2014年5月9日

文藝散歩 

「移ろいゆく日本語 今も昔も」
1)田中章夫著 「日本語スケッチ帳」 岩波新書(2014年4月)
2)今野真二著 「日本語の考古学」 岩波新書(2014年4月)


言葉の使い方に正誤はない 時代をへて日本語は変わってゆく

2014年4月18日、岩波新書より「日本語の今昔」に関する本が2冊同時に刊行された。1)田中章夫著 「日本語スケッチ帳」は現在の日本語の様子をウォッチングしている。2)今野真二著 「日本語の考古学」は明治時代以前の日本語の変遷をいろいろな視点で考察している本である。2冊の本は、特に系統的に日本語の変遷を論じているわけではなく、トピックス的に面白そうな話題を披露しているので、肩の凝らない読みやすい読本である。2冊を読んでみて私が思うことは、今も昔も言葉は環境に応じて移ろいゆくもので、この言い方、読み方、書き方が正しいとか誤っているとかいうことはできないということである。常用とか変体とか言いう区別は多数決で採る者でもなく、まして地域的な差異(方言)は当たり前のこととして許容しなければならない。言葉は都から同心円状に伝播したといううがった見かたは、立証できているわけではない中央集権的な見方である。変体的な使い方も次第に常用になることもある。言葉は人が使うものであるから、使いやすいと感じられると広まるものである。明治維新で方言を整理して、山の手言葉から「標準語」というものができ、画一的な教育が可能となったが、今も大阪弁は地方では立派に生きている。日本語を使う人は1億2千万人おり、世界で9番目に多いとされているが、結局国の人口の数に過ぎず、日本語が孤立した言語であることは変わりない。日本語の起源は不明である。国際化において日本語は障害になっているのだろうか。英語を世界語にするかという議論も米国の覇権が破たんすれば、中国語に取って代わる可能性もないとは言えない。言葉の発生と文法の発生についても脳細胞構造と機能から説明することは今のところできていない。ましてDNA塩基配列の差異から説明することは不可能である。国語学という学問ジャンルにはあまりなじみがなく、乱れた日本語のウォッチングや文法や、常用漢字制限、送り仮名の使い方などについて、文部省が発表する記事を新聞紙上で読むくらいであった。文部官僚が制限を強めたり緩めたりといった、国語審議会を使った裁量行政の弊害のみが気になる分野でほとんど関心がなかった。今も昔も国語は揺れ動いており、何が正しいかというよりは、その変化は何を反映しているかという時々の社会意識が動かしているようである。将来国際化によって孤立した言語「日本語」がなくなるかどうかは知らないが、日本語はどうして成立したのかのほうに限りない興味が湧くのである。


田中章夫著 「日本語スケッチ帳」 岩波新書(2014年4月)

まず最初に著者田中章夫氏のプロフィールを概観しておこう。氏は1932年東京赤坂生まれ。1959年東京教育大学(現筑波大学)博士課程を修了。香川大学の教師、国立国語研究所言語計量研究室長を経て、大阪大学外国語教授、学習院大学教授を歴任した。その間、台湾、オーストリア、エジプト、インド、オーストラリア、上海・北京・台連の大学で日本語教室に勤務した。専攻は近代日本語学、日本語語彙論であるそうだ。主な著書には「国語語彙論」(明治書院1978年)、「東京語ーその成立と展開」(明治書院1983年)、「標準語」(誠文堂新光社1991年)、「日本語の位相と位相差」(明治書院1999年)、「近代日本語の語彙と語法」(東京堂出版2002年)、「日本語雑記帳」(岩波新書2012年)などがある。本書「日本語スケッチ帳」では、各章に順序や系統があるわけではないのでトッピクスを拾い読みしてゆけばいい。ちなみに各章の題名は1)二ホン語は、いま、2)揺れ動く言葉、3)人命と地名、4)外国語から外来語、5)スポーツの言葉、6)翻訳の世界、7)文体・表現・敬語など、8)語法と用字の諸相、9)変身するコトバ という内容である。各章は4つから5つのトピックスからなる。では気軽にトッピクスを追ってみてゆこう。

1) 二ホン語は、いま

@滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」が2013年12月「ユーキャン新語・流行語大賞」になった。様々な流行語を生んだ「ユーキャン新語・流行語大賞」も30周年を迎えた。滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」は2020年オリンピックの東京招致の舞台で身振りを交えて一音節ごと区切って発音するものであった。この身振り言語は手話と同様に各国で違った意味を持つもので、エジプトでは「静かに」、「口を閉じなさい」という意味で、スペイン語圏では「たくさんだ、十分だ」のサインだそうである。
A「やば!」、「はや!」、「ウマ!」「安!」など形容詞の語幹の用法に違和感を覚える人がいるらしいが、「国語に関する世論調査」(2011年文化庁)では65-85%以上が気にならないという。万葉集でも「あなみにく(醜)」という風な言い方があった。形容詞の語幹用法は感動・詠嘆の表現にはしばしばみられる。特に関西(上方)の話法としては、面白みのある突っ込み用語で昔からあった。関東人が馴れていないだけのことである。
B「ウッソー!」、「ホント?」は若者の仲間コトバだった。真偽を確かめる疑問ではなく、意外感を表現する相づちにすぎない。関西ことばの「ホンマかいな」に通じる。日本人には分かるが外国人には難しい言葉として、英語でいうとnever mindに相当する「ダイジョウブです」とか「ヘイキです」とか「・・・となります」は状況によっては意味を取りにくい言葉である。何気ないやり取りでもちょっと考えると「何がダイジョウブなのか」わからない。
C香港経由の変な日本語によるメールにはウイルス感染の可能性がある。外国人留学生のレポートに間違いではないが日本人では使わない用語・用法が見受けられる。翻訳語にも多い。例としてホテルでの日本語案内で「お客様の現金と貴重品は貴重品ボックスに預けてください。あづけなかった物の紛失は私のホテルの責任じゃないです」とあるのは、落ち着かない日本語、不自然な日本語、場違いな日本語である。仲間コトバや難しい言葉が突如現れる文章はやはりおかしい。論文を書くとき「必ずネーティブ・チェックを受けなさい」という忠告はやはり真実である。

2) 揺れ動く言葉

@多少オーバーな表現として「鳥肌が立つ」という表現が好まれている。本来の「鳥肌が立つ」は、寒さや恐怖なdによって総毛立つとか肌に粟を生じるという意味で反射現象をいったものであるが、これが喜びや感動に用いられるのは、対立する概念への転化で「対義的転換」などと呼ばれる。「笑止の沙汰」「笑止千万」と言った「笑止」は「気の毒、困ったこと」と言った深刻な意味から「笑うべきこと、おかしなこと、ばかばかしい」という意味に転化した現象と同じである。「家計的に苦しい」という「・・的」表現もすっかり定着した。「気のおけない人」が「気を許せない人」という意味でつかわれることがある。「気安いひと、心やすいひと」の意味で使われていたのだが。「割愛する」は「本来惜しいと思うものを手放す」であったのが「不必要なものを切り捨てる」という意味でつかわれる。「うがった見方」は本来「物事の本質をとらえた見方」であったが、「疑ってかかる」という意味に転化している。実を言うと私も「割愛」するは転化した意味で捉えていた。
A「天地無用」とは倒置厳禁と取れない人がいるらしい。上下、表裏をひっくり返すことを「天地する」と言ったことからきている。「犬も歩けば棒にあたる」という言葉は本来は動き回って災いにあうことであるが、「幸せに出会う」という意味で用いられるという。「情けは人の為ならず」という言葉も反対の意味で使用されている。ことわざに「転石 苔を生ぜず」があるが、苔の意味は本来貫禄を示す言葉で、イギリスでは「ふらふらして落ち着きのない人には貫禄が付かない」という意味合いだった。ところがアメリカでは「転がっている石は汚れない」(進化信仰)という意味になっている。
B「君子豹変」という言葉は本来「面目を一新して良くなる」というプラスイメージであったが、いつの間にか「ずるがしこい」というマイナスイメージに替わった。「時に及んでは、まさに勉励すべし、歳月は人をまたず」は勧学の意味ではなく、本来は享楽のことであった。反対の意味に読めることは特に詩歌に多い。どうとでも読めるということである。
C「なでしこ」という花は「可憐」という意味よりも「たくましい」という意味がある。「なでしこジャパン」、「大和撫子」とはそういう意味である。明治時代には男子にも女子にも「なでしこ」という言葉が使われていた。

3) 人命と地名

@ベネッセコーポレーションの赤ちゃん「2011年名前ランキング」では、男の子は「大翔(ひろと)」、女の子は「結衣(ゆい)」だったそうだ。昭和初期に女の名前でカナ2字型の名前「はる、とめ、ちよ」は激減し、9割は「千代、恵美、久子」といった漢字書きとなった。古来皇族や武家の子女に限られていた「・子」のつく名前が急増したという。男の名前では左衛門などの3字以上の名前は大正時代までで、昭和から清という1字名前や「〜男」などになった。戦争中は勇、勲などの勇壮な名前が多く、戦後は和夫、和子など平和志向に替わったという。2006年悠仁親王誕生で「悠太、悠斗」などが急増した。命名には時代時代の流行が顕著にみられる。1946年「当用漢字」が生まれ「戸籍法施行規則」で命名に使える文字が当用漢字1850字に制限された。1981年常用漢字1945字の施行にともない、人命用漢字別表(別枠で使える漢字)は166字となった。
A「吉原」を駅名では「よしわら」と呼ぶ人は東の人、「よしはら」は西の人である。「秋葉原」は江戸っ子は「あきはばら」は間違いで「あきばっぱら」と呼ぶ。「高田馬場」は「たかだのばば」は間違いで地元とでは「たかたのばば」と呼ぶそうである。札幌郊外の「月寒牧場」は正しくは「つきさっぷ」と呼んだが、いまでは「つきさむ」となっている。京都下京区の奇想天外な通リ名「天使突抜」は16世紀に作られた5条天神の境内を突き抜ける道のことである。
B「大阪」はもとは「大坂」と書いていたが、土に反るは縁起が悪いので「大阪」になったという。日光はもと「二荒」を避けた言い方である。江戸時代の刑場「小塚原」は、「骨ケ原」は露骨なので言い換えたのである。「粕壁」は「春日部」となった。「代馬(しろうま)」は「白馬(はくば)」になった。現在中国のことを「シナ」と呼ぶのは右翼か保守反動政治家(石原氏)ぐらいである。

4) 東のことば、西のことば

@京都を代表する「いけず」「始末家」は東京では「意地悪」「ケチ」に聞こえるらしい。「始末」は京都では「倹約、節約」というプラスイメージであるが、東京ではケチと映るようだ。京都と東京の対抗語にはほかにも、「おいでやす」と「いらっしゃいませ」、「「〜はる」と「なさる」、「ねき」と「そば」などがある。曰く言い難しのニューアンスの差異がある。
A関東系では「かぶ」、「なす」は関西系で「かぶら」、「なすび」という。関西であつあげを焼いた「あつやき」とは関東では「卵焼き」のこと、関西の「かんとだき」、「にぬき」は関東では「おでん」、「ゆでたまご」となり、今では若い人は、「なす」、「かぶ」、「おでん」、「ゆでたまご」という人が多い。反対に京都生まれの「しゃぶしゃぶ」は今や世界語となっている。関西でいう「てんぷら」とは「さつま揚げ」のことである。関東では「ご飯を炊く」と「大根を煮る」を使い分けるが、関西は「炊く」で済ます。
B東京弁の代表みたいな「行っちゃった」、「行っちまった」という言い方は、江戸時代の「行っちまった」が明治時代に「行っちゃった」になったらしい。最近は「行ちった」と変化している。江戸っ子弁が東京弁に、そして周辺地域のことばが東京に流入している。
C関西語の「〜いな」と関東語の「〜なよ」関東語では命令・禁止を意味する「〜ナ」が関西語では勧誘・指示の「〜イーナ」の柔らかい表現となっている。東京などで「行くまい」の「まい」は「行くまじ」の「〜まじ」系だが、関西の「行かまい」は「〜まし」の系統である。

5) 外国語から外来語

@外国語の意味と、外来語の意味相が違う場合がある。例えば「志願兵」は英語ではボランティアと訳されるが、しっくりこない。外来語ボランティアは「無償奉仕活動」を意味し、志願兵・義勇兵でもなければ、強要された「特攻隊」・「決死隊」でもない。大学の学部を「デパートメント」というが、日本語にはデパートメントストアと受け取られる。英語の「ロースクール」とは日本語の法律学校という意味ではないようである。もっと上級の選ばれた組織であるようだ。法曹界という意味に近い。英語の「コピー」と複写のことではなく「同じ本」という意味である。中国語と日本語の関係でいえば、日本語の「大人・小人料金」の「小人」は中国語では「児童」となる。「小人閑居して不善をなす」の「小人」と受け取られる。
A日本式英語には外国人には全く通用しない造語が多い。サラリーマンはoffice workerであり、タレントはpersonality等々である。ビジネスガールとは娼婦のことになる。標準英語なんて存在しないらしい。我々が英語と言って習っているのはイギリス人の英語であり、アメリカ人の英語とはずいぶん違う。
B昭和初期に外来語の発音とかな表記が大きく変化してきた。「ヤ」表記は「ア」表記に、「リヤ王」は「リア王」に、「アジヤ」は「アジア」に替わった。しかしかたくなに日本式発音を取っている言葉も多い。「ラジオ」、「チケット」、「ジレンマ」、「メリケン」などである。明治初期にはオランダ語の「そっぷ」が英語の「スープ」という意味でつかわれていた。「ガラス」もオランダ語である。英語では「グラス」である。草のグラスと見分けがつかない。

6) スポーツの言葉

@オリンピックのシンボルマークを日本では「五輪」と言い、中国では「五環」だそうだ。五輪という言葉を使ったのは1936年読売新聞・日本経済新聞が最初だそうだ。本節の主題は5輪ではなく、日本で情報抄録アルゴリズム研究の幕開けとなったのがある記者の5輪記事であったという回りくどい筋回しによる。1957年に人工衛星と宇宙開発に後れを取ったアメリカが大量のロシア語論文の収集・機械翻訳・抄録作成等の情報科学研究を開始した。実際は図と数式中心の技術論文を読む価値があるかないかの判断に使われる程度の情報処理能力であったようだ。日本では1936年に自動抄録処理の研究が国立国語研究所で始められた。その時のお手本が5輪記事であった。アルゴリズムは1)用語頻度を調べ、2)動詞、助詞などを除いたキーワードを決定する、3)キーワードの含有率を算出し、含有率の大きい順にセンテンスを選定する、4)一定数のセンテンスを原文出現順に並べるというものであった。現在は科学技術情報センター<つくば市)で文献抄録が作られている。
A明治6年「野球」というスポーツ用語が考案され、戦前までにスポーツ翻訳語が生まれた。戦後はカタカナ語で表され明治以来の翻訳語は消えうせた。その中でも体操の用語には日本語が数多く使われているのは異色である。
B戦前は運動会での応援コトバは学習院女子部では「お勝ち遊ばせ」という上品な言葉があったそうだ。2013年有明コロシアムで行われた東レパシフィックオープンで「あー」とか「Oh−」とか言う「溜息」では選手の闘志に水を差すのでやめてほしいという「溜息騒動」があったそうだ。テニスや卓球の選手の気合いのことばもなかなかのものである。

7) 翻訳の世界

@2013年5月WHOの「世界禁煙デー」で「たばこの広告・販売促進・支援活動の禁止」を厚労省は「たばこによる健康影響を正しく理解しましょう」となってしまう。これは超意訳というより「すり替え」である。従軍慰安婦を安倍政権の日本政府はcomfort women と訳するが、欧米メディアがずばりsex slaveと報じる。日本政府約ではコンパニオン・酌婦程度であるが、欧米では人権上許されない搾取となる。俵万智の「サラダ日記」はシェークスピアの「アントニーとクレオパトラ」のセリフのsalada daysから来ているようだ。「若かりしころ」、「青二才」、「若気のいたり」という入アンスがある。youthの類似語にはsalada daysが存在する。
A政治家のことばには陰影が多い。ロッキード事件で中曽根幹事長は米国政府に「hush up(momikesi) the matter」依頼公文書を送ったという。鳩山首相は沖縄基地県外移転問題で訪米中に「私に一任ください」というtrust meと大見得を切った。大平洋戦争終戦時の鈴木貫太郎首相の「ポツダム宣言を黙殺ignoreする」という言葉が米国には「拒否するreject」という意味に受け取られ、原爆2発の投下になったという。本土決戦を叫ぶ軍部に対して受諾という言葉を隠すための黙り戦術(黙認ともいえる)を連合国には拒否と受け止められた。戦後政治家の決まり文句「善処します」、「前向きに検討します」は結果的に何もしない言葉になってしまう。
B日英同時通訳機には日本語が5万語、英語は3万6000語である。日本語には言い換えが多いからである。使用頻度の高い単語の上位1000語の占める率は、英語で85%、フランス語83%、中国語76%であるが、日本語は60%に過ぎない。日本語では多様な言葉が用いられる一方、「する、なる、いる、ある、ない、この・・・」と言った単語の使用頻度が極端に高いためである。
C日本人は髪を黒いといい、瞳の色を黒といい、肌の色を黄色というが、これは英語ではbrown,brown,oliveだそうだ。yellowは蔑称なのである。茶色のねこはorange catである。太陽の色は日本では「赤」をいうが、世界中では黄色である。中国では白である。日本で兎の眼は「赤」だが、英語ではピンクである。交通信号の色「青」は実は「緑」であり、日本人の色表現では青と緑は区別されていない。日本の常識は世界の常識ではない。

8) 文体・表現・敬語など

@断定のことばに「〜だ」、「〜である」、「〜じゃ」、「〜や」とある。概ね西から「〜じゃ」、関西は「〜や」、東日本では男の私的な「〜だ」、演説や改まった場所では「〜である」が使われる。「〜である」は江戸時代の漢学・蘭学・英学の講義やに盛んに用いられ、明治時代の会話体・演説に広く用いられた。谷崎潤一郎は「である」調を横柄な感じがすると言って嫌ったという。
A「〜させていただきます」という一見丁寧な言い方には、公立国語研究所は「自然に生じる用法の是非は判断する立場にはない」という。「いただく」には貰うという動詞の他にへりくだりの謙譲語の用法を持っている。もう一つの丁寧語に「〜になります」があり、エレベータの案内によく使われている。「2階は紳士服売り場になります」というたぐいである。「〜です」や「〜でございます」が変体したのであろうか。
B「お酒飲まれますか?」というのは、できることを聞いているのか、敬語なのか判別しない。「セミナーに出られますか?」も同じである。とかく敬語はむずかしい。そして誤用が一番多いのである。喫茶付きの菓子屋で買ったとき「お持ちしますか?」はテーブルに運んでくれるのか、テイクアウトするのか判別しない。テイクアウトかどうかお客の相手に聞くなら敬語の「お持ちになられますか」と言えばわかる。店員が自分の動作の謙譲語で「お持ちしますか?」はテーブルに運ぶことである。敬語は京都を中心に発達したが「お〜する」、「お〜になる」は江戸時代に関東でも使われ出した。もともと敬語や謙譲語表現に乏しい関東では誤用の種となった。「食べる」は元は「賜う」から来た言葉で、東日本では「くう」、「(食え)けー」であった。
C源氏物語「乙女」に彎曲な命令言葉がある。講義中私語でうるさい時「鳴り高し。鳴り止まん。甚だ非常のことなり。座を引きて立ち給うびなん」という。相手が高貴な貴族の子弟なので「やかましい。静かにしろ。出て行け」とも言えないのでこうした表現となった。接客用語に「〜頂きますようお願い申し上げます」と丁寧すぎる言い回しがある。東日本大震災を教訓として避難指示は従来の「お願い型」を止めて、「直ちに避難しなさい」となったそうだ。帝国軍隊用語に出撃命令に「〜セントス」と決意をあらわす言葉を用いた。とかく日本語は命令を避ける特性がある。
D可能の助辞「られる」の「ら」を省略して「来れる」という言い方が日常会話に現れた。「れる言葉」、「ら抜き言葉」として、見れる、起きれる、食べれるなどがあり、関西や中部でもっぱら使用される。関東は「れる」と「られる」が併用されている。テレビではアナウンサーでは禁句なのだが、バラエティショー、クイズ番組では普及している。
E明治期の女学生言葉として、「〜てよ」、「〜だわ」が使われ「てよ・だわ言葉」と呼ばれた。書生言葉に「ぼく、君、〜たまえ」、外国語のカタカナことばがあるが、これな「官員言葉」でもあった。現在の官僚文章は「てにおは」を除けば横文字由来カタカナ言葉で埋まっている。どこの国の文章かと疑う。上流婦人言葉に「ざます言葉」、「遊ばせ言葉」があったが、「お屋敷言葉」とも呼ばれた。下町ではこれと対称的に「ベランメー調」言葉が使われ、江戸落語の中心をなした。

9) 語法と用字の諸相

@助詞「てにおは」の使い方で意味が変わってくる。「〜に鑑み」、「〜に培う」の「に」が「を」に変わりつつある。「馬に水飼う、花に培う」から「花を培う」、「体力を培う」である。助詞の意味・用法は微妙である。高校の教科書に「米洗う前(に、へ、を)蛍が2つ3つ」の使い方で蛍が生きてくる。「に」では蛍の屍か蛍が止まっている様子で、「へ」では飛んできたが目の前で落下する様子で、「を」で目の前を蛍が飛び交う様子が見えてくる。
A指示詞「これ・あれ・それ・どれ(いずれ)」は順に自分に近い、相手の近く、自分でも相手でもない第3の物事、不定の物事を示すとされている。不定の古語では「いずれ・いずこ・いづかた」が優勢であるが、土左日記では「いどこ」が使われている。日本語の指示詞は基本的には「こ・そ・あ」で構成される。
B現在では詩歌は別にして、現代仮名遣いが一般化した。しかし詩歌で「旧仮名遣いの魅力」が見直されている。「歴史的仮名遣い」や「古典仮名遣い」は「定家仮名遣い」をもとにしている。「どぜう(泥鰌)」、「てふてふ(蝶々)」「てふかい(鳥海)」、「いてふ(銀杏)」、「くわい(会)」などはもう使われない。ぞ悲し」、「よく帰れ」という連体形結びとなる。「こそ」を受けると「今こそ分かれ、いざさらば」という「め」(已然系結び)となる。「海ゆかば」、「越え行かば」は「もし〜ならば」という意味で(未然形、已然系+ば)となる。「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」という「ずば」「ずんば」は平安時代の「ずは」の誤りである。「ずは」は後にに「ざあ」に変わった。歌舞伎の「しらざー言って聞かせやせう」である。万葉の時代の「知らしむ」は平安時代には衰えて「知らす」になった。「知らしむ」は男言葉で軍記ものには時折顔を出す。平安日記文学で一番漢字が多いのは清少納言の「枕草紙」で、一番少ないのは「蜻蛉日記」である。男がすなるという土左日記は相対的に漢字は少ない。用語や文法の問題で一応定説は有ってもすっきりした形で捉えられないのが言葉の歴史である。

10) 変身するコトバ

@日本語の複数表示には「ら」、「たち」、「々」があるが、「々」は最も汎用性に優れている。「たち」は人に属することで、「星たち」や「点たち」は違和感が強い。近年は「狸たち」のように動物にも用法を広げているようである。「たち」は「公達」にように敬意を込めた言い方で、「ども」は減り下りや見下しに使われる。「私ども」、「者ども」がそれである。「木ども」や「文ども」などのものにも使用された。「たち」に敬意が感じられなくなった現在、敬意を添えた複数形には「〜がた」であり「〜ら」もそうである。「先生方」、「兄ら」である。近代日本語の複数表現はかなり不安定というか流動的である。
A後世の人の創作かもしれないが、言ったかどうか真偽のはっきりしない名文句がある。一休禅師の「正月は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」、板垣退助の「板垣死すとも自由は死せず」、シーザーの「ブルータス、お前もか」
B世の中に広く知られていることでありながら、「実は〜なのだ」、「真相はこうだ」式のことばが多い。宝塚歌劇団の「スミレの花の咲くころ」はフランス語の歌詞は「リラの花」であった。近代オリンピックの父と言われるクーベルタン男爵の「オリンピックは勝つことよりも参加することに意義がある」という言葉は、実はタルボット司教の呼びかけにある。「コロンブスの卵」の話はルネッサンスの芸術家ブルネレスキの逸話にある。織田信長によって火をかけられて山門で焼け死んだ恵林寺の僧快川紹喜のことばとされる「心頭滅却すれば火もまた涼し」という歌は実は唐の詩人杜筍鶴の詩にある。シザーがルビコン川を渡るとき「賽は投げられた」は実は「賽を投げろ」だった。老子のことば「大器晩成」はもとは「大器免成」(大器は完成しない)という意味であった。ナポレオンの「余の辞書には不可能という文字はない」は「不可能という文字は愚者の辞書にのみ存在する」とか諸説がある。哲人ゲーテの辞世の句「光を、もっと光を」は「窓を開いて明るくして」という言葉だったとか。
C流言飛語がもたらすパニックという社会現象の典型として「豊川信用金庫事件」があった。女子高校生のお喋りから始まった。ある信金で起こった強盗事件のことから豊川「信用金庫も危ないね」が、親戚の人が「信用問題」と勘違いして「豊川信金は危ないのか」という噂が広がったらしいという。第1次石油ショックの時トイレットぺ―パー騒動が起きたが、石油から紙を作るわけでもないのに買占めが広がった。関東大震災で「朝鮮人が襲ってくる」というデマから大惨事がおこった。東関東大震災の原発事故で風評被害が今なお広がっている。「カイワレ大根」被害、テレビのダイオキシン報道で所沢市のほうれん草の暴落騒動も記憶に新しい。インターネットの口コミが風評被害を加速し拡大している。戦略的あるいは政治的な意図をもって歪曲し捏造された情報を伝播させることはデマゴギーと呼ばれる。戦場では情報部が流すのである。世界の片隅で起こっている内乱や民族紛争は計画された情報処理によるものが多い。ウクライナ騒動も決して民主化と専制の構図ではなく、欧米が仕掛けた米ロの代理戦争に過ぎない。


今野真二著 「日本語の考古学」 岩波新書(2014年4月)

著者今野真二氏のプロフィールを概観しておこう。1958年神奈川県鎌倉市生まれ。1982年早稲田大学文学部国文科卒、1985年同大学院博士課程後期退学。1986年松蔭女子短期大学講師、助教授を経て、1995年高知大学助教授、1999年清泉女子大学文学部助教授、教授。2002年『仮名表記論攷』で金田一京助博士記念賞受賞された。専攻は日本語学。経歴より著書が本書の内容に大きく反映されているので理解に役に立つ。下に著書を記す。
「仮名表記論攷」(清文堂2001年)
「文献から読み解く日本語の歴史――鳥瞰虫瞰」(笠間書院 2005年)
「消された漱石――明治の日本語の探し方」(笠間書院 2008年)
「大山祇神社連歌の国語学的研究」(清文堂出版 2009年)
「振仮名の歴史」(集英社新書 2009年)
「日本語学講座 第1巻 書かれたことば』清文堂出版 20101 「日本語学講座 第2,3巻 二つのテキスト(上)(下)明治期以前の文献」(清文堂出版 2011年)
「日本語学講座 第4巻 連合関係」(清文堂出版 2011年)
「日本語学講座 第5巻 『節用集』研究入門」(清文堂出版 2012年)
「百年前の日本語――書きことばが揺れた時代」(岩波新書 2012年)
「漢字からみた日本語の歴史」(ちくまプリマー新書 2013年)
「かなづかいの歴史」(中公新書 2014年)
「日本語の近代 はずされた漢語」(ちくま新書 2014年)
本書の題名「日本語の考古学」とはどういう意味のアナロジーで使っているのだろう。「考古学」とは「遺物や遺跡によって、古代からの人類の文化を研究する学問」であるという。具体的な遺物とはここではテキストとしての写本や印刷物のことであろう。しかし文字のある時代のことは古代とは言わない。本書では8世紀の万葉集と平安時代のテキストを中心に、17世紀の江戸時代のテキストも対象としているので、ますます「考古学」の時代ではない。長い年月の中にうずもれた「日本語」を掘り出して、泥を落としてよく見えるようにして、何かのメッセージを探し出し現在につなげるという作業が「考古学」に似ているというのだろうか。あるいは著者が言う「考古学」とは「文献学」もしくは「考証学」のことであろうか。本書が最も得意としていることは、写本の過程で生じる異本から当時の文字文化(口語も)を考えることである。筆者は書物を「時間が集積した物体」と感じている。つまり手書きの書物には必ず人の手による改変がつきものである。は10の写本があれば10の異本があるだろうという、そしてそれは当時の文化を反映しているのである。電子化されたテキストでは100万部印刷しても皆コピーである。例えば「土左日記」の写本であれば写した人が違えば、漢字や仮名の使い方が違っていることがある。同じ漢字でも書き方が違ったり、改行箇所が違ったりする。書き間違いも発生するだろうし、注釈を書きこむという個人の介入が挿入されたりする。そこには過ぎた時間を復元するためのヒントが隠されている場合もある。過去の文献を読めるようになるには、まず文献テキストを現代私たちが使っている漢字や仮名になおす「翻字」という作業が必要である。読めるようにすることで文献が私達の目の前に姿を現す。電子化された書物があるのになぜ手で翻字をするかというと、、そうして初めて見えてくる真実があるからだという。筆者は2回ほど源氏物語54帖を翻字したらしい。それでもなお10年間は源氏物語を翻字し続けているという。これは文献に対するスキルを磨くために必須な作業であるという。

もし縄文時代の集落で言葉がかわされていたとすると、それが日本語であったとしたら、日本語は1万年以上使われてきたことになる。その中で日本語が表記されたのが7世紀以降で、現代までに1500年程度の歴史をもつ。明治以降の近代日本語はまだ150年ぐらいしか経っていないが、現在の日本語とは異なっている。はたして平安時代の日本語より現代の日本語の方がよくなっている(表現力が豊かであるかどうか)とはいえない。日本語は「進化」したかというと、必ずしもそうとも言えない。過去は現代と連続しているという感覚で捉えると、言語は社会政治体制と違って法律で一夜にして別物になるということはあり得ない。言葉は多くの人が使用しているから水は低きに流れるように、緩やかに使いやすいほうへ流れるだろうし、その流れは連続している。本書の狙いというか話題にしたい事項を章ごとにアウトラインを描いておこう。
第1章では漢字の字体をあつかう。現在は楷書(明朝体、教科書体)であるが、明治時代は行書体であった。行書を読み行書を書くということは「文字概念」が今日とは異なっていたことを示す。さらに室町時代の文人でさえ、平安時代のカナ文字はまるでオタマジャクシのようで判別不能だと言っていたのである。今では草書体で書かれた和歌や「源氏物語」をスラスラ読める人はいない。
第2章では作者不詳の写本テキストをあつかう。
第3章では平仮名をあつかう。明治以降は平仮名・片仮名の表記の統一が行われたが、文字化の手段が何かによって字体が異なっている。室町時代までは「手書き」、江戸時代・明治時代は「手書き・印刷併用」、現代は活字「印刷」(パソコン・ワードプロセッサー)である。
第4章は「行」という概念をあつかう。物理的な制約としての「行」から始まり、書き手の「書く単位」としての「行」や、更に読みやすいように「レイアウト」としての「行」も存在する。明治になって印刷を前提とした原稿用紙ができて、マス目で区切られると一行が何字、さらに1頁が何行かが決められる。手書きの時代には文字の大きさや、視覚もまちまちな書きかたが、判読を難しくしていた。
第5章では和歌という韻文をあつかう。詩を文字化することは次元の異なる言語である。
第6章では平家物語をあつかう。平家物語は語り文学といわれ、大きくは書きテキストと、語りテキストの2通りに分かれる。語りテキストは琵琶法師の系統によって本文は大きく異なり、口演者が本文を作っていったようである。作者は誰かというと、全員参加型の脚本という捉え方もできる。講談や落語もこの部類に入る。明治時代の「言文一致」運動もこれにあたる。
第7章は「木」に「心性」を聞く問題をあつかう。和歌の掛詞、語呂合わせの言語遊戯は人間の「類推能力」が基本となる。
第8章は「書き間違い」をあつかう。誰でもわかる誤記・誤植ではない「間違い」に何かが潜んでいる。
第9章はキリシタン版の正誤表をあつかう。当時のことばの様子から正しい日本語とは何かという微妙な問題である。
第10章はテキストの完成をあつかう。読み手がテキストを読み解釈して完成するテキストもあっていい。読書の楽しみは本来そうあってほしい。

1) 「書かれた日本語の誕生」 万葉集

稗田阿礼の暗誦した話から古事記が編まれたように、万葉集も音声によってのみ伝えられていた時期があったであろう。それがある時点に「文字」に写され固定化したと考えるのは不自然ではない。ただし膨大な量の歌を一人や二人の暗誦だけで編集することは考えられない。収集と記録は同時行われ、文字化されてから編集に入ったと考えられる。万葉集は20巻からなる。最初にできたのは持統天皇(645−702年)の選になる巻1の「持統万葉」で、次に古いのは元明天皇(661−721年)の選になる「元明万葉」を核として次々に16巻の万葉集が編まれ、最後の大友家持の歌日記4巻を併せて20巻となったといわれている。万葉集の中で一番年代が新しい歌は大友家持の天平宝字3年(759年)なので、万葉集の成立は759年以降とされているが、成立年は不明である。万葉集は4期に分けて捉えるのが一般的で、第1期は壬申の乱の672年までで額田王が代表歌人、第2期は奈良遷都710年までで柿本人麻呂が代表歌人、第3期は天平5年733年までで大伴旅人が代表歌人、第4期は大友家持の歌を最後とする759年までの4516首の歌が選ばれた。額田王のような天皇に代って歌う「御言持ち歌人」の時代では、歌は書くものではなく場において口号するものであった。歌が文字によって記されるのは第2期の柿本人麻呂の時代からと考えられる。「人麻呂作歌」には推敲の跡が見える異伝歌が記されているからである。柿本人麻呂の時代に、難波宮跡から出土した7世紀中頃の木簡に歌と思われる文字が書かれていた。7世紀後半の徳島観音寺遺跡から出土した木簡には難波津の歌が書かれていた。従って人麻呂の時代には文字で歌を記すことが始まったとみていいだろう。その文字化の手法はいわゆる「万葉カナ文字」であったと保証はない。様々なやり方が存在したであろう。漢文をそのまま書いたりすることもあった。現在我々が目にするようなテキストの姿にたどりつくプロセスはほとんどわかっていないようだ。万葉集全体を貫く統一的な書き方はなかったといえる。平安時代の天暦5年(951年)村上天皇は源順に命じて万葉集に訓点を施す事業の宣旨を出した。仮名に置き換えた万葉集を作成することで、これを「古点」といった。この「天暦古点本」外交の万葉集の写本の起点となった。ではそのもとになった漢字だけで書かれた「原万葉集」は残っているのだろうか。最も古い万葉集の完全写本は「西本願寺本」と言われ、鎌倉時代の「新点本」をもとにし、漢字の右に訓の片仮名を振る「片仮名附訓方式」で書かれている。現存するもっとも古い写本は平安中期11世紀に源兼行が写したという「桂宮本」で断簡である。「平仮名別提方式」で漢字和歌のつぎに平仮名の訓が示されている。「西本願寺本」の漢字は楷書体で書かれている。漢字の書体は、秦時代は「隷書」、前漢時代には「草書体」が生まれ、後漢時代には「行書」となり、南北朝時代5.6世紀に「草隷書」となり、初唐には「楷書体」が生まれた。約100年遅れで漢字書体が日本に伝わるとすると、難波宮遺跡の木簡は南北朝時代の「草隷書」で、平城宮跡から出る木簡の書体は楷書体である。従って7世紀中頃の「原万葉集」の書体は草書と楷書の中間ぐらいの南北朝書体であったと想定される。ところが問題は書体のことだけではなく、我々が手にする最古の写本と「原万葉集」の間にはうしなわれてしまった時間がある。写本の万葉仮名が万葉集成立時の漢字であったかどうか、何もわからないのである。ということで本書の出だしから、万葉集は霞んだ闇の中に放り出されている。まして万葉集から日本語の古代表記にたどりつくことは容易でないという。この意識を持つことが大切なのかもしれない。

2) 「源氏物語の作者は誰か」 古典文学作品の書き手

1008年までには出来上がっていたといわれる源氏物語の作者は紫式部だとして、源氏物語を書いた人はだれだろうか。現在の本は印刷によって大量のコピーをつくるが、室町時代までは文学作品は手で写されていた。その結果流通しているテキストに異なりがあるのが普通である。源氏物語のテキストには、藤原定家のかかわった「青表紙本」、源光行・親行のかかわった「河内本」、そしていずれにも属さない「別本」がある。なかでも源氏物語本文として藤原定家筆本が「原本」に一番近いと判断されている。しかし「原本」に近いと見るかそうでないとみるかは推測に過ぎない。原本と呼ぶことができるテキストは存在しないからである。紀貫之の「土左日記」は室町時代まで作者自筆本が存在していたので、原本は想定しやすい。「紫式部日記」の寛弘5年(1008年)11月中ごろの記事に、紫式部が中心になって「源氏物語」の書き写し作業が、多数の女官の手で中宮彰子の局で行われたという。この筆者がいた作業現場には、少なくとも紫式部が手直しをして(朱筆を入れて訂正加筆した)清書前のテキスト、清書されたテキスト(原本)の2つがあったはずである。元のテキストをバラバラにして複数の人間が分担して清書していったのであろう。そこには誤字・脱字を含めて書き移し間違い、錯誤からこうであったに違いないと判断して原文を変える可能性などが存在する。やっと清書し終わて製本した物語本を隠して置いたところを、道長が探し当てて持って行き、次女妍子に与えてしまった。手元に残った清書前の原稿を見て嘆く紫式部が日記に描かれている。「更級日記」には寛仁5年(1021年)「源氏物語」50余巻を得て喜ぶ少女が描かれている。源氏物語を所蔵する人々(貴族・その子女)が持つものは、部分的に数巻だけとか、書き写し者の系統が異なる文巻を持つ場合もあって、必ずしも「青表紙本」、「河内本」、「別本」の区別があったわけではない。借りた冊子を自分で書き写した場合もあるだろう。「青表紙本」、「河内本」、「別本」の区別はけだし後世の虚構かもしれない。「保坂本」と呼ばれる源氏53帖(浮雲を欠く)のセットは、17帖が室町時代の書写、36帖が鎌倉時代の書写で青表紙本と河内本が混在しているのである。例として「青表紙本」、「河内本」のある部分の異なる箇所を比べると、それほど違いがあるわけではない。残されたテキスト群から「原本」を探り、再構築しようとする作業を「校訂(考訂)」と呼ぶ。そこに人が何らかの判断をしてテキストに修正を加えるたびに、新たな「混成本文」が出来上がってゆく。天理図書館に蔵されている「浮雲」の冒頭にはおびただしい書き込みがなされている。これは鎌倉中期に書写された「別本」のテキストに「河内本」テキストの差異部分に照らして書き込んだのであろうと思われる。書写するのが人間である以上、人間の「心性」、認知傾向の癖から完全に自由になれないことである。「作者(著者)」を、テキストの改変ができる唯一の人と定義すると、源氏物語の作者は誰だろうと考えさせられる。1000年かかって源氏物語は書き続けられてきたともいえる。

3) 「オタマジャクシに見えた平仮名」 土左日記

それにしても藤原定家はすごい文人であった。自身和歌の達人であった(勅撰和歌集の採首数一番、2番が紀貫之)だけでなく、源氏物語の校注(青表紙本)で知られ、この章では「土左日記」の書写で知られる。この章は平仮名の書体の変遷についてである。平仮名は1900年の文部省令「小学校令施行規則」で統一され、「ア」に相当する平仮名は「あ」しかない。今では知らない人の方が多いが、それまでは複数の「異体仮名」があったようだ。935年紀貫之の著した「土左日記」の書写はこれまで4回あった。1235年藤原定家により、1236年藤原為家により、1490年松木宗綱により、1492年三条西実隆により書写された。紀貫之の書いた自筆本は少なくとも三条西実隆の時まで存在し、この4回の書写は自筆本(原本)によって行われている。藤原定家の書写は紀貫之原本をそのまま真似て書いたといわれる。藤原為家筆本を江戸期に忠実に模写したものが「青谿書屋本」と呼ばれ、藤原為家筆本が公開されていないので、この代わりに「青谿書屋本」が(底本として)一般に一番よく用いられる。藤原定家筆本の奥書には、「読めないところがあったのでそのまま書く」とある。いまでいうおかしいと思いながらも原文を尊重して、「ママ」のルビを振るような態度である。「青谿書屋本」が「さ」には漢字「散」を次元とする異体仮名がつかわれているが、定家はこの散を「す」(数)と判読している。矢田氏によると、「散」は900年代においては主要字体であったが、1050年ごろからは「さ」が使われるようになったという。定家の時代13世紀においては「散」は全く常用かなではなかった。だから「みえさ(散)るなり」、「あらさ(散)るなり」を定家は「みえす(数)なり」、「あらす(数)なり」と書いている。片仮名が漢字字形の一部を取り一部を棄てて成立しているが、平仮名は漢字字形全体を変形させて成立することは常識となっている。それは平仮名が漢字から離れるためであった。905年紀貫之撰進の「古今和歌集」は平仮名で書かれたと推測される。原則として漢字を用いない和歌を書くという方針に基づいて、漢字との距離を取りながら平仮名は発達してきた。しかし時代とともに平仮名も漢字と共に使用されるようになり、和歌の中でも漢字の使用率は高まってゆく。平仮名100%の文章は句読点もない時代ではたいへん読みにくい。どこで意味を取るべきなのか眉ことが多いからだ。そこで「平仮名漢字交じり」または「漢字平仮名まじり」が流行し、ますます平仮名は漢字字形を離れる必要があった。そうして11世紀中頃には「さ」の異体仮名「散」は使われなくなった。仮名成立から150年ほどして仮名の「再編成」が始まった。室町時代も末期になり戦国時代に入る1492年、三条西実隆は将軍家のお宝であった紀貫之自筆「土左日記」を書写した。三条西実隆は奥書に貫之自筆本の仮名を古代の仮名と呼び、それがお玉じゃくしに見えると書いた。私にはミミズがのたうち回っているように見えるが。実隆は「数」を「あ」と判読している箇所がある。すでに「す」に「数」を使うことは中世では稀であったようだ。1490年御土御門天皇の勅命によって能筆家として知られた松木宗綱は貫之自筆本を書写した。禁裏に納められたが、現在この本の所在は分からないが、松木本を書写した「近衛家(陽明文庫)本」(写筆者はおそらく近衛信尹 寛永の三筆のひとり)の奥書に、「む」の字に「无」、「さ」の字に「散」、「す」の字に「数」を書くのはすでに時代遅れなので書き改めたと書かれている。そこで貫之自筆本を忠実に模写したといわれる定家本を見て、貫之自筆本が三条西実隆がなぜ読みにくいと感じた理由を推察すると、おそらく次の3点になるだろう。
@紀貫之自筆本の平仮名は、平仮名創生期のために洗練されておらず、大きさ、形が不揃いで、文字の中心線もまっすぐでなかった。
A「さ」を「散」、「す」を「数」など、鎌倉時代には使われなくなっていたので定家も判読を誤った。
B「漢字平仮名交じり」という書き方が定着するにしたがって、平仮名字体の再編成が行われた。中世の人には読めなくなった字体であった。

4) 「行」はいつごろ出来たか

内容の切れ目を意識して改行するという感覚がいつごろ生まれたのだろうか。ある一定の大きさの紙に続けて文字を書くとき、かならず物理的な制約から行を替えざるを得ない。いまはがきなどで、句読点まで書こうとして(改行したくないので)文字が小さくなったり、横にはみ出して書く経験をお持ちの方も多い。昔の文章には句読点はないので、改行することで区切りをつける意識が働く。本章は文章に何とかまとまりをもたせようとする苦心譚である。マス目のない融通無碍の自筆であればこそできる話で、機械化された規則ではむつかしい場合もある。言語は音声言語であれ文字言語であれ、連続性と切れ目を持つ。音声言語では発音を止める空白と終わりに向かう調子の変化がある。文字には句読点や改行・改頁がないと、平仮名だとそれこそ文字の連続で、言葉のまとまりを掴むことさえ困難となる。定家が模写した貫之自筆本で「わすれかたく/くちおし」と分かつか、「わすれかたくゝちおし」と書くこともある。それは行の先頭に繰り返し記号である「ゝ」を書くことを躊躇したからであろう。また「ひとびと」と行の末尾に書く時、繰り返し記号「ゝ」を下へはみ出し手まで収める努力をしている。人の字に「ゝ」記号をオーバーラップさせている。それは鎌倉時代にはしばしばあったが、室町・戦国時代には人と「ゝ記号は分けて書くようになった。なんとしても改行したくないときは窮屈に文字を書いたり、横にはみ出した字を書くこともある。鎌倉時代には「ワ」と発音する仮名「は」、「バ」と発音する小さい片仮名「ハ」を使う「仮名文字遣い(異体仮名)」がみられる。ちいさい片仮名「ハ」は改行して行の先頭には使いにくいという意識が働いて、行末の横に小さく「ハ」を書く。また頁末に区切りをつけるため小さな字やはみ出して一字を入れることもしばしばであった。ただそのときに、字のまとまりをどう見るかということが問題となる。「ミココロノ」という場合、自立語「ミココロ」+助詞「ノ」+自立語という場合には「自立語ノ+自立語」が選ばれた。だからなんとしても「みこころの」を行に納めるため、「の」を下に小さく書くか、横にはみ出して書くことがなされた。

5) 和歌は何行で書かれたか

現在では和歌31文字は上句(5+7+5)と下句(7+7)とにわけて2行で書くことが一般的である。藤原定家は紀貫之自筆本を書写した後に、貫之の和歌の書き方について「和歌は別行にせず、連続して(定行)書く。ただし和歌の始めには空格を置き、和歌の後ろは空格を設けず後ろのことばに続く」と言っている。しかし歌の終わりには少し空白があるように見える場合もある。これが貫之の歌の書き方であった。日本の詩は漢詩(絶句・律詩)のような韻を踏まないが、韻文・散文の区別はない。あえて言うなら詩文という特殊な分野である。平安時代の文学は、「歌集」と「物語」とに分類され、物語には「仮名日記」(土左日記、蜻蛉日記、紫式部日記、更級日記など)、「歌物語」(伊勢物語など)、「作り物語」(源氏物語、竹取物語、うつほ物語など)があるが、日本の物語は和歌と分かちがたく結ばれている。まず「歌集」のなかで和歌の書き方の変遷を見てゆこう。藤原定家は「古今和歌集」を18回以上書写したそうである。「伊達本」と「嘉禄二年本」が残っている。定家の使った紙の縦は22.7cmで、定家は漢字を使って歌を1行で写つそうとしたが、おさまらない場合には折り返した。西行を伝承筆者とする「中務集」という歌集がある。平安末期の書写と考えられている。13cmの紙にほとんどの和歌が3行書きされている。古今和歌集の書写である「高野切」は11世紀中頃に書かれたそうだが、和歌は3行書き、2行書きである。2行書きは上句+(1〜3)字で改行している。発声の連続性からこのような切方をしたようである。そして次に物語の文学作品においては、貫之式をA形式とすると、地の文との「卓立」性から次のように分類される。A形式:貫之式(改行せずに和歌の始め2字分空白、末尾空白なしか1字分空白をおいて地の文に続ける)。 B形式:改行して歌の始め2字分段落ち、歌の末尾1字分空白して地の文を続ける。 C形式:改行して歌の始めに2字分段落ち、歌の2行目3行目は段落ちなしで、末尾改行して地に続ける。 D形式:改行して歌の始め2字分段落ち、2行目、3行目も2次分段落ちし、末尾改行して地に続く。 E形式:定家形式(改行して歌の始め2字分段落ち、2行目も2字分段落ち、2行書きで改行して地に続ける。つまり定家はA形式で書かれた貫之自筆本をE形式で写したのである。C形式やD形式は実例がない。傾向としてより和歌を卓立させようとすると、地の文から切り離すことになり、改行プラス段落ちという書き方が生まれた。しかしどうしても2行で書くという規則は設けなかったようだが、和語にある程度の漢字(硬くならない程度に)を充てる書き方が一般的になりつつあった。

6) 「語り」から「文字」へ  平家物語

徒然草に、後鳥羽院(1180-1236年)のころに信濃前司行長が平家物語を書いたという記事があるが、琵琶法師の講釈で語られる物語「平家物語」が一人の作者が書き文学として著したとはとても想像できない。平家物語は本来「流動するテキスト」なのである。流通する「平家物語」は南北朝時代に作られた語り本である「覚一本」13巻に基づく。最後の「灌頂巻」がある「一方系」とそれが確立されていない「八坂系」とに分かれる。 「平家物語」 本の系譜については高橋貞一校注 「平家物語」 講談社文庫 に詳しいので参考にしてください。一方読み本は源頼朝の東国系で見る傾向があり、「延慶本」が語り本に比べて内容が豊富である。音読の魅力は軍記物に特有の調子と肉声が聞こえてくるところで、思わず主人公に密着した錯覚と興奮を覚えることである。語り本の覚一本には狂言でよく聞く候文が会話の主体をなしており、語り手の緊張が伝わってくる。文体は読み本系「延慶本」では「漢字片仮名交じり」で書かれている。明治時代森鴎外が最も得意とした文語の文体である。語り本系「覚一本」(龍谷大学蔵本、百二十句本)では「平仮名漢字交じり」で書かれている。多くの漢字部分を平仮名で書くということは、発音された語形の文字化ということである。平仮名は音声である。別に天草版「平家物語」がローマ字という表音文字で書かれており16世紀末の当時の日本語発音が窺い知れて興味深い。「見参」は当時「ゲンザン」が標準的な語形で、「ゲンゾウ」はそうでない崩れた言い方であった。

7) 「木」に読み解く語構成意識

「まつのき」を「松の木」と分解することは可能である。しかし「えのき」、「ひのき」は分解しえても、「え」、「ひ」の意味は広辞苑第6版では「榎の古称」、「檜の古称」とあり、岩波国語辞典第7版では見出し項目にはない。むしろ「えのき」、「ひのき」は分解できない一語として捉えられているようだ。人名においても「松本」、「梨本」も複合語として感じ取れる場合も感じとれない場合もある。風土記があげる地名は真偽のほどはわからないが、こじ付け的要素が大きく、「宇賀郷」(うかがう)のような発音を媒介とした物語を記しているようである。7世紀後半の「辞書木簡」にある「椿 ツ婆木」にある「木」は万葉仮名ではない。訓仮名といってもよい。甲類仮名では「支・吉・来」を、乙類仮名では「已・記・紀」を使うからである。すなわち万葉仮名ではなく意味のある漢字として使われている。万葉集では「つばき」は「都婆伎」、「都婆吉」と書く万葉仮名表記である。その一方で「椿花開」とか「海石榴花咲」という「正字表記」をしている場合もある。土左日記には2か所のみに「木」が使われている。「わかれかた木」、「ひゝら木」である。平安時代には平仮名「き」に使う字形としては、「き」と「支」が両用され、ほぼイーブンの頻度で使われている。漢字「木」を使った例は一度もない。貫之がこのような異体仮名を使ったのではない。古代には「ひひらく」という動詞があり、2番目の「ひ」が「い」に変化し、「ひいらぎ」とは触ると痛い木という意味になった。これは語源の発見であるが、語構成の感覚とは語源の感覚に似ている。港をあらわす「みなと」は、み(水)+な(助詞の)+と(戸)という語構成である。助詞を除けば「水戸」と同字である。睫をあらわす「まつげ」は、ま(目)+つ(助詞の)+け(毛)である。しかし日本語は一般的に「語源」が考えにくい言語である。あぜ(畦)、あし(足)、あみ(網)は単節語「あ」で、つまり同音異義語である。しかし2音節語「あぜ」、「あし」は完全には分解できない。

8) 「書き間違い」 誤写

誤字・脱字は嫌がられるものであるが、それなりに誤りやすい心理的理由がある場合もあるし、単に筆写態度が粗略な場合もある。何が正しいか分からないこともあり、どちらが正しいか時代的に混乱していることもある。一番間違いを発見しにくいのは固有名詞・名前である。慶応義塾大学斯道文庫の「平家物語」百二十句本「康頼祝詞」に、康頼を頼康と誤っている。また直実を実直と誤っている。室町前期の連歌書「連証集」の書写において、1行を飛ばしたり、一字もしくは数字を飛ばす例がある。ちょうど表から裏に移る気に起きやすい。心敬の連歌集「ささめごと」の室町前期の書写(字の間違いが多いことで有名)に、一字を重複して書いてしまう「衍字」もある。「大和物語」の表から裏に移るとき1行重複している。しかも「の」、「る」、「か」を異体仮名「乃」、「流」、「可」に変えている。これは誤りというよりどちらで書いてもいいような時代であったためと思われる。1行脱落の例として、「宗祇初学抄」室町後期の書写にみられる。脱落行を後から小さな字で挿入している。書き直しをするなら1頁全部を書き直さなければならないので、このような挿入でごまかしたのだろう。書写するときは音声化して意味を確認しながら写すのが自然と思われるが、字形のみを写して間違った例として、「苔筵」という連歌集を室町期の書写した例では、「相反」を「相及」に、「大に」を「大小」に書き誤っている。室町時代は古語から近代日本語への移行期であり、それまで区別のあった「ジ」と「ヂ」、「ズ」と「ヅ」が次第に区別を失い、「ジ」と「ズ」に合流する音韻変化が進行した。「近江路」をいう「あふみち」を「おふみし」、さらに「すみれ交じり」を意味する「すみれましり」を「すみれまちる」と書く間違いが「大山祇神社法楽連歌」懐紙に見られる。江戸時代天保のころ、「文字書ちがひ見立て」という「見立番付」が出版され、「ふぢ(藤)」と「ふじ(富士)」の混合があるなど、「版木はんぎ」を「板木いたぎ」と言った間違いやすい言い方の番付表ができていて面白い。たしかに発音は一定であっても、日本語は複数表記が可能といった「正書法を持たない言語」であるという。

9) 「正しい日本語」とはなにか キリシタン版の正誤表

フランシス・ザビエルが来日した1549年から、キリスト教が禁止された1614年までにイエズス会が布教のために発行した書物「キリシタン版」は少なくとも27点ある。有名なものには1593年「天草版イソップ物語」がある。キリシタン版には作者が「正誤表」を添えて主pp何され、当時の日本語の在り方が知れて興味深い。なかでも1599年に発行された「ギヤ・ド・ぺカドル」は文語で漢字平仮名まじりで印刷されている「国字本」である。その正誤表には、誤植の諸相がみられる。単純な誤植から、「善を収め」は「善を修め」に訂正している。漢字内容からして「善を修める」がふさわしいとの判断をした。そのほか「御憤り」を「御慎り」と間違ったのは漢字の字形が似ているからだ。同じように「轉變」を「博變」と間違っている。「甘露」を「甘落」と間違うのも複雑で似ているから誤植するのである。さらに「つとむ勤」を「勒」としているのは、確かに似ているが果たして間違いだろうか。キリシタン版の漢字辞書である「落ち葉集」には、「革つくり」の部に「つとむ 勤 きん」があり、同時に「力偏」にも「つとむ 勤 きん」がある。こうなると誤植かそうでないかの線引きも難しい。つまり落ち葉集は目に見える形を優先しているのである。これを「現実主義」といってもよい。弥勒の「勒」のような形をした「勤」の字は、勤の行書体から生じたものである。もし楷書体と行書体(草書体)をかき分けられる人ならばこのようなことにはならなかった。さらに誤りとは何かを考えるうえで、1611年に発行されたキリシタン版「ひですの経」に示された「違字」正誤表をみる。例えば、「観心」は「歓心」へ、「堪弁」は「勘弁」へという訂正は、字の構成要素や音が同じものがると誤植しやすいし、誤植かどうか区別も難しくなる。なぜなら最初は誤りであったものが、使い続けられている間に市民権を得る例を「通用」というのである。現代語でいうと、(しょうこう)「消耕」と書いてしょうもう「消耗」と同義とすることは広辞苑第6版にある。また(ごこく)「五穀」と「五殻」の関係である。固い外皮という「殻」と「穀物」は字義にも重なり合いがあり、通用しやすい。日本的な漢字使用で誤植か通用か見極めは難しい。「ひですの経」に「大地を震動させ岸を崩し・・」の「岸」は「崖」の間違いではないかという説がある。内容的に近接しているための字義と字形の問題である。がけを語義とする「きりぎし」(切り立った土地、巌、岸、岩)を岸と書いたことが想定されるからである。そうならば誤植ではない。また「ひですの経」に「これ等は何国より学びけるぞ」の「何国」は「いずく」を書いたものではないか推測されるが、何国よりを「いずくより」と発音することはなく誤植ではないかとおもわれる。ところが天正の「大山祇神社法楽連歌集」には「何国ともなく」といった表現が多用されている。日本人修道士の協力のもとに編まれたキリシタン版に日本人の俗語が混じり込んだのであろう。ローマ字本の正誤表は当時の発音が知れて面白い。ポルトガル語の聖者伝の正誤表をみると、「bijgiakcu」は「bijyacu」へという指示がある。「bijgiakcu」は「びぢゃく」、「bijyacu」は「びじゃく」であり、「微弱」(柔軟なことの類似語)である。16世紀末には「ぢ」は「じ」に変わりつつあった。「ヂ、ジ、ヅ、ズ」をまとめて「四つ仮名問題」と呼ぶ。現在は「ジとズ」が使用されている。

10) テキストの「完成」とは

「古写本」のみであった日本に印刷技術が導入されたのは、「文禄・慶長の役」(1592年〜)によって朝鮮半島から活字印刷技術が伝えられた。これを「古活字版」という。「古活字版」の時代は長くはなく、寛永・正保(1624年〜)から整版による印刷が行われるようになった。「古活字版」は1文字ずつの活字を組み合わせるのに対して、整版はページを単位として原版となる版木を彫るのである。室町末期ごろから江戸初期にかけてちょうど日本語が近代語へ変化を遂げる過渡期にあたる。この頃の印刷物を見ることで日本語の移行の様相が分かる。文学作品としてではなく、文献学としてみるのである。中国と日本の禅僧の漢詩を編集した「中華若木詩抄」の古活字版本と整版本を比べる。例えば七言絶句であるが、古活字版本では28の漢字が一列に書かれているが、整版本では7字ずつ2段に書き、2列にまとめてレイアウトがきれいである。古活字版は愛想がなくサービスにかけている。それは活字を組み合わせるため版面に自由がきかない。また整版本ではルビや送り仮名、返り点を振る事だでき日本人には読みやすくしてある。整版本には「早晩」に「いつも」というルビがあるので理解が早い。古活字版本は読み手の学識・技量や読解力を要求する。したがって古活字本の所蔵本「史記」を見ると、欄外、行間には注釈やふり仮名・返り点などの書き込み著しい。漢学者や儒者があらかじめ漢文を読み込み、生徒に教えるための虎の巻になっている。漢字に片仮名附訓を施すこともある。漢文系の整版本では、送り仮名、返り点、ふり仮名などの「訓点」が標準装備(デフォルト)になっていることが多い。中国の書は所有者が変わる度に欄外や頁にまたがって所蔵印が押されることがある。そして朱や、白色の筆で異なる人の書き込みが入ることになる。注目する文字にマークすることもある。いまでいう3色のマーカーペンでもって本を読むようなものである。これは理解を深めるための「能動的読み」である。学者一族の親の書物に子供が書きこむ場合がある。テキストとは何代もの読み手によって受け継がれ、時間をかけて熟成するものなのである。


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