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文藝散歩 

藤沢令夫著 「プラトンの哲学」
岩波新書 1998年1月

西洋哲学の祖プラトンが説くイデア論の意義

本書の著者である藤沢令夫氏は京都大学文学部哲学科の恩師である田中美知太郎氏と共に、岩波書店より訳書「プラトン全集」全15巻を出されている。藤沢氏のプロフィールを紹介する。藤沢令夫(1925−2004年)氏は長野県松本市出身で旧制松本中学で、西洋絵画集を買いラファエロの大作「アテナイの学堂」プラトンとアリストテレスの部分を、切り取り部屋に飾って、第三高等学校 (旧制)の受験勉強の気休めにしていたのが、哲学への憧憬のはじまりだったと回想している。本書「プラトンの哲学」あとがきには、当時北村透谷「ホメロス在りし時、プラトン在りし時、彼の北斗は今と同じき光芒を放てり」という美文を暗誦していたという。敗戦後復員して1951年京都大学文学部哲学科卒業。以後50年間ずっとプラトンが研究の中心であった。在学中に知り合った梅原猛氏と橋本峰雄氏とは、同級生でこの頃より親交があった。58年九州大学文学部助教授、1963年京都大学文学部助教授、69年教授。89年に定年退官後名誉教授、京都国立博物館館長を歴任した。また1986年から98年まで松平千秋の後任で、日本西洋古典学会委員長(第5代)に就いていた。専攻はギリシア哲学、西洋哲学史である。主要な著作は「藤澤令夫 著作集」(全7巻 岩波書店)に収められている。京都大学学術出版会「西洋古典叢書」の発足に寄与し、没時まで編集委員を務めたという。本書は新書という限られた紙数なので、全体を貫く中心的な哲学思想の発展を、プラトンの前期から後期著作集に限ってその軌跡に基づいて再現することを方針としたという。文献の読み方の証拠論文や、現在に至る諸解釈の吟味はすべて省いたという。なまじ多種多様な解釈を紹介すると収拾がつかないからだそうである。本論に入る前に、混乱したプラトン像から本来の姿を再生するという本書の意図と志を「海神グラウコス」になぞらえた序章を設けている。内容的には藤沢氏の意図とプラトンの出発点である「眩暈」をまとめて第1章とし、プラトンがソクラテスから学んだこと「魂を持つ生きた言葉」を第2章とし(初期著作集に相当)、本書の中心を占めるプラトン哲学の核心を「美しき邁進」を第3章とし(中期著作集に相当)、エレア学派のパルメニデスの反論に対する反省と基礎固めである「汝自身を引きもどせ」を第4章とし(後期著作集に相当)、イデア論の再構築とその成果であるコスモロジー「美しく善き宇宙」を第5章とし(後期著作集に相当)、現代の状況におけるプラトン哲学の意義「果てしなき闘い」を第6章として構成されている。
プラトンは、師ソクラテスから問答法と、正義・徳・善を理知的かつ執拗に追求していく哲学者(愛知者)としての主知主義的な姿勢を学び、国家公共に携わる政治家を目指していたが、三十人政権やその後の民主派政権の惨状を目の当たりにして、現実政治に関わるのを避け、ソクラテス死後の30代からは、対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索していくようになる。この頃既に、哲学者による国家統治構想(哲人王思想)や、その同志獲得・養成の構想(後のアカデメイアの学園)は温められていた。40歳頃の第一回シケリア旅行にて、ピュタゴラス学派と交流を持ったことで、数学・幾何学と、輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念を重視するようになり、それらと対になった、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を醸成していく。一般に、プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。帰国後、アカデメイアに学園を開設し、初期末・中期対話篇を執筆。「魂の想起(アナムネーシス)」「魂の三分説」「哲人王」「善のイデア」といった概念を表明していく。また、パルメニデス等のエレア派にも関心を寄せ、中期後半から後期の対話篇では、エレア派の人物をしばしば登場させている。後期になると、この世界そのものが神によってイデアの似姿として作られたものであるとか、諸天体は神々の「最善の魂」の知性(ヌース)によって動かされているといった壮大な宇宙論・神学的描写が出てくる。

第1章 「眩暈」 哲学者としての出発

「ソクラテスの弁明」で「金や評判・名誉のことばかりに汲々として、恥ずかしくないのか。知と真実のことには、そして魂をできるだけ優れたものにする事には無関心で、心を向けようとはしないのか?」とソクラテスはアテナイ市民に問いかけますが、そのアテナイ市民によってソクラテスは死刑の判決を受けます。なんとソクラテスの2500年前の言葉がそのまま現代人に問いかけているように錯覚を覚えます。今ではこういうことを言っても死刑にはなりませんが、軽く鼻であしらわれて無視されるだけです。ソクラテス亡き後30代のプラトンは師の遺志をついで、哲学者として思想的闘いに入る。ギリシャ文化の伝統に著しい知的側面を加えて、全一的な哲学思想を結実させた。先のソクラテスの言葉に言う「知と真実」とはイデア論という思想へ、「魂をできるだけすぐれたものに」という要請は魂(プシュケー)の動因に発展していった。プラトンの対話集が第1級の資料とすると、アリストテレス以降の教説や学説・情報は2次資料といわれ、相反するものが多く無理に取り入れる必要はないと著者藤沢氏は切り捨てる。「プラトン著作集」とは紀元前4世紀のパピロス紙による巻物から始まり、5世紀からコーデクス皮紙に写し取られ冊子本となり、そして15世紀には活字印刷本となって今日に伝えられてきた希有の著作集である。ローマ時代トラシュロスはプラトン著作集を九つの四部作に纏めた。この36篇が「プラトン著作集」として今日に伝わる。16世紀末のステファヌス版全集が定本となっている。20世紀に入ってプラトンはその「国家論」と政治思想によって注目の的になった。第1次世界大戦後から第2次世界大戦後までプラトンを巡る30年戦争といわれている。プラトンは右翼か左翼か全体主義者かという不毛の政治議論が一時盛んであったことは時代とはいえあまりに皮相なことであった。それよりプラトン哲学の根幹にかかわる問題は、19世紀後半から21世紀前半の科学主義のイデオロギー対決にあったと言える。科学が自然哲学の一分野から独立してから久しい時間がたった。サイエンティストか今や一般的な「知識者」ではなく、「物質世界の研究者」という特定の専門家(科学者)となっている。哲学では、論理実証主義から分析哲学へと続く流派がこの科学主義の担い手となった。マルクス主義もこの科学主義イデオロギーの一形態といえよう。ギリシャ哲学の評価は、デモクリトスの原子論が科学的とされ、プラトン哲学は科学に対して反動的と批判された。英国の論理実証主義哲学者(数学者)バートランド・ラッセルは科学主義に立って、検証できない超感覚的な原理を立てる形而上学的思想とは反対の立場である。しかし第2次世界大戦後1950年以降になると、科学技術主義の行き詰まりとマイナス面(原爆、自然破壊など)の波及効果が顕在化した。こうして科学の進歩が無条件に人類の幸福を約束するという科学主義的楽観論は大きな転換期を迎え、哲学界では科学主義への批判、反科学主義が生まれることになった。ハイデガーやニーチェらは科学主義の根源をその西洋哲学の源であるギリシャ哲学に求め、特にアリストテレス以前のプラトン哲学を批判した。その傾向は日本の哲学界はいち早く輸入されてきた。(京都大学はプラトン派、東京大学はソクラテス派と色付けすることも可能) 物質的自然観では形相と質料の対立概念で捉えるアリストテレスとは、プラトンのイデア論は決定的に異なる。プラトン哲学の入門としてアリストテレスの著作を勧める新プラトン派(6世紀エリアス)もいて、プラトンの姿は「海神グラウコス」のように見分けがつかないことになった。この点を18世紀の哲学者バークリーは「プラトン自身をプラトンの著作の解釈者とする」といっている。プラトンにまとわりついている貝殻やごみを払い落として、現れる本来の姿を再生することが本書の狙いである。

プラトンは初めから哲学を自分の仕事と考えていたわけではなく、そう定めたのは40歳に差しかかる頃のことであった。プラトンの自伝ともいわれる13通の手紙の内「第7書簡」(74歳ごろのプラトン)の中で、「この私も、かって若かったころは、自分のことを自分で処理できる大人になったら、すぐにでも国家公共の仕事に赴こうと思っていた」 プラトンは前427年アテナイで生まれた。アテナイとスパルタをそれぞれの盟主とするペロポネソス戦争(前431−4040年)が始まって4年目の年であった。民主政治の伝統が根付くアテナイでは、各自の素質に応じて国家枢要の仕事に就くことは、名門子弟の共通の気概であった。プラトンの父はアリストン、母はペリクティオネで両親とも名門の出であった。プラトンの兄のアディマントスとグラウコン、また叔父のカルミデスや従兄のクリティアスは古くからソクラテスと親しい間柄で、プラトンもソクラテスから影響を受けていたと思われる。前404年プラトンが23歳の時27年続いたペロポネソス戦争はアテナイの敗北で終わった。その直後クリティアスやカルミデスなどプラトン家の親戚たちを主要メンバーとする反民主派の「三十人政権」が樹立され、プラトン委も参加が呼びかけられたが、「彼らの為すことを注意深く見守る」ことにした。この「三十人政権」はスパルタの後見でできた独裁政権と化し、政敵を次々と投獄する恐怖政治によって多くの有能な人が国外に逃亡した。ソクラテスの友人カレイポンや、後に民主政権の中心となってソクラテスを告発したアニュトスらが亡命し武力抵抗団を作って、前403年「三十人政権」を攻撃し崩壊させた。ソクラテスはレオン逮捕事件で「三十人政権」に反抗したため、身が危なかったととソクラテス自身が「弁明」で述べている。ここでプラトンが驚愕する事件が起こった。前399年、民主派の実力者アニュストスを後楯にしメレトスという青年が「国が認める神々を認めず、新規なダイモーンの祭りを導入し、かつ青年たちに害毒を与えるという罪を犯した」としてソクラテスを告発した。ソクラテスは裁判にかけられ死刑に処せられた。時にプラトンは28歳、「第7書簡」にはその時のプラトンの心境を、「いかなる偶然によるものか、一部の権力者はわれわれの仲間であったあのソクラテスを、およそ神を畏れざる、また誰にもましてソクラテスには最もふさわしからぬ理由で、法廷に連れ出しました。」と衝撃のほどを語っている。この深い衝撃こそは、このような不条理を根絶するためには、民主派と反民主派の抗争というレベルを超えて、国家のあり方の根本的な変革しかないとプラトンが考えるに至った起点をなしている。思いがけなかったソクラテスの刑死によって、プラトンはソクラテスの存在を自覚し、在りし日のソクラテスを生き生きと伝える一連の対話篇を書き始めた。初期の著作篇「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「ラケス」、「カルミデス」、「リュシス」、「プロタゴラス」などは、ソクラテスの生き方が示すものが何だったのかを確認する作業であった。プラトンは「眩暈」を感じながらも国制全般の改善の道を模索していたが、実際行動に出ることはなかった。この根強い政治の実践の方向と、ソクラテスの教える哲学の生き方とどうかかわりがあるかを考えていたようである。この答えが出るまで12年間を要した。ソクラテスの哲学とは、「よく、正しく、美しく」という価値規範を忠sンとした人間の幸福を追求する営みであった。プラトンが40歳ごろに書いた「ゴルギアス」の中で、「本当の政治を手掛けているのは、僕だけだ」、「正しく真実に哲学している人々が国政の支配の座に就くか、あるいは現に政権を握っている人びとが、本当に哲学をするようになるか、このどちらかが実現するまでは、人類が災いから遁れることはないだろう」と語っている。そうしてようやく「哲人統治」という考えに到達した。ソクラテスの刑死から12年間遍歴時代の締めくくりとして、イタリアとシケリアの旅に赴いた。シケリアの選手独裁政治を見、イタリアではピタゴラス学派の思想の影響を受け、アテナイに帰ったプラトンは前387年「アカデメイア」と呼ばれる学園を創設した。そこで自分の理想とする教育活動と、著作活動により自分お哲学愛想を形成し発展させるであった。プラトンのアカデメイアでは、問答・対話の術をまなぶ予備学問として、数学(算数、幾何学、)、天文学、音楽理論などが重要視された。こうしてプラトンの生き方は完結した。

第2章 「魂を持つ生きた言葉」 ソクラテスの教え(初期作品集より)

初期の対話篇の中に描かれたソクラテスの言行が、プラトンが受け留めたソクラテス像であり、ずっとプラトン哲学の基層となっている。プラトン独自の思想もこの基層から生まれたものである。「饗宴」の終わり近く、アルキビアスがソクラテスへの思いのたけを述べる場面で「私は毒蛇よりももっと痛いものに、もっと痛いところをかまれたのだ。哲学の言葉によって、魂を」とあるのは、これはプラトンの魂を咬んだソクラテスの言葉(哲学)のことであろう。「ソクラテスの弁明」にはソクラテスの哲学がかなり表明されている。ソクラテスはソフィストを「知」のありかたから批判する。「デルポイの神託」をソクラテスは「本当の知者は神だけで、それに比べると一番の知者とはソクラテスのように、自分が知(プロネーシス)について何の値打ちもないと知った者なのだ」と理解した。これが「無知の知」という知のあり方である。これは哲学つまり求知(愛知)の不可欠の出発点にほかならない。人は何かをするとき、知以外の激情や快楽・苦痛、恐怖によってよくない行為をふせぐために知が必要なのだ。ここでソクラテスは「知」という言葉を様々な同義語で表現するが、アリストテレスは厳格な使い分けをする。ソクラテスは人間の全般的な知の捉え方を言っている。「デルポイの神託」に促されて、ソクラテスは自他の知のあり方を吟味する行為を、アテナイの政治家、有力者、ソフィストを相手に問答を繰り返した。こうした行為で相手の無知を暴露することで、多くの敵意と中傷が広がり、自分が告発される原因となった。「哲学することを決してやめない」ということは、市民への指摘と勧告をやめないということである。「知と真実のことには、そして魂をできるだけ優れたものものにする事には無関心で、心を向けようとはしないのか」という言葉の中に、魂を優れたものにするとは、ソクラテスは「徳を持っている」と言い換えている。徳(アテレー)とは当時の意味では、卓越した能力(なによりも政治的能力)のことである。「何よりも大切なことは、よく生きることである」つまり魂を優れたものにすることを心がけ精進するという生活指針をいう。長生きが問題ではなく、与えられた生そのものの質を高めることがよく生きるということである。プラトンの初期・中期の著作集は、ソクラテスを主人公とする対話篇であるう。ここではプラトンは登場してこない。しかしその中期から後期の対話篇になると様相が変わってくる。初期の対話篇ではソクラテスは対話相手を論破することが中心であったが、中期から自分で積極的に一定の見解を表明することが多くなる。相手の命題の矛盾を明示するより、自分の考える命題を提示することが強くなる。この命題こそがソクラテスを超えたプラトン自身の哲学であるように思われる。後期の対話篇では、「ティマイオス」、「法律」等では、もはや対話という形式さえ不要なくらい、切れ目のない長い論述となってくる。それでも形式的にはソクラテスが主人公であることを固持するのは、基層としてのソクラテスの言葉を大事にし、プラトンの意見はその延長にあると考えたからであろう。ソクラテスの哲学(言葉)を、教説の形に発展させることが自分の使命であるとプラトンは思っていたのだろう。だから二人の切れ目がないのである。イデア論、魂論、哲人統治論もその連続発展のプロセス上にあった。後期対話篇でも、最晩年の作「法律」にはソクラテスは全く登場しないが、なおソクラテスが主役として扱われる。プラトンが対話篇に固執するわけは、人間の志向の本質は魂の自己内対話であると考えるからである。思考は言葉によるとすれば、言葉は本来的に対話的な要素から成り立つ。これを「ロゴスのディアロゴス性」と呼ぶ。思考は自分の中で相手を置いて吟味しながら進めるというソクラテス的精神の必然性が貫かれている。ギリシャ悲劇は、舞唱隊が歌い踊るコロスの要素と、訳者の間に対話ロゴスの要素から成り立つ。しだいにコロスの部分を減らしてロゴスが劇の主体となる傾向を示した。ニーチェのような人はこれを「悲劇の自殺あるいは堕落」と呼んで、悲劇の強力な敵としてソクラテスを糾弾した。古代ギリシャでは十分意味を持って人々を律した神話物語が次第に消え去り、ロゴスあるいは哲学的真理を目指す思想が主役に入れ替わった。

第3章 「美しき邁進」 プラトン哲学の核心、イデア論と魂論(中期作品集より)

この章は筆者が最も力を入れたようで、ページ数で全体の1/3以上を占めている(80頁)。ソクラテスの刑死後12年間悩みに悩んで、哲人統治の結論に達し、アカデミアでの経験と思索を重ね、さらに予想される数々の反論のため哲学的武装を整えること10年以上してようやく「国家」を発表した。当時の「哲学者」を見る世間の目は「国家社会の役に立たないろくでなし」ということであったので、その哲学者に国家を預けるという提言はお話にもならない、嘲笑の的にしかならない代物であった。(今でもそうだが) 「ゴルウギアデス」はプラトンが哲人統治の考えを持ち始めた40歳ごろ、イタリア・シケリア旅行前後の作品である。ソクラテスに「僕こそは本当の意味での政治家なのだ」と豪語させている。当然世間からくると予想される強烈な反撃に対する対話篇が展開される。ソクラテスに立ち向かったのは青年政治家カリクレスである。カリクレスは哲学や哲学者に対して世間一般の通念の代表者として登場し、反哲学、反道徳の最も先鋭的激烈な主張を突きつけた。すなわち民主制の悪しき平等を突き抜ける有能な実力の持ち主が政権を恣にし独裁者として、弱者から様々な権利を奪い取ることは「自然の正義」であると主張する。現状の政界や世の中で頭角を現すことはそういうプロセスである。ここでソクラテス(プラトン)は対決の姿勢を明確にして強靭な哲学思想の構築を宣言する。(対話篇では対決だけで終わって、決着はない) 「世の多くの人が徳と称して賞め讃えるところの奴隷根性」という世俗の徳とは根本的に違う積極的な(真の)徳への志向がプラトンに始まったようである。ソクラテスの言う正義や節制のはるか先に、真実の徳がプラトンのイデア論を形成がするのである。前期対話篇では、「カルミデス」で節制とは何であるか、「ラケス」では勇気とは、「リュシス」では友愛とは、「エウテュプロン」では敬虔とは何であるかが個別に主題となっていた。アリストテレスはこれを「Xの定義」と呼んでいたが、個別の性質をいろいろ挙げては却下する行為の先には、単一の「相」(Xとは何かでは相といい、イデア論成立後はイデアという)が見えてくるはずである。「Xとは何か」はすなわち「まさにXであるもの」を抽出することにつながる。Xであることを判別する基準を求めることである。「相」の存在論的、認識論的な論述がとりもなおさずイデア論の成立である。ソクラテスが言っていた「想起」や「思わく」が発展してイデア論の本質的な契機となった。イデア論は「饗宴」において美のイデアとして初めて開花した。恋(少年愛)の道が美のイデアに昇華し、美しくあることの純粋に本質的なことは美である、美そのものと言い表された。「饗宴」から一歩進んだイデア論が、「パイドン」で哲学者は死を恐れないという議論で展開された。「まさにそれぞれであるところのもの」としての、すべてのものの本質がイデアなのだというイデア論の命題が暴入された。美のイデアからすべてのもののイデアにあっさりと一般化された。この一般化によってイデア論は人間の生き方の直接関係する徳や価値を理解し、更に広く自然万有の理解全般を導く基本原理となった。はっきりと「感覚されるものを手掛かりにしてイデアを想起する」という抽象化(超越、観念論)が必要である。美のイデアが、経験で獲得される即物的想いではなく、まさに先験的な原理であるといえる。パイドンという対話集の特徴は、「魂(プシューケー)」対「身体」というデカルト式2元論の対立の構図で述べられていることである。感覚、欲望、情念、快楽は思惟の働きを阻害する身体の働きという風の捉えられ、魂の浄化という考えが打ち出されている。知の愛求者は常に魂の浄化に努めなければないと(ストイック、プラトニック・ラブ)されている。死とは魂が身体を離れることだとすると、哲学者は常に「死の練習」をしていることである。そして「魂の不死」というピタゴラス学派の考えが永遠不変のイデア論と合体する。ところが、欲望、情念、快楽を感じているのは実は魂(脳組織)であって、身体(末梢神経組織)ではない。つまり「魂と身体」論は表面的な語り口に過ぎず、言いたいことは魂の2つのあり方の対立のことである。それは生き延びの原理と、知を求めてやまない「精神」の原理の対立である。「身体の愛求者」は同時に「物的な性格」(金、豊かな生活)のものにしか関心がない。プラトンは人間の「生き延び」本能が描く物的世界・自然像を相対化して位置づけた最初の人であるといわれる。こうして議論は自然哲学の領域へ展開した。そこで問題となった「アナサゴラスの知性原因論か、イデア原因論かが吟味された。プラトンの自然哲学の伝統は今日の科学主義イデオロギーに対するアンチテーゼとして残っている。皮相な反科学主義としてではなく、一つ一つの事象を成立させている意味・価値は、決して物と物との外的相互作用からだけでは説明できないという命題である。量子力学や相対性理論を越えたところに「善」という価値的要因を考えるという主張である。しかしながら「善」という価値感支配が霧散していること、万物の生成と消滅の起動因が明確にされていないなど、プラトンの自然哲学は挫折したままで放置されている。だからイデア論といっても、構えばかりは大きいが内容が空疎だという批判は私一人のものではない。

「国家」で初めてイデア論思想を提示し、それに基づいて哲学者の内容規定を詳しく述べている。「哲学者とは、つねに恒常不変のあり方を保つ存在(イデアの真実性)に触れることができる人である」つまりこういう人が「魂の中に明確な範型を持ち、美・正・善に関わる法を制定し保全する能力を持つ」ことができるからであるという。こういうのを哲学というのか、思い込みにすぎないというのか、一般論にとどまって内容希薄であり、そのういう人を養成する教育も課題として残る。「国家」に、哲学者が学ぶべき重要なことがかなり長い論述がある。しかも玄妙な例え話で、「太陽」、「線分」、「洞窟」という3大比喩がそれである。太陽は「思惟される善の世界と意味し、事象から超越した存在であることが示される。善は事象を根拠づけるイデアの存在自体を成立させるメタレベルの原因であるとされる。「線分」の比喩とは、「現物世界」(見られるもの、思わくされるもの)と「思惟世界」の2つの世界内において、現物世界での似像と実物(イデア)の関係が、思惟世界の悟性(数学や仮説の関係、ディアノイア)と理性(ノエーシス)の関係に似ており、しかもその配分関係が比例関係であるという。一種数学の「写像論」の比例関係を思わせる比喩である。こんな抽象的概念に比例関係もあったものではないが、プラトンは大まじめに比喩を展開している。自説に酔っているようだ。思惟される世界において2つの区分とは、魂(精神)のあり方あるいは探求の仕方がその比喩の眼目である。ディアノイアにおいて代表される数学の探究法は、@仮説(公理)から演繹して帰結に達する方法で、起源を云々しない、A思考でしか捉えられない実物(イデア)を今度は似像として用いるというところに特徴があった。それに対してノエーシスは始原の至る考察を行い、それから演繹して帰結を得るもので、イデアを通ってイデアに達するというもので知覚を手段として用いない。「もはや仮説ではない万有の始原」とは太陽の比喩で語られる「善」のことであろう。言葉、論理(ロゴス)そのものの世界で、対話、問答法(ディアレクティケー)力で探究するといわれる。日本ではこれを「弁証法」と訳しているが、それは混乱をもたらすばかりである。第3の比喩「洞窟」とは、像の影しか見えない大衆の蒙を開くための教育のことである。影(似像)を真実と信じている洞窟内の人を思惟される世界に引き上げることである。ここでの眼目は一つは教育、一つは国家統治に在り方である。教育とはこのような生成界から実在界(イデア)への、メの向け変えの技術である。知性の教育では予備段階として数学・天文学などが教えられ、本教育とは問答法(対話術)を身に着けることである。この向け変えは国家の強制力の下で行われる。「万やむを得ない強制」という。プラトンは「国家」のつぎに「パイドロス」対話篇を書いたといわれる。初めは奇妙な屁理屈を述べて「真実らしく思われる」ことを教えるソフィストの弁論術批判を行う。弁論術は真実そのものを追求する哲学と相いれない。弁論術批判はそこそこにして「パイドロス」では長々とエロース讃美の物語が語られる。打算や世間体を気にするに過ぎない世俗の道徳を非難して、プラトンは「恋の狂気」を持ち上げて、これこそが神が与え給うものとエロース礼賛物語となる。自分自身を動かす起動因としてのプシューケーは、また宇宙と自然を動かす生成変化の原理であるとする。プラトンの魂の3分説は、理知的部分、欲望的部分、気概的部分のことで、良い馬(気概)と悪い馬(欲望)を制御する御者(理性)という比喩を用いた。エロース賛歌とは理性賛歌だったのである。

第4章 「汝自身を引きもどせ」 反省と基礎固め(後期作品集より)

岩波文庫の版切れで入手不可能といわれ、実は私はまだプラトン後期対話篇は1冊も読んでいない。それで本書に従って言及することにする。「パルミデス」に「しかし君はいま、自分を引きもどして。もっと訓練を積みなさい」とエレア派の長老パルミデスとゼノンと対話して、こう説教されたという。まだ若いソクラテスという設定であるが、あきらかにプラトンのイデア論の不備を指摘され、やり直しを命じられたという格好である。エレア派学派は、その主要な代表者であるパルメニデスとゼノンの居住地である南イタリアのギリシア都市エレアにその名を負っている。パルメニデスの手によって、自由思想の精神は、形而上学的な方向で発展したといわれ、この派の最良の成果はプラトンの形而上学によって取り入れられた。思考によってのみ、感覚による虚偽の見かけを超えて、存在についての知識、すべては一であるという根源的真実に到達できるのであるという。プラトン学者の中にはイデア論が致命的な打撃を受けて再起不能となったというが、イデアが多数あるということは「イデアを分有する」が「類似」とみなされるので不可であるというゼノンの批判についてのプラトンの見解を検討しよう。ゼノンの批判により、ソクラテスが対話相手をアポリアに追い込んだように、イデア論がアポリア―(行き詰まり、困惑)に陥ったと理解される。それは矛盾といえるし、そう付け込まれる理論の不備・あいまいさがあったというべきであろう。問題の核心は、「第3の人間」のアポリアー(アリストテレスの言葉)と、そのあとの「分有する」を「似ている」に置き換えることへのパルメニデスの拒否があったことである。一つのイデアには、もう一つ別の大イデアが現れ、それが無限に繰り返される。この無限進行のアポリアーの矛盾を突かれたと言える。「パイドン」で提示されたイデア原因論では「美そのもの(美のイデア)を除いて、他の何かが美しいなら、それは美そのものを分け持っている(分有)からにほかならない」と美そのものを適用除外している。アリストテレスの「第3の人間のアポリアー論」はこの点を無視している。「分有」用語の記述方式「個物Xはイデアφを分有することによってF(性質)である」では、個物が主語でイデアを持つ前に個物は存在していなければならない。イデア論では性質Fとそれがあってこそのイデアφとの区別が、不明確であるという点がどうしても避けられない。個々のFはイデアφではないことを了解させることが難しい。だからイデア論はトートロジー(同義反復)」だといわれる。そこで若いソクラテス(プラトン)はイデアが原範型(現物)で個々の事例はその似像であるという主張をするのだが、パルミデスにより無限進行のアポリアーだと一喝され、ソクラテスは不承不承力量負けを承服した。若いソクラテスは指摘に答えることができずに、「やり直して、もっと訓練を積みなさい」という勧告を受け入れたという。イデア論が個物Xを主語に立てる分有の記述方式による限り、常識的思考の個物X と性質Fとの区別に押し戻される類同化されるという事態となったのである。まだプラトンは常識的見方を打ち破ることはできなかった。だから理論の基礎固めを要請された。
「パルミデス」でイデア論の弱点を突かれたプラトンは、イデア論の基礎を固めるために哲学の求知をソクラテスの流儀に従って「知識とは何であるか」に戻って問いなおすため、次の著作「テアイテトス」を著した。哲学の基礎である認識論の古典をなす著作であるといわれる。対話篇でソクラテス(70歳 刑死直前のころ)がテアイテトスに投げかけた問いは「知識とは何であるか」である。それに対し対話相手のテアイテトスは「知識とは感覚(知覚)にほかならない」と答えた。これはプロタゴラス説すなわち「各人が知覚している性質は、その通りに各人にとって実在する」という。不変のイデアはないとして、そして「万物は流転する」というプロタゴラスの言葉に結実する。プロタゴラス説は、イデア論にとって知識(思惟によるイデアの把握)と知覚は相反するという命題に相容れない説である。プラトンは各人の知覚の相対性は、イデアすなわち実在に対応しているのだという方向で考えた。そのためには知覚とはどのようにして成立するのかを見なければならない。目に見えない物は実在しないという「物主義者」に対する反論を用意した。知覚と知覚される物は対応して成立する。知覚される物は知覚より先に存在するのではなく、「知覚の因果説」を否定するのである。主語+述語の関係(個物+性質)構造の把握方式は、ひいてはX主語は抹消されなければならない。プロタゴラス説の知覚の相対性は各人の知覚が同等に真であるという説になり、「誰の判断でもすべて真」ではそこには価値が存在しない。「国家」の太陽の比喩でも、「あらゆる知覚的判断は価値的な判別である」が裏書きしている。ヘラクレイトスの流転性テシスに対しては、性質Fの一定性がなければ議論にならないので却下される。以上のように「テアイテトス」は、近くを分析して物的実体の直結する「このものX」を消去するとともに、知識が成立するための最低限の経験をイデア論抜きに(先に見据えて)析出することができた。このものを主語に立てる「分有」の記述に代えて、「知か宇される性状Fはイデアφを原範型とするその似像である」という似像記述方式を確立した。

第5章 「美しく善き宇宙」 創造主賛歌と自然宇宙論(後期作品集より)

「パルメニデス」以降の対話篇において、プラトンの主要な思想が「ティマイオス」、「法律」に表明された宇宙論(コスモロジー)と自然哲学にどのように結実したかを見てみよう。前6世紀に始まったタレス(ソクラテス以前の哲学者の一人で、西洋哲学において、古代ギリシアに現れた記録に残る最古の(自然)哲学者であり、イオニアに発したミレトス学派の始祖である。また、ギリシャ七賢人の一人とされる。それまでは神話的説明がなされていたこの世界の起源について、合理的説明をはじめて試みた人だという点にある。すなわち彼は万物の根源アルケーを水と考え、存在する全てのものがそれから生成し、それへと消滅していくものだと考えた。)の自然哲学の伝統との関連も重要である。イデア論は理と共に思惟によって捉えら得た不変の実在と、知覚と思わくによって捉えられるものと区別することであった。この宇宙は必然的に何かの似像であることになる。この宇宙の作り主(神でなくてもいい)は原範型に基づいて作ったに違いない。原範型の説明は不可能としても、似像は「真実らしい」という域にとどまる。すなわち自然学の理論は近似的・蓋然的・確率的たらざるを得ない。アリストテレスは自然学を形而上学・数学とともに観念的な厳密学問に属すると考えたことに対して、プラトンの考えは柔軟で発展的であると藤沢令夫氏は評価している。プラトンは真実の象徴としての似像を積極的に行使し物語形式ミュートスで説明するのである。その最たるものが「宇宙の造り主」の神話イメージである。魂プシューケは知性ヌースの力により美しく善きものの造り主になるという神話的設定である。この「ティマイオス」における造り主による宇宙創造は、無からの創造ではなく無秩序から秩序をもたらすというやり方である。この神話的宇宙論と自然万有の説明に、プラトンのイデア論を関係付ける作業が残ってる。イデアと善が宇宙論全体の根本的な基盤となるであろう。宇宙の構成要素のそれぞれにイデアが実在することはいうまでもない。すべての生成の受容者すなわち知覚される現象界とは「場」という概念が与えられ、流転する現象界のことである。恒久不変のイデアの似像に過ぎない。「場」の記述方式は分有文法は使わず、似像(主語X抜き)文法を使用する。しかしプラトンの「幾何学的原子論」はおそらく荒唐無稽で理解しえない代物であるので説明は割愛する。プラトンは自然主義的無神論を排し、万有の最初の動きは、「自分で自分を動かすことができる動」と定義される魂プシューケー以外ではありえない。魂プシューケー+知性ヌースは「神」に相当する。
「法律」第10巻の自然哲学(自然神学的宇宙論)に中には「万物は神々に満ちている」というが、これは哲学の祖タレスの言葉と同じである。タレス以来、多くの哲学者は始原を追い求め、水から無限、空気と発展的に変遷し、前5世紀の終わりごろデモクリトスの原子論が現れた。物を分解してそれ以上分割できない究極の構成要素を原子といい、その離合集散によって現象界に現れる。従って自然万有の第1次的な基本要因は物であり、精神界は2次的な意味しか持たないことになる。プラトンは原子論に全く言及していないが、自然哲学には強い関心を持っていたようである。近代科学はこの原子論に軍配をあげたとみられるが、当時の原子論にはそれを認識する手立てはなく、とても科学と言えるものではなく、空想の一環に過ぎなかった。プラトンは「ティマイオス」と「法律」第10巻に宇宙論(コスモロジー)を表明した。そのコスモロジーは、善という大原理のもとに魂プシューケーを人間を含めた自然万有の行き渡る動と生命の原理とし、イデアをあらゆるものの意味と価値の原理として、物に補助要員としての位置づけを与える宇宙論であった。プラトンは原子論による物観念の支配を退け、魂の観念を世界観全体の中で哲学的に強化した。

第6章 「果てしなき闘い」 現代の状況の中で

ソクラテスが告発した「金と評判・名誉のことばかりに汲々とする」といった生き方が大勢を占める状態は、ソクラテス以来ずっと続いてきた。放置すれば人類は救われないこの現実を少しでも良い方向へ向けるために、プラトンは哲人統治の理想とイデア論・魂プシューケー論を提示した。しかし現実はこのプラトン思想に根本的に抵抗する物主義的な思想で動いていた。物主義的な考えは、日常的生活と生物的本能に支えられて、プラトンは容易にこれを覆すことはできなかった。自然哲学古代原子論(タレスら)は現代に至って、アリストテレス的中世的宇宙像を退け、物理学の基本像(物としての構成要素の時間的空間的配置と運動)となった。つまり科学主義の時代が到来した。そのような観点からプラトンのコスモロジーが強い批判の的になった。素粒子論物理学と宇宙天文学が結合する時代に、今更プラトンのコスモロジーが救世主になれるだろうか。時代錯誤も甚だしければ正常な理性を持つ人間とはみなされない。哲学がこれほど無力な存在に没落してなおプラトン哲学に何かを提示する能力があるのであろうか。古代ギリシャではプラトンの世界像は生命と意味・価値を基本に据えて、物的要因に第2次的な役割を与えて、科学的記述をも包容する基本像として完成したかのように見えた。20世紀の科学主義は様々な壁(戦争・原爆・遺伝子操作・医学倫理など)にぶつかり矛盾が露呈している。エネルギー環境問題や情報処理といった基本的な要因を導入した。だからといって、プラトン的世界観で現代の科学主義をコントロール出来得るとは思えない。それなら神様に祈ったほうが手っ取り早い。物質的には充たされたが、精神的には破たんしているというという見方がこの科学主義万能の世界への反省として聞かれる。果たして今後プラトン哲学が現状打破に役立つ救世主の思想となるであろうか。


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