160306

文藝散歩 

野坂昭如 著 「戦争童話集」
中公文庫  (1980年8月初版 2003年2月改版)

8月15日を生きた少年 ・少女たちの戦争体験童話集 過酷な運命で動物との美しい愛情物語に涙を誘われる

戦争童話集 クジラ  狼 防空壕 お菓子の木

著者野坂昭如氏は1930年(昭和5年)生まれだから、1945年の終戦時には15歳だった。中学生だったはずである。だから戦場は知らない。「戦争を知らない」世代ともいえず、あえて言うなら「戦場を知らない世代」である。殺す・殺されるの修羅場は知らないが、社会全体が戦争に巻き込まれているのだから、食糧事情の悪さ、B29 の空襲など、弱い立場の経験、見聞はよく知っているとみられる。野坂昭如氏は、当時10代前半だった自分の目に移り、耳に入ったすべてを書き残したい気持ちで「1945・夏・神戸」という小説を書いた。本書「戦争童話集」はその子供版ともいえる。ただ平易な言葉で、想像の翼を広げて「童話仕立て」に書いたもので、果たしてこれが童話かどうかは自信がないと野坂氏は言っている。しかし童話の形を取らないと現実の束縛から離れ、言いたい気持ちを表すことができな話もある。動物、植物との会話において本質が見える話もある。この「戦争童話集」の原点となったのは、言うまでもなく野坂昭如氏の小説「火垂るの墓」である。そのテーマは、空襲、肉親の死、飢餓である。戦争童話集のテーマも「火垂るの墓」のテーマを色濃く引き継いでいるが、「火垂るの墓」の直系に当たる物語は
2) 青いオウムと痩せた男の子
3) 干からびた象と象使いの話
4) 凧になったお母さん
5) 年老いた雌狼と女の子
8) ぼくの防空壕
12) 焼跡の、お菓子の木
戦争や少年兵や兵隊さんの苦しみを童話風に描いた物語には
1) 小さい潜水艦に恋をしたでかすぎるクジラの話
6) 赤とんぼと、あぶら虫
7) ソルジャーズ・ファミリー
9) 八月の風船
10) 馬と兵隊
11) 捕虜と女の子
童話らしく動物や虫との愛情物語として
1) 小さい潜水艦に恋をしたでかすぎるクジラの話
2) 青いオウムと痩せた男の子
3) 干からびた象と象使いの話
5) 年老いた雌狼と女の子
7) ソルジャーズ・ファミリー
10) 馬と兵隊
野坂昭如氏原作の「戦争童話集」が「婦人公論」に連載されたのは、70年安保の翌日、1971年のことでした。1975年7月中央公論社で刊行され、そして1980年8月中央公論文庫に収められました。 本書は12篇の「童話」からなり、各篇の冒頭にはかならず「昭和20年、8月15日」という終戦(敗戦)の日が冠せられています。上の写真は、左から本書「戦争童話集」のカバー、あとの5枚はこの童話集のお話がアニメ化されDVDになったケースの写真です。

1) 小さい潜水艦に恋をしたでかすぎるクジラの話

伊豆七島の南南東の沖合いに一頭の並外れて大きな雄のイワシクジラがいました。あまり大きすぎて仲間のクジラは寄り付きません。ですからいつも群れを作らず一頭で遊んでいました。イワシクジラの雌は普通雄のクジラより大きいのですが、こんな大きなクジラを雄と認めて結婚の相手にもしてくれません。ある日静かな海に大きな黒い「クジラの仲間」を発見しました。これは雌クジラだと思って体をドスンとぶつける求愛の行動に出ました。この黒い物体は実は終戦近くになって日本が造った海の特攻隊と言われる小型潜水艦だったのです。その日、日本の無条件降伏を告げるラジオ放送があったのですが、艦長以下それを信用しません。ぶつけられた小型潜水艦は海面に浮上して見ると、ぶつかった相手はクジラだと判りました。雄クジラは相手を雌クジラだと思って潜水艦の傍を離れません。潜水艦はアメリカ海軍のレーダーで見つけられ、アメリカ艦船は爆雷を雨あられのように海中に落としました。機雷は潜水艦には当たらないで、雄クジラに命中し、雄クジラの身体はバラバラになって海は血の色に染まりました。小型潜水艦の艦長はクジラが身代わりになって助けてくれたのに、これ以上無駄な殺し合いは止そうと思ったということです。

2) 青いオウムと痩せた男の子

山に近い町のはずれの小さな防空壕の中に、オウムと男の子が住んでいました。タコツボ式の一人が入れる程度の小さな壕でした。父が船乗りだった昭和17年に南方の国で買ってきたもので、「鴎の水兵さん」の歌や「ダイジョウブ」のまえをするので、男の子はよく面倒を見て友達のようにかわいがっていました。昭和18年の春、お父さんの乗った船はフィリッピンの近くでアメリカの飛行機の爆撃によって沈没し、お父さんはなくなりました。お母さんはオウムのためにひまわりの種を撒いて餌にしました。ところが戦争も末期になるとひまわりの種は軍用油となったので、もうオウムにマワリの種を与えることはできません。やがて空襲が始まり防空壕へ逃げるとき、オウムの籠を取りに家に戻った後ろの方に250キロ爆弾が落ち、お母さんや近所の人は吹き飛ばされました。男の子はオウムと一緒に小さな壕に入って、お母さんの帰りを待ちましたが、それ以来男の子は無口になりいつもふさぎ込んでし舞いました。そして言葉を忘れてたのです。オウムは「ダイジョウブ」と声をかけ、下手な「鴎の水兵さん」の歌を歌って男の子を励ましました。小さな防空壕の中で男の子はオウムに、忘れてしまった言葉を懸命に教わっていましたが、ようやく空襲の後のことがはっきりわかったのです。「お母さんさんは死んだ、あの空襲で」と思ったとたん体の力が抜け、お腹がすき過ぎて立ち上がることも出ませんでした。オウムの呼びかけに、「ダイジョウブ」と答えたのが最後の言葉になりました。オウムも数日後空腹で死にました。

3) 干からびた象と象使いの話

町から12キロ離れた山あいの朽ちた水車小屋の中に痩せた象と年取った男が住んでいました。昭和16年以降、愛玩動物や動物園の動物がいなくなり始めました。それは人間さえ配給制度の下で大人も子供も腹を空かせていたからで、動物に与える餌が無くなってきたからです。昭和18年上野公園の動物園で猛獣を処分したことにはじまり、各地の動物園も処分に取り掛かりました。象だけは体が大きく処分に困った園長は餌を与えない餓死作戦を取りました。ところが象に芸を教えたり、世話をする象使いの小父さんが園長の目を盗んで、こっそりと餌を運んでくれたので死なないでいたのです。それもばれて小父さんは像を連れて動物園を脱走しました。まずは山の牧草地に遁れ、隠れ家を探しました。秋を過ぎ冬までは象と小父さんは励まし合って生きてきましたが、春になると村人が山に入ってくるので、またさらに山奥に逃げました。そして町は空襲で焼け落ち、日が経つにつれ象もやせ衰え、伯父さんと一緒に朽ちた水車小屋のたどり着きました。小父さんはすっかり元気をなくし食事もとれなくなりました。象は小父さんに食べ物を運びましたが小父さんは受け付けません。自分の死ぬときを悟った象は死んだ小父さんの身体を背中に乗せて、ひょろひょろどこかへ行ってしまいました。

4) 凧になったお母さん

焼跡の中に、カッちゃんという男の子がうずくまっていました。十日前に5歳のカッちゃんとお母さんが住む町は空襲を受けました。軍需工場もない辺鄙な街に焼夷弾を落とす必要はないのに、軽くするために気まぐれで落としていったのです。お父さんは2年前から戦地で戦っています。空襲の時お母さんはカッちゃんの手を引き、荷物を背負い、火の色の少ない方向にでたらめに逃げまどいました。防火用水を頭からかぶり逃げ込んだところは小さな公園でした。十重二十重に火に囲まれて、お母さんはカッちゃんをかばって、熱さのためにもう汗もでなくなり、涙も出なくなりました。「お休みなさい勝彦さん 怖いものなど何もない どうせ死ぬなら夢見ているうちに おやすみなさい」と、お母さんは最後の力を振り絞って子守歌を謳いました。「お母さん、あついよう」という叫びに、お母さんは自分の血でカッちゃんを潤し、意識を失いました。やがて火が消え、カッちゃんが意識を取り戻すと、かぶさっていたお母さんの身体は強い風に吹かれて、凧のように空に舞い上りました。やがて見えなくなりました。お母さんはきっと戻ってくると思ってその場にうずくまっていましたが、8月15日終戦になった日、やせ衰えたカッちゃんの体は風に吹かれて空に浮かびました。お母さんが迎えに来たのです。お母さんとカッちゃんは真夏の空に舞い踊りながら、どんどん高く昇ってゆきました。

5) 年老いた雌狼と女の子

満州の高粱畑に、大きな狼と4歳になる女の子がうずくまっています。狼は体は大きいが、毛はまだらで歯はぼろぼろのお婆さんの狼でした。女の子は白いシャツに赤いモンペをはいて、手にはバスケットをしっかり抱えていましたが、どこか体の具合がよくないようです。もう2日もここにじっと身を隠しています。戦車が南に向かって走ってゆきました。この狼はもう自分の死期が近いことを知っていました。長い間狼に群れの指導者でしたが、若い狼にその座を譲って、群れを離れ死に場所を求めて北に向かいました。その5日前、年老いた狼は何十人もの日本人が南に逃げるように急いで歩いている女子供ばかりの集団にぶつかりました。この日本人たちは満州人の集落で物々交換で水と食料を得て、南下するロシア軍に追われるように逃げてゆく途中でした。その日本人の群れが通り過ぎた後、狼は近くの草むらに泣いている女の子を見つけました。女の子は泣きながら「ベル お母さんはどこへ行ったの」と狼の首や背中をなでました。狼を自分の家の犬に間違えたようです。女の子は狼を怖がる様子もなく、バスケットの中から乾パンを取り出してかじり、狼には金平糖をあげました。女の子の名前はキクちゃんといいました。キクちゃんのお父さんはもっと北の大きな都会で写真屋を営んでいました。二人の兄とシェパードと何不自由なく暮らしていました。今年の1月お父さんに召集令状が来て、急に関東軍は南下を始めました。8月6日ソ連軍が怒涛の如く攻め込んできたとき、満州には精鋭の関東軍はなく、老兵と自衛軍だけでしたので、日本人は集団となって朝鮮を目指して雪崩を打つように南下したのです。軍人や会社の人や有力者は特別列車で逃げましたが、一般市民だけが取り残されていたのです。キクちゃんと兄ふたりとお母さんは貨車に載って南下しましたが、途中で降ろされ、後は線路伝いに歩いて逃げることになりました。運の悪いことにキクちゃんは麻疹を発病しました。伝染を恐れた集団を率いる老人にお母さんは、一家は別行動をとるか、女の子だけを遺棄するかを迫られました。お母さんは別行動をとると一家4人が死ぬことになるので、知恵を絞ってキクちゃんだけを捨てることにしたそうです。狼はキクちゃんを背負って南にいるはずの家族の方に向かって歩き出しました。キクちゃんは熱が出て狼の背につかまる元気もなく、狼はキクちゃんを口にくわえて引きずって歩きました。8月15日もうその時にはキクちゃんは死んでいました。もう少しで村落にたどり着こうとした時村人に発見され、キクちゃんをかばうように銃で撃たれて狼は死にました。村人はキクちゃんをそこに埋葬しましたが、狼は骨になってもその墓から離れませんでした。「人間は薄情だな、自分の仲間ならどんなことがあっても子供を見捨てることなどしないのに」といいたげに、キクちゃんを守るようにその墓を守っていました。(この話を涙なしに聞けたら、その人は人間ではない)

6) 赤とんぼと、あぶら虫

はるか南の島、白く輝く砂浜に飛行機が一機不時着していました。二枚のプロペラ、不格好のエンジン、翼は二段(複葉式旧型の飛行機です。)になっていて、翼には日の丸が描かれています。足は折れ、尾翼もちぎれています。飛行機は初級練習機で、子どもらが「赤とんぼ」と呼んでいました。その飛行機から降りてきたのは少年飛行兵でした。少年は18歳、海軍飛行予科練を卒業したばかりの特攻隊員だったのです。世界に冠たる「零戦」を持っていたのは戦争の初期のみで、ミッドウエィ海戦で敗れてからの日本海軍の飛行機はほとんど補充が付かず、昭和19年のレイテ作戦から特攻隊が生まれました。特攻隊の飛行機も悉く迎撃されました。旧式の赤とんぼが特攻隊に用いられたのです。アメリカの最新鋭戦闘機はスピードが速く、赤とんぼのよたよたした飛行機を追い越してしまってます。赤とんぼ編隊、と言っても2,3機ですが、アメリカの艦船を見つけたら突っ込むつもりで南方の空を飛んでいたのです。1回、2回と敵艦船を発見できず戻ってきました。最高の性能を誇る飛行機で以てしても成功確率は1割以下でしたので、この旧型赤とんぼでは成功はおぼつきません。ただ撃ち落とされて死ぬためだけに出撃するようなものです。お国の為、名誉の戦死とは名ばかりの犬死です。少年飛行兵はアブラムシをマッチ箱に入れて飼っていました。そして3回目の出撃です、アブラムシの入ったマッチ箱といっしょに出撃です。アブラムシと話していると気がまぎれます。少年の飛行機はいつの間にか編隊から離れ、先行く友軍飛行機を見失い、海の藻屑となる前このアブラムシを逃がしてやりたいのでどこか小島を探していました。こうして滑走路もない砂浜に危なっかしく着陸しました。アブラムシを操縦席の上に置きチョコレートをやってから、少年は裸となって、北の日本を目指して泳ぎ始めました。

7) ソルジャーズ・ファミリー

南の大きな島のジャングルと海の間にわずかに開けた砂浜があって、そこに一人の日本兵が倒れていました。この島はかって日本の飛行機基地がありましたが、アメリカはこんな不便な島には見向きもせず、サイパン島や硫黄島に向かいました。300人ほど日本兵がいたのですが、1年以上アメリカ軍からも日本からも見捨てられた島の日本兵を待っていたのは飢えです。少なくとも敵と戦ってお国のために死ぬのだと自分を納得させられるのですが、餓死は気持ちの定め様がありません。300人いたのが昭和20年の夏には5人だけになっていました。しかもバラバラに離れた暮らしていました(フィリッピンの島で発見された横井軍曹とおなじです)。その中で一番若い兵士は漁師の出身です。魚を捉えて命を繋いでいました。毎日考えることは、貧しかったけれどもささやかのごちそうのことばかりです。やせ衰えた身体で思うことは、日本に帰りたいただそれだけです。朦朧とした頭の中で、いろいろな夢を見ていました。いかだを組んで黒潮を探すこと、海軍の大艇がやって来て、水兵さんの御馳走を受ける事、そうして息苦しくなって目を覚ますと、亀が現れ竜宮城へ連れて行ってやると言い、背中に乗ったが途中で亀が力尽きある島に降ろされ、そこに冒険ダン吉にごちそうされ、日本へ帰るカヌーを貰って漕ぎ出すと、2日後に「空飛ぶ潜水艦富士」に救出され、日本の上空で落下傘で降りてゆくと、途中でうやむやになり、今度はコウノトリに運ばれてお母さんがいる故郷についた。兵士はお母さんと叫び続けました。8月15日砂浜の上に一人の日本兵が日本の方向に頭を向けて餓死しておりました。夢の中で死んだのです。ソルジャーズ・ファミリーとは兵士の家族という意味です。

8) ぼくの防空壕

戦争中の夜の町は灯火管制が出ているので真っ暗ですが、焼跡の方が化け物が出てきそうなくらい怖い暗闇でした。250キロ爆弾が落ちると、深さ10メートル、直径20メートルほどの穴が開きます。爆風と爆弾の破片は100メートル四方をなぎ倒します。空襲は主に焼夷弾攻撃でしたので、防空壕の効果はそれほどなく、かって熱と窒息で死亡することが多かった、町の郊外にある少年の家の壕は昭和17年に出世したお父さんが家族のために家の下に掘っておいた地下室のようなものでした。学校へ上がったばかりの少年が家に帰ると、家の中はタンスがどかされ、畳があげられてお父さんとお母さんがスコップで床下をスコップで掘っていました。5日ほどで空気抜きの穴や、土崩れを防ぐため戸板の土留め、そして庭の片隅に脱出口がつけられました。少年が国民小学校3年のときお父さんは戦死しました。お父さんが死んでから3か月も経つと、サイパン島が陥落し、空襲が現実のものになった。初めは少年はこの暗くてかび臭い湿った防空壕に入るのは嫌でしたが、この壕を掘ったお父さんの姿が身近に感じられ、お父さんの筋肉や汗のにおいまではっきり感じられました。何回か防空壕に入ることで、少年はお父さんと話がしたくて昼間から防空壕に入りました。お父さんと一緒に戦争をしている場面が次々に浮かんできて、お父さんと一緒に飛行機に乗ったり、軍艦に乗ったり、B29をやつけたりしました。戦争が終わって少年の家は焼かれずに済みました。お母さんは壕を埋めようとしましたが、「埋めないで」と少年は叫びました。数日後二人の男が頼まれてやって来て壕を壊して元通りにしました。少年は涙をいっぱいためて暗い土をのぞき込み、お父さんは死んでしまったと、しみじみ思いました。もうお父さんと話しができないと思うと悲しくて情けないのです。平和な町で、少年だけが悲しみに取り残されていました。

9) 八月の風船

直径が10メートルはある大きな風船が東へ向かって流れてゆきました。この風船は実は「ふ号兵器」と呼ばれる、冬季のジェット気流を利用した大陸間弾道弾だったのです。ジェット気流は時速250キロメートルで流れアメリカ沿岸まで丸2日でたどり着きます。無論ロケットエンジン無しで流れます。ミッドウエー海戦で、日本海軍は航空母艦4隻を失い、制空権を失い百戦錬磨の飛行士とゼロ戦を失いました。そして日本の力は潮が引くように失われ、本土空襲となりました。昭和17年4月にはン本本土は空襲を受けました。そこで編み出された戦術がいかにも貧乏国日本らしい風船爆弾でした。成功確率は極めて低いし、たとえたどり着いても効果の大きい都市に落ちることはありません。山の中に落ちて山火事を起す程度です。風船は丈夫な和紙をこんにゃくの糊で何枚も接着し、水素ガスを充てんして浮力で飛ばすのです。大きな工場でつくられ、放球基地に運ばれました。(その基地は太平洋沿岸に設けられ、茨城県磯原海岸もその一つで、いまその資料館があります)昭和19年春、初めて放球されました。人は糸の切れたアドバルーンかと見上げていました。風船部分は学徒動員で作られたものが多い。8月15日日本の敗戦が決まると、「ふ号兵器」は分解され運び去られましたが、学生たちは一度も空へ飛べなかった風船が哀れで仕方ありません。みんなで口から息を吹込み、時間をかけて次第に大きくなった風船は爆弾を載せないまま、空にふあっと浮かびました。8月15日の夕空に日本を離れた風船がジェット気流に乗って東に向かって行きました。

10) 馬と兵隊

小さな池のほとりに夏草がびっしり茂る中に、一匹の馬が倒れていました。馬のお腹にはたくさんの傷があり、爆弾の破片を受けたのです。一人の兵士がやって来て、なでてやってもびくりともしない馬の様子に驚きましたが、助けを求めることはできません。兵士は軍馬と一緒に兵舎を逃亡した脱走兵だったのです。アメリカの本土上陸を目の前にして、兵士の所属する部隊は近くの都会に駐屯していました。馬数だけはそろっていましたが、装備はちぐはぐでまともに戦争できる状態ではありません。松の根っこを運び出す作業がこの部隊の任務でした。松根油をつくって飛行機燃料であるガソリンに混ぜるためです。馬は6頭いて、松の根にロープをかけ引き抜くための百姓馬でした。若い兵士は一生懸命馬の世話をしました。夏には重労働に耐えかねて倒れる馬もいます。それを他の兵隊が木の皮でひっぱたきました。憂さを晴らすための馬いじめです。若い兵士はせめて一度だけ、馬を広い野原で思い切り遊ばせてやりたいと思いました。B29がある港を爆撃し、余った爆弾をこの町にがむしゃらに落としました。空襲は終わって何時間か経った後、若い兵士は破壊された兵営を見に行きました。3頭の馬が倒れていました。生きている馬もいることに気が付いた若い兵士が近寄ると、腹に傷を受けた馬が急に走り出しました。若い兵士も追いかけました。馬は疲れたのか小さな池で水を飲み草を食べました。兵士は馬の手当の薬もなく、ただ一晩馬の横で過ごしました。そうしているうちに兵営に戻るのが嫌になりました。馬の傷は化膿し、馬は日一日と弱ってゆきました。馬は若い兵士になついていましたが、兵士が池から戻ると死んでいました。昭和20年8月15日午後、もはや敵前逃亡の罪があるわけではないのですが、兵士はそんなことは知りません。早く馬の後を追わないと、馬に嫌われてしまうと、夏の午後の陽ざしの中、短剣でのどを刺して死にました。

11) 捕虜と女の子

海と山に挟まれた細長い町のその山裾にいくつもの横穴壕がありました。この町は空襲できれいさっぱり焼き払われていました。この壕の奥深く一人のアメリカ人が住み着いていることなぞ誰も知りませんでした。その名をスティーブといいます。昼夜を分かたず暗いのでじっと膝を抱えていたのです。アメリカ人は昭和16年12月戦争が始まって、いきなり日本軍の急襲を受け捕虜になりました。戦争初期のころは日本軍は南太平洋全域で電光石火のごとく進撃を進めましたので、アメリカ人やオーストラリア人、オランダ人、フランス人の兵隊がたくさんつかまりました。西洋では捕虜になることは、別に恥ずかしいことではなく、むしろ戦って破れることは名誉となります。捕虜は内地へ移され、厳しい仕事を命じられました。この町の港で鉄の運搬をすることです。国民総動員令の下、日本人も植民地の人も炭鉱や、土木作業、軍需工場に駆り出されました。学生も学徒動員で工場で働かされました。スティーブ達は次第に苦しい作業ばかりを云いつけられしだいに痩せ衰えましたが、本国が勝つことは疑いませんでした。昭和20年になると本格的な空襲が始まり、捕虜は収容所に移され、その監督はより厳しくなりました。ある日焼夷弾と小型爆弾が収容所に落ち収容所の塀が壊れました。捕虜たちは逃げましたが、あるものは収容所に戻ったり、山奥へ逃げたりしましたが、スティーブは山へ向かいました。いずれ憲兵や警防団が探しに来るでしょう。とりあえずスティーブは目の前の横穴壕に潜り込みました。安心したスティーブはこっそり「ママ」と呼びました。すると6,7歳の女の子が「ママ」と同じように呼びかけました。女の子の母親は空襲で焼け死んだようです。女の子はこの上にもっと大きな壕があるよと言うので案内されて行きましたそこには保存食が蓄えてありました。スティーブと女の子はそこをねぐらに決めました。女の子のお父さんは飛行士で2年前に戦死しました。だからみなしごになったわけです。戦争が終ったら二人でアメリカに行こうと約束をしました。こうしてスティーブと女の子は兄弟のように仲良くなったのですが、8月15日になりました。女の子が水を汲みに降りたとき、小父さんやおばさんに会い、戦争が終わったことを知らされました。「アメリカに行けるんだわ」というと、小父さんたちは不思議に思い、詳しく尋ねるとどうもアメリカ人の捕虜と一緒にいるようだということが分かりました。報告を受けた憲兵やお巡りさんがお迎えの行列を組んで山へ出かけましたが、その騒々しさに気が付き、戦争が終わったことを知らないスティーブは壕を逃げ出しさらに山奥へ走り出しました。女の子は「戦争は終わったのよ、アメリカに行けるのよ」と叫びましたが、スティーブは理解できずにますます山奥に逃げ行方不明になりました。(この話の最期の部分は横浜の「赤い靴をはいた女の子」を匂わせる話です)

12) 焼跡の、お菓子の木

二か月前空襲で焼かれた神戸の町の焼跡にはもう夏草が生繁っていました。ここにたくさんの人が住んでいたとは信じかねる有様です。昭和20年ごろ、5歳から10歳くらいだった子どもほど、みじめな存在はなかった。物心ついたときから、もう甘いものはなくなり、おいしいものを食べたという記憶すらありません。生きるため、子どもたちは集団で畑荒しをしました。子供たちは焼跡の中にたくましく伸びる一本の木を見つけました。なぜかそこだけが焼けた形跡がないのです。ここはあるお屋敷跡だったそうで、何かその気から良い匂いがするので、その木の葉っぱをちぎって食べるととてもおいしいので、みんなはこの木を「パンの木」じゃないか、「お菓子のき」じゃないかと思いました。このお屋敷跡には以前、早くパパをなくしママと8つになる病気がちの男の子が住んでいました。お金持ちだったので戦争さえなければ何不自由なく暮らせたのですが、やがて食糧がなくなり、ママはパパの古着を田舎へ運んで食料と交換していました。病気がちの男の子の好きなものは甘いお菓子でした。ママが材料を苦労してケーキを作ってくれたりすると、男の子は喜んで食べました。ある外国人のお菓子屋さんが店をたたむとき、最後のケーキを作りましたので、ママはバームクーヘンというケーキを手に入れ、毎日少しづつ薬のように男の子に与えました。いよいよ最後にひとかけらになった時、バームクーヘンのかけらを宝箱に入れました。時々箱を開けて甘い匂いを嗅いで懐かしがっていしたが、空襲のがやってきました。ママは男の子を防空壕に入れ、「どこへも行っちゃダメよ、ここにいれば大丈夫だから、ママはお家をまもらなきゃならないの」といって自分は屋敷を守るために家の中にいました。そして家も焼け落ちママは二度と戻ってきませんでした。男の子は壕の中でママを待ちました。箱を開けてバームクーヘンの匂いをかぐと、ママの温かい感触がよみかえってくるのです。男の子にはバームクーヘンの干からびたかけらがお菓子の木の種に思えてきました。壕の下の土に埋めました。しばらくするとむくむくと木が育ち始め、大木になった時、男の子は壕の中で死にました。お菓子の木だけが残りました。


読書ノート・文芸散歩・随筆に戻る   ホームに戻る
inserted by FC2 system