2014年6月5日

文藝散歩 

柄谷行人著 「日本近代文学の起源」
岩波現代文庫 2008年10月

飛鳥時代から戦後文学にいたる総合的な文学史を思想史から読む加藤周一著 「日本文学史序説」 (ちくま学芸文庫)という本がある。本書 柄谷行人著 「日本近代文学の起源」は明治期の文学の起源を論じたもので、文学史ではないと著者は言っている。著者は明治20年という時代を日本近代文学の起源として重視しているので、その時代の日本文学の流れを加藤周一の「日本文学史序説」から概観しておこう。
『明治維新前後に生まれた群像には、少年時代に漢文の素読を受け、ついで英語学校から大学へ進んだ人がいる。彼らの大部分が受けた初等教育は徳川時代以来の漢学を継承するものであった。明治維新から帝国憲法発布までの20年間は日本で広範な社会変革がなされ急速な西欧化が進んだ時期である。彼らは西欧文化との広範な接触と伝統的教養の深さ、社会全体に関する関心の深さが特徴であった。その時期の知識人を類別すると、伝統主義者として幸田露伴尾崎紅葉泉鏡花らは色濃く江戸町民文化を引きずっていた。普遍的基準から伝統文化の対象化を行った人には、岡倉天心が日本美術の再評価と復興を図って日本画の院展を作った。天心には「茶の心」、「東洋の理想」という英文の名著がある。鈴木大拙は禅と日本文化の紹介を行った。柳田国男は日本社会の古層を掘り起こして「常民」の継続性を明らかにした。普遍的価値からの文芸復興は短歌では正岡子規、斉藤茂吉、伊藤左千夫らがいた。西欧文化と日本文化の対立に生きて創造力を発揮した文学者には森鴎外、夏目漱石がいた。森鴎外は「史伝」で新境地を開き西洋散文と漢文の混交文を完成させた。この文体は森鴎外で止めを刺した。夏目漱石は小説をかってない水準で完成させた。地方の裕福な階層から上京した文学者は家族と個人の関係で悩んだ。二葉亭四迷から田山花袋までの一群は「自然主義私小説」と呼ばれた。文学者以外には哲学者西田幾多郎、キリスト教徒内村鑑三、社会主義者木下尚江らの思想家もいた。幸田露伴は幕臣の息子で、「五重塔」など職人(仏師や大工)を描いた明治初期の短編小説を著わした。晩年に「運命」という明朝の建文帝の末路を描いた歴史小説がある。「芭蕉七部集評釈」は露伴の随筆文学の精髄といわれる。露伴は徳川時代の儒教倫理を受け継いで伝統的な文化を継承した。尾崎紅葉は江戸町民の子である。「硯友社」に参加し山田美妙らと文学活動をし、「金色夜叉」という通俗小説が代表作となった。金色夜叉は徳川時代の町民の価値観をそのまま継承している。泉鏡花は金沢の彫金師の息子で、尾崎紅葉に弟子入りし、職人をあつかった作品が多い。能楽を扱った傑作「歌行燈」では江戸弁の会話が見事で、しばしば幽霊や化け物がでてくるが、日本の叙情的で絵画的な散文が見事な冴えを見せる感覚小説の頂点をなした。 正岡子規は松山の下級武士の子で江戸の名主の子夏目漱石と同じ年の生まれである。二人は学生のころからの親友で「ホトトギス」に俳句を交換する仲であった。二人とも病人で、子規は結核、漱石は鬱病であった。正岡子規の文学的功績は、俳句や和歌を材料にして、明治の文壇に文芸批評の形式を作ったことである。「歌詠みに与ふる書」は挑戦的で歌所を攻撃し、金塊和歌集を理想とするものであった。写生を重んじた子規の句は一茶の句に似ている。子規の歌は決して革新的でもなく、その本質は文芸批評にあった。夏目漱石の俳句は蕪村的である。坪内稔典著 「俳人漱石」(岩波新書)に漱石の俳句が紹介されている。江戸子漱石の俳句と英文学、そして晩年の漢詩は「高等遊民」の面目約如たるものがある。

学者の漱石は「文学論」において、意識と情緒の間に文学を定義しようとした。出世作「吾輩は猫である」は江戸滑稽文学の延長線にあって自虐的風刺が強烈である。心理小説家としての漱石は「それから」、「門」、「行人」、「こころ」、「道草」、「明暗」などで最高の境地を開いた。漱石は日本の近代化が外部的な変化として避けがたいと感じて、そこで生きてゆくには「個人主義」に徹する他はないと確信したようである。森鴎外は帝国憲法発布以降に活躍を始め、日本の近代化の殆どすべての面において時代の人格化であった。森鴎外はドイツ官僚機構で自然科学を学んで時の権力者山県有朋を通じて権力の階段を登り、軍医として最高の地位についた。彼は学問に関する限り西洋化論者で、社会的にはドイツ法治主義者であったようだ。同時にヨーロッパ近代文学作品を「即興詩人」から「ファウスト」まで翻訳した。鴎外の文学的貢献は西洋文学の紹介と翻訳、小説的題材の多様で群を抜いていたこと、詩人らとの交際において「明星」の抒情詩を支持し、歴史小説において日本語散文の文体を完成させた。漢文と西欧文の表現を日本語口語体に仕立て上げた。この文体を超える文学はいまだに出ていない。殉死を扱った「興津弥五右衛門の遺書」や江戸時代の儒学者の伝記「渋江抽斎」などはその骨太の文章で主人公の生き方に共鳴しているようである。 1870年代に地方で生まれ東京の私大(早稲田)で学んだ小説家の一群を「自然主義」文学者という。島崎藤村、正宗白鳥、国木田独歩、岩野泡鳴、田山花袋、徳田秋声らはいずれも地方の没落士族の息子であった。彼らは江戸町民文化も武士階級の教養を継承するわけではなく、西欧文化に育てられた一群である。しかしキリスト教から西洋の窓口に入っただけで、ほとんどが直ぐに棄教しキリスト教の核心(原罪と唯一神による救済)の影響も受けていない。彼らはキリスト教の中に自己実現の手段を夢見たが、その夢が場違いである事を理解するのに時間はかからなかった。そして彼らが自分を所属させる事ができた集団は「文壇」であった。坪内逍遥は小説論「小説神髄」で「心の中の内幕を洩らすところなく描いて周密精到」を小説の目的とした。人物を理想化せずにあるがままに描きだそうというわけである。二葉亭四迷は口語体の小説「浮雲」で自分の人生をそのままに、そして話し言葉で誰でも書ける小説を作った。彼らの経験とは田舎の大家族の束縛から自分を解き放とうとして出来なかった大家族の生活のことであった。そして東京での文士生活の些事や人事の葛藤であった。田山花袋の「布団」は別れた女のぬくもりに涙を流す哀れな文士のことを書いた。こんな小説を読んで些事の心理が分ったとして何の役に立つというのか。19世紀フランスのゾラの説いた「自然主義」とは何の関係もなかった。ゾラは科学主義に起点を置いた社会的視野の中で、自分を書くのではなく市民社会を対象とした。日本の文人は誤って「自然主義」を翻訳しただけの事であった。例外は島崎藤村の「夜明け前」は明治維新の激動の中の人間を主人公とし、「破戒」は被差別部落の人間の運命を描いて歴史の中に捉えた壮大な叙事詩であった。正宗白鳥はキリスト教を捨てたあと文壇という集団に移った後も、棄教の理由を生涯意識した人であった。生涯聖書を座右において、ダンテの妻の猜疑心、トルストイの恐妻振りという「真相」にほとんど自虐的に固執した。人物の精神性より些細な真実が重要と見たのだ。これについては小林秀雄が「正宗白鳥論」(未完)を書いて議論している。日本人の宗教性は神か仏かという峻別をもとめるのではなく、神でも仏でもよく、無差別に救済してくれるものへの信頼感、安心を提供してくれる現世利益型宗教のことである。』

柄谷氏は、1970年代半ばに日本文学は大きな転換期を迎え、1980年代にあった日本文学は一種の文芸復興的気運にあったという。ソ連が滅亡しグローバル世界資本主義の浸透が進むにつれて1990年以降は文学が新たな力を持つどころか急速に衰退したという。社会的なインパクトをなくしたのである。本書は1975年秋イエール大学で筆者が明治文学史のセミナーをやってから輪郭が出来上がったが、完成するのは1980年7月のことであった。 それから英語翻訳、ドイツ語、韓国語、中国語に翻訳されるたびに書き直されてきた。2004年岩波書店から「定本 柄谷行人集」が出る機会に、全面的な改稿が完成した。岩波現代文庫に入ったのは2008年10月のことである。本書が問題にするのは、夏目漱石の文学論のなかにあった近代小説の観念への疑問である。漱石は決して当時の日本文学(自然主義文学私小説)に満足せず、また違う文学の形を求めていたようである。それは西欧近代文学が否定し片隅に追いやった、スターンやスウィフトのような「ルネッサンス的文学 カーニバル的世界感覚」の可能性であったという。漱石が子規と始めた「写生文」がその形の一つであった。笑いという俳諧の精神を狙った「吾輩は猫である」がそれである。漱石はその文学論において、「文学はいかなる必要があってこの世に生まれ、発達し、頽廃するかを極めんと誓えり」と言っている。 子規も俳句や短歌が滅亡する説を立てた。俳句や短歌が心理的、社会的な要因によって衰退するだろうとと見ており、文学の(形態の)永遠は信じていなかった。本書は明治以降に成立した日本近代文学の栄枯盛衰のことわりを明らかにすることである。そういう意味で本書は加藤周一著「日本文学史序説」のような網羅的な文学史ではないと宣言するのである。筆者は1975年ごろイエール大学にいた自分を、ロンドンにいた同じ年の漱石に重ねてひそかな興奮を覚えている。柄谷氏はそこで知り合った「反構造主義」のボール・ド・マンの禁欲的なまでの形式主義に感心したという。彼は「言葉が書き手の意図を裏切って別のことを意味してしまう」ことを恐れた。(なぜなら彼は昔ユダヤ問題で失敗していたからである) 言葉の意味するところを避けるかのように、彼は人間の暗さに向かった。これは漱石の「こころ」に似ている。柄谷氏が帰国してから「反文学論」を始めた頃、近代文学が「内面性」を否定することを見出した。それは意味や内面を背負わない言葉が、解放される光景であったという。言葉遊び、引用、パロディ、物語など近代文学が排除した全領域が回復し始めたのである。これは「ポストモダニズム」という流れである。柄谷氏の狙いは文芸評論家の近代文学批評にあるのではなく、哲学者としての「言葉によって存在する人間の条件の探求」にあるという。

1) 風景の発見

夏目漱石は1907年(ロンドンから帰国して4年後)に突如として、「文学論」という講義ノートを刊行した。未完とも放棄作とも失敗作とも酷評される奇妙な本を書いた。「文学とは根本的にいかなるものぞ」という問題に苛まれて、忙しい小説執筆活動の中で書かれたものである。それは19正規のイギリス、フランスにおいて形成された文学史の通念からきている。漱石が疑ったのはそのような近代文学の前提である。漱石がやったことは、文学を心理学的あるいは社会史的に解明することではなく、文学をその言語学的な形式において見た。文学を認識的要素(純客観的)と情緒的要素(純主観的)の結合と規定し、ロマン派と自然主義の違いを、その要素のどちらがより強いかで見てゆくことであった。形式主義的な見方で「時代を離れ、作家を離れ、作品の上のみに現れた特性をもってする以上は、作品の形成とと題目によって分かつ意外に仕方がありません」と漱石は言う。漱石は19世紀的な西欧中心主義による歴史主義進化論を批判したのである。歴史は必然で線的ではない、組み換え可能な構造を見出して、なぜそうならなかったのか疑いを提起するのである、漱石は結局「文学論」の企てを放棄し、実地の創作活動に移ったということになる。漱石はフランス文学と一様な性質をもつ英文学に不満で、むしろシェークスピア、スウィスト、スターンにたいする好みを明確にしている。それらはバフチンが言う「ルネッサンス文学あるいはカーニバル的世界感覚」を持つ文学なのである。漱石はそれらに類したものを、日本の俳諧や「写生文」の中に見出している。そのような文学をわきに追いやってしまった「近代文学」に違和感を持つのである。漱石は自然主義やネオロマン派と同時代に活動した。孤立した創作活動であった。「吾輩は猫である」、「草枕」はスウィフトと同じスタイルで書いた。本書の文学論はいたるところで絵画との対比で語られる。2次元平面芸術の絵画と空想の文学にどのような類似性があるのか知らないが、観念のなせる業の形式的共通項を言っているのかもしれない。これも形式主義なのであろう。そこで本章のお題である「風景」に入る。中世ヨーロッパの宗教画と中国の山水画は対象は違うが、形態において共通しておりそれは概念を描いている。特に山水画は約束事の上で見る絵であり、対象をリアルに描くことが目的ではない。「風景とは、固定的な視点を持つ人が見て、統一的に把握される対象のこと」とジンメルは言っている。3次元の対象をそれらしく(錯覚に基づいて)2次元平面で表すために幾何学的遠近法(透視図法)が発明された。文学上の遠近法は近代小説を特徴づける3人称客観描写なのである。近代文学を特徴づける主観性や自己表現という考え方が、「固定的な視点を持つ一人の人間」によって見られたものである。透視図法という話法(装置)がないと近代的な「自己表現」という見方が成立しないのである。近代文学の起源については、一方では内面性や自我という観点から、他方では対象の写実(客観、風景)という観点から論じられる。ポール・ヴァレリーは西洋絵画史を風景画が浸透し支配する過程と見ている。西欧で最初に風景が描かれたのは「モナリザ」の背景であった。ロマン派による風景の発見とは、美と区別して「崇高」という態度の出現である。崇高は主観の無限性に根ざしているが、それが対象物の側に見いだされるという転倒がある。それ自体が美であると思い込む風景が描かれる時、それがリアリズムと呼ばれる。誰も見ていない風景を現出するリアリストはいつも「内的人間」である。「想世界」が内的な自我の優位の中で写実として可能であると北村透谷は言う。つまり近代文学は対象の側に焦点を当てるとリアリズムであり、主観の方に焦点を当てるとロマン主義である。明治政府の農政官僚であり、ロマン派詩人であり民俗学の創始者である柳田国男には、風景画と民俗学がいつも結びついていた。小林秀雄が攻撃するプロレタリアは存在しなかったし、吉本隆明の「群像」もやはり「像」として存在するだけであった。我々が現実と呼ぶものも内的な風景に過ぎず、結局は「自意識」なのである。つまり「心」の風景なのである。

2) 内面の発見

漱石は、正岡子規、二葉亭四迷、北村透谷、西田幾多郎といった同時代者と同様に、明治国家が明治20年以降欽定憲法を確立して統制と安定(保守化)に方向を変えていったとき、未来への理想を抱きその敗北を味わっていた。漱石がいう「英文学に欺かれたるがごとき」感は、成立した制度が欺瞞でしかなかったことに対応する。明治20年代の「内面性」はそのような政治的挫折からきている。「近代的自己」は頭の中で成立するものではなく、フロイトは情熱リピドーが外界と衝突し内面に向かうときに内面と外界が存在し始めるといい、「抽象的思考言語が作り上げられて初めて、言語表象の感覚的残滓が内面化し、内的事象が次第に形成される」という。ここにいう抽象的思考言語とは明治20年代においては、「言文一致」という武器を得たことによるが、それは文字通りどちらかに一致させることではなく、新たな思考言語の創出であった。そうして二葉亭四迷の「浮雲」、国木田独歩の「武蔵野」が現れた。二葉亭四迷の「浮雲」はほとんど同時代に影響を与えることはなかったし、四迷も創作活動を止めてツルゲーネフの翻訳に向かった。鴎外や透谷らは文語体に向かった。言文一致運動は明治20年代末に独歩の「武蔵野」で再燃した。言文一致運動は坪内逍遥の「小説の改良」を目指して試みられた口語体化という文字改革である。言文一致という表音主義は、「写実」や「内面」の発見と根源的に連関している。日本語の語尾は話し手と聞き手の関係を指示する(敬語で相互の位置関係を示唆する)ので、また出身階級の身分とか関係と切り離すことはできない。二葉亭四迷は敬語なしの「だ」調で、山田美妙は「です」調で話法を始めた。「だ」は同格または目下の関係、「です」は同格または目上の関係にあり、敬語なしでも決してニュートラルな表現ではない。言文一致は新たな文語(書き言葉)の創出であるが、それは事実上語尾の問題に帰着する。語尾が「だ」であると、関係が不定になるのでどうしても主語としての人称が不可欠となる。そして二葉亭四迷は過去を指示する文末詞(時制)として「た」を使った。古くは「き」、「たり」があったが、過去の助動詞として近代は「た」の統一され「き」、「たり」は消滅した。時制については、藤井貞和著 「日本語と時間ー時の文法をたどる」(岩波新書)がくわしい。古代の時間を表す助動詞6種「き、けり、ぬ、つ、たり、り」が消滅し、近代に「た」となる過程が書かれている。森鴎外の「舞姫」は雅文であるが、その骨格は完全に欧文の翻訳体であるという。二葉亭四迷の「浮雲」は半ば人情本や滑稽本の文体である。主観性と一体化した一人称話法(対象滑稽化機能)であったが、半ばから語り手が消え(一人称)「三人称客観描写」に近づいてくる。「浮雲」が日本最初の近代小説と呼ばれるのはそのためである。こうした多くの話法の工夫があってパースペクティブの効いた遠近法(見透しのよい)が確立された。柳田国男は紀行文が「歌枕」(名所旧跡)から解放され、風景を発見したことで近代文学に移行したという。国木田独歩の「武蔵野」は歴史性を抹殺した風景であった。風景は人間と自然との交渉で見いだされる視点である。言語活動は作者の内面の根源に固有なものであると同時に、普遍性を持たなければならない。そこに国木田独歩の新しさがあった。近代文学の主流は、鴎外、漱石、二葉亭四迷ではなく、国木田独歩の流れに在ったというべきであろう。近代リアリズムという言文一致運動は二葉亭四迷と国木田独歩、自然主義文学の流れと、正岡子規、高浜虚子の「写生文」運動があったと江藤淳はいう。自然主義者と子規が異なる点は、子規が文(言葉)にこだわり続けたということである。ものと言葉の新たなる関係を作り出した。子規にとって大切なことは、ものより言葉の多様性であった。写生文とは平易な言葉による詳しい写生にあるだけでなく、陳腐を排撃し、時代の残渣を一掃することであった。多種多様な言葉をふんだんに使った漱石はそのことを理解していた。

描く事物が目の前にあるような感覚を出すため、子規は時制を現在もしくは現在進行形にした。ある一点から遠近法的な過去を表す「た」を排した。夏目漱石も「幻影の楯」では過去形がほとんどない文である。こうした現在形の多用は「写生文」の特徴であった。漱石は「写生文」を「作者の心的な状態」を語る手法とし、子規は「死後」と題して、「主観的は恐ろしい、苦しいという感じであるが、客観的の方は冷淡に自己の死を見るので、悲しいというより滑稽に落ちる」という。これは漱石やフロイトのユーモアに相当するものである。ボードレールは滑稽を「有意義的滑稽(ウィット)」と「絶対的滑稽(グロテスク)」に分けている。いずれにせよ笑いは笑う者の優越性を示す。ボードレールはユーモア−は「同時に自己であり他者で有り得る力である」という。日本文学における写生文=リアリズムは、藤村や独歩の方向すなわちイロニーの方向(超越的自己を誇らしげに示すロマン的イロニー)において実現された。これに対して四迷、漱石、鴎外らはちょっと違う態度であった。文学をヒロイズムとしてではなく、相対化する視点であった。その程度のものとして理解していた。二葉亭四迷の遂語的・忠実な翻訳体が与えた影響を見てゆく。森鴎外の翻訳は、原作から自立した創作として定評があった。それにたいして四迷の翻訳は読みずらいと評判は悪かったそうである。ツルゲーネフの「あいびき」などの翻訳は大きな影響を与えた。ベンヤミンは「翻訳者の使命」で、「自国語の偶然的状態を墨守することは誤りだ。自国語を外国語によって激しく揺り動かすこと、つまり言語の究極の状態にしなければならない」とした。文学テキストには言語的な形式自体が持つ、何らかの意味に還元されない何かがあるという。ベンヤミンはこれを「純粋言語」と呼んだ。ルターがラテン語の聖書をドイツ語に翻訳し流布させたことで、標準的なドイツ語になったことはよく知られている。近代の国民言語はすべて翻訳を通じて形成された。四迷は「心身を原作者の儘にして、忠実に詩想を写すことが翻訳の根本である」という。意味に還元されない「純粋言語」を感じ取ることである。四迷はツルゲーネフよりむしろゴーゴリ―やゴーリキの翻訳を志向していた。しかし四迷のツルゲーネフの翻訳だけが影響を与えた。それは日本のリアリズム小説がそれを望んだからである。リアリズム話法の完成は「三人称客観描写」であった。フランスで19世紀中頃完成され、ロシアではツルゲーネフによって確立された。ロシアではツルゲーネフ的話法を拒否する作家がいた。ゴーゴリ―、ドストエフスキーらはルネッサンス的小説を好んだ。漱石はスターンやスウィフトを称賛し、ゴーゴリ―に親近感を持つ四迷の間には「俳諧」という日本の伝統が共鳴していた。印象派後期のゴッホなどは幾何学的遠近法からの脱出を日本の浮世絵に求めたとき、日本の西洋画はリアリズム絵画を求めた。時代のイロニーであろうか。

3) 告白という制度

田山花袋の「蒲団」という「私小説」は、島崎藤村の「破戒」が切り開いた近代的な小説の可能性を閉ざし、私小説の方向へ導いたという批判がなされる。読者に主人公と作者が同一人物と思わせ、真実らしく見せるために「告白」という形態が用いられた。それがリアリズムなのである。虚構を真実らしく描写することである。「三人称客観」描写」が確立するころ、アンチロマンとして「私小説」が現れたのである。独歩は「欺かざるの記」で、日記という形を取って事を描かないで心を描いたのである。取るに足らないことを告白することは、そこの近代小説の「告白」の特徴がある。告白という形において、「自己の精神=真実」なるものを書いたのである。花袋の「蒲団」が好評を得たのは、抑圧によってはじめて存在させられた性が描かれたからである。ミッシェル・フーコがいう告白=真実=性の3つが結合された。キリスト教の告白するという義務が、隔すべきこと、あるいは内面を作り出した。正宗白鳥は「透谷・独歩・蘆花らが懐疑・懺悔・告白などのことばを口にするのはキリスト教の刺激による」と記している。古代の日本には「恋」はあったが「恋愛」という感情はなかった。恋愛はキリスト教による転倒がもたらした病気である。明治20年ごろキリスト教は文学を通じて日本社会に浸透した。ギリシャ精神が健康の表れなら、キリスト教は万人を病気することが教会組織の底意だったといえる。恋を隠すべきこととして、教会周辺に「恋愛」が発生した。山路愛山、内村鑑三、新渡戸稲造などキリスト教に向かった人々は、旧武士階級でなかでも旧幕臣であった。キリスト教が食い込んだ対象は無力感と怨恨に満ちた病気の心であった。不安な心は現実世界に対して、無関心な精神をうみだす。西田幾多郎や漱石らは禅に向かった。彼らが告白を始めた。告白はねじ曲げられた権力への意思である。告白は主体たることを狙った支配力である。真実は有無を言わせない、告白という制度は別の権力意志=専制権力志向であった。主体の確立において、内村鑑三は唯一の神を求めた。絶対神を求める権力志向に見るように鑑三は「旧約」的であった。いかなる意味でも明治政府に服従することを拒む彼の武士道精神は、唯一神に対する服従によって絶対的主体を得たのである。明治20年ごろからキリスト教徒出会った人々が自然主義に向かった。異質な健康人であった志賀直哉は、内村鑑三のなかに専制者を見た。宗教または文学における主体(主観)の成立は、近代国家の成立に対応している。「近代的自我の確立」は「近代的国民の確立」と同期していた。権力に対する個人の内面を対置する考えは、国家に対する個人の確立のことである。

4) 病という意味

明治41年に起きた「七里ヶ浜事件」は「真白き富士の嶺・・・帰らぬ十二の雄々しき御霊に・・・」のキリスト教的な歌によって一挙に神話化さえた。実は不良中学生の愚行に過ぎないよくある話が、結核療養患者で女教師の手によるピューリタ二ズムと欺瞞のなせる歌が、社会的な神話作用(文学的美化)を招いたのであったという。騒動の真の被害者である寮監の文学趣味も徳富蘆花の「不如帰」にまつわる因縁に呪われていた。最初から最後まで文学ありきの社会事件であった。「不如帰」は継子いじめや結核という題材を取った新派の舞台のような作品で、「湯島の白梅」の病で死ぬ話に似ている。結核は当時の一種のメタファーであった。ロマン派と結核の結びつきはよく指摘されるように、ソンタグの「隠喩としての病い」によると、18世紀中頃にはロマンチックな連想を獲得していた。貴族の令嬢が結核病という衣装をまとって、清らかに現れるという「自我に対する新しい態度」を表現していた。これは西欧的な転倒である。リアリズムの写生文である子規の「病状六尺」には、骨髄結核を病む子規がセンチメンタリズムとは無縁の死を迎える実践的な姿勢を記していることと正反対の態度である。「不如帰」という作品が「病状六尺」から見て完全にねじ曲げらた構造を持つこと、それゆえに感染力を持つのである。明治20年代に知の制度の確立が隠ぺいした「転倒」に、伝染病についての医学知識がある。結核菌は太古から存在していたが、結核に対する知識が問題なのである。病原菌として結核菌が発見されたのは1882年であった。病原菌の特定は19世紀の医学の最大の関心事であったが、病原菌が体内にいることと発病は別問題である。もともと一つの原因を特定し根絶する医学詩想こそが、神学・形而上学なのである。病原菌は原罪のように扱われた。問題は医学的イメージである。現在は癌と成人病であるが、多くの人は癌よりも癌の医学イメージによって追い込まれている。病気の隠喩の正体から解放されること、つまり健康になるには隠喩がらみの病気感を一掃することである。近藤誠著 「医者に殺されない47の心得」(アスコム)は医学という社会的制度がつくる「病気」から解放される方法を示唆している。現今の科学全体はなお言語の誘惑に引きずられている。原発事故後の「原発安全神話」にかわる「安全と安心」神話も、もはや信じれば救われるレベルの宗教である。ニーチェは「道徳の系譜」において、病原=主体を物象化してしまうことが病的なのだ。」という。「病と闘う」というのは、病気があたかも作用する主体であるかのようにみなしている(癌を「悪性新生物」と命名するのもそれである)。まるで身体内の悪魔と闘うという聖戦士のイメージである。ミッシェル・フーコは1776年フランスで王立医学協会が設立されたことで2つの神話が生まれてという。一つは国家された医療で医者は聖職者となった。もう一つは健全な社会を形成すれば病はなくなるという考えである。もはや医学は人間管理の規範的な位置を占め、中央集権的政治のトップに医者が立ったということである。病原体理論で病原体を排除することが社会的目標となり、抗生物質・抗がん剤の多用、がん手術の絶対的君臨を招いて、多剤耐性菌の出現、抗菌潔癖主義の流行という笑えない事態となった。明治20年代の文学は、国学・漢文学の排除と西欧文学の輸入が確立された。この社会は病んでいるから根本的治療が必要だという政治思想はファッシズムの台頭を招いた。結核はそれほど感染力は強くなく、産業革命後の生活環境の激変と悪化が招いた公害病の一つであり、社会システムのアンバランスから生じている。病気の原因を医学的にひとつに還元することは、それは諸関係のシステムを見失うことになる。

5) 児童の発見

児童文学の生誕は小川未明「赤い船」(硯友社系の作家)あたりらしい。それは文学の成立に後れること20年の明治40年代〈1910年ごろ)のことである。よく言われるように、児童文学がはたして大人の文学の夢、詩、退行的空想だったのだろうか。子供を見る目が不在だったころ、自然文学が「言文一致」という文体を生み出して「風景」を発見したのと同様に、児童という風景を発見した。「現実の子ども」や「真の子ども」があったわけではない。児童は最初から転倒していたのである。「真のこども」は虚構であった。日本における児童文学の後れは、「文学」の確立の後を待たなければならなかったからである。「児童」の歴史性を見ないで、児童心理学は分からない。児童はそれまで存在しなかった。子供という観念が出来上がったのはルソー「エミール」(1756年)以降のことである。それは@子どもは小さな大人ではない。A子どもには子ども時代という固有の世界がある。B子ども時代には、大人に近づけるのとは違った意味での、子ども固有の成長の論理がある。C成長の論理に即して手助けすることが教育である。という。大人と子供の分割が歴史的所産であることが忘れられている。柳田国男は「子ども風土記」において「子どもとして扱われなかった」子供の世界を描いている。柳田は昔話は子供のために語られたものではない、残酷な童話がいくつもあるのは大人の構成編集がさせた結果であり、最初から教訓話として子供に語ってはいないという。こうした民話は、神話や昔話の諸要素の構造論的組み換えにほかならない。坂口安吾は「文学のふるさと」で、こうした規則化をしなければ、人間存在を破滅してしまいそうな混沌を「文学のふるさと」と呼んだ。文学の湧きでる泉であろうか。るそーは子供の科学的観察を始めるにあたって、こどもを経験的存在としないで、生活から隔離され抽象された方法論的概念とした。フランスの哲学者ミッシェル・フーコは「18世紀のルソーらの考えは、子どもの発達に沿う教育学的原則に従い、子どもの尺度に応じた世界を作る事であった。現代の教育学は、大人の葛藤から子どもを守るためという目的で発展してきた。文化に内在するいろいろな葛藤や矛盾は、現実の姿のままで教育制度に投影され、様々な神話を通じて間接に反映されている」といった。心理学(精神病理学)が分離された「狂人」を作り出したように、児童心理学は分離された「子ども」を作った。フロイトは神経症が生じている人は幼年期に問題があるとして、幼年期の葛藤や矛盾を取り除き子供を保護するものである。それが結果的に神経症を生むのである。精神病理学がつぎつぎに広汎に「病人」を生み出しているのは近代科学の宿命である。「まともな人間」ているのだろうかと思われる。明治政府以来「義務教育制度」を疑う人はいない。柳田国男は教育概念の自明性を疑った。近代日本の義務教育が子供を年齢別にまとめて、従来の生活環境、階層、共同体に属していた子供を、抽象的・均質的に引き抜くことを意味した。そして明治以来、学制と徴兵制は均質な国民を作る上で重要な手段となってきた。こうして児童文芸雑誌は学校教育の補助装置として出現した。近代文学も学制が整備され定着してきた結果、本を読む人ができたから成り立つ産業・文化装置となったのである。「真の人間」、「真の子ども」そして「期待される人間像」を構想する教育者・児童文学者は近代国家制度の独裁者であることを全く意識していない。

6) 構成力について 二つの論争

@ 没理想論争
近代以前(江戸時代)の文学を読むとき、そこに「深さ」が欠けているように見える。諧謔を中心とした「軽さ」といってもいい。これを絵画技法でいうと「奥行きがない」ということである。中世の宗教画には平面的で奥行きはなかったが、近代の遠近法(消失点作図法)によって、数学的な比例則を持った作図法により、目の錯覚によって現実味を帯びて見えてくる。近代文学的な「深さ」とは配置の変容によって「生」や「内面」が見えることである。しかしその内面的深化は別に文学的価値とは関係しないのである。パノフスキー「象徴形式としての遠近法」にも、数学的問題としての遠近法は芸術的価値とは無関係であると言っている。遠近法は要式の契機であり、あらゆる展望の良さ(パースペクティヴ)に関わる問題である。絵画における幾何学的遠近法は、中世美術の「均質空間」(つまりキリスト教世界)から出てきたものである。遠近法や進化論的展望はいつも変化するという非キリスト教的形而上学の中ではぐくまれた。それはヘーゲルの弁証法、ダーウィンの進化論という形を取った。ヘーゲルの進化論とは完成から理性への合目的的な遠近法であるが、ダーウィンのそれは偶然の契機と無目的変異を特徴とする。理性の等質的空間が意識された近代国家・社会において、理性と狂気の分離が起きたとフロイトがいう。狂気を囲い込んで排除するのが精神病理学である。世の中にあらがうものは狂気とされ排除される。医者とは裁判官のことである。ヘーゲル的な遠近法(弁証法)を批判したものはマルクスである。対立と矛盾は結果から見たものであり、人間は社会的諸関係の総体と見なければならないという。1885年に出版された坪内逍遥の「小説神髄」を巡って、坪内逍遥と森鴎外の間にいわゆる「没理想論争」が起った。小説分類にこだわる形態論価値説の坪内逍遥に対して、遠近法的文学史観で小説分類の発展的理念(近代文学の理想)を説く森鴎外の攻勢に終始した。小説は何を主とするかによって、逍遥は固有・主事派、折衷派、人情派の3目を立てた。逍遥はシェークスピアの「没理想」を称賛し、シェークスピアの作品テキストはどんな理想にも還元できないという。鴎外の主張は、逍遥が併立させた三派は階層(階級)にすぎず、発展段階に他ならないという。鴎外は理想理念を主張するのはカテゴリーを階層化し、遠近法で位置づけることであった。鴎外は厳密にはそこからの未近代文学が成立してきたという。鴎外は明治20年代に在った様々な文学意匠を対立として構成し、江戸文学的な流れを下位に置いた。ところが大正時代に入って鴎外は転回を遂げる。いわゆる鴎外の歴史小説群からである。鴎外の歴史小説については、尾形仂著 「鴎外の歴史小説ー史料と方法」(岩波現代文庫)に鴎外の作品群を挙げた。「興津弥五右衛門の遺書」から歴史小説が始まる。これ以降の作品は、超越論的な意味を拒絶し、全体を見通すような遠近法はない。大正4年に発表した「歴史其の儘と歴史離れ」において「私は資料を猟歩してその中に現れる自然を尊重する念を発した。それをみだりに変更することが嫌になった」という。鴎外は「纏まりをつけることに嫌になった」つまり構成への嫌悪は大正時代の歴史小説への傾斜と並行している。これは芥川龍之介にも共通していている。坪内逍遥との「没理想論争」における坪内の位置に鴎外は移ったことになる。これには老化現象のような自然さを感じる。
A 「話のない小説」論争
芥川の死の直前(1927年、昭和2年)、芥川龍之介と谷崎潤一郎の間で行われた文学論争を取り上げる。柄谷氏は論争を取り上げるのは、論争の内容や問題点を解決するためではなく、「対立としての意識された問題をひとつの症候として読み解く」という。芥川は「芸術的な、余りに芸術的な」において、志賀直哉を例として「話のない小説」について、話は芸術的価値とは無関係であるといい、谷崎は筋の面白さは物の構成や組み立て方、構造の面白さから成り立っているのでこれに芸術価値がないとは言えないと反論したという。論争というものは問題が論理的に解決されたためしはない、ウイットゲンシュタインが言う様に、問題は問題でなくなった時にのみ対立点が消えるといっている。微妙に言葉の定義が異なり、論点が変遷し、内容が掴みようがないのが論争なのである。佐伯彰一氏によると、「状況は終始芥川のじり貧で、負け戦であった」と感想を述べている。ところがいつも後世になって、論争に負けた方の主張が正しかったと評価される場合が多い。つまり論争に勝ち負けはないのであって、対立の形式が網目状にからみあった様態を切り捨てているからに過ぎない。この論争は大正ロマン期におきた「三人称客観」という視点の虚構性への反発として見ることができる。現代絵画は19世紀後半から幾何学的遠近法への反発からおきた。キュービズム、後期印象派、表現主義の反遠近法がそれである。哲学においては知覚と身体の現象学的な視点である。相互には何の関係もないのであるが、現象としては似ているのである。芥川は「話のない小説」で話を否定するとき、彼は詩的な小説、デッサンより色彩を重視する考えである。芥川のいう「話」とは「見通しを可能とする配置」のことである。つまり中心を持たない断片の諸関係という意味である。志賀直哉の「私小説」は、近代文学の配置が不自然であるという反発からである。大正期文学は明治20年代に確立された近代文学に対する潜在的なリアクションであったというべきだろう。志賀直哉の「長編小説の精緻な形式的完成美」の欠如は芥川も同様である。谷崎は彼らを批判して「日本文学には体力がない。構成力がない」という。谷崎が言う「話」とは「物語り」なのである。谷崎も明治の近代文学とは異質の存在であった。むしろ排除された側に位置する。芥川は遂に漱石が書いたような小説は書いたことはなかった。彼が書いたのは「物語」しかない。しかも古典から拝借した短編である。谷崎も「物語」派であるが、芥川は谷崎のような「精緻な形式完成美、祭式的な構造」を持たなかった。「物語」は小説ではないし、物語の構造は構成力とは別問題である。谷崎が最も意を用いたところは、この構成する力、入り組んだ話の筋を幾何学的に組み立てる力である。これは日本の小説にはなかった。長編小説「源氏物語」の作者紫式部の才能は、漢文学「史記」を学んだことからきている。森鴎外、紫式部の構成力は漢文学の素養無くしてはあり得なかった。坪内逍遥と森鴎外の「没理想論争」、芥川龍之介と谷崎潤一郎の「話のない小説論争」は、実は半世紀遅れの同じ論点で、一つの円環を結んでいる。


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