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文藝散歩 

三浦祐之 著 「風土記の世界」
岩波新書 (2016年4月)

8世紀初め編纂された地理志(奈良時代の国状調査)

古事記、日本書紀、万葉集と並んで日本の古代を知る貴重な書物でありながら、「風土記」は系統的な史書や歌集と違って、あまり言及されることが少ないようである。風土記はそれぞれの国で編まれて中央律令政府に提出された書物であるが、今は5か国の風土記と後世の書物に引用されて伝わる「逸文」が遺るに過ぎない。記録されているのは、土地で語られた神話や土地の言われ、天皇たちの巡行、土地の動植物、耕作地の肥沃状態などである。雑多でストーリー性に乏しいことから、退屈で体系的に理解できないなど不満が多い書物であるが、それなりに面白い表現もあって興味は尽きないと著者三浦氏は言われる。「風土記」とは8世紀初頭に地方の国々が中央律令政府に提出した報告文書で、正式には「解」と呼ばれる。「読日本紀」によると、平城京へ遷都が行われて3年目の713年(和銅6年)に中央律令政府(奈良王朝)が風土記の撰録の命令を出した。報告すべき内容は@郡や郷の名前を付ける、A特産品の目録を作成する、B土地の肥沃度を記録する、C山川原野の名前の由来を記す、D古老が相伝する旧聞遺事を載せる の5項目であった。この命令には「風土記」という名はない。本来は律令政府が下級官庁に出す通達は「符」、地方が中央へ提出する報告書は「解」と呼ばれる。常陸国風土記の冒頭には「常陸国司解」と書かれている。権力簒奪に明け暮れた飛鳥王朝(ヤマト王権)以来、7世紀初頭推古天皇(聖徳太子摂政)の斑鳩王朝が初めて歴史意識を持って律令国家に整備されてゆく過程で、日本書紀や風土記は必要不可欠のことであった。当時の東アジア情勢は中国大陸で隋という強大な王朝が生まれ、唐に受け継がれ、新羅が朝鮮半島を統一した。島国の豪族連合から、唐に倣った中央集権的な統治機構を持つ国家に生まれ変わるため、それに必要な法整備を輸入した。当時の日本はある意味で周辺国家の国際色豊かな国であり、ネイティブな中国人や朝鮮人が活躍していた時代である。現実的な法整備の他に、イデーとしての史書、経済としての貨幣、政治中心としての都と地方、それを繋ぐ官僚機構、意思伝達のための言語(漢字)が次々に導入された。律令国家への整備において、法と史は車の両輪のように企画されてゆく。刑罰(律)を伴う強制力を持つ法(令)がまず機能しなければならいが、自分が国家に所属し国家によって守られているという幻想(宗教・共感など)を抱くことで国家は安泰となる。それは国家の歴史である。689年律を持たない飛鳥浄御原令を受けついで、大宝律令ができたのは701年であった。こうして名実ともに律令国家が成立した。その後大宝律令を補う形で養老律令の選定作業が718年から行われ、藤原不比等の死後722年に完成した。律令編纂事業と並行して行われたのが720年に騒擾された正史「日本書紀」である。続日本紀にはこの正史を「日本紀」と呼び系図が存在したらしい。お手本の中国では「漢書」以降の正史は、紀(本紀)・志・列伝の3部からなり、署名は「・・書」とよぶ紀伝体の形式が一般的である。正史を簡略化した歴史書を「・・紀」と呼ぶが、日本「書紀」という書名はない。従って何らかの理由で志・列伝を欠いたまま編纂事業が中断して本紀のみが残された簡略形式となって、「日本書紀」という呼び方が定着したと思われる。後代の書は紀を受け継いでいるので、「続日本紀」、「日本後紀」、「続日本後紀」と継続された。では志や列伝は編纂されなかったのだろうか。古くは推古天皇の時代に「憲法17条」が604年、「本紀」が620年に編まれたとされるが、事実かどうかは別にしてこの頃に歴史書の編纂が始まったようだ。古代律令国家の起源が聖徳太子にあり、それが645年乙巳の変を経て中大兄皇子(天智天皇)に受け継がれたという歴史認識が存在した様だ。つぎに672年壬申の乱をへて大海人皇子(天武天皇)に律令国家体制は引き継がれた。日本書紀によると681年天武天皇は帝紀及び上古の諸事を編纂を命じた。自らの帝位を正統化するためである。その成果が大宝律令と日本書紀であった。そこに古代国家は完成した。日本書紀は紀しか存在しないのだから未完の史書である。列伝は全く存在しなかったのかというと、その痕跡となる材料は存在したというべきであろう。「十八の氏の祖の墓記」、「懐風藻」、「日本武尊」、聖徳太子の伝「上宮正徳法王帝説」、藤氏家伝の「大織冠伝」、神仙小説「浦島子伝」などは列伝を思わせる。「列伝」は皇子や臣下の事蹟の集積である。「志」は王朝の治世の記録である。史や列伝が縦軸の時間だとすると、志は横軸の空間であろう。例えば「漢書」は十志からなる。律暦、礼楽、刑法、食貨、郊祀、天文、五行、地理、芸文であった。地方に関する地誌的な記録の収集作業は日本書紀にも見られる。諸国に向けて発せられた史籍の編纂命令は間違いなく「志」の一部として「日本書」地理志が目的であった。しかし何らかの事情で日本書の構想がとん挫し、上申された「解」のいくつかは「風土記」という名前を与えられて後世に残ることになった。いまひとつ「記紀」という形で残っている「日本書紀」と「古事記」のペアーの謎は深まるばかりである。正史は「日本書紀」で、中国の臣下の形をとる隷属国家日本の表の歴史書は中国へ差し出されたという説がある。それに対して712年に編まれた「古事記」は天武天皇の内なる歴史書で実はこうだったという歴史書であるという。二書は矛盾しており、真偽のほどは分らないが、本書の著者三浦氏も何も言っていない。謎のままである。

現在遺された風土記には、欠損はあるもののほぼ全容がわかる五ヶ国と、後世の文献に引用されて散逸を免れた風土記の断片群(逸文)とがある。その内容や構成、趣がバラバラなところが風土記の面白さである。713年に官命(官符)は機内七道に向けて発せられた。官符が出た時点で存在した諸国とは六一か国と三島である。現在まとまった形で遺る風土記は、常陸、出雲、播磨、豊後、備前の五か国である。逸文には古風土記の残簡とするには疑わしいものも多く、確かなところはおよそ30−40か国ではないだろうか。五か国の風土記は別の章にその内容を述べるが、五か国の風土記と逸文の概略をまとめておこう。
@ 常陸国風土記: 常陸国風土記は「常陸国の国司の解 古老の相伝ふる旧聞を申す事」という標題から始まっている。5ヶ国の風土記の中の模範解答であろうか。巻頭に常陸国の全体を紹介する「総記」が書かれ、後は新治郡から反時計回りに筑波、信太、、茨城、行方、鹿島、那賀、久慈、多珂という順で記述される。筑波の北にある白壁(今の真壁)、南の河内(今の水海道)が省略されている。ただ途中にいくつも「以下略す」という書き込みががあり、かなり地誌的な部分が省略された写本(ほとんどが江戸時代の写本である)しか残っていなかった。その代わり物語的な性格が強い読み物が残った。撰録者は国守が責任者であるが、国司層が各地の豪族からのヒアリングあるいは提出文書を整理し執筆したようである。執筆場所は国府で行われた。「郡里制」の行政組織は715年に「郡郷制」が施行された。常陸国の行政府の表記は「里」制で統一されているので、風土記の提出は713年から717年あたりと推測される。その当時の常陸国守は708年に任命された安部狛朝臣秋麿か714年に任命された石川朝臣難波麻呂のどちらかでるという。撰録者に異論があって、鹿島に縁が深い中臣氏(藤原家)の藤原宇合が719年に常陸国守に任命されている。常陸国風土記は見事な漢文を駆使しており、遣唐使から帰ったばかりの宇合が精査した可能性が高い。そして歌人高橋朝臣虫麻呂が常陸国に同行したかもしれない。ここで問題は日本書紀が成立する720年以前か後かということである。安部狛朝臣秋麿か石川朝臣難波麻呂が撰録したとすると日本書記以前にできたことになる。律令制の正史日本書記の前にできたからこそ、「倭武天皇」という表現が通ったのであると著者は考えた。
A 出雲国風土記: 出雲国風土記はその成立と撰録者がはっきりと記された唯一の作品である。出雲の国はヤマト王権との関係が密接なため、かなり神経を使って政治的な潤色が施された神話的・宗教的に特別な性格を持たされている。従って何回も中央との往復(駆け引き)があったため、編纂命令から提出に20年もかかっている。巻末に「733年(天平5年)2月30日勘へ造る ・・・国造にして大領を帯びたる・・出雲臣広嶋」という記載がある。直接筆を執ったのは神宅臣金太理で724年「出雲の国造神賀詞」の作者でもある。広嶋は責任者である。郡ごとの撰録者が明示されている。これらのことから出雲国風土記の成立ははっきりしている。中央政府の命令である官符は朝廷の出先機関である国庁(国守)に向けて出されたもので、撰録は中央から派遣された国司レベルで行われはずである。それが、出雲国風土記では郡司層が記録し、国造が責任者になっていることが問題であろう。それは後で検討するとして、全体は巻頭に総記をおき、国府のある意宇群から反時計回りに、嶋根、秋鹿、楯縫、出雲、神戸、飯石、仁多、大原の順に記事を述べて巻末を記すという体裁が整っている。省略や脱落もなく完全な形で遺っている。内容は土地の肥沃度を除いて他の4項目が記されている。地誌的な記載が主である。また出雲の国風土記は、ほかの風土記と違って天皇が登場する伝承を一つも伝えていない。同じようにヤマト(大和、倭)という言葉もない。出雲風土記はあたかも出雲の独自の視線で書かれているようである。「国引き詞章」は、八束水臣津野命が鎮座した「意宇の森」を定点として、島根半島を西から東に引き寄せる構造を持つ。それは出雲国が王権的な国として存在し、ヤマトを中心とした律令国家の視点は見いだせない。その2重性の中に出雲国が存在するのである。しかしヤマト政権に完全に背を向けていられるかというと、古事記に記された出雲神話が出雲国風土記には語られていないことがあげられる。そのその古事記は国家の歴史書ではなかったのであろう。とはいえ出雲国風土記にも郡の並べ方に日本書記的な「七道」の律令国家の論理は現れている。
B 播磨国風土記: 播磨国風土記は平安時代末頃に書き写された写本が伝えられる。巻頭の明石郡が欠落し、時計回りに賀古、印南、飾磨、揖保、讃容、宍禾、神前、託賀、賀毛、美嚢の順である。西端の赤穂郡はない。巻末や奥付はなく、成立年や撰録者もわからない。播磨風土記の記事が郡里制に基づいているので、常陸国風土記と同じく713−717年の間に位置づけられる。他の文献にもその期の国守の名は分からない。民間伝承として語られる地名起源話が多く採録され、ヤマトの天皇ではホムチワケ(応神天皇)の伝承が多い、笑い話のような滑稽譚が存在すること、出雲神話の神(オホムナジ)がしばしば登場する子t、土地の肥沃度の記述が細かいことなどの特徴を持っている。
C 豊後国風土記・肥前国風土記: 西海道の風土記として豊後国(大分県)風土記と肥前国(佐賀県と長崎県)風土記が遺されている。いずれも抄出本で完全ではない。西海道の風土記である豊後国風土記と肥前国風土記を「甲類風土記」と呼ぶ「郷里」制に基づいて記述されており日本書紀の引用が散見されるので、成立は720年以降である。共通の表記が見られるので、大宰府で最終的な撰録がなされたようである。筑紫国(九州全体を指す)風土記を「乙類風土記」と呼ぶ。甲乙どちらが古いかは諸説紛々で判別できない。日本書紀の九州関係の記事にはオキナガシタラシヒメ(神功皇后)やオホタラシヒコ(景行天皇)の遠征に関わる記事が日本書紀時のものか、共通の祖伝が存在するのかよくわからないところである。
D 逸文風土記: 後世の文献に引用されて遺った諸国の風土記の記事を「逸文風土記」と呼ぶ。713年の官命によってできた風土記の記事もあるが、それとは別の時代に書かれた記事も風土記と言って拾われたりするので、判断の難しい資料が多い。例えば「浦島子」という伝記小説(丹後国風土記逸文)や、天女系伝承(近江子国風土記逸文、丹後国風土記逸文)など、文学史的な興味は尽きない。
常陸国風土記に「常陸国の国司の解 古老の相伝ふる旧聞を申す事」と始まる。報告すべき内容は@郡や郷の名前を付ける、A特産品の目録を作成する、B土地の肥沃度を記録する、C山川原野の名前の由来を記す、D古老が相伝する旧聞遺事を載せる の5項目である。現存風土記が最も重きを置いているのが「古老相伝旧聞異事」である。国家や王権に隷従する「語り部」や、共同体から外れた「ホカヒビト」(乞食者)まど専門的な語りの集団に対して、村落共同体の伝承の担い手が「古老」である。共同体に相伝される「旧聞異事」を律令国家が要求したのは、諸国を地方都市て律令国家に組み込もうとしたからである。諸国がそれらを「解」として報告することは服従の証であった。今日でいう「東京と地方」の関係である。共同体の外、外と接する存在、疎まれる存在である。疎外と搾取、外部化である。古代における語りは「ホカヒビト」という専門家集団であった。古事記の序にある稗田阿礼は王権の語り部である。天皇家とは別に存在した各地の王権がヤマトに服従していった歴史と関わって伝承された。その次第を諸国の語り部が、天皇の即位儀礼の中で語った。「出雲の国造神賀詞」がその例である。王権の維持装置である語り部は同時に呪力(シャーマン性)を帯びる。

1) 常陸国風土記

713年「日本書」地理志を編むための基礎資料取集を目的として諸国に命じられた風土記であったが、志そのものが編まれることはなく、列伝も含めて「日本書」の構想はいつの間にやら消失した。残ったのは「日本書」紀だけである。天皇の事蹟のみを叙述する「紀」の編集だけが後世に受け継がれて「六国史」と呼ばれる正史が編まれることになった。その結果諸国から提出された「解」または諸国におかれた副本が遺された。まともな形で遺ったのは五か国の風土記だけである。常陸国風土記で興味深い伝承は「倭武天皇」という、正史「日本書」紀にも、古事記にも出てこない天皇の伝承である。古事記では「倭建命」、日本書紀では日本武尊と表記される英雄である。常陸国風土記では「倭武天皇」という表記は十数例を数えるが、信太、茨城、行方、鹿島、久慈、多珂に集中的に伝えられる。倭武天皇の伝承は、他愛ない地名の言われ(語呂合わせ)で風土記ではありふれた内容である。たしかに倭建命がそこへ行ったかどうかを確証する記録は、古事記にも日本書紀に関連する話は一つもない。そして大橘比売が倭武命と共に旅をするというのが、倭武天皇伝承の定番となった。古事記や日本書紀にはオトタチバナヒメが走水(浦賀水道)で遭難したとき、ヒメが入水して海神を鎮めたという悲劇が語られるが、そういった悲劇性は常陸国風土記にはなく、穏かな夫婦の旅という印象しかない。この后との巡行伝承を含めていくつかの類型がある。井戸掘りの話がそれである。後の弘法大師伝説に通じる農耕民のための灌漑池作りである。また倭武天皇には征服者として殺戮伝承の話が多い。佐伯(土蜘蛛、服従しない土着豪族)の討伐譚などはどの天皇であっても良いわけであるが、地方地方でゆかりの天皇が選択されている。常陸では倭武天皇、播磨風土記では品太天皇、九州では大足彦天皇(景行天皇)によって語られることが多い。風土記の伝承は原稿を国司クラスがチェックしているはずで、中央の正史とあからさまに違う話を載せられるわけがない。撰録した国司層においても「倭武」なる人物は天皇として認識されていたと見なした方がよさそうだ。「倭武」は決して漢風諡号(8世紀後半に実施 仁徳、天武など)ではなく、ヤマトタケルの宛て漢字である。しかもヤマトが日本ではなく蔑称である「倭」であることから風土記の古層性が認められる。一般に「天皇」号の使用は7世紀前半の推古朝から始まるとされるが、「日本」号の使用は7世紀終わりごろだとされる。阿波国風土記(逸文)の勝間井の冷水に「倭健天皇命」がみられる。常陸国風土記だけの特異性でもなさそうである。常陸国風土記の撰録時には日本書紀はまだ存在しなかった。720年の日本書紀成立以降に編まれたと考えられる九州風土記や出雲国風土記とは違うところである。次に、「倭健天皇命」なんてあり得るのかどうか、天皇位の継承について考えてみよう。初代カムヤマトイワレヒコから第9代ワカヤマトイワレビコ(開化天皇)まではその実在性は完全に否定されている。古い系譜ほど単純な直系になり易いのは日本に限ったことではなく、どの王権でも共通することであろう。第10代ミマキイリヒコ(崇神天皇)から第11代イクメイリビコ(垂仁天皇)、第12代オホタラシヒ(景行天皇)に至る天皇の実在性は概ね承認されている。事蹟のはっきりしない第13代ワカタラシヒ(成務天皇)が位を継ぐなら、異母兄弟であり第14代タラシナカツヒコの父であるヲウス(ヤマトタケル)が天皇位を継いだほうが分かりやすい。古事記でいえばここに見られる第13代ワカタラシヒコー第14代タラシナカツヒコの部分だけが父子継承をとらない。遠征中に病没したワカタラシヒコに子がいなかったので直系にならず、ヤマトタケル系統に天皇位が受け継がれたとみる見方もある。古事記ではヤマトタケルの物語の後で、ヤマトタケルの妃や子供たちの系譜が詳細に語られる。こうした長々しい婚姻系譜が伝えられるのは天皇以外では例外的である。ここに征服の英雄ヤマトタケルは一人の天皇として存在した可能性が大きいという学者もいる。5世紀中葉以降の武力を背景とした王権が専制国家体制を作って行く歴史を反映しているのであろう。ところで古事記のヤマトタケル伝承では常陸国は全く出てこない。日本書紀でも同じである。通過点としてしか存在していない。遠征の帰途ヤマトタケルは伊勢の能煩野で病没し、白鳥となって都めざして飛んで行った後のヤマトタケルは悲劇の皇子としての物語が定着するまで、常陸国においては遠征中のヤマトタケルが生き続けていたのであった。さらのヤマトタケルの子のタラシナカツヒコ(仲哀天皇)の后であるオキナガシタラシヒメは朝鮮半島に遠征した女帝として有名であるが、日本書紀では即位したとは記されていないが、常陸風土記では「天皇」と記されている。日本書紀が成立する720年まではヤマトタケルもオキナガシタラシヒメも天皇であった。古事記のヤマトタケルと日本書紀の日本武尊は8世紀を境にして、天皇ではなく若き勇者として病没する主人公に代わっていた。日本武尊のほうが国家が理想とする遠征将軍あるいは皇太子像としての性格を持たされた。つまり「武」から「文」の時代に代わる律令体制下での、邪魔にしかならない軍人像となった。親子兄弟が血で血を洗う権力争奪戦はもうこりごりとする藤原官僚一族の時代になっていた。7世紀から8世紀初頭へ、律令国家の歴史叙述が繰り返し変わり、皇位継承の順序や継承者の顔ぶれは何度も揺れ動いた。その中で常陸国風土記の倭武天皇はおり、古事記の倭建命がおり、日本書紀の日本武尊がいた。

常陸国風土記は物語性が豊かに残されている。中でも行方郡の「夜刀の神」をめぐる征服と服従(中央と地方)の関係を見てゆこう。前半が石村の玉穂の宮の天皇(継体天皇 6世紀前半)の話と、後半は難波長柄の豊前の宮の天皇(孝徳天皇 7世紀中頃)の話からなる。ヲホド(継体)と呼ばれる天皇は古事記によるとホムダワケ(応神天皇)の5世の孫として越の国より突然あらわれ、河内王朝の末裔であるオケ(仁賢天皇)の皇女に婿入りし天皇の系譜に加わる奇妙な存在であり、歴史学では王朝交替説が論じられる。しかしヲホド以降の天皇の系譜は天智・天武を経て8世紀初頭の天皇へ途切れなく継がれているので、今の天皇系譜の始祖天皇である。話の後半の孝徳天皇は645年の乙巳の変(大化の改新)の直後に即位した天皇で、律令制度を基礎とした国家秩序の始まりを象徴する天皇である。「夜刀の神」伝承が150年も離れた二つの時代に渡って語られる。前半の話は麻多智が水田開発を行う前に対峙する「自然=水神」として夜刀の神(ヤマタノオロチ 蛇)として現れ、自然と人間の境界を分けて祀ることで共存共栄を図る話である。後半の話は村落的な王権を絡めとるようにして国家がかぶさってくる。朝廷から派遣された地方の権力者壬生連麿が抗う村の共同体を殺し尽す征伐の話である。後半の話に出てくる「築池」とは、中央天皇が為すべき仕事にインフラの整備(すなわち農耕社会では道路、灌漑池、堤防)は「文化」を象徴する事業であった。こうした治水事業は、神の側に委ねていた水が、国家の管理へと移り行く過程を象徴している。常陸国はヤマトの領域の東の果てにある外界で、古代国家にとって境界領域として位置づけられる。常陸国の東端に武神タケミカズチを祀る鹿島神社が鎮座する。おなじく国譲り神話で功績のあったフツヌシを祀る下総国の香取神社が鹿島神社と対をなして存在する。その境界は律令国家が東北へ伸びてゆくにつれて坂上田村麻呂の平安時代初期まで移動し続けるのである。
常陸風土記には若い男女ので会う恋の場として「歌垣」が登場する。筑波山を舞台とした伝承が有名である。鹿島の海岸での歌垣「童子女(うない)の松原」を紹介する。那賀の寒田の郎子と海上の安是の嬢子の恋物語ー松に変身する譚である。この文章が漢文として秀麗で、四六駢儷体形式で叙述されている。急に江戸趣味の美文調となっていることに驚かれるでしょう。694年那賀郡の五里と下総国の海上郡の一里を分割して新たに鹿島郡が建てられた。行政の変更として来歴と常陸国と下総国を越える恋物語として語られた。通婚圏を越える別の世界に住む男女の恋は古代の婚姻形式からするとタブーである。婚姻は財産や土地の移動を伴うからである。村落共同体の同意がないとできない相談だったのである。文学的には夜明けに松に変身したことは、メタモルフォーゼ(変身)という物語のパターンである。あるいは人間に変身した松の木の精の恋物語かもしれない。この伝承は聴く人の想像力を刺激する魅力的な話となった。常陸国風土記には口頭で伝えられた民間伝承の話が多く遺っている。筑波山の神の祝福(外者歓待譚)、鹿島郡に残る完成しない石垣を作る白鳥の話、角のある蛇が穴を掘って角が折れる話、那賀郡の巨大な男の貝塚に話(大櫛の岡)、那賀郡茨城里の神婚神話と蛇の子の話、久慈郡の祟りを為す神を山に移す話(賀比礼の峯)など常陸国風土記はさまざまな伝承を満載している。

2) 出雲国風土記

古代の日本の国家像の根源に関連する国譲り神話を載せる出雲国風土記には政治的な臭いが濃厚であるが、風土記の範囲では厚いベールに覆われていかんともしようがない。そこで出雲国と古代国家の関係を論じた一つの著作を紹介する。村井康彦著「出雲と大和」(岩波新書 2013)がそれである。出雲王国の考古学遺跡から始まって邪馬台国の建設、大和王朝へ国譲り、出雲国造と風土記の関係を論じる見通しのいい学説である。その説の真偽のほどは私は云々できないが傾聴に値すると思う。そこで出雲国造と風土記の関係だけを抜き書きする。『古事記では出雲神話が1/3を占め、その大部分は大国主神を主人公としている。ところが日本書紀では出雲神話は取り上げないで、一書に云うとして、大国主神の「国作り」と「国譲り」だけを記述している。今日まで出雲大社(杵築)の神官として続いている出雲国造は「天穂日命」を祖とする。大国主神を語り継ぐため存在する語り部である。平城京706年に、時の国造出雲臣が意宇郡の大領(郡司)に任じられた。当然国司の下にある組織の長であったが、出雲大社が経済的基盤を得たのである。中世において大社寺が寺領となる荘園を得たのとおなじで、社屋の改築修繕及び祭祀費用のためというが、土地支配権を得た意味は大きい。798年に意宇郡の大領を解かれるまで92年間領主であった。713年風土記編纂の詔が出て733年「出雲風土記」が完成した。その中心となったのは意宇郡郡司出雲国造の果安と広嶋の親子二代であった。本来統括者は国司であるのだが、出雲風土記だけは郡司出雲国造が統括した。当然風土記は大国主神を中心とする出雲世界の歴史を描くことが目的であった。風土記編纂の過程で、古事記(712年)、日本書紀(720年)が完成しているので、各地の豪族は天皇家との位置距離関係の記述に心血を注いだに違いない。記紀と連動して風土記は 編纂されていった。風土記編纂の過程で716年出雲国造果安は平城京の朝廷に「神賀詞奏上」(かむよごと)が行なわれた。これは服従の儀礼というよりは、出雲の国としての誇りをぎりぎりのところで主張する内容となっていた。「神賀詞奏上」は出雲国造家ー国守忌部氏ー中央の中臣氏の連携プレーによる一大イベントであった。最大の眼目は大国主神の口を通じて語られる4つの守り神(大神、葛城高鴨の神、伽夜流神、宇奈堤の神)を「皇孫の命の近き守神」としておいたことである。そして意宇郡の熊野大社を大国主神のミケ(食事)の神に置いた。伊勢神宮は天照大神を内宮とし、ミケの神として外宮に豊受大神を配するのと同じ構造である。「神賀詞奏上」は8世紀の国造出雲の意宇郡の大領時代の約100年に10回奏上された。これが出雲国造の全盛時代といえる。出雲風土記の記述と地名から大国主神の拠点は斐伊川流域の来次あたりと思われる。大国主神の事蹟と地名の関係が述べられる。詳細は省略するが地名はやたらおろそかに付けられた物ではない。日本書紀斉明天皇659年の記に出雲神の宮を修築したとあることから、磐座祭祀から社殿祭祀に変わるので出雲大社創建の日の確定は難しいが、659年以前としか言いようがない。大和朝廷の天皇家に不幸があるたびに、それは出雲の神を祭らないためであるとされ、斉明天皇の「物言わぬ皇子」が出来た時代こそ出雲大社の本格的な建築が行なわれたと見ていいだろうか。8世紀末には奈良の都は長岡京へ遷都され、平安京の時代となった。平安の都の守護神は出雲系の上賀茂神社となったが、出雲系の神の変遷も著しく新しい時代の幕開けであった。』  出雲国風土記は成立年と撰録者がはっきりした現存唯一の風土記である。それにしても編纂命令713年から20年も経て報告をする(733年)という事は、中央王朝も忘れてしまった頃に「解」を提出することになり、時効を過ぎてから確信犯が自首するようなもので、これを「解」として中央王朝が受け取ったかどうか極めて怪しい。参考程度において行けといわれてお倉に入った書類、そこがねらい目であったかもしれない。誰も読まないだろうが、蔵におかれた書類はいつか日の目を見ることもあろうと考えた出雲国の執念みたいなものが感じられる。本来国守の署名があってしかるべき場所に出雲国造の名があり、あるいは公式の解ではなく出雲国造側の内部資料として隠しおかれたと見ることもできる。あるいは中央に提出したが何度も何度も書き直しが要求され、20年もかかったと見ることもできる。出雲国に在っては国守の統治機能が国全土に及ばず、国造ー郡司ラインで政治的なレベルまで担われていたという可能性もある。続日本紀をみると国守は任命されており、形式的な不備はなかった。日本書紀の記述を前提とする九州の風土記もあり、720年以降の提出もあながち不自然ではないとする説がある。「日本書」を編む奈良王朝の意志がいつまで持続したかによって解の提出限界が決まる。従って出雲国造が責任者として署名した風土記は正式な解ではなく、私撰本として秘蔵された書物と言えるのではないかと著者は考えてるようだ。この複雑な権力関係を解きほぐすにはまず出雲国の特殊性を考えなければならない。

出雲国だけは律令制下において、土着豪族による国造制度が遺り続け、中央から派遣された国司との二重統治性が敷かれるという、極めて特異な国であった。(中世における荘園制度と同じで、国司と地頭の関係である) なぜ出雲国造だけが存在したのかというと、やはり国譲り神話に語られるネジレタ出雲の服従が基調にあるからだ。(約1500年後の米軍直接支配と日本政府間接支配という日本の戦後体制にもそのネジレタ構造が見られる) 古事記と日本書紀に語られる出雲国と大和政権との神話的な関係は大きく違っているが、出雲の大神オオムナジ(オオクニヌシ)はヤマトにとって律令制下において無視できない存在であった。出雲臣の祖神はアメノホヒとその子のタケヒナトリと言われる。古事記にはアメノホヒ子のタケヒラトリは5人の子を産み、出雲・ムザシ・上兎上・下兎上・イジム・遠江の国造と津島県直の祖となったと書かれている。出雲臣は出雲出身の豪族であるが、国つ神を祖とするのではなく天つ神の子孫であるという。アメノホヒはスサノヲとアマテラスの子の一人であったとされる。日本書紀も古事記も、出雲を支配したアメノホヒがオオクニヌシ(オオナムジ)に媚びて3年間天つ国に報告しなかった、つまり土着化してしまったとしている。アメノホヒがなぜ出雲臣の始祖になったのか。天つ国(ヤマト政権)から派遣された支配者を出雲臣が始祖とするのか。彼らはヤマトに服従した一族であるからだ。いやむしろヤマト政権をバックにして出雲国を統一したというべきかもしれない。そういう意味で出雲臣は最後まで天皇ヤマト政権に抗い続けた誇り高い一族だったのかもしれない。するとアメノホヒは最初から出雲臣の始祖ではなく、オオムナジ、ヤツカミズオミツノを始祖としたかもしれない。そこで日本書紀や古事記の国譲り神話と延喜式にある「出雲国造神賀詞」の服従誓詞を比較して検証しよう。「出雲国造神賀詞」の最大の狙いは、大国主神の口を通じて語られる4つの守り神(大神、葛城高鴨の神、伽夜流神、宇奈堤の神)を「皇孫の命の近き守神」としておいたことである。高天原のタカミムスビノミコトから命を受けて服従しない出雲の地に派遣された将軍アメノホヒとその子のタケヒナトリは大国主命を平定した。屈辱的な日本書紀の平定神話を経由せず、出雲国はヤマト政権のアメノホヒが作った国であるとした点がみそである。ヤマト政権が大国主の出雲を征服する構図が、意宇の出雲臣であるアメノホヒが出雲の国造りをする構図にすり替えられたのである。そこから出雲国の統一と国作りが始まるのである。国造の拠点は意宇郡にあった。つまり出雲の東端から西の豪族を併合していったというストーリーである。西部の豪族の拠点は、出雲大社が鎮座する出雲郡と神門郡がその中心であった。日本書紀につたられるミマキイリヒコ(崇仁天皇)60年の記事が出雲国の神宝をめぐる出雲豪族の内紛を伝えている。出雲の地には東の意宇を中心にした勢力と西の神門を中心にした勢力があり、意宇豪族はヤマト政権に取り入り、神門豪族は九州の筑紫と通じていたとされる。神門郡には巨大な四隅突出型墳丘墓に見られる豪族の勢力があったという考古学上の裏付けもある。その中心の杵築大社にはオオムナジが祀られている。東の意宇臣はヤマトの軍勢の力を借りて西の神門臣を滅ぼし、ヤマトの庇護を得て出雲を統一する。そしてヤマト政権から与えられたのは、「出雲臣」という氏姓と「国造」という統治権であった。律令制の整備によってここはヤマトの支配する国、出雲国となった。出雲国風土記が出雲臣の広嶋を責任者として編まれたことを考えると、出雲臣の本拠地である意宇群の伝承が大きく取り扱われるのは当然のなりゆきである。それを象徴するのが「国引き詞章」である。この詞章は漢文ではなく、音仮名(万葉かな)を多用し、語りとしての性格が濃厚である。国引き譚の初めと終わりは意宇という地名の由来を語る地名起源譚になっている。ヤツカミズオミゾノという巨神が4回の国引きによって島根半島全域を意宇の社に西から東へ移動させたという話である。意宇(淤宇)の地を支配する意宇一族の支配の根拠を語る神話である。神話の物語は単純な話であるが、この詞章の特異性は、叙事詩とも呼べる韻律性をもって構成されていることであろう。長歌、歌謡曲のように同じ構造の繰り返しでリズムを作り盛り上げてゆく手法である。新羅(朝鮮半島)、北門(隠岐の島)、越(北陸)を引き寄せる行為は事実かどうかは分らないが、パノラマ的にイメージさせられ、音楽性豊かに語られたのである。意宇郡に住む語臣猪麻呂が神に祈願して娘を食い殺したワニに復讐する伝承が出雲国風土記にある。おそらく語臣一族は海の神を祀りワニを始祖神として進行擦る一族であった。巫者的な祈祷文があり「海若わたつみ」信仰があった。ワニに食われた娘とは巫女であり神と交わる神婚型始祖神話はシャーマンの霊性に変貌しやすい。だから語臣は海神祭祀を持つ漁労民であったことは間違いないのであるが、同時に王の前で「国引き詞章」を語り継ぐ語り部であったと思われる。

日本書記には出雲神話をほとんど載せていない。神代上では、スサノヲは高天の原を追放されて出雲に降りて、ヲロチを退治しクシナギヒメと結婚しオオナムジを生む。そして直ぐに根の国に行く。そして神代下では、国譲り神話となり、たいした敵もいないまま未開の荒野への遠征となる。一方古事記では、上巻の1/3は出雲神話で占められ、稲羽の白兎、八十神との闘争、根の堅洲の国におけるスサノヲの試練、帰還後の国の統一譚、ヤチホコ物語、そしてスサノヲ、オホクニヌシ、オホトシウィ筆頭とする出雲の神の神統譜が挿まれている。出雲風土記には国家的な性格も濃厚であるが、土着的な要素もふんだんに残されている。同じように古事記の出雲神話には出雲的世界がとどめられているのである。高天の原の神々が国譲りを迫るならば、その前に出雲には確固とした国家がなければならない。日本書紀が言うような茫々たる野原であっては不自然である。日本書紀の神話記述は、出雲神話を排除した方が律令国家が無難に成立したという物語になって描き易いだけのことである。律令国家にとって出雲は一地方に過ぎないので、征服への抵抗はなかったとして無視しても現在の状況は変わらないよ言う政治的配慮からそうしたのである。しかし古事記的世界では出雲地方は日本海文化圏を語るうえでなくてはならない存在であったと考えたのであろう。古事記の出雲神話の舞台の多くは日本海沿岸である。大陸との関係を語るうえでむしろ重要なルートであった。古来日本海には朝鮮との関係が深いというより文化的に同一であった筑紫地方の国家群、隠岐島伝いに渡来人がやって来て文化圏を作った出雲国家群、日本海沿岸伝いに高志国(越前、越中、越後)国家群の発展を抜きには語れなかったというべきであろう。古事記で語られるヲロチ退治神話では高志のヲロチと呼ばれる。古事記にあるヤチホコが高志のヌナガワヒメを求婚にでかける長大な歌謡「神語り」は、奴奈川流域が日本唯一の硬玉翡翠の産地であり、その交易を求めた征服譚であった。またタケミナカタが洲羽(諏訪)に逃げる国譲り神話は、出雲、高志、諏訪の深いつながり(大国主の支配地)が見て取れる。出雲国風土記にはオホナモチ(オホナムジ)による「越の八口」平定に関わる地名起源譚がある。出雲にとって越国は平定の対象であった。母理の郷譚では平定後は出雲国を除いてヤマトに譲るという。ここで出雲国は譲らないと言っている点が重要である。また八口はヤマタノヲロチのことで有り、野蛮地の代名詞であった。出雲が主権的な王権を持った国であるという可能性は最近の考古学発見で確証されてきた。「美保の郷」譚では、大神命(オオクニヌシミコト)がヌナガワヒメをめとって産ませた子ミホススミの地名起源譚を語っている。ミホススミは能登の珠洲神社の祭神であることから、越から出雲にかけた神という事になる。出雲と越は日本海を通路とした文化圏・信仰圏・経済圏・政治圏として捉える必要があろう。越国は日本海を行き来する渡来人が持つ文化や技術を習得したことは「高志の郷」譚でも述べられているが、堤防づくりという土木技術に長けた高志国の人を出雲国に招く話である。高志国と韓人(高句麗、百済、任那、新羅)の往来は歴史的に頻繁に行われ、出雲の神門狭結駅は陸上と海上の接点でもあった。出雲国人は西の筑紫や東の高志と通商・文化交流を行っていた。出雲文化圏の特徴を藤田氏は「古代の日本海文化」に次のようにまとめた。@四隅突出型墳丘墓、A素環頭鉄刀、B巨木建築物(縄文後期遺跡、出雲大社巨大神殿)、C翡翠など海人系文化圏(海神安曇)に注目すべきだという。次に日本書紀には出てこないカミムスビ神を例として古事記と出雲国風土記の共通点を探ってゆこう。古事記では「神産巣日神」、出雲国風土記では「神魂命」という表記である。古事記神話の冒頭に、「高天の原に成れる神の名は、天之御中主命、高御産巣日神、次に神産巣日神、この三柱の神は、並に独り神となり・・・」とある。ムスヒの意味は、ムス(生す)+ヒ(霊力をあらわす接辞)で生成する力のことである。タカミもカミも褒め言葉(接頭語)であるが、両者の神は著しく異なった神格を持っている。タカミムスヒは国譲り神話と天孫降臨神話において最高神アアマテラスの参謀として命令する神である。一方カムムスヒは出雲神話で出雲系の神々(スサノヲ、オホナムジ)を援助する、出雲の祖神的役割をはたす。古事記にはスサノヲが五穀の大地母神オホゲツヒメを殺して体から五穀が出てきたが、神産巣日御祖命がこれを取らして種としたとある。カムムスヒ神は地上世界に生産をもたらす母神的存在であった。オホナムジが八十神に焼かれて殺された時、カムムスヒ神は貝の女神二人を使わして治療させオホナムジを生き返らせた。つまりカムムスヒ神は再生の神で根源的な母性を持って語られている。殺すしか能がない高天の原の神達には見いだせない力である。オホナムジの出雲神話には、カムムスヒが海の彼方から寄り付いた小さな子供の母として登場する。「御祖の命」の象徴がカムムスヒ神であった。それゆえ出雲神話は母系的な印象が強いと言える。最後に登場するカムムスヒ神は、国譲り神話においてオオクニヌシが高天の原から降りてきたタケミカヅチに葦原の中つ国を平定され服従を誓う宴において話す言葉に出てくる。これを最後にカムムスヒ神が神話から姿を消す。出雲一族の生みの親カムムスヒ神が国譲りと共に不要となったというこよであろう。古事記に見られるカムムスヒ神はいつも出雲の神々に深くかかわっている。二柱のムスヒの神は一方がヤマト天皇家の神として、一方が出雲の始祖神として対照的に存在する。出雲風土記には御祖神魂命(カムムスヒ神)は一度しか出てこないが、御祖神魂命の御子は地名起源譚として島根半島を取り囲むようにして語られる。@加賀の郷ー支佐加比売、A生馬の郷ー八尋鉾長依日子命、B法吉の郷ー宇武加比売、C加賀の神埼ー枳佐加比売、D楯縫ー天の御鳥命、E漆治の郷ー天津枳佐可美高日命(志都治)、F宇賀の郷ー綾門日女命、G朝山の郷ー真玉着玉邑日女命という具合に御子が配置されいる。出雲の県主をはじめとした豪族の系譜に母系的な性格が濃厚に存在していたことを示している。「土着の女首長の存在」はシャーマンという特殊な存在ではなく、邪馬台国「ヒミコ」に出雲系母系社会を関係づけることが可能である。カムムスヒ神が海の彼方、スサノヲが根の堅洲の国というような水平的な世界を想像させる。ヤマト王権の本源が山にあるとならば、出雲王権は日本海である。出雲風土記は古事記の出雲神話を語らない。古事記の出雲神話は、服従の証としてのカムムスヒ神の天への引き上げと消滅は決して認めない。古事記は出雲の繁栄と服従という物語であるが、出雲風土記は島根半島の各地に生き続ける母系の郷を置く。国譲り神話においてヤマトが約束したオオクニヌシを祀る者として、意宇郡にいた出雲臣を選び、出雲西にあった神門を含む出雲全体を支配させたといえる。それにたいして日本書紀はカミムスヒを消し去ると同時に、出雲そのものの影をすべて消し去ろうとした。ヤマト政権がこの日本における唯一の支配者として。

3) 播磨国風土記

はたして地理志は中央律令政権が望んだような記録が収集できたのだろうか。遺された5ヶ国の風土記を見るだけでも様々な趣向を持ち、提出時期もバラバラです。播磨の風土記は常陸国風土記とともに最も早い時期に撰録されたようです。内容を見ると土地の肥沃度も記述と、山川原野の名前の由来の収集に意を注いだと言えます。ヤマトから比較的近い距離にある山陽道の播磨国には、ヤマト政権との関係も深く、天皇に関わる記事(巡行、求婚)や伝承が多い。日常的な話の世界が持つ猥雑さ活気という点では播磨国風土記は群を抜いている。播磨国風土記では人々ばかりか神々も普段着で登場する。オオムナジが息子の火明命の悪行から逃げ惑う姿は滑稽である。もとは「酷塩」、「苦の斎」の地名起源譚であるが、偉大な出雲の神オオムナジ(オオクニヌシ)が息子に手を焼いている姿に共感を抱く人は多いだろう。古事記には最初に地上の葦原の中つ国を統治した神として知られ、出雲国風土記では「天の下造らしし大神」と呼ばれる英雄オホムナジは播磨の国でも国造りの神として語られる。「はに岡」や「波自賀はじか」の地名由来を説明する話に登場する。オオムナジと「小比古尼命 スクナヒコネ」が我慢比べをした。赤い土(はに)を持つか、屎を我慢して歩くかどちらがつらいかという。オオムナジが降参して屎をした場所を「波自賀はじか」、小比古尼命が赤土の荷物を投げ出した場所を「はに岡」という笑い話である。物語性に富んだ下ネタも取り込んだ興味深い話である。滑稽な神はまだいる。出雲からやってきた伊和大神は川に筌(うえ)を置いて魚を取ろうとしたが、魚は入らず鹿が入った。これを膾にして食おうとしたら土に落としたという締まらない話である。とんでもない獲物がかかった驚きと笑いが描かれている。オチは食おうとして落としてしまい、こんな土地に愛想をつかして他の土地に移る大神の不器用さが笑えるのである。播磨国には出雲との縁が地名に多く残されている。稲種山(オオムナジ)、琴坂(オオタシヒコ)、宇波良村(葦原志許乎命)、粒岡(天の日鉾)などである。葦原志許乎命はオオムナジの別名である。播磨国が出雲との関係を強く持っていたことを示している。中でもヤマトの品太天皇(ホムダ 応神天皇)が頻繁に登場する。侵略者である天皇が間抜けで滑稽な貴種として笑い飛ばされる。自分の馬も見分けられない天皇として(英馬野)、地形もわからない天皇として(小目野)描かれている。恐るべき、あがめるべき天皇ではなく笑い飛ばせばよかったのである。権力へのレジスタンスとも読める。それが播磨とヤマトとの関係である。播磨国風土記には、品太天皇の狩猟に関わる伝承が多い。狩猟と巡行は天皇の地方支配、制圧をかたる従属伝承と軌を一つにしている。地名起源譚でもある。「伊夜丘」、「目前田」、「阿多賀」や血臭ただよう「臭江」という伝承に征服される側の怨念を感じ、だからてんのうを愚か者に描いて笑い飛ばすというレジスタンスとなる。「上鴨・下鴨の里」では鴨も知らない天皇にかわって1本の矢で二羽の鴨を仕留めた話である。射られても飛び越えた山を鴨坂、落ちたところを鴨谷、鴨鍋をしたところを煮坂という。 土地名伝承には、言葉足らずかその意味が十分に伝わらない話も多い。語りと聞く側の当事者が了解している事柄か、今となっては文字からその真意はつかめなくなっている。

4) 九州の風土記ー豊後国風土記・肥前国風土記

九州諸国の中で、運良く遺された豊後国と肥前国風土記の二つの風土記は、日本書紀をふまえて撰録されたとみられるので、その成立は養老5年(720年)以降のことで、大宰府による整理と手入れが加わったと考えられる。日本書紀に基づく伝承は天皇の巡行記事である。豊後国風土記には「大足彦の天皇(景行天皇)」の遠征が多い。大足彦の天皇が海部郡宮浦に至った時、速津媛という女性首長が天皇の行幸を聞いて、山に5人の土蜘蛛(まつろわない者)がいるので征伐してほしいと進言した。天皇は塀を集めて皆殺しにした。そこを速見の郡という。全く同じ文が日本書紀景行5年にある。土地の女性首長は、日田郡五馬山の伝承にもある。五馬姫という土蜘蛛である。肥前風土記にも海松橿媛、速来津媛、浮穴沫媛という首長の名がある。土蜘蛛とは中央の側からすると服従しない者を呼ぶ蔑称で、在地側からいえばその土地の首長である。女性の首長が各地にいたことは明らかであった。日本書紀やヤマト律令国家では男尊女卑思想が主流であったが、地方特に九州では女性首長も多かった。邪馬台国の卑弥呼もその一人だったかもしれない。日本各地に女性を埋葬した大規模な古墳がある。ヤマト王権が征服する前には女性首長は多くみられたようで、それを日本書紀も無視できなかったと見るべきではないだろうか。天皇家でさえアマテラスという女性神を始祖として祀っている。豊後国風土記も肥前風土記は地理的に当然だろうが、オキナガタラシヒメ(気長足媛、神功皇后)による新羅遠征(唐・新羅連合水軍に白すき江で敗北)の伝承が伝えられている。朝鮮半島を統一した新羅に対して、半島南部の百済や任那の亡命貴族がヤマト王家に泣きついて失地挽回の戦を起した。それらの記事は日本書紀の基づいた地名起源譚に仕立てられている。その中からオキナガタラシヒメの伝承を拾ってゆくと、アユ釣りのエピソードがある。新羅遠征軍の成否をアユ釣りで占うというよく知られた伝承で、日本書紀にも古事記にも見える。皇后は縫い針を曲げて鈎とし、飯粒を餌として、裳の糸を緡〈釣り糸)にしてアユを釣り上げた。めずらしかったので「希見の国」となずけた。今は「松浦の郡」という。日本書紀に同じ文がある。古事記では釣り針の話はなく、かつ鮎釣りで戦の吉凶を占う話は後退し、女人の釣りの習俗の話にすり替わっている。九州諸国の風土記は日本書紀の漢文と比較しても、決して見劣りするものではなく、大宰府で一括編纂されたとすれば、漢文作成能力に長けた官吏の手が入っている。オキナガタラシヒメの鮎釣り伝承は天平の始めには松浦郡あたりの北九州に流布していたが、それは日本書紀によるものだけではなくそれ以前の伝承に基づいていることも考えられる。鮎釣りが占いであることは、獣の狩猟が「ウケヒガリ」であることと同じである。鉄製の縫い針を曲げることから鋼鉄ではなく、軟鉄でああろうが、「もどり」はどうして作製したのか不明である。鮎釣りはもどりのない針を使うことは江戸時代以降の「友釣り」を考えさせられるが、もともと鮎釣りにはもどりのない針を使うものであったとする方が分かりやすい。豊後国風土記速見郡にある「長者没落譚」には神に向かう稲作が描かれている。大変ゆたかな田野では稲が取れすぎるのか、驕って餅を矢の的にして遊んでいたが、餅は白鳥となって飛び去った。するとしばらくして長者の田に飢饉が襲い百姓は死絶え、田は荒れ地になったという伝承がある。また「湖山長者伝説」も一日で田植えを終わらせようとした長者が沈みかけた太陽を団扇で煽いで無事田植えを終わらせたが、翌日には湖に変わっていたという伝説である。古代律令国家を支えていたのが稲作であり、延喜式に見る様に国家祭祀の多くが、稲作に関わっている。常陸国風土記行方郡の「夜刀の神」伝説では、稲作は自然を侵す行為であり、いつも神に向き合っていなければならないのである。稲作のできは自然次第であるからして、神の領域を犯すので、神への崇拝を忘れてはいけないというマイナスのタブー性を持っている。山城国逸文には白鳥が山の峯で稲になったと語られており、白鳥が稲作をもたらす神であった。世界的に見られる「穂落とし神話」のパターンで民間伝承として各地で語られていた。播磨国風土記では鹿の血の中に種を撒くと一夜で稲になったという伝承があり、早乙女の田植えの儀式も神に豊作をお願いするものである。

5) 逸文

散逸して今は遺らない風土記が大半を占める。それにもかかわらず、断片であったにしろ「逸文」として他の文献に遺る風土記の伝承がある。その中から一つ二つ拾ってゆこう。鎌倉時代に書かれた日本書紀の注釈書「釈日本紀」に「伊予の国の風土記にいわく」として「湯の郡」という伝承がある。豊後速見の大分(別府温泉)でスクナビコナが強い恥で死んだオホナモチを生き返らせようとして、伊予国の湯を海峡の下に敷いた樋でもって運び込んで、オホナモチ(大国主)を蘇生させたという伝承である。本当にスケールのでかい話である。それが伊予の道後温泉の始まりと言われる。まぬけのオホナモチとしっかり者の補佐役スクナビコナという対比で語られる。次に同じ文献の「越後の風土記にいわく」として、八坂丹は玉の名である。玉の青きをいうとある。これは古事記のヤチホコ(オオクニヌシ)がヌナガワヒメに求婚する神話を伝える短文である。奴奈川は硬玉翡翠の産地である。出雲神話を伝える伝承が越国に及んでいる古層の伝承である。上総国風土記は断片さえ遺っていない。しかし内房を中心とする千葉県の各地にヤマトタケルの伝承が伝えられ、それに由来する祭りがある。富津市の吾妻神社の「馬だし」という神事がある。二頭の馬が岩瀬海岸を疾走するのであるが、古事記や日本書紀に載せられている。これは走水(浦賀水道)での「オトタチバナヒメ」の入水伝承に由来するという。媛の遺品の櫛が海岸に流れ着き、どこからともなく現れた馬が櫛を口にくわえて神社を駆けのぼったといういわれが「馬だし」神事のはじまりである。この神社には魚を神社に奉納する「オブリ神事」も併せ行われている。木更津市の吾妻神社には流れ着いた甥遺品の袖を、茂原市本納の橘神社では難破した船の帆を祀る。富津市金谷の鉄尊宮にはヤマトタケルの軍船の鏡を祀る。君津市鹿野山にはヤマトタケルを案内した鹿や白鳥神社があり、船橋市や市川市にもヤマトタケル伝説が伝えられる。


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