2013年8月15日

文藝散歩 

朱牟田夏雄訳 「ミル自伝」
 岩波文庫 (1960年版)

イギリスの哲学者にして経済学者、民主主義・自由主義思想を語る

ジョン・スチュアート・ミル ベンサム
イギリス 功利主義の2巨頭(左:J.Sミル  右:J・ベンサム)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873年)は自他ともにベンサム(ベンタムとも発音する 1748−1832年)の功利主義者をもって任じている。J・Sミルの自伝においても述べているように、父親のジェイムズ・ミルの個人教育によって、ベンサムの功利主義から多大の知的影響を受けて育った。ベンサムなしにはミルは語れないので、回り道ながらベンサムと功利主義についておさらいをしておこう。ベンサムはオックスフォード大学のクィーンズカレッジで1763年に文学学士号を、1766年に文学修士号を修めた。1769年に弁護士資格を得た。当時の主導的権威であるウィリアム・ブラックストン卿の講義を聴講して法曹界に幻滅し、「誤魔化しの悪魔」と呼んだイギリスの法典の複雑さを非常に不満に思い、彼の人生を法律への批判とその改良方法の提案に捧げたという。ベンサムは法や社会の改革を多く提案しただけでなく、改革の根底に据えられるべき道徳的原理を考案した。「快楽や幸福をもたらす行為が善である」というベンサムの哲学は功利主義と呼ばれる。ベンサムの基本的な考え方は、『正しい行い』とは、「効用」を最大化するあらゆるものだと言うもの。ベンサムは、正しい行為や政策とは「最大多数個人の最大幸福」をもたらすものであると論じた。「最大多数個人の最大幸福」とは、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という意味である。しかし彼は後に、「最大多数」という要件を落として「最大幸福原理」と彼が呼ぶものを採用した。ベンサムはまた、幸福計算と呼ばれる手続きを提案した。これは、ある行為がもたらす快楽の量を計算することによって、その行為の善悪の程度を決定するものである。功利主義は、ベンサムの門弟であるジョン・ステュアート・ミルによって、修正され拡張された。 ベンサムの理論には、ミルの理論とは異なり公正さの原理が欠落している言われる。例えば、拷問される個人の不幸よりも、その拷問によって産出される他の人々の幸福の総計の方が大きいならば、道徳的ということになる、という批判がある。しかしながら、P. J. ケリーが著作『功利主義と配分的正義―ジェレミ・ベンサムと市民法』の中で論じているように、ベンサムはそのような望ましくない帰結を防ぐような正義論をもっていた。ケリーによれば、ベンサムにとって法とは、「個々人が幸福と考えるものを形成し追求できるような私的不可侵領域を定めることによって、社会的な相互作用の基本的枠組みを提供する」ものなのである。私的不可侵領域は安全を提供するが、この安全は期待を形成するための前提条件である。幸福計算によれば、「期待効用」は「自然効用」よりもはるかに高くなるので、ベンサムは多数者の利益のために少数者を犠牲にすることを支持しないのである。

ベンサムに対して、ジョン・スチュアート・ミルは、父の英才教育の中で人格と知的教養を形成し、多方面にわたって活躍し哲学者にして経済学者であり、社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えた。ベンサムの唱えた功利主義の擁護者。晩年は自ら社会主義者を名乗るほどの急進的自由主義者であった。今日ミルの主著と考えられているものの多くは、1840年代以降に書かれている。ミルは様々な学問で業績を残したが、彼の思想の基礎にあるものは、彼自身の功利主義という倫理的な姿勢であり、それらは『功利主義』(1861年)などにおいて彼自身が述べている。ミルの業績の中でもとりわけ彼の名が刻まれているのは政治哲学での貢献である。ミルの著わした『自由論』(1859年)は自由とは何かと問いかけるものに力強い議論を与える。ミルは、自由とは個人の発展に必要不可欠なものという前提から議論を進める。J・S・ミル著 塩尻公明・木村健康訳 「自由論」(岩波文庫 1971年)より要点をしるそう。この思想をミルは思想家ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767−1835年)から得ている。「本書に展開されたあらゆる議論が直接に起因する重大な指導原理は、人類があたうかぎり多種多様な発展を遂げることが絶対的に必要であると云うことに帰着する」という。道徳哲学や社会哲学においてミルが功利主義者であることは論を待たない。ジェレミ・ベンサムのいう「最大多数の最大幸福」が最高の目的であった。しかしミルはこれに終わるものではなく、「ベンサム論」ではこれを批判して「我々は功利または幸福はあまりに複雑なまたは不確定な目的であって、いろいろな第2次目的の媒介を借りなくては決して狙うことは出来ない」といった。制度が最大多数の最大幸福をもたらさんが為には、何よりもまず社会の構成員の人間としての発展がなくてはならないということを「経済学原理」において述べている。それはやがて個性の重視となる理想主義になるのだ。すなわち第1原理としての功利主義に、「人間としての成長」、「諸能力の調和ある発展」という理想主義的色彩が加わる。19世紀前半は、欧州ではナポレオン戦争が終結してイギリスでは自由主義的改革の時代である。経済的自由および政治的自由の獲得の問題が次代の課題となり、思想的根拠が準備された。アダムスミスの「自然的自由の体制」、ベンサムの「功利主義哲学」があたかも自然法であるかのように受け入れられた。ベンサムによると、人間の行動はすべて利己心の発動で、快楽地球が人間の行為の動機である。利己心の衝突は望ましくなく、全ての人の調和を求める利己心を是とした。そのために利己心の衝突を避けるため国家や法律が必要だとされる。したがって国家や法律は基本的に悪であるがやむをえない必要悪とされる。こうして「最大多数の最大幸福」が達成されるという理屈である。この思想は哲学的急進主義といわれ、イギリスの改革に大いに力を発揮した。ミルの父も功利主義者であったことは先に述べた。J・S・ミルは哲学者としては論理学の帰納法を確立し、経済学者としては古典派経済学を受け継いだ。ミル自身は「功利主義」という著作を著わすほど功利主義者と見られているが、「自由論」においては妻のテイラーの意見を入れて功利主義から、調和的に人間の諸能力を可能な限り発展させることが道徳の目的となるという理想主義的個人主義へ進化した。 自由とは、哲学的必然に対する意志の自由ではなく、市民的・社会的自由に関することであり、社会権力がどこまで個人的自由に正統に介入しうるかという権力の本質と限界についてであると定義する。古来、自由と権威との闘争では、自由とは政治的支配者の圧制に対する擁護を意味していた。支配者と被治者は本来敵対するもので、外的から被治者を守るための力は同時に被地者への圧迫に向けられていたのである。それゆえに支配者が社会の上に行使することを許された権力に対して制限を設ける必要があった。この制限こそが自由なのである。それは歴史的に政治的自由や権利を支配者に認めさせることであり、ある種の責任(賦役、課税など)を免除させることであった。これらは普段の反抗と闘争によって獲得されたものである。それに対して憲法によって、ある統治権の行為に対して社会の団体が同意を与えることで権力の制限を行う。自らの代弁者たる政府官吏を持つこと、選挙による選択で統治者を決める(権力を委託する)いわゆる主権在民の時代となった。主権は王候貴族ではなく被統治者側にある。だからといって自治権力は自分自身ではないので、この民主共和制の権力自体が民衆の自由を侵すことがある。人民の意志は実際には人民の最多数の部分あるいは最も活動的な部分の意思である。この所説はしかし諸々の能力が成熟して人々だけに適用される。未発達な社会状態、未開人に対しては専制政治は正当な統治方法である(この辺は植民地主義、帝国主義擁護となって今の常識では納得できないが)。そこでベンサムの功利主義を第1原理とし、個人の能力成長を第2原理とするミルの理想主義の誕生である。権力が個人を統制するときに強制を用いる害悪と同時に、不作為による害悪も存在する。すなわち社会がその個人を統制するよりも個人の自由裁量に任すときのほうが、大体において個人がよりよい行動をとる可能性があるようだ。この成熟した個人によって成り立つ社会を自由社会となずけると、自由な社会の条件として次の3つが固有の領域となる。@良心と思想の自由 A嗜好および目的追求の自由、行為する自由 B個人相互間の団結の自由、結社の自由が尊重されていない社会はその政体がなんであろうとも、自由な社会ではない。自分自身の幸福を自分自身の方法において追求できる自由である。

本書は19世紀イギリスの経済学者・思想家として有名なジョン・スチュアート・ミルの「自伝」(1873年版)である。ミルの受けた教育と精神の発展の歴史として自伝中の白眉といわれている。明治以来我国の旧制高等学校では自伝の一部分が教科書として用いられていたようだ。我国における邦訳・注釈版は多いが、岩波文庫においても昭和3年(1928年)以来西本正美氏の訳で出版されていた。それが1960年朱牟田夏雄氏の訳で改訳版が出された。氏のまえがきと解説者早坂忠氏のあとがきによると、テキストとしてハロルド・ラスキ版(1924年)、コロンビア大学コス版(1924年)、1961年に発見された1853-1854年執筆の「自伝」草稿がある。特に前2者の相違は著しいとされる。相違箇所はミルの近親者に関する記述箇所で、ミルの遺産相続人たる子や孫娘による記述の削除・改ざんによると思われる。遺産相続人の死去による現行の原稿の競売・散逸によって、この相違点の理由が明らかになってきた。すると今度はミルの意志の相克と矛盾が露わになったという。ミルの妻への尋常ならぬくらいの賛美は虚像ではないかと思われている。「ほめ殺し」の言葉に何が隠されているのか下世話な興味が湧く。訳者朱牟田夏雄氏(1906年6月29日 - 1987年10月18日)は、日本の英文学者。東京大学名誉教授。東京高等師範学校附属中学校(教育大、筑波大学付属)から第一高等学校へ、東京帝国大学英文科という判で押したような秀才コースを歩み、東大大学院卒業後8年間は書店で働き、1940年神戸商業大学(神戸大学の前身)予科教授、戦後は東京大学教養学部英語科助教授、教授を経て、1967年 定年退官後は名誉教授となるといった人物である。本書の解説を書いた早坂忠氏(1931年9月25日 - 1995年7月10日)は経済学史の研究者である。東京大学教養学科卒業後、東大教養部英語科の助教授・教授となり、1960年より学習院大学経済学部教授となった。東大では教養学部の英語科に所属しており、経済学ではなく英語の教授だった。専攻はケインズ経済学であった。本書の解説を頼まれたのは、東大教養部の英語科の先輩である朱牟田夏雄氏の要請により、本書「自伝」の背景となる19世紀英国の経済・社会を展望するためである。19世紀後半の西洋世界で大きな影響力を持ったジョンスチュアート・ミルは、フランス啓蒙派の影響を受けつつ、慣例と常識という詰まらないことに妙にこだわるイギリス経験派を抜け出ることで人気を得たようだ。あえていうとミルはアカデミック界に一度も籍を置いたことはないのに、論理学、哲学論理学、経済学、政治学、社会政策、文芸評論、宗教論などに関して文筆をふるった。19世紀(日本でいうと徳川時代後期)は人間の社会活動の未分化な時代で、こうした総合的な知識人が輩出したのであろう。こういう文化が日本の旧制高校や旧制帝国大学のいわゆる「全人教育」の理想となったのであろうかと偲ばせるものがある。ミルは仕事の上では父の後を継いで東インド会社の「インド通信審査部」に35年いて植民地への指揮命令系統に勤務した。そして知的活動においては哲学政治思想ではベンサム、ヒューム、経済学ではリカードといった父の交友関係をそのまま幼いころから自分の師とした。ミルが青年時代を送った時代は、産業革命を遂行中であり「世界の工場」としての地位にあったイギリス社会は、労働者階級が台頭して社会問題や政治行政問題が表面化する時代を背景としていた。

「自伝」の約 4/5(本書の218ページまで)は1861年に、残りの部は1870年に書かれたというのが定説になっている。本書の冒頭(本書第1章の第1−2ページ)にミルが記したように、自伝を書く動機は、彼が父から受けた幼児教育の記録(ミルは学校教育は全く受けていない)と彼の心的発展の歴史を記録しておきたいということと、第2にはその知的道徳的発展の途上で受けたほかの人の恩義に感謝するためであるという。つまり自分の知的発展の過程で読んだ本と父の指導、恩師や友人から受けた影響を記すことである。父親のジェームズ・ミルはベンサムの思想に共感し、また協会主義の支持者でもあった。ジェームズはそれらの考えにもとづき、ミルを優れた知識人として、またベンサムと自分に続く功利主義者として育て上げようとした。ミルの家系が貴族であったかどうかは知らないが、昔より王族貴族の子弟教育は家庭教師によるもので、学校は救貧事業に過ぎなかったことを思えば、ミルの教育法は画期的ということではなく父親一人が教師であったという点で父親の知的能力の高さが分かる。尋常な子供では想像を絶する読書歴を持ち、本を通じて広い世界を父の指導で学んできた「超秀才」少年ミルにも、人並みに青年期の憂鬱がやってきた。1826年秋から1827年春までの数か月、ミルはいわゆる「鬱病」になったようだ。鬱の期をフランスの文学者マンモルテルの「回想録」を読んで脱したそうだ。個人的体験を重視し自己の心理的発展の記録を残すことが本書「自伝」の動機の一つであったので、憂鬱の感情も極めて分析的にとらえて解決した。自己の思想の歴史をその発展の歴史としてとらえることを「進歩主義」(進化主義)というが、それを世間に公開することは世人にとっても有益だと考えている。自己の思想の社会的意義を公表することである。自己の客観化(第3者化)に巧みな、理性的なひとであったようだ。ただミルは自己の思想の誤りや無力性、限界といったマイナーな捉え方は一切しなかった。それを長所というか、我慢ならない短所(自分の思想は無誤謬で、常に自己にとっても社会にとっても意味を持つ過程である)という、挫折を知らない非人間性(世襲的お坊ちゃまに共通した)にも感じられる。ミルの著作は「自由論」しか読んでいないのでとやかく言えるわけではないが、ミルの功績を「総合性、集大成、完成」と評価する人もいれば、「寄せ集め、折衷式、解体的」と評価する人もいるようだ。ミルの存在が権威を持つにつれ、阻害的な面(嫌み)もあったようだ。ミルの思想は大まかに言うと、経験主義、功利主義、改良主義などと特徴づけることができるが、「肥沃な泥沼」という矛盾を含んだ混沌たる発展母体(国造り神話の混沌のしずく)であったようだ。フランス啓蒙思想のような革命性、深刻性、創造性は感じられない、いかにもイギリス貴族主義的改良主義の中で捉えるのが正当な評価ではないだろうか。ベンサムの功利主義というかイギリスの経験主義はすぐに役に立つことを求めるものであるが、ミルの学問上の功績は不確実で捉えがたい領域ばかりであったと自伝(本書167ページ)に述べられている。ミルにとって何が一番大切なものであったのか、自己の思想の社会的有用性を考えるうえでその中心点が不明瞭なのである。ミルにとって民衆の主権(民主主義)なのかというとどうもそうでもないようだし、自己の果たす役割お「中間の不確実な領域」に限定していたようだ。日本の「知識人」にもよくありがちな位置づけである。「鉄砲をとれと檄を飛ばすが、自分は鉄砲を持たない」ということかもしれない。しかしミルの自分の思想にたぐいまれな誠実性は、おのずと自分の存在の制約性に気づかずにはいられない。

第1章 1806年ー1819年(0歳ー13歳) 少年期の教育と読書遍歴

「無駄に使われている幼少時に、世間一般で考えられているよりははるかに多くのことを教えうる」という父の教育方針に従い、3歳の時からギリシャ語を学び始めた。ミルの父とは「英領インド史」の著者で商人の息子であったといわれる。エジンバラ大学を卒業して、伝道師の資格を得たが教義に納得せず、家庭教師をしながら著述業で身を養っていた。非常な努力家で、1819年東インド会社(インド通信審査部長)に職を得た後も寸暇を惜しんで著述に励んだという。普通の凡庸な人には信じられないほどの読書を父から課せられた。幼児用絵本の代わり歴史書、哲学書、詩集などを読んできたという。どこまで理解したのかはわからないが、この読書は驚異であるので、本書に書かれた本(記憶によるものなのか、読書課題表が残っていたのかは不明)を羅列してみよう。本の題名が分かるものはそのまま著者と「・・」をつけて記すことができるが、分野しか書いてないものもある。
ギリシャ語語彙、「イソップ物語」、クセノポン「アナバシス(ペルシャ遠征記)」、ヘロドトスの全部、クセノポン「キュロス教育」、「ソクラテス追想録」、ディオゲネス「哲学者列伝」、イソクラテス「デモニコスへ」、「ニコクレス王へ」、プラトン「対話篇」初めの6つ、算術、ロバートスンの史書、ウォストン「フィリップ2世、3世伝記」、ヒューム「英国史」、ギボン「ローマ帝国衰亡史」、フック「ローマ史」、「プルターク伝」、バーネットの現代史、「年鑑」、ミラー「英国政治の史的概観」、モスハイム「教会史」、マクリー「ジョン・ノックス伝」、シューアル・ラティ「クウェイカー宗教史」、ビーヴァ―「アメリカ覚書」、コリンズ「ニューサウスウェールズ初代植民の記録」、「アンスン航海記」、「世界周航記集」、「ロビンソンクルーソゥ」、「アラビアンナイト」、カゾット「アラビア物語集」、「ドン・キホーテ」、エッジワス「通俗物語集」、ブルック「まぬけ貴族」、8歳でラテン語の学習、カエサル「ガリア戦記」、ポウブ訳「イーリアス詩集」、ユークリッド幾何学、代数学、微分学、高等数学、ウェルギウス「田園詩」、「アイエネス」、ホラチウス「抒情詩」、パエドルス「寓話詩」、リウィエス「ローマ建国史」の初めの10巻、オウディウス「変形物語」、ギリシャ劇ではテレンティウスの劇23篇、ルクレウスの一部、「イーリアスとオデッセイア」、ソフォクレス、エウリピデス、アリストパネスの劇数編、ツキジデス、クセノポン「ヘレニカ」、デオクリトアス、アナクレオン、ディオニュシオス、ポリュピオスを読んだ。アリストテレス「修辞学」、ミットフォード「ギリシャ史」、フック「ローマ史」、「古代万国史」、トムスン「冬」、英詩ではシェイクスピア、ミルトン、グレイ、ウオルター・スコット「物語詩」、ドライデン、クーパー、キャンペルなど読んだが、父は詩には関心がなかった。科学の分野では、ジョイス「科学の対話」に熱中したというが科学実験はしたことはなく系統的に学んだ形跡はない。12歳ぐらいから教育は一段進んだ段階になった。アリストテレスの論理学「オルガノン分析論」、スコラ派論理学、ホッブス「計算即論理学」、ギリシャの雄弁学ではデモステネス「演説集」、タキツス、ユウェナリス、クウィンティリアヌス、プラトンの対話篇より「ゴルギアス」、「プロタゴラス」、「国家」であり、ソクラテスの方法は観念の陥りがちな誤りを正す訓練となったという。1819年13歳になると、経済学の全過程を、父の友人リカードウの「経済学と租税の原理」で学んだ。続いてアダムスミスの著作を読んだ。父は科学方法論、論理学、経済学を同等に重視したという。ここでミルの少年期教育はすべて終了した。これだけの多岐にわたる教育を施されると大概の英才少年は打ちひしがれて燃え尽き症候群になるか、鬱病になるだろう。あるい反発して飛び出すか、廃人になるかもしれない。ミルの父親は行った英才教育は決して詰め込み教育ではなく、一歩一歩自分の理解力の進歩を待つ方針であったので、ミル本人は興味を持ち続けてこれに耐え得たのであろう。(凡才の私には理解できないことであるが) そして父親はミルが普通の子供らとの接触を禁じて、悪い考えや怠惰な生活から遠ざけたということである。ひたすら知的な訓練であって、実際的な人間をつくる教育ではなかったとミルは反省している。純粋培養で恐ろしく頭でっかちな天才宇宙人という化け物を作ろうとしたのであろうか。

第2章 1813年ー1821年(7歳ー15歳) 少年期の道徳教育

この章は前章と同じ時期の主として道徳的(宗教的)教育面をまとめたものである。結論から言えばミルは宗教には深入りしなかった。最初から普通の家庭で受け入れられている宗教的信仰心は教育されなかった。宇宙の創造伸とキリスト教の権威を自然の摂理として受け入れる「自然宗教」の基礎を、ミルの父はバトラー「宗教の類推」を読んでから破棄するようになったという。万能であると同時に完全に正しく慈悲深い存在がこの世の創造伸でありかつ支配者であるという原理は、神は同時にかくのごとき悪に満ちた世界を作るとはどうしても信じられないのである。神は地獄の創造主なのだろうか。とすれば宗教は道徳の最大の敵となる。世界がいかにして生まれたかは何一つわかっていない問題で、私を作ったのは誰かということには答えられない。(宇宙物理学と素粒子論と相対性理論でもって、宇宙の起源が解き明かされようとしている今日でこそ、宇宙が150億年前に爆発的に元素が生まれビックバンが始まったということになった。むろん神の存在は想定していない) ミルの父は宗教改革を、思想の自由の立場から、聖職者の世俗的圧制に対する決定的な戦いを挑んだと考えた。言論の自由が大きく進歩したミルの時代には、世間の常識に反して異議を公表することが知識人の義務であると考えるようになった。神よりも理想善のほうが完全な方法であり、宗教とは切り離されたミルの父の理想的確信はむしろギリシャの哲学者の意見に近い。ミルは父の指導でクセノポンの「ソクラテス追想」を読んでから、ソクラテスの人柄に対する深い尊敬をを植え付けられた。ミルの父の人生哲学は、ストア派哲学の「実利的で、善悪の基準としての行為が快楽を生むか苦痛を生むか」を考えるエピクロス学派に属していると思われる。父は快楽をほとんど考慮の対象とはせず、「節制」が教育の中心とした。節制の道徳を教え込む父の姿は感情を抑制し厳格でやさしさに欠けていたかもしれない。父の友人関係にもミルは多大な影響を受けた。自由主義経済学のリカードウ、政治思想家のヒューム、哲学者のベンサム氏らに交わって、ミルの人格が形成されたようだ。特にミルの父はベンサム氏の倫理、政治法律に関する見解を大体において理解した。1813年ベンサム氏と父とミルの3人でイングランド回遊旅行はミルの自然への景観を養ったという。また1920年に自宅学習を終えてミルは約1年間、ベンサム氏の弟のもとでフランス遊学生活を送った。モンペリエでは理科大学の冬季講座に出席した。「イギリスでは社交界といわれる社会の道徳的調子がいかに低調で、イギリス人はいつもつまらないことばかり考えている」と自虐気味にとらえていたミルは、フランスに来て高尚といえるいえる情緒が生活にあふれていると感心している。英国人の間では、自分の利益に関係のないことにはおよそ無関心で、英国人の精神的存在として価値はゼロに等しいと酷評し、フランス人のおおらかさ、社交性、啓蒙性に感心したようだ。英国では他人を敵でなければうるさい存在と観る偏狭な生活様式であったようだ。夏目漱石がロンドンで文明とはこんなものかと絶望したのもわかるような気がする。フランス滞在中のパリ通過時には、共和主義者で父の友人であった経済学者のセー氏の家に滞在した。こうしたフランス遊学は、大陸の自由主義への強い永続的な関心に影響されたことが最大の土産であった。英国人の尺度でものを見る悪弊から免れたのもフランス遊学のおかげであった。

第3章 1821年ー1823年(15歳―17歳) 教育の最後の段階と自学活動

フランス遊学から帰ると、ミルの父が脱稿した「経済学要綱」の見出しを作る仕事を手伝うことと、コンディヤック「感覚論」、「研究法」(倫理学と形而上学)を勉強の対象として与えられた。コンディヤックの心理学体系を学んだ。そしてフランス革命史をよみミル青年の心をすっかり捉え、民主主義の闘士たらんとの志を抱かせた。1922年の冬フランスへ留学し、父の知り合いとなったジョン・オースティンのもとでローマ法を学んだ。経験の混沌たる混合物である英国法をミルの父は嫌い、ミルに法学入門を課した。ハイネッキウスの「ローマ法原論」、デュモンの「立法論」を読んでミルは大きな飛躍を迎えた。「最大多数の最大幸福」というベンサムの基準を応用する役目をしっかり自覚したようだ。父の指導で分析的心理学をさらに深める学習に入った。ロックの「悟性論」、エルヴェシウスの「精神論」、ハートリーの「人間論」ヒュームやバークリーの「悟性論」、リード、ステュアート、ブラウンの「因果論」、ブラウンの「講義集」を読んだ。これでミルの若いころの精神的発展に多少とも影響を与えた書物はすべて記載したという。こうして1922年(16歳)にミルは初めて自分の論文らしきものを著した。金持ちのほうが貧乏人より秀れているという貴族的偏見を攻撃した論文だったようだ。この時期によく交わった友人は、グロウト氏とジョン・オースティン氏の二人であった。1823年の冬「功利主義哲学」の若い人の同好会である「功利主義者協会」を組織した。会員は10人以下で1826年には解散した。1823年5月ミルは父の東インド会社通信審査部の職員に採用され、父の直接の部下となった。売文の生活は不安定であるから、父の推薦で同じ道の職業に就いた。今の市役所の就職みたいにコネ就職になる。

第4章 1823年ー1828年(17歳ー22歳) 「ウエストミンスター評論」を舞台とした活動

世間ではミル親子は功利主義急進派というラベル付けが行われ、ミルは東インド会社の勤務の合間を縫って、ウイッグ党機関紙だったクロニクル紙をはじめとする新聞への投稿で忙しかった。保守寡占派の「エジンバラ評論」や「季刊評論」に対抗するために、急進派の新聞を持つことに必要性は、ベンサム氏や父の間で議論されていた。1823年ベンサム氏は「ウエストミンスター評論」紙を創設し、バウリング氏を主筆、ミルの父を総評にしてスタートした。急進的立場から英国憲法の分析を行い、貴族的な性格に注目した。つまり大地主からなる議員の構成、寡頭政治(教会と弁護士)のエジンバラ評論を攻撃した。急進派の旗揚げとなって注目された「ウエストミンスター評論」創刊号はよく売れた。父はよく投稿して「季刊評論」を攻撃した。ほかにビンガム氏、オースティン氏、ミルの仲間ではエリス氏、アイトン氏、グレイス氏、ロウバック氏、ミル自身も18号までに13篇を寄稿した。歴史、経済学、穀物条例、狩猟法、毀損罪法などの政治的話題の論議であった。時代は自由主義の急速な勃興期で、英国政治は改革に向かって進みはじめた。野党急進派が政府を追い詰め、カロアイン王妃裁判が国民の憎悪を掻きたてた。細かい旧来の悪習が暴かれた。ヒューム氏は予算節約を主張し、リカードウが自由貿易問題で経済を前面に出して戦った。そして父とマカロクは経済問題の論評解説をおこない、ハスキンスは保護貿易制の漸進的撤廃にのりだした(1846年に完了し、最終的に撤廃したのは1860年のグラッドストン氏の時であった)。そしてピール氏によってベンサム的法律改革が進んだ。ベンサム主義は公衆の中でかってないほどの支持を得た。ベンサム派はベンサム氏を総司令官とするというより、ベンサム派の中心にいた父の人間的影響力で集まった緩やかな集団というべきである。父の影響力は3つの水路からなる。一つはミルへ流れ、2つはチャールズ・オースティンのケンブリッジ仲間へ、3つは若いケンブリッジ在学生へと流れ出た。このグループはあまり多くはなかったが「哲学急進主義」という思想の最前線を構成し、ベンサム氏の考えを近代経済学、ハートリー流形而上学に結び付けた。政治の面では代議政治と言論の完全な自由、そのための民主的選挙が父の政治信念であった。父の政治的信念は、王室を悪の源泉というベンサム氏の見解よりはずっと穏健派で、「より良き政治への保障」を求めるものであった。むしろ父にとっては宗教集団は人間の精神の発展を阻むことで利益を得ている最大の憎悪対象であった。「あらゆる人間の性格は普遍的な観念連合の原理を通じて環境によって作られる」ので、人類の知的道徳的条件は教育によって無限に改良できるという信念を持っていた。そういう意味でベンサム急進派の青年は18世紀のフランス啓蒙主義を手本とした。1824年ベンサム氏は「法廷証拠の理論」を著した。この書はベンサム全著作の中で最も内容豊富なひとつであるとミルは評価するが、ベンサム氏後期の文体は正確を期すあまり重苦しくわずらわしいので、ミルはのびのびとした力強い文章、ゴウルドスミス、フィールディング、パスカル、ヴォルテール、クーリエの著作を読んだという。ミルは数人の仲間(ブレスコット、ロウバック、グロウトら)と読書と討論・研究会を作った。そこで読んだ書物は、父ミルの「綱要」、リカードウの「経済学原理」、ベイリー「価値論」、デ・トリューの「論理学手引き」、ホッブスの「計算即論理学」、父ミロの「人間心理の分析」などである。ジョン・スチュアート・ミルが人に頼らない独立の思想家として本当にスタートしたのはこの読書・研究会からだと述べている。1925年のはじめ、オウエン主義者の「協力協会」の人と、人口問題を口火にして経済学者のグループが論争になった。チャールズ・オースティン、マカロクらが活躍し、相手側の弁士としてトンプソン、サールウォール氏らで友好的な論戦を行ったという。その後フリーメーソンのクラブで会合し、議員、ケンブリッジ大学学友会オックスフォード連合弁論会から保守系の弁士、自由主義者ら堂々たる弁士が集まった。この会の問題提供訳にミルが手を上げ、1827年には急進派が形勢を挽回し、1928年にはコウルリッジ派(急進派)も参加した。この討論会はミルには気の利いた文章や弁論の訓練となったようだ。1828年ごろから「ウエストミンスター評論」は経営難に陥り、主筆や寄稿者に謝礼も払えない状態で、ミルは数年後第1次ウエストミンスター評論から手を引いた。

第5章 1826年ー1832年(20歳―26歳) 精神的危機の時と前進

1821年15歳でベンサムを読んでから、世界の改革者たらんと志したミルに、1826年20歳の秋に「精神的危機」(鬱)が訪れた。精神のマヒした状態が続き、人生の目標が無意味に見えて快感もやる気も失せた。神経をすり減らした「分析」の習慣は、喜怒哀楽の感情をすり減らす傾向があるようだという。ミルの心境はコウルリッジの詩にぴったりで、モンマルテル「回想録」を読んで心が軽くなったという。この時期の体験はミルの人生理論に2つの著しい影響を与えた。ひとつは幸福があらゆる行動の基本原理で人生の目的であることのベンサム流理論?微動だにしなかったが、幸福を直接の目的とはしなくなったという点である。自分以外のほかの目的に精神を集中する方が幸福なのだということである。幸福という考えに幅ができ人生がそれだけ豊かになったわけである。結局バランスが大事で、倫理的・哲学的信条の中で、感情の陶治(コントロール)が基本的なひとつとなった。そこで人間的教養の手段として詩や音楽・自然の重要性に気が付き嗜むようになった。1828年ワーズワースの田園詩、バイロンを読んだことは一つのターニングポイントとなった。こうしてミルはそれまでの仲間からの離脱と新しい友人関係の構築を宣言した。ロウバック、コウルリッジ派のフレデリック・モーリス、ジョン・スターリングとの深い交流となった。1829年よりフリーメイソンの討論会に参加するのをやめた。1830年より論理学一般理論について筆を進めた。帰納法と演繹法の問題について考察を進め、ある科学の分野が物理的(演繹的)であるか化学的(経験的)であるかは力の合成が成り立つかどうかにかかっていることが分かったという。結果が原因のリニアな和(合成)ならば、線形問題となり物理的世界〈非線形問題も物理の範疇だがまだよくわからない)となる。化学の世界は履歴も関係して線形関係では説明できないからである。政治学・経済学の課題も人生と同じく実験科学で検証可能ではない。原因と結果の循環増幅、期待、履歴、非線形など複雑怪奇でとても科学であるは言えない。ミクロで原因と結果がつながるように見えるかもしれないが、演繹的に進めれば必ず裏切られる。今日でも政治経済を「社会科学」というのは間違っている。あれは科学ではなく政策なのである。1829年と1830年にフランスのサン・シモン派の著作を読んで、新様式の政治思想を学んだ。サン・シモン派によって展開された体系では、社会の労働力も資本も社会全体の利益のために運営され、各個人はそれぞれの能力に応じて労働の一部を分担し報酬を受けるであるという。ミルはサン・シモン派の見解は、オウエンの社会主義よりも勝った社会主義と考えた。家族の問題を社会構成員として先入観なしに、男女の完全な平等を宣言したからである。これはミルにとって一大転換点となった。それからミルは自分を社会主義者と呼ぶようになった。また世間の無気力の背景となっていた宿命的必然論は、環境説と自由意志学説によって覆された。また代議制民主主義は絶対の原理とも言えなくなり、どういう政治体制を選ぶかは国民の進歩による選択によって決めるべきだという。ミルはイギリスの憲法上貴族階級と金持ち階級が支配権を握っていることを、どんなに争ってでも廃止すべきである悪とみなした。世襲にしろ一代で稼いだにせよ、富が唯一の政治的権力の源であるため、貧しいものに教育を与えることは金持ち階級にとって明らかに利益となる。財産権を暴力から正当に守れるからである。教育市場で親たちが望む以上の教育施設を作る重要さを説いた。こういう状況で1830年フランスで7月革命が起きた。ミルはすぐさまパリに行き、極左思想を身に着けた。帰国してからグレイ内閣の選挙法改正案に積極的にコミットした。ミルは恐ろしい量の論評を新聞に投稿し、1830年と31年に5つの論文を書き、「経済学の未解決の問題若干についての論文集」として刊行した。

第6章 1830年ー1840年(24歳ー34歳) 父の死、著作活動

テイラー夫人との結婚については私的なことでミルの活動に彼が言うほどの影響を与えたとは思われないので割愛する。思想を改革する人の思考には2つの領域がある。一つは人生の最高の理想を構成する要素は何か(目標の領域)、2つはすぐに実現し役に立つことことは何かという領域である。ところでいまっまでのミルの活動は論理学だの政治学だの不確実で捕まえにくい領域であった。ミルの第1の領域は、条件付き社会主義に近づくことと、修正された代議政治民主制への移行であった。第2の領域に関してはミルは緩やかに進行し、トクヴィルの「アメリカの民主主義」(1835年)を読んでからであったという。 トクヴィル著/松村礼二訳 「アメリカのデモクラシー」(岩波文庫 2008年)富永茂樹著「トクヴィルー現代へのまなざし」(岩波新書 2010年)を参照してください。トクヴィルを読んでからミルは民主主義のはらむ危険性である中央集権制から独裁制の問題を深く考えさせられたという。ミルは1834年の「救貧法改正案」において、トクヴィルを読んでいなかったら中央集権的な誤りを犯すところであったという。1832年の改革された議会の第1回総選挙が行われ、哲学的急進派といわれた人々から、グロウト、ロウバック、ブラー、ウィリアム・モウルズワス、ロミリ兄弟などが当選した。1833年のアイルランド弾圧法、1837年カナダ弾圧法(いずれも植民地法)に敢然と立ちあがり闘った。1830年のフランス7月革命の熱が去り、イギリスの民主改革が一定程度進むと、世の中は反動の揺り戻し期に入った。1834年哲学的急進派の中でミルが果たすべき役割として、新たな機関紙の創設とその主筆にミルが就任することを、ウィリアム・モウルズワスが提案した。「ロンドン・ウエストミンスター評論」(第2次ウエストミンスター評論)の創刊である。ミルは1834年ー1840年の余暇をこの評論誌にかかりきりになった。古い世代の哲学的急進派(18世紀型 父の世代)と若い世代の哲学的急進派(19世紀型 セジウィック教授ら)を和解させることに意を用いたという。ところが父は1835年以来健康を害していたが、1836年6月肺結核で死去した。1837年「ロンドン・ウエストミンスター評論」が経営困難になりウィリアム・モウルズワスが雑誌の経営から離れた。そこでミルは私費を投じて、寄稿家に稿料を払ったという。このような中にあって、1837年ミルは「論理学」の執筆を再開した。ヒューウェルの「帰納的諸科学の歴史」、ハーシェルの「物理学研究講話」、コントの「実証哲学講義」に助けられながら、ミルは帰納法の研究を進めた。人間が真理に到達しようとする過程は、特定の経験を照合して概括的結論を導き、その結論が他の一般原理から矛盾なく導けるかどうかを検証する点である。その過程は自然科学な問題と同じである。ところで政治的社会的問題ではコントの霊的権威には就いてゆけず、ミルはコントと袂を分かった。「ロンドン・ウエストミンスター評論」の経営に当たっては、ミルは哲学的急進主義をセクト的ベンサム主義という非難から守ることには成功した。もう一つのミルの目的は急進主義者をウィッグ党と共同で政権を獲れる強力な政党に育てることであった。ところが急進主義者に政党人たる人材がいなかったことで、トウリー党から憎まれ、ウィッグ党からも攻撃されダラム卿を祀り上げることに失敗した。急進的政党を組織しようという希望が消えてみると、もはや「ロンドン・ウエストミンスター評論」を維持する意義は無くなった。1840年雑誌を人に譲って手を切った。

第7章 1840年ー1870年(34歳―64歳) 論理学、経済学、自由論、政治論出版、議員生活

ミルは精神的成長を記す自伝としては、著述という成果がある限りその中で精神的成長を読んでいただくという趣旨で、以降は順序立てて精神的成長は語らないといい、この章だけは駆け足でなんと30年という期間を取り扱う。
@「論理学」1843年: 「ロンドン・ウエストミンスター評論」の経営から降りたので、比較的時間を得てまず「論理学」の完成を目指した。1840年秋に草稿を完成し、1841年4月から年末にかけて全文を書き直した。ミルは著作を少なくとも2回は全文を書き下ろすという。最初の着想を長期にわたって考えることで正確さと完成度の利点が増すからである。草稿で一番注意を払うのは思想の配列・順序であるという。間違った順序では思想は伝わらないからだ。1843年に「論理学」は出版された。当時の欧州では人間の認識および認識能力についてはドイツ的あるいは先験的な考え方が支配的であったので、あらゆる認識は経験から発し、あらゆる道徳的知的諸性質は主として観念連合に与えられる方向から発するという考えかたは少数であったので、たいして売れるとは思わなかったという。急進主義者としての政治への積極的関心、雑誌編集という仕事から解放されて、思索癖の強い人間(ミルのこと)は社交界から身を引いた。
A「経済学原理」1848: 1848年のフランス革命の少し前に第1版が出版された。第1版ではむしろ反社会主義的とも思われたが、その後1,2年で第2版、第3版を重ね、論点は明確となり、ミルは大きく社会主義的政策へ傾いた。これには1847年のアイルランドの飢饉による窮乏が影響している。イギリス政府はこれを貧民として処理をする「救貧法」を可決したが、他国への移民によってアイルランドの人口減少が続いた。「経済学原理」は大きな成功となった。それは経済学を切り離された理論ではなく、社会全体の一環、他部門との連携なしには機能しない実際的な指導理論と考えたことにある。1848年以降欧州は反動の時期を迎えた。フランスのナポレオン3世の権力簒奪者は自由と社会改革の希望を奪い去ったかのように見えた。この時期はミルは大きな著作を世に問うていない。新聞寄稿やエッセイを書いて社会の動向を見守ったという。世の中は沈滞し閉塞していた。人間の運命の大きな改善は、彼らの考え方の根本的な後世に大きな変化が生じない間は絶対に不可能である。転換期には何らかの活気づけがおこなわれ、新しい信念が生まれる。1861年以降ようやく世界は新しい動きに入ったとみられた。
B「自由論」1859: 1858年東インド会社インド通信審査部長を勤めていたミルは、東インド会社の廃止に伴い退職した。1855年ごろ着想していた「自由論」の草稿を1858年から9年にかけて改訂中であったが、途中妻の死に会い完成版を妻の霊前にささげたという。人間の性格のタイプにはいろいろな種類があってそれぞれ相矛盾する方向へ自由に伸びてゆけるようにすることが、個人にとっても社会にとっても進歩の原動力であることを明らかにした。トクヴィルが指摘したように、社会の平等が進むにつれ世論の統制が強くなっていくことは憂慮しなければならない。独創性とは自分独自の考え方で考え自分独特の方法で表現することである。ウィリアム・マコール、ペスタロッチ、ウィリアム・フォン・フンボルト、ゲーテらは個性尊重と道徳的性格はそれぞれ好きなようにして自己を発展せしめよと要求した。
C「代議政治の考察」1861: 1859年ダービー卿の選挙法改正案に対して「議会改革所感」というパンフレットを出版した。その後ミルはヘア氏の「比例代表制」の考えを知り、数の上の多数党にその数に比例した権力ではなく、すべての権力を与えるしまうことに議会民主制の危機を見てとったのである。ミルは生涯この比例代表制の支持者となった。1861年に「代議政治の考察」を出版した。議会の法律を作る機能と、法律を作らせる機能の分離を主張した。議会が法律を作るべしと議決すると、委員会に権限が委譲される過程の分離である。法案を通過させるのは議会であり、変更するのは委員会である。そのほかにこの時期の出版としては、「女性の解放」、「功利主義」という論文を出版した。
D「サー・ウィリアム・ハミルトンの哲学の検討」1863: この時期アメリカでは南北戦争が始まった。アメリカの奴隷制度廃止の戦いであるにもかかわらず、イギリスでは中流階級から自由主義者まで南部びいきの論調が支配した。ミルはこのように倒錯した世論に抗議した。ヒューズ、ラドロウ、ブライト氏も抗議の口火を切った。1862年ミルは「アメリカの抗争」という論文を雑誌に寄稿した。こうして自由主義者の議論を正常化したとミルは自負する。その後2年間は政治問題から離れて哲学に埋没した。心理形成哲学には、直感派と経験・観念連合派の2つの学派があった。ハミルトン氏ははじめ中間派的な態度であったが、彼の「リード論考」では明らかに先験的な神秘主義者となった。この傾向は19世紀哲学の反動の特徴である直感的形而上学に由来している。保守勢力には都合のいい心理を代表する。ハミルトンの見解が宗教と結びつくと、神を崇拝してぬかずくことが義務であるという議論になった。ミルはこれを論破し、ハミルトン評価を元に戻したという。
E「オーギュスト・コントと実証主義」1865: オーギュスト・コント( 1798年- 1857年)はフランスの社会学者、哲学者、数学者。「実証哲学講義」、「実証的精神論」などの著作がある。「社会学」という名称を創始し、英国のハーバート・スペンサーと並んで社会学の祖として知られる。ミルと親交があったといわれる。実証主義は神学的・形而上学的なものに依拠せず、経験的事実にのみ認識の根拠を認める学問上の立場であり、オーギュスト・コントによって人類の発展における神学的段階と形而上学的段階の最後に来る実証主義的段階として唱えられた。哲学、科学特に原子物理学、歴史学に圧倒的な影響を及ぼした。もともと経験科学であった化学を除いて、科学の一大要素として科学的研究法の代名詞となった。哲学における実証主義である論理実証主義者たちは分析的な命題は論理によって、総合的な命題は経験によって検証されると考え、どちらによっても検証できない概念を曖昧に用いてきた形而上学を批判し、形而上学の命題は検証不可能であるがゆえにナンセンスであると断じた。ミルはコントの学説を解説して評価を与えた。コントの思想をイギリスに伝えたのはミルである。

1865年ミルはウエストミンスターの有権者から推されて下院議員に立候補し当選した。ミルの政治信念は労働者参政権による普通選挙と婦人参政権、そして比例代表制の実現であった。1865年から68年まで3会期ながら下院議員を務めた。ミルは当時のリベラリスト(進歩的自由主義者)の代表格として、この時期にアイルランドの負担軽減を主張し、イギリス下院における最初の婦人参政権論者となっている。「代議制統治論」では比例代表制、普通選挙制など、はるかに時代の流れに先駆けた選挙制度改革を主張した。植民地におけるジャマイカ事件でダーウィンなどとともに反乱側(黒人)を擁護し、エア総督を弾劾する論陣を張ったのもこの時期である。もっとも、政治家としてはあまりにも先進的・理想主義的であったために世の受け入れるところとならず、次の選挙では落選している。結局、英国で男女平等の普通選挙が実現したのは、第1次大戦後の1928年のことであった。選挙法改正に関してミルは今から見ると変なことを信条としていた。成人男性の選挙権と無記名投票に反対というのである。無知な成人男性が平等に投票権を持つのではなく、有識者に複数の投票権を与えるという差別をおこなうというもので、鼻持ちならぬエリート主義(貴族主義)で一笑に付されることはミル自身も覚悟していたようである。これを実施したら専門家による寡占支配になったであろう。ミルは「民主主義の反対論にも相当な根拠があると思われるものには十分考慮を払い、結論としては躊躇なく民主主義を支持し、ただ民主主義の原理に背くことなくその不都合な点のみを除去することができる制度として、比例代表制を考えたが、保守党からは誰一人賛成者はいなかった」という。


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