2013年8月31日

文藝散歩 

室生犀星訳  「蜻蛉日記」
 岩波現代文庫 (2013年8月)

関白太政大臣藤原兼家の妻「道綱の母」の歌日記 平安貴族の女心の遍歴

蜻蛉日記 画

「蜻蛉日記」 岳亭春信画

蜻蛉日記の作者は右大将道綱の母(藤原倫寧の娘、妹には菅原孝標の室、兄に理能ら6人兄弟がいた)(935年ー994年 59歳で逝去)である。夫は関白太政大臣にまで上り詰めた藤原一族のトップ藤原兼家であった。兼家と正妻(本宅)である中正の女、時姫の間に道隆(兼家の後をついで関白太政大臣)、道長(道隆の嫡男伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した、摂政となって3人の娘を皇后にたてる。摂政を長男頼道にゆずる)、超子(冷泉天皇女御、三条天皇生母)、詮子(円融天皇女御、一条天皇生母)といった藤原家絶頂期の家柄が続くのである。むろん藤原兼家には多くの妻妾がいた。藤原一族(平安貴族とは藤原家のことといってもいい)より藤原兼忠の女、国章の女(本文中では近江の女)、道綱の母もその一人であった。なかには素性不明のあやしげな「坊の女」もいた。「男は博愛主義者、女は独占主義者」と揶揄するのは簡単だが、時代背景と併せて考えると、社会学的には「貴族の男の財力独占による身勝手、女の認識の食い違い」と解することが順当な評価になるだろうか。女性行動心理学からいえば、かわいい女と嫉妬する女に2分して考えられる。嫉妬して狂い死ぬ女もいれば(出家、自殺)、嫉妬して途中であきらめ無関心になる女(本書の道綱の母はそれにあたる)、嫉妬するだけでなく自分も楽しむ浮気女(和泉式部日記)などとヴァリエーションがある。女にはもっといろいろなタイプ(陰影)があるので、小説家の興味を惹いてやまない。室生犀星という詩人が原文の味わいを大切にして直訳に近い形で現代語に訳した本書は、源氏物語より難解といわれる「蜻蛉日記」を我々に読む機会を与えてくれたことに感謝する。「蜻蛉日記」の概略は、夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先でのできごと、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についての記事がある。藤原道綱母の没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。歌人との交流についても書いており、掲載の和歌は261首。なかでも「なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」は百人一首にとられている。女流日記のさきがけとされ、『源氏物語』はじめ多くの文学に影響を与えた。また、自らの心情や経験を客観的に省察する自照文学のはしりともされている。源氏物語のような構成力のある小説ではなく、むろんドキュメンタリーでもなく、本人は「日記」といい経年的に書かれてはいるが、日記の形式は踏んでいない。私小説に近い世界初の自伝小説かもしれない。日記文学は和歌文学であり、この「蜻蛉日記」の歌の数は261首、「土佐日記」は69首、「和泉式部日記」は140首、「紫式部日記」はわずか15首、「更級日記」は86首、「十六夜日記」は86首であり、やはりこの蜻蛉日記の歌の数が群を抜いている。本書の題名「蜻蛉日記」は、巻の上の末尾のにある文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」という、筆者自らの命名による。

平安時代から鎌倉時代の中世日記文学の系譜については、土左日記 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 十六夜日記の女流文学に脈々と根付いている。源氏物語に代表される王朝文学のかたわら、私小説のような日記文学がひっそりと花咲いていた。それは王朝文化すなわち和歌の世界である。「土左日記」は承平四年(934)12月21日国司の館を出発し、翌年2月16日帰洛して自邸に入るまでの海路を中心とした55日間の日記である。1日の記述も省かないで日記風にし、それを女性の筆に仮託したものである。仮託といっても言い訳程度で、中身は明らかに国司であった紀貫之の身辺である。嘘は直ぐばれているのである。日記には69首の歌を用いて、歌論的な評論も交えた伝統的和歌を尊重する信念を吐露する。あきらかに文芸的日記創作の意図が見えてくる。本当にこれが日記なら、もっと一日の心の移り変わりを綿々と述べなければ態をなさないが、いかにもあっさりと殆ど切り捨てている。日記の形を取った和歌中心の道行文芸(歌枕旅行)に近い。叙述に戯曲的構成を入れて緩急、長短をおりまぜ飽きさせないように簡潔すぎるくらいの構成である。「和泉式部日記」とは平安時代中期1003年4月から1004年1月までの和泉式部の日記である。明確な日付けごとに書いたいわゆる「日記」風ではない。和泉式部の恋人師の宮の逝去によって、失意の彼女が追悼のために書いた「愛の記憶」である。和泉式部は「後拾遺和歌集」に有名な歌がある。「ものおもえば沢の蛍もわが身よりあくがれいずる魂かとぞみる」 永遠の恋多き女性和泉式部の姿をよく表した歌と評される。この「和泉式部日記」には140首余りの和歌が挿入されて(歌が挿入されていると云うより、歌と歌の間を地下の文が挿入されていると云うべきか)いる。そのうち102首(51対)が相聞歌(贈答歌)の形式である。「紫式部日記」は宮廷の女房のファッション雑誌かと思うほど、女房の衣裳や容姿に関する記述が多い。平安時代の宮廷に仕える女房の衣裳をイメージするために、上の図に一例を示す。そして岩波文庫「紫式部日記」50ページに正月3が日の女房の記述があるので紹介する。「三日は、唐綾の桜重ね、紅梅の織物、唐衣は蘇枋の織物。掻練は濃きを着る日は紅はなかに、紅を着る日は濃きはなかになど、例のことなり。萌黄、蘇枋、山吹の濃き薄き、紅梅 薄色など、つねの色々をひとたびに六つばかりと、表着とぞ、いとさまよきほどにさぶらふ」 ただ「紫式部日記」の特徴をみると、和歌の数が本分の長さにくらべて少ない。僅か15首ほどに過ぎない。しかも紫式部の作と思われ和歌はないに等しい 。「更級日記」の作者は菅原の孝標の娘である。作者の母は藤原倫寧の娘である。母の兄は長能は歌人で能因法師の師匠であった。母の姉は「蜻蛉日記」の作者として有名な道綱の母である。 時は道長、頼道の絶頂期であり藤原摂関家は栄華を極めたが、摂関家以外の藤原傍流家や菅原家などは官位も得られずに失意の憂き目を見ることが多かった。「更級日記」を通読すれば、直ちにわかることであるが、作者50年余の人生は心を傷つけることばかり多くて、わびしいの一言でくくられる。平安時代の日記文学の系列からすると、土左日記、蜻蛉日記、和泉式部日記、紫式部日記の後に位置し、阿闍利母日記、讃岐典侍日記に先行する。作者の一生を記録した日記と云う点では「蜻蛉日記」と共通点をもつ。同じ菅家の娘である道綱の母の「蜻蛉日記」では権門兼家の想い人となりながら身分の違いからくる運命をしって不可抗力の無力に陥るのに対して、「更級日記」は権門から無縁の世界で平凡な人生の嘆きから人生の寂寥感に苛まれていくのである。「更級日記」は短い文章ではあるが86首の歌がちりばめられている。道行風な歌も多い。平安時代の日記の中の歌は重要な文脈で謳われる。「十六夜日記」とは、本書の「東日記」の初めにある作者の歌「はめぐりあふ すえをたのむ ゆくりなく 空にうかれし いさよいのつき」から来ている。作者は鎌倉時代の藤原為家の二条派歌道の精神を是とする阿佛尼である。そして彼女は藤原為家が晩年嵯峨で同棲した女である。平安末期から鎌倉時代にかけて宮廷の歌の道を指導したのは云うまでもなく藤原俊成ー定家の家系である。定家の御子左家、定家の子の為家に至って二條を称し、阿佛尼を母とする年の離れた弟為相は冷泉を称する。こうして歌道の家は三家に分裂した。阿佛尼は歌人として、歌学者として、また冷泉家の祖たる為相の母として国文学史では重要な位置を占める。阿佛尼の作品には文章として「十六夜日記」、「うたたねの記」、「阿佛仮名諷誦」、「夜の鶴」、「庭の教え」がある。十六夜日記の中に自詠歌86首が挿入されている。。「十六夜日記」の内容は大きく二つに別れる。「道の記」と「東日記」である。「道の記」は弘安2年10月16日から29日まで14日間の東下りの「日なみの日記」であり、「東日記」は弘安3年8月までの10ヶ月間にの鎌倉での滞在期間にかわした京都の知人らとの往復書簡(歌の交換)である。阿佛尼はすこぶる頭のよい学者風な人であり、自信の強い人であり、名誉心の強い上昇志向の人であった。このしっかりした実務的な賢明な女性像はやはり平安朝ではなく、鎌倉時代にふさわしい人であった。

平安時代の歌人・文人で、評論家としても名高い藤原公任は、秀歌選「十五番歌合」で、東宮太夫藤原道綱の母(傅殿母上、藤原倫寧女)と准大臣藤原伊周母(師殿母上、高階貴子)を左右に番えた。この並べ方は百人一首にも踏襲されている。王朝期最盛期に朝堂の要人の母となった二人の才媛が妍を競うさまを示している。帥殿母上の生きかたの詳細は窺い知るにすぎないが、傅殿母上の生き方は本書「蜻蛉日記」によってあからさまに記されている。載せられた和歌は道綱の母と夫兼家とのやり取りから、道綱と相手の女性とのやり取り、女房らの歌など多岐にわたる。面白いのは道綱の相聞歌を母親が全部見ているだけでなく、母親が道綱の名前で相手に歌を贈って介入している様は面白い。歌の大半は数多い女に通う夫兼家(一夫一妻制ではなかったので、妻妾の多いのは男の社会的地位の高さと、女を養いうる財力の裏付けともいえる)への恨みつらみであり、男の無神経を非難し嘆く歌である。素性の分からない坊(街の小路)の女が、兼家に飽きられ生んだ子供も死んだので道綱の母が喝采を上げて溜飲を下すさまは露骨であるが真実をついている。しかし兼家の本妻(本邸)時姫に対しては礼儀を失わず、一定の尊敬と諦めが同居しているのは、同じ藤原家内での家柄の高低を受け入れているのかもしれない。成長する道隆への思いや、本邸の時姫のようにもっと多くの子供を産めなかったことへの悔やみなど、気持ちの陰影に富んで情念の渦巻くこのカナ日記を現代語に翻訳した文学者・小説家・詩人のなかで、詩人室生犀星は最も適した現代作家ではなかろうか。源氏物語を現代語に訳した文学者には、与謝野晶子、団地文子、瀬戸内寂聴、田辺聖子、谷崎潤一郎氏らがいる。室生犀星はこの「蜻蛉日記」を60代後半に現代語訳した。室生犀星という作家は自分にはなじみが薄いのでおさらいをしておこう。室生 犀星(むろう さいせい)1889年(明治22年) - 1962年(昭和37年)、石川県金沢市生まれの詩人・小説家である。1910年(明治43年)上京。1913年(大正2年)北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ざんぼあ)』に寄稿。同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。萩原朔太郎と共に同人誌『感情』を発行する。1930年代から小説の多作期に入り1934年(昭和9年)『詩よ君とお別れする』を発表し詩との訣別を宣言した。1935年(昭和10年)、『あにいもうと』で文芸懇話会賞を受賞。1941年(昭和16年)に菊池寛賞。戦後は小説家としての地位を確立し、多くの作品を生んだ。1958年(昭和33年)の半自叙伝的な長編『杏っ子』は読売文学賞、同年の評論『わが愛する詩人の伝記』は毎日出版文化賞を受賞。古典を基にした『かげろふの日記遺文』(1959年(昭和34年))では野間文芸賞を受賞した。室生犀星が王朝文学を始めたのは51歳ごろで、「萩咲く歌」(大和物語の蘆刈り説話より)、戦中・戦後この系列の作品発表は続いて『かげろふの日記遺文』にたどりついたというべきであろうか。王朝の女房日記「蜻蛉日記」の現代語訳(昭和31年刊行)は犀星の最晩年の輝きであった。kの訳は昭和46年の河出書房の「日本の古典」7「王朝日記随筆集T」に収録された。その訳者前書きに、犀星自ら翻訳の指針を述べている。「原作の気分を重んずるため、なるべく直訳に近い訳し方をする。もっと突き込んで柔らかい行文をものとするとすれば、私流の小説になってしまうおそれがあり、生硬な語句のままで進んだのもそのためである」という。私流の小説はこの2年後に発表した「かげろふの日記遺文」となって結実した。道綱の母、街の小路の女、正妻時姫の三人の女の沼でおぼれる兼家を描いた小説である。犀星はこの小説で街の小路の女を軸に小説を紡いだという。それは自分の人生(私生児として生まれ、住職の室生家に養子として入ったという)に重ねて、名もない女に人間の躍動と哀れを憶えたのであろうか。中野重治は犀星の戦争中の王朝文学への傾斜を戦争回避の影響と推測した。とにかく犀星自身の境遇と時代の動きが作用して犀星の文学世界に王朝ものが生まれ熟成し深化したのであろう。「蜻蛉日記」がその結実であった。


巻の上 (天暦8年 954年ー安和元年 968年) (道綱母19歳―33歳、兼家26歳ー40歳 道綱0−14歳)

本書の内容に入る前に、「蜻蛉日記」は決して日記の形式を取っていないが、だからと言ってストーリーのある物語ではない。そこに書かれていることは、一生男の愛情を得られなかった女の恨みと愚痴と息子への愛情である。連綿と続く女の溜息を聞かされているようなものである。もう少しかわいい女であったらどうだったかは言ってもしかたないタラレバで、もし男の愛情を得ることに成功していたら本書「蜻蛉日記」は生まれなかっただろう。そんなハッピーな女の日記など薄っぺらで読む気もしないだろう。「しょせんこの世は男と女」と歌の文句にあるように、本書の内容は99%が女の感情で、1%程度が息子への親ばか的愛情の記述である。日本の古い和歌集のほとんどが歌題は男女のことであるし、現在の日本の歌謡曲のこれまたほとんどが恋愛や男女間の感情を歌っている。日本人はどうしょうもなく軟派なのか、ヒトのどうしょうもない性なのか、とにかく本書を読むということは男女の感情の綾を紐解くことである。小説家にはかっこうの勉強材料であろうが、硬派の人には耐えられなくばかばかしいことかもしれない。一言でいえばあっけないが、言葉を尽くせばくだくだしい。とにかく以降の記述に忍耐強くお付き合いください。


巻の中 (安和2年 969年ー天禄2年 971年) (道綱母34歳―36歳、兼家41歳―43歳 道綱15歳―17歳)


巻の下 (天禄3年 972年ー天延2年 973年) (道綱母37歳―39歳、兼家44歳―46歳 道綱18歳―20歳)


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