2013年6月19日

文藝散歩 

谷川徹三編 宮沢賢治童話集 「銀河鉄道の夜」 「風の又三郎」  
 岩波文庫2冊 (1951年版)

イーハートーヴォの心象スケッチ 宮沢賢治童話傑作集 34話

宮沢賢治
宮沢賢治

宮沢賢治(1896年8月- 1933年9月、日本の詩人、童話作家)とは、昔中学生の頃国語の教科書で「道程」という題名の詩があった。「アメニモマケズ カゼニモマケヅ ・・・・ ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」ひたすら人のために努力する、暗愚ともいえる世間離れした殉教者のような人を描いた詩です。岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブを創造した。現在(2013年4月以降)NHK朝の連ドラに「海女ちゃん」という岩手県北三陸の過疎地自嘲(他嘲?)番組がある。また岩手県出身の政治家では小沢一郎があまりに有名である。共通項があるかどうか短絡的な決めつけはいけないが、都から切り離された独立精神旺盛な山形県人という性格は本当かどうかは知らないが絵になる面白さがある。飛鳥・奈良時代から、九州・東北は熊襲・蝦夷といわれ朝廷に素直に靡かないところがあって、ヤマト王朝や朝廷の頭痛の種であった。平安時代、藤原3代が山形県平泉にまさに独立王国を開いていた。義経を庇護し源頼朝に滅ぼされる12世紀末まで独自の文化を持っていた。以来特異な存在であったが、都から疎外され常に強兵と軍馬の供給地として、農民が飢餓線上を彷徨った。昭和初期クーデターによって日本が軍事政権となったのは、東北地方の飢饉が原因だったといわれる。九州や西国は海外貿易で独自の経済圏を持ち、都からは常に危険視されてきたが、軍事力を養い明治維新で一躍国家権力を奪った。同じ周辺国家として九州と東北は似ていて非なる道を歩んだ。賢治は1896年岩手県花巻に生まれ、1903年花巻川口尋常高等小学校に進学した。浄土真宗門徒である父祖伝来の濃密な仏教信仰の中で育ったといわれる。1909年旧制盛岡中学校に入学し、哲学書を愛読、在学中に短歌の創作を始める(学校の先輩である石川啄木の影響が推測されている)。1915年盛岡高等農林学校に進学した。卒業後研究生として残り、1920年研究生を卒業し教授からの助教授推薦の話を辞退して、1921年に上京し宗教団体(法華経日蓮)国柱会に入信する。1921年と1922年に童話を意欲的に執筆する。童話制作は1926年頃まで続いた。1926年3月末で農学校を依願退職し花巻町下根子桜の別宅にて独居自炊、羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。自ら農耕に従事しながら、農民の友として稲作指導や肥料指導に打ち込んだ。農業の傍ら詩を発表したが、1928年秋に急性肺炎を発症し以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。1931年病気がよくなったので、石灰肥料製造と壁材製造を始めたが、上京して病気が再発し療養生活に入る。手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。詩集・童話の制作を行ったが、1933年急性肺炎で死去する。生前は無名に近い状態であったが、没後に草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家とされていった。生前稿料の入った作品はただ一つであったという。一作も売れなかったゴッホみたいな作家です。

谷川徹三
谷川徹三

編者谷川徹三氏について一言述べておこう。岩波文庫版宮沢賢治童話集の「解説」に谷川徹三氏が述べているように、宮沢賢治は生涯童話に分類される作品を94編残した。その中から谷川氏が佳作・傑作と思われる34編(約1/3弱)を選んだのである。だから谷川氏のことは知っておかなければならない。谷川徹三氏(1895年5月26日 - 1989年9月27日)は、日本の哲学者、法政大学総長などを歴任した。愛知県常滑市に生まれ、京都大学文学部哲学科を卒業し、カントの翻訳や、文芸、美術、宗教、思想などの幅広い評論活動を行った。大正教養主義の流れにあるとされる。また宮沢賢治の研究家でもあり、自ら詩も書いた。柳宗悦とも交流があり、終生民藝運動を支えた。詩人の谷川俊太郎氏は長男である。1987年文化功労者になった。では本書の「解説」にしたがって、谷川徹三氏の宮沢賢治論を拝聴しよう。谷川氏が底本としたのは筑摩版宮沢賢治全集である。そこには第6巻から第10巻までに総計94編の童話ならびに童話的作品がある。そこには手紙や脚本に類する作品も含まれている。賢治没後草稿によって印刷に付されたものが多く、未完、要再訂、原稿が一部失われたものも含まれる。これら作品の制作時期は「注文の多い料理店」の諸編、竜と詩人、飢餓陣営など少数の者を除いては、正確なことは分からない。はっきり制作時期が記録されているものは、1921年と1922年の作品群である。このころ賢治は法華経文学を志して上京し「国柱会」に入って、旺盛な創作活動を開始した時期である。在京していた7か月の創作熱は花巻に帰ってからも持続し、目的意識をもった童話制作は1926年(大正15年)まで続いたものと思われる。死に至る時期まで草稿の手直しは行われたが、未完成作品が多い。岩波文庫本は「風の又三郎」に19編、「銀河鉄道の夜」に14篇を選んだ。作品の中には、賢治が言う4次元的創作芸術、東北地方の民話系統の物語、仏教の精神的風土の物語、動物寓話により社会風刺的に描いた現代のイソップ物語などから、谷川氏が傑作と思われる作品を網羅し、賢治童話の全貌を伺えるように配慮したという。賢治童話とはどのような特徴を持つのだろうか。一言でいえば賢治の詩と同じく「特異性」である。それは「イーはトーヴェ童話シリーズ」の解説に賢治自身が童話的作品そのものの性格を語っている。イーハトーヴェの世界は岩手県である。「本当にもうどうしてもこんなことがあるようでしかたないということをそのまま描いた」というように、実に作者の心象スケッチの一部である。賢治の自己証言は重要である。特異なのは賢治がそう思った世界のことであるからだ。評論家や学者ではなく、実践者としての次元のことであるからだ。熱心な信仰(法華宗)の人であるとともに、献身的な農民の友であった賢治は、実践への願望から芸術活動を持って行ったのである。賢治は死の床で自分の文芸作品はすべて迷いの跡だったという。「棺を覆って評価は決まる。評価は自分にあらず」ということか。


宮沢賢治作 「銀河鉄道の夜」 他14篇

1) 北守将軍と3人兄弟の医者

1931年(昭和6年)「児童文学」に初載。賢治童話中数少ない完成作で、文中の歌の部分は韻文形式である。長年辺境の砂漠で10万の兵を率いて闘った北国将軍ソンバーユーが異民族を征服(相手が疫病で滅亡したに過ぎないが)して、30年ぶりに首都ラユーに凱旋した。将軍は一度も馬から降りなかったので、将軍と鞍と馬が一体化していて、将軍は馬から降りることができなかった。ラユーに住む3人の名医に治療して貰う話である。3人の兄弟の医者とは、人の医者であるリンパー先生、獣医であるリンプー先生、植物医であるリンポー先生のことである。この3人の医者にかかることで、北国将軍ソンバーユーの足腰は癒え、馬の足も癒え、将軍の顔も元通りになった。童話に難癖をつけても仕方ないのであるが、この話で植物医の働きが不明であり、人間の医者と獣医以外必要ないのではないかと思う。北将軍は国王に面会し、武将4人と医師3人に論功をお願いし、自分は急に老け込んで故郷に引っ込んだ。そしていつの間にか姿を消した。人々は将軍は仙人になったのだといい、お堂をこしらえた。童話的要素が強いお話です。

2) オッペルと象

実に強欲な穀物生産者の話で、象をだまして酷使したので、象の仲間から仕返しを受け殺されるという、労働運動や企業社会批判という風刺を含んでいる。たくさんの機械と人を使って生産に励むところまでは普通の企業者なのだが、若い白象という、なんでも興味を持つちょっと頭の働きの弱いものをだまし拘束して働かせるのはいただけない。酷使されて痩せ衰えた白象の死にそうな鳴き声を聞いた仲間の象が救出作戦を展開します。このところは活劇になっています。産業資本主義の悪辣さを批判しているのでしょうか。暗喩のお話です。

3) どんぐりと山猫

どんぐりたちは自分の容姿を自慢して、とがった形が一番、高いのが一番、大きいのが一番、丸いのが一番とか言い争って収拾がつきません。そこで山猫先生が裁判官となって判定をしようとしますが、まずは3日間の調停期間を与えました。それでもらちがあきませんので、山猫先生は「一郎」に特別裁判官をお願いしてきました。一郎は差し向けられた馬車に乗って、出かけてどんぐりの裁判に参加しました。山猫先生に意見を求められると一郎は、「一番バカで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなものが一番えらい」と意見を申し上げると、どんぐりの不平不満は収まりました。「アメニモマケズ カゼニモマケヅ ・・・・ ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」という賢治の詩に理想とされる生き方が述べられていますが、それによって平和な社会ができるという信念に通じるものがあります。人を押しのけて自分だけ偉くなろうとする明治以来の立身出世主義を排し、人のために愚直になって奉仕する人が一番偉いのだという信仰を説きます。暗喩のお話です。

4) 蜘蛛とナメクジと狸

この話も前の話に続きのようですが、解決法を示すのではなく現実の悲惨さをより強調したお話になっています。蜘蛛、ナメクジ、狸といった洞熊学校の優等生の卒業生はそれなりの努力をして他人を食い物にしながら、人生の激烈な生存競争で自分だけは一番になったと思うのもつかの間に、悲惨な惨敗という結果を迎えます。洞熊学校というのは明治以来の立身出世を説く国民学校とみて間違いいありません。お話の筋は荒唐無稽です。蜘蛛は雨で腐敗し、ナメクジは蛙に塩で溶かされて殺され、狸は狼を食べて毒素でやられて爆発するというたぐいの面白さです。

5) ツェねずみ

他人にからんで賠償を強要して生きているツェねずみは次第に誰からも相手にされなくなりました。最後はネズミ取りの針金にからんでおびき餌を食い逃げしていましたが、なんかの拍子にふたが閉まり御用となりました。ぶつぶつ不平不満を言って他人の責任にして、せびるような生き方も世相を反映しているようです。いやなご時世ですね。一流の屁理屈には唖然とさせられますが、これは法律社会を暗喩しているのでしょうか。

6) クねずみ

たいへん高慢でそれに嫉み深くって、自分をねずみ族の中では一番の学者だと思っているクねずみがいました。ほかの鼠がすこしでも難しい言葉(本文ではカタカナで表現される漢書の熟語です)を使うと、嫉みから「エヘン」と咳払いをして、人の話の腰を折ります。そこで相手のねずみから「分裂者」と決め付けられ、ぐるぐる巻きに縛られ処刑されることになりました。そこへ猫大将がやってきて、クねずみを家へ連れて帰り4匹の子猫の家庭教師にしました。ところが子猫たちは大変賢く、ねずみの出す問題はすらすらと答え、逆にねずみが答えられないことがあって、ねずみ先生は馬鹿にされ子猫に殺されました。偉ぶっても上には上があるもので、人は謙虚に生きなければならないということです。

7) 鳥箱先生とフウねずみ

鳥箱先生は教師役で、つもしつけといって禄でもないお小言を言うだけです。鶏箱に入ってきたひえどりを手違いから4羽とも殺してしまいました。それで用済みとなり物置へ投げ込まれました。そこへねずみの母親がきて子供のフウねずみの教育を頼むことになりました。鳥箱先生はネズミの子に対して、歩き方や姿勢や交友関係にばかり小言を言うだけで、フウねずみも言うことを聞きませんでしたので、 鳥箱先生はフウねずみを退校処分にしました。突然猫大将にフウねずみは食われてしまいました。ネズミは猫に食われないように身を守ることが大事で、それ以外のしつけは必要なかったのです。先生は尤もらしいウソばかり言って、生徒は志が間違っているということが結論です。

8) 注文の多い料理店

あまりに有名な童話です。森の道に迷った狩人2人が、腹が減って「西洋料理店 山猫軒」の看板のある家に入りました。やたら戸の多い店で高級料理店化と間違いました。扉にはいちいちお客さんに注文を付けます。最後の扉に「どうかからだじゅうに壺の塩をたくさんよくもみ込んでください」と書いてあるのを見て、狩人は初めてこの店の目的が分かったのです。料理を食べるのはお客さんでなくお客さんが山猫に料理されるのです。二人は危ういところで救出されました。推理小説並みの面白さがあります。

9) からすの北斗七星

カラスの義勇艦隊は、雪の中の田畑で演習を行っていました。カラスの大尉には許嫁がいました。あす強い山ガラスとの決戦をまえにして許嫁に別れの挨拶をしました。北斗七星を見て決戦の行方を祈るのでした。18隻のからす義勇艦隊は北を目指して突撃です。一羽の山ガラスを発見して大尉は突撃し見事これを一撃しました。本隊に帰った大尉は功績を認めらえて少佐に昇進しましたが、殺された山ガラスのことを考えると悲しい気持ちがしました。「北斗七星さま、どうか憎むことができない敵を殺さないでいいように、早くこの世界がなりますように。そのため自分は何回殺されてもかまいません」と願いをかけました。何も言うことがないくらいこの話の目的は表現されています。

10) 雁の童子

この話は仏教説話の類になります。昔のインドを舞台としたお堂の由来を巡礼のおじいさんから聞き取るという設定です。須利耶という人のいとこは鉄砲打ちが好きで無益な殺生を繰り返していました。6羽の雁を次々と撃ち落しましたが、それは雁の形をした天の家族でした。撃ち落とされた天の人は須利耶に子供の雁を預けてゆきました。この童子はけなげに育ちました。ほかの子供から「雁の捨て子、雁童子」とはやし立てられても決して動じません。そうはいっても童子は誰もいないところで泣いていたのです。童子が12歳のとき都の塾に入れて教育しました。童子は親思いで自分も働きたいと申し出ましたが、須利耶夫婦は貧しいながらも都に養育費を送り続けました。あるとき大寺の跡が発掘され、壁に3人の童子の絵が描かれていました。その一人はこの雁童子にそっくりでした。童子は天から家族のお迎えが来たと察しました。

11) 二十六夜

この話も仏教説話ですが、舞台は北上川のほとりです。梟のお経が4回繰り返され話が展開される設定です。疾翔大力が「悪禽、離苦解脱の道を述べん・・・汝ら審に諸の悪行を作る、悪行をもっての故に、更に又諸の悪行を作る。継起して遂に竟ることなし」というお経です。この悪の連鎖を断ち切るのは捨身大菩薩のように、身を捨てることしかありません。梟夫婦に3羽の兄弟梟がいました。末弟の名前を穂吉といます。穂吉は一番おとなしい性格でした。6月24日の晩、実相寺の林に3羽で出かけました。2羽の兄は説教はいやですぐ逃げ出しましたが、穂吉はじっと聞きいっていました。25日の晩のことです。穂吉が人に囚われて縄で足を石臼に結えられました。人の子供らの悪戯で、飽きた子供らは26日の夜、穂吉の足を折って手放しました。兄弟らはなんとあさましい人間の心を呪って仕返しをしようと相談しますが、梟の坊さんは「人を恨むでない。仇を仇で返してはならない。血を血で洗ってはならない。」と諭すうちに、穂吉は絶命しました。二十六夜待ちの月明りで穂吉の魂は天に召されました。

12) 竜と詩人

竜のチャーナタは洞の中から朝日の出るのを見ています。若い詩人のスールダッタはチャーナタの竜の歌を盗み聞いて、歌競ベに勝ち古い詩人アルタを東の国に去らせたという世評が立ちました。それを恥じた若い詩人のスールダッタは、洞に行き竜のチャーナタに事の是非を正しました。竜のチャーナタは、竜の言葉と詩人の言葉は等しくないから、盗作という世評は当たらないと諭しました。チャーナタは自分の力を誇示したために竜王から10万年の禁固刑を受けた。竜チャーナタは懺悔の歌を歌うのみであると。謙虚な若い詩人は救われました。

13) 飢餓陣営

この話は喜劇の脚本です。登場する主役人物は、パテナン大将と部下の特務曹長と曹長の3人です。あとは兵隊多数です。たらふく食っている大将と、飢餓線上にいる曹長クラスと兵隊が、お菓子でできている大将の勲章をだまして食べて飢えをしのぐさまを喜劇化した1幕の芝居です。曹長は「戦争のためでなく飢餓のために全滅するばかりです。大将の勲章を食えば軍法会議で銃殺は分かっていますが、自分が銃殺されれば兵は飢えをしのげます」という論理で、愚かな大将をだまして勲章を兵に分かち食わせるという筋書きです。芝居の後半は大将自ら新式果樹園体操という軍隊生産方式を伝授することですが、戦争をする軍隊ではなく食料を生産する軍隊という本末転倒のお話になって、軍隊を揶揄することになっています。賢治亡き後、太平洋戦争において南方の島で、多くの軍民が飢餓で全滅したことを予感させるお話です。

14) ビジテリアン大祭り

ビジテリアン(ベジテリアン 菜食主義者)論争のお話で、菜食主義者を論難する論者が次々登場し、またそれに菜食主義者が反論するという論争形式を取ります。今日では論争自体はあまり興味深いものではありません。しかし宮沢賢治は菜食主義者として有名です。法華経信仰に入った後、1918年(大正7年)友人に宛てた手紙で「私は春から生物のからだを食うのをやめました」と書き、その考え方は童話「ビジテリアン大祭」に垣間見ができる。菜食主義として伝わる。以後5年間続けたと記されている。ただ賢治が飲酒や喫煙をしていたこともあり、「賢治の名高い菜食主義が生涯を通じてのものではなく、時には平気で肉食をしたことや、すすめられれば盃も手にした」が実情ではなかろうか。

15) 銀河鉄道の夜

宮沢賢治の傑作童話「銀河鉄道」は銀河を旅する夢のお話です。昔テレビアニメに「銀河鉄道999」という番組があった。そこには一人の少年と顔のない乗務員と、美人の千年女王が登場し、星から星を巡る旅を展開した。また「ガンダーラ」で有名なゴダイゴというグループが「銀河鉄道スリーナイン」という歌を歌った。このテレビアニメは宮沢賢治の「銀河鉄道」を脚本化したものではないにしろ、下敷きにしたことは明白である。宮沢賢治の銀河鉄道には千年女王は登場しない。賢治はこの銀河鉄道で言いたかったことは、人になじめない少年ジョバンニと、人のために尽くす少年カンパネルラの二人の人生という旅のことであろう。少年ジョバンニは孤立していていわばいじめにあっている少年で、唯一の友人というか理解してくれる人が少年カンパネルラです。ジョバンニは、海外に出稼ぎに出ているお父さんに代って病気の母親の面倒を見て、午前は学校へゆき午後は印刷所で細かい活字拾いという仕事をしています。仕事がつらいので学校でも活発ではありません。今日は学校で銀河(天の川)の祭り(ケンタウルス祭)のことを教わりました。お祭りを見に行こうとして、学校の友人かからかわれ「僕はどこにも遊びに行くとこがない」と嘆いて、岡の草原に転がって空を見ていました。そうですこの話はここから夢の中の話です。すると「銀河ステーション」という声がして、ジョバンニは鉄道に乗っていました。もう1人カンパネルラ少年が乗っていました。二人で銀河鉄道の旅に出ました。白鳥の停車場から天の野原を出て、北十字星を見て、南へ鉄道は進みます。途中から、学者先生や、鳥を取る狩人の話が挿入され、次に青年と二人の兄妹が乗ってきました。早く母親を亡くし地上には父と姉を残して、船旅で難破したため神に召された青年と二人の兄妹の神の国へ向かう旅です。ジョバンニはこのかおるという女の子と仲良くなりましたが、南十字星の駅で天国へ向かう3人とも別れました。大半の乗客は降りて、にわかに汽車の中はガランとしました。このさみしさにジョバンニは「僕は本当にみんなの幸せのためなら僕の体なんか、百ぺん焼いてもかまわない」という気になりました。すると隣にいたカンパネルラの姿が見えなくなりました。そこに学者の博士が座っていて、「あらゆるひとの一番の幸福を探して、みんなと一緒に行くがいい」といい、ジョバンニに1冊の本を渡し、人生を生きてゆくうえで必要な知識や学問を授けました。ふとジョバンニが目を開くと、岡の草の上に寝ていたことがわかりました。そしてひと騒ぎがしました。川に落ちた友人を助けてカンパネルラが行方不明なっているそうです。そうカンパネルラは自分の命と引き換えに友人を助けたのです。


宮沢賢治作 「風の又三郎」 他18篇

16) 風の又三郎

前書「銀河鉄道の夜」 他14篇に比べると、本書「風の又三郎」 他18篇には際立って異なる特徴が2つあります。一つは擬音表現が多いことで独特のリズムを持っていることである。2つは岩手弁の極端に訛った表現が多く、ちょっと標準語に慣れた私たちでも辞書がないと理解できないこともあるという点である。この2つの特徴はまさに宮沢賢治の童話の神髄をなすといっても過言ではないだろうか。まさにイーハートーヴォの世界である。風の又三郎の話の出だしは「どっどど どどうど どどうど どどう」で始まる。北風がぼうぼうと吹く有様をいう。谷川の小学校の9月1日、二百十日の日のことです。6年生が1人、5年生が7人、4年生が6人、3年生はなし、2年生が8人、1年生は4人の全校生26人の小学校です。秋の新学期が始まる日、風の強い朝、嘉助、佐太郎、耕助、最年長に一郎らが学校に着くと、教室に見知らぬ生徒が一人座っていました。嘉助は思わず「あいつは風の又三郎だ」と叫びました。先生の紹介で北海道ら転校してきた鉱山技師の息子である高田三郎だとわかりました。口をきりっと結んで意志の強そうな利発な男の子に見えました。父は北海道の会社から東北の山にモリブデンの試掘に来たのです。三郎は5年生に編入され、高学年の一郎、嘉助、佐太郎、耕助、悦治らと仲良くなりますが、どうも耕助は三郎に意地悪く当たります。さっそく三郎は遊び友達を見つけて、野原で馬の世話をして難儀したり、葡萄取りに出かけ耕助と言い合いになりますが三郎はうまく仲直りをします。川に泳ぎに出かけ発破で小魚を取ったり、佐太郎は魚の毒(麻酔薬)で失敗したりしました。川の中で鬼ごっこをしたりしましたが、三郎は何をやってもうまく溶け込んで遊びも上手でした。しばらくして風と雨が強く降った翌朝一郎は何か胸騒ぎがして学校に駆け付けますが、三郎は来ていません。三郎のお父さんは鉱山に見切りをつけて北海道に戻ったので、三郎は今日から転校しましたという先生の説明を聞きました。三郎は風と共にやってきて、風と共に去って行きました。

17) セロひきのゴーシュ

ゴーシュは町の活動写真館でセロ(チェロ)を弾く新米の楽士でした。ところが一番下手でしたのでいつも(金星音楽団の)楽長から叱られてばかりです。10日後の第6交響曲の演奏を控えて楽団は必死の練習をしていますが、ゴーシュばかりが皆の足を引っ張っていました。ゴーシュの家は町はずれの水車小屋にありました。楽団の練習後ゴーシュは小屋で眠るのも忘れて練習していました。するととんとんと小屋の戸を叩くものがいます。三毛猫はゴーシュのセロを聞くためにやってきてシューマン作トロイメライを注文しました。ゴーシュは腹を立てて「インドの虎狩り」をものすごい勢いで弾きだすと三毛猫はびっくり仰天して逃げ出しました。次の夜にかっこうが飛び込んできて「かっこう」(ドレミファソラシドという意味です)とセロで弾けと注文しました。ゴーシュが何度曳いても満足しません。ようやくゴーシュにはかっこうのドレミファソラシドが分かったような気がしましたが、夜明け前にゴーシュは怒ってかっこうを追い出しました。次の夜には狸の子がやってきて「愉快な馬車屋」というジャズを注文しました。狸の子は棒をもってセロの胴を叩いてリズムを取りました。狸が満足するまで練習して明け方に狸は急いで帰りました。次の夜は野ねずみの母親が子ネズミを連れてやってきて、この子の病気をセロで治療してくれと注文しました。野ねずみの母親が言うにはこの辺の動物はみんなゴーシュのセロで癒されているのだといいます。そこでゴーシュは子ネズミをセロの胴体の中へ入れて目を回すまで演奏しました。そしてああよくなったといって帰りました。こうして金星楽団の演奏会は大成功裏に終わり、ゴーシュは楽長さんや楽友から賞賛されるほどの演奏をしたということです。毎夜動物たちと血のにじむ練習をしてゴーシュは上達できたのです。

18) 雪渡り

言葉のリズム、繰り返し、擬音、内容の規則的展開など実に美しい文章です。これはへたな言葉で表現するより読んでみるに限ります。そして狐と人の子の心温まる交友録です。では蛇足ながらこの話の筋を追いましょう。「堅雪かんこ、しみ雪しんこ」と囃子ながら四郎とかん子は小さな雪沓をはいて、キック、キック、トン、トンと野原に出ました。そこに小さな白狐、子狐紺三郎が現れて、四郎とかん子を狐の「幻灯会」にお誘いしました。幻灯会とは@お酒飲むべからず、A罠に注意せよ、B火を軽蔑すべからずというお話です。二人は鏡餅をお土産に持って出かけました。狐の幻灯会では子狐紺三郎が立派に司会を務めました。幻灯会はお囃子の歌が楽しく、「堅いお餅はかったらこ、白いお餅はべったらこ」、「昼はカンカン日の光、よるはツンツン月明り」などとリズミカルに歌われ、二人は栗のお土産を貰って里に帰りました。

19) 蛙のゴム靴

カン蛙、ブン蛙、ベン蛙は生意気で悪戯好きの友達でした。3匹は雲の峯の形を見る「雲見」をやっていました。そこで人間界ではゴム靴がはやっているという話がでて、カン蛙はほしくてたまりません。そこで友達の野ねずみに頼みました。野ねずみは大変苦労してゴム靴を手に入れカン蛙にあげました。かっこいいゴム靴を履いたカン蛙は得意でたまりません。そこへ花婿探しの娘ルー蛙がやってきてそのゴム靴に一目ぼれして、カン蛙と結婚することになりました。結婚式に呼ばれたブン蛙とベン蛙は面白くありませんので、意趣返しをしてやろうと企みました。杭穴にカン蛙を落とし込もうとしましたが、3匹ともその穴に落ちてしまい、ルー蛙はお父さん蛙に頼んで3匹を引き上げました。それから3匹は仲良く暮らしました。

20) カイロ団長

30匹のアマガエルは庭を作る仕事をやっていました。或る夜「舶来ウイスキー1杯2厘」という看板につられて店に入りました。30匹のアマガエルは1匹当たり300杯以上のウイスキーを飲み酔いつぶれしてしまいました。店主のトノサマガエルはアマガエルを1匹ずつ起こして感情を迫りましたが、誰一人払えるものはいません。この話の銭勘定のところが妙に細かく計算されます。勘定の1%も払えるアマガエルはいなかったのです。そこでトノサマガエルは警察に突き出す代わりに子分にして働かせる約束を取りました。そしてこの団体を「カイロ団」と呼び、木を集めたり、花の種を採集したり、石を運んだり、その仕事のノルマが能力の100倍以上もあって、アマガエルらはくたばってしまいました。もう警察に捕まっても裁判で断首刑になってもいいやという気持ちになっていました。そこへ王様からのお達しが出ました。人を働かすとき命令者はまず自分でやってみること、そうしなければ鳥の島へ島流しにするという。トノサマガエルとて、とてもできるものではありません。次の王様の命令はすべての生き物は哀れなもので、憎しみ合ってはいけないというものでした。こうしてアマガエルとトノサマガエルは仲直りをしました。けだし王様は名君ですね。大岡裁きですが、この話はちょっと複雑な内容を持っています。現代社会に焼直すと、サラ金で借金を払えない人に強制労働を課すようなものです。王様は労働規制当局みたいに、奴隷労働を禁止します。21世紀の労働市場が低賃金、無制限過酷労働に傾く世情を批判しているようでもあります。

21) 猫の事務所

この話は明確にお役人批判です。第6事務所の「猫の歴史と地理」の仕事ぶりと人間関係を描いています。所長は黒猫、第1書記は白猫、第2書記は虎猫、第3書記は三毛猫、第4書記は釜猫です。どうも第4書記はキャリアーではない事務職のようです。皆から無視されるか白い目で見られています。釜猫が風邪をひいて休んだ時、原簿を取り上げられ仕事ができずつらい思いをしていましたが、上司から事務所は解散を命じられました。たいして世の中に役に立たない仕事ですが、その中で意地悪をしたりいじめたり、いやな人間関係ですね。

22) ありときのこ

蟻の軍隊の仕事の話です。蟻の歩哨(門番)が立っていますと、2匹の蟻の子がやってきて、楢の木の下に白い建物ができていると注進します。歩哨はじっとそれを見て頭をかかえてしまいました。自分はここを離れられないから、子供たちに陸軍測量部へ報告するようにたのみました。そして蟻の子供らが帰ってきて歩哨にいいました。「あれはキノコだから心配するな」

23) やまなし

宮沢賢治の童話には幻燈という言葉が使われます。これはイメージ、心象、映像という意味です。2匹の蟹子供らは河底で泡を吹きながら、いろいろなものを見ます。タラムボンとはこの吐き出す泡のことのようです。お魚やそれを取りに来るカワセミ、流れ去る樺の花、山梨などのスケッチが描かれています。

24) 十月の末

晩秋の村の風景がスケッチされています。同時に擬音がいたるところで使われています。音と映像の世界です。ミソサザイは「ツツンツツン、チ、チ、ツン」、電線が「ゴーゴー、ガーガー」とうなり、滝の音は「カーカーココー、ジャー」、雷は「ガリガリッ、ゴロゴロ」と鳴って雹が落ちてきます。

25) 鹿踊りのはじまり

民舞の鹿踊りの発祥を記したお話です。嘉十はおじいさんたちと一緒に北上川の東から移住してきて、畑を開き稗・粟を作っていました。嘉十は膝を痛めたので山の温泉小屋に、味噌、糧、鍋をもって湯治に出かけました。野原に出ると栃と栗の団子を食べましたが、少し残して鹿にやること二して嘉十はまた歩き出しました。嘉十は休んだ時に汗を拭いた手ぬぐいを置き忘れたことに気が付いて、手ぬぐいを取りに戻りました。ふと鹿の気配がしたのでもときた野を伺うと、6匹の鹿が団子の周りをぐるぐると輪になって回っていました。嘉十には急に鹿の言葉が聞こえてきました。回りながら鹿たちは嘉十の残した手ぬぐいのことを話し合っていました。そして勇気ある鹿が一匹近づきました。逃げ帰ってきて「縦に皺の寄ったものだ」といいます。第2番目の鹿が近づいてふんふんと匂いを嗅いで「柳の葉みたいな匂い」で、白と青と班色だということがわかりました。3匹目の鹿が近づいて、「息もしていない」といいました。4匹目の鹿が近づいて、「柔らかくて汗臭い」といいました。5匹目の鹿が近づいて、ぺろりとなめて「味がない」といいました。6匹目の鹿が近づいて、手ぬぐいを咥えて戻ってきました。そこで恐ろしいものがなくなったので、ぐるぐる回って鹿たちは栃団子の歌を歌いました。「すっこんすっこの栃団子」今度はお日様の歌を6匹の鹿がかわるがわる歌いました。「じゃらんじゃらんのお日さま懸る」、「ぎんがぎがのすすぎの底で」と歌いましたので、すっかり楽しくなった嘉十も「ほう、やれ、やれい」と叫びながら鹿の輪の中に飛び込みました。これが鹿踊りの精神です。この話は鹿と人間が一体化した童話の傑作ではないでしょうか。

26) 狼森と笊森、盗森

小岩井農場の北に4つの森があります。南から狼森、笊森、黒森、盗森です。岩手山が何回も噴火し、次第に出来上がった森です。小岩井の地に4人の百姓が農機具をもって移住してきました。百姓はここで畑を起こしてもいいかと森に尋ねました。そうしてここに1軒の小屋を建てて居着いたのです。つぎの春に2軒目の小屋ができました。蕎麦と稗の種がまかれ穀物が実りました。新しい畑ができて3軒目の小屋ができました。土が堅く凍った朝、村人は4人の子供がいないことに気が付きました。一番近くの狼森に探しに出かけますと、9匹の狼が火の回りで「火はどろどろぱちぱち、栗はころころぱちぱち」と歌を歌い踊っていました、。その中に子供が4人栗などを食べていました。「童しゃ返してけろ」と村人が叫ぶと、狼たちは「悪気はないんだ、栗やキノコをごちそうした」といって逃げました。次の春子供は3人、馬は2匹増えました。穀物はよく実りました。ある霜柱の立った朝、村人は鉈や鍬といった農機具がなくなっていることに気が付きました。狼森はないといいますので、笊森に行きますと山男が農機具を集めていました。「山男、悪戯はやめてけろ」といいますと、おれにも粟餅をもってきてけろといいましたので、村人は笊森と狼森に粟餅をいっぱい持ってゆきました。次の年の夏は馬は3匹になりました。秋の粟の穫り入れも終わりました。すると納屋の中の粟が皆なくなりました。村人は狼森と笊森に出かけましたが、ここでは粟餅はとらないよといいますので、黒坂盛に出かけました。黒坂盛は今朝がた大きな足が北へ飛んでゆくのを見たといいましたので、村人は盗森へ向かいました。盗森は黒坂森の言うことは嘘だといいますので、村人は途方にくれましたが、その時岩手山が静かに言いました。「粟を盗んだのは盗森に相違ない。皆は帰ってよい。私が責任をもって粟を返させよう」すると翌日の朝には村人の納屋には粟が戻っていました、そこで村ではたくさん粟餅を作って4つの森に持ってゆきました。そして毎年冬の初めにはきっと粟餅を森に届けましたとさ。これは収穫祭の奉納に似ている。森の話はドイツの童話には欠かせないのだが、賢治は岩手山のふもとの森の童話を作った。

27) ざしき童子のはなし

「ざしきわらし」または「ざしきぼっこ」と呼ぶ悪戯童子がいました。ザワッザワッと箒の音がします。「大道めぐり、大道めぐり)と叫びながら10人の童子が両手をつないでぐるぐる座敷の中を回っています。そうしたらいつの間にか11人になっていました。こんなのがざしき童です。またこんな話もあります。北上川の郎明寺の渡し守が8月17日紋付羽織を着た綺麗な子供を乗せた。子供にお前はどこからきてどこへゆくと尋ねますと、笹田の家が飽きたので更木の斎藤の家に行くといいました。渡しに着くとその子は消えていました。そして笹田の家は落ちぶれ、更木の斎藤の家は無病息災で繁栄しました。つまりざしき童とは縁起の神だったのです。

28) とっこべとら子

おとら狐の「とっこべ、とら子」は名前です。川の岸に住んでいて漁師の獲物を横取りするいたずら者でした。金貸しの爺さんの六平が酔っぱらって町から帰る途中、川岸で立派な侍に出合いました。不要の大金があるので預かってくれというので、これはきっと盗んだ金に違いない、旅の途中で相手が死ねば自分のものになると案じて千両箱を10個を預かって夢中で家に帰りました。家に帰ると女房が砂利俵を10個かついで帰った亭主を見ました。爺さんは「とっこべとら子に騙された」と嘆いたそうです。

20) 水仙月の四日

一人の子供が赤い毛布に体をくるんで、雪丘の家路を急ぎます。頭の中はカルメラのお菓子のことでいっぱいでした。雪婆んごは雲を超え遠くまでやってきました。すると2匹の雪狼が雪と猛烈な風を運んできます。「カシオペイア もう水仙が咲き出すぞ」、「アンドロメダ アザミの花がもう咲くぞ」といって雪童子がゆっくり歩いてきます。雪童子はヤドリギの枝を取って子供に投げつけ、皮鞭を取ってひとつひゅうとならしました。すると真っ白な雪と風が子供に吹き付けました。子供はヤドリギの枝をもって歩きました。雪婆んごは「怠けちゃいけないよ ひゅうひゅうひゅう きょうは水仙月の4日だよ さあしっかりさ ひゅう」と励ますので、雪狼は一生懸命雪を降らします。雪童子は子供に向かって「毛布をかぶってうつ向けになっておいで 動いてはいけない 毛布をかぶって倒れておいで」といいました。雪婆んごは水仙月の4日は命の一つや二つ取ってもいいと叫びますが、雪童子は子供を守るためにじっとしているように言いました。こうして3人の雪童子は9匹の雪狼を連れて西の方へ帰りました。かんじきと毛皮を着た村人が助けに来たので、雪童子は子供に目をさますように言いました。雪深い山のお話です。

30) 山男の四月

陳という怪しげな薬を売っている行商人がいました。山男は西根山の林の中でウサギを獲って生活しています。この日は山鳥を手にして森から出てきました。山男が丘で雲を見ていると、急に頭が軽くなり木こりの姿に変身して町の入口に立っていました。そこへ陳というシナ人が「六神丸たいさんやすい」と薬を売りに来ました。山男がこの六神丸を買って飲むと体がみるみる小さくなって、シナ人はつまんで紙箱の中へほおり込みました。すると箱の中には小さくされた人が何人かいました。騙されたことに気が付いた山男は、小さくする六神丸と元の大きさに戻す丸薬の2種類あることが分かり、丸薬を飲んで山男は箱を破って元の大きさに戻りました。これはすべて夢の話です。

31) 祭りの晩

秋の祭りの晩のお話です。亮二は15銭貰って御旅屋に出かけ、10銭払って「空気獣」という見世物小屋に入りました。木戸番いとこの達治に会いました。空気獣とは牛の胃袋に空気を入れて形が自在になる見世物のことです。茶屋である男が団子の銭を払えず若い者にいじめられているのを見て、亮二はその男に5銭を与えました。男は逃げかえるとき薪を百ぱ、栗を八斗返すといいました。皆はあれは山男に違いないといい、正直者らしいのです。家に帰るとまえに薪と栗が置いてありました。そこで亮二は山男が喜びそうな「夜具と団子」を山に持ってゆきたいと思いました。

32) なめとこ山の熊

なめとこ山の熊の胆は有名な胃薬です。熊捕りの名人淵沢小十郎は片っ端から熊を捕りました。黄色い犬を連れて山から沢へ縦横に歩き熊を撃ちました。「熊よ、俺は手前を憎くて殺すんじゃね。商売なので撃たなければならない。里に出ても相手にされないから仕方なしに猟師をしている。お前が熊に生まれたのが因果なら、おれもこんな商売が因果なのだ。この次は熊に生まれるのじゃねえぞ」といって鉄砲を撃ちます。山には小十郎の笹小屋に行こうとして、熊の親子に出合った。山の一部が白くなっているのを見て熊の親はあれはひき桜の花だと教えていました。小十郎はこれを見て鉄砲を撃つのはやめました。ところが熊うちの名人が町へ熊皮と肝をもって売りに行く時はみじめな思いをします。町の荒物屋に持ち込んでも、さんざん言われて捨て値同然で買いたたかれるのです。小十郎には90になるお袋と子供の7人家族を養うにはわずかでも金がほしかったので、言いなりに買いたたかれたのです。熊は小十郎にやられ、小十郎は金物屋の旦那にやられるという図式です。1月のある日小十郎はうちを出るとき、いつもにはない弱音を吐いた。「俺も年取ったで、今朝初めて沢に入るのが嫌になったような気がする」と言って出かけました。小十郎が滝の上で休んでいるとき、犬が火がついたように吠えだし、熊がこちらにやってきたので鉄砲を撃ったが効き目はなく、突然目の前が真青になった。小十郎はこれが死ぬ時だなと悟った。「小十郎 お前を殺すつもりはなかった」という声が聞こえたような気がした。

33) 虔十公園林

虔十はちょおとおつむが弱い百姓の息子でした。いつも縄の帯を締めて森や畑の中を歩いていました。虔十h突然「おっ母 杉の苗さ7百本買って呉ろ」といいました。家の後の野原に植えるつもりです。虔十のお兄さんもお父さんも、はじめて虔十が言うことに賛成しました。野原の南側にいる百姓の平二は日当たりが悪くなるといって、何かにつけ嫌がらせをします。虔十は700本の杉の苗を数列に植えて一生懸命世話をしますが、土地がよくないせいかあまり大きくはなりません。だけど何年かたつと立派な林が出来上がりました。学校帰りの子供たちの遊び場になっていました。杉並木の間を子供たちは一列になって行進したりしました。さてその虔十も平二も腸チフスで亡くなりました。それからまた二十年もたって虔十のお父さんも髪の毛が真っ白になりましたが、この林が子供たちの格好の遊び場として、虔十の忘れ形見として決して林を売らず杉林を整備してきました。その子供たちも成人し偉い人になって帰ってくると、この林を公園として整備される話が持ち上がり、虔十公園林となずけられ多くの寄付金が集まりました。虔十の家族の人は喜んで泣きました。誰が本当に賢く、誰がそうでないかはわからないということです。

34) グスコープドリの伝記

化学肥料空想物語です。現在からみても荒唐無稽なお話で、科学を装っているだけに理解に苦しみます。グスコープドリは木こりの息子です。ネリトという妹がいました。何年も全くの飢饉が襲い、父も母も食い扶持を減らすため、子供たちに穀物を残して、自分らは森に入って餓死しました。妹ネリと二人で生き残ったものの、ネリは人さらいに連れて行かれ、グスコープドリはイートハーブてぐす(天然蚕のような)工場に雇われました。ところがてぐすはカビの伝染病で全滅し、グスコープドリはそこを出て町に出て学校の博士のところに入学しました。そこで学業を終えると博士から火山局技師を紹介されました。博士は飛行船をもって火山を監視していました。火山局というのは火山の噴火の制御や、潮汐発電所や肥料の雨を降らせる仕事をしています。グスコープドリが開発した窒素肥料の雨で飢饉の心配は亡くなりました。そこへ農家の嫁になっていた妹ネリが訪ねてきて無事を知りました。グスコープドリが27歳の時、また気候が寒冷化し飢饉の心配が起こりました、。そこで火山をコントロールして空気中の炭酸ガス濃度を増やせば気温が上がる(地球温暖化枠組み機構の説明に酷似していて不思議です)ので火山を爆発させようという企画が持ち上がりました。死を決したグスコープドリは発破工事を実行しました。そのおかげか4・5日すると気候は暖かくなりましたとさ。グスコープドリがどうなったかは書いてありません。昭和の初期にこのような気候変革計画があったという構想遠大な荒唐無稽な話が出回るほど、飢饉が深刻だったといういうことだと理解できます。現在の地球温暖化防止のお話は、石油枯渇の原油高騰を企む人や原発推進のための嘘も方便に堕しています。福島第1原発事故のあと、地球温暖化防止の話を聞いた人はいますか。すっかりメッキが剥げました。


書評・文芸・随筆に戻る   ホームに戻る
inserted by FC2 system