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文藝散歩 

中村啓信監修・訳注 「風土記」 上・下
角川ソフィア文庫 (2015年6月)

常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国風土記と逸文

奈良時代の風土記については、三浦祐之 著 「風土記の世界」 (岩波新書 2016年4月)に概要を記した。『風土記はそれぞれの国で編まれて中央律令政府に提出された書物であるが、今は5か国の風土記と後世の書物に引用されて伝わる「逸文」が遺るに過ぎない。記録されているのは、土地で語られた神話や土地の言われ、天皇たちの巡行、土地の動植物、耕作地の肥沃状態などである。雑多でストーリー性に乏しいことから、退屈で体系的に理解できないなど不満が多い書物であるが、それなりに面白い表現もあって興味は尽きないと著者三浦氏は言われる。「風土記」とは8世紀初頭に地方の国々が中央律令政府に提出した報告文書で、正式には「解」と呼ばれる。「読日本紀」によると、平城京へ遷都が行われて3年目の713年(和銅6年)に中央律令政府(奈良王朝)が風土記の撰録の命令を出した。報告すべき内容は@郡や郷の名前を付ける、A特産品の目録を作成する、B土地の肥沃度を記録する、C山川原野の名前の由来を記す、D古老が相伝する旧聞遺事を載せる の5項目であった。この命令には「風土記」という名はない。本来は律令政府が下級官庁に出す通達は「符」、地方が中央へ提出する報告書は「解」と呼ばれる。常陸国風土記の冒頭には「常陸国司解」と書かれている。権力簒奪に明け暮れた飛鳥王朝(ヤマト王権)以来、7世紀初頭推古天皇(聖徳太子摂政)の斑鳩王朝が初めて歴史意識を持って律令国家に整備されてゆく過程で、日本書紀や風土記は必要不可欠のことであった。当時の東アジア情勢は中国大陸で隋という強大な王朝が生まれ、唐に受け継がれ、新羅が朝鮮半島を統一した。島国の豪族連合から、唐に倣った中央集権的な統治機構を持つ国家に生まれ変わるため、それに必要な法整備を輸入した。当時の日本はある意味で周辺国家の国際色豊かな国であり、ネイティブな中国人や朝鮮人が活躍していた時代である。現実的な法整備の他に、イデーとしての史書、経済としての貨幣、政治中心としての都と地方、それを繋ぐ官僚機構、意思伝達のための言語(漢字)が次々に導入された。律令国家への整備において、法と史は車の両輪のように企画されてゆく。刑罰(律)を伴う強制力を持つ法(令)がまず機能しなければならいが、自分が国家に所属し国家によって守られているという幻想(宗教・共感など)を抱くことで国家は安泰となる。それは国家の歴史である。689年律を持たない飛鳥浄御原令を受けついで、大宝律令ができたのは701年であった。こうして名実ともに律令国家が成立した。その後大宝律令を補う形で養老律令の選定作業が718年から行われ、藤原不比等の死後722年に完成した。律令編纂事業と並行して行われたのが720年に騒擾された正史「日本書紀」である。続日本紀にはこの正史を「日本紀」と呼び系図が存在したらしい。お手本の中国では「漢書」以降の正史は、紀(本紀)・志・列伝の3部からなり、署名は「・・書」とよぶ紀伝体の形式が一般的である。正史を簡略化した歴史書を「・・紀」と呼ぶが、日本「書紀」という書名はない。従って何らかの理由で志・列伝を欠いたまま編纂事業が中断して本紀のみが残された簡略形式となって、「日本書紀」という呼び方が定着したと思われる。古くは推古天皇の時代に「憲法17条」が604年、「本紀」が620年に編まれたとされるが、事実かどうかは別にしてこの頃に歴史書の編纂が始まったようだ。古代律令国家の起源が聖徳太子にあり、それが645年乙巳の変を経て中大兄皇子(天智天皇)に受け継がれたという歴史認識が存在した様だ。つぎに672年壬申の乱をへて大海人皇子(天武天皇)に律令国家体制は引き継がれた。日本書紀によると681年天武天皇は帝紀及び上古の諸事を編纂を命じた。自らの帝位を正統化するためである。その成果が大宝律令と日本書紀であった。そこに古代国家は完成した。日本書紀は紀しか存在しないのだから未完の史書である。列伝は全く存在しなかったのかというと、その痕跡となる材料は存在したというべきであろう。「十八の氏の祖の墓記」、「懐風藻」、「日本武尊」、聖徳太子の伝「上宮正徳法王帝説」、藤氏家伝の「大織冠伝」、神仙小説「浦島子伝」などは列伝を思わせる。「列伝」は皇子や臣下の事蹟の集積である。「志」は王朝の治世の記録である。史や列伝が縦軸の時間だとすると、志は横軸の空間であろう。例えば「漢書」は十志からなる。律暦、礼楽、刑法、食貨、郊祀、天文、五行、地理、芸文であった。地方に関する地誌的な記録の収集作業は日本書紀にも見られる。諸国に向けて発せられた史籍の編纂命令は間違いなく「志」の一部として「日本書」地理志が目的であった。しかし何らかの事情で日本書の構想がとん挫し、上申された「解」のいくつかは「風土記」という名前を与えられて後世に残ることになった。』

「続日本紀」に、元明天皇の和銅六年(713)5月2日付けの風土記編纂の命令を伝えている。「畿内と七道の諸々の国・郡・郷の名は好きな名をつけよ・・・・」で始まる。その書き方については「延喜式」民部上に細かく指示している。「凡そ諸国の部内の郡・里等の名は二字を用い、かならず嘉き名を取れ・・・」とある。好きな名ということは、良い意味を持つ二字表記に改めよという事である。郷と里の混同があり、郡郷制に切り替わった時点では延喜式が正しい。もとの「郡里制」の行政組織は715年に「郡郷制」が施行された。常陸国の行政府の表記は「里」制で統一されているので、風土記の提出は713年から717年あたりと推測される。機内とは大和・山城・摂津・河内・和泉の諸国、七道とは東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道であり、合わせて64か国二島に対して和銅の命令は発せられたのである。中央が地方に対して報告を要求している内容は、それぞれの国状、地誌である。現在遺された「解」(報告書)は、出雲国だけが完本で、常陸国はかなりまとまった分量があるが、播磨国・豊後国・肥前国は写本段階での省略または脱落があると言われる。しかしこの五ヶ国を除く大部分は失われ、他の文献に拾われ引用され逸文といわれる小文を留めるだけである。この出雲のケースを含めて国状報告書を、平安・鎌倉時代の文献が「風土記」と呼称したために「・・・国風土記」なるものが誕生した。中央集権を推し進める当時の律令国家(奈良時代)の政府が、国郡統治実現の政治行動「志」として提出を命じた「解」の回収率や内容のばらつき、中央の満足度は今となっては記録にない。国の人口、封戸、課戸、仕丁などの人数、調賦などはこの調査では求めていない。それは大化の改新詔による「田租の法」という律令があったからである。ここで和銅6年の官令が求めた「解」の5つの内容、すなわち@郡や郷の名前を付ける、A特産品の目録を作成する、B土地の肥沃度を記録する、C山川原野の名前の由来を記す、D古老が相伝する旧聞遺事を載せる 五項目について見てゆこう。
1) 国郡郷に「好きな名」(好字)をつけることである。 712年に成立した「古事記」では、例えば「紀国」(木国)は7年後の「日本書紀」では「紀伊国」となる。又多数の郡名は二字表記であるが、例外もある。風土記では全て二字表記であり、漢式の二字表記に変えることが「好字」をつけることであった。
2) 郡内の産物の目録を作ることである。 銀・銅・彩色・草・木・禽・獣・魚・虫などを挙げている。官が欲するものを地方は隠し立てすることなく報告することである。官が採らない場合は民が採ってこれを庸調に立て替えても良いという。中央が「異宝」というのは、瑪瑙・琥珀・沈香・白檀・蘇芳、彩色では顔料、丹などである。後の「延喜式」の調・庸・交易雑記を見ると、そこには養老令成立時前の産物数とは比較にならない多数大量の産物が全国名を載げて記録されている。風土記の調査が生きているのである。草木禽獣魚虫の記載法には統一性がない。出雲国風土記には、提出年次が遅れたこともあって、解の形式が洗練され整備されている。たとえば草木を薬草とみて「延喜式」典薬寮の「諸国進年料雑薬」掲出の目録とよく一致している。ここにも風土記の調査が生きているのである。この類型が常陸国風土記や播磨国風土記にはみられるが、他には相当するものがない。
3)  土地の肥沃度を報告することである。 あの記述に体裁と詳細を極めた出雲国風土記がすっかり口を噤んでしまっている。土地の肥沃度を上・中・下として分類すると報告数は中に集中している。常陸国風土記では特にそうである。田を与える班田制では田は男一人では二段歩、女はその2/3である。下級田ではそれでは食ってゆけず、大概は塩田などの副業が必要であった。風土記では人口の記載がないのは、すでに「造籍」が行われ国司と中央政府の知るところあり、原則として戸籍があって班田が行われたので、風土記にそれを要求する必要はなかったからである。官が求めるのは土地の肥沃度で、土地対策「易田」を考慮したからである。しかしこの「解」を参考に「易田」が行われたことはなかった。 4) 山川原野の名のよるところである。 これは3)の土地の肥沃度と「易田」(墾田開発)の可能性を見る参考資料にするためであったろうと思われる。播磨国風土記では里の大部分に土の品を上・中・下にその別を記載している。豊後国風土記速水郡田野の条には、この野はよく肥えているが、墾田して新田としたが失敗したと述べ、私的墾田の問題点を指摘している。九州諸国風土記である、豊後国風土記と肥前国風土記の記載の共通性から九州各国から提出された解は大宰府で統括整理の手が入ってから中央へ送達されたものとみられる。ただ九州諸国風土記には異本が多く、大宰府を経由しない系統の風土記もあったようだが、省略や削除が多い。
5)  古老の相伝する旧聞・異事を記すことである。 地方諸国の伝承を地名に限って記録した。中央の宣明は国司ー郡司ー郷(里)長へ伝達される。官の行政組織は郡司までである。郷以下は従来の村落共同体である。班田法の施行に伴う租庸調などのうち、調として諸国貢献の物産は「賦役令」記載で全品目は60種である。産出国の知られるものは4種に過ぎない。平安時代の延喜式から遡って民部式・主計式の掲げる物産は68か国で膨大なものになるが、記載単位は国までである。風土記がめざした物産や地方伝承に及ぶ郡単位の情報収集はまさに中央集権国家(律令制)の確立というにふさわしい事業であった。播磨国・豊後・肥前国風土記には「古老」という言葉は出てこないが、「昔者から始まる伝承は記事はたくさんある。とりわけ景行天皇に関する説話が著しい。大和武尊・神功皇后説話を集めるのが目的ではなかったのかと思われる。播磨国風土記では聖徳太子、応神天皇も含めてこれらは至尊伝承といわれ、その数は全郡に及ぶ。常陸国風土記では「古老曰」で始まる伝承が23例あり、祟神天皇・景行天皇・倭武天皇・息長足比売天皇・応神天皇・孝徳天皇・天武天皇までの記事を内包している。ここでは神話の世界から歴史時代にわたり、氏族国家から律令制国家への転換・実施期の最中で企画された風土記の使命が伺える。大家の改新から飛鳥浄御原律令・大宝令の一端までに及んでいる。天皇を頂点とする、神の世界及び人臣のピラミッドを描きたかったのであろう。風土記の成立に遅速のあったことはよく知られており、常陸国風土記は和銅6年の宣明後すぐに完成し、豊後・肥前など九州諸国風土記は「日本書紀」成立の720年の少しあとに完成し、出雲国風土記は733年に成立した。出雲国風土記は「古老曰」伝承に天皇が関わることはない。出雲は「出雲神話」に見られるように、ヤマト政権に国譲りした特別な国家であったことは、「古事記」でも明らかである。出雲政権はヤマト政権によって完全に滅ぼされたのではなく、協定を結んでヤマト政権の一翼を担ったというべきで、ヤマト政権の名門豪族として隠然たる勢力を持ち続けたということであろうか。出雲国風土記の責任者である出雲国造の出雲臣広嶋が724年に「神賀詞」を朝廷で奏上している。これより先には国造東安が716年に「神賀詞」を朝廷で奏上している。「神賀詞」は新任出雲国造が朝廷に服従する宣誓をする儀式である。延喜式によると大和国の官社数が286社、伊勢国が253社に対して、出雲国の官社は187社でかつ未登録社(税を収めなくていい)が215社もあることは大勢力であったと見るべきである。風土記の官命は単に行政的な地誌を中央に報告するだけでなく、王権の確定を求める大和王権の一大事業であったことをしエしている。


1) 常陸国風土記

内容に入る前に、常陸国風土記の記事分量について他と比較しておこう。一番長い風土記は出雲国風土記でこの文庫本の訓読み文の分量で105頁ほどである。2番目は播磨国風土記、3番目が常陸国風土記、4番目が肥前国風土記、5番目は豊後国風土記である。一番長い出雲国風土記の分量を10とすると、播磨国風土記が7、常陸国風土記が4、肥前国風土記が2、豊後国風土記が1という比率である。出雲国風土記は「解」というよりは、「日本書紀」に相当する「出雲書紀」に近い意図を持たされているのでこのように長くなったのであろう。播磨国風土記は官僚文の「解」というより、物語性が濃厚で小説を読ますように書かれている。そういう意味では常陸国風土記はいかにも「解」で、分量も中庸を得ており、内容が簡素で面白味の少ないことは否めない。肥前国風土記と豊後国風土記は写本の省略と脱落が多くて、全体像がつかめないだけでなくぶつ切れで読む気がしない。本論の常陸国風土記に入ろう。常陸国はほぼ現在の茨城県に相当し、「常陸国司、解す。古老の相伝ふる旧聞を申す事。」と始まる冒頭は、令の規定通りである。常陸国風土記は、解の形式としての結びでの提出年月日、作製責任者の国司の名を欠いている。また最後の多珂郡記事の末尾に「以下略す」と終っていることから、これは当然原本ではなく、写本で省略本であることが分かる。原本がいつ失われたかはもちろん不明であるが、平安時代の(904年)の矢田部公望の「日本紀私記」にある「新太郎記事」が現存風土記の逸文にあり、その逸文を原文に戻す試みがなされた。常陸国風土記の「古老曰」の文は集録9郡のうち新治、筑波、行方、鹿島、久慈、多珂の7郡で同型であるが、新太郎郡と那賀郡で異同がある。最も異同が際立つのが那賀郡であると言われる。現存の常陸国風土記にあって、全く省略がない箇所は総記と行方郡のみであるが、失われたのか省略されたのか、丸ごと存在しない郡は白壁(真壁)郡と河内郡である。本書にある白壁郡の記事は再建されたものである。その根拠は新治から笠間に行く道は白壁を通るからである。郡より50里で笠間に着くのは白壁起算と考えられる。また「等」を「ホ」という崩し字を使う箇所が数か所みられる。早く写本するの略字で、解としての中央への報告書では使わない文字である。従って現存風土記は平安時代初期〜中期に写本されたものと考えられる。そのころに風土記の原本は失われたとされる。原文の再建が目的の原文批判(テキストクリティク)と呼ぶ手法で逸文を原文に反映させる再建が試みられた。単なる断片である逸文のため、本文再建には使えないが、確実に原文の一部であったと判定しうるものもある。それには天皇の呼称が決め手になる。特に「倭武天皇」ということばが常陸風土記で一番活躍する。「倭武天皇」は「古事記」や「日本書紀」には絶対に認められない呼称である。常陸風土記の特徴である、「古老曰」の本文の伝承と共存して、「俗云」の土地の伝承があるころが、常陸風土記の内容を豊かにし質を高めることに役立っている。全体として8世紀初頭の解文が今日の重要な古典であることは明白である。以下訓読文に従って、総記と十郡の内容を要約する。なお日本紀は時間軸(歴代天皇の時代)の縦軸で書かれているとすれば、風土記は支配した平面の広がりである横軸で書かれている。常陸風土記の時代の行政単位は郡里制で、国ー郡ー里ー村の順で記述され、その地の位置、名の由緒、産物、肥沃度などが書かれている。先頭の大項目は総記、郡とし、里、村、馬駅の順にずらしてゆく。

■ 総記: 「常陸国司解す。古老の相伝ふる旧聞を申す事。」という定型文句で始まる。昔足柄の山より東を「吾姫あずま」といった。この時には常陸の国はなく、本書の郡である新治、筑波・・・を新治国・・・といった。造・別を中央から派遣して治めたという。難波長柄豊前宮の孝徳天皇の時代に、足柄山より東を8つの国に分けた。常陸国はそのうちの一つとなった。倭武天皇は常陸国新治の県を巡行して、国造をつかわし井戸を掘らせたところ、清水が湧き出た。この清水で遊んだ天皇の袖が水に漬かったので、風俗に言う「衣袖漬(ひたち)の国」と呼んだ。常陸国は広く、野は豊かな物産に恵まれ農耕・養蚕で生きて行けるところであった。古の人はこの地を「常世国」といった。水田は国の北は少なく、国の中には多かった。

■ 新治郡: (今の桜川市と筑西市東の一部をさす)東は山(筑波山)に隔てられて那賀国へ、南は白壁(真壁)、西は毛野川(鬼怒川)、北は下野国・常陸国の境である波太の岡である。第10代祟仁天皇の時代、新治の国造の祖である比奈良珠命に命じて東夷を征服させた。井戸を新しく掘ったところ清水が湧いて出たので新治(新しく井を治る)という。
        ● 馬家: 大神(蛇をまつる桜川市平沢大神宮)にある。

■ (白壁郡): (今の桜川市真壁をさす)東50里に笠間村があり、葦穂山を越える通い道がある。古老曰、昔、油置売命という山賊がいた。今も森の中にその岩屋がある。俗歌を載せる。(現存風土記には白壁郡の記事はない。再建したものを掲載したのでカッコつきとなった)

■ 筑波郡: (今のつくば市をさす)東は茨城郡、南は河内郡、西は毛野川(鬼怒川)、北は筑波山に位置する。筑波県は昔、紀国と言い、大友氏の一族筑豊命を紀国の国造として派遣した。筑豊命は自分の名をつけて筑波という。風俗の説に「握飯筑波の国」という。筑波山神話に、諸神が富士岳に集まり宿を乞うたところ、富士岳は新粟嘗で忙しいのでこれを断わられたので諸神は富士山を呪った。次に諸神は筑波山に雪宿を乞うたところ、食を出して受けたので諸神は筑波山をほめたたえる歌を歌って、人々が喜び集まるところとなったという。筑波山の西の峯は男体山といって険しいので登る人はいないが、東の峯は岩だらけで段差もきついが、春の花咲くころと紅葉のころ諸国の男女が大勢連れだって登り来て遊び楽しむところである。この歌垣は男と女の出会いの場所である。ザレ歌2首が載せてある。
        ● 騰波江: この郡の西に騰波江という小貝川沿いの沼澤地がある。東は筑波郡、南は毛野川、西と北は新治郡、艮(東北)は白壁郡である。

■ 信太郡: (今の稲敷市霞ヶ浦水域をさす)古老曰、孝徳天皇の時代653年に筑波郡と茨城郡の700戸を割いて信太郡を置いた。物部会津、物部河内が国造となった。もとは日高見国であった。神武天皇の末である多氏の黒坂命が陸奥の蝦夷平定を終えて帰りに多歌郡の山で身罷った。その棺車が日高見国に差しかかったとき、旗が舞い上り道を照らした故事から「赤旗垂る国」と呼び、後の世の言葉に信太国という。
    □ 碓井: 郡の北10里に碓井がある。大足日子天皇が浮島の行宮におられた時井戸を掘らせたのでその名ができた。
    □ 高来里: ここから西に高来里がある。古老が言うには天から下った普都大神が荒ぶる神を治らげて天に還る時身につけていた武具を埋めたという。
    □ 飯名社: この里の西に筑波山の神飯名神の一族が住むところ飯名社がある。そこに馬屋を置く。常陸路の始めとなる場所で、伝馬使い等はここで東に向かって香島の大神を拝する。
        ● 乗浜村: 倭武天皇が海岸を巡行された場所が乗浜村である。
        ● 浮島村: 乗浜村の東に浮島村があり百姓は塩を焼いて業としている。(省略が多く 断片的な記述である)

■ 茨城郡: (今の土浦市、かすみがうら市、石岡市、小美玉市、東茨城郡茨城町を指す) 古老曰、昔国巣(土蜘蛛、先住民)が山野の洞窟(横穴式住居)に住んでいたという。多氏の黒坂命がその洞窟に茨を敷いて、馬で土蜘蛛を追い込むと自分の洞窟に逃げ込んだが、茨に刺されて多くが傷を負い死んだ。国の名前に茨をつけたのはそれにちなむ。土蜘蛛を征伐する多氏の黒坂命が茨でもって砦を築いたので、茨城という。茨城の国造である多祁許呂命には8人の子があった。この地は良いところで、春から秋には野で遊ぶ人が多く、夏は涼しかった。
        ● 田余(小美玉): 郡の東に桑原岳があり、倭武天皇が山の上で井戸を掘らしたところ、清井が湧き出た。それで「田余」(小美玉)という。

■ 行方郡: (今の行方市)東と南は霞ヶ浦、北は茨城郡である。古老曰、倭武天皇が霞ヶ浦の北方面を巡行して、槻野の清水で休息した。玉を落としたので玉清水という。各地を展望して、山と海がいりくんで美しかったので行細し国と言われたことから「行方」という。霞ヶ浦に流れ込む河川を上った時梶を失ったので「無梶川」と名付けられた。ここは茨城郡と行方郡の境である。行方の西は霞ヶ浦で、土地は痩せ草木は生育しない。霞ヶ浦の魚は食するに耐えず、大型の魚はいない。北に香取神社の社があり、手賀の里には香島の社がある。(行方郡の分には省略はない)
    □ 手賀里: 郡家より西北に手賀里がある。昔、手賀という佐伯(土蜘蛛 蛮族 土着一族)がいた。その里の北に香島の神子の社(玉造の大宮神社)がある。この辺の土地は肥沃で、椎、栗、竹、茅を産する。
        ● 曾尼村: 昔、曾禰比子という佐伯がいた。そこから「曾尼」村という名が付いた。今は馬家を置く。継体天皇の時代、箭活の麻多智が、この地を開拓して水田を開いた時、多くの蛇の神(夜刀神)がその邪魔をしたので、境界を決めて夜刀神を長く 丁寧に祀るので、人の領域の水田に祟らないようにした。また孝徳天皇の時代に壬生連麿が谷を開拓し池を築いた。池の周りの椎木にたくさんの夜刀神(へび)が出るので、ここは民の生活の為に必要なのだとして悉く殺した。この池の名は椎井という。またここには香島に向かう駅道がある。
    □ 男高里: 郡家より南七里に男高里がある。昔、小高という佐伯(土着一族)がいた。そこから里の名前が由来する。国司当麻太夫の時に築いた池が東にある。池より西の山に鯨岡がある。上古の時代に鯨が来たという。大きな栗がなる栗家の池がある。
    □ 麻生里: 昔ため池のほとりに1丈ばかりの高さの麻が生繁っていたんが、名の由来である。椎、栗、槻などが生い、猪・猿が住んでいた。ここは良い脚の馬を出す地であった。天武天皇の時代、潮来の大生の里の建部袁許呂命がこの地の馬を献上した。行方の馬である。茨城里の馬という人もいる。
    □ 香澄里: 景行天皇が下総国の印波の鳥見丘に登って東を見ると、「海は青く陸は霞み」と言われた霞郷という。この里から西の(霞ヶ浦)洲を新治洲と呼ぶ。北に新治国の筑波山が見えるから、その名が付いた。ここより南に板来村(潮来市)がある。天武天皇の時代に麻積王をこの地に派遣した。藻、海松、貝、鰻が多く採れる。
    □ 伊多久之郷(潮来): 崇仁天皇の時代に、建借間命(那賀国造の祖となる)を派遣して東の夷を征服させた。阿波崎(稲敷市)に着いて、土着一族(土蜘蛛)夜尺斯・夜筑斯を滅ぼした。七日間宴を張って大騒ぎをすると、集まってきた土蜘蛛を一網打尽にして殺した。痛く殺したことから伊多久之郷という名がついた。安伐の里とか吉前之邑とかいう。
    □ 当麻之郷(鉾田市当間): 郡家から東北15里に当間之郷がある。倭武天皇が巡行して、烏日子という佐伯(土着の一族)を征伐した。道が悪くて巡行に苦労したことから当麻という名が付いた。二つの神子(香取、香島神社の分祀)がある。
    □ 芸都野(行方市内宿): 当麻之郷の南に芸都野がある。寸津比子・比売という土着一族(国栖)がいたが、倭武天皇が巡行して、男の方は反抗するので殺し、女は降参した。小抜野に仮宮(いまの行方市小貫)を作った。寸津比売がよく仕えたので宇流波斯の小野という。倭武天皇がこの地で弓弭を作ったので波聚の野という。ここから南に相鹿・大生郷(潮来市大賀・大生)がある。倭武天皇が丘前の宮に食膳屋と作ったことから大生之村と名付けた。倭武天皇の后大橘比売が大和からやってきたので、安布賀之邑という。

■ 香島郡: 東は大海(鹿島灘)、南は常陸と下総の境界にある安是の湊(利根川河口)、西は流海(霞ヶ浦)、北は那賀と香島の境界にある阿多可湊(那珂川河口または涸沼)とされ、郡家は鹿島神社の南(香嶋市神野向遺跡跡)におかれる。記述された里は白鳥の里のみで、あとは海岸の地名の由来と伝承のみである。古老曰、孝徳天皇の時代、中臣部一族の要請によって、下総国の海上国軽野より南1里と、那賀国寒田より北5里を割いて、ここに神の郡を置く。(藤原家の祖である、神事をつかさどる中臣部の鹿島神社由来の記) そこにあった3社を併せて統べて「香島之天之大神」と称する。社を豊香島之宮となずける。第10代崇神天皇の時代神社所有の民戸を六十五戸をつける。中臣巨狭山命に命じて大船を造り、大船祭を執り行う。神社の周辺に居住する中臣氏の卜占専門職であるト氏が祭りを行った。
        ● 沼尾池(香嶋市沼尾): この沼に生える蓮根を食えば病気が早く治るとされた。鮒・鯉が多い。昔に郡家が置かれた地であった。
        ● 高松浜(香嶋市下津): 郡家の東3里にある。砂と貝が積って丘となる。自生の松林、椎、橡が混じる。文武天皇の時代采女朝臣が浜で砂鉄を取り剣を作った。30里あまり松山が続く。
        ● 若松浦(安是湊): 常陸と下総の境である安是にある。砂鉄が採れるが、香島の神山なので入ることができない。
        ● 寒田(香嶋市神栖の神之池): 郡家の南20里の浜里から東の松山に大きな沼がある。鯉・鮒が多い。田は少しはできる。昔天智天皇の時代、陸奥国石城で作った大船が難破してこの沼に流れ着いたという。
        ● 童子女の松原(神栖市軽野): この地の海岸での歌垣「童子女(うない)の松原」を紹介する。那賀の寒田の郎子と海上の安是の嬢子の恋物語ー松に変身する譚である。この文章が漢文として秀麗で、四六駢儷体形式で美文調で叙述されている。694年那賀郡の五里と下総国の海上郡の一里を分割して新たに鹿島郡が建てられた。行政の変更として来歴と常陸国と下総国を越える恋物語として語られた。通婚圏を越える別の世界に住む男女の恋は古代の婚姻形式からするとタブーである。婚姻は財産や土地の移動を伴うからである。村落共同体の同意がないとできない相談だったのである。文学的には夜明けに松に変身したことは、メタモルフォーゼ(変身)という物語のパターンである。あるいは人間に変身した松の木の精の恋物語かもしれない。
        ● 角折浜(香嶋市角折): 昔大蛇が東の海に通うために穴を掘ってら、角が折れたという伝承と、倭武天皇がこの地に宿ったとき、水を得るために鹿の角で土を掘ったところ、角が折れたという伝承もある。
    □ 白鳥里: 郡家の北30里にある。古老曰、垂仁天皇の時代、白鳥が天より飛び来たり、乙女となって夕方に来て朝に帰る。池に石を積んで池垣を作ろうとするのだが、作っては壊れての繰り返しに白鳥はついに諦めて天に帰ったという。

■ 那賀郡: 東は大海、南は茨城郡と香嶋郡、西は新治郡と下野国、北は久慈郡である。郡家は水戸市牛伏町説と笠間市小原説がある。
        ● 大櫛大ダラボウ伝承: 平津駅家(水戸市平戸町)より西に12里に岡がある。大櫛という。上古時代(縄文時代)に巨人がいた。丘に座って手を伸ばして海浜の貝を取って食べる。貝殻を捨てた場所に大櫛の岡ができたという。
    □ 茨城里: 郡家より北に哺時臥之山(笠間市浅房山)がある。古老曰、努賀比売に毎日夜這いに来る者があった。顔も名も知らないが、比売はついに小さな蛇を生んだ。両親は驚きこれは神の子に違いないと悟った。養育もできないので追い出そうとしたが、逆に蛇の子は男親を殺して天に登ろうとしたが、母親は盆を投げてので、蛇は登ることができずこの山の峯に落ちた。その子孫は社を立てて祀ったという。
        ● 河内の駅家: 郡家の東北に粟川(那珂川)を渡って駅家を置く。駅の南に清らかな泉が流れ曝井という。村の婦人らは夏には集いては布の洗濯をする。

■ 久慈郡: 東は大海、南と西は那賀郡、北は多可郡と陸奥国の山の境となる。古老曰、郡家(常陸太田市大里町あたり)より南のかたに小さな丘がある。倭武天皇は、丘の形が鯨に似ているので、久慈となずけた。天智天皇の時代、藤原鎌足の検地の命を受けた軽勅里麿が池を築いた。池の北にある山を西山という。池の岸壁は階段状になっている。(鶴池跡と想定されている)
    □ 河内里: 郡家より西北6里に河内里(常陸太田市川内町)がある。南に鏡岩があり、昔怪物がこの鏡岩を弄んだという。絵具になる青い石を産する。都に献じたという。
    □ 静織里: 郡家の西に静織里がある。上古より綾織り機を始めて用いたことから里名が付いた。北に玉川が流れ、丹石が混じり、火を切るのに用いる。そこから川の名が付いた。
    □ 小田里: 墾田を作ったことからこの名が付いた。この地を流れる川は久慈川に合流する。大きなアユが採れる。両岸は石門と言われ林となり川を覆っている。暑さを避け涼しい場所で青葉のころは人々の遊ぶところである。
    □ 大田郷: 大田郷には長幡部之社がある。崇仁天皇の時代に、御服の織姫珠売美万命が筑紫国よりこの久慈に移ってきた。裁ち縫うことはなく、人に見られるのが嫌で部屋の中の暗闇で織ることから内幡という。長織部の祖である。
    □ 薩都里: 古い土雲が居たが、兎上命がこれらを殺して征伐した時、幸いなるかもといったので、佐都となずけた。
        ● 賀比礼之高峰(神峰山): (今の日立市神峰山である。天の神が住んでいて、糞をまき散らして疫病を流行らせる神の祟りを為すので、住民が朝廷に訴えた。片岡大連を使わして、神は賀比礼之高峰に登って祀られた。
    □ 蜜筑里: 久慈川の河口高市から東北に2里に、蜜筑里(日立市水木町)がある。村の中に泉があり流れて川になる。暑いときは避暑地となって賑わった。河口付近は魚や貝がよく採れる。山の幸にも恵まれたところである。
        ● 助川の馬家: (今の日立市会瀬町、助川町)助川の駅家は昔は遭鹿という名があった。倭武天皇がここにいました時、皇后が来られて遭うことがあったのでこの名が付いた。後の世にサケがよく採れることから助川となずけた。

■ 多珂郡: (今の日立市、高萩市、北茨城市にあたる、郡家は高萩市下手綱大高台説がある) 東と南は大海、西と北は陸奥と常陸との境にある高山である。古老曰、第13代成務天皇の時代に建御狭日命(出雲臣の同属)を派遣して多珂国造に任命した。国見をして、この国は峯が険しく岳崇しといったので多珂之国と呼ぶ。枕詞は「薦枕 多珂国」という。
    □ 道前里: 建御狭日命は久慈との境にある助河をもって道前とし、陸奥石城郡の苦麻之村を道後とした。しかし国が広すぎるので協議の末、多珂と石城(陸奥国の境)の二つの郡を置いた。
        ● 飽田村: 倭武天皇、橘皇后と共に辺境の地を巡行し、この野に宿泊した。土地の人が言うには野には鹿が多く、海には魚が多いという。そこで天皇は野に狩りをし、皇后は海で釣りをした。狩りと漁を終えて、野の収獲は皆無で、海の収獲は豊富であった。海のものは飽きるほど食べたという意味で飽田村となずけた。国司川原宿祢黒麿の時に、大海のほとりの石壁に観世音菩薩像を彫った。よって仏浜となずけた。
        ● 藻島駅家: 郡家の南30里に藻島駅家がある。東南の浜で碁石が採れる。常陸国で採れる碁石はここだけである。昔倭武天皇が船に乗って島の磯をご覧になり、種々の海藻が生い茂ることからその名が付いた。


2) 出雲国風土記

出雲国だけは律令制下において、土着豪族による国造制度が遺り続け、中央から派遣された国司との二重統治性が敷かれるという、極めて特異な国であった。(中世における荘園制度と同じで、国司と地頭の関係である) なぜ出雲国造だけが存在したのかというと、やはり国譲り神話に語られるネジれた出雲の服従が基調にあるからだ。 古事記と日本書紀に語られる出雲国と大和政権との神話的な関係は大きく違っているが、出雲の大神オオムナジ(オオクニヌシ)はヤマトにとって律令制下において無視できない存在であった。出雲臣の祖神はアメノホヒとその子のタケヒナトリと言われる。古事記にはアメノホヒ子のタケヒラトリは5人の子を産み、出雲・ムザシ・上兎上・下兎上・イジム・遠江の国造と津島県直の祖となったと書かれている。出雲臣は出雲出身の豪族であるが、国つ神を祖とするのではなく天つ神の子孫であるという。アメノホヒはスサノヲとアマテラスの子の一人であったとされる。日本書紀も古事記も、出雲を支配したアメノホヒがオオクニヌシ(オオナムジ)に媚びて3年間天つ国に報告しなかった、つまり土着化してしまったとしている。アメノホヒがなぜ出雲臣の始祖になったのか。天つ国(ヤマト政権)から派遣された支配者を出雲臣が始祖とするのか。彼らはヤマトに服従した一族であるからだ。いやむしろヤマト政権をバックにして出雲国を統一したというべきかもしれない。そういう意味で出雲臣は最後まで天皇ヤマト政権に抗い続けた誇り高い一族だったのかもしれない。するとアメノホヒは最初から出雲臣の始祖ではなく、オオムナジ、ヤツカミズオミツノを始祖としたかもしれない。そこで日本書紀や古事記の国譲り神話と延喜式にある「出雲国造神賀詞」の服従誓詞を比較して検証しよう。「出雲国造神賀詞」の最大の狙いは、大国主神の口を通じて語られる4つの守り神(大神、葛城高鴨の神、伽夜流神、宇奈堤の神)を「皇孫の命の近き守神」としておいたことである。高天原のタカミムスビノミコトから命を受けて服従しない出雲の地に派遣された将軍アメノホヒとその子のタケヒナトリは大国主命を平定した。屈辱的な日本書紀の平定神話を経由せず、出雲国はヤマト政権のアメノホヒが作った国であるとした点がみそである。ヤマト政権が大国主の出雲を征服する構図が、意宇の出雲臣であるアメノホヒが出雲の国造りをする構図にすり替えられたのである。そこから出雲国の統一と国作りが始まるのである。国造の拠点は意宇郡にあった。つまり出雲の東端から西の豪族を併合していったというストーリーである。西部の豪族の拠点は、出雲大社が鎮座する出雲郡と神門郡がその中心であった。日本書紀につたられるミマキイリヒコ(崇仁天皇)60年の記事が出雲国の神宝をめぐる出雲豪族の内紛を伝えている。出雲の地には東の意宇を中心にした勢力と西の神門を中心にした勢力があり、意宇豪族はヤマト政権に取り入り、神門豪族は九州の筑紫と通じていたとされる。神門郡には巨大な四隅突出型墳丘墓に見られる豪族の勢力があったという考古学上の裏付けもある。その中心の杵築大社にはオオムナジが祀られている。東の意宇臣はヤマトの軍勢の力を借りて西の神門臣を滅ぼし、ヤマトの庇護を得て出雲を統一する。そしてヤマト政権から与えられたのは、「出雲臣」という氏姓と「国造」という統治権であった。律令制の整備によってここはヤマトの支配する国、出雲国となった。出雲国風土記が出雲臣の広嶋を責任者として編まれたことを考えると、出雲臣の本拠地である意宇群の伝承が大きく取り扱われるのは当然のなりゆきである。それを象徴するのが「国引き詞章」である。この詞章は漢文ではなく、音仮名(万葉かな)を多用し、語りとしての性格が濃厚である。国引き譚の初めと終わりは意宇という地名の由来を語る地名起源譚になっている。ヤツカミズオミゾノという巨神が4回の国引きによって島根半島全域を意宇の社に西から東へ移動させたという話である。意宇(淤宇)の地を支配する意宇一族の支配の根拠を語る神話である。神話の物語は単純な話であるが、この詞章の特異性は、叙事詩とも呼べる韻律性をもって構成されていることであろう。古事記的世界では出雲地方は日本海文化圏を語るうえでなくてはならない存在であったと考えたのであろう。古事記の出雲神話の舞台の多くは日本海沿岸である。大陸との関係を語るうえでむしろ重要なルートであった。古来日本海には朝鮮との関係が深いというより文化的に同一であった筑紫地方の国家群、隠岐島伝いに渡来人がやって来て文化圏を作った出雲国家群、日本海沿岸伝いに高志国(越前、越中、越後)国家群の発展を抜きには語れなかったというべきであろう。古事記で語られるヲロチ退治神話では高志のヲロチと呼ばれる。古事記にあるヤチホコが高志のヌナガワヒメを求婚にでかける長大な歌謡「神語り」は、奴奈川流域が日本唯一の硬玉翡翠の産地であり、その交易を求めた征服譚であった。またタケミナカタが洲羽(諏訪)に逃げる国譲り神話は、出雲、高志、諏訪の深いつながり(大国主の支配地)が見て取れる。出雲国風土記にはオホナモチ(オホナムジ)による「越の八口」平定に関わる地名起源譚がある。出雲にとって越国は平定の対象であった。母理の郷譚では平定後は出雲国を除いてヤマトに譲るという。ここで出雲国は譲らないと言っている点が重要である。また八口はヤマタノヲロチのことで有り、野蛮地の代名詞であった。出雲が主権的な王権を持った国であるという可能性は最近の考古学発見で確証されてきた。出雲文化圏の特徴は、@四隅突出型墳丘墓、A素環頭鉄刀、B巨木建築物(縄文後期遺跡、出雲大社巨大神殿)、C翡翠など海人系文化圏(海神安曇)である。古事記に見られるカムムスヒ神はいつも出雲の神々に深くかかわっている。二柱のムスヒの神は一方がヤマト天皇家の神として、一方が出雲の始祖神として対照的に存在する。出雲風土記には御祖神魂命(カムムスヒ神)は一度しか出てこないが、御祖神魂命の御子は地名起源譚として島根半島を取り囲むようにして語られる。@加賀の郷ー支佐加比売、A生馬の郷ー八尋鉾長依日子命、B法吉の郷ー宇武加比売、C加賀の神埼ー枳佐加比売、D楯縫ー天の御鳥命、E漆治の郷ー天津枳佐可美高日命(志都治)、F宇賀の郷ー綾門日女命、G朝山の郷ー真玉着玉邑日女命という具合に御子が配置されいる。出雲の県主をはじめとした豪族の系譜に母系的な性格が濃厚に存在していたことを示している。「土着の女首長の存在」はシャーマンという特殊な存在ではなく、邪馬台国「ヒミコ」に出雲系母系社会を関係づけることが可能である。カムムスヒ神が海の彼方、スサノヲが根の堅洲の国というような水平的な世界を想像させる。ヤマト王権の本源が山にあるとならば、出雲王権は日本海である。出雲風土記は古事記の出雲神話を語らない。古事記の出雲神話は、服従の証としてのカムムスヒ神の天への引き上げと消滅は決して認めない。古事記は出雲の繁栄と服従という物語であるが、出雲風土記は島根半島の各地に生き続ける母系の郷を置く。

■ 総記: 出雲国の郡は東の意宇群から始め(反時計回りに)西南の大原郡に至る9つの郡を記述する。行政単位は、常陸国風土記が郡里制であったが、出雲国風土記では715年制定の霊亀元年の式の郡郷制に変わる。郷は50戸が単位であり、その端数何戸(余戸)まで数えられいる。里が郷に変更され、従来の里はより狭い範囲を指すことになった。東と南は山で、西と北は海に属する。国の東西は147里(78.498Km)、南北は182里(97.168Km)である。この距離の記述は極めて詳細で測定したようである。一里=534.5m、一歩=1.78mに換算した。例えば東西一百四十七里一十九歩と記されている。まるで千年後の伊能忠敬の日本地図作製作業並みの精度で記述される。これは出雲風土記の最大の特徴である。出雲風土記の文章と併せ考えると、すごい文化を持っていたと考えられる。古老は言葉を詳しく検証し語源を裁定した。山野、浜の産物は極めて多く、完全に述べられない時は概略を述べて報告とした。「八雲」という言葉は、大国主神の祖父神である八束水臣津野命が述べた「八雲立つ出雲」から由来する。神社は399か所(神祇官184所、非神祇官215所)である。国の大体は、郡9、郷62(余り4戸)、里182、駅家6、神戸7である。郷ごと(二文字表記名)に記すと以下になる。報告書「解」としての完成度は群を抜いて高いし、余すところなく完璧である。
意宇郡: 郷11(余り1戸)、里33、駅家3、神戸3
島根郡: 郷8(余り1)、里25、駅家1
秋鹿郡: 郷4、里12、神戸1
楯縫郡: 郷4(余り1)、里12、神戸1
出雲郡: 郷8、里23、神戸1
神門郡: 郷8(余り1)、里22、駅家2、神戸1
飯石郡: 郷7、里19
仁多郡: 郷4、里12
大原郡: 郷8、里24

■ 意宇郡: 郷11、余戸1、里33、駅家3、神戸3 今の島根県の松江市、安来市一帯の地域をいう。八束水臣津野命は国引き神話の詞章の中では、余った国を国来国来と意宇国に呼び寄せた国の名は、出雲の北門の佐伎の国から多久の折絶より狭田の国、北門良波の国から宇波の折絶より暗闇の国、古志の都都から三穂の埼と今の出雲の国々を引き寄せ終わると、「意恵(おえ)」と宣言した。ゆえにこの国の中心を「意宇(おう)」という。
    □ 母理郷: 郡家の東南39里290歩(以下、歩は略する)、大穴持命が越国の八口を征服して帰ってきたとき、「倭は天皇に支配を任せるが、この出雲国は私が治める、この地を守れ」と宣言した。故に文理(もり)という、後に母理と改めた。
    □ 矢代郷: 郡家の東39里、天の夫比命と一緒に降りてきた伊支らが祖神、天津子命が「私が鎮座する社」といったので、社と呼ぶ。神亀3年矢代と改める。
    □ 楯縫郷: 郡家より東北32里、布都努志命の楯を縫ったので、楯縫と呼んだ。
    □ 安来郷: 郡家の東北27里、神須佐乃命が天を放浪してこの地に落ち着いて、ここで気持ちが安らかになったといった。故に「安来」と呼ぶ。天武天皇の時代、語臣猪麻呂の娘が比売崎でワニに食われた。怒り狂った猪麻呂は神に懇願しこのワニに復讐することができたという伝承がある。
    □ 山国郷: 郡家の東南32里、布都努志命が国巡りをしてこの地を見て「止まず見たい土地である」といった。故に山国と呼ぶ。屯倉(朝廷へ納める税を保管する倉)があった。
    □ 飯梨郷: 郡家の東南32里、大国魂命が来られて御前を取ったところ、故に飯梨という。
    □ 舎人郷: 郡家の東26里、欽明天皇の時代、倉舎人の君の祖日置臣志比が大舎人として仕えた。よって舎人と呼ぶ。屯倉がある。
    □ 大草郷: 郡家の南西2里、須佐乃命の御子青幡佐久佐丁壮命が居た。故に大草と呼ぶ。
    □ 山代郷: 郡家西北3里、大神大穴持命の御子、山代日子命が居た。故に山代と呼ぶ。屯倉がある。
    □ 拝志郷: 郡家の西21里、大神大穴持命が越国に遠征した時、この地の樹木が生い茂っていた。私の愛する林といったことから、林という名が付いた。後に神亀3年に拝志に改めた。
    □ 宍道郷: 郡家の西37里、南に大神が猪を狩りした山に、猪の形をした巨大な岩石が二つあった。故に宍道と呼ぶ。
        ● 余戸里: 郡家の東6里、神亀4年の編戸によって、一つの里を立てた。これを余戸(端数)という。
        ● 野崎駅家: 郡家の東20里、野崎大神の社があることから、野崎駅家と呼ぶ。
        ● 黒田駅家: 郡家と同じところにある。郡家の西北2里に黒田の村がある。土の色が黒くがゆえに黒田と呼ぶ。今は駅家は東に移っているが、今なお黒田の名を使っている。
        ● 宍道駅家: 郡家の西38里
        ● 出雲神戸: 郡家の南西2里、伊邪那岐の子熊野加武呂と大穴持命を祀る
        ● 賀茂神戸: 郡家の東南34里、大神大穴持命の子阿遅須枳高日子命は葛城の賀茂の社に坐ます。この神の神戸である。正倉がある。
        ● 忌部神戸: 郡家の正西21里、国造が神吉詞に朝廷に上がる時に使う御沐の忌玉を作る。ゆえに忌部と呼ぶ。川の近くに湯が出るので、集って遊び万病に効くという。神の湯という。
        ● 寺・神社: 教昊寺が山国郷にある。郡家の正東25里、公認の僧侶が居て、五重塔がある。山代郷に院一つ、郡家の西北4里にあり、荘厳なお堂がある。日置の君目烈が作った。新しい院が一つ、山代郷の中、郡家の西北2里に在り講堂がある。飯石郡の小領出雲臣弟山が作った。新しい院がひとつ山国郷の中にあり、郡家の東南21里にある。三重塔がある。山国郷日置部の根緒が作った。神祇官に属する神社48社、神祇官に属さない神社29社の名前を列記する。
        ● 山野・草木・鳥獣: 長江山 郡家の東南50里、他に5つの山の名と位置をしるし、野は神奈樋野を記す。草木は麦門冬(やますげ)、独活(つちたら)など20種類、木は藤、檜、桐など14種類を記す。禽獣として、鷲、隼、山鶏、熊など15種類の名を記す。
        ● 川: 伯太川は源は葛野山より流れ、母理ら3つの郷を流れ、入海に入る。鮎、いぐいなどが採れる。他に8つの川と魚類を記す。
        ● 海岸・島・海産物: 北は入海、淡島他に6つの島の名を示す。そこに自生する草木を記すことは山野に同じ。浜は門江の浜、西の浜を示す。
        ● 通道: 郡家より目的地への里数を示す。国の東の境にある手間の関へ31里など4本の道を示す。
        ● 報告者署名: 郡宰主帳、少領、主政、擬主政の4名の出雲臣の署名がある。

■ 島根郡: 郷8、里24、余戸1、駅家1 島根郡(島根半島東部)というのは、国引きされた八束水臣津野命が名付けた名前である。
    □ 朝酌郷: 郡家の正南10里、熊野大神命が朝御膳と夕御膳に供える稲穂を差し出す5つの部族を定めたところから朝酌という名が付いた。
    □ 山口郷: 郡家の正南4里、素戔嗚命の御子都留支日子命が私がいる場所は山口と言われたので名が付いた。
    □ 手染郷: 郡家の正東10里、大神大穴持命が、この国は丁寧(たし)に作った国であるという事から名が付いた。今では手染(たしみ)の郷と呼ぶ。
    □ 美保郷: 郡家の正東27里、大神が越の国の奴奈宣波比売と結婚をして産んだ子、御穂須須美命が居られるので、美保と呼ぶ。
    □ 方結郷: 郡家の正東20里、素戔嗚命の御子、国忍別命が居られるところで、私の国の形が良いと言われたので、方結(かたえ)と呼ぶ。
    □ 加賀郷: (脱落)
    □ 生馬郷: 郡家の西北16里、神魂命(大穴持命)の御子八尋鉾長依日子命が「わが御子平明かにして憤(いく)まず」と語ったところから、生馬と呼ぶ。
    □ 法吉郷: 郡家の正西14里、神魂命(大穴持命)の御子宇武賀比売命が殺害されたとき、法吉鳥(鶯)となって飛び去り、ここに静まったので、この名が付いた。
        ● 余戸里: 
        ● 千酌駅家: 郡家の東北19里、伊差奈枳命の御子都久豆美(つくみ)命が居られたところ。つくみを千酌(ちくみ)と呼んだことからこの名がある。
        ● 神社: 大崎の社 他45社
        ● 山野・草木・鳥獣: 布自枳美高山は郡家の正南7里にある。高さ270丈。他6つの山の名と位置を記す。草木は24種を示し、禽獣は9種を記す。
        ● 川・池: 長見川の源は郡家の東北9里、大倉山より出て東に流れる。他に5つの川を示す。池(堤)法吉の堤は周り5里、深さ7尺、鴨・鮒多しという。他に6つの池を記す。
        ● 海岸・島・海産物: 南は入海: 浜は朝酌の促戸、朝酌の渡り、邑美の浜、大井の浜前原の埼、島はたこの島、周り5里、高さ二丈、ほか美佐ノ島、ムカデの島、入海の海産物はいるか、ワニ、スズキ、白魚、ナマコ等  北は大海: シアの数は48、浜は15、埼は3 北の海で採れるものは、シビ、サメ、ウニ、サザエ、フグ、イカ、タコ、ハマグリ、カキ、サザエ、海藻、紫ノリ、天草など
        ● 通道: 意宇の郡朝酌の渡りへ11里、秋鹿の郡の佐太の橋へ15里、隠岐の渡り千酌の駅家の湊へ17里
        ● 報告者署名: 郡司主帳、大領、少領、主政の4名の出雲臣、社部臣、社部石臣、蝮朝臣の署名がある。

■ 秋鹿郡: 郷4、里12、神戸1 郡家の正北に秋鹿日女命が御座される故による。
    □ 恵曇郷: 郡家の東北9里、素戔嗚命の御子磐坂日子命が国巡りされてここに至った時、「国の形が絵鞆のようだ、私の宮をここに作る」と言われた故により恵曇と呼ぶ。(絵鞆の意味は不明)
    □ 多太郷: 郡家の西北5里、素戔嗚命の御子衝杵等乎与留比古命が国巡りされここに至った時、「自分の心があ歩く正しくなった。宮をここに作る」と言われた故により多太と呼ぶ。
    □ 大野郷: 郡家の正西10里、和加布都努志能命が狩りをされた時、阿内の谷に猪は消えた。「おのずなるかも、猪の跡失せき」と言われた故に、内野となずけた。後世大野と呼ぶようになった。
    □ 伊農郷: 郡家の正西14里、出雲の郡伊農の郷におられる神天瓦津日女命が国巡りされてここに至った時、「伊農波夜」と言われた故に伊努と呼んだ。っ神亀3年伊農と改めた。
        ● 神戸里: 10社神祇官の社、16非神祇官の社の名を記す。
        ● 山野・草木・鳥獣: 山は神名火山、郡家の東北9里、高さ230丈、周囲24里、その山の下に佐太の大神の社がある。他に2つの山を記す。野は女高野。、郡家の正西10里、土肥え豊かな園。他に都勢野を記す。建築材、薬草、食料の観点から草木は18の名をあげる。禽獣は狩猟の観点から11の名を挙げる。
        ● 川・池: 川は佐太川など源、海に入るまでの流域、距離を記す。他に5つの川を記す。池は5つの堤(灌漑用水)の大きさを記す。そこに住む魚や葦、蓮などを記す。
        ● 海岸・島・海産物: 南は入海、北は大海、恵曇の浜には岩をくりぬいた水路がある。これは郡の大領臣訓麻呂の祖先が掘ったものであるという。島4つの名前、規模、産物16種の名を記す。
        ● 通道: 島根郡の境の佐太の橋へ8里、そして楯縫郡の境の伊農橋へ15里の2本の道を記す。
        ● 報告者署名: 郡司主帳、大領、少領の3名の日下部臣、刑部臣、蝮部臣の署名がある。

■ 楯縫郡: 郷4、里12、余戸1、神戸1 楯縫と呼ぶ所以は、神魂命が天上界の御殿を作られた時、非常に長い縄を結んでを用いて測量し、天御鳥命に造営をなされた。天より下ってこの地で調度品を作ったことによって楯縫と呼ぶ。
    □ 佐香郷: 郡家の正東4里、佐香の河内に神々が集って酒を醸造した故をもって佐香と呼ぶ。
    □ 楯縫郷: 郡家がある。北の海が迫り、岸壁に穴が多数るが、人が出居る出入りできる孔ではない。
    □ 玖潭郷: 郡家の正西5里、大神大穴持命が神饌の田の御倉を作るために巡行しているとき、「久多美の山」と言われた故に久多美という。神亀3年玖潭と改める。
    □ 沼田郷: 郡家の正西8里、宇乃治比古命が「弥多の水をもって御乾飯を煮る」と語った故に弥多と呼ぶ。今の人奴多と訛る。神亀3年沼田と改める。
        ● 余戸里: 
        ● 神戸里: 新しい院が、沼田郷にお堂がある。郡家の正西6里、大領出雲臣大田が作る。神祇官9社、非神祇官19社あり
        ● 山野・草木・鳥獣: 神名樋山 郡家より東北6里にある。峯の西に巨岩の社がある。石神は多支都比古命である。他に阿豆麻夜山、見椋山がある。山の草木はやますげ、漆など22種類を記す。禽獣は10種類を記す。
        ● 川・池: 多久川源を神名樋山より出でて西南に流れ入海に入る。他2つの川を記す。池は5つの池の大きさを記す。
        ● 海岸・島・海産物: 南は入海、北は大海、埼と浜は8か所の名を記す。島は御津の島など5つの名を記す。海産物は秋鹿郡に同じという。
        ● 通道: 秋鹿郡の境の伊農川へ8里、出雲郡の境の宇加川へ7里の二つの道を示す。
        ● 報告者署名: 郡司主帳、大領、少領の3名の物部臣、出雲臣、高善の史の署名がある。

■ 出雲郡: 郷8、里23、神戸郷1 
    □ 健部郷: 郡家の正東12里、以前に宇夜里となずけたのは、宇夜都弁命がこの地の山に天下ったところに社がある故である。後に健部と名付けた理由は、景行天皇が「わが御子の倭健を忘れるな」と言われたからで出雲臣神門臣古弥を建部とした。
    □ 漆治郷: 郡家の正東5里、神魂命の御子天津枳比佐可美日子命の名を薦枕志都治値といいこの地に鎮座します。故に志丑治と呼んだ。神亀3年漆治と改名した。
    □ 河内郷: 郡家の正南13里、斐伊の大河わがこの地を北に流れる故に河内と呼ぶ。川には堤がある。
    □ 出雲郷: 郡家に属する。
    □ 杵築郷: 郡家の西北28里、国引きの後、大神大穴持命を奉る為に、宮処に杵築いた故に杵築と呼ぶ。
    □ 伊努郷: 郡家の正北8里、意美豆努命の御子赤衾伊努意保須比古佐委気能命の社がこの地にある故に伊農となずけた。神亀3年伊努と改名した。
    □ 美談郷: 郡家の正北9里、和加布都努志命の社が御領田にある故に、三太三と呼ぶ。正倉がある。神亀3年美談と改名する。
    □ 宇賀郷: 郡家の正北17里、神魂命の御子が綾門日女命に求婚したが、逃げ隠れたので命は様子を伺った。そこから宇賀と呼んだ。北の大海の海岸線には険しい磯があり岩屋に穴がある。人は出入りできないので、黄泉の坂、穴という。
    □ 神戸郷: 郡家の西北2里、出雲の名である。
        ● 寺・神社: 郡家の正南13里、河内郷に新しい院がある。お堂を旧の大領日置部の臣布弥が造った。神社は神祇官が18社、非神祇官が64社の名前を列記する。
        ● 山野・草木・鳥獣: 神名火山:郡家の東南3里、高さ175丈 ほかに出雲の御崎山の二つの山を挙げる。山野の草木17種類、禽獣12種類お名前を列記する。
        ● 川・池: 出雲の大川:源は鳥上山より流れ、いくつかの郷を経由して神門の海に入る。流域は土地肥えて産物豊かで、魚類5種類の名前を挙げる。材木を運ぶ船でにぎわう。ほかに意保美の小川あり。池は二つの名をあげる。
        ● 江・海岸・島・海産物: 江は西門の江、大方の江ふたつ。東は入海で三方は平原で鳥獣が多い。北は大海で三崎と浜の名を13あげ、島の名を9つあげる。北の海の海産物は楯縫郡と同じ。
        ● 通道: 意宇の境の佐瀬邑へ13里、出雲の大河へ2里、多義邑ヘ25里、楯縫郡の境の宇加川へ14里の4本の道を挙げる。
        ● 報告者署名: 郡司主帳、大領、少領、主政の4名の若倭部臣、日置部臣、大の臣、部の臣の署名がある。

■ 神門郡: 郷8、里22、余戸1.駅家2.神戸2 神門(出雲族)の臣伊賀曽然が神門を差しだした故をもって神門という。昔から今までこの一族はここに住む。
    □ 朝山郷: 郡家の東南5里(出雲市朝山町)、 神魂命の御子真玉著玉邑日女命が居られた場所で、大穴持命が結婚して毎日朝に通ったので朝山と呼ぶ。
    □ 日置郷: 郡家の正東4里、欽明天皇の時代日置の伴部らが仕えて政治を行った故に日置と呼ぶ。
    □ 塩治郷: 郡家の東北6里、阿遅須枳高日子命の御子塩治比子能命が居られた場所の故に止屋と呼ぶ。神亀3年塩治と改める。
    □ 八野郷: 郡家の正北3里、素戔嗚命の御子八野若日女が居られた場所で、大穴持命が結婚しようと屋敷を建てた故をもって、八野と呼ぶ。
    □ 高岸郷: 郡家の東北2里、大神大穴持命の御子阿遅須枳高日子命が夜昼泣き止まないので、高屋・高橋を作った。故に高岸と呼ぶ。
    □ 古志郷: 郡家に属する。伊弉冉命の時日淵川をもって池を作った。古志の国の人が来て堤を築造しここに住んだ。故に古志と呼ぶ。
    □ 滑狭郷: 郡家の南西8里、素戔嗚命の御子和加須世理比売命が居られた場所で、大神大穴持命が通われた社の前に滑らかな盤石があった。故に南佐と呼んだ。神亀3年滑狭と改名した。
    □ 多伎郷: 郡家の南西20里、大神大穴持命の御子阿陀加夜努志志多伎吉比売命が居られた場所で、故に多吉と呼ぶ。神亀3年多伎と改名する。
        ● 余戸里: 郡家の南西36里
        ● 狭結駅: 郡家と同じところ、古志国の佐与布という人が住んだ。故に最邑と呼ぶ。神亀3年狭結駅と改める。
        ● 多伎駅: 郡家の西南19里
        ● 神戸里: 
        ● 寺・神社: 朝山郷に院がある。郡家の正東2里、神門臣らがお堂を立てる。古志の郷のも院がある。郡家の東南1里、堀部臣らがお堂を立てる。神祇官25社、非神祇官12社の名を記す。
        ● 山野・草木・鳥獣: 9つの山の名を記す。草木は37種類を記す。禽獣は14種類を記す。
        ● 川・池・湖: 神門川:源は飯石郡琴引山から出て北へ流れ6つの郷を流れて水海(湖)に入る。他に多岐の小川を記す。池は4か所の名を記す。神門の湖は郡家の正西4里周り35里、国引きの松山がある。魚は5種の名がある。
        ● 海岸・島・海産物: 北海にある物産は楯縫郡で説明したものに同じ。
        ● 通道: 出雲郡との境にある出雲河へ7里、飯石郡の境堀坂山邑へ25里、同じ境の与曽紀へ25里、石見国安曇郡の境の多伎々に33里の4本の道を記す。
        ● 報告者署名: 郡司主帳、大領、擬少領、主政の4名の刑部部臣、神門臣、刑部臣、吉備部臣の署名がある。

■ 飯石郡: 郷7、里19 飯石郷の中に伊比志都幣命が居られ故に飯石と呼ぶ。
    □ 熊谷郷: 郡家の東北26里、古老云う 久志伊奈大美等与麻奴良比売命が妊娠して産むとき、ここにきて「甚くくまくましい谷がある」散った。故に熊谷と呼ぶ。
    □ 三屋郷: 郡家の東北24里、大神大穴持命の社があった。「三刀矢」といった。神亀3年三屋に改めた。正倉がある。
    □ 飯石郷: 群家の正東12里、伊比志都幣命が天下った場所を伊鼻志と呼んだ。神亀3年飯石に改める。
    □ 多祢郷: 郡家に属する、大神大穴持命と須久奈比古命が巡行された時、稲種がここに落ちた。故に種と呼んだ。神亀3年多祢と改めた。
    □ 佐須郷: 群家の正西19里、神須佐之男命が「この地は小さい国だが、ふさわしい国である」と言って、ここに鎮座された。故に佐須と呼ぶ。
    □ 波多郷: 郡家の西南29里、波多都美命が天下ったところ、故に波多と呼ぶ。
    □ 来嶋郷: 群家の正南、伎自麻都美命が鎮座される。故に支自真と呼ぶ。神亀3年来嶋と改める。
        ● 寺・神社: 神祇官の5つの社、非神祇官16の社の名を記す。
        ● 山野・草木・鳥獣: 琴引山には大神の琴がある。郡家の正南35里、高さ300丈、他に12の山の名、位置、高さ、由縁を記す。草木は34種類の名を記す。禽獣は12種類の名を記す。
        ● 川・池・湖: 三屋川の源は群家の正東15里の多加山から流れ、斐伊川に入る。他に4つの川を示す。産物は鮎、鉄
        ● 海岸・島・海産物: 内陸なので海岸線はない
        ● 通道: 大原郡の境の斐伊川へ39里、ほかに5本の道を記す。
        ● 報告者署名: 郡司主帳、大領、少領の3名の日置首、大私の造、出雲臣の署名がある。

■ 仁多郡: 郷4、里12 大神大穴持命が「この国は大きくもなく小さくもなく、湿った土地という意味で「仁多しき小国」といったことから、仁多という。
    □ 三処郷: 郡家に属する、大神大穴持命が「この地はよろしい、御地とする」といったので、三処と呼ぶ。
    □ 布勢郷: 群家の正西10里、古老曰、大神大穴持命が宿にしたところなので、布世と呼んだ。神亀3年布勢に改めた。
    □ 三津郷: 群家の正南25里、大神大穴持命の御子阿遅須伎高日子命がひげが伸びる様にあっても泣き止まず言葉が通じなかった。御子を船に乗せ遊覧の旅に出た。夢の神の告示を伺うと、翌朝御子は「御津といった。それは何処かと問うと池に行き此処だと言った。御身沐浴した。今も国造が朝廷に神吉事奏する旅に出る前にここで潔斎する。故のに三津と呼ぶ。
    □ 横田郷: 郡家の東南21里、郷の中に四段の田があった。いささか長い形なので横田と呼んだ。
        ● 寺・神社: 三沢の社他1社の神祇官の社、非神祇官の社8社
        ● 山野・草木・鳥獣: 山は鳥上山他6つの山を記す。野は志努坂野他3つを記す。山野の草木は31種類を記す。禽獣は13種類を記す。
        ● 川: 横田川他6つの川を記す。採れるものは鮎、マス、鰻などである。
        ● 通道: 飯石郡の境の漆仁に至る38里。川の近くに薬湯あり。大原郡の境の辛谷に至る26里、伯嘗国日野郡の境の阿志比縁山に至る35里、備後国恵宗郡の境の遊託山に至る37里、同じく比市山に至る53里 の5本の道
        ● 報告者署名: 郡司主帳、大領、少領の3名の治部、蝮部臣、出雲臣の署名がある。

■ 大原郡: 郷8、里24 群家の正北10里にある10町ほどの原は大原という名前であった。昔はここに郡家があった。古い名前を取って大原郡と呼ぶ。
    □ 神原郷: 郡家の正北9里、古老曰 大神大穴持命の宝を置いた場所であった。神宝郷というべきを訛って神原の郷と呼んだ。
    □ 屋代郷: 群家の正北10里、古老曰 大神大穴持命が矢を射る練習の場所であるので、矢代と呼んだ。神亀3年屋代と改めた。
    □ 屋裏郷: 郡家の東北10里、古老曰 大神大穴持命が矢を射たところ。矢内と呼んだが、神亀3年屋裏と改めた。
    □ 佐世郷: 郡家の正東9里、古老曰素戔嗚命佐世の木の葉を頭にかざして踊った時、葉が落ちた場所で佐世と呼ぶ。
    □ 阿用郷: 郡家の東南13里、古老曰 ここの山田を耕していた男が鬼に食われたが、近くに居た両親に「動々 あよあよ」と言って危険を知っレ瀬田という。阿欲と呼ぶ。神亀3年阿用と改めた。
    □ 海潮郷: 郡家の正東16里、古老曰 宇能治比古命が御親須義祢命を恨んで、出雲の大潮を寄せて遭難させた。故に得塩(海潮)と呼ぶ。神亀3年に海潮と改めた。その東北に須賀の小川に御温泉がある。
    □ 来次郷: 群家の正南8里、大神大穴持命が多くの神を山の盆地には入れないと言って追放してここに来た。来次と呼ぶ
    □ 斐伊郷: 郡家に属する。樋速日子命がここにおはします故に樋という。神亀3年斐伊と改めた。
        ● 寺・神社: 新し院が斐伊郷にある。お堂は大領勝部の君虫麿が作った。屋裏郷にも院がある。小領額田部の臣押嶋が作った。神祇官の13の社と非神祇管の16の社の名を記す。
        ● 山野・草木・鳥獣:山は城名樋山他4つの山を記し、野は兎原野の名を記す。草木は29種類、禽獣は12種類をの名を記す。 
        ● 川: 斐伊川他5つの川を記す。採れる魚は鮎、マスが少々
        ● 通道: 意宇郡の境の木垣へ23里、仁多郡の辛谷へ23里、飯石郡の境の斐伊川へ57歩、出雲郡の境の多義村へ11里の4本の道を記す。
        ● 報告者署名: 郡司主帳、大領、少領、主政の4名の勝部臣、勝部臣、額田部臣、日置部臣の署名がある。


3) 播磨国風土記

郡里制で書かれている。播磨国風土記の最大の特徴は物語性が豊かなことである。出雲国風土記が官僚の完璧なマニュアルに基づく報告書だとすると、播磨国風土記は古事記のような神話的物語である。播磨国とは今の兵庫県西部の明石市、加古川市、姫路市付近を指す。ただし播磨国風土記には明石郡の記事があったはずなのであるが逸脱している。東は摂津国、西は備前国である。文の中で言葉の意味が不明な箇所が多いこと、文脈の連絡が不明で混入と思われ箇所がある。

■ 賀古郡: (加古川市付近) 底本三条西家本は巻首と賀古郡冒頭を欠落している。「この国は丘と原がひろく、まるで鹿の背のようだ」と言われたので鹿児、賀古郡という名で呼ばれている。神話のなかで地名の由来が語られる。それが余りに調子がいいので、創作とすぐにばれる。逆に言うと地名をつなげて神話を作ったというべきであろう。出来のいいご当地ソングである。小林旭の歌う「車ザレ歌」みたいなものである。鹿が丘の上で「比々」と鳴いたので「日岡」と名が付いた。大帯日子命(景行天皇)が印南の別嬢に求婚する話が展開される。息長命を媒介人とする求婚の旅において、摂津国の高瀬の渡りで、船の渡し守の紀伊国小玉が「私は天皇の臣ではない。どうしても渡りたいなら渡り賃を出せ」というと、大帯日子命は蔓を船に投げ込むと船は光輝いた。故に「朕君の渡り」と呼ぶ。明石郡榊の厨御井で食膳を祀ると、別嬢は島(加古川の河口)に逃げ込んだ。景行天皇が賀古の松原で白い犬が吠えるのを聞いて、須受武良の首に聞くと別嬢が飼っている犬だというので別嬢の居場所が分かった。御杯物をした場所を御杯江となずけた。島に渡って女に遭うことができたので「陰愛妻」といった故に南比都麻の島と呼ぶ。二人で船に乗って印南の村に着いて婚姻(密事)した。故に六継村と呼ぶ。海岸近くはうるさいので高台に移って宮を作った。ここを高宮村と呼ぶ。酒を造るところを酒屋村、魚を料理するところを贄田村、宮を作った場所を城の宮田村と呼んだ。仲立ちをした息長命に出雲臣比須良比売を与えた。年月が経って別嬢が薨去した。日岡に墓を作り屍を船に乗せて印南川を渡る時、船が転覆して川下に櫛と褶が流れ着いた。その領巾(褶)と7櫛を墓に葬った故に褶墓と呼ぶ。天皇は悲しんでこの川の魚は食べないと言って病になった。鮎が薬だったので病高じて、早く鮎をと言われた。宮を賀古の松原に作られ、ここから清水を彫り出した故に松原の御井といった。
    □ 望理里: 里の後に土地に肥沃度を記している。まがりの里は中の上というように記される。(以下略す) 大帯日子命が巡行され、川の曲がり方が美しかった故に望理里と呼ぶ。
    □ 鴨波里: 昔 大部造らの祖である古理売がこの地に粟を撒いた故に粟々の里と呼ぶ。この里の神前村に荒ぶる神がいて船の航行を邪魔するので、印南の大津江で船を引き上げ、赤石郡の湊に引きだした故に船引原と呼ぶ。
    □ 長田里: (加古川市尾上町)大帯日子命が別嬢のところに通うとき、途中に細長い田があった故に長田里と呼んだ。
    □ 駅家里: (加古川野口町)

■ 印南郡: (加古川市西部と高砂市) 仲哀天皇と神功皇后がともに筑紫の熊襲征伐をされた時、船が印南の浦に停泊した。風は静かに波は平らかな故をもって、(入り波)印南郡となずけられた。
    □ 大国里: 百姓の家数が多かった故に大国里と名付けた。帯中日子命(仲哀天皇)が亡くなられ、息長帯日女命が墓を作ろうと、石作りの連来をして讃岐の羽若より石を取り寄せ、美保山に殯宮を作った。山の西に池があって池之原と呼ぶ。原の南に矢の形をした作り石を発見した。聖徳太子の時代物部守屋(弓削大連)が作ったという巨石の神体である。
    □ 六継里: 景行天皇と別嬢が結婚した場所で睦まじい故をもって六継里と呼んだ。この里には松原があり、甘叢が生えている。
    □ 益気里: 大帯日子命が御宅をこの村に作った故に宅村と呼んだ。この里に斗形山がある。石造古墳の形である桶と枡に似ている故に斗形山と呼ぶ。又石の橋があり八十橋と呼ぶ。上古の昔八十の人がこの橋を渡って天と行き来していた故に八十橋という。
    □ 含芸里: かむき(瓶落ち)というは、仁徳天皇時代私部弓取の祖他田の熊千が瓶の酒を馬から落とした故をもってかむき(瓶落ち)と呼ぶ。景行天皇時代酒の泉が湧きだした故に酒山と呼ぶ。

■ 飾磨郡: (姫路市) 大三間津日子命がここに館を作った時、大きな鹿が鳴いた故に、鹿鳴くという意味で飾磨と呼んだ。飾磨の御宅というのは、仁徳天皇の時代、隠岐、出雲、伯耆、因幡、但馬の5つの国の国造を呼びつけた。朝廷から派遣された使いの者を水手に使用したことから罪に問われ、播磨国に留置し開墾させた。その田の稲を収めた屯倉を播磨の御宅と呼んだ。
    □ 漢部里:  讃芸(岐)国の漢人らがここにやってきて住み着いたからである。
        ● 多志野: 景行天皇が巡行された時、この地を鞭で指して開墾を指示したという。故に佐志野戸呼んだ。改めて多志野となった。
        ● 阿比野: 景行天皇が山から出て、海からやってきた従臣らと会合した故に、会野と呼んだ。
        ● 手沼川: ?履行天王が手を洗った川故、手沼川と呼ぶ。
    □ 菅生里: ここに菅原があった故に」、菅生里と呼ぶ、
    □ 麻跡里: 景行天皇が巡行された時、二つの山の稜線が目尻を割いて墨を入れた形似ていた故、目割(まさき)と呼んだ。
    □ 英賀里: 宍禾郡の伊和大神の子、英賀比子、英賀比売の二人の神が居られた故に英賀里と呼ぶ。
    □ 伊和里: 積幡郡の伊和君の一族がここにやってきて移り住んだ故に伊和部と名付けた。
        ● 14の丘: 昔、大汝命(大穴持大神)の子、火明命の行いが良くなかったので、父神はこれを恐れてこの子を捨てようと思った。(今はやりの躾のための置き去り)因達の神山に登って子に水くみに行かして、その間に船に乗って逃げ帰ろうとした。子の火明命は怒って船を追いかけて父が乗る船を壊した。そこを浪丘、琴神の丘となずけた。櫛が落ちたところを匣丘、箕が落ちたところを箕形丘、甕が落ちたところを甕丘、稲が落ちたところ稲牟礼丘、冑が落ちたところを冑丘、碇が落ちたところを沈石丘、綱が落ちたところを藤丘、鹿が落ちたところを鹿丘、犬が落ちたところ犬丘、蚕が落ちたところを日女道丘と呼んだ。子にさんざん打たれたる父神は家に帰って、妻の弩都比売に「子から遁れようとして風波に遭い大変痛い目に遭った」といった。故になずけて辛塩という。
        ● 馬墓池: 伊和里の船丘の北辺りに馬墓の池がある。昔 大長谷天皇の時代、尾治連の祖長日子が幸せに暮らしていたが、長日子が身罷るとき「墓は父の墓のようにする」という遺言を残した。自分と奴婢と馬の墓の三つを作る事である。子孫がその墓のあたりに池を築いたので、馬墓の池と呼ぶ。
    □ 賀野里: 景行天皇が巡行された時、ここに殿を建て蚊屋を張った。故に加野と呼ぶ。
        ● 幣丘: 景行天皇が巡行された時、ここの地祇に幣を奉った。故に幣丘と呼ぶ。
    □ 韓室里: 韓室首 宝らが祖、大いに栄えて韓式の家を作った故に韓室と呼ぶ。
    □ 巨智里: 巨智らがこの村に住んだ故に巨智里と呼ぶ。
        ● 草上村: 韓人山村らの祖、巨智賀那がこの地の開墾した時、一叢の草を刈った。その草は臭かったので草上と呼んだ。
        ● 大立丘: 景行天皇がこの丘に立って地形を見られた故に大立丘と呼ぶ。
    □ 安相里: 景行天皇が但馬国から巡行された時、傘を差さなかったので、国の造豊忍別命は職から退けられた。但馬国造阿胡尼命は塩田を献上する代わり罪を許すことをお願いした。塩代の主但馬国の朝来の人がやってきてここに住んだ。故に安相の里となずけた。
        ● 長畝川: 賀毛郡長畝の人がこの川に生える真菰(蒋)を刈ろうとしたが、此処の土地の人石作連らによって殺されて、川に投げ込まれた。故に長畝川と呼ぶ。
    □ 牧野里: 牧野というのは昔、少野といった。故に牧野(ひらの)と呼んだ。
        ● 新羅村: 新良訓というというのは昔、新羅の人が来てこの村に住み着いた故で新羅となずけた。
        ● 筥岡: 大汝少日子根命が日女道神と結婚したときに、日女道神が丘の上に食物や筥を備えた故に筥岡と呼ぶ。
    □ 大野里: 欽明天皇の時代、この地は荒れ野であったが、村上足嶋らの上祖恵多がこの地を求め住んだ。よってこの名が付いた。
        ● 砥堀: 景行天皇の時代、飾磨郡と神前郡の境に大川の道を作った。この時砥石を掘り出した故によって砥堀と呼んだ。
    □ 少川里: 欽明天皇時代、私部弓束らの祖、田又利の君鼻留がこの地を譲り受け、私の里となずけた。その後上大夫が国宰であった頃小川の里に変えた。
        ● 高瀬村: 景行天皇が夢前丘に登って北の方を見ると、白い色のものが見えたので舎人上野国の麻奈比古を派遣して調べさせると、滝であることが分かった。ゆえの高瀬村となずけた。
        ● 豊国村: 筑紫の豊国の神がここにいましたが故に豊国村となずけた。
        ● 英馬野: 景行天皇がこの野で狩りをされた時、前を一匹の馬が駆け抜けた。天皇は誰の馬かと問うと、侍従らはわが君の馬ですと言ったので我馬野となずけた。間の抜けた天皇の問いである。
    □ 英保里: 伊予国の英保村の人が移り住んだ故英保村と呼んだ。
    □ 美濃里: 讃岐国の弥濃郡の人が移り住んだ故に美濃の里と呼んだ。
        ● 継潮: 昔この国である女が死んだ。その時親である筑紫の国火の君がやって来たらその女は生き還った故に継の潮と呼んだ。
    □ 因達里: 神功皇后が韓国征伐に渡海したとき、船前に伊太代(いだて)の神が居られた故に因達里と呼んだ。
    □ 安師里: 倭の穴師神の神戸であった故に穴師里と呼んだ。

■ 揖保郡: (姫路市西部とたつの市) 揖保郡のいわれは揖保里で述べる。伊刀嶋は諸々嶋の総称である。昔、品太天皇(景行天皇)が狩り人を飾磨の狩場に立たせて、我馬野より鹿を追った。牝鹿はすでに伊刀嶋に逃げ渡った。侍従らは「すでに鹿はあの島に至った」といったので、伊刀嶋となずけた。
    □ 香山里: 本の名は鹿来墓といった。伊和の大神がその地を領有した時、鹿がやってきて山の岑に立った。山の岑の形が墓に似ていたので鹿来墓と呼んだ。
        ● 家内谷: 香山の谷である。形が垣廻(やぬち 家内の訓に同じ)のようであったから家内谷と呼んだ。
        ● 佐々村: 品太天皇が巡行された時、猿が竹の葉を食っていた故に佐々村と呼んだ。
        ● 阿豆村: 伊和大神が巡行された時、胸の内が熱いと言って衣の紐を引きちぎった。故に阿豆と呼んだ。
        ● 飯盛山: 讃岐国の飯盛の大刀自がやってきてこの山に住んだ故に飯盛山と呼んだ。
    □ 栗栖里: 仁徳天皇が皮をむいた栗の実を若倭部連池子に与えて、池子は持ち帰ってこの村に植えた故に栗栖と呼んだ。この栗は渋みがなかったという。
        ● 金箭川: 品太天皇が巡行された時、御狩りの金箭(金属製矢じりの矢)を河に落とされた故に金箭川と呼ぶ。
        ● 阿為山: 品太天皇の時代、紅草(呉の藍)がこの山に生えた故に阿為山と呼んだ。
    □ 越部里: 旧名は皇子代(みこしろ)里である。安閑天皇の時代、天皇の愛を受けた人但馬の君小津が姓を戴き、皇子代の君として屯倉をこの村に造った故に子代村といった。後の世に上野太夫が30戸を併せて越部里と呼んだ。
        ● 狭野村: 別君玉手らの祖、河内国泉郡よりこの地に移った。「この地は狭いが、住む」といった故に狭野と呼んだ。
        ● 神阜: 出雲の阿菩大神が、大倭国の畝傍・香山・耳梨3山の争いを仲裁するために、登ってきたが、途中で争いが止んだと聞いて、この地で船を覆て居を定めた。山の形が神の船を覆せた形に似ている故に神阜と呼んだ。
    □ 上岡里: 本は林田里といった。菅が山の辺りに生える故に菅生と呼ぶ。景行天皇が巡行したとき、井戸を丘に掘ったら、冷たくて清らかな水が出た。天皇は「すがすがしい」といったので、宗我富と呼んだ。
    □ 日下部里: 人の姓によって名ができた。
        ● 立野: 昔、土師弩美宿祢が出雲国に通っていたが、日下部の野で死んだ。出雲の人が連れ立ってやってきて河の礫を積んで墓を作り葬った。ゆえに立野と呼んだ。
    □ 林田里: 本の名は談奈志といった。伊和大神がこの地を占領した時その記念(志)に楡の木を植樹した。故に談奈志と呼ぶ。
        ● 松尾の阜: 品太天皇が巡行された時、此処で日が暮れた。松を取ってたき火をしたので松尾と呼ぶ。
        ● 塩阜: この丘の南に塩辛い水が出た。海と30里しか離れていないので相混じったのであろう。潮が満吊るときは水位が3寸高くなる。牛、馬、鹿などは好んで飲んだという。
        ● 伊勢野: この野の住んだ人の生活は心休まることがなかったという。衣縫猪手、漢人の刀良らが社を立て、伊和大神の子伊勢都比古命らを祀ったところ祟りはなくなった。故に伊勢と呼ぶ。
        ● 稲種山: 大汝命、少日子根命の二神が神前郡の埴里生野の峰からこの山を見て、「この山に稲種を置くべし」といった。山の形も稲積に似てることから稲積や歌と呼ぶ。
        ● 邑智駅: 品太天皇が巡行された時、此処に至って「ここは狭い地だと思ったが、大内だった」と言われたので、大内と呼んだ。
        ● 冰山: この山の東に流れ井があった。品太天皇がこの水を汲むと氷になったので、冰山と呼んだ。
        ● 槻折山: 品太天皇がこの山で狩りをされたとき、槻の木で作った弓で猪を射た。そのとき弓が居れたので槻折山と呼んだ。この山の南に石の穴があって蒲が生えていた。故に蒲阜と呼んだ。
    □ 広山里: 本の名は握村(都加村)。石比売命が泉の里の波多為の杜で狩りをして、箭を悉く地に射込んだ。握だけが地上に出ていたので、都可の村となずけた。後に石川王が播磨の国を治めた時に改めて広山里と呼んだ。
    □ 麻内里: 但馬国の人、伊頭志君麻良比がこの山に住んでいた。夜二人の女が麻を打って死んだ。故に麻内山と呼んだ。今でもこの地の人は夜に麻を打たない習慣がある。
        ● 意比川: 品太天皇の時代、出雲の御蔭大神が枚方里神尾山に居て通行人に祟って半分の人を殺した。そこで伯耆、因幡、出雲の人が朝廷に訴えたので、額田部連久らを派遣してこの神を祀った。屋形を作り酒屋を作り、宴遊して祭った。櫟山の榊葉を腰に挟んで川中でもみ合った故に、厭川と呼んだ。
    □ 枚方里: 河内国茨田郡枚方の里の漢人がやってきて、この村に住んだ故に枚方の里と呼んだ。
        ● 佐比岡: 出雲の大神が神尾山に居て出雲の通行人の約半分を殺したりして祟る為、出雲の国人はこの丘に佐比(鍬 塞さえの神)を作って祀ったところが、静まらなかった。そこで河内国枚方里より漢人がやってきて祭り敬ったところ大神は容宅静まった。大神が居ますので神尾山と言い、佐比を祀ったので佐比岡と呼んだ。
        ● 佐岡: 仁徳天皇の時代、筑紫の田部をしてこの地を開墾させた。常に皐月5月をもってこの岡で宴を張ったので、佐岡と呼んだ。
        ● 大見山: 品多天皇、この山の岑に登って、四方を望んだので大見と呼ぶ。ところどころ窪んだ跡があるこれを御沓及御杖のところという。
        ● 御立阜: 品多天皇がこの阜に登って国を見たので御立岡と呼んだ。
    □ 大家里: 旧の名を大宮の里という。品多天皇が巡行されこの村に宮を作った。故に大宮と呼んだ。後大宅里と改めた。
        ● 大法山: 品多天皇この山で播磨の法令を制定した。故に大法山と呼ぶ。今勝部というは、推古天皇の時代、大倭の千代の勝部らを派遣して開墾し、その一族が住んだから勝部と呼ぶ。
        ● 上筥岡・下筥岡・魚戸津・朸田: 宇治の天皇の時代(兎道稚郎子)らの祖の兄弟が大田村の地を開墾した。朸(天秤棒)で荷物を運んだが、朸が折れて鍋が落ちたところを魚戸津と呼び、前の筥が落ちたところを上筥岡、後ろの筥が落ちたところを下筥岡と呼んだ。朸が折れて落ちたところを朸田と呼んだ。
    □ 大田里: 呉の勝が韓国より渡り来て、紀伊国名草郡大田に住んだ。後分かれて摂津国三嶋賀美郡大田村へ移った。さらに揖保郡大田村に移った。故にここを大田里と呼ぶ。
        ● 言挙阜: 神功皇后が戦さに行く時、この岡より軍へ命令を下した。「決してこの戦のことを語ってはいけない」といった故に言挙阜と呼ぶ。
        ● 鼓山: 額田部連が伊勢の神人と闘ったとき、鼓を打ち鳴らしたことから鼓山と呼ぶ。
    □ 石海里: 孝徳天皇の時代、この広い野に稲がたくさんできた。阿曇連は稲を刈って奉納した。天皇は阿曇連を派遣してこの野の開墾を行った。石海の人夫を使って開墾したので、野の名を百便、村の名を石海と呼んだ。
        ● 酒井野: 品多天皇の時代、宮を大宮の里に造り、井戸を掘って酒殿を作ったという。故に酒井野と呼ぶ。
        ● 宇須伎津: 神功皇后が韓国を征伐しようと宇頭川の泊まりから船出をしたが、逆風が吹いて航行できなかったので、船を船越に上げて百姓らに船を引かせた。この徴発に協力するため女が息子を差し出したが、自身は江に落ちた故にこの津を宇須伎(失う)と呼ぶ。
        ● 宇頭川: 宇須伎津の西に、絞水の淵があった。故に宇頭川と呼ぶ。神功皇后が船泊まりをした場所である。
        ● 伊都村: 御船の水手らが「何時かこの地に至る」といった故に伊都といった。
    □ 浦上里: 昔、阿曇の連ら、先に難波の浦上の居住していたのだが、この地に移り住んだ故に浦上と呼んだ。
        ● 御津: 神功皇后が御船を宿泊させた泊である。故に御津と呼ぶ。
        ● 室原泊・白貝浦・家嶋: 風を防ぐこと室のようだという事から、室原の泊と呼ぶ。蛤が採れることから白貝浦と呼ぶ。島の住民が家を作って住んだことから家島と呼ぶ。
        ● 神嶋、伊刀嶋、韓荷嶋・高嶋: この嶋の西に石神がいた。形が仏像に似ていた故に神嶋と呼ぶ。五色の玉でできており品多天皇の時代、新羅の人が来朝し、この石を彫ったところ、この石像が泣いて怒った。暴風雨が巻き起こって新羅の客船を打ちやぶり、韓人は悉く死んだ、遺体を浜に埋めたことから韓浜となずけた。そして忌て事を秘とした。漢人の難破した船や漂流物を集めた故に韓荷の島となずけた。一番高い嶋を高嶋と呼んだ。
    □ 萩原里: 息長帯日売命(神功皇后)が韓国遠征からの帰り、その船がこの地に宿泊した。人晩で萩が一丈ばかり伸びたので萩原と呼んだ。井戸を掘ったので針間(播磨)の井と呼んだ。韓の清水ともいった。酒殿を作った故に酒田余呼んだ。船が急の傾いたので傾田といった。祀る神は少足命である。
        ● 鈴喫岡: 品太天皇の時代、この岡で鷹狩をした時、鷹の鈴が落ちて探せなかった故に鈴喫岡と呼んだ。
    □ 少宅里: 本の名を漢部の里である。漢人がこの村に住んだのでその名が付いた。後河原若狭の祖が少宅秦君と結婚してその家を小宅と名付けた。若狭の孫智麻呂が里長となり、持統然690年少宅里となった。(吟味:上古のむかし、倭には朝鮮半島の貴族・皇族・豪族らが新天地を求めたり、戦争で逃亡して渡海してきたものと思われる。優れた文化や技術をもって倭に移ってきた。それを「天下る」と呼んだのだろう。後年倭に天皇政権ができて、技術者を招聘するという「渡来人」とは少し意味が違う。天孫神話はこの上古の名残をとどめている。倭国はその当時強力な政権は存在しておらず、主に韓国の移住者が開いた国であった。天=漢(韓)とみて間違いない。神話とは韓の権力者社会の伝承である。)
        ● 細螺川: 百姓らが田や用水路を開いたが、その水路に細螺(たにし)がたくさん棲息していた故に細螺川と呼んだ。のちに川になった。
    □ 揖保里: 粒(いいぼ)山によってこの名が付いた。
        ● 粒丘: 新羅の皇子天日槍命が韓国よりやってきて、宇頭川口に宿を取ることを葦原志挙乎命(播磨地方の神)に願った。葦原志挙乎命は天日槍命の勢いがすごいので、先にこの地を占領しようと思い、丘に登って急いで飯を食った。その時粒が口からこぼれた故に粒丘と呼んだ。杖で地を刺した(国占めの宣言行為)ところから水が湧き南北に川となって流れた。この山に石神がいる。神山となずけた。
    □ 出水里: この村に寒泉が出た。故に出水里と呼ぶ。
        ● 美奈志川: 伊和大神の子、兄石龍比古命と妹石龍売命が川の水争いをした。兄は北の方越部の村に流そうとし、妹は南の方泉村に流そうと、長い抗争を繰り返した。その挙句川の水が絶えた。故に美奈志川と呼んだ。
    □ 桑原里: 本の名は倉見の里である。品太天皇が槻折山に立って国見をすると、森の樹木が高く見えたので倉見の村となずけた。名を改めて桑原里と呼んだ。
        ● 琴坂: 景行天皇の時代、出雲の国の人がこの坂に住んだ。老父が女子とともに坂本の田を作った。出雲の人が娘の気を引こうと琴を演奏した故に琴坂と呼んだ。
         

■ 讃容郡: (佐用町) 伊和大神の子、兄妹が国争いをしていた時、妹玉津日女命が鹿を射止めてその血で稲を撒くと一夜のうちに苗が育った。大神は「妹は五月夜(さよ)に殖えた」といった故に賛用都比売と名付けた。鹿を射止めた山を鹿庭山と名付けた。山に十二の谷があって鉄を産するので孝徳天皇の朝廷に献じたという。
        ● 吉川: 本の名を玉落川と呼ぶ。伊和大神の玉がこの川に落ちた故に玉落川と呼んだ。稲狭部の大吉川がこの村に住んだ故に吉川と呼んだ。
        ● 鞍見: 佐用津都比売この山で金の鞍を得た故に山の名を金肆、川の名を鞍見という。
        ● 伊師: 鞍見川の上流、川の底は床のようであった。故に伊師と呼んだ。
    □ 速湍里: 川の流れが速いので速湍という。速湍の社に折られる神は、広比売命。広比売命がこの地を支配していた時、凍氷した故に凍野、凍谷という。
    □ 邑宝里: 弥麻都比古命が井戸を掘って干し飯を食していた時、「私は多くの国を征服した」といった故に大村という。井戸を掘ったところは御井の村と呼んだ。
        ● 鍬柄川・室原山・久都野: 神日子命が鍬の柄を求めた山の川を鍬柄川と呼ぶ。風を防ぐこと室のごとし故に室原と呼ぶ。弥麻都比古命が「この山は踏めば崩れる」と言われ故に久都野という。
    □ 柏原里: 柏が多く生えているので柏原と呼んだ。
        ● 筌戸: 伊和大神が出雲国から来まして嶋村岡に腰を掛けて筌を川に仕掛けたが、魚は入らず鹿が入った。この鹿を膾にして食うと口に入らず地面に落ちた。落胆して神は別の地に移ったという。この地を筌戸と呼ぶ。
    □ 中川里: 苫編首らの先祖、大仲子が神功皇后に従って韓国に遠征に行くとき、船は淡路の石屋に宿泊した。そのとき大雨が降って悉く濡れた。大仲子は苫をもって屋を作り雨露をしのぐことができた。神功皇后は「苫は国の富だ」とおっしゃり、彼に姓を授けて苫編首とした。よってここを仲川と呼んだ。
        ● 引船山: 天智天皇の時代、道守臣、この国の宰として官の船をこの山で作って、引き下ろした故に引船山と呼ぶ。(不適切な配置である別の話だが)天智天皇の時代、丸部の具という仲川の里の人間が、河内の国兎寸から刀剣を買った。それ以来この一族は悉く滅んだ。後の世になって苫編部の犬猪が畑を耕していると、土の名からこの剣が出てきた。刀身だけが異様に輝ているので、鍛冶屋で鋳直そうとすると蛇のように屈伸するの気味悪がって浄御原の朝廷に献上したが、剣を本のところで祀ることにしたら祟りはなくなった。
        ● 弥加都岐原: 仁徳天皇の時代、伯耆の加具漏、因幡の邑由胡の二人はとんでもなく驕り高ぶった人間で、朝廷では二人を捉えて朝廷へ送るように狭伊連佐夜を派遣した。佐夜は一族郎党を捕縛して都に連れ帰る時、全員を川の清水に付けて拷問した。その中の二人の高貴な女がいたので問うと、時の執政大臣の娘で皇族の子孫にあたるので、二人を解き放った。返し送ったところを見置山、水につけたところを弥加都岐原と呼んだ。
    □ 雲濃里: 伊和大神の子、玉足日子と玉足比売の子大石命は、父のお眼鏡にかなったので有怒と呼んだ。
        ● 塩沼村: この村の井戸には海水が出たので塩沼の村と呼んだ。

■ 宍禾郡: (しさは 宍栗市) 伊和大神が国造りを終わって、谷や川、尾根の境界線を決められた。その時矢田の村で大きな鹿に出会った。「矢は鹿の舌に当たった」といった故に宍禾の鹿となずけ、その村を矢田の村という。
    □ 比治里: 孝徳天皇の時代、揖保郡を分割して宍禾郡を作った時、山部の比治が里親を任された。この人の名を取って比治の村と呼んだ。
        ● 宇波良村: 葦原志許乎命がこの地を支配した時、「この地は狭い、室の戸のようだ」といった故に表戸と呼んだ。
        ● 比良美村: 伊和大神の紐がこの地に落ちた故に褶の村と呼んだ。
        ● 川音村: 天日槍命この村に宿りておっしゃった。「川の音が高い」と、故に川音村と呼ぶ。
        ● 庭音村: 本の名を庭酒という。大神のご飯が乾燥してカビが生え酒に醸造して、庭酒に奉って宴をした故に庭酒の村と呼んだ。今の人は庭音の村と呼ぶ。
    □ 高家里: 天日鉾命がこの村の高いことは他の村を圧倒すると言われた故に高家里と呼ぶ。都太川の由来は誰も知らない。
    □ 柏野里: この野に柏が生えている故に柏野里と呼ぶ。
        ● 伊奈加川: 葦原志許乎命と天日鉾命が国を征服した時、川に嘶く馬がいた故に伊奈加川と呼ぶ。
        ● 土間村: 神の衣が地表に着いた故に土間村と呼ぶ。
        ● 敷草村: 草を敷いて神の御座とした故に敷草という。この村の南10里ばかりに澤があって、菅が生え笠の材料として用いた。ほかに檜、杉もあった。鉄を産し狼や熊が居た。栗、黄連、蔓も産した。
        ● 飯戸阜: 国を占領した時、此処で飯を炊いた。故に飯戸の阜と呼んだ。阜の形も竈に似ている。
    □ 安師里: 本の名を酒加の里といった。大神がここで食べ物を流し込んだ故に須加という。後に山守の里となずけた。里親の山部三馬の名前から山守となった。今安師里というのは、安師川からきている。安師比売の神に由来する。昔、伊和大神が安師比売の神に言い寄ったが拒否されたので、腹いせに川の上流に石を置いて別の方へ流れを変えた。故に今でもこの川の水量は少ない。
    □ 石作里: 本の名は伊和という。石作りの首らがこの村にいたので石作里と呼ぶ。
        ● 阿和賀山: 伊和大神の妹阿和賀比売命がこの山に居られた故に阿和賀山と呼ぶ。
        ● 伊加間川: 大神が征服された地の川に烏賊が居た故に烏賊間川と呼ぶ。諧謔譚のひとつ。
    □ 雲箇里: 大神の妻 許乃波奈佐久夜比売の容姿が麗しかったので宇留加と呼んだ。
        ● 波加村: 大神がこの土地を占領した時、先に天日鉾命が到着していた。大神これを怪しんで「度らぬ先に至った」といった故に波加の村と呼んだ。ここの地に着いたものは手を洗わないと雨が降るという伝承ができた。
    □ 御方里: 葦原志許乎命が天日鉾命と黒土の志尓嵩に至って、K蔓三条を足に付けて投げたところ、葦原志許乎命の第1投は夜夫郡に、第2投はこの村に、第3投は但馬の気多郡に落ちた。天日鉾命が投げた蔓は三つとも但馬国に落ちた。故に天日鉾命は但馬国伊都志の地を占めた。誓いのしるしとして御杖をこの村に植えた故に御形と呼んだ。(これはライバル同士の土地占有の協定、軍事境界線の取り決めに相当する。しかしこの文からは葦原志許乎命が播磨の国のどこの地を占めたかは書いていない。)
        ● 大内川: 小内川、大内川、鉄を産する川は金内川と呼んだ。
        ● 伊和村: 本の名を神酒である。大神酒をこの村で醸造した故に神酒(みわ)と呼ぶ。於和(おわ)の村という説もある。大神、国造りが終った時、「於和とおがみき」といったからとする。

■ 神前郡: (神河町、朝来市) 伊和大神の子、建石敷命が山使いの村の神左記山に居ました。神が居られる故に神前郡と呼んだ。
    □ 埴岡里: 播磨国風土記最大の滑稽譚です。大汝命と小比古尼命が我慢比べの言い争いをしました。大汝命は「私は屎(糞)をしないで我慢をして行くことができる」といい、小比古尼命は「私は土の荷物をもって我慢して行ける」と言い張りました。数日たって大汝命はもう我慢できないと言って座して屎を出しました。小比古尼命も土の荷物を投げ出しました。故にここを埴岡と呼ぶ。また大汝命の糞が草にはねて衣に着いたので、波自賀の村と呼んだ。又生野という野は、昔この地の荒ぶる神が往来する人を殺した故に死野と呼んだが、品太天皇が悪い名だから生野と改めた。粟鹿川内という名は、但馬の阿相郡の粟鹿山から流れ来たからその名が付いた。川から湯が出たので、湯川と呼んだ。
    □ 川辺里: 川辺にあるから川辺の里、わかりやすい。勢賀というは、品太天皇、ここで狩りをして猪や鹿を追い詰めて殺した故に勢賀と呼んだ。星肆山というは、暗くなるまで狩りをした山の故である。
    □ 高岡里: この里に高い岡がある故に高岡と呼んだ。
    □ 多駝里: 品太天皇が巡行された時、従者であった佐伯部らの祖 阿我乃古がこの土地をほしいと言った。天皇は「直ぐに求めるものか」といった故に多駝と呼んだ。
        ● 邑日野: 阿遅須伎高日古尼命神は新次の社に居て、意保和知を刈り新田を開いた故に邑日野と呼ぶ。糠岡という地名は、伊和大神と天日鉾命が戦った場所で、米を舂いてその糠が積んで岡となったといういわれがある故に糠岡という。城牟礼山というは、品太天皇の時代百済から渡来した人らがその習俗のままに築いた城のことである。天日鉾命の戦が八千もあったという故に八千代野と呼ぶ。
    □ 蔭山里: 品太天皇の冠である御影がこの山に落ちた故に陰岡と名付けた。路の草を払う刃が鈍くて切れない故に磨布理の村という。冑岡というは、伊与都比古と宇知賀久牟豊富命が争ったとき、冑が庫の丘に落ちたからである。
    □ 的部里: 的(いくは)部らがこの村に居た故に的部里と呼ぶ。石坐の山というのは、この山の頂に石を戴く故に石坐の山という〈巨石信仰)。高野の社には玉依比売命が居られます。

■ 託賀郡: (西脇市、多可町) 昔 巨人がいていつも身を勾めて歩いたという。ここの地は高いので背を伸ばしてゆくことができるといった。故に託賀(たか)郡と呼んだ。その踏んだ足跡は沼になったという。これは諧謔譚です。
    □ 賀眉里: 川上にある村の故に賀眉(かみ)里と呼んだ。昔 明石郡大海里の人がやってきてこの山に住んだ。故に大海山という。次の話は父親判定の呪術です。道主日女命が、父親の分らない子を産んだ。父親判定の盟酒を造って諸々の神がいる場で、その子に酒をつがせたところ、天目一命に向い酒をたて奉った。そこでその父であることが分かったという。しかしその地はその後荒れた故に荒田村と呼んだ。
    □ 黒田里: 土が黒い故に黒田里と呼んだ。昔 宗形の大神興津嶋比売命が伊和大神序子を産むとき、この山に登って「産むべき時訖(お)ふ」といったが故に袁布山と呼んだ。
        ● 大羅野: この話は滑稽譚です。老夫と老女が鳥網を袁布山に張ったが、多くの鳥が入りすぎてその網を背負って逃げ去ったという。その網が落ちた野を大羅野と呼ぶ。
    □ 都麻里: 播磨刀売と丹波刀売が国境を接していたころ、播磨刀売がこの村にやってきて井戸の水を飲んで「有味し」といった故に都麻の里と呼んだ。
        ● 都太岐: 妻問婚が実は略奪(戦争)であったことを物語る話である。讃岐日子命が冰上刀売に求婚したが拒否された。なお強いて求めると比売が怒って、建石命を雇って戦争になった。建石命に敗れた讃岐日子命が逃げ帰る時「私はつたなかった(弱かった)」といった故に都太岐と呼ぶ。品太天皇がこの山で狩りをして鈴を落とした。土の掘り起こして探し当てた故に鈴堀山と呼ぶ。品太天皇の狩り犬が猪を追いかけ、天皇が「射よ」といった故に伊夜岡と呼ぶ。猪と闘って死んだ犬の墓がこの岡の西にある。朸(あふこ)を以て猪を担いだ故に阿富山と呼んだ。目前田は、猪のために目を割かれた犬のことをいう。阿多可野は、品太天皇がこの野に狩りをした時、猪が矢を負って阿多岐(いたく唸った)故に阿多可野という。
    □ 法太里: 讃岐日子命が建石命と闘った時、讃岐日子命は負けて匍匐して逃げた。故に匍田の里と呼んだ。甕坂というは、今後この境界に入るべからずとこの坂に冠を置いた。また昔丹波と播磨の国の境に大甕を埋めた由来の故に甕坂と呼ぶ。

■ 賀毛郡: (小野市、加西市、加東市、西脇市の南東部を含む) 品太天皇の時代、鴨の村で二つの鴨の栖で卵が生まれた故に賀毛の郡と呼んだ。
    □ 上鴨里・下鴨里: 名の由来は明らかである。後の世に上鴨里・下鴨里と二つの里に分けられた。品太天皇が巡行された時、この村で鴨が飛び立ち條布の木にとまった。天皇が「何の鳥だ」と問うと当麻の品遅部の君前たちは「川辺に住む鴨」だと答えた。天皇が射よと命令すると、一矢を放って二羽の鴨を射抜いたが、矢を負った鴨がそのまま時山の峰を飛び越えた。飛び越えた嶺を鴨坂と呼び、落ちたところを鴨谷と呼び、鳥を羹にして食べたところを煮坂と呼ぶ。下鴨の里に碓井谷、箕谷、酒屋谷という谷が3つある。大汝命に関係する命名である。播磨国風土記は滑稽譚が多い。鳥の名も知らないで狩りをする人もいないだろう。
    □ 條布里: この村に井戸があり、女が水をくむとき井戸の吸い込まれた故に條布の里と呼ぶ。品太天皇が狩りに出かけると、鹿が自分の舌を咋って死んだ(自殺?)故に鹿咋山という。諧謔譚だろう。品太天皇の時代、品遅(ほむち)部らの遠い先祖がこの地を賜った故に品遅部村という。
    □ 三重里: (加西市) 昔 女が筍を布で包んで食べたところ、体が重くなって立ち上がれなくなったという故によって、三重の里と呼んだ。
    □ 楢原里: 柞(ははそ なら)の子がこの村に生えていた故に柞原(楢原)の里と呼んだ。
        ● 伎須美野: 品太天皇の時代、大伴連らがこの地を所望した時、国造黒田別を呼んで国状を問うた。黒田別は「縫える衣を櫃の底に蔵(き)するようだ」と答えた故に伎須美野と呼んだ。
          ● 糠岡: 大汝命、稲を下鴨村で舂かせたが、散った糠がこの岡に積った故に糠岡と呼んだ。
        ● 玉野村: ちょっと複雑な求婚譚です。意渓、哀渓の二人の皇子が美嚢郡の志深里の高宮に居られた時、山部小楯を遣わして国造許麻の女根日女命に求婚した。根日女はすでに応諾したのだが、二人の皇子は拒否して逢わなかった。そして日が過ぎて根日女は年老いて亡くなった。皇子はいたく悲しんで、小楯を遣っ玉をもって女の墓を作った故に玉丘となずけ、その村を玉野と呼んだ。
    □ 起勢里: 巨勢部らがこの村に居た故に起勢里と呼ぶ。
        ● 臭江: 品太天皇の時代、播磨国の田村君が多くの部族を従えて反乱を起こしたので、天皇は部族をこの村に追い詰めて皆殺しにした故に臭江と呼ぶ。血が黒く流れた川を黒川という。
    □ 山田里: 山の近くにあるので山田里と呼んだ。分かりやすい。
        ● 猪飼野: 仁徳天皇の時代、日向の肥人が天照大神の船に乗って、猪を飼うべきところを求めてこの地を賜った故に猪飼野と呼ぶ。
    □ 端鹿里: 昔、神が村々に木実を分配したが、この村で実が無くなった。「間(はし)にあるかも」と神が言った故に端鹿と呼んだ。今もこの地の山の木には実がならないという。
    □ 穂積里: 本の名を塩野いう。塩水が出るためである。穂積というのは穂積臣らの一族がこの村に住んだからである。
        ● 小目野: 品太天皇が巡行された時、四方を見て「そこに見えるのは海か川か」と問うた。侍従は「これは霧です」と答えた。天皇は「大体はみえるが、細かいところがね」とごまかした故に小目野と呼んだ。ここに井戸を掘って佐々の御井といった。歌2首を添えた滑稽譚である。
    □ 雲潤里: 丹津日子の神が、法太の里から雲潤の方へ越えようとしたが、この地の太水の神が拒否していった。「宍のちで畑を作っている。河の水はいらない」 そこで丹津日子の神は川を掘ることが嫌なだけでこう言っているのだと言った故に、倦み(雲潤の里と呼んだ。
    □ 河内里: この里の苗は草を敷かないで苗を下す。住吉の大神がこの村で食をした時従者らが刈った草をまき散らして座ったので、地のものが大神に訴えた。大神は「こちらの稲は必ずしも草を敷かないでも生育している」といった。今でもその村の田は草を敷かずに苗代を作る。
    □ 川合里: 端鹿の川底と鴨川が合流する村である。故に川合の里と呼ぶ。
        ● 腹辟沼: 花浪神の妻淡海神が夫を追ってここに到り、夫を恨んで腹を割きこの沼に沈んだ。故に腹辟沼と呼ぶ。この沼の鮒には今も五臓はない。

■ 美嚢郡: (三木市) 大兄伊射報和気命(履中天皇)が国境を定めるため、志深里の許曽の社に至った時、「この地は水流れ甚美わしき」といった故に美嚢(みなぎ)郡と呼んだ。
    □ 志深里: 伊射報和気命がこの井で食事をした時、信深貝(しじみ)が飯箱の縁に遊びに来た。天皇は「この貝は阿波国和那散で食べた貝である」といった故に志深里と呼んだ。そして於渓(仁賢天皇)、哀渓(顕宗天皇)の難事、臥薪嘗胆物語が語られる。彼らの父市辺忍歯王が大長谷王(雄略天皇)によって近江国摧綿野において殺されたとき、二皇子は日下部連意美に率られて播磨の国に難を逃れた。この村の岩室の隠れ住んだ。意美は自らの罪を悟って、馬を追い払い、持てる物は悉く焼き払って首をつって自殺した。二人の皇子はあちこちの隠れ放浪し、志深の首伊等尾の家の使役人として身を隠した。伊等尾の家での宴の歌2首が添えられている。播磨国山門の領に派遣された山部連少楯が事情を知って語った。「あなた方の母、手白髪命は食事もせず寝ることもせず泣いています」 皇子らは倭に登って母に逢うことができた。そして播磨の国に帰って宮を作った。高野宮、少野宮、川村宮、池野宮、屯倉宮がある。
    □ 高野里: 高野里の祝田の社には、玉帯志比古大稲女、玉帯志比売豊稲女の二柱。
    □ 吉川里: 吉川の大刀自の神がいます。
    □ 高野里・枚野里: 読んで字の通り。


4) 豊後国風土記

豊後国とは今の大分県である。郡は8つ、郷は41.里は110.駅は9か所、烽火台は5か所、寺は2つである。郡郷制である。昔、豊後国と豊前国は併せて一つの国であった。大足彦天皇(景行天皇)が豊国直らの祖、兎名手に詔して豊国を治めさせた。兎名手は豊前国仲津郡の中臣の村に行き宿った。翌日の曙に白い鳥が北からやってきてこの村にとまった。兎名手は従僕にこの鳥を調べさせると、餅鳥(食物をもたらす幸せの鳥)であることが分かり、しばらくすると芋草が生えこの地は豊かになった。このことを兎名手は朝廷に奏上すると、天王は喜び「その国は豊国である」といった故に豊国と呼ぶ。そして兎名手を豊国の直に任命した。

■ 日田郡: 郷は5、里は14、駅は1か所。 昔、景行天皇が球磨贈を征伐し凱旋した時、筑後国の生葉の行宮からこの地に巡行された。この郡に久津姫という神が出迎え、国の消息を奏上したので、ゆえに久津(ひさつ)姫の郡と呼び、今訛って日田郡となった。
    □ 石井郷: 郡家の南にある。この地に土蜘蛛(土着一族)の砦がある。土で築いて石を用いないことから石無しの砦という。石井は誤りである。郷の中を阿蘇川が流れ、球珠(くす)川に合流し日田川になる。筑前・筑後国を過ぎて海に入る。
        ● 鏡坂: 昔 景行天皇がこの坂に上って国形をご覧になって「この国の形は鏡のようだ」といった故に鏡坂と呼んだ。
    □ 靫編郷: 郡家の東南にある。欽明天皇の時代、邑阿自が靫部に仕えていた。その邑阿自が住んだ村である故に靫負村と呼んだ。後に靫編郷と改めた。郷の中に球珠川が流れる。
        ● 五馬山: 郡家の南、昔 この山に土蜘蛛がいて、五馬姫といった。天武天皇の時代に大地震がこの地を襲った。ところどころから湯が吹き上げた。慍(いかり)湯という。

■ 球珠郡: 郷は3、里は9、駅は1か所。昔この村に大きな樟木があった故に球珠郡と呼ぶ。

■ 直入郡: 郷は4、里は10、駅は1か所。昔 郡家の東にある垂氷村に桑木があった。非常に高い樹で枝ぶりも良かったので直桑村と呼んだ。後の人が直入村とという。
    □ 柏原郷: 郡家の南にある。昔この郷に柏が多く茂っていた故に柏原郷と呼んだ。
        ● 祢疑野: 柏原野の南、昔 景行天皇が行幸された時、この地に打猿、八田、国摩呂という3人の土蜘蛛がいた。天皇は多くの兵をねぎらってこの賊を討った故に祢疑野と呼ぶ。
        ● 蹶石野: 柏原郷の中にある。景行天皇が土蜘蛛を征討するため柏峡の大野に出向いた。大きな石があったので、この石に戦勝を占ったところ、この石を蹶むと柏葉のように飛び上がった。吉と出たのである。故にこの地を蹶石野と呼んだ。
    □ 球覃郷: 郡家の北にある。景行天皇が巡行された時、この地の泉の水で炊飯しようとしたが、井戸の水の神(蛇籠おかみ)がいたので、天皇は「きっとこの水は臭いに違いない。酌むな」と言われた故に臭泉という。訛って球覃(クタミ)と呼んだ。 
        ● 宮処野: 景行天皇が土蜘蛛を征伐するため行宮をこの野に建てた。故に宮処野と呼ぶ。
        ● 球覃峯: 郡家の南にある。この峯の頂にはいつも火が見える。神河が流れている。二つの湯の河があって神河に流れ込む。

■ 大野郡: 郷は4、里は11、駅は2、烽台は1か所。 この郡の中は皆原野である。故に大野郡と呼ぶ。
        ● 海石榴市・血田: 郡家の南にある。昔 景行天皇が球覃の行宮にいまして、鼠の石窟の土蜘蛛征伐に出向いた。海石榴市の木を伐り武器として土蜘蛛を悉く殺した。流れた血は足を浸した。故にこの地を海石榴市と呼ぶ。血が流れた場所を血田という。
        ● 網磯野: 群家の西南にある。景行天皇が巡行される時、少竹鹿奥と小竹鹿臣という土蜘蛛二人が天皇の食事にするための狩りを行う時の声がやかましいので、天皇が「阿那美須」といった。故に阿那美須野と呼ぶ。今、網磯野というのは訛ったためである。

■ 海部郡: 郷は4、里は11、駅は1か所、烽台は2か所。この郡の百姓はみな海部であるので、海部郡と呼ぶ
    □ 丹生郷: 群家の西、この山の砂が朱沙であることから、丹生郷と呼ぶ。
    □ 佐尉郷: 群家の東、本の名は酒井であった。いま佐尉と呼ぶのは訛ったからである。
    □ 穂門郷: 群家の南、景行天皇が船をこの門に泊めた時、海底の海藻が長く美しかった。天皇が「最勝海藻(ほつめ)をとれ」といった故に最勝海藻の門と呼んだ。訛って穂門となった。

■ 大分郡: 郷は9、里は25、駅は1か所、烽台は1か所、寺は2つ。景行天皇が豊前国の行宮より、この郡に御幸され、国形をご覧になり「広く大きなこの郡は、碩田(おおきた)となずけるべし」といった故に碩田郡と呼ばれた。今は大分という。
        ● 大分河: 郡家の南、直入郡の朽網の峯より出て東に流れ、この郡を過ぎて東の海に入る。大分河と名付ける。鮎が多い。
        ● 酒水: 郡家の西、郡の西の指野の磐から出て、南に流れる。少し酸味があって疥癬に効くと言われる。

■ 速見郡: 郷は5、里は13、駅は2か所、烽台は1か所。景行天皇が球磨贈征伐のため、筑紫に居られた。周防国の佐婆津から船出をし海部郡の宮浦に泊った。この村の首は速津媛と言い、天皇のお出ましを聞いて駆け付けた。そして奏上していう「この山の鼠の磐窟に青・白という二人の土蜘蛛がいる。又直入郡の祢疑野に打猿、八田、国摩呂という3人の土蜘蛛がいる。この5人の土蜘蛛は天皇のいう事を聞かず闘うという」。そこで天皇は兵を送って蛮族を悉く滅ぼした。この功によって速津媛の国と呼んだ。後に速見郡という。
        ● 赤湯の泉: 群家の西北の竈門山にこの温泉の穴がある。湯の色は赤く泥を含む。泥は屋の柱に塗る。湯は泥を落として清水となり東へながれる。故に赤湯の泉という。
        ● 玖倍理湯の井: 郡の西、河直山の東の岸にある。湯の色黒く、常に流れるわけではない。井の縁で大声で叫ぶと、二丈ばかり噴き上げる。あまりに熱い湯なので近づけない。ほとりの草木は皆枯れ、よっていかり湯の井と呼ぶ。俗に玖倍理湯という。
    ■ 柚富郷: 郡家の西、この郡に栲(たく)樹が多い。栲の皮を剥いで木綿(ゆう)を作る。よって柚富(ゆう)の郷と呼ぶ。
        ● 頸の峯: 柚富郷の西にある。峯の頂に石室があり、夏も解けない氷の貯蔵庫となる。
        ● 頸の峯: 柚富の峰の西南にある。この峯の下に水田があり、元の名は宅田という。この多の稲の苗を鹿が食いつくすので、田の主は柵を作って待ち構えていた。鹿が柵の間から首を突っ込んだところで首を落とそうとしたとき、鹿は「誓って子孫まで言い伝えて稲を食わないようにするから、命をお助けください」というので田主は鹿を許した。以降鹿に田を荒らされることはなくなったという。よって頸田と呼ぶ。
        ● 田野: 郡家の西南にある。土地は肥えて毎年豊作で刈残すほどであったという。大いに驕って餅を作って屋の的にして遊んだ。その時餅は白い鳥になって南へ飛んでゆき、以降田に実りはなくなった。ついに荒れ果て水田はなくなり野となった。故に田野と呼んだ。この話は教訓譚のようでもあり、諧謔譚のようでもある。

■ 国埼郡: 郷は6、里は16。昔 景行天皇の船が周防国佐婆津から出て、はるか海上の先を見渡して、「其処に見えるのは国の埼か」と言われた故に国埼郡と呼ぶ。
    □ 伊美郷: 郡家の北にある。景行天皇がこの村に巡行して、国見をして「この国ははるかに遠く、山谷阻しくて人の往還も稀であることがよくわかる」といったがゆえに国見の村という、いまは伊美郷と呼ぶ。


5) 肥前国風土記

肥後の国とは今の佐賀県と長崎県に相当する。郡は11、郷は70、里は187、駅は23か所、烽火台は20か所、城は1か所、寺は2か所である。昔は肥前国と肥後国は併せて一つの国であった。第10代崇仁天皇の時代、、肥後国益城郡の朝来名の峰に土蜘蛛、打猿・頸猿・二人がいた。徒衆は280人ばかりを率いて天皇に戦争を挑んだ。朝廷は肥君らの祖、健緒組を派遣し、悉く土蜘蛛を滅ぼし、国見をした。八代郡白髪山に至って日が暮れ泊まった。その夜大空に火が昇り下ってこの山にぶつかって燃えた。健緒組は怪しんで朝廷に奏上した。天皇はその功績をたたえ健緒組に姓を与え火君健緒組とし、かつ「火の下った国ならば火の国というべし」といった。火君健緒組がこの国を治めたが、後に肥前、肥後の二つの国に別れた。さらに景行天皇が球磨贈於(熊本県南部の熊、鹿児島県中央のそお)を征伐するために、筑紫国に巡行し八代火流れの浦から出港し、火の国に向かった。着く処が分からないほど暗くなって、、火の光が見えたので天皇はその火に向かって進むように命令した。ようやく岸に着くことができたので国人に「ここは何処、そして火は何の火か」と問うた。国人は「ここは火の国八代郡の火の邑です。火の理由は分らない」と答えた。天皇は「これは人の作る火ではない。ここを火の国となづける故である」といった。

■ 基肆郡: (佐賀県三養基郡) 郷は6つ、里は17、駅は1か所。昔 景行天皇が巡行された時、筑紫国御井郡の高羅(福岡県久留米市高良山)の行宮から国内を見ると、霧が基肆の山を覆っていた。天王は「その国は、霧の国というべし」といった故に後の人改めて基肆(きの)郡と名付けた。
        ● 長岡の神の社: (鳥栖市永世神社)郡家の東にある。景行天皇が酒殿の泉あたりに居て食事をしようとすると、着ていた鎧が輝いたので不思議に思った天皇が占わせると、「ここにいます神が鎧を欲しがっている」という答えが出た。そこで御鎧を奉納しこの神社を永世の社と名付けた。後に長岡の社となった。
        ● 酒殿泉: (鳥栖市飯田町) この泉は秋9月に寒くなると白濁し、味は酸っぱいので飲むことはできなかった。春正月になると水が澄んで飲むことができた。
    □ 姫社郷: (鳥栖市姫方町) この郷の中に山道川があった。南に流れて御井の大川(筑後川)に合流する。川の西に荒ぶる神がいて人を殺すので占うと、「筑前国宗像郡の珂是古に命じて我を祀るなら、荒ぶることはしない」というので、そこで珂是古は神の居場所を知るため、幡を風に飛ばしてそれがまず御原郡の姫社に落ち、それから山道川の田村に落ちた。珂是古は夢の中で踊る女の神を見た。そして建てたのが姫社である。神は安らぎ、故に姫社郷の名となった。

■ 養父郡: 郷は4つ、里は12、烽火台は1か所。景行天皇が巡行されたとき、郡の人がこぞって天皇をお迎えした。その時犬が吠えだして、一人の妊婦の前に来ると鳴き止んだ。ゆえに犬の声止むの国といい、今は訛って養父(やぶ)郡と名付けた。
    □ 鳥栖郷: 郡家の東、誉田天皇の時代、様々な鳥を飼って朝庭に献じた故に鳥屋の郷という。後に鳥巣郷と呼んだ。
    □ 亘理郷: 郡家の南、昔 筑後川の渡り瀬が広くて渡ることが難しかった。景行天皇が巡行した時、生葉山、高羅山で船を造り渡りの船とした。故に亘理郷と呼ぶ。
    □ 狭山郷: 郡家の南、景行天皇が行幸された時、この地の山に登って国見をされた。非常にはっきりと見えたので、分明(さやけ)の村となずけた。今は訛って狭山郷と呼ぶ。

■ 三根郡: 郷は6、里は17、駅は一か所。昔、三根郡と神埼郡を併せてひとつの郡であった。海部直鳥が要請して三根郡を分けた。
    □ 物部郷: 郡家の南、この郷のなかに物部の経津主神の神社がある。第33代推古天皇は、来目皇子を将軍として新羅を征討しようとした。皇子は筑紫に行き、物部若宮部をこの村に派遣し経津主神の神社を建てた。故に物部の郷という。
    □ 漢部郷: 郡家の北、来目皇子が新羅討伐のために、この村に忍海の渡来人らに命じて兵器工場を作らせた。故に漢部郷と呼んだ。
    □ 米多郷: 郡家の南、この郷の中に米多の井があった。水は塩辛いので井の底に海藻が生えた。景行天皇が巡行された時この井を見て、海藻生ふる井といった。今訛って米多井と呼んで郷の名とする。

■ 神埼郡: 郷は9、里は26、駅は1か所、烽火台は一か所。昔、この郡に荒ぶる神がいて往来の人を殺した。景行天皇が巡行して神を鎮めたので災いはなくなった。故に神埼郡と名付けた。
    □ 三根郷: 郡家の西、 城原川が北の山から南の湊まで流れている。景行天皇が巡行され、船でこの川の湊からこの村で泊まられた。「夜は安らかに寝ることができた。この村は御寝安の村と呼ぶ」と言われた故に御寝と名付けられた。今は三根と字を改める。
    □ 船帆郷: 郡家の西、景行天皇が巡行されたとき、村人らが船に乗り込んで帆をあげ津に着いて歓迎をした故に船帆郷と呼ぶ。御船の碇石が4つ遺っている。子を授かる願いや雨乞いの祈りがかなうと言われる。
    □ 蒲田郷: 郡家の西、景行天皇が行幸されて、此処で食を取られた時、「ハエの声がうるさい(囂 かまびすし)」と言われたので、囂の郷→蒲の郷と呼ぶ。
        ● 琴木岡: 元この地には岡はなかった。景行天皇はこの地を見て丘を作らせた。この岡で宴を催して御琴をたてたところ、琴は樟になったという。よって琴木の丘という。
    □ 宮処郷: 郡家の西南、景行天皇が行幸されこの村に行宮を作った故に宮処郷と呼ぶ。

■ 佐嘉郡: 郷は6、里は19、駅は1か所、寺は1か所。(佐賀市) 昔、この村に大きな樟が茂っていて、日本武尊が巡行された時「この国は栄の国というべし」と言われた故に栄の郡と呼ばれた。栄→佐嘉の訛りである。また1説には佐嘉川の上流に荒ぶる神がいて祟りを為すので、県主の祖大荒田が占ったところ、二人の土蜘蛛の主が言うには、「下村村の土で人型・馬型を作って祀るなら、神は必ずや和らぐ」というのでその通りにすると荒ぶる神は和らいだ。大荒田は「賢女」をこの地の名にしようと言った。賢→佐嘉と訛った。

■ 小城郡: 郷は7、里は20、駅は1か所、烽火台は1か所。(多久市) 昔、この地に土蜘蛛がいた。堡(おき)塁を作って天皇に従わないので、日本武尊が征服した。よって堡(おき)→小城と訛った。

■ 松浦郡: 郷は11、里は26、駅は5、烽火台は8か所。(佐賀県東・西松浦郡と長崎県北・南松浦郡) 昔、神功皇后は新羅を征討しようとこの郡に来られて、戦勝の占いをした。針を曲げて鈎(ち、釣り針)ろし、飯粒を餌にし、裳の糸を釣り糸にして、河原の石に上って占いをした。「新羅を討って凱旋するなら鮎はこの釣り針を飲め」と言えば、鮎を取ることができた。よって皇后は希見(めずらし)の国といった。今訛って松浦郡と呼ぶ。
        ● 鏡の渡: 郡家の北、第28代宣化天皇の時代、大伴狭手彦連に命じて、任那への新羅の侵入を防ぎ、百済を援護した。大伴狭手彦が篠原村の弟日姫子(日下部氏)を妻とした。大変美しい女性であったが、別れの妃に鏡を女に与えた。女が栗川を渡る時、鏡の紐が切れて川に落としたので、鏡の渡りと呼んだ。
        ● 褶振の峯: 郡家の東、大伴狭手彦が任那に船発をし、弟日姫子は山の上より褶を振って別れを告げた。よって褶振の峯と呼ぶ。その後毎夜弟日姫子を訪ねる男があった。容貌は大伴狭手彦に似てはいたが、家人は怪しんでその裾に糸をつけ翌朝あとを追うと、峯の頂上付近の沼にたどり着くとそこに寝ている蛇がいた。親族は徒党を従えて山に登ると、蛇と姫は姿を消した。沼の中から姫の遺体が発見され、沼の南に墓を作って弔ったという。
        ● 賀周里: 郡家の西北、この地に海松橿媛という土蜘蛛(纏ろわない在地豪族)がいた。大家田子に命じて征討させた。そのとき霞が張って四方が見えなかったので霞の里と呼んだ。今は訛って賀周の里という。
        ● 逢鹿駅: 郡家の西北、昔、神功皇后が新羅を討つため行幸され、この道に鹿がいたので逢鹿駅と名付けた。
        ● 登望駅: 郡家の西、昔、神功皇后がここに留まって男装の武具を身に付けたが、鞆が地に落ちた。故に鞆の駅と名付けた。鞆→登望と訛ったとされる。
        ● 大家嶋: 昔、景行天皇が巡行された時、この村に大身という土蜘蛛がいた。土蜘蛛を滅ぼした後、海人はこの嶋に住むようになった。よって大家郷と呼んだ。海産物が多い。
    □ 値嘉郷: 郡家の西南の海の中(長崎県五島列島の総称)、昔景行天皇が志式嶋の行宮から西の海を見ると、海の島より煙が立つのが見えた。安曇連百足の命じて偵察させると、多くの嶋があって、その二つの島には人が住んでいた。小近と大近という。大耳、垂耳という土蜘蛛が住んでいたので捕縛したところ、今後海産物を貢ぐというので殺さなかった。魚や鮑などの海産物の名や樹木の名を列記している。牛、馬も産する。島の数は100余りあり、遣唐使の泊まる港がある。近→値嘉と訛った。

■ 杵嶋郡: 郷は4、里は13、駅は1か所。(武雄市) 景行天皇が巡行に出られた船がこの郡の磐田杵の村に泊まった。船を繋ぐ杭の穴から清水が湧いた。故に杵の島郡と呼ぶ。また1説に船が泊まった家が一つの島であったので、天皇は「この郡は杵嶋の郡というべし」といった。
        ● 嬢子山: 郡家の東北、景行天皇が巡行された時、土蜘蛛八十女がこの山の上に居た。これを滅ぼした故に嬢子山と名付けた。九州の風土記には女性の土蜘蛛の首が多い。九州は女性社会だったのかもしれない。

■ 藤津郡: 郷は4、里は9、駅は1か所、烽火台1か所。(鹿嶋市) 昔、日本武尊(倭武命)が行幸されこの津に泊まった。翌朝上陸するので船を大きな藤の木につないだ故に藤の津郡と呼ぶ。
    □ 能美郷: 郡家の東にある。昔 景行天皇が行幸された時、この里に大白、中白、少白という3人の土蜘蛛が堡塁に立てこもった。紀直等の祖若彦が土蜘蛛を降参させ、土下座させてその罪過を認めさせた故に能美郷という。罪→能美
    □ 託羅郷: 郡家の東、景行天皇が行幸された時、海の物産が豊かなのを見て、「地は狭くとも、食物は豊富である。豊足の村というべし」といった故に託羅郷と呼ぶ。足→託羅
        ● 塩田川: 郡家の北、この川は託羅の峰から出て東に流れて海に入る。大潮の時潮が川を逆流するので、潮高満川と呼ぶ。今訛って塩田川という。鮎がとれ、東岸に湯が出る。

■ 彼杵郡: 郷は4、里は4、駅は2か所、烽火台は3か所。(長崎県大村市) 昔 景行天皇が熊襲を討って帰還されるとき、豊前国宇佐浜の行宮に居まして、神代直に命じてこの村(佐世保市早岐)の土蜘蛛を退治させた。早来津姫という土蜘蛛が言うには、健津三間という弟が健村にいて美しい玉を2つ隠し持ってるといった。神代直は健津三間を捕らえて、木蓮子玉と白珠を献上させ、さらに健津三間は箆簗が美しい玉を持っているというので、箆簗を捕らえて玉を献上させた。合計3つの玉を天皇に献上すると天皇は「この国は具足玉の国というべし」といった故に、彼杵(そのさ)郡と呼ぶ。具足(そなひ)→彼杵(そのさ)の訛りだという。かなり苦しい説明である。
    □ 浮穴郷: 郡家の北、景行天皇が宇佐の浜の行宮に居られる時、天皇が神代直に詔して言うには「諸国を平らげてきたが、まだ従わない国はあるのか」と問うと、神代直は浮穴沫媛という土蜘蛛が従わないという。よって征討してその地を浮穴郷と呼ぶ。
    □ 周賀郷: 神功皇后は新羅を討つため、御船をこの郷の海につなごうとした。杭が岩に変じたために動けなくなった。また従者の船も風によって漂い沈んだ。この窮地を地の土蜘蛛である石鬱比袁麻呂が救った。よって救いの郷と呼んだ。いま周賀というはその訛りである。
        ● 速来門: この門に潮が押し寄せるさまは東に潮が落ちれば西に湧き上がる。湧く響きは雷に似ている。故に早来門と呼ぶ。

■ 高来郡: 郷は9、里は21、駅は4か所、烽火台は5か所。(諫早市) 昔 景行天皇肥後国玉名郡長渚の浜の行宮に居られた。この郡の地形をみるに「陸のつながった山なのか、離れ嶋なのかを知りたい」と詔して、神大野宿祢に命じて現地へ行って調べさせた。宿祢がこの郡に入ると山の神である高来津坐が天皇の使を迎えた故に高来郡とよぶ。(私見:大分から長崎の地形を見るのは不自然。同じことは彼杵郡の記事にもある)
        ● 土歯池: 郡家の西北、この池の東に大きな岸壁があり波に洗われる絶景である。土歯(ひじ)もしくは比遅波という。池の堤は600丈、潮が来ると池に入り込む。蓮が採れる。
        ● 峯の湯の泉: 郡家の南、泉の源は高来の峰から出て東に流れる。流れる湯の量は多く激しく熱い。冷水で混ぜて湯浴みすることができる。その味は酸っぱい。


6) 逸文

原著・原書及びその写本(省略や挿入場所間違いなどが含まれているが、おおむね原著の様子を伝える)が逸散して、ごく一部分の文書が後世の書物に引用されて遺った文章を逸文という。風土記の場合日本書紀研究書や歌学書に多く引用されている。っと画?「釈日本紀」では初期の解釈補助として、「万葉集注釈」(仙覚)では歌枕の説明として古風土記は活用された。近世以降いは逸文の収集が活発になる。今井似閑「万葉彙」、狩谷えき斎「採輯諸国風土記」、伴信友「古本風土記逸文」などの研究があった。対象がすべて奈良時代の古風土記であるとは限らない、いろいろな混同もある。そして明治以降では、栗田寛「「古風風土記逸文考証」あたりから逸文の分析が始まった。真偽の明確な基準を示したのは、武田祐吉であった。逸文を次のように7分類した。@国名を明記し、大体原文〈写し〉をそのまま引用したもの、A国名は明記しないが、大体原文〈写し〉のまま引用したもの、B抄出・要約したもの、C先学が認定したもの、D風土記類似の書物から引用したもの、E漢籍の風土記から引用したもの、F疑わしいものとして、武田祐吉氏は@ーBまでを古風土記と認定した(○印)。秋元吉郎、廣岡義孝はさらに疑わしいレベルを細分した。秋元は「存疑」(疑わしい)、「参考」(認められない)、廣岡は「断片」を設け、疑わしいものは「参考」とした。近年瀧口康行氏、中村啓信氏(本書の監修者)は風土記を奈良時代に限定しないで捉える考えを示した。平安時代になっても行政府では風土記は活用されており、数回にわたって風土記の撰進が行われてたことを示した。民部省、中務省、大蔵省ら複数の省庁で地方の情報を集め「解」が届けられた。瀧口はこれらを「風土記類文書」として、平安時代までを視野に入れるべきを説いた。本書の記事については、記事ごとの脚注に武田の分類(1類―7類)、秋元の分類(存疑、参考)、廣岡の分類(断片、参考、参考不載)の判定を示してある。各氏の採用は○、不採用は×とした。本書に掲載された逸文は膨大であるため、3氏が揃って×については割愛した。祀る神の名を書く神社の解説のような文書が結構多いので、簡単に記載した。概して「・・・国風土記」にいう但し書きが挿入されていると、古風土記を読んだ確度は高い。「風土記にいう」とだけでは古風土記かどうかあいまいで、一般的な地方誌を見ただけのことかもしれないので確度は低く扱われる。

□ 山城国
    ● 賀茂社: (卜部兼方「釈日本紀」巻9「八咫烏」より) (山城国風土記にいう) 賀茂建角身命が神武天皇(神倭石余比古)の先導をして、日向の高千穂峰から倭の葛城山の岑に天下った。賀茂建角身命はそこから山城国岡田の賀茂に移り(下賀茂神社)、葛野川(高野川)と賀茂川の合流地点に着いた。この川は狭いが清らかなので石川の瀬見の小川と呼んだ。そしてそこから久我の北山のふもとへ移った(上賀茂神社)。賀茂建角身命が丹波国神野の神伊可古夜日女を娶って子供を二人産んだ。玉依日子と玉依日売である。玉依日売が瀬見の小川で川遊びをしているとき上流より丹塗りの矢が流れてきて、家に持ち帰り床に祀ると、男の子が妊娠して産んだ。男の子が成長すると祖父の賀茂建角身命は8つの窓を持つ大きな家を作った。その家で7日間宴をして、「汝の父とぽ蒙人に酒をつげ」というと、その子は天に登って火雷命を父だとした。(下賀茂神社の北にある)乙訓の社、三井の社に賀茂建角身命、丹波国の伊可古夜日女、玉依日売の3柱がいます。
    ● 賀茂乗馬: (惟宗公方撰「本朝月令」の「秦氏本系帳より) 玉依日子は今の賀茂県主らの遠祖である。祭りの日に馬に乗る。欽明天皇の時代に、暴風雨が吹いたので卜部に占わしめると、賀茂の神の祟りと奏上した。よって4月の吉日を選び祭り(葵祭)を催した。五穀豊穣、天の下豊平を願って馬に乗ることの始まりである。
    ● 三井社: (釈日本紀より) 下賀茂神社の北の蓼倉里に三井社がある。三身とは賀茂社に書いた賀茂一族の祖の神々である。
    ● 木幡社: (釈日本紀より)  (山城国風土記にいう) 天忍穂長根命応神天皇ゆかりの地、宇治郡木幡の社
    ● 水渡社: (釈日本紀より)  (山城国風土記にいう) 久世郡、水渡の社、祀るのは天照高弥牟須比命、和多都弥豊玉比売命
    ● 南郡社: (延喜式より) (風土記) 双栗里の社、南郡の社、祀るは宗形の阿良足の神。
    ● 伊勢田社: (伊勢内宮より) (山城国風土記にいう) 伊勢田の社、祀るは大歳御祖命と八柱の神。
    ● 荒海社: (伊勢内宮より) (山城国風土記にいう) 荒海の社、祀るは大歳の神
    ● 可勢社: (延喜式より) (風土記) 岡田の国神の社、相楽郡久江の里 祀るは可勢の大神
    ● 宇治: (由阿「詞林采葉抄」より) (山城国風土記にいう) 応神天皇の御子、宇治若郎子が桐原の日桁の宮を造営した。その名から宇治と呼ぶ。本の名は許乃国といった。
    ● 鳥部里・的餅化鳥: (四辻善成「河海抄」より) (山城国風土記にいう) 鳥部とは秦公伊呂具、的餅化鳥は豊後国風土記総記に見える。
    ● 伊奈利社: (延喜式より) (風土記) 秦公伊呂具、稲作で富をたもつ。餅を的にして射ると白い鳥となって飛び、山の岑に止まる。そこに社を作り、稲を咥えた狐を祀って祀る。福を得た。豊後国風土記総記には驕った村人の失敗譚であるが、本記事は稲荷大社のいわれになる福と富の成功譚である。
    ● 桂里: (大島武好「山城名勝志」より) (山城国風土記にいう) 月読命は天照大神の勅により、天下って保食の神に仕える。一本の湯津桂の樹があり、月読命はその地に住んだ。今、桂里と呼ぶ。

□ 大和国
    ● 香山: (忌部正通「神代紀口訣」より) (風土記にいう) 天の上の山、分かれて地に落ちた。一つは伊予国の天山、一つは日本国の香山(かぐやま)。
    ● 大口真神原: 下河辺長流「枕詞燭明抄」より) (風土記に見る) 昔、明日香の地に老狼(大神に通じる)がいて、大きな口で人を食った。その地を大口真神原と呼ぶ。
    ● 御杖神宮: (谷川士清「日本書紀通証」より) (風土記にいう) 宇陀郡篠幡荘御杖神宮 祀るのは倭比売命で、天照大神の杖となって鎮座されるところ(伊勢神宮)を探し、その神戸となった。
    ● 三山: (仙覚「万葉集註釈」より) (風土記に見ゆ) 三山とは畝火、香山、耳梨山

□ 摂津国
    ● 住吉: (「釈日本紀」より) (摂津国風土記にいう) 住吉という名は、昔神功皇后の時代に、難波の大神(航海神)が現れて住むべきところを探した。沼名椋の長岡に至って、「真住み吉し、住吉国」と褒め称え神の社を定めた。
    ● 夢野・刀我野: (「釈日本紀」より) (摂津国風土記にいう) 雄伴郡夢野に伝わる話である。昔、刀我野に牡鹿があって、正妻の牝鹿はこの野に居て、妻妾の牝鹿は淡路国の野嶋にいた。牡鹿は妻妾を愛していたが、正妻はこれを憎んでいた。ある時牡鹿は正妻に夢のお告げを聞いた。「私の背中に雪が降り、ススキが群生している」という夢を見たのは何の理由かと問うたが、正妻は夢相わせを偽って「背の上に雪が降るとは、矢に射られること、背に草が生えるとは塩を塗り込むこと。けっして淡路に行くな」と答えた。それでも恋心に勝てない牡鹿は淡路に向かう船に乗って射殺されたという。夢相わせの通りになってしまった。(神戸市夢野あたり)
    ● 歌垣山・波比具利の岡: (「釈日本紀」より) (摂津国風土記にいう) 雄伴郡波比具利の岡 この岡の西に歌垣山がある。昔、男女この丘に集って常に歌垣(集団見合い 農耕祝い儀礼)をした。
    ● 有馬温泉・久牟知・塩の原山・塩の湯: (「釈日本紀」より) (摂津国風土記にいう) 有馬郡塩之原山に塩の湯が出た。よってその名がついた。この山の本の名は功地山。昔、孝徳天皇が湯に行くために行宮を作る。材木を久牟知山に求め、美しい材木を出したので、「この山は功ある山」と言われた。よって功地山と呼ぶ。訛って久牟知山となった。塩の湯を発見したのはそれより先に嶋の大臣(蘇我馬子)だと地元の人は言う。 
    ● 美奴売松原: (「万葉集註釈」より) (摂津国風土記にいう) 比奴売(みぬめ)は、もと能勢郡美奴売山に居た神。(大阪府豊能郡能勢町の三草山) 昔神功皇后が筑紫国に下る時、諸々の神を神前の松原(尼崎市神崎町あたり)に集め、歓送会を催した。この神も来て「私の住む山には立派な杉の木の大木がある。これで船を作って行幸すれば、幸運間違いなし」という。この船に乗って新羅を討って帰って来た。そこで美奴売神をこの地に祭り、船を神に献上した。故のこの地を美奴売松原と呼ぶ。 
    ● 稲倉山: (卜部兼文「古事記裏書」より) (摂津国風土記にいう) 昔、止与宇可乃売の神、山の中で飯を盛る、故に稲倉山という。また一説には止与宇可乃売の神が稲倉山で山全体を厨となしたという。後に事件があって、この神は丹波国比遅の浅奈韋(まない)に帰った。
    ● 土蜘蛛: (「釈日本紀」より) (摂津国風土記にいう) 神武天皇の時代、摂津の土蜘蛛がいた。
    ● 八十頭嶋: (顕昭「古今集註」より) (孫引き 風土記にいう) 堀江の東(大阪市天神橋付近)に沢があり、八十頭嶋という。昔、稚児を追った女が網で鳥を取ろうとしたが、河の鳥が網にかかって引っ張られて川に落ちた。引き上げると人の頭2つ、鳥の頭78あったという。この話は播磨国風土記託賀郡大網野の話に似ている。
    ● 下樋山: (林羅山「本朝神社考」より) (風土記にいう) 昔、天津鰐という海の神が鷲となって山に通った。通行人を捕らえては食らう。久波乎(鍬男)がこの山に来て下樋(地下道)を作っ神をくぐって通行したという。
    ● 御前漬・武庫・気比の神・廣田の神: (「本朝神社考」より) (風土記にいう) 仲哀天皇、韓を攻めるため筑紫国に至って亡くなった。気比の大明神とはこの天皇のことである。その妃神功皇后は戦を起して韓を討った。時に産み月に当たり、新羅、高麗、百済をせめて征服した。筑紫に帰って子を産んだ。応神天皇のことである。皇后は摂津国広田郷に広田明神を祀る。その武器を埋めた場所は武庫と言う。(今兵庫という) 応神天皇は八幡の大神である。
    ● 水無瀬・山背との境: (澄月「歌枕名寄」より) (摂津国風土記にいう) 摂津国の嶋上郡である。(今の大阪府三島郡島本町広瀬の水無瀬神社) 山背国との境にある。
    ● 御魚家: (多田義俊「日本声母伝」より) (摂津国風土記にいう) 和語が還って漢語のようになった言葉。御魚(みまな)が任那と呼ぶようになった。摂津国風土記に任那より魚を献じたことが書かれている。
    ● 堀江の一橋・難波堀江の歌: (橘守部「陵威道別」より) (摂津国風土記) 「津能国の 難波の堀江の 一つ橋 傍目なせそ」

□ 伊賀国
    ● 伊賀津姫: (今井以南「万葉緯」より) (伊賀の国風土記) 伊賀の国は昔伊勢国に属す。孝徳天皇の時代、別れて伊賀国となる。伊賀津姫の治める国の故にその名がある。西は高師川、東は家富の唐岡、北は篠嶽、南は中山を境とする。

□ 伊勢国
    ● 伊勢国: (「万葉集註釈」より) (伊勢国の風土記にいう) 伊勢国は天日別命が平定したところである。神武天皇が日向国より東征し紀伊の熊野村に入った時、天皇に従って大伴の日臣命は八咫烏の導きによって大和の?田下県に進攻し、生駒の長髄との戦いを命じられた。天日別命は天に近い方面を平定すべきだと命じられた。天日別命は東に向かい数日後に伊勢津彦の支配する地に入り、戦わないで伊勢津彦命は降伏し、領地を譲ることを約束して、自身は諏訪に逃げた。この国の明け渡しの夜は神風が吹くの予言通りに行われた。天日別命は天皇に復命し天皇は大いに喜び、この地を伊勢と呼んで天日別命の封地と為した。
    ● 伊勢国・石城: (道祥「日本書紀私見聞」より) 一説に言うとして、伊勢という地は、出雲大神の子出雲建子命(伊勢津彦命)が石で築いた城郭を作って居られた。阿倍志彦の神が攻めてきたが、勝てないで退散したという。
    ● 的形浦: (「万葉集註釈」より) (風土記にいう) (今の松阪市黒部町あたり) この浦の形が的に似ていることから名が付いた。今はすでに渚は閉じて湖になっている、持統天皇が行幸されて歌が一首添えられている。
    ● 度会郡: (「倭姫命世記」裏書より) (風土記にいう) 神武天皇が天日別命に命じて伊勢国を平定した時、天日別命が国見をすると、度会の賀利佐(伊勢市東南の高倉山)の煙が立つのを見た。使いを派遣してその地の長を調べると、大国主の神だという。大国主は服従を誓い、天日別命を迎えるため橋を作るが完成しなかった。梓弓を橋と成して天日別命がやって来て、大国主命は弥豆佐々良姫命を献上して和を乞うた。この土橋郷の岡本邑(伊勢市岡本町)で天日別命と弥豆佐々良姫命は面会した故に度会と呼ぶ。
    ● 瀧原神宮: (金沢文庫「伊勢内宮」より) (伊勢国の風土記にいう) 倭姫命(垂仁皇女 斎宮の始まり)が天照大神の鎮座地を求めて、船に乗って度会川の上流に上り、瀧原の神宮を定めた。
    ● 安佐賀社・阿佐賀: (荒木田経雅「大神宮儀式解」より) (伊勢国の風土記) 天照大神、大和の宇陀から淡海、美濃を経て伊勢に入る。安濃の藤方(三重県津市藤方)の片樋の宮に至った。安佐賀山(松阪市阿阪山)に服従しない土地神がいた。このため倭姫命は度会郡宇遅村の五十鈴川の宮に入ることができず、藤方の片樋の宮に居た。そこで姫は中臣の大鹿嶋命、伊勢の大若子命らを派遣し天皇に訴えた。天皇は大若子命に命じて天日別命神をまつって土地神の平定を行い、姫を五十鈴川の宮に入れさせた。阿佐賀に社を建て土地神を祀って安堵したという。
    ● 宇治郷: (度会行忠「伊勢二所太神宮名秘書」より) (風土記にいう) 宇治郷(伊勢市内宮)は、伊勢度会郡の宇治村の五十鈴川上流の宮社である。天照大神をまつる。宇治の橋より内を内宮となす。
    ● 度会・佐古久志呂: (「伊勢二所太神宮名秘書」より) (風土記にいう) 度会という名は五十川の上流の名による。神風の百船佐子久志呂宇治という。
    ● 八尋機殿・建郡: (「伊勢二所太神宮名秘書」より) (風土記にいう) 倭姫命が大神を斎き奉る日、機殿を八尋に造る。故に建郡と呼ぶ。
    ● 五十鈴: (「伊勢二所太神宮名秘書」より) (風土記にいう) この日、多くの男女が集まって、そわそわとして(いすすき)交際する。故に五十鈴(いすす)という名が付いた。

□ 志摩国
    ● 吉津嶋: (慈円「拾玉集」より) (風土記にいう) 神宮に供物を捧げる礼奠の間があり、三角柏葉を奉納する。柏葉は志摩国吉津縞・堺土具島にある。昔、行基菩薩と婆羅門僧正と天竺僧仏哲によって三角柏を神宮の苑に植えた。

□ 尾張国
    ● 熱田社: (「釈日本紀」より) (尾張国風土記にいう) 日本武命が東国平定の後帰る時に、尾張連らの祖宮酢媛命の家に泊まり、姫と婚姻した。夜、厠に行き、草なぎの剣を桑の木の上に置いた。忘れて殿にもどり、再び取りに行くと剣が光っていた。酢媛命に「この剣は神の気がある。斎紀祭り、私の魂と思え」といった。故にここに社を作った。熱田郷の名を取り熱田社と呼ぶ。
    ● 吾縵郷: (「釈日本紀」より) (尾張国風土記にいう) 垂仁天皇の時代、品津別皇子は7歳になっても言葉が話せなかった。その後皇后が見た夢に神が現れて「私は多具国の神、阿麻乃弥加都比売(出雲国風土記島根郡にみえる)、未だ祀ってもらえないでいる。私のために祝人を立てるなら、皇子は物を言え長生きできるであろう」といった。帝は日置部の祖建岡の君を卜人として神捜しを行った。建岡の君は美濃国花鹿山に至って榊の枝で蔓を作り神の意を問うた。「私の蔓が落ちるところに神がある」と言って蔓が落ちたところがこの地であった。阿豆良郷と呼んだ。
    ● 川島社: (「万葉集註釈」より) (尾張国風土記にいう) 葉栗郡川島の社、凡海部の忍人がいうに「この神は白い馬に乗りオキドキ現れる」と。詔により天社として斎祀る。
    ● 福興寺・三宅寺: (「万葉集註釈」より) 三宅連の氏寺、愛知の郡家より9里,日下部郷の伊富村にある。平城の聖武天皇の神亀元年、主政三宅連麻佐が作り奉った。
    ● 大呉里: (「塵袋」より) 尾張国大呉里、景行天皇の時代、西の方から大きな笑い声が聞こえてきた。天皇は怪しんで石津田連を派遣して調べた。石津田連が見ると牛のような顔をしたものが集まって大声で笑っていた。石津田連は少しも恐れず剣をぬいて全員を切り殺したこれより大斬りの里と呼んだが、後日訛って大呉の里となった。
    ● 徳々志: (「塵袋」より) (尾州記) 昔の美女の特徴で顔が太っているのを徳々志(ふくよかな)と呼ぶ。
    ● 登々川: (「塵袋」より) (管清公記にいう) 大穴大神と小彦命が巡行した時、往還の足跡である故に跡々(とと)という。または賭々ともいう。

□ 駿河国
    ● 富士雪: (「万葉集註釈」より) (駿河国風土記にいう) 富士山に積った雪は、6月15日には消えて、午前2時以降にまた雪が降り積もるという。
    ● 三保松原・神女羽衣: (「本朝神社考」より) (風土記) 三保の松原は駿河国有度郡にある。北には富士山、南には太平海がある。久能山は西に険しく、清見ヶ関・田子の浦はその前にある。松木は数を知らず。古老云う。昔神女があり、天より下り来て羽衣を松の枝に晒すのを見た漁師はそれを拾って還さなかったので、神女は天に戻ることができなかった。そこで夫婦となった。(天人女房譚) 後に羽衣を取り返し雲に乗って帰る。
    ● てこの呼坂・不来見の浜: (下河原長流「枕詞燭明抄」より) (駿河国の風土記に言う) 廬原郡不来見の里の女神のもとに通ってくる男神がいた。その神はいつも岩木山を越えてくるので、その山の荒ぶる神が通行を邪魔するため通うことは難しかった。女は岩木山を望んで男の名を呼ぶのでてこの呼坂という。東国の訛りで女のことをてこという。田子の浦もてこの浜である。てこのよび坂の3首の万葉集の歌を添える。

□ 伊豆国
    ● 伊豆日金嶽猟鞍: (加藤謙斎「鎌倉実記」より) (北畠親房の記の伊豆の風土記にいう、孫引き) 伊豆別王子は履行天皇の子武押別の命である。その時駿河国の伊豆埼を分割して伊豆国となずけた。日金嶽は瓊瓊杵尊の御霊を祀る。興野の神狩りは国ごとに奉仕する。8か所の狩場を構えその行装は図に示される。推古天皇の時代、伊豆・甲斐領国に聖徳太子の御領が多かった。これから狩鞍は中止された。八牧の狩場には昔の狩鞍の司、山の神をまつる。幣坐の神坐と呼ぶ。 
    ● 温泉: (「鎌倉実記」より) (伊豆の風土記にいう、孫引き) 天孫が天下る前、大穴大神と小彦命が、民が夭折することを憐れんで、薬と湯泉の術を定めた。伊豆の湯、箱根の元湯がそれである。走り湯は元正天皇の時代に開かれた。一日に二度温泉がほとばしり出る。熱いので下樋で湯船に導き、浸かれば万病に効く。
    ● 奥野伊豆船: (「鎌倉実記」より) (伊豆の風土記にいう、孫引き) 応神天皇5年冬10月に伊豆の国に大船を作らせる。長さ10丈、軽く走る。船を造れる木は日金山の奥野の楠である。

□ 甲斐国
    ● 鶴郡菊花山: (「夫木和歌抄」より〉 (風土記にいう) 甲斐の国鶴郡に菊花山がある。流れる水は菊を洗い、その水を飲む人は鶴のごとく長寿となると云々

□ 相模国
    ● 足軽山: (「続歌林良材集」より) (相模国風土記にいう) 足軽山は、この山の杉の木で造った船の軽いことにちなんでなずけた。
    ● 伊曽布利: (「万葉代匠記」より) (相模国風土記にいう) 鎌倉郡見越埼に常に速き浪があった。国人はなずけていそふりという。石を振るという意味である。

□ 上総・下総国
    ● 上総・下総国: (菊本賀保「国花万葉記」より) (風土記) 総とは木の枝の総称である。この国に大きな楠があった。長さ数百丈である。時の帝これを怪しみ占わしめると、大凶事という。これによって楠を切り倒すと南に倒れた。これより上の枝を上総、下の枝を下総という。

□ 常陸国
    ● 三柱の天皇号: (「万葉集註釈」より) (常陸国風土記にいう) 或るはいう。景行天皇に時代(巻向日代宮大八州照臨天皇)、或はいう。継体天皇の時代(石村玉穂宮大八州処馭天皇)、或はう。孝徳天皇に時代(難波長柄豊前大朝八州撫馭天皇)
    ● 国・郡の称: (「万葉集註釈」より) (常陸国風土記にいう) 新治郡、白壁郡、筑波郡、香嶋郡、那賀郡、多賀郡など
    ● 枳波都久岡: (「万葉集註釈」より) (常陸国風土記にいう) 枳波都久岡(きはつくのおか)は常陸国真壁郡にある。
    ● 桁藻山: (「万葉集註釈」より) (常陸国風土記にいう) 常陸多珂桁藻(たなめ)山は、道後桁藻山ともよめる。 
    ● 賀久賀鳥: (「塵袋」より) (常陸国風土記にいう) 賀久賀鳥とは日本紀には鳴鳥(みさご)の名がある。常陸国風土記では河内郡浮島村に賀久賀鳥がいる。かわいい声で鳴く。景行天皇がこの村に行宮された時、30日間毎日この鳥の声を聴いて伊賀理命を召して、この鳥を網で捕まえた。天皇甚く悦感して彼に鳥取の姓を与えた。 
    ● 久慈理岳: (「塵袋」より) その岡の姿が鯨に似ていることからいう。鯨を久慈理と訛った。(常陸太田市大里町中野丘陵をいう)
    ● 賀蘇理岡: (「塵袋」より) 常陸国で賀蘇理というはさそり蜂のことである。賀蘇理岡にはさそり蜂がたくさんいた故にこの名が付いた。(鉾田市勝下)
    ● 尾長鳥: (「塵袋」より) (常陸国風土記にいう) 尾長鳥または酒鳥は頭が黒く尾は長い。色は青鷺に似ている。村に住む鶏に似ている。
    ● 比佐頭・大谷村: (「塵袋」より) (常陸国風土記にいう) 大谷の村(鉾田市田崎)に大きな榛を伐採し、本の材を鼓に、末の材を瑟(ひさづ)に作る。
    ● 積麻・伊福部岳: (「塵袋」より) (常陸国風土記にいう) 兄妹が田植えをしていた。遅くなった方が伊福部神の災いを受けるというが、妹が遅くなって、雷が鳴り行くとは殺された。兄は怒ってその神の後を追うべく、肩に止まった雉の尾に積麻の糸をつけて神を追跡した。雉は伊福部岳に登ったので、雷のいる石室に入り太刀を抜いて迫った。恐れた雷神は助命を乞い、今後子孫が百歳まで雷を受けないように約束した。男はこの神を許して、雉には感謝を込めて、子々孫々雉の肉を食わない事を誓った。
    ● 沼尾池: (「夫木和歌抄」より〉 (風土記にいう) 香嶋の沼尾社に沼尾池がある。神代から水が下って蓮が生え、この水を飲むものは不老不死と夏なる言い伝えがある。
    ● 流れ海: (「万葉集註釈」より) (常陸国風土記にいう) 香嶋の埼には下総の海の境から深く入り込んだ利根川の河口がある。これを流海と呼ぶ。今では内海という。一つの流れは鹿島郡と行方郡に流れ(霞ヶ浦東湖)、もう一つの流れは行方郡と下総の先を流れて信太郡、茨城郡まで入る(霞ヶ浦西湖)。

□ 近江国
    ● 伊香小江: (「帝王編年記」より) (古老伝えて曰う) (滋賀県長浜市余呉の天女衣掛伝説) 近江国伊香余呉郷、伊香の小江。郡家の南にある。天の八女、白鳥となって天より降り、江の南の津で浴する。伊香刀美が山から遥かに白鳥を見て、近づいて見ると神人であった。恋する心を起し白い犬に天衣を盗み取った。神人の姉7人は飛び昇ったが、妹は衣がないので飛ぶことができなかった。天女の浴する浦を神の浦という。こうして伊香刀美は天女と夫婦になった。子供男二人、女二人を生んだ。子らは伊香連らの先祖である。後母は天衣を探し取り天に帰った。
    ● 竹生嶋: (「帝王編年記」より) (古老伝えて曰う) 霜速比古命、多々美比古命は伊吹山の神である。比佐志比女命は伊吹山の神の姉、浅井比当スは浅井の岡の神でるある。伊吹山と浅井岡とが背比べをした。浅井岡は一夜で高さを倍にした。伊吹山が怒って刀を抜いて浅井比唐殺した。その頭が江に落ちて嶋になった。竹生嶋と呼んだ。
    ● 細波国: (橘守部「神楽人綾」より) (浅井家 近江国の風土記にいう) 淡海国はまたの名を細浪国という。目の前の湖上のささ浪の様子からなずけられた。

□ 美濃国
    ● 金山彦神・一の宮: (卜部兼?「神名帳頭註」より) (風土記にいう) いざなみ命が火の神かぐつちを生むとき、熱さに耐えずおう吐した。これが神となる。金山彦の神となる。一の宮である。(美濃国不破郡神山神社)

□ 飛騨国
    ● 飛騨国: (寺島良安「倭漢三才図会」より) (風土記にいう) この国は元美濃国の内であった。天智天皇の大津京を造営する際、この郡より良い材木を出して馬の荷物に載せて来たる。その速いこと飛ぶようだった。ゆえに飛騨国と呼ぶ。

□ 信濃国
    ● ふせやのははき木: (「袖中抄」より) (風土記にいう) ははき木は美濃信濃両国の境、ふせや原というところにある木である。遠くで見ると帚を立てたようであり、近くで見ると幻であったと判る。ゆえに有るようで逢えない例えに用いられる。

□ 陸奥国
    ● 八槻郷: (伴信友「古本風土記逸文」より) (陸奥国風土記にいう) 景行天皇の時代、日本武尊、東の夷を討ってこの地(福島県白河郡棚倉町八槻)に至った。八目の鳴鏑で夷を射殺した。その矢が落ちた場所を矢着と呼ぶ。昔この地の八人の土蜘蛛がいた。国造磐城彦が征討した後も掠奪が止まないので、日本武尊が征討に乗り出した。土蜘蛛は石城によって激しく抵抗し、津軽の蝦夷とも連動して官軍を悩ました。武尊は槻弓、槻矢をもって蝦夷を殺し、土蜘蛛を射殺した矢は野に生えて槻木となった。その地を八槻の郷という。正倉がある。
    ● 飯豊山: (伴信友「古本風土記逸文」より) (陸奥国風土記にいう) 白河郡飯豊山は豊岡姫命の神聖な場所である。飯豊青尊が物部臣をして祭祀を執り行った。故にその名を山に遺す。また古老云う。垂仁天皇27年代飢饉が起きて人民多く死亡したので、飢え山という。名を改めて豊田山と呼ぶ。
    ● 塩釜明神の神子: (藤原範兼「和歌童蒙抄」より) (陸奥国の風俗に見えたり) 陸奥の神、塩釜の明神に誓いをするため、若い女を供物として神の内殿に入れた。この神の嫁は宮司の許可がなければ親子といえど会うことはできない。年に一度だけ逢うことが許される風俗が陸奥国に見られる。

□ 若狭国
    ● 若狭国: (寺島良安「倭漢三才図会」より) (風土記にいう) この国の男女夫婦となる。共に長寿で年齢を知らない。後に神となる。今一の宮(若狭国遠敷郡「若狭日吉神社」)がそれである。

□ 越前国
    ● 帰る山・あわでの森・笑う山: (藤原定家「顕註蜜勘」より) (風土記を引いて) 和歌に見る「帰る山」は越前にある。「敦賀」も越前にある。本の名は風土記を引いてあわで森、わらう山などという。
    ● 気比神宮: (「神名帳頭註」より) (風土記に言う) 気比の神社(福井県敦賀市曙町)は宇佐神社と同神である。八幡は応神天皇の垂迹、気比の明神は仲哀天皇の神がいます。

□ 越後国
    ● 八坂丹: (「釈日本紀」より) (越後国風土記にいう) 八坂丹は玉の名、玉の色は青い。故に青八坂丹の玉という。
    ● 八掬脛: (「釈日本紀」より) (越後国風土記にいう) 崇仁天皇の時代、越後の国に八掬脛という脚長の人がいた。土蜘蛛の末裔である。

□ 丹後国
    ●  天橋立:  (「釈日本紀」より) (丹後国風土記にいう) 与謝郡の郡家の丑寅に速石里がある。この里の海に長く大きな埼がある。先を天の橋立と呼び、後ろを久志の浜と名付ける。由来は伊弉諾命が天に通うため橋を作ったとされる。これより東海を与謝の海、西の海を阿蘇の海という。この二つの海の間にいろいろな魚貝等が採れる。
    ● 浦嶼子: (「釈日本紀」より) (丹後国風土記にいう) 浦島太郎伝説である。丹後国与謝郡日置里筒川村に日下部首らの先祖、筒川の水江の浦の嶼子という人夫がいた。姿かたち麗しく風流なことたぐいなし。このことは元の国司伊預部の馬養が記している。雄略天皇の時代、三日三晩一人で船を出して漁をしていたが獲物はなく、5色の不思議な亀を得た。嶼子が寝ている間にその亀は美しい婦人になった。尋ねるに天上の神であった。美しい娘に誘われるままに蓬莱山に行くことになり、目をつむっている間に海の中の大きな島に着いた。まさに常世の国に来た感がする。天女と一緒に大きな家にはいると、天人らに亀姫の夫と紹介され大歓迎を受けた。童は空の星、百品の料理を出し、酒杯を挙げて酌み交わし、神の舞の宴を為し、日の暮れるのも忘れ婚姻が終った。それから3年の年月が流れ<、ふと里心を越して両親を思い嘆きは日に増していった。天女は夫の顔色が優れぬことを愁い、帰りたくなったのかと問うた。別れの際に、女は玉匣を嶼子に与え、私を忘れられない時に玉匣を取り、決して開いてはいけないという。本の筒川の浜に送り返された嶼子は見知らぬ村人に「水の江の嶼子の家人を知らないか」と問うと、古老が伝えるには、嶼子は遊びに出たまま帰らず、300年が経ったという。玉匣を撫でて神女を偲んでいたが、ふと約束を忘れ玉匣を開いたところ、神姫の魂は天高く飛んで行った。最後に4首の歌が添えられている。 
    ● 羽衣奈具社: (「古事記裏書」より) (丹後国風土記にいう) 羽衣天女伝説である。丹後国丹波郡の郡家の西北に比治里がある。比治山の頂には井があり真奈井という。この井に天女七人が舞い降り水浴みをしていた。和奈佐の老夫婦がこの井に来て一人の衣を隠した。やがて天女らは舞い上がったが、衣のない女は取り残され、老夫婦はこの天女に我が子に成れと迫った。衣のない天女はそれに従って翁の家に入り10年が過ぎた。天女は酒を造ることに巧みで、一口飲むと万病が消える酒は評判となり、それを翁が売って、家は次第に裕福になった。故に上形(ひじかた)の家(上流の家)といい、比治里と呼んだ。傲慢になった翁は天女を追い出した。泣く泣く天女は荒塩村に至りて、私の心は荒塩のよう、よって比治さとのことを荒塩村という。又丹波郡の哭木の里にきて槻木によって泣いた。故に哭木の村という。竹野郡船木の里の奈具村に来て「この村は私の心を慰める」と言ってこの村に留まった。奈具社の豊宇賀能売命のことである。(老夫婦はまるでブラック企業みたいなもので、天女もこれでは救われない)

□ 因幡国
    ●  白兎: (「塵袋」より) (因幡国風土記にいう) 因幡国高草郡には二つのいわれがある。一つは読んで字の通りに解釈する。二つは竹草の郡とする見方である。竹は草の長という意味で竹林があったとする説である。昔竹林に老いた兎が住んでいた。洪水があって竹林は崩れ兎は竹の根にしがみついて大きな島に流れ着いた。水位が下がって元居たところに帰りたいと思ったが、渡る物がない。すると水の中に鰐(サメ)がいるので一案を講じた。ワニに向かって「おまえの一族はどのくらいいるのか、その数を数えたいのでここから気多埼まで並んでみてくれないか。」と言われたワニは背中を並べた。兎はその背の上を踏み竹の崎にたどり着いた。最後に黙ってればいいのに、だましたわけを得意そうに言ったものだから、兎はワニに皮を剥がれて丸裸にされ痛くて泣いた。それを大穴大神は憐れんで、蒲の穂を塗ると痛くないと教えたという。
    ●  竹内宿祢: (「万葉緯」より) (因幡国風土記にいう) 仁徳天皇の55年、大臣竹内宿祢の御年360余歳が因幡国にやってきた。宇倍山の麓の亀金で行方が分からなくなった。ここにある宇倍社h竹内宿祢の御霊であるという。
    ●  稲葉国: (寂恵本「古今和歌集」上より)  風土記には稲葉国とあり、誤りて因幡とした。ただしこの国にはいろいろな説がある。

□ 伯耆国
    ●  粟嶋: (「釈日本紀」より) (伯耆国風土記にいう) 相見郡の郡家の西北に余部里がある。粟嶋と呼ぶ。出雲の少日子命が粟の種を撒いたところ、穂実り離々(ほたり)となった。そこで命は粟に乗って弾かれて天に還ったという。故に粟嶋と呼ぶ。
    ●  地震: (「塵袋」より) (伯耆国風土記にいう) 地震があった時、鶏と雉は恐れて鳴いた。山鳥は谷を越えて羽を立てて踊ったという。
    ●  伯耆国: (「諸国名義考」より) (引用した風土記には) 手摩乳の娘稲田姫は、八岐大蛇に飲み込まれそうになったので、山中に逃げた。母が遅れたので娘は「母来ませ」と言ったので、母来の国と呼んだ。後に伯耆国と改めた。

□ 石見国
    ●  人丸: (「詞林采葉抄」より) (石見国風土記にいう) 天武3年、柿本人麻呂、岩見守に任じられ、翌年正三位播磨の守に任じられた。それ以来持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙の七代の朝廷に仕えた。持統の時代四国に配流され、文武の時代東海に左遷された。子の躬都良は隠岐に流されそこで死んだ。

□ 播磨国
    ●  藤江浦: (「万葉集註釈」より) 播磨国住吉大明神が藤の枝を切らせ、海に浮かべて誓いを立てた。「この藤の枝の流れ着く先をわが領とする」と、藤の枝が流れて着いた所を藤江浦と呼ぶ。住吉の御領となった。

□ 実作国
    ●  美作国守: (伊呂波字類抄」より) (風土記にいう) 和銅6年備前の守、百済の南典(百済国滅亡時、国王義慈を祖とする一族)、堅身らが解(答申書)によって備前の六郡を割いて美作国を置いた。備前介堅身を美作国の守とする。
    ●  勝間田池: (「詞林采葉抄」より) (美作国風土記にいう) 日本武尊、櫛を池に落とした故に勝間田池と呼ぶ。玉かつまとは櫛の古語である。

□ 備前国
    ●  牛窓: (「本朝神社考」より) 神功皇后の船が備前国の海上を過ぎた頃、大きな牛が出て船を転覆させようとした。住吉明神は翁になって現れ、この牛の角を掴んで投げ倒した。その場所を牛転びと言い、今訛って牛窓と呼ぶ。

□ 備中国
    ●  新造御宅: (「万葉集註釈」より) (備中国風土記にいう) 賀夜郡松岡の東南二里に新たに作る御宅がある。天平6年、国司石川朝臣賀美、郡司大領下道朝臣人士、少領園臣五百国等の時に造った。
    ●  迩磨郡: (「本朝文粋」より) (備中国風土記にいう) 皇極6年唐の将軍 蘇定方、新羅軍を率いて百済を滅ぼした。百済は使節を送ってきて援助を乞うた。天智天皇の立太子も終えて、天皇は下道郡に宿泊した時、その村は大変大きく富んでいるの見て天皇は2万人の徴兵を行った。故にこの村を二万の里と呼んだ。後に迩磨という。その後天皇は筑紫宮で亡くなったので、百済旧援軍は中止となった。
    ●  宮瀬川: (「神名帳頭註」より) (風土記にいう) 賀夜郡伊勢御神社の東に川がある、宮瀬川と名付けた。川の西には吉備建日命の宮がある。三代の王の宮がある故に宮瀬と呼ぶ。

□ 備後国
    ●  蘇民将来: (「釈日本紀」より) (備後国風土記にいう) 疫病退散の国社がある。昔北の海に居た武塔の神が南の海の娘をよばいに出かけ、日が暮れて宿を乞うため蘇民将来(弟)の家にいった。弟の家は豊かであったが武塔の神の要請は拒否した。兄の家は貧しかったが、武塔の神に宿を貸した。粟の食も与えた。後年武塔の神は八柱の子を引き連れて蘇民将来の子孫の家に復讐しに来た。女を残して皆殺しにした。そして「私は素戔嗚命の神である。もし疫病があれば、蘇民将来の子孫だと言って茅の輪を腰に付けていれば、疫病を遁れられるであろう」といった。(この話の落ちが悪い。兄弟の家の区別なく男は皆殺しにしたのか不明である。 茅の輪くぐりの風俗伝承なら、こんな残虐な報復劇はない。神は残虐で傲慢なるを以て支配者なのだろう。民に優しい神では国は治まらないと言いたいのか。)

□ 紀伊国
    ●  手束弓: (「万葉集抄秘府本」より) (紀伊国風土記にいう) 手束弓(たつかゆみ)とは弓の取る柄を太くしたもの。紀伊国の雄山の也木守が持つ弓という。

□ 淡路国
    ●  鹿子湊: (「詞林采葉抄」より) (淡路国風土記にいう) 応神天皇20年天皇が淡路島に狩りに出かけたとき、海の上に鹿が現れた。実は鹿の皮の衣を着た人間であった。侍従に問わさせると、「私は日向国諸県君牛です。年を取って仕えることはできなくとも、なお天恩を忘れたことはない。そこで私の娘髪長姫を天皇に献上します」という。船を寄らせた。この湊を鹿子の湊という。(後日、応神天王はこの娘を皇子(後、仁徳天皇)に譲ったという)

□ 阿波国
    ●  中湖: (「万葉集註釈」より) (阿波国風土記にいう) 牟夜戸余奥湖中にあるため中湖と呼んだ。
    ●  勝間井: (「万葉集註釈」より) (阿波国風土記にいう) 実作国勝間田池の話に全く同じ。
    ●  奈佐浦: (「万葉集註釈」より) (阿波国風土記にいう) 奈佐とは波の音のこと。海部(あま)は波を奈という。
    ●  天本山: (「万葉集註釈」より) (阿波国風土記にいう) 阿波国に天より大きな山が降ってきた。これを天の本山という。砕けて大和国に降った山は天の香山という。(神聖な山という意味である。)

□ 讃岐国
    ●  阿波島: (「万葉集註釈」より) 讃岐国屋島の北100里に嶋がある。名を阿波島という。

□ 伊予国
    ●  御嶋: (「釈日本紀」より) (伊予国風土記にいう) 乎知郡御嶋に居ます神は大山積神で、 この神は仁徳天王の時代に、百済国より渡来し津国御嶋(大阪府高槻市淀川岸、古代、三島江と呼んだ))に住んだ。本来御嶋というは津国の御嶋のことである。
    ●  熊野岑: (「釈日本紀」より) (伊予国風土記にいう) 野間郡熊野の岑。昔ここで熊野という船を作った。今になるまで石となって存在する。故に熊野と呼ぶ。
    ●  湯泉: (「万葉集註釈」より) (「釈日本紀」より) (伊予国風土記にいう) 大穴大神が死んだ少奈比古命を生き返らそうとして、大分の速見の湯を下樋で運んできて、湯浴みさせたところ生き帰った。命は「しばらく寝ていたようだ」と元気そうに足踏もをした。以来湯の効用は神代から今の世まで病を癒し万病に効く薬としてきた。天皇らが湯に幸行することは5度あった。@第12代景行天皇と后、A第14代仲哀天皇と神功皇后、B聖徳太子、C第37代斉明天皇と皇后、D6天智天皇と天武天皇
    ●  斉明天皇御歌: (「万葉集註釈」より) (伊予国風土記にいう) 御歌1首「みきたつに泊てて見れば・・・」
    ●  神功皇后御歌: (「万葉集註釈」より) (伊予国風土記にいう) 「橘の島にしおれば 河遠み 曝さで縫いし吾が下衣」
    ●  天山: (「釈日本紀」より) (伊予国風土記にいう) 伊予郡の郡家より東北に天山あり。天山となずけるのは、天より降った二つの山のうち、倭には香山、伊予には天山という。久米の臣らが祀っている。
    ●  二の木: (「万葉集註釈」より) (伊予国風土記にいう) 二つの木とは、一は椹(むく)の木、一は臣の木という。臣の木不明、むくは椋の木、椹はさわら

□ 土佐国
    ●  土左高賀茂神社: (「釈日本紀」より) (土左国風土記にいう) 土左郡家の西4里に土左高賀茂神社がある。神の名は一言主尊である。その祖は分からないが、一説には大穴六道命の子(鴨氏)だという。
    ●  天河命・浄川媛命: (吉田家蔵「雅事問答」より) (風土記にいわく) 土左郡家の内に天の河命を祀る社がある。土左高賀茂神社の娘子である。さらにその南に社がある。浄川姫命を祀る。
    ●  朝倉神社: (「釈日本紀」より) (土左国風土記にいう) 土左郡朝倉郷に社がある。天津羽羽神をまつる。
    ●  玉島: (「釈日本紀」より) (土左国風土記にいう) 吾川郡玉嶋、神功皇后が国巡りをしてこの嶋に泊まった。浜に光る石を見つけ、「これは海神のくれた白真珠だ」といった。故に嶋の名を玉嶋と呼ぶ。
    ●  神河: (「万葉集註釈」より) (土左国風土記にいう) 神河、三輪川と訓む。源は山の中で伊予国にいたる。この川の水で酒を醸す。

□ 筑前国
    ●  胸肩神躰:  (「釈日本紀」より) (風土記に見る) 胸肩の神の躰は玉であった。
    ●  香襲宮: (「釈日本紀」より) (筑前国風土記にいう) 筑紫の国に至れば、まず香襲宮に参る。仲哀天皇と神功皇后が熊襲征伐のためこの地に行宮を設けた。(福岡県東区 香椎宮)
    ●  資珂嶋: (「釈日本紀」より) (筑前国風土記にいう) 糟屋郡資珂嶋、昔神功皇后が新羅に赴く時、夜に御船はこの嶋に停泊した。従者に大浜、小浜というものがいたが、小浜に命じてこの嶋に火を取りにやらした。あまりに早く火をく求めてきたので問うと、「この嶋と打ち上げの浜は陸続きでした」と答えた。故に近嶋と呼んだ。
    ●  怡土郡: (「釈日本紀」より) (筑前国風土記にいう) 昔仲哀天皇の時代、熊襲退治のため筑紫に幸行したとき、怡土県主らの祖、五十跡手(いとて)一族は穴門の引島に天皇の軍を迎えた。天皇はだれかと問うと、 五十跡手は「高麗国意呂山よりこの地に天下りした日鉾の末裔、五十跡手である」と言った。天皇は喜んで「いそしかも、五十跡手の地は恪勤〈忠勤にはげむ)国というべし」と言った。今は訛って怡土という。
    ●  芋美野: (「釈日本紀」より) (筑前国風土記にいう) 伊都県子饗原、石が二つあった。色白く丸く磨いた石であった。神功皇后が新羅を討つときに腹の子が動いたので、二つの石を裾の腰に挟んで戦に勝った。凱旋して芋美野に着いて子が生まれた(誉田天皇)。 故にこの地を芋美野(うみの)と呼ぶ。(福岡県糟屋郡宇美町に宇美八幡宮がある)
    ●  児饗石: (「釈日本紀」より) (筑前国風土記にいう) 前の芋美野の記事に同じ。 この石を皇子産(みこうみ)の石という。今訛って児饗(こふ)の石という。
    ●  塢舸水門: (「万葉集註釈」より) (風土記にいう) 塢舸(おか)県の東に大江の口がある。大型の船が入る。塢舸の水門という。そこから鳥旗の浦に通じる。小型の船が入る。名を久妓門という。海のなかに二つの島がある。阿斛島、志波島という。
    ●  西海道節度使: (「万葉集註釈」より) (筑前国風土記にいう) 奈良天平4年、西海道節度使に藤原朝臣、宇合が任じられた。前の軍制の改革である。(宇合は武家の祖、常陸国風土記の編纂行に加わったとされる)
    ●  大三輪神: (「釈日本紀」より) (筑前国風土記にいう) 神功皇后、新羅を討つため軍を整え出発したが、大三輪の神に行く手をふさがれた。そこで社を建てこの神を祀って新羅戦争に勝ったという。
    ●  うりあげの浜: (「和歌童蒙抄」より) (筑前国風土記にいう) 狭手彦連が船にのって遠征にでかけたが、船が前に進まない。石勝が占って言うには 「海神が狭手彦の妾那古若を欲しいと言って、船を留めている。妾那古若を神に差し出せ」という。天皇の命に背くことはできないので妾を海に浮かべた。
    ●  大城山: (「万葉集抄秘府本」より) (風土記にいう) 筑前国御笠郡大野に山があった。大城の山という。
    ●  宗像郡: (「宗像大菩薩御縁起」より) (西海道の風土記にいう) 宗像大神(三女神)は埼門山に居られた時、青い玉を奥津宮に、紫の玉を仲津宮に。八咫の鏡を辺津宮において、三つの御神体とされた。故に身形の郡と呼ぶ。のちに宗像という。その大海命の子孫は宗像朝臣らである。 
    ●  神石: (「太宰管内志」より) (筑前風土記にいう) 芋美野、児饗石の記事の内容に同じ。神石で腹を撫でると妊婦の心と体が休まる。この石は」筑前の伊都県にあったが、落雷によって3つになった。

□ 筑後国
    ●  筑後国: (「釈日本紀」より) (筑後国風土記にいう) 本は筑後国は筑前国と併せて一つの国であった。二つの国の境に険しく狭い坂があって、往来の人は難儀した。土地の人は鞍下尽しの坂と呼んだ。二つの説に、この境に荒ぶる神が居ら医の人に災難を与えた。亡くなる人が多かった。因って人の命尽しといった。そこで筑紫君と肥君が占って祀らせた。それ以降は害はなくなったので筑紫の神という。三つの説に、この坂で死ぬ人が多いのでこの山の木を伐って棺を作ったため、山の木尽しという。
    ●  生葉郡: (「釈日本紀」より) (筑後国風土記にいう) 景行天皇国巡りを終えて都に帰る時、膳司が酒杯を持ってくるのを忘れた。天皇は落胆して「はや、私の酒杯(うき)はなくなった」といった故に、宇枳波夜郡と呼ぶ。後に生葉郡と呼ぶ。
    ●  磐井君: (「釈日本紀」より) (筑後国風土記にいう) 上妻県の家より南2里に、筑紫国磐井の墓がある。立派な憤土(南北60丈、東西40丈)である。その東北の角に国衙(政庁)がある。その中に石人がいた。訴訟を扱う解部であった。傍に石猪四頭がいた。又石馬三疋、石殿三間、石倉二間があった。継体天皇の時代、筑紫君磐井が反乱を起こす前にこの墓を作っておいた。天皇の軍に追い詰めらて岩井は豊前国上膳県に遁れ南の山で死んだ。天皇軍は生け捕りにできなかったことを怒り、その墓を破壊したという。上膳県に多く病があるのはこのたたりだという。
    ●  三毛郡: (「釈日本紀」より) (筑後国風土記にいう) 昔、棟木(あうち)が一本郡家の南にあった。その高さ970丈であった。朝日の影は肥前国藤津郡の峰を覆い、夕暮れの影は肥後国山鹿郡荒爪の山を覆った。故に御木国という。後訛って三毛という。

□ 豊前国
    ●  鹿春郷: (「宇佐宮託宣集」より) (豊前国風土記にいう) 田河郡(今の福岡県田川郡香春町)鹿春郷に河あった。鮎が採れる。その源は郡の東北の杉坂山より出て、西に流れ真漏河に合流する。せせらぎが清いので清河原村と名付けた。今、鹿春(かはる)里というのは訛ったのである。昔、新羅の神が天下ってこの地に来て河原に住み着いた。鹿春神という。北に山があり、頂上には沼がある。
    ●  鏡山: (「万葉集註釈」より) (豊前国風土記にいう) 田河郡鏡山、昔、神功皇后がこの山から国見をしていった。「天の神、地の神も私のために幸を給え」と、鏡を置いて祈った。その鏡はたちまち石になって山にある。故に鏡山という。
    ●  広幡八幡大神: (諸社根元記」より) (ある書に曰) 菱形山広瀬八幡の大神(宇佐八幡)が郡家の東、馬城の頂に居ます。神亀4年、神の宮を作り奉る。因って広瀬八幡の大神の宮と名付けた。
    ●  宮処郡: (中臣祓気吹抄」より) (豊前国風土記にいう) 昔、天孫ここから日向の旧都に天下った。この地は天照大神の都であった。

□ 豊後国
    ●  氷室: (「塵袋」より) (記にいう) 豊後国速見郡に温泉がある。そこには四つの湯があった。珠灘の湯、等峙の湯、宝膩の湯、大湯という。その湯の東に自然の氷室がある。岩室の門は方一丈ばかり、縦横四丈である。
    ●  餅の的: (「塵袋」より) (記にいう) この記事は本書豊後国風土記総記の記事に同じなので省略する。

□ 肥前国
    ●  領巾揺岑: (「万葉集註釈」より) (肥前国風土記にいう) 松浦県の東6里に領巾揺(ひれふり)岑があって、頂に沼がある。昔、宣化天皇の時代、大伴紗手比古を派遣して任那国を平定した。この岡を通過した時、篠原村に乙等比売という娘がいた。紗手比古はこの娘に恋をして結ばれた。翌日別れるとき娘はこの峯に登って領巾を振った故にこの名が付いた。
    ●  鏡の渡り: (「和歌童蒙抄」より) (肥前国風土記にいう) 前の領巾揺岑の記事に全く同じ。
    ●  杵嶋山: (「万葉集註釈」より) 杵島郡の南2里に一つの山があった。この山から、南西の方向から東北の方向に3つの連峰が見えた。杵島という。坤に比古神、中に比売神、艮に御子神という。郷の男女はいい季節になると、手を取って山に登り宴をした。歌一首を添える。
    ●  与止姫神: (「神名帳頭註」より) (風土記にいう) 第30代欽明天皇の25年、肥前国佐嘉郡に与止(よど)姫の神が鎮座された。豊姫、淀姫という。

□ 肥後国
    ●  肥後国: (「釈日本紀」より) (肥後国風土記にいう) 肥前国風土記総記と全く同じ記事なので省略する。
    ●  迩陪魚: (「釈日本紀」より) (肥後国風土記にいう) 玉名郡長渚浜、昔、景行天皇が熊襲を討伐して帰る御船がこの浜に泊まった。船に多くの魚が寄って来たので、吉備国の朝勝見が釣りをして天皇に献じた。天皇に魚の名を問われたが知らなかったので、天皇は「多くいることを尓倍佐尓(にべさに)という。この魚は尓倍魚と呼ぶ」と言われた。
    ●  阿蘇郡: (「阿蘇家文書」より) (肥後国風土記にいう) 昔、景行天皇が玉名郡長渚浜を立って、この地を巡って国見をなされた。野原が広くて人が見えなかったが、二人の神が現れた。阿蘇都彦と阿蘇都媛が「ここにいる」というので、阿蘇郡と名付けた。
    ●  阿宗岳: (「釈日本紀」より) (筑紫国風土記にいう) 肥後国閼宗(あそ)県の西南20余里に禿山があった。頂きに霊感の沼があった。石壁が垣を為し、白緑の淵があった。波は五色、水には毒があった。名付けて苦水という。岳が中央に聳えて4つの県を含む。諸々の川の源が流れだした。故に中岳と呼び、閼宗の神宮となった。
    ●  水嶋: (「万葉集註釈」より) (風土記にいう) 球磨県の乾の方七里に海中に嶋があった。周囲70里、なずけて水嶋という。寒水を出す。

□ 日向国
    ●  日向国: (「釈日本紀」より) (日向国風土記にいう) 景行天皇、児湯(こゆ)郡丹裳の小野に遊行され、次のように言われた。「この国は東海の扶桑(ひいずるかた)に向かっている。、日向と呼ぶべし」
    ●  吐濃峯: (「塵袋」より) (かの国の記にいう) 児湯(こゆ)郡吐濃峯に吐乃の大明神がおられる。昔、神功皇后が新羅を討って、この神を招来し、船の舳を守らせた。韓国より帰還され韜馬(うしか)峰で弓を射ると、土の中から黒い頭をした男女が出てきて祝い部として仕えた。子孫は繁栄したが、疫病が蔓延して死に失せた。これは神人を国役に使ったので吐乃の大明神が怒られたからである。 
    ●  知鋪郡: (「釈日本紀」より) (日向国風土記にいう) 臼杵郡知鋪(ちほ)郷(宮崎県臼杵郡高千穂町)、瓊瓊杵尊が天より高千穂の二上山に降臨された。その時天暗く昼夜の区別もないほどであった。大鉗・小鉗という土蜘蛛が現れ、皇孫命が稲の千穂を抜いて揉んで籾として周囲に投げ散らすと明るくなるといった。故に千穂となずける。
    ●  高日山: (「釈日本紀」より) (日向国風土記にいう) 宮崎郡高日村、瓊瓊杵尊が天降って剣の柄をこの地においた。故に剣柄(高日)村と呼んだ。多加比ともいう。
    ●  韓栗生村: (「塵袋」より) (風土記にいう) くしぶの木が多かった故に栗生村と呼ぶ。くしぶの木ではなく小栗の木が多い地という。昔、かさむ別という人、韓の国に渡ってこの木を持ち帰り植えたという。

□ 大隅国
    ●  必志里: (「万葉集註釈」より) (大隅国風土記にいう) 昔、この村の中に海の州(ひし)があった。故に必志里と呼ぶ。
    ●  串卜郷: (「万葉集註釈」より) (大隅国風土記にいう) 昔、国を作った神は、人を派遣してこの村の様子を探らせた。「髪梳(くしら)の神あり」との報告があったので、故に久西良の郷と呼んだ。今は串卜郷という。
    ●  耆小神: (「塵袋」より) (風土記にいう) シラミの子を「きさし」という。沙虱の訓を耆小神(きさしむ)という。
    ●  醸酒: (「塵袋」より) (風土記にいう) 大隅の国には、村の男女を集めて米をかみ、酒船に入れさせる。酒の香りが出てくると、また集まってこれを飲む。なずけてくちかみの酒という。

□ 薩摩国
    ●  竹屋村: (「塵袋」より) (風土記にいう) 皇祖瓊瓊杵尊が日向国知鋪(ちほ)郷栗生山に降臨されてから、薩摩国閼駝(あた)郡の竹屋村に移られた。この村土着の竹屋守の女に二人の子を産ませた。竹を刀にして臍の緒を切ったという。

□ 壱岐国
    ●  鯨伏郷: (「万葉集註釈」より) (大隅国風土記にいう) 昔、熊鰐(海神)が鯨を追うと鯨は島陰に隠れた。故に鯨伏(いさふし)郷という。ワニも鯨も石に化した。一里を隔てて在る。俗に鯨を伊佐(いさ)という。
    ●  朴樹: (「塵袋」より) (壱岐の島の記にいう) 常世の社に朴の木(えのき)があった。鹿の角のような枝があった。


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