彦)が皇統を継いだ。異物を取り込んで同化するのは同族的原理(ヤカラ)である。古事記においても宮廷を幹とする同族的原理で体系化される。アマテラスとスサノオは姉弟の関係であり、接ぎ木のような擬制同族関係が生きるのは、祭礼的・神話的表現を通じてである。ここに父系を以て縦に連なる同族社会の宗教的次元での構造となった。国譲り神話と表裏一体をなすのが、アメノホヒの子孫である出雲国造りによる神賀詞(カムヨゴト)という祭礼であった。出雲国造の新任式で朝廷に参拝して述べる寿詞である神賀詞(カムヨゴト)が延喜式に収められている。ヤマト王権が中央集権制を目指して律令制を施行するまでは、地方の豪族がそのまま国造(クニノミヤツコ)に任命されていた。出雲国造の神賀詞には、朝廷に服従を誓うと同時に国譲りの経過を強く滲ませた祝詞である。645年の大化の改新後に、国造制は廃止され中央からの任命になる国司制となったが、出雲国造は世襲としてそのまま温存された。出雲国造りによる神賀詞(カムヨゴト)という祭礼の古風が維持された。出雲国譲りが無血降伏であったかどうかは別にして、建御雷の凄まじい脅迫によって大国主の息子事代主は降伏したが、建御名方はこれに服さず戦いになって破れて諏訪湖にまで逃げたとされる。大物主をまつる大和三輪の神がいます諏訪の地で服従した。大国主が国造の神話的典型化であった。すなわち領土権は譲るが、祭祀権は保持する。しかし神としての独立性は失い中央の認める社として宮廷を守護する神に転じた。出雲事代主が神祇官八神の一つに過ぎなくなった。

6) 八千矛神 古代歌謡

大国主命の別名は八千矛神という。古事記には八千矛神を主役とした歌謡を伝えている。古事記上巻、大国主命の項にある八千矛の神の「沼河姫求婚」歌のことである。八千矛の神が「歌いたまいし」4つの歌詞が載せられている。古代歌謡がどう謳われたは不明であるが、現在の歌謡曲の構造とリズム、詞と調子について中島みゆきの歌と詞と題して30数枚のアルバム(300余りの曲、27年間分)を分析したことがある。歌詞の構造(繰り返し、バリエーション、さび)と、調子(アップかダウンか)、歌の内容についてを類型化した。それにより中島みゆきという歌手(シングソングライター)のj時代の変遷、曲の内容から何を問題としたかったのか、歌の特徴が分かったような気がした。八千矛の神の「沼河姫求婚」歌を下に書いて見る。男と女のラブソングの二重唱である。
@ (八千矛の神の歌) 八千矛の 神の命は/ 八島国 妻枕きかねて/ 遠々し 高志の国に/ 賢し女を 有りと聞かして/ 麗し女を 有りと聞こして/ さ婚ひに あり立たし/ 太刀が緒も いまだ解かずて/ 襲をも いまだ解かねば/ 嬢子の 寝すや板戸を/ 押そぶらい 我が立たせれば/ 引こずらひ 我が立たせれば/ 青山に 鵺は鳴きぬ/ さ野つ鳥 雉は響む/ 庭つ鳥 鶏は鳴く/ うれたくも 鳴くなる鳥か/ この鳥も 打ち止めこせね/ いしたふや 海人馳使/ 事の 語り言も 是をば/
A (沼河姫の歌) 八千矛の 神の命/ ぬえ草の 女にしあれば/ 我が心 浦渚の鳥ぞ/ 今こそは 我鳥にあらめ/ 後は 汝鳥にあらむを/ 命は な死せたまいそ/ いしたふや 海人馳使/ 事の 語り事も 是をば/ 青山に 日が隠らば/ ぬばたまの 夜は出でなむ/ 朝日の 笑み栄え来て/ 栲綱の 白き腕/ 沫雪の 若やる胸/ そだたき たたきまながり/ 真玉手 玉手さし枕き/ 股長に 寝は寝さむえを/ あやに な恋こ聞こし/ 八千矛の 神の命/ 事の 語り言も こをば/
B (八千矛の神の歌) ぬばたまの 黒き御衣を/ まつぶさに とり装ひ/ 沖つ鳥 胸見る時/ はたたきも これは適はず/ 辺つ波 背に脱き棄て/ 翠鳥の 青き御衣を/ まつぶさに とり装い/ 沖つ鳥 胸見る時/ はたたきも これは適はず/ 辺つ波 背に脱き棄て/ 山県に蒔きし 藍蓼舂き/ 染木が汁に 染衣を/ まつぶさに とり装ひ/ 沖つ鳥 胸見る時/ はたたきも これよろし/ いとこやの 妹の命/ 群鳥の 我が群れ往なば/ 引け鳥の 我が引け往なば/ 泣かじとは 汝は言ふとも/ 山処の 一本薄/ 項傾し 汝が泣かさまく/ 朝雨の 霧に立たむぞ/ 若草の 妻の命/ 事の 語り言も こをば/
C (沼河姫の歌) 八千矛の 神の命や/ 吾が大国主/ 汝こそは 男にいませば/ うち廻る 島の埼々/ かき廻る 磯の埼落ちず/ 若草の 妻持たせらめ/ 吾はもよ 女にしあれば/ 汝を置きて 男は無し/ 汝を置きて 夫は無し/ 文垣の ふわやが下に/ 蚕衾 柔やが下に/ 栲衾 さやぐが下に/  沫雪の 若やる胸を/ そだたき たたきまながり/ 真玉手 玉手さし枕き/ 股長に 寝をし寝せ/ 豊御酒 たてまつらせ/
比較的長い歌であるが、万葉集の柿本人麿の長歌に比べると、この歌の韻律上の特色が際立っている。これは読む歌(詩)ようより歌う歌(歌謡曲)の目的がはっきりしている。@楽章ではしかも身振り手振りの身体の動作とリズム一致が感じられる。それらはうたわれたものであり、詩と踊りと音楽の古代的三位一体が生きている。八千矛の神の歌は「神語」と言われるように、歌より語りであったとされるが、久米歌のような早い動きの舞踏歌というより、ゆっくりと歌われたようだ。しかも踊り手と歌い手は別々であった様だ。主格が途中で三人称から一人称に代わって、能動性(現在性)が強まっている。Aの歌は女の方が答える形で謳われ、卑猥さと滑稽さに満ちた楽章である。Bは男が着る衣の色を変えて女の気を引く歌である。黒→青→藍と色が変わるが歌詞は繰り返しである。歌が動作や所作に結び付いていた時代の形式である。歌が詩という文学になる前の形式である。歌謡的なものから叙情詩的なものへの変貌が伺われる。Cは女が男をベットに誘う露骨な性描写である。しかもマドロス歌調の女の嫉妬も入れ込んである。

7) 天孫降臨 地上君主の出現

タケミカヅチ(建御雷)が葦原中国(出雲国)を征服したという報告があって、アマテラスはアメノオシホミミが降臨させる段になって、その代わりに子であるホノニニギが降臨することになった。ここに大嘗殿での即位式となる。延喜式によると、殿の中央には、新たな天皇が生まれるという意味で衾や枕のある神坐が設けられ、その傍らに天照大神の神坐があり、前の横には采女の代坐がある。この坐の範囲が神の室であり、臣の室は前室に設けられ、左右に関白坐、宮主代坐、中央に采女坐がある。再生の秘儀を天子が演じる。天子は稲の初穂を食べるとともに、殿内の中央で衾にくるまり、そこに臥す所作を演じる。こうして天子は天照大神の子として誕生する形をとる。回立殿で湯浴みる儀式がある。浴槽で天子は羽衣を着る。これが天孫ホノニニギの降臨がなされる場面である。葦原中国は,五穀が実る豊葦原水穂国に転化する。しかもこの天孫ホノニニギが降り立ったのは日向の高千穂であった。露払い役は、アメノオシヒ(大伴連の祖)とアマツクメ(久米直の祖)の二人であった。高千穂がたんなる固有名詞でないことは天子ホノニニギと同じである。どちらの豊穣というイメージに引かれている。これを著者は「創造的飛躍」と呼ぶ。筑紫のヒムカという問題も日向ではなく「ヒムカシ(東)」からきているのである。この降臨に従ったのは、中臣の祖アメノコヤネ、忌部の祖フトダマ、猿女の祖アメノウズメ、鏡造りの祖イシコリドメ、玉造の祖タマノオヤの五伴緒である。これは天の岩屋戸の前の祭りを同じ顔ぶれであることは、天孫降臨と天の岩屋戸の話が同根であることを示している。いわば大嘗祭が、冬至の太陽の復活の話と、王の誕生すなわち即位の話とに分かれて説話化されたものである。この二つの祭りにおいてアメノウズメの活躍が群を抜いて目覚ましい。アメノウズメと猿田彦の活躍はセットになっている。アメノウズメは「いむかう神」、「面勝つ神」となっているシャーマンの面目躍如たるものがある。ウズメは高千穂に向かわず伊勢に向かった。何故ならウズメは伊勢神宮の三神職家(伊勢の土豪であった度会、荒木田、宇治土公)のひとつ宇治土公の出身であった。宇治土公は猿田彦を祖とする伊勢の土豪であった。「御食つ国志摩」と言われるように、伊勢は宮廷に海産物を貢進する国であった。ウズメは猿女と呼ばれ大和添上郡の稗田後に住み着いた。古事記の口誦者稗田阿礼はウズメの末裔で宮廷の巫女であった。ウズメと猿田彦は卑弥呼と男弟の関係と同じ姉弟の関係としてえがかれている。巫女は女系相続である点も古代社会の特徴である。アマテラスが女であるならば、ウズメから天照への道は、猿女(宮廷巫女)の田の神から、ヒルメすなわち日の神に吸収される道であった。大化の改新後の中央集権制官僚機構の中で、猿女が衰退し伊勢神宮の斎宮制が確立されて、女は力を失っていった。

8) 日向三代 聖なる系譜

この部分のテーマは天子の婚姻である。即位と結婚は国王の系譜の継承としての性的能力と稲作の豊穣とに関係した。ホノニニギは笠沙の地に宮を作り、国の神オホヤマツミの娘コノハナサクヤヒメと結婚した。ヤマツミとワタツミは国つ神の代表で特定の名前ではない。大和では天は父性・男性原理、地は母性・女性原理であり、天つ神の父が国つ神の女と結婚して子を誕生するという神話の世界である。このような女性が玉依姫と呼ばれる。神の魂が寄り付く女という意味である。生命を保つ食(生産活動)は国つ神の受け持ちで、支配・戦争(政治活動)は天つ神の仕事である。持ちつ持たれつの依存関係にあった。ホノニニギとコノハナサクヤヒメの婚姻は一夜限り子を孕んだということで、父は誰かが問題となった。産屋に火をつけて試してい産まれてきたのが国の君たるにふさわしい御子であった。火の中から生まれたよ言う意味でホデリ、ホスセリ、ホヲリと三人の御子を生んだ。この名前のホは火でもあり穂でもある。農耕の意味では穂である。国の神オホヤマツミはホノニニギにコノハナサクヤヒメだけでなく、その姉イシナガヒメも奉ったが、ニニギは醜いイシナガヒメを断った。国の神オホヤマツミが諭していうに、二人を受け入れてこそ王権は盤石となるという。好き嫌いの次元とは違う王権に固有の論理を説明した。こうして日向の地に王権が開始されたが、日向は具体的に宮崎県である必要はない、日向と襲の国(隼人)は範疇表に見る様に対立する概念である。ここにおいても出雲国と同じ構造がある。次に語られるのは隼人の服属、いわゆる海幸彦・山幸彦の話である。コノハナサクヤヒメが産んだ御子の兄のホデリが海幸彦、弟のホヲリが山幸彦である。弟のホヲリが皇統を受け継ぎ、兄のホデリは隼人阿多君の祖となる。隼人は大嘗祭で宮門を守る役を演じ、国ぶりの踊り隼人舞を踊る。もともと隼人の服属は東国を除けば、全国統一過程の最期の段階になる。ところが祭式では最初から隼人は朝廷に服従する部族になっている。倭タケルの熊襲征伐の物語だけがその闘争の痕跡をとどめている。皇統を受け継ぐ弟の豊玉姫は、海神の女豊玉姫と結婚する。ワタツミは水を支配する神であり、ワタツミの女との結婚はしたがって水の支配力を手にいれることであった。ワタツミを祀るのは筑紫宗像の安曇氏である。豊玉姫が妊娠し産屋が建てられたが、すぐに産気づき姫は決して見るなと言い残して産屋に入った。「見るな禁忌」の掟を破って豊玉姫が見たものは、ワニの姿であった。見られた姫は子を残し、海坂をふさいで海神国に帰った。その御子の名は天津日高日子ナギサウガヤフキアエズ命である。ナギサウガヤフキアエズ命は母の妹玉依姫(これは固有名詞ではなく、皇族に嫁ぐ女というぐらいの意味の一般名詞)を妻として4人の御子を生んだ。神武天皇がその一人である。神武天皇はワタツミの母を持ち、同時に神武天皇の名はワカミケヌ、またはトヨミケヌと言ったので、食を意味するケは穀物の霊でもある。地上の乙女と天つ神の御子が聖婚を行い、水穂の国にふさわしい皇子を生むというのが、日向三代のテーマである。

9) 神武天皇 初代天皇

アマテラス大神から神武天皇に至る皇孫の系譜をまとめておこう。直系だけを記すと、天照大神→アメノオシホミ→ホノニニギ命→ホオリ命→ウガヤフキアエズ命→カムイワレビコ命(神武天皇 ワカミケヌ、トヨミケヌ)となる。女児の誕生は無視され、父・母・息子の系統だけが記される。しかし古事記の日向三代神話で重要なのは直系の実在性はなく、ほとんどが反復に過ぎない。そこに挿入される話の方に重点がある。話の数だけ皇孫を作ったようでもある。代々君主の位につくものは、高天の原なる大嘗宮の神坐での秘儀を通って、水穂の国の支配者に生まれ変わる。古事記も上巻の神話の時代を終り中巻の主題は地上での系譜と男子誕生の話に移る。こうして「帝紀」が始まり、その初代がワカミケヌ(神武天皇)である。帝紀とは歴史時代に移行することであるが、なお10代までの天皇の実在性は極めて疑わしいとされている。まず神武天皇の東征について何か歴史的事件があったかのように論を為す学者もいるが(江上波夫氏の騎馬民族説がその例)、崇仁天皇の第1回目の東征、応神天皇の第2回目の東征が神武天皇の東征物語に反映している。神話学は未熟で、神話を歴史的事件と関連させることは実証学問としては危険である。神武東征は歴史的事件ではなく、国覓(まぎ)の物語化として冷静に読むことで見えてくることがある。平定すべき国を求める国覓は国褒め、国見と同じ一連の即位儀礼である。太陽の昇る国の東に行こうとするのは具体的な戦闘行為ではなく、あこがれに過ぎない(若者が東京へゆこうというのと同じレベル)。イワレビコ命(神武天皇)は日向を出発し、宇佐、筑紫岡田宮に一年、安芸のタケリの宮に7年、吉備の高嶋宮に8年いて、難波から河内に上陸した。書紀もほぼ同じことを述べている。しかし古事記では豊予海峡(速吸門)が吉備と難波の間にあるとか、河内から熊野への道順が混乱しているのは、民族移動という歴史的事件があったとは思えない。海路を先導した神が倭国造の祖であったりするのは、東征物語が歴史的事件と無縁であったことの証左である。熊野から迷走して大和に入った理由が分からない。熊野は隈、熊襲に通じるマイナスイメージの未開地であった。日向と襲の関係が、大和と熊野の関係に重なっている。つまり「うまし国大和に達するには恐るべき未開地を通ることが必要であった。これも国覓の通過儀礼として、熊野経由大和入り物語が発想されたのであろう。神武東征物語は天孫降臨の神話物語と類似の構造を持っていることは明白である。これも神話中の範疇である。八咫烏が神武軍を大和へ導いたとする話に出てくる八咫烏は賀茂氏の始祖であった。賀茂氏は宮廷の主殿部として仕えてきた家である。天皇の生活全般を預かる職掌である。大嘗祭に際して主殿部が燭をもって天皇を案内することが、八咫烏の先導の話に結び付いたようだ。イワレビコ命(神武天皇)の軍は大和で、宇陀の兄ウカシ、弟ウカシ、ヤソタケル、トミビコ、兄シキ、弟シキなどと闘いそれらを降したとされるが、戦闘の内容についてはほとんど描かれていない。大和平定物語の本体をなすのは、久米の歌であり、物語はそこから派生した。久米歌は大嘗祭に豊の明かり(饗宴)において謳われ、久米舞のための歌であった。@滑稽歌(風土記にもある鳥網に鯨がかかる話、前妻より後妻に多くを与える話、掛詞しやこしや)で始まり、A−D「みつみつし久米の子が・・・撃ちてし止まむ」の景気のいい戦闘歌の繰り返し、E腹が減っては戦が出来ぬの落ちで終わる。イワレビコ命(神武天皇)は「畝火の白樫原宮(樫原神宮)に坐しまして、天の下治やしめし」国覓を完成させた初代天皇として描かれている。天皇が大和の地に都し天下を統治している政治体制がいかにしてなったかの物語りである。また神武天皇から持統天皇までの40代のうち、21代が春正月に即位している。12月と2月即位を含めると8割が正月前後に即位したことになる。即位日が類型化していることは大嘗祭からきていることは明らかである。 しかしある民族が「建国記念日」を持つとしたら、それは政治的喜劇である。明治の学者那珂通世が「皇紀2600年というのは、推古天皇以前1200年を逆算したまでのことで事実にあらず、辛酉革命説に拠っただけである」と批判したということを追加して、本書を終わる。


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