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文藝散歩 

田中美知太郎著 「ソクラテス」
岩波新書 1957年1月

ソクラテスの愛知の哲学とは

ソクラテス

著者田中 美知太郎(1902年 - 1985年)は、西洋古典学者として著名で、京都大学文学部教授・名誉教授を長く務めた。1950年日本西洋古典学会を呉茂一、高津春繁、村川堅太郎、松平千秋等と設立、呉の後任で委員長に就き(第2代、1956年〜1965年)、他に関西哲学会会長も務めた。1978年には 文化勲章を受章した。「ロゴスとイデア」で博士号を取り、以後ギリシャ哲学をはじめとする西洋古典哲学に専心し、「プラトン」全4巻を 岩波書店( 1979〜84 )より出版した。本書「ソクラテス」は岩波新書1957年の出版である。なんと57年前の出版物であり、この本自体が古典に属するようになった。本書の主題であるソクラテスの実像を浮かび上がらせるという試みは、ソクラテスの弟子プラトンの著作集(対話篇)を第1級の資料とし、クセノポンの「思い出」とアリストテレスの著作から出来上がっている。しかし著者はアリストテレスの学説的取扱いには一定の距離を置いて、批判的に取り扱っているのが特徴であろう。ソクラテスは著述を一切しなかったので、生のソクラテスの声を聴くことは不可能であるという条件で、ほとんど一体化されているプラトン的ソクラテスのうちから、いわゆる実像(歴史的存在)としてのソクラテスを抽出することは、文献学的には極めて困難であろうとされる。逆にいえばプラトンの全著作はソクラテスの対話篇という豊富すぎる資料のうちから、ソクラテスの全体像を区別するというのも極めて困難と言わざるを得ない。ソクラテスの直弟子にとっても、師ソクラテスは生前からすでに謎的存在で理解できないことも多かった問題の人であったと思われる。大体始祖といわれる人は、実践主義者で著作家でない場合が多かった。ブッダしかり、孔子しかり、キリストしかりである。弟子が師の言葉を書き記した集成がすなわち聖典となっている。ソクラテスの同じ面がへ―ゲルとキェルケゴールでは正反対の評価を受けているのは有名な話である。今でも問題の人なのである。私はこれまでに「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「パイドン―魂の不死について」、「プロタゴラスーソフィストたち」、「メノン」、「饗 宴」、「パイドロス」、「ゴルギアス」、「国 家」を読んだ。著者田中氏は「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「パイドン―魂の不死について」、「饗 宴」をソクラテスの四福音書と呼ばれる。ソクラテスはアテナイがペルシャ戦争に勝った後、前470年または469年の生まれである。亡くなったのは前399年のことで、アテナイの牢獄で毒死させられた。およそ70歳であったとされる。当時ではかなりの高齢であったようだ。裁判で死刑が決まったときも、自分は命が惜しいというような年ではない。、むしろ喜んで天国へゆくといった言をなしている。年代の設定という基本的な事柄さえ、必ずしも確実ではないことから、確実性を求めると歴史的事実はいつも疑わしい点が多いのである。ソクラテスの場合は、彼は1冊の本も残していないので、我々はプラトンやクセノポンなどから、彼の原稿を聞かされるだけのことである。歴史上の事実というものは何時も他の言行や記録と関係しているので、プラトンの書いたものも直接的証拠ということができる。つまり第1級の史的資料である。我々はソクラテスと直接の交渉を持った人々の証言を無視して、その実像を純粋に知ることはできない。つまり歴史とはソクラテスと彼を直接知っている人たちとの共同の事件であると考えられる。それに歴史は現代のわれわれの意識の内に合成されて初めて成り立つ事柄である。ソクラテス像を作る作業に現代の我々も参加しているのである。ソクラテスの生存時代の生き証人として資料を提供するのは、弟子プラトン、クセノポンと喜劇作家アリストパネスである。クセノポンは前430年生まれ、プラトンは前427年生まれで、ソクラテスとは40歳ほど若い世代である。そういう意味でプラトン、クセノポンはソクラテスの晩年10年ほどしかよく知らないと言える。も一人の証人アリストパネスは前423年に初演された喜劇作品「雲」の中で、ソクラテスを主要人物として登場させている。この時代はソクラテスが42,3歳の頃である。したがってプラトンらの弟子たちが描くソクラテスと、クセノポンが描く壮年期のソクラテスとは共通点が全くなく、戯画化されたソクラテスが非難嘲笑の矢面に立たされている姿を見るばかりである。ソクラテスの評伝を書くとするなら、明暗の多いソクラテス像をどう造形するか大いに苦しむところである。どうしてソクラテスは死ななければならなかったのか。歴史上の事件というものは自然現象とは異なって、内面に立ちって理解することが許されている。平然として余命を拒否して死んでゆくソクラテスを、心理的美学や三段論法的合理性から見るのではなく人間的な理由を知らなければならない。歴史においての人間が人間を理解するという、人間の自己理解を試みなければならない。「どこまで行っても計り知れない魂の深さを知る事になるだろう」と著者田中氏は語るのである。

T ソクラテスの生活的事実

数少ないソクラテスの生活の跡を探すことにしよう。アテナイの法廷がソクラテスに死刑の判決を下したのは、メレトスという者の訴状を受けたからである。その訴状はかなり長くまで保存されていたようで、ローマ皇帝ハドリアヌスの時代にファボリヌスという作家がその文面を伝えている。「ピットス区民、メレトスの子メレトスは、アロぺケ区民ソプロ二コスの子ソクラテスを相手取って、次の件を告発し、その口述に偽りなきことを宣誓する。すなわちソクラテスは、国家の認める神々を認めず、新しい鬼神(ダイモン)の祭りを導入するの罪を犯し、かつ青年に害毒を及ぼすの罪がある。これはまさに死に当たるものである」 メレトスはこの訴状をバレシウス(王)なる長官に差し出した。役所では訴状を受けてから双方を呼び出し宣誓口述書を作成し、予審審議に基づいて公判にふされる。アテナイの法廷はいわゆる陪審制で、市民から選ばれた人々の投票によって有罪無罪が決定される。ソクラテスの場合裁判員は501名で、第1次審判では281対220票で有罪判決を下し、ソクラテスの申し開き演説の後の第2審でさらに心証を悪くしたソクラテスに対して361対140票という大差で有罪判決が下ったと「ソクラテスの弁明」に書かれている。ソクラテスはあえて市民の理解を得るような言説はなさず、かえって市民を突き放すような発言をして怒らせてしまったのである。最初から自分は死刑になって死ぬことを望んでいた形跡がある。「クリトン」に見るように、友人たちはソクラテスを牢獄から救いだし、他国へ亡命させようと説くが、ソクラテスは一向に取り上げず、従容として毒を仰いだとされる。友人も我々もソクラテスの気持ちが分からない。どうしてこのような人間が生まれたか、まずは身辺から見てゆこうというのが本章の目的である。ソクラテスはアテナイの東郊外アロペケ区の出身で、ソプロニスコスを父としている。母はパイナレテという助産婦であったという。異父兄弟がいたとプラトンは書いているが何もわからない。妻はクサンチッペといい、ソクラテスには3人の子、ランプロクレス、ソポロニスコス、メネクセノスがいたという。妻は逸話では悪妻ということになっているが、別に証拠があるわけではない。アロペケ区からは政界の有力者が多数でている。この区には名門アルクメオン家があった。アリステイデスはペルシャ戦争のデロス同盟を指導しアテナイの大統領になった「正義の人アリストテイデス」として有名で、父ははこのアリストテイデスと友人であったといわれる。ソクラテスは前424年のテリオンの戦いに重甲兵として出征してるが、この重甲兵は騎士に次いで身分の高い家(財産のある家)でなければなれなかったので、晩年ソクラテスは貧乏だと言っているが、ソクラテスが一生公職に就かなかったのも財産があったからではないだろうかと考えられる。父の職業は不明である。ソクラテスは「我らの祖先はダイダロス」と「アルキビアデス」で(プラトンが)言っているが、これはソクラテス一家の氏族や部族の血統を示すものだろうが、工人説もあるが父の職業は不明である。当時のアテナイの人口は食糧生産量から推測して30万人以下で、自由人の人口は17万人だとされる。奴隷の数も数万人いたと思われ、奴隷は農作業や製造業の労働者であった。ソクラテスが奴隷を所有していたという証拠はない。ではソクラテスは何で生計を立てていたのだろうか。全く分からないが、「ソクラテスの弁明」によると晩年の生活は貧乏であったといわれる。本人が金儲けや家事、官職、政治活動には全く興味を持たなかったからである。いわゆる無職で高等遊民のデイオゲネスを代表とするソ「犬儒派哲学者」らは気ままな路上生活をしていたようである。ソフィストもその流れにあるが、かれらは教師として謝金を取っていた職業人であった。終生ソクラテスの友人であったクリトンが金持ちであったことは、クセノポンの「思い出」に語られているので、クリトンが万事ソクラテスの生活の面倒を見たようだと考えることができる。アリストテレスの「アテナイ人の国制」では税金で養われている人が2万人もいたという。これが公務員のこというのか、生活保護者なのか不明である。ソクラテスはソフィストのように哲学を教えるだけで金銭を取ることを軽蔑していた。独立独歩の乞食生活であったようだが、有力者の庇護を受けていたことは否定できない。ソクラテスの妻クサンチッペの悪妻ぶりはクセノポンの「思い出」にも書かれているが、ソクラテスの再婚説もとるに足らないデマと思われるので、ここでは省略する。だからソクラテスの個人生活で分かっていることはこれぐらい少ないということである。

U 啓蒙思想の流れに

ソクラテスの天敵に同時代の喜劇作家アリストパネスがいる。前423年に初演された彼の喜劇作品「雲」のなかに壮年のソクラテスを見ることができる。アリストパネスは一般の噂を土台にして、この奇妙なソクラテスを喜劇作品で揶揄嘲笑したまでのことで、劇の中ではソクラテスはソフィストのように、若い青年に正邪に関わらず議論に勝つ方法を教えるソクラテス学校を営んでいるとされとぃる。アテナイ市民はなんとなく手に負えなくなった若い世代を前に、その害毒が新教育のせいであると断じたのである。その有害な新教育の代表者がソクラテスとされたのである。「ソクラテスの弁明」でも、「天上地下のことを探究し、弱論を強弁するなど入らざる振る舞いをなし、他人にも教えている。きっと神々をも認めないことに至るであろう」と昔から市民がみていることを告げている。神々に対する不敬罪を問われることが予想されていた。クセノポンは「思い出」のなかで、ソクラテスは全く無罪であって、善良な市民としている。善良な市民が悪魔のような存在に仕立て上げられることは不可解である。確かにソクラテスは社会の片隅で、閉鎖的な同好の士の非公開性(ソクラテス学校)のために、市民の注目を引き誤解されていたことは事実である。「雲」のなかのソクラテス学校思索にふける場所と呼ばれ、新しい教育をするところであるとみなされた。アリストパネスの「雲」とは新時代の神を意味し、ゼウスの神からジーノスの神が支配するものを象徴した。ペルシャ戦争後のアテナイに新しく入ってきた啓蒙思想である。イオニアの自然学者アナクサゴラスがペリクレスに招かれ、自然の神話的解釈から、自然そのものの理解が流行した。イオニアに哲学と科学が誕生した頃、アテナイではソロンの改革に結びつく新しい政治的実験を行い始めた。その結果アテナイでは民主政体が確立し、ペルシャ戦争を経て、家のデロス同盟を中心にアテナイは地中海の一大帝国として隆盛を誇った。ペリクレス時代の文化の開化は同時に古い伝統の破壊期になった。旧時代のしつけ・道徳が破壊され、ソクラテスはそのような新時代の啓蒙運動の代表者とみなされた。だから市民の反発も大きかったのである。自然現象の科学的説明ということは実はソクラテスとは無縁なものであり、哲学史的には通常アリストテレスに由来するといわれる。ソクラテスは倫理を扱っているが、自然哲学は何も述べていない。プラトンの「パイドン」でソクラテス自身「若い時は熱中したものだが、この研究には自分は生来不向きだということを痛感した」と述べている。クセノポンの「思い出」にソクラテスを一人の読書家として見ている。アナクサゴラスの「知性を世界の根本因とする学説に希望を見出し又失望させられイデア論に至ったというのはプラトンの創作だけではなさそうである。ソクラテスは宗教家のような単なる実践家ではなかった。本を読んで知識は身に着けていた。アリストテレス学派の人々は、ソクラテスはアナクサゴラスの弟子のアルケラオスに学んだという。ソクラテスの専売特許のようになっている「弱論の強弁術」は「ゴルギアデス」で明らかであるが、ソクラテスは恐るべき論理家で問答法の大家であることが分かる。論理の術を磨くため内輪の人たちと徹底的な研鑽を積んでいたようだ。「パルメニデス」を見ると、ソクラテスは若いころ、問答法の始祖といわれるエレア派のパルメニデスとゼノンに会っている。そこでエレア派の論理を学んだそうだ。ソクラテスの論理とは、相手の命題を潰すために、その前提となる条件の定義を突っ込み矛盾を導くことにある。いわゆる否定法である。論理を構成する弁証法は、帰納法というにはお粗末で、1,2の例を挙げて証明とする例証法である。此の相手の前提を崩すというやり方は、ソクラテス独自というよりゼノンの論法から由来している。ソクラテスの対話術(問答法)は相手の同意を得ながら一歩一歩進めるもので、誰でも同意できる卑近な例を持ち出す。アリストテレスはこの方法は厳密な学問的論証法ではないとして、真なる命題を前提とした。そしてそれは普遍的定義と帰納的論法の二つがソクラテスから生まれるきっかけとなったという。この事柄は一般の市民が理解できることではなく、相変わらずソクラテスは無駄話をする空論家と見られていた。

V ダイモンに導かれて

現在ではちょっとばかばかしいと思われるが、紀元前5世紀のギリシャ時代の多神教的宗教的背景をみておこう。そうでないとなぜソクラテスが新しい宗教を始めたといって非難されるのかが分からないからである。合理主義者、啓蒙思想家としてのソクラテスには、当時の宗観が色濃く支配している。何故ならソクラテスは伝統的な宗教の否定者とされながらも、新しいダイモン(鬼神、精霊、神霊)の祭りをを導入したとして、宗教上の罪を問われているからである。晩年のソクラテスは霊魂不滅・輪廻再生といったピタゴラス派の宗教の影響を受けている。ソクラテスは若い時から選択の岐路において「ダイモンの合図」を信じていた。いわば占いをしていたのである。明治初期福沢諭吉は迷信を強く排斥したことは有名な話で、今なら占いなぞ信じる人も少なくなったが、紀元前5世紀のギリシャ社会では常識として占いに生きていたといえる。日本では平安時代まで貴族は毎日の行動に占の指針を大事にしていた。仏教も加持祈祷を事にしていたのである。危険思想家といわれて嫌われたソクラテスさえ、ダイモンの指示を大事にしていた。ダイモンには実体はなく、「ダイモンの如き」という形容詞で使われる言葉であった。そしてソクラテスにとって「ダイモンの合図」は何時も行為の差し止める声として現れた。いつもその結果は止めてよかったという。現代風に言えば「ダイモンの合図」とは、胸騒ぎ、前兆、意識下の意思といったものかもしれない。クセノポンの「ソクラテスの弁明」で、ソクラテスにおけるダイモンの合図とは鳥や自然現象や犠牲動物による占いと同種類のものとしている。世間ではダイモンの合図は決して禁止的な事柄には限らない。現実行動においてソクラテスは肯定的。否定的に動いているのだが、選択の岐路では断然禁止的に働きかけるのはなぜか。クセノポンは、ソクラテスのダイモンの合図を自分自身だけではなく、仲間の人たちにも役立てていたという。これは立派に宗教行為になり、メレトスの訴状に書かれた「新しいダイモンの祭り」のとおりである。といってもこれは超能力のような行為ではなく神秘性は感じられない。「直感でいうと」といった助言に相当するのではないか。古代ギリシャ人はダイモンをどう捉えていたかというと、「ダイモン的な」ということは人間業でないとかただ事ではないという感じであった。これらはホメロスの物語に「神々の介入」という言葉を使った。だからギリシャ人の言うダイモンは、まだ擬人化され機能化された神々の形をとる前の、原始的な宗教的対象であった。それがギリシャの神々が出来上がったのちまで残存し、漠としたものが命を保っていたというべきであろう。ギリシャ人は、ダイモンの介入による、何か異常な言行を、一時の狂気、あるいは乱心とみていた。ソクラテスは「饗宴」に見られるように、没我的世界に埋没して思案する癖があったとされる。カルキジウスはそれを白昼夢ではないかという。夢の知らせもダイモンの合図(神のお告げ)も、前兆としては同じ種類のものであろうか。ソクラテスはいろいろな制限・制約の下で生きていたといえる、だから一筋縄で捉えることや現代風に割り切ることもできない。心の内面での自縛は計り知れない。

W デルポイ神託の謎

前章で述べたダイモンの合図とか白昼夢の奇人的行動は笑い話ですむような、それが死刑の理由となるような原因とは考えられない。ソクラテスを死に至らしめたのは情勢の変化である。ソクラテスの前半生はかのペリクレス時代の平和と繁栄の時代であった。ソクラテスのような奇人変人の存在を寛容する余裕があったといえる。しかし彼の40歳前後から、時代は暗雲を告げ、戦乱の世となった。ペロポネス戦争は第1次と第2次を合わせて約30年(前431−404年)にわたってアテナイはスパルタと地中海世界の覇権を争った戦争となった。この長い憂鬱な戦争はアテナイの敗戦で終わった。占領軍の支配下に成立したアテナイの30人独裁政権が樹立されると、アテナイは混乱状態の内戦となり、革命軍独裁政権が崩壊した後、アテナイは一種反動的な社会となり、排他的な動きが加速した。戦争責任者のアルキビアデスも、独裁政権の首領クリチアスもみなソクラテスの弟子であり新教育が生み出した鬼っ子とみなされたのである。危険人物ソクラテスを死刑に追い込む陰謀は極めて政治的であるため、報復政治と非難されることを恐れた民主制指導者アニュトスはメレトスを使って訴状を書かせた。メレトスの訴状はソクラテスの罪として、青年に害を及ぼすとか青年を腐敗させるということを挙げている。その遠因となるソクラテスのもう一つの面をみてゆこう。どこまで真実かわからないが、日本でいうと宇佐神社の御神託(道鏡を天皇にしようとする)と同じように、「ソクラテスの弁明」で見る様に、カレイポンというソクラテスの仲間がデルポイの神託を得る事件が起きた。「誰もソクラテス以上の知恵者はいない」という神のお告げである。これを逆説とみたソクラテスは自分より知恵のある人を探してアテナイ中の偉そうな人の訪問を続けた。その結果、問答をしているうちに智慧のありそうとみられる人物は実は何も知らないか、知らないのに知ったふりをしているだけであることが分かった。つまり自分は無智であること知らないだけのことである。自分が無知であることを自覚しているソクラテスの方が一段知恵があることになるという意味であると判断した。アテナイの有力者・知識人・ソフィストたちを訪問し問答を重ねるうちにソクラテスは次第に人々から敬遠され、憎まれる存在となった。ペリクレスという自由と寛容の精神は去って、戦争と内乱の不寛容な党派心が支配している時代に、このようなことを(お前は無智だと決めつける)行ったソクラテスは許せない秩序違反者だと見られたわけである。自分でまじめに考えようともしない人々は自分が何を言っているのかも自分では分からないという無智を発見した。そこで得られた結論は、一番智慧のある者とは、ソクラテスのように自分は智恵に対して何の価値も持っていないと自覚したものである。「神こそ智において第1のものである」というソロンの話を忠実にコピーしたようなデルポイ神託の話である。つまりソクラテスは神のみが智者であるという一般命題から、人間の無智を暴露して、神の智を明らかにする仕事を自分の使命とする命令命題を見出している。ソクラテスに、ダイモンに導かれた人、合理主義者、実践家という3つの側面を見る。集団討議の中で相手の無智を暴露するという行為は、ソクラテスが青年時代に学んだゼノン(エレア派)の論法は、実に仮借なきものであったという。多数の者の前で無智を宣告された有力者はソクラテスを恨み、いつか復讐をしようと企んだ。それがソクラテスの命取りとなった。これがソクラテスの性格によるものか、愛知の哲学から出てくる使命なのかわからないが、それにしてもデルポイ神託の話は嘘くさい。排斥され、村八分にされ孤立して、死を迎えるのがソクラテスの当然の報いだったようだ。すでにソクラテスはこの結果を予測していたようである。だから高齢で生きたとしても余命数年なら、信念に従って従容として死についたのであろう。

X ソクラテスの哲学

デルポイの神託むダイモンの合図もおなじ神の介入として理解することができる。ウソであろうと人はそう思い込んでいる、そういった時代なのだから。無智の暴露は神の命令なのである。肯定的にみると智を愛することも神命である。自他を吟味して、智を愛し求め(哲学)ながら生きることが神命なのである。この神命の前に自己を惜しむとか、死を恐れるとかはとんでもない間違いになる。身の破滅を恐れずソクラテスは徹底的に無智の暴露を実践し、智を求める哲学を考えた。「ソクラテスの弁明」でも「アテナイ市民よ、私は君たちに服するより、むしろ神に服するだろう。・・・できる限り智を愛し求めることを決して止めないだろう」といって市民の怒りを買っている。ソクラテスは富や名誉の他に、人間が特に留意しなければならない大切なものがあると説いた。無智の自覚とは何についての無智かというと、アリストテレスは「哲学について」で「汝自らを知れ」と言っている。「ソクラテスの弁明」では精神をできるだけ優れたものにするよう気を使え(留意)という。「精神(プシューケー、魂)をできるだけすぐれたものにする」ということが一番大切なことだということである。精神(プシューケー)とは意識された自我のことであるとバーネットは1929年の論文で言っている。「饗宴」のなかでソクラテスは、富や権力や美貌や体力など当時の人が大事にしていたことがいかにむなしいことかを悟らせる一種の衝撃療法を実践しながら、世人に対しては皮相のところで遊戯的にお付き合いをするというアイロニーに生きていたといえる。これが「ソクラテスのアイロニー」と呼ばれているものです。「国家」でトラシュマコスはソクラテスが世間と妥協するときは「ソクラテス流の空とぼけエイローネイアー」と呼んでいます。これはソクラテスの少年愛エロスにおいてもみられることです。つまり外面と内面の著しい矛盾である。世間におけるソクラテスの存在自体が矛盾といえる。それは世人においても同じ矛盾を暴露されることになり、あの醜い顔で高尚なことを言われて才能や富や地位といったものが砂上の楼閣のように切り崩される時、ソクラテスに対する世間の人の怒りは爆発するのであろう。ソクラテスの平凡な哲学(老子や仏教や平家物語でも同じことを言っている)を、「饗宴」のアルキビアスに言わせると、「言っていることの外面は恐ろしく滑稽で馬鹿馬鹿しいと思われるが、内面に入ると優れた人間になろうということが意味を持つことに驚く」となる。出来るだけ優れたものになろうというとき、ギリシャ人の価値感では「徳」というのは、よき人の「よき」に相当し、一般に者の優秀性、卓越性、有能性を指す言葉である。ソクラテス哲学の中心となるものは、この「徳」であろうと思われる。「徳」とは「精神をできるだけ優れたものにする」ということの言い換えであった。ソクラテス哲学は倫理実践、宗教的生き方と表裏一体であった。プラトンは「国家」のなかで、「正義」の規定を外面の行為よりも内心の統一調和に求め、これを保全する行為が正義であり、この行為の上に立つ知識が「智」であるといった。ソクラテスの「無智」とは何も知らない無知ではなく、何でもないことを大事と思う間違った信念を持つことである。「パイドロス」でいわれるように、智を神のみに認めたソクラテスは人間にはただ愛智のみを許した。愛智としての哲学は、ソクラテスに課せられた神聖な義務となった。アリストテレス以来の一般的見解では、ソクラテスの哲学は倫理道徳領域に限られているとされる。他の哲学分野が明確に意識されていなかった時代において、全人間的志向である「徳」に向かうのはけだし当然であったと言わざるを得ない。ソクラテス哲学とは、@「智」を愛し求めること、A優れた人間になろうとする「徳」に留意することである。優れたということは思慮ある人間といって徳の一部をなしている。すなわち徳のうちにあって、智が特別の位置を占めている。智と徳は同一ではないとする。しかしアリストテレス系統の学説史的取扱いではこれをソクラテスの「主知主義倫理」といって、智は徳になるという充分な実践根拠になるかどうか疑問は残る。ソクラテスの智は実践的でなければならない。クセノポンは「善美の行いをなしうるのは、智者だけである」といって正義その他が智でなければならないとする。そして「知行合一」とか「智徳一体」ということはソクラテスには無縁である。定義から命題そして理論化すれば行動になるという図式は、合理主義、主知主義の主張するところであるが、ソクラテスにあっては無智は間違った考えであり、理論があらゆる問題を解決すると考えるのは、無智の最たるものである。というふうに田中美知太郎氏なぜかソクラテスには批判的である。ソクラテスは合理主義より全人性に重きを置くと考える。これについては私にはよくわからないので次の勉強課題としたい。

Y ソクラテスの死

ソクラテスを死に至らしめたものとして今までみてきた、かの無駄話、ソクラテス式問答法、ダイモンの合図、ソクラテスの愛智の哲学もアイロニーも、すべてソクラテスの内面から出てきているもので、裁判などは一つの外来的きっかけに過ぎないように思える。クセノポンの「思い出」には訴状の多少詳しい内容が記されている。箇条書きにすると、@ソクラテスは国家の役職をくじ引きによって決めるのは愚かであるといった。Aソクラテスと交友関係にあったクリチアス、アルキビアスは国家に最も大きな害を及ぼしたものである。Bソクラテスは父親に対して非礼を働くことを教えた。Cソクラテスは父親ばかりか、親戚縁者まで尊敬に値しないと思い込ませた。Dソクラテスは詩人の作品からできの悪い場所を拾っては、悪行を勧めた。となっている。@はアテナイの民主制という国体を嘲笑うものである。Aは若者に現行制度を無視して暴力革命を教えたことになる。現民主制の敵というべき二人をソクラテスの陣営から輩出した連座制責任追及である。B、Cは家長たる父を中心とする家族的結合と部族的結合という伝統社会の秩序破壊者である。A、Dはソクラテス的新教育が若者に害毒を与えているという非難である。デルポイ神託の謎の章で、ソクラテスを死に至らしめたのは情勢の変化であるといった。ソクラテスの前半生はかのペリクレス時代の平和と繁栄の時代であった。ソクラテスのような奇人変人の存在を寛容する余裕があったといえる。しかし彼の40歳前後から、時代は暗雲を告げ、戦乱の世となった。ペロポネス戦争は第1次と第2次を合わせて約30年(前431−404年)にわたってアテナイはスパルタと地中海世界の覇権を争った戦争となった。この長い憂鬱な戦争はアテナイの敗戦で終わった。占領軍の支配下に成立したアテナイの30人独裁政権が樹立されると、アテナイは混乱状態の内戦となり、革命軍独裁政権が崩壊した後、アテナイは一種反動的な社会となり、民主制下で排他的な動きが加速した。アルキビアデスとクリチアスという、戦後の混乱のうちに、相前後して非業の死を遂げた二人の政治家軍人が、ソクラテスの死に最も近い関係を持っていたと考えるべきであろう。ペロポンネソス戦争第U期に、アルキビアデスはアテナイ軍のシケリア遠征を主張し戦いに敗北してから、スパルタはペルシャの力を借りて海軍力を強化し前404年アテナイを打ち破った。現民主制政府はいわば戦争敗北責任をアルキビアデスに被せたのである。そして亡命中のスパルタとの和平論政治家クリチアスが帰国して30人独裁制の首領となったクリチアスに対する憎しみは、アニュストスらの民主派の武力抵抗となり、トラシェブロスの軍事指導者を得て、30人独裁体制を打ち破った。クリチアスは戦死して内戦は終了した。民主制政府は「既往は咎めず」という寛容策を実施して内乱を収拾した。その30人独裁制と戦ったアニュストスが、いまソクラテスを排除する意志を固めたのである。これを察知したソクラテスは死は逃れられないと覚悟し、有終の美を飾ろうとしたのがソクラテスの刑死という事件であったように思われる。「既往は咎めず」という寛容策を出している以上、政治的責任で罪を問うことはできないので、下手な悲劇作家メレトスというさして重要でもない人物に訴状を書かせた。裏でアニュストスが采配していることは公然の秘密であった。アテナイ中の嫌われ者ソクラテスが市民に支持されないことを確信して裁判に持ち込んだ。が第1審で以外にも賛成者が多くはなかったが、ソクラテスは敗北を覚悟していたので、無謀にも市民の気持ちを逆なでする発言を行い自滅の道を選んだ。アニュストスのソフィスト嫌いは有名で、合理主義、啓蒙主義という思想はクリチアスの悪行と一体となって、新体制の脅威とみなされた。しかしソクラテスの本当の友人は独裁政権派にあるのではなく、むしろ独裁政権に反対した民主派と中間派にあった。デルポイ神託をもたらしたカレイポンも民主派に属していた。ソクラテスをクリチアスの一味とみる政権側に一定の抵抗を試みている。メレトスこそ独裁政権に味方したあと、新政権に便乗しようとする機会主義者だ痛烈に批判している。クセノポンの「思い出」では、ソクラテスが独裁政権側から呼びだされて、青年の誘惑者だと釘を刺された事実を指摘している。ソクラテスが民主制には根本的な批判を持っていたことは事実で、プラトン「国家」で民主制は哲人理想政治のつぎに位置づけられていた。アテナイの民主制はすでにソロン以来200年を経過し、ペロポンネソス戦争を経験して種々の批判を受けていた。アテナイの知識層では公然とスパルタの政治制度を良しとする者もいて、戦争に際しても和平派と主戦派に世論は分裂していた。だからソクラテスがそれなりのアテナイ民主政に意見を持っていても不思議はない。ソクラテスの求める智は人生全般の正義に関する大切なことで、ほとんど治国や政治とかいう智恵と重なり合っていた。だから「国家」が書かれ理想の政治体制が議論されたのである。しかし半面ソクラテスは政治に関与することはダイモンによって禁止されていた。正義のためにあくまで私人として戦うことが必要で、公人として行動すべきでないと考えた。正義を守り、正義のために戦うには、できるだけ政治を回避しなければならないというパラドックスがあった。権力に近づく者は生命を全うすることは困難である。ここにソクラテスの覚悟があった。「ただ生きるということではなく、よく生きることが大事である」、命を惜しむことは男子の本懐ではない。罪を犯したわけでもないのに、間違って殺されることもよしとした。そういうことは神が決めることである。見苦しい生き方は晩節を汚すことになる。だから従容として死に就いたのだろう。


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