本書の長谷川等伯の生きた時代と作品について年表の形に纏める。これの年表は石川県七尾美術館作製を使わせていただいた。元の年表は等伯なき後の長谷川一門の総帥の分も掲載されているが、等伯が生まれた1539年より、亡くなった1610年までを掲載し、本書の理解と整理の助とする。上の絵は等伯畢竟の傑作「松林図屏風」(東京国立博物館蔵、国宝)である。さて安部龍太郎著「等伯」は小説である。史実ではないところも多い。普通伝記はあまり推測を加えず、断定せず異説は異説として紹介し、伝説は伝説としておくものである。ところが小説はそんなマドロコシイことはしない。事実と事実の合間は著者の感で補って、一人の人間の所為の一貫性を描き切るものである。だから等伯と狩野派、石田三成、秀吉の関係も謀略説で面白く描いている。それが史実かどうかは判じ難い。等伯の息子久蔵の死因を狩野派の謀略とする説はおもしろいが、これは昔から風説としてあった。又狩野派=悪者、等伯=善という構図もそのままではいただけない。注文を取るために各方面へカネをばらまいて運動することにかけては長谷川派もやっていることである。今一般に通説としての等伯の伝記を6期にわけてまとめた。この小説とどこが違うかを参照しながら見てゆくとなお面白い。なお安部龍太郎著 「等伯」は2013年第148回直木賞に選ばれた。安部龍太郎氏のプロフィールを紹介する。安部 龍太郎(あべ りゅうたろう、1955年6月20日 - )は、日本の小説家。福岡県八女市(旧・黒木町)生まれ。国立久留米工業高等専門学校機械工学科卒。本名 良法。東京都大田区役所に就職、後に図書館司書を務める。その間に数々の新人賞に応募し、「師直の恋」でデビュー。『週刊新潮』に連載した「日本史 血の年表」(1990年に『血の日本史』として刊行)で注目を集めた。著作に、『彷徨える帝』『関ヶ原連判状』『信長燃ゆ』など。2004年、『天馬、翔ける』で第11回中山義秀文学賞を受賞。2013年、『等伯』で第148回直木賞受賞。
@ 能登の時代 20歳代後半-33歳頃
「日蓮聖人坐像」七尾市・本延寺蔵 現在、知られている作品で最も初期の作品は26歳筆の落款のあるもので、能登を中心に石川県・富山県などに10数点が確認されています。これらの作品には、袋形の「信春」印が捺されており、等伯若年期には信春の名で活躍していたことが知られています。その内、奥村家の菩提寺・本延寺の等伯が自ら彩色寄進した木造「日蓮聖人坐像」(七尾市・本延寺蔵)、「日乗上人像」(羽咋市・妙成寺蔵)、「日蓮聖人像」「釈迦・多宝仏図」「鬼子母神・十羅刹女図」「三十番神図」(4点共、高岡市・大法寺蔵)、平成14年に東京国立博物館の調査で明らかとなった、33歳筆「鬼子母神・十羅刹女図」(富山市・妙傳寺蔵)は何れも日蓮宗関係であり、等伯自身も熱心な法華信者であったことがうかがわれます。
A 京都・堺の時代 30歳代中頃-40歳代
当時の能登七尾と京都との関係は想像以上に強く、畠山の時代にも京都の文化人や僧侶が訪れており、京都の文化は海のルートでストレートに入ってきていたと考えられます。『等伯画説』の内容から、この能登地方に優れた先人の絵画が存在していたことが伺われますし、当時、法華寺院の住職は年に一度必ず本山へ出向いたとの事ですから、等伯もそういった法華の繋がりですでに京都と行き来していた可能性が高いのです。等伯33歳の時、養父母が相次いで亡くなっており、恐らくはそれを機に妻子を連れて上洛したのではないかと考えられています。当時の平均寿命が40歳前後と言われていますから、当時30歳を過ぎて大舞台京都を目指すには、かなりの自信と強いバックアップがあったのではないかと考えられます。
「日堯上人」京都市・本法寺蔵 さて、上洛後等伯は、本延寺の本山・本法寺の塔頭である教行院に住し、制作活動を行います。本法寺には、その当時の住職で若くして亡くなった日堯上人の肖像画が現存し、「父道浄六十五歳」「長谷川帯刀信春三十四歳筆」の款記と袋形「信春」印が確認されています。本作品は、美術作品としてはもちろんの事、等伯研究で知られた故 土居次義氏が「長谷川等伯・信春同人説」を提唱されるに至った、重要な資料としても知られています。能登周辺以外にも「信春」印作品が所蔵されており、その筆致からも上洛後しばらくは「信春」印を使用していたと見られます。しかし、40歳代筆とはっきり款記のある作品は現存せず、40歳代の活動については不明な点が多く、岡山県立美術館所蔵の「達磨図」と岡山県妙覚寺所蔵の「花鳥図屏風」には、主に狩野派が好んで使用した鼎(壷)形の「信春」印が捺されていることから、狩野派との関係も指摘されてきました。それが、平成14年に七尾市が購入した新出の「陳希夷睡図」によって、かなり鮮明に見えてくることになります。「陳希夷睡図」当館蔵 本図は、樹下で眠る陳希夷の姿を描いた水墨画で、小品ではありますが確かな筆致を見ることができます。晩年の等伯作品に通ずる樹木や人物の顔描の他、興味深いのは狩野派を思わせる衣紋の線です。また、海老根聰郎氏は、梁櫂との関わりも指摘されています。京都に出て仕事をするには、等伯といえども最初はやはり狩野派の門をくぐったのかも知れません。さらに、特筆すべきは『等伯画説』の一文です。そこには、紫野(大徳寺)にある雪舟の描いたチントン南(陳希夷)の記述があり、これをそのまま解釈すれば、当時大徳寺に雪舟の描いた「陳希夷睡図」があり、等伯がその作品を見て影響を受けたとしても不思議ではないのです。すなわちこの時期は、狩野派のみならず様々な画派の絵画を学び消化吸収し、そこから等伯ならではの独自の表現を試みていった、非常に重要な期間と言えます。50歳代からの動向を見ればわかるように、等伯の美意識は狩野派の美意識とはかなり異なるものであり、しだいに狩野派を離れていったと思われます。そして等伯は、本法寺の日通上人や、千利休らと親交を結んでいったのではないかと考えられるのです。等伯が最も親しくしたといわれる日通上人と千利休は共に堺の出身であり、等伯の後妻である妙清(先妻の妙浄は、等伯41歳の時に死去)も堺の出身です。日通上人は、等伯が48歳の時に本法寺に入寺しますが、その前に堺で等伯と親しくなったとも考えられます。当時の堺は素晴らしい商業都市で、多くの文化人たちが集う場所でした。茶の湯も大変流行しており、茶室には中国や日本の優れた絵師による軸が掛けられていたと見られ、等伯もそれらの作品に直に接し学ぶところも多かったのではないでしょうか。また、現存はしないものの、45歳の時に大徳寺頭塔である総見院に「山水図」「山水図」「芦雁図」を描いたという記録が残っており、利休らを通じてこの頃より大徳寺などの大きな仕事を受けるようになっていたと見られます。これらの大きな仕事をこなすには、当然2〜3人ではなくある程度のまとまった絵師たちが必要ですから、狩野派と同じとまではいかないにせよ、等伯40歳代中頃にはすでに長谷川派と呼ばれるような絵師たちを率いていたことが推測される。
B 京都の時代 50歳代
等伯は51歳の時、大徳寺山門に天井画と柱絵を描いています。しかし、ここには等伯の伯の1字を異する「長谷川等白五十一歳筆」の款記があり、その後、等伯52歳の時に仙洞御所障壁画の仕事が決まりそうになったのですが、狩野派の圧力により阻止されたという出来事が、勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』に記されています。この時の等伯の憤りは、大変なものであったと思われますが、その後すぐに狩野派の長である永徳が48歳でこの世を去るのです。そしてその翌年、わずか3歳で亡くなった秀吉の嫡子である鶴松の菩提寺・祥雲寺の大仕事が等伯の元に舞い込みます。今度は逆に、派の長である永徳を亡くして動揺を隠し切れないでいるところに、「京都第一の寺」と言われた祥雲寺障壁画(現 智積院)の大仕事を等伯率いる長谷川派に持っていかれた狩野派の憤りは、計り知れないものであったと解されます。等伯は、永徳を強く意識しながらも、金碧障壁画でありながら狩野派にはない抒情的な自然表現を試み、等伯はこの仕事を通して名実共に狩野派に対抗するまでになったのです。しかし、その等伯に次々と悲しみが襲います。この障壁画完成の前年に、良き理解者であった千利休が自刃するのです。そして、その悲しみの中で完成させた矢先、等伯の片腕となって制作にあたった息子の久蔵までが、26歳という若さで亡くなってしまうのです。その悲しみを背負って描いたと言われるのが、「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)です。これは等伯筆「楓図」や久蔵筆「桜図」など祥雲寺の一連の障壁画と同じく、国宝に指定されています。この松林図は、日本を代表する水墨画の名作として特に近年注目を集めていますが、紙継ぎがずれていることや、捺されている「等伯」印が後印と見られること、それに加えて最近「月下松林図屏風」(個人蔵)の存在が明らかとなり、「松林図屏風」は本画ではなく下絵の可能性があると見る研究者もいます。しかし、いずれにしてもこの国宝本の筆者は等伯以外には考えられず、広く一般や専門家たちの間でも周知のこととなっています。海岸沿いの松林 当時、七尾の海岸沿いにはずっと松林が続いていたと考えられます。描かれた松林は、強風に耐え細く立ちすくむ能登の松林に、あまりにも似ています。良き理解者である千利休を亡くし、息子久蔵を失った等伯の目に映ったのは、郷里七尾の松林だったのかも知れません。心象風景とも見えるこの「松林図屏風」には、大切な人たちの死を乗り越え、水墨画にその境地を求めていった等伯の心情が映し出されているのです。 等伯50歳代は、深い悲しみに見舞われながらも、「松林図屏風」をはじめ「竹林猿猴図屏風」(相國寺・承天閣美術館蔵)や「樹下仙人図屏風」(京都市・壬生寺蔵)、「枯木猿猴図屏風」(妙心寺・龍泉庵蔵)や出光美術館所蔵で知られる「竹鶴図屏風」「松に鴉・柳に白鷺図屏風」「竹虎図屏風」など多くの優れた水墨画を制作し、画家としては最も充実した時代だったとも言えるのです。
C 京都の時代 60歳代
等伯は、老年期とも言われる60歳になっても次々と大作を手掛けていきます。61歳の時には、妙心寺隣華院の襖に「山水図」襖を描いています。そして、63歳の時には大徳寺塔頭の真珠庵の襖に「商山四晧図」「蜆子猪頭図」を描き、その翌年には南禅寺塔頭の天授庵に「商山四晧図」「禅機図」「松に鶴図」などの襖絵を制作しています。しかし、この頃になると若干等伯の筆とは解しにくい部分も見受けられ、等伯も多くの長谷川派絵師を従え、一派で制作にあたったものと推測されます。一方で等伯は、親しくした人物の肖像や「大涅槃図」なども描いています。本法寺所蔵の「大涅槃図」は、京都三大涅槃図の一つに数えら「大涅槃図」京都市・本法寺蔵れる大幅で、華やかな描表具を含めると高さ10mにも及びます。本図は供養を行う前に宮中に持参し、披露したという記録も残っている作品で、「雪舟五代」と「六十一歳」の書き込みがあり、60歳前後から「自分は雪舟より五代目なのだ」ということを強く打ち出し、より長谷川派の結束を固めようとしたと解されます。注目されるのは、本図表具の裏には日蓮聖人以下の諸祖師、本法寺開山の日親上人以下歴代住職及び、祖父母や養父母、等伯より先立った息子たちなどの供養銘が記されていることです。老齢の等伯が、一派で描いた大涅槃図…いったいどんな思いで描いたのでしょうか。この大きな画面の中で嘆き悲しむ弟子や動物たちを前にした時、まるで先立っていった人々への等伯の哀悼と供養の想いが伝わってくるようです。等伯は66歳の時「法橋」に叙せられています。これは元々、宮中から高僧に対して授ける位でしたが、功績のあった優れた絵師たちにも与えられるようになりました。『御湯殿上日記』によると、等伯がそのお礼に屏風1双を宮中に持参したと記されています。当時は、この位を貰うために様々な品が献上されたといわれますが、屏風の場合4双程度必要であったといいますから、そのまま解釈すると等伯の1双というのは特例ではないかと思われます。それから、長谷川家の系図には、等伯は67歳の時、法橋の次の位である「法眼」に叙せられたと記されています。これを裏付けるように、アメリカのボストン美術館には「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆 六十八歳」の落款のある「龍虎図屏風」が現存しています。しかし、当時一般的には「法橋」から「法眼」までは4〜5年かかるとされており、1年後となるとかなり異例のことと言えることなどから、この「法眼」叙任については疑問視する研究者もいます。また、故山根有三氏はその問題に加え、制作中の等伯が慶長九年(66歳)12月に高所より墜落し、右手が不自由となるという記録(『医学天正記』)に注目、それを裏付けるようにそれ以降の作品は線描も粗く硬く繊細さに欠けることなどの理由から、67歳以降の落款がある作品については、ほとんどが弟子の筆と提唱されています。
D 京都の時代 70歳ー72歳
等伯70歳の時、親しくしていた本法寺の日通上人が亡くなり、等伯はその日通上人の肖像を描いています。また、71歳の時には大徳寺塔頭の高桐院住職・玉甫紹王宗の肖像も描いていますが、いずれも若年期の肖像画と比較すると線描は簡略化されてかなり異なることや、「日通上人像」にある「自雪舟五代 長谷川 法眼 等伯筆 七十歳 戒名日妙」の書き込みと「長谷川」「等伯」印も後落款とする見方もあり、やはり等伯筆を疑問視する声もあります。しかし、日通は最も親しくしたと見られる人物ですから、その肖像画を弟子に描かせるとは考えにくいのではないでしょうか。また、作品からは日通の実直な人柄までもが伝わってきますし、やはり日通をよく知リ尽くした等伯が、筆力の衰えを実感しながらも描いたのではないでしょうか。慶長15年、等伯72歳の時に徳川家康から江戸に呼ばれ下向しますが、現在のような便利な交通手段があるわけもなく、72歳という高齢で江戸に向かうというには、かなりの覚悟があったと思われます。後の長谷川派の命運をかけての一大決心だったのでしょう。しかし、高齢の等伯にとってこの長旅は、やはり無理があったのでしょう。途中で病に冒され、江戸到着後2日目に亡くなってしまうのです。さぞかし無念であったと思います。長男の久蔵亡き後、等伯の後継者となるはずの二男・宗宅も等伯に同行しますが、等伯が没した翌年に亡くなっています。
E その後の長谷川派
等伯を失った後の長谷川派には、等伯と並ぶほどの弟子が存在しなかったのか、狩野探幽ほどの卓越した絵師に恵まれなかったためか、完全に工房体制を確立していた狩野派の様には振る舞えず、次第に勢力を失っていきます。しかし、三男・宗也や四男・左近の絵馬や扁額、屏風などの存在も知られる他、特に左近あたりは他派の作風を積極的に取り入れ、時代に対応していった様子が窺われます。また、江戸時代には長谷川派の絵師が城内障壁画などの仕事で、狩野派と共に参加していたことが記録に残されていますし、京都周辺に限らず全国的に作品が点在していることなどから、必ずしも長谷川派に固執せず、幅広く様々な仕事に参加していったものと推測されます。